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81 優しい人


「…またあなたなの…?」


呆れたようなベテランアムナの声が背後から聞こえ、


「は、はい、すみません…急いで片付けます。」


子供達のおやつ用に使用した食器を洗うのは新人アムナ達の仕事なのだが…


慣れない環境で緊張の為か…


洗い終えた沢山の食器を乾燥機に入れようとした時、時々新人アムナと遊びたくて洗い場に侵入して来る子を上手くあしらいきれず…バランスを崩してしまったマリュは、なんとか洗った食器を守ろうと堪えたが…


近くに別にして置いてあった割れやすい皿に肘が当たり…その中の3枚ほどが落下して割れてしまったのだった。


「あ、ごめんなさい〜」


と、接触して来た子供は要領よく立ち去ってしまい…


音に驚いたベテランアムナのソインがやって来て…


慌てて振り向いたマリュの背後で、困り顔で仁王立ちしていた。


「…あなたは一応セレスのアムナなのだから、ここの全ての子供達の親のつもりで誇りを持って…ミスの少ない効率の良い仕事を心がけてね。」


「は、はい、すみません。」


昨日も似たようなミスをしたばかりで…何回似たような場面に遭遇しても、怒られる場面はどうにも慣れないマリュは、縮こまりながら必死で割れた皿を集めながら謝る。


…それに…


一部の人達からの「一応セレス」という皮肉を含めた言葉はもうさすがに慣れたが…


やはり実際に面と向かって言われると、チクリと心は痛む…


「何度も同じ事を言わせないで下さいね。」


「…はい…気を付けます。」


潤んで来た視界…この自分の状況は彼女には絶対に悟られたくなくて、欠片を拾いながら、顔を上げる事なくマリュは答える…


と、


ガシャン


と何が割れたような音が、比較的近くから聞こえて来た、


「あれ、すみませ〜ん、割れちゃいました。」


ソインが慌てて隣りへ通じるドアを開けると…


「もう少し取りやすい場所に置いて置きますね。」


その青年はボサボサ頭をカリカリ掻きながら、バツが悪そうに割れたガラス状の物を拾い集めていた。


「…ハンサさん、それ灰皿よね…?あなたね…つい最近主任から喫煙を注意されている場面を私は見ましたよ。あの子達に副流煙がかかる事を想像して吸っていますか?って注意されてましたよね?どういうつもりで灰皿をまだそこに置いておくの?」


「あ〜申し訳ないです。子供のいる場所では絶対に吸わないのですが…喫煙者が使用している部屋に子供達が時々遊びに来てしまうので…すぐその子を部屋から出せばよかったのですが…少しお喋りしていた場面を主任に見られてしまいまして…なのでこれは外で吸う為用の小さめの灰皿です。お騒がせしてすみませんでした。」


「…外だって…子供は色々な場所で遊ぶのですよ。」


そもそもタバコの匂いが大嫌いなソインはムキになってハンサを睨む。


「ああ…でも子供が外に出ていそうな時間帯は避けて吸う条件付きで、ツリムさんからは喫煙の許可を頂いております。それに最近…子供達があまり来ない穴場を見つけたのでね…」


怒りモードに入っているソインにお構いなしに、ハンサは笑顔で説明する。


「でも子供だけではなく、基本的に人の呼吸器には良くないものでしょう?能力者の方達とかはいつも…」


ソインが更に続けようとすると、それまで飄々として笑ってすらいたハンサの表情が、一瞬真顔になったのをマリュは見逃さなかった。


「あれ?そろそろ長老がお見えになる予定では?あなたも主任とお出迎えする役に選ばれていませんでしたか?」


「え…?」


ソインはハッとして柱に掛けてある時計を見て慌て始め…


「ああ行かなくちゃ…ち、ちゃんと割れた灰皿は処分して下さいね。」


彼女はマリュのドジはすっかり意識から外れた様子で、ハンサに捨て台詞気味に指示して小走りで退室して行く…


「…確かに身体には良くないのは分かっているけど、喫煙常連の職員はちゃんとルールを守っているし…これで気分転換出来て、あの人みたいに無駄に後輩にキツく接するなんて事を避けられるなら、俺は喫煙もアリだと思うんだよね…」


タバコ嫌いのソインが去り、すっかりいつもの様子に戻ったハンサは、きれいに欠片を掃除して部屋を出て行こうとすると、


「あ、あの…すみませんでした。」


「…なんで君が謝るの?僕のやらかしなのに…まあ君も気にしない事だよ。主任やあの人は先代長老と近しい人だったから、どうもセレスの存在を神聖化しがちなんだ。」


「…!」


…やっぱり…この人は聞いていたのか…


「…私は大丈夫です。は、ハンサさんこそ…私のドジで必要以上に叱られてしまった様子だったので…すみませんでした。…では失礼しま…」


マリュは居た堪れない気持ちで逃げるようにその場から離れようと踵を返すと…


「僕もだから。そんなに萎縮しないで。少なくとも、今の長老やあの…コロンとした体型の…」


え…?


ハンサの発した意味深なワードにマリュの動きはピタッと止まる…


それに…コロンとした体型って…


「…ナランさんの事でしょうか…?恐れながら、女性にそんな表現は失礼ですよ…」


そう言いながらマリュもナランとしっかり言い当て、しかも彼の表現が言い得て妙で…表情が緩むのを抑えながらの抗議になっていた。


「あ、そう、ナランさんだ。あの人達はそんな感じじゃないからさ…気にしない方がいいよ。だってあの人…ナランさんは、時々手作りお菓子の差し入れを事務の方にくれるんだけど…凄く美味しくてさ、後日その感想を述べながらお礼を言ったら、私はこのクッキーでこんな体型になったようなモノだしって…自分から自慢気に言っていたんだよ。だからさ…」


ハンサは相変わらず飄々とはしているが、先程のソインとのやり取りの時より、言葉の微妙なニュアンスが優しくなっているのを感じたマリュだった。


ナランと彼は良い関係が築けているのだろう…


彼女の噂話には何の緊張感も裏も感じず…


マリュを自然に笑顔にさせた。


いや、それよりもさっきの…


「誰がコロン体型ですって?」


マリュが一番に確認したかった事を口にしようとした時、噂の人物は現れた。


「え?いや…あ、もう休憩時間が過ぎていた。では僕は失礼します。」


そそくさとハンサは部屋を出て行くが、


「あ、逃げるな。私はクッキーの自慢はしたけど体型の自慢はしてないわよ。」


と、ナランはハンサの後ろ姿に文句を言うが、言い終えた頃には既に彼は見えなくなっていた。


「まったく…でもあの子は仕事は出来るし責任感も結構強いから、職場での人望もあるのよね…主任のツリムさんも彼を結構気に入っているから、困った時の相談相手として彼は適任よ…っていうか…あんた達、中々相性は良さそうじゃない?」


「あ、相性って…今初めてお話しした方ですし、わ、私はまだ仕事を覚えるのが精一杯で…そんな事を考える余裕なんてありません。」


ナランの予想外の指摘に、マリュは顔を真っ赤にして反応する。


「いえ、揶揄うつもりじゃなくて…おそらく彼はあなたの辛さを理解出来る人だと思うわ。まあでも…そう遠くない未来にあなたの悩みは軽減すると思うから…それまでは彼と仲良くなって置くといいかも知れないわ。」


「な、仲良くって…」


ますます顔が赤くなって行くマリュを楽しそうにナランは見つめながら、


「…ここだけの話だからすぐに忘れて。でもハンサ君は信頼出来る人だと思うから…あら…あんまり言うとあなたのりんごみたいに赤くなった顔が戻らなくなってしまいそうね…もうこの話は止めて置くわ。ほら、手伝ってあげるから早く片付けてここの作業を終えましょう?じゃないと、さっきの彼女がまた戻って来てしまうわよ。」


「は、はい…すみません…」


結局…


なんとなくはぐらかされてしまったが…


おそらく彼も…?


割れた欠片を急いで集めながら、まさかその後ハンサとの関係が想像もしない展開になって行くとは…


この時のマリュは知る由もなかった。





「ああやはり…そうだったんですね…」


「…けど君の方が、僕よりかはずっとマシだと思うよ。あの人は…父はろくに会いに来もしない息子にプレッシャーをかけるだけかけて…逝ってしまったからね。」


その後もハンサは、マリュが上司に叱られている場面を見かける度に、何かと機転を効かせて助け船を出してくれるようになって…それによって彼と話す機会が自然と増えて行った。


ナランの言葉も影響してか、マリュはいつの間にか…


彼に寄せる想いは尊敬から次第に恋心に変化して行ったのだった。


マリュにとっては初恋で…慣れない恋心を持て余して眠れぬ夜もたくさん過ごし…


悩みに悩んで、マリュは思い切ってナランに相談をする。


「あらそうなの?いいじゃない…思い切って気持ちを伝えてみたら?あ、でもそうね…告白するなら1カ月待ってみて…」


ナランはふと何かを思い出したように、期限を提案して来る。


「…?…なぜでしょうか?あ、いえ、告白すると決めた訳ではありませんが…なぜ1カ月と?」


「う〜ん……やっぱり今は言えないけど…1週間後には分かると思うから、もう少しだけ待ってみて。彼はあんたより結構年上だけど、恋愛はそんなに器用そうには見えないから…その想いをどうにかしたいなら、自分から動かないとどうにもならないと思うわ。タイミングは良く考えて後悔のないようにね。私は応援しているからね…じゃあ…」


その時のナランは意味深な事ばかり言って質問には答えずに行ってしまったが…




彼女の言葉通り、マリュにとって1週間後に大きな転機が訪れたのだった。


「…だからね、あの子の反応が読み切れない私としては、一応、最悪のパターンも視野に入れたのよ。育児棟への異動の前だったら例え残念な結果になっても、もう彼にあまり合わなくて済むでしょう?」


「…そうですね…」


ナランは2週間後に副主任として育児棟へと勤務先を移る事になり、その際にマリュを一緒に連れて行きたいと長老に直談判してくれていたようで…


マリュも2週間後に育児棟への異動が決まったのだった。


…おそらくだが…


主任の影響もあり、セレスの血筋に拘る傾向のあるアムナが比較的多い学びの棟で働くよりも、自分の目の届く育児棟の方が彼女は余計なストレスを感じずに仕事が出来ると思ってくれたのだろうと…マリュは今回の異動の背景を理解した。


「……」


ナランの配慮に感謝する一方で、自分の恋の告白に関しては、なんだか好奇心でいっぱいの目でアドバイスしてくれる彼女に、正直、少したじろいでしまうマリュではあったが…


そんなナランとこれから新しい環境で仕事をする事は、不安よりもワクワクが大きいのは確かだった。


そして学びの棟での勤務最後の前日…


ナランの協力もあり、マリュはハンサをある場所に呼び出す事に成功した。


「あ、あの…」


指定した時間にハンサはちゃんと来てくれて…


俯き加減でモジモジするマリュに彼は何かを察したようで…


「……」


マリュが話し始めるまで、彼は何も言葉を発せず待っているようだった。


「わ、私…あの…」


勇気を出して言わなくちゃ…と思えば思うほどに口が強張って行くマリュ…


「…せっかくだから…ブランコに座って話さないかい?」


「そ、そうですね…」


マリュが告白の場所に選んだのは、大人の背丈くらいの木々に囲まれている中ににぽつんと佇む古い木製のブランコの側で…


それはつい最近、反対側のエリアに鉄製の丈夫でカラフルな遊具達の設置が徐々に始まった事で、子供の関心は大分そちらに向きつつあり…今はその古いブランコは忘れられかけている存在なのだが…


2つ並んだブランコに2人はそれぞれぎこちない動作で並んで座る。


「あ、明日…君とナランさんは育児棟に移るんだってね。建物自体は繋がってはいるけど…僕等がそっちに行く機会はあんまりないからね…なんだか寂しいなぁ。」


結局、それとなく話題を振ってくれたのはハンサで…


「…君と時々会話出来た時間は…ぼ、僕の密かな楽しみになっていたからね…」


「え…?あ…私も…あ、あの…」


だが…マリュの方は緊張し過ぎて…悲しいくらいに言葉が出て来ない…


「…マリュさん、僕ね…もう2人とも亡くなってしまったのだけれど、父は能力者で…母はティリの能力者だったんだ。」


「え?」


マリュはこの時に初めてハンサの顔をマジマジと見る。


「両親は任務で知り合ったみたいなんだけど…母は僕を未婚のまま身籠もってすぐにミアハから出て、外国で僕を産んで親子2人で暮らそうとしたみたいだけど…慣れない場所で体調を崩してしまい…途方に暮れていた所を父が見つけて僕をセレスに引き取ったんだよ。」


ああなんて…私とよく似た生い立ち…


こんな辛い話は滅多な人には話せないはずなのに…


「……」


そんなハンサに何か言葉をかけて上げたいが…涙が出て来るだけで、マリュは気の利いた言葉がなんにも出て来ないでいた。


そんなマリュを見て、ハンサは悲しそうな顔をする…


「…辛い事を思い出させてしまったかな…?ごめん…」


マリュは慌ててハンカチで目の当たりを拭い…


「いえ、ハンサさんこそ…大変な思いをされたのですね?…こんな大事な御両親の話を私なんかに…」


また溢れて来る涙をマリュは素早く拭う…


「いや…ああ僕は何を言っているんだろうね。いきなりこんなつまらない話をして…ごめん。」


「いいえ、ハンサさん…私も…あなたととてもよく似た状況の両親から生まれ、よく似た経緯でここに来たのです。だから…そんなプライベートな事を私なんかにお話しして下さった事は、とても嬉しいんです。」


マリュはまた涙を拭う…


「…僕もね、あの人達に今も時々言われているんだよ。一応セレスって…僕は結構そういう言葉には慣れているし、何より図太いからね…今はもう全然気にならなくなってしまったけれど…君は…違うんだなって…とても心配だった…」


…ああそうか…彼のさりげないフォローは…同情から…


「…やはり…そうだったのですね…」


なんとなくこの先の展開が予想は着いたが…マリュも自身の生い立ちをハンサに打ち明ける。


…優しかった母の記憶は微かにあるが…1年前に亡くなった父は…自分を学びの棟に入れたまま…


直後に1度だけ様子を見に来てくれたけど…父との交流はそこで途絶えてしまった過去を、人に初めて話したマリュだった。


彼はマリュの話をじっくり聞いてくれ…


自分の父は数回面会には来てくれたが、来る度に能力者になれと…そればかり言って帰ってしまう人だったという話をハンサはマリュに聞かせてくれたのだった。


「…どんなにプレッシャーをかけられたって…なれない人はいるって事が、あの人は視野にはないらしくて…当時の自分には辛いだけの言葉だったよ。」


そんな行き詰まった思いから逃れるように、学びの棟を出たばかりの彼は、海外研修制度を利用して1年間だけ大国の様々な職業を見て回って…そこでタバコを覚えてしまった事まで話してくれた。


「…気になったきっかけは…確かに同情だったんだ。」


「え…?」


なんだか話の方向が…


「…だけど…健気で…傷付いた部分を人に見せないように笑顔で頑張る君に…僕はいつの間にか惹かれて行った…ように思う…」


「……」


なんなの…この展開…


「あの…?」


とにかく何か言わなくちゃと、マリュは頑張ってみるが…


どうしたら良いか…どうにも分からなくなって…


「……」


やはり…固まってしまうのだった。


「職場は変わっても、君とはこうして話したり…したいんだ。…友達からでいいから…その…僕と…」


ああ…なんて優しく…先回りしてくれる人なんだろう…


「……」


お願い。


動いて、私の身体…


と、


マリュはいきなり立ち上がり、ハンサの所まで行って彼の前に跪く。


「わ、私も…ハンサさんともっとお話しがしたいです。ご、ご迷惑でなかったら私と…」


マリュが無我夢中で気持ちを伝えると、


いつの間やら手に温もりが…


気付くと、彼女と同じ目線になってくれたハンサに手を握られていて…


「僕に言わせくれないか…?君ともっと親しくなりたいんだ。今は候補でもいいから…」


「…そんな…候補だなんて…あなたが大好きです。これからも…ずっと好きでいてもいいですか?」


マリュの言葉に、ハンサは笑顔で応える…


「僕はその…こういう事に慣れていないからさ。これから君をガッカリさせてしまうかも知れない。だけど…良かったら…そんな僕と仲良くしてくれるかな…?」


「……」


マリュは涙が止まらなくなり…すぐに返事が出来なかったので、うんうんと頭を縦に振った。


そして、少しの間呼吸を整えて、


「喜んで…」


と、マリュはやっと声を搾り出して返事をした。





こうして、少しだけ歳の離れた初々しいカップルは誕生し…


ナランとマリュが育児棟に移った後も、仕事が終わると例のブランコの所でどちらかが相手を待ち…


他愛無い会話の中でゆっくりと温かな関係を育み…


お互いの休みが合った日はティリの山をドライブしたり、ミアハの恋人達のデートスポットとしても人気が上昇していたセヨルディにも遊びに行ったりして…


初めてのキスは、付き合い始めてから1年後で…


そこの湖の畔で夕陽を一緒に眺めながらの流れだった。


そして、その時からなんとなく…将来の事を意識し始めていた2人だったが…


2人の関係が大きく変わったのは…


それから1年弱の時が過ぎ、ハンサが長老セダルの直属秘書に抜擢されて少し経った頃だった。


「…ねえ…ハンサさん…最近のあなたの冴えない表情は…疲れているだけではないのでしょう?…何を悩んでいるの…?」


「…うん……」


「……」


自分を悲しそうに覗き込むマリュから、ハンサは思わず目を逸らしてしまう…


「ハンサさん…?」


今、自分が何を悩んでいるのかをマリュに伝えられない理由はハッキリしている。


それを…最愛の人…マリュに伝えたなら…


これまで築いて来た2人の関係に終わりが来てしまうだろう事を…ハンサは恐れているのだ。


話を詰めて行けば、2人の関係は遅かれ早かれ終わらなければならない。


なぜなら彼女の夢は…自身が味わえなかった家族の温もりを人生のパートナーと作り上げる事…


けれどもハンサは今…


ある目的の為に、結婚を…家庭を持つ事を諦めようとしていた。


つまり…それを告げたら彼女とは…


彼女はまだ若く、可愛らしさもありながら逞しく朗らかで…魅力的な女性だから…彼女の夢を叶える為のパートナー探しの時間を奪ってはいけないのだ。


これ以上は目的のない恋愛関係は続けられないというハンサの気持ちから、遅かれ早かれ結論が出てしまうだろう…


「ハンサさん、今日は私…ある程度の覚悟を決めてあなたに聞いているの。私は大丈夫だから…」


中々切り出そうとしないハンサにマリュはそう言って、ずっと…切なそうに見つめていた。


彼女は視線を1度も逸らす事なく…真っ直ぐに自分を見ている…


けれども…中途半端に自分に縛りつけて、彼女のパートナーを見つける時間を奪う事は出来ないのに…


このままでいたいという彼の願望が…ハンサを無言にしてしまうのだった。


「……」


再び彼女から目を逸らし俯いてしまうハンサに、マリュは苦笑しながら溜め息を吐く…


「…じゃあ一旦このお話しはやめましょう。ああ…もう辺りは真っ暗よ。お腹空いているから、私の部屋まで送ってもらっていいかな…?せっかく久しぶりに会えたのだから、そのお礼に手料理をご馳走させて。」


「え…?」


ハンサは躊躇はしたが…


彼女の料理の腕前を知ってしまっている彼としては、美味しい手料理の誘惑には抗えなかった。




「…君も疲れているのに悪いね。」


台所で忙しなく動いているマリュの気配を感じながら、ハンサはやや落ち着かない様子で…


こじんまりしたリビングで料理が運ばれて来るのをひたすらに待っていた。


新人の立場からやっと脱したアムナには、それぞれ小さな借家があてがわれるのだが、その中のリビングは2人で過ごすにはやや狭い空間ではあるが…


幾度となく楽しくも心安らぐ時間を過ごした場所で…


ここに来るのは、もしかしたらこれが最後になるかも知れないと思ってしまうと、何か話していないと居た堪れない心境になるハンサ…


料理している最中にハンサが台所に入る事を嫌がるマリュなので、待っている間は取り留めない事を色々と彼女に話しかけてしまう彼なのだった。


それは料理が運ばれて来ても同じで…ハンサは食事の間も、長老の最近の様子や職場での事などをあれこれひたすらに…彼女に話し続けるのだった。


マリュはマリュで今夜は聞き手に回り、彼の話をうんうんと楽しそうに聞いていた…


そして、食事を終えてマリュがお茶を運んで来て座った時…


彼女の雰囲気は一気に変化し、


「今のハンサさんは、きっと長老の秘書であり補佐という仕事をとことん全うしたいと考えているのでしょう?」


唐突に、話の核心に触れて来たのだった。


「…以前……君に話した事あるけど…僕は能力者にはなれなかった。その事は、僕の心の中では今も上手く折り合いが付いていなくて…それは、自分が何にも役に立てていないような、変な無力感の原因になっていたんだ。だけどそんな僕を…あの方は本部の方に引き抜いてくれて…直属の部下の立場を与えて頂いてからは、僕の心の中の無力感は一変したんだよ。」


「…そう…確かにお仕事にやり甲斐を持てたなら…日々の充実感は全然違うわよね…」


マリュは嬉しそうに…けれども、どこか切なそうに微笑んでいた。


「…実際、側で仕えてみて…あの方の日々のスケジュールは僕の想像のかなり上を行っていたんだ。そしてそれは、あの方まで上げられて来るセレスの諸問題をチラ見するだけでも理由は分かった。」


彼の背負う役割は確かに多いのだけれど…


それぞれの問題の解決を、あの方が真剣に目指しているからこそ、とにかく把握しておきたい情報や緻密な計画の為に行動する量は膨大で…


「僕が把握している中では、あの方のプライベートは、食事と入浴と僅かな睡眠しかないんだ。睡眠だって…いつもプライベートなご自身の部屋には4時間もいないから…いつ寝ているのだろう?って心配になって来るくらいの少なさなんだ。…それが毎日なんだよ?いくら女神様に守られている存在とはいえ…それに加えて…あ、…ごめん…ついムキになって…」


長老の仕事の過酷さを語るハンサは、とにかく熱がこもっていて…


いつもの飄々とした雰囲気からはかけ離れていてマリュを驚かせた。


「ううん…私はあなたが日頃どんな気持ちで仕事に取り組んでいるかが分かって嬉しいわ…私の事は気にせず続けて?」


「…ありがとう…えっと…何を話してたっけ…あ、そうだ。あの方は、セレスの人口問題の解決に向けて毎日のように研究所で職員と意見を交わして、時には一緒に研究に夜通し参加したりするんだ。外交も積極的で、それも能力者の安全確保が目的の大部分なんだけど…彼の行動は並の意識では支えられないから…今までは直属の部下という存在は置かなかったらしいけれど…あの方も結構なお歳ではあるし、自分が全力でお支えしなくてはって、どんどん思うようになったんだ。あの人の代わりが出来る人は、今の時点で僕は誰も思いつかない。だから…」


「…だから…?」


「…!」


マリュの目は…みるみる潤んで来ていた…


ああ…このタイミングで言わなくてはならないのか…


「僕は…自分の進むべき道が見えてしまった。能力者の道でセレスに捧げる予定でいた人生だったけど、その望みは潰え…まさか君みたいな可愛い人の恋人になれて…ティリやレノの人達みたいな家族を作れるのかなって、一時はとてもワクワクしていたけれど…器用な人間ではないから…君を自分の両親のような状況にはさせたくないんだ。」


「つまり…?」


この時点で、マリュの目からは…


「君との将来は…諦めるしかないと思っている…」


「……」


ここでマリュは脱力したように、目をハンカチで押さえながらテーブルに顔を突っ伏した状態になった…


「…ごめん…」


ハンサも…そんなマリュを見て込み上げて来るモノがあり…


それだけを、なんとか絞り出すように行った。


「私は…そんなあなたを支えたいのだと言っても…?」


ああ…やはり…


君が生き方を変えてまで支えてくれようとすることは…予想は出来ていた…


…けれど…


「君も…いつか言っていたよね?アムナという仕事に誇りを感じられるようになって来たって…。僕は…母の居場所も仕事も奪ったまま…僕にある種の呪いをかけるようにして逝った父の息子なんだよ。それに…君はまだ若いし、魅力的だ。僕の為に夢を諦める必要はな…」


「止めて、勝手に決めないでよ。ハンサさん…それはあなたが判断する事ではないのよ…」


珍しく、マリュは声を荒げた…


でもマリュは分かっている…


彼はとてもも優しい人…だけど、頑固な人でもある事を…


この人はもう決めていて…生き方を変えるつもりはないのだ。


ならば…


マリュは力を振り絞り、顔を上げてニッコリ笑う。


「分かったわ…。ハンサさんはもう決めてしまったのよね?…ならば、私はあなたの恋人ではなく、これからは応援隊長になるわ。」


「マリュ…」


そしてマリュは、スッと手をハンサの方へ伸ばし…


「だから…その前に、最後のお願いを聞いて欲しいの。」


縋るような目でそう言いながら、彼の手をギュッと掴んだマリュ…


何か嫌な予感がハンサはしたのだが…


「最後に…あなたの恋人だったという証を…私に刻んで欲しい…」


「え?君は…何を…」


握られている手を咄嗟に引っ込めようとするハンサだったが、マリュの力は強く…それが彼女の決意を表しているようで…


「お願い…初めて愛した人だから…終わる前に私の初めてをもらって欲しいの。お願いよ…」


涙をぽろぽろ零しながら懇願するマリュに、ハンサは嬉しさを感じながらも…


「…これからの人生を大事にして欲しいからこそ、僕は君を汚すべきじゃないと思う。…それに僕は…」


この歳まで経験のない僕ではマリュに負担をかけてしまうだけと、拒もうとするのだが…


「お願いよ。…初めてはあなたがいいって…言ってるの。私を愛してくれていたなら…最後の願いくらい…叶えてくれてもいいじゃない…」


…今まで…


ちゃんと婚約するまでは一線は越えないと彼は決めていた。


こんな形でマリュに求められる事は、到底受け入れられないはずではあったが…


ここまで懇願して来るマリュがどうにも愛おしく…


「…本当に…こんな僕なんかでいいの…?」


恐る恐る確認をしてしまっているハンサに、


「私はあなたがいいって言ってるの。何度も同じ事を言わせないで…」


と、手は離さないままで再び泣き崩れるマリュ…


「…分かった…」


意を決してハンサは立ち上がり、泣き続けているマリュを抱き上げ…


そのまま寝室に彼女を運び…


2人は最初で最後の、長く切ない夜を過ごしたのだった。





「…順調よ、マリュさん…今のところ何も問題は起きていないわ。3日後の夜にお迎えが来るみたいだから…それまではここで安静にしていてね。」


検査機器から出て来るデータを確認して、フィナはマリュに笑いかけて退室して行った…


ああやっと…


マリュは涙ぐみながらお腹をさする…


まだ安定期には入っていないけれど、私の中にはちゃんと…


あの日…


ハンサさんと結ばれた、最初で最後の夜…


あの夜の2人はとてもぎこちなかったけれど…ちゃんと結ばれた…


けれど…


彼なりに、細心の注意はしていたのだろう…


行為は実を結ぶ事はなかったが…


セレスでは、自立した成人の男女はそれぞれ自分の精子と卵子を研究所に提供する義務があり…


マリュは、タニアのお世話の為にミアハを出る時からずっと…


長老に頼み込んでいた事の了承が、つい最近やっと下りたのだった。


たが、それはあくまでスタートラインに立てたに過ぎず…


マリュは2度の失敗の後にやっと…


大きな一歩を踏み出せたのだ。


私や彼のケースは事情が少し異なるが、今後セレスは…もしも今の大きな危機を回避出来たなら…


近未来のセレスは、私達のような一応セレスの人間がたくさん生まれ、大人になって行くだろう。


恋や結婚、そして出産にはどうしても自信が持てず消極的だったセレスの女性から、まずは意識を変えて行かねばならないと思うマリュ…


更にアムナは特に…


この経験はした方が良いように思うのだった。


「ハンサさん…私は今もあなたの応援隊長だし、それはこれからも変わらない。私は1人の女性として、アムナとして、夢を叶えるの。だから…私との別れを決めた事の罪悪感なんて…もう全て捨てて欲しいの。…私はあの夜の思い出があればいい…私は今、ちゃんと幸せだから…」


長老の計らいで、セレスの病院に極秘入院させてもらったマリュは、窓の下で書類を見つめながら研究所の方へ歩いて行くハンサを見つめながら、満足気に微笑むのだった。







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