83 夜明け前
「………」
…とにかく…
翌朝からの諸々の準備と段取りの確認をしなければならないのは分かっているのに…
まるであの方の死を待っているような今の状況が居た堪れないハンサは、本部の秘書室の中をただウロウロするだけで、なんにも手に付かないでいる。
「……」
この日の為の準備はして来た。
抜かりはないはずだけれども…
あの方がヨハ君の力に干渉し、現存する全てのエネルギーを持って彼を手助けすれば、彼の命は1時間も持たないかも知れないと…
事前にエンデ君を通してリンナから説明されてはいる。
けれども、側近の身でありながら…
[時間に干渉する力が中に満ち始めている段階では、普通の人は同じ空間にいるのは負担が大き過ぎるから離れていて欲しい]
という更なるリンナの忠告により、あの方の最後には誰も寄り添えない事が切なくて…
ハンサは只々やり切れないのだ。
…ああマリュ…
[あなたは一番の側近のつもりなんでしょ?落ち込んでる場合じゃないわよ。]
君ならそう言って今の僕を叱咤するか…?
ああ…無性に君に会いたいよ…
マリュの笑顔が脳裏に浮かんで来ると、ハンサは無意識に耳に手をやっていた…
「あ……マリュ…?」
「…!…ハンサさんなの?…珍し過ぎるわね…どうし」
「いきなりごめん。君の…応援隊長の声が聞きたくなっ……て……!!…」
マリュの声を聞き、色々聞いて欲しくて喰い気味で話始めた瞬間、
彼の袖を引っ張られるような感覚があって…
見ると…
リンナがいた。
「……」
それが何を意味しているかは聞くまでもなく…
思わず膝から崩れ落ちてしまうハンサ…
「…ハンサさん?…」
「……」
自分を必死に奮い立たせるが…ハンサは言葉を発せられずにいた…
「…どうし……」
ハンサの異変の意味にマリュもまた、すぐ気付いてしまった…
……もう…?
マリュの視界がみるみる歪み始める…
「…ハンサさん……」
マリュも言葉が上手く出て来ない…
「……」
「………」
重く切ない沈黙の後、やっと言葉が出て来たのはマリュで…
「……あなたの今の悲しみはきっと私も…いえ、皆で分かち合えるモノよ。でも…少し前にタニアちゃんが言ってたの。あの方は若い頃に1度だけ結婚を考えるくらいに想い合っていた女性がいて…もしその人と結婚していたら、ハンサさんくらいの年齢の子がいたのかな…て時々思う事があったみたいって。…あなたがあの方と紡いで来た絆はきっと特別よ…それは私では受け止めきれない悲しみかも知れない。でも、でもね…私は、応援隊長は…あなたの話をとことん聞いてハグしてあげる用意はあるわ。それは忘れないでね。」
「…マリュ……」
マリュの話す声が涙声に聞こえたのは、決して気のせいではないだろう…
「でも、応援隊長としてもう1つ言うわ。…今夜はきっと…とても特別な夜よね…?ならば、あの方との時間はまだ終わっていないでしょ?あなたが自分に課した使命はまだ完遂してない。今は落ち込んでる場合じゃないわ。あなたは本当によくやって来た。でもまだやり切ってない。今はどうか踏ん張って…」
「……」
「私は今までもこれからも、ずっとあなたの応援隊長よ。忘れないでね。出来る事はなんでも協力するから言って…」
「…マ……」
ハンサが声を発しようとすると、また涙が止めどなく…
「ああ…1つって言って…いっぱい言ってしまったわね…」
マリュも止まらない涙を何度も拭いながら、泣き笑いの顔となる…
「…ありがとう…君と話せて良かったよ…ありがとう。…っと…」
やっと言葉を発せたハンサだが、直後にリンナから袖を思い切り引っ張られて思わず仰け反ってしまう…
「…ごめん、タイムリミットみたいだ。じゃあ…切るね。」
「あ…うん…あの……って、切れちゃった…」
…まあ…仕方ない…
マリュもゆっくりと耳から手を離す。
「……」
こんなにも悲しくて…
ミアハ全体が大きな岐路に立つような大変な時に、まだ自分を必要としてくれている彼になんとも心が満たされていくマリュ…
「私はしばらく彼には会えないからな…声が聞けて良かった。…ねぇ?…あなたもそう思う?」
泣き笑いでお腹を優しくさすりながら、マリュは優しく語りかけるのだった。
「…お待たせ。では…行こうか…」
通話を切ったハンサも耳から手を離し、なんとか立ち上がって改めてリンナを見る。
「…リンナ…?」
…今夜何が起きているかは長達と元老院と、厳選された警備の者と、ヒカに関わる者達と…
本部や研究所の人間は暗黙の中で察している状況だが…
まだリンナ自身からトウへは何も伝えられていないようで…
それは長老セダルの意思でもあったので、リンナも辛いところで…
そうして2人は鎮痛な面持ちのまま、部屋から消えたのだった。
「……」
マナイの塔の上は、滅入るほどの深い沈黙に包まれていた…
「ああセダル様……」
全身石化し、石像と化していたセダルの姿を見たハンサは…
たまらず彼に縋って泣き崩れる。
…もう…何を問いかけても…
あなたのお声を聞く事は叶わないのですね…
「……ああ、そうだね…」
どこまでも悲しみは尽きる事はないが、再び袖を引っ張って来るリンナが、今はその時ではないとばかりにハンサを現実に引き戻す…
「…すまない…分かっているよ…」
と答えながら引っ張られている袖の方を再び見ると、リンナはヒカの眠るドームを焦ったように指さしていた。
見ると、一瞬ヒカの手が動いたように見えた気がした。
「…そうだね。急がないと、そろそろあの子が起き出してしまう…」
そう言いながらハンサが目で合図をすると、リンナはそれに大きく頷き…
リンナとハンサ、そして石化した長老セダルの3人は、マナイの塔から成就の間へと移動した。
成就の間…
そこは瞑想の間ほどの広さはなく、比較するとしたら瞑想の間の3割くらいのスペースになるだろうか…
そこの中央で最奥の位置に座する姿は先代の長老であったラムサの像…正確に言えば、石化したラムサが鎮座しているのだが…
様々な事情ゆえに、今回はかなり例外的な状況で最後を迎えた長老セダルは…
通常は、石化が手足の先全体に広がると能力者は半月も持たない状況となる為、死期を悟ったセレスの能力者は、国内外問わず神殿と契約を交わしている者以外、この成就の間で瞑想しながら最後を迎える。
長や長老が肉眼で石化が全身に及んだ状態を確認した時点で絶命を確認し、それがセレスの能力者の本来の形態に戻る為の死の形で、石化した彼等は1カ月もするとその形は一気に崩壊し洞窟と同化して何も残らない…
だが長老の場合は、終わりの日が近いと悟ると、先代のすぐ側に座して瞑想する決まりになっていて…
なぜなら、現長老が石化すると、それまでその形を留めていた先代長老の石像が一気に崩壊し、洞窟に吸収されてしまうのだ。
今回はまだラムサの像は形を留めているのだが…
リンナがラムサの像の隣にセダルの像を置いた途端、
ラムサの像は一瞬で崩壊し、洞窟の岩盤に吸収されてしまった…
「……」
「……」
あっという間の出来事に、ハンサは唖然とし…
リンナはセダルの像の隣をじっと見つめたまま動かず…
「…セダル様…」
先に我に返ったのはハンサで…
彼は用意していた布でセダルの石像を軽く拭き、
「…私はここに眠る予定のない者ですが、お話ししたくなったら会いに来てしまうと思います。どうか呆れてしまわれないで下さいね…」
溢れる涙を抑える事なく、ハンサはセダルに語りかけていた…
だが、またまたリンナに袖を引っ張られ…
ハンサは名残惜しそうに立ち上がり、セダルの像に一礼をして…
消えた。
「…何もかも順調に行けば、夜明けと共にヒカちゃんと赤ん坊は研究所へ…だね。移動の際は僕も立ち会うから、忘れないでね。でも何か緊急事態になったら、遠慮なくすぐに知らせて。…君も今夜は大変だと思うけど…」
「……」
リンナはリンナなりに思うところがあるのか…悲しそうな笑顔で首を振る…
「…お互い…頑張ろうな。じゃあ…」
ハンサが何気に手を少し挙げると、リンナもそれに応えるように手を振りながらスッと消えた。
「……」
リンナによって、再び本部の秘書室に戻されたハンサだったが…
ふと気が緩みそうになると、またすぐに涙が込み上げて来て…
困ったように拭うと耳にバイブの振動が…
「はい、あ……え?」
ハンサがすぐ通話に対応すると、思いがけない人からで…
確認の為に壁に向かってイヤーフォーンのあるスイッチを押すと、
「……」
間違いなく、通話相手その人物のデータが表示されて…
ああ…もう悲しむ間もなく、時は巡るんだな…
新たな時代の畝りの気配をヒシヒシと感じ、ハンサは泣いている暇はない事を通話相手との会話で改めて感じるのだった。
「……今しがた…あの方は身罷られたようですね…」
洞窟の最奥の泉が枯渇した様子を碧く美しい瞳を悲しげに揺らしながら見つめ、禊の為に1つに纏めていた金色の髪を解放するのを止めた巫女のティテヌは呟く…
「ではティテヌ様、明けの禊ぎや諸々の神事はしばらく…?」
ティテヌの最も信頼のおける側近であり、かつて彼女の乳母でもあったネヤラは、初めて見る泉の枯渇という現象に驚き困惑しつつ…巫女としての彼女の今後の動きを尋ねる。
「仕方がないでしょう…再びここに水が湧く日は…あの民次第でしょうから…」
「…いえ、もしも……」
「…止めましょう。ここは神域ですよ。滅多な事を言っては彼の民の迷惑になります。彼等にとってはこれから精神的支柱を失う感覚に陥る時期を迎えるのですから…」
「…そうですね…しかし…」
ティテヌは分かっている。
ネヤラが本当に聞きたい事はその先…この国に起こり得る影響だ。
この泉の枯渇をいつまで世に知られずにいられるか…
世が大きく乱れそうな今だから、本来なら表に出てはいけない立場でありながら…ティテヌは不本意ながら大きく動いたのだ。
その種が芽吹く前に…泉の枯渇は絶対に知られてはいけない。
と、
「ティテヌ様…」
扉の向こうからリュスタの呼ぶ声が…
声の主は、神事に関する事を補助するネヤラとは別に、対外的な面全てを管理するのはもう1人の側近であるリュスタで…
対応しようとするティテヌに、「ここは私が」と目で合図を送りながらネヤラが、
「リュスタ、これより巫女様は…」
と言って扉の方へ向かう…
が、
「え…」
数秒して彼女は血相を変え戻って来る。
「ティテヌ様、アイラ様が…」
よりによってこんな時に…
「……30分後にこちらから連絡すると伝えて。」
この時間帯の禊ぎは毎日の事ゆえ、彼は当然把握しているはずなのに…
と、不機嫌そうに指示するも、ティテヌはハッとする。
いや、彼は本来そんな無神経なミスはしない…
ならば…
「…いえ、すぐに行くわ。」
と、彼女は大きく声を発し、直接リュスタに伝える。
「…ようございました。通話ではなく、あの方は屋敷の方でお待ちです。」
「…何ですって?」
こんな未明に直接の訪問?
アポなしの接触を酷く嫌うティテヌの情報は勿論把握しているであろう彼が…?
…という事は?
ティテヌの表情はフッと緩み…
「…15分で支度します。それまで丁重におもてなしを…」
「かしこまりました。」
ティテヌの表情の変化に何かを察したネヤラは軽く会釈をし、心なしか軽快な足取りで出て行くのだった。




