86 カシルが寄り添う人
「…もう行くんですね…」
彼の側にリンナが現れた事を素早く察知したセランは、
「マリュさん達の様子を見て来ます。」
と言ってカシルが退室したタイミングを逃さず、彼を追って通路に出て声をかけた。
「もうって…沈みがちのヒカちゃんにはあなたみたいなムードメーカーは必要よ。それにここは長くいればいる程心地良いの。あなたも試してみたくない?っていうフィナ先生に乗せられて1週間以上もいたんだぞ。俺はさ…セダル様の配慮で諸々の雑用対処が素早く出来るような立場にしてもらっている分、複数方面から声がかかりやすくてな…しかも今回はいつもより厄介な事が起きたみたいだから…まあ、そういう事はハンサさんも想定内だし、緊急の方を優先するのはしょうがない。」
「そうですか…」
あからさまに落胆の表情を見せるセランにカシルは苦笑しながら、
「…姉ちゃんとは大分普通に会話出来るようになったみたいだな。こんな心地いい場所で家族と過ごせるなんて、なかなか出来ない貴重な体験だぞ。…それにここは色々な意味で女神様に守られているんだから大事に過ごせ。じゃあまたな。」
と言いながらセランの頭を撫でていたカシルはスッとその手を離し、マリュのいる部屋の方を見て歩き出そうとする…
が、
「わ、私も助手として一緒に行ってはダメですか?絶対に足手まといにならないようにしますから…」
という言葉とともにセランに腕を掴まれて、カシルは動きを止められる。
「ダメに決まってんだろ。これから俺が行く場所は医療目的じゃない。危険が伴う場所なんだ。それに…10日も滞在したんだ。そんな俺に感謝は嬉しいが、そういう申し出はありがた迷惑だ。」
「……」
…ああもう…そんな目で見るな…
勘弁してくれ…
みるみる涙で潤んで来るセランの緑の瞳を見ていられずに、カシルは堪らず目を逸らす…
[…あの子が…セランが家族とちゃんと向き合うように変わって来たのは、最近のミアハの特殊な状況もあるかとは思いますが、カシルさんの影響が大きいとも推察しております。それに関しては本当にあなたに感謝しているんです。ただ…その…]
躊躇し言葉を濁すエイメにカシルは苦笑いしながらも…
[診療所でのセランさんは本当にひたむきに頑張っていて、その姿に村の人達も感心していましたよ。あの子はきっと予定通り自力で夢を叶えるでしょう…。ここ最近の国際情勢もありますから、わざわざ危険な国境を越えてまで彼女に手伝いに来てもらうつもりは今後ありません。なので…御心配には及びませんよ。]
カシルも直接な言い方は避けたが、セランにはもう会うつもりはない事をエイメに直接告げたのは2日前…
後日改めて、長のサラグを通してその旨をセランに伝えてもらうつもりでいるカシルだったのだが…
「…セランに1つ頼みがある。あの子…君の姉ちゃんは、毎朝リクシュを抱えてマナイの塔までヨハに子供を見せに行っているのを知っているか?あれは近くで見てると本当にハラハラするんだ。けど多分…あいつが目覚めるまで彼女はそれを止めないと思う。だから…家族で代わる代わるでいいから…マナイの塔に行く際は付き添ってやって欲しいんだよ。」
「…あなたがやっていた事を引き継げと…?」
またお姉ちゃんの事?と言いだけな目つきでセランはカシルに聞き返す…
「…やっぱり見てたのか。あのな、俺は今さっき家族で過ごせる今の時間を大切にって言ったよな?それは軽い挨拶の流れの中で言った訳じゃない。君がフィナさんからどこまで聞いているか分からんが…なぜだか今のヒカちゃんの体調は微妙に良くないんだよ。具体的な症状としては出てないみたいだけど…俺達ティリの能力でなんとなく気付く程度のレベルだけどな。あの子はそもそも基本的に不思議な体質だし…ヨハならもっと沢山情報は持っているはずだから、起きたら色々聞けるんだが…まあ授乳をしばらく頑張っていたからその影響かも知れないんだけど、そういう面でも気を付けて見ていてあげて欲しいんだ。それに…リクシュは既に次期長や長老の候補のリストに入っているらしいから、ここを出て間もなくの内にヒカちゃんから離される可能性が高い。リクシュは時間をイジる能力を持つ父親の血を受け継いでいるし、ヌビラナとの契約の子とも言われている。何かの強力な能力の発現も警戒しなくてはならないらしいし、あの子のその力はミアハの為だけのモノでない可能性もあるから、敵対する…っていうかミアハを勝手に利用したり煙たがっている国からの、なんらかのチョッカイを出される危険も視野に入れて行かないとならないんだ。…だから多分…君の家族がリクシュと過ごせるのは…」
カシルの説明にセランは少し驚いたようだが…割と冷静だった。
「カシルさん、先ずあの子がそこまで成長する前に、ミアハには乗り越えなくちゃいけない大きな試練があるじゃないですか。…あなたから見たら私はガキでしょうけど、一応は覚悟して今を生きています。…だから…私なりに家族の為に精一杯頑張るつもりではいます。」
「…?!…」
[私は小さい頃に特殊な病気に罹って死にかけているし、その際に片足も失っているから…一般のレノの人みたいな丈夫な身体ではない。普通に使える薬が私は効かないって事も主治医から言われているの。だから…いつどうなってもいいように日々覚悟して生きているから…だからね…]
外見は可愛いのに中身は…
出会った時は冷淡とすら感じたリラへの苦手意識が、接する度にどんどん変化して行き…気付いたら彼女が好きになっていた…
いや、最初からタイプとは思ってたな…
けどそれはもう遠い思い出…
思い切った最初の告白は、あいつはそう言ってこの俺を振りやがった。
なんで…
なんであの時のリラとこいつがダブるんだよ…
「…そうだな…確かにミアハは今、岐路に立ってるな。だが、その危機をやり過ごす為に俺も覚悟して日々頑張っている。…俺達がヌビラナに行ったのも、ヨハがこの空間を作りヒカちゃんがリクシュを産んだのも、ミアハの為と言っても差し支えないだろう…でも頑張ってるのは俺達だけじゃない。皆んなそれぞれが乗り越えようと何かしら頑張っているんじゃか?ヨハはもう目覚めない可能性も覚悟して能力をMAXに使っているし、ヒカちゃんは夫も子供も近い未来に失う可能性があるとどこかで思っているんじゃないかな。だから毎日少しだけでもヨハとリクシュと3人で過ごす時間を作っているようにも見えるんだよ。…でももし、あの子がヨハやリクシュを失ったら…俺は彼女をずっと陰ながら支えて行くつもりでいる。」
「え?……それってどういう…」
…ああ…なんで俺はこんな事…
今言う必要あったか?
カシルの言葉にかなり動揺しているセランを見て、彼は少し後悔するも…
いや、これは前から決めていた事だから…
リラの死は受け入れられたが、自分が他の女性と結婚するとかのイメージがどうも浮かばないカシルは、それなら同じくヨハ以外の男を一生受け入れない気がするヒカちゃんを、もしもの時はヨハの代わりに陰ながら支えて行こうと決めているのだから、セランには一応伝えておかねばと少し前から思っていた事だし…
「どうとでも受け取ってくれていいよ。…まあでも、俺は君の母ちゃんには結構警戒されちゃっているからさ…片思いだって、プラトニックな関係だって、陰から支えるのは自由だろ?」
「…片思い…?…プラトニック…?」
緑色の大きな瞳を潤ませて、カシルを抉るように強く見つめながら言葉の意図を探るセラン…
「まあ…俺の一方的な妄想だ。でも似た立場の者同士がいつか通じ合う未来もあるかも知れないだろ?」
あの子がヨハへの想いを手離す訳ないし、何より、ヨハは今生きている…
きっと奴は目覚める。
俺とあの子の展開はおよそあり得ない。
だがこれでいい…
正直、会う度に何かザワザワと心を乱されるセランは怖い。
感情の深い所を掻き乱される事は、俺はとても不快なんだ…
…君は真っ直ぐ過ぎて…今の俺はこんな事しか言えなくなるんだよ…
「……」
何も言えずにポロポロと涙を流すセラン…
…ごめんな…
「…急ぎの用事みたいだから、これ以上話していられないんだ。ごめん…じゃあな。」
「……」
そのままマリュの部屋を目指して歩くカシルを、既に背を向けていたセランはもう追っては来なかった。
「あらカシル君…」
ちょうど部屋から出て来たばかりのフィナにカシルは遭遇する。
「俺、呼び出しがあったみたいで…行く前にマリュさんとナユの顔も見て行こうと思って…」
「…そう…それはちょっと寂しくなるわね…マリュちゃんは今授乳を終えたところだから、タイミングとしてはまあまあいいかもよ。外はまだ夜明け前でしょう?こんな時間帯に呼び出されるって事は、きな臭い事なんじゃない?…くれぐれも気をつけてね。」
フィナは少し残念そうに、カシルの肩に軽くポンと触れながら、彼が今来た通路を歩いて行くのだった。
「…ありがとうございます。フィナさんもご自愛下さい。」
と、カシルは彼女の背中に告げた。
「…あ、ごめん…全然気付かなかった。さっき授乳して…ナユは今寝たばかりで…」
マリュはカシルの呼びかけに眠そうな目を開く…
「…すみません。黙って行くか迷ったんですが…」
「行くって…村に戻るの?」
「いや、出てから一応確認はしますが、緊急のようなのでおそらく大国へ行く事になるかと…」
「…そう…何かしら?怖い事じゃないといいけど…カシル君、気をつけてね…」
マリュは起き上がり、心配そうにカシルを見る。
「大国に得体の知れない奴がいるみたいで…正直、少し不安ですが、こっちには強者が揃ってますからね。それに…場合によってはミアハの為になりそうな展開も期待出来ます。タニアもきっと呼び出されてると思うので、俺も負けてられませんよ。」
セレスにしては丸っぽい顔で可愛い雰囲気も未だ残るマリュだが…
授乳でエネルギーを吸い取られたのか…少し頬がこけた感はあるが、そんな母親の顔のパーツをほぼ受け継いだ感じのこの子…ナユは、もう大分首が座って来ていて…
カシルも何度か抱っこさせてもらったが、あやすと笑うようになって来てなんとも可愛い。
リクシュはカシルが初めて見た時には既にハイハイが出来ていて、名前を呼ぶと顔を向ける仕草もまたとても可愛いのだが…
目つきと鼻筋はどうやら父親似らしく…若干、憎らしくもなるのだ。
だが…なんだかんだで赤ん坊をあやすのはカシルはとても好きで、彼には至福の時間だった。
「マリュさんのご懐妊を知った時は本当に驚きでしたが…マリュさんそっくりで…ナユはますます可愛くなって行くでしょうね。あ、でもお父さんの雰囲気も出て来るのかな…?誰かは知りませんが。」
ナユの寝顔を見つめながら、意味深な視線をマリュに送って彼女の反応を若干楽しむ意地悪なカシル…
…まあ野暮な質問だ。
研究室の受精卵を使ったのだろうが…これだけマリュの独特な面影を受け継いでいるという事は、意図的なリクエストが介入している受精卵なのだろう…
風の噂でハンサとの関わりも知っているカシルは、それを分かった上でちょっとマリュをイジるのだった。
「それは研究所の受精卵を頂いたのだから、両親の事はエルオの女神のみぞ知る…よ。でも私の出産の事は、私達親子が半年後にここを出るまではどうか黙っていて欲しいの。」
と真剣に頼んで来るマリュだが、
「マリュさん…ここでの半年は、外の世界では3時間もないと思う。俺は半日も待てないほど口が軽い男に見えますか?」
と、悲しそうに問うカシル…
「あっそうか…ごめんね…あなたは長老の護衛もしていたものね。そう言えば以前ハンサさんも言ってたわ。長老は能力もそうだが、深く信頼出来る人を側に配置しているんだよって少し自慢げに…。ここは長く居ればいる程に不思議な感覚になって行くから…更にこんなに可愛い赤ちゃんを授かって、私はどこか思考停止してしまっているのかも知れないわ。でもおそらく、私の出産に関する具体的な事は、まだここにいる人しか知らないの。だからつい…念を推してしまいたくなったのね…君を信頼してない訳じゃないのよ。本当にごめん…」
マリュはハッとして、必死に説明しながらカシルに謝った。
「…分かってますよ。マリュさんの顔を見れば…ああ本当に幸せなんだなって書いてありますから…つい嫉妬してました。」
「…嫉妬?」
「俺、子供大好きだから…自分の子とかならもっとその子を愛おしく思うのかな?って…ヒカちゃんとあなたを見ていると羨ましい気持ちが出て来てしまいました。」
マリュはやや複雑な表情を浮かべるも…
「…そうね…私の場合はアムナだから…どうしてもこの体験をしてみたい気持ちがずっとあって…私にとっては1つの挑戦なの。母という意識を強く持って行くとどんな世界が見えて行くのかな?って。その経験を生かしてアムナの仕事を全うして行きたいと思うのよ。だから、愛する人と結ばれて子供を産んだヒカちゃんと私は少し違う。でもとても幸せよ…」
そう言って…マリュは本当に満足そうに笑った。
「なるほど…」
…現状は結ばれてはいないけど、あなたも愛する人の子を産んだ幸せが滲み出ていますよ。
とは絶対に言えないカシルではあったが…様々な覚悟の中で産んだマリュは本当に逞しく、輝いてさえ見えるのだった。
「…嫉妬なんかしてる間に現実に昇華しちゃいなさいよ。その気になれば、あなたならまだ叶う夢よ。人生のパートナー探し頑張ってみれば?」
「叶う夢…そうですね。…でも、俺は場合によっては危険も伴う仕事をしてるから…悩むところです。」
「……そう…」
マリュは何か言いたげだったが、
「まあ焦る事もないわ。心から望む時がきたら、解決策なんて自然に浮かんで来るかも知れないし…」
そう言ってニッコリ笑った。
「…そうなんですかね?」
「…希望を持って歩けばそこに道は作られる…って信じて実践のスタートを切った私がそう思うだけよ。あまり深刻に考えないで。だって…」
「…?」
「あ、いや…村に戻ったらまたナユと遊んであげて…あっそうね、これもまだどうなるかまだ分からないわよね。取り留めない事言ってごめん…」
…やはり何か…俺に対して思うところがありそうだな…
けどまあ…
「嫉妬なんて変なこと言ってマリュさんに気を遣わせちゃったって事ですよね。こっちこそすみません。頼まれなくても俺はこれからナユもリクシュともたっぷり遊ばせてもらいますよ。…じゃあそろそろ行きます。」
マリュさんが今は話したくない事は、俺もあえて聞く勇気はないので…
もうこの話は終わり。
何より、さっきからずっと俺の左の袖を引っ張ってるリンナにそろそろ怒られそうだから…
「うん、村に戻ったらいっぱい遊んであげて。楽しみにしてるわ。」
「…ええ、いずれナユちゃんにはパパって呼ばせようかな…」
「まったく、何言ってんの。私は別にいいわよ。」
「あれ…結構乗ってくれますねぇ〜でも本物のパパに恨まれそうだからそれは止めときます。」
「え…?」
マリュの表情が少し強張る…
「な〜んてね。冗談の続きですよ。」
うっかり口を滑らせたカシルは慌てて誤魔化しながら…
リンナと共に消えた。




