7 白詰草の花
「あ、蝶々だ!お兄ちゃん、蝶々が飛んでる…」
ヨハと手を繋いで育児棟に沿った小道を歩いていたヒカが、右脇に広がる白詰草の咲き乱れる草原を指差して嬉しそうにヨハを見上げる。
「本当だ。飛んでいるね…」
ヨハの反応を待たずにヒカは繋いでいた手を離し、白詰草の群生している場所へと駆け出す…
「ヒカ、急に駆け出したら危ないよ…」
蝶々を追って花畑の中を舞うように跳ね回るヒカ…
「お花がたくさんたくさん咲いてるから蝶々も喜んでるよ!」
花畑の上をクルクルと回りながらはしゃぐヒカはとても嬉しそうで…陽の光が当たった肌は透明感がより際立って…無垢な笑顔も愛らしく…まさに妖精のようだった。
ヒカの笑顔を見ていると、心が温かくなるのを感じるヨハ…
連れて来てよかった…
元々ヒカは外のお散歩は好きだったが、10日くらい前からこの辺りの白詰草の群生地にポツポツ白い花が咲き始めてからは、特にここはヒカのお気に入りの場所となった。
四つ葉のクローバーを探したり、今日のように花に誘われて来る蝶々と戯れたり…つい最近、ヨハのいない日にマリュにせがんでここまで連れて来てもらい、白詰草の腕輪を作ってもらってとても喜んでいたらしい…
今のヒカはヨハのいない時間を少しづつ増やし始めた所で…
最初は5日に1度くらいの間隔で夜にヒカを寝かしつけてからのヨハは、学びの棟にある本来の自室に戻り翌日は受験勉強したり図書館へ出かけたりというリズムで過ごしていたが…
それを繰り返している内に、ヒカが夜に何度も起きてヨハを呼ぶという事が続くようになって、ヒカもヨハも昼間にウトウトする状態が続くようになってしまった…
ある時、見兼ねたナランがヨハのいない日にヒカのこれからの事を変に隠さずにじっくり話しをしたそうで…
そこからヒカの様子は少しずつだが明らかに変わっていった。
6日前の真夜中…
ベッドから身を起こして「お兄ちゃんいない…お兄ちゃん…」と泣きじゃくるヒカのベッドの脇の椅子に腰掛けて、ナランはヒカの背中を優しくさすりながら…ヒカが落ち着くのを待つ…
何も言わず…ゆっくり…ゆっくり…背中をさすりながらひたすらに…
「……」
ひとしきり泣いて少し落ち着き始めたヒカの様子を見計らって、ナランは話しかける。
「お兄ちゃんがいなくて寂しい…?」
止まりかけた涙が再び瞳に溜まり、今にも溢れそうになったままナランを真っ直ぐに見つめるヒカ…
「寂しいね…でもお兄ちゃんもヒカの側にいられなくて悲しいんだよ…」
「え?」
ナランの言葉に意表を突かれヒカはキョトンとなる。
朝起きると、ヨハがいなくなってしまう事が増えたヒカは、置いていかれた様な気持ちになって、ただただ不安で悲しかった…
いなくなってしまうお兄ちゃんも悲しい……?
ナランの言葉を必死に理解しようとしているうちにヒカの涙は引っ込んでしまった…
「ヨハ君はね、本当は沢山のご用事があってとても忙しい人なの。だけどヒカちゃんのお熱を下げて元気になってもらう為に特別に来てもらったのよ。だから今度はヒカちゃんがお兄ちゃんの為に頑張る番が来たんだよ。ヒカちゃんの事が嫌いで来ないんじゃなくて、お兄ちゃんは大事なご用事でどうしてもヒカちゃんに会えない日があるの。お兄ちゃんはその大事な用事の為に一生懸命頑張っているんだから、これからはヒカちゃんが応援して上げよう?」
涙のすっかり止まったヒカは薄青緑色の瞳をまん丸くして、ベッドから身を乗り出す様にナランに尋ねる。
「応援?応援てなに?それをしたらお兄ちゃんとずっと一緒にいられる?」
グィッと顔を近づけて真剣に尋ねるヒカは可愛いくて…でも少し切なくて…そんな子を見つめるナランは複雑な心境のまま続ける…
「残念ながら、ヨハお兄ちゃんの用事はこれから増えるばかりなの。だけど、ヒカちゃんに会えない事をお兄ちゃんも寂しく思っているの。ヒカちゃんと同じなのよ。」
「お兄ちゃんもヒカに会えないと寂しいの?」
大きな瞳を更にまん丸にしてナランの話を懸命に理解しようとしてるヒカ…
「…じゃあヒカがお兄ちゃんに会いに行く…」
「……」
…そう来たか…と、想定内の反応ではあるがナランは苦笑する。
「ヒカちゃん…お兄ちゃんはお遊びとかでお出かけする訳じゃないのよ…彼ぐらい大きくなるとね、皆んな色々大切なご用事があるの。お兄ちゃんの周りにも大事なご用事をしている人達がいるから、ヒカちゃんがそこにいたら皆んながご用事が上手く出来なくて困ってしまうかも知れないの。ご用事が終わらないと、お兄ちゃんはずっとヒカちゃんに会いに行けなくなってしまうかも知れないわ。ご用事が終わったら、いつもヨハ君はヒカちゃんの所に来てくれるでしょう?だからヒカちゃんが頑張るのは、お兄ちゃんがいない時にはここで楽しく元気に待っている事なのよ。」
ヒカに説明しながら…
ナランは無意識に自分も小さい頃は、能力者として任務に出る時の母を泣いて止めた日々を思い出していた…
父が若くして亡くなり…母は能力者としての仕事で何日も家を空ける日々が普通で…ナランの幼少期はまだ、セレスの人々はかろうじて家族と暮らしていたが…ナランは母のいない日々を、今の育児棟や学びの棟の前身的な存在の施設で寝泊まりして、夜に母がいない淋しさに独り泣いて過ごした姿が…今のヒカとダブって、なんとも胸に来るモノがあった…
元からいないなら恋しいとも思わず…淋しさはあってもそれが普通となるのだ。
だが決して…幼児が淋しさに慣れる事が好ましい訳じゃない…
せめてアムナの数が今の倍いたら…マリュも私も、もう少しここ(育児棟)の子に余裕を持ってじっくり接する事が叶うのに…
今の淋しさを乗り越えてもらう為に自分は今ここでヒカと話しているのに…気が付くとヒカに感情移入してしまっている自身に戸惑いながらも…ナランは話を続ける。
「お兄ちゃんはヒカちゃんに会えない日もあるけど、ヒカちゃんの所にちゃんと来るでしょう?ずっと会えなくなる訳じゃないの。ヒカちゃんが泣いてばかりいると、お兄ちゃんはヒカちゃんの事が心配で、ご用事が長引いてしまう事もある。応援というのはね、ヒカちゃん。お兄ちゃんがご用事をちゃんと出来るように、ヒカちゃんが泣いたりしないでご飯をいっぱい食べてたくさん遊んで、良い子でお兄ちゃんが来るのを待つ事よ。お兄ちゃんがいなくても頑張れるヒカちゃんでいる事…」
ヒカの瞳がまた少し潤む…
「ヒカが泣くとお兄ちゃんは来なくなっちゃう?」
「お兄ちゃんもヒカちゃんの事が大好きなんだから、そんな訳ないでしょ。お兄ちゃんは来なくなったりしない。だけど、泣いてばかりいるとお兄ちゃんは困ってどうしたらいいか分からなくなってしまうかも…。だからヒカちゃんは泣いたりしないで楽しい事を沢山見つけて良い子で待とうね…という事よ。」
「……」
ヒカは懸命に考えて、泣いたらお兄ちゃんが困るという事はなんとか理解出来た…
「…お兄ちゃんが来たらね、ヒカちゃんは甘えていいのよ。だけど、お兄ちゃんがいない時の時間はヒカちゃんが楽しい事をたくさん見つける事でお兄ちゃんは安心するの。お兄ちゃんが安心するように頑張る事がヒカちゃんの出来る応援よ。…分かるかな…?」
「…ヒカが泣かない事を頑張る…?」
「う〜ん…楽しい事をたくさん見つければ悲しくないから、泣かなくて済むでしょ?我慢して泣かない事も偉いけど、ヒカちゃんが悲しくならないような楽しい事を見つけるの。私やマリュさんともたくさん遊んで…甘えていいのよ。その方がお兄ちゃんは安心するよ。」
「…楽しい事…?」
ジッと大きな瞳でナランを見つめながら一生懸命理解しようとしているヒカをナランは思わず抱きしめる。
子供らしい我儘も言うけれど、人の話を一生懸命に聞いて受け入れようとするヒカの素直さや純真さにヨハも心を許して行ったのだろう…
「そう…お兄ちゃんのいない時の楽しかった事を色々とお話ししてあげたら、お兄ちゃんはきっと安心して喜ぶよ。お兄ちゃんの事を好きなら…出来るよね…?」
抱擁を解いて、ナランはヒカの瞳をジッと見つめる。
「……うん…お兄ちゃん大好き…」
……やっと笑ってくれた。
「さすがヒカちゃん。…じゃあ良い子のご褒美にイイ事教えてあげるね…お兄ちゃんは明日来るよ。」
「明日?!ほんと?」
ヒカは満面の笑みを浮かべた。
「ヒカはお兄ちゃんがいない日を頑張る。もう泣かない…頑張る。」
ナランはゆっくり抱擁を解き、ヒカの頭を優しく撫でる。
「良い子ね…そしたら明日はお兄ちゃんとたくさん遊ぶのだから、もう寝よう…ヒカちゃん。」
「うん。」
嬉しそうに横になるヒカに毛布をかけて、ナランは再び椅子に掛け直し、ヒカの頬に軽く触れる。
「ずっと…ヒカちゃんが眠るまでここにいるから…安心しておやすみなさい…」
頬にあるナランの手を握ってヒカは目を閉じる…
「うん、おやすみなさい…ナランさん…」
ヒカの握られた手が自然に離れるまで、ナランは愛おしそうにヒカを見つめていた…
「……」
縁あってここに来たのだから……
あなたもヨハちゃんも大切な私達セレスの子…
2人共…どうか元気に…
幸せに暮らして欲しいのよ…
そして…
いつもより少しだけ静かな育児棟の夜は、ゆっくり明けて行くのだった…
「お兄ちゃんこっち来て〜」
蝶々と踊るようにクルクル回りながらヒカが手招きをするのを眺めながら、ヨハは草原の適当な場所に腰を下ろした。
「ここで見ているよ。」
と、手を振る…
側まで来てくれないヨハの所まで行こうとしたヒカだが…
「あっそうだ。」
と、何かを思い付いて、その場に座り込む…
「?」
また四つ葉のクローバー探しか?と思いながら…ボーっとヒカを見ていた。
何かに夢中になっているヒカの姿をただ眺めているのもヨハは心地良かった…
君は本当に…元気になったね…
「………」
「出来た!」
いつの間にかウトウトしていたヨハの元に、何やら完成品を持ってヒカが駆けて来る。
「お兄ちゃんに作ったの。はい!」
ヒカは少し息を切らしながら、座っているヨハの頭に完成品をそっと載せた…
「…何?…これ」
「お花の冠!マリュさんに教えてもらった…お兄ちゃんにあげる。」
…かなり凹凸した感触だが…ヒカがヨハの為に一生懸命作った意欲は感じる冠だった…
「……ありがとう。」
落ちないよう手で支えながらヨハがお礼を言うと、ヒカは満足そうにニコッと笑った…
「……」
望んでいた状況であったけれど…
自分のいない時間を悲しまずに楽しく過ごし始めたヒカの姿に、なんとなく寂しさも感じてしまうヨハは、ヒカの方が自分から離れて行くのではないかという妙な焦りも感じ始めていた。
この先は会えない時間がどんどん増えて行くのに…
…気が付くと、あれ程飛び回っていた蝶々はいつの間にやら姿を消して、少しヒンヤリした風が白詰草の花々を揺らしていた。
「少し冷えて来たね。またヒカのお熱が上がったら大変だから、そろそろ帰ろう…」
ヨハの言葉にヒカの笑顔が陰る。
ごめんね…でも仕方ない。
出来るだけ自分のいない時に熱は出して欲しくない。ヒカが熱を出しても、僕がいない日だったらあえては呼ばないとナランさんから言われているから…
立ち上がってヒカの手を引こうとすると、ヒカはクルッとヨハの背後に回って足にしがみついた。
「どうしたの?」
「…おんぶ…して…」
珍しいおねだりだな…
「じゃあ、おんぶしてあげるから…ほらっ」
と片膝ついてヒカに背中を向けると…ヒカの腕がヨハの肩にかけられて温かい重みが背中に加わった。
立ち上がった拍子に頭の上の花冠が落ちそうになったので、ヒカの手に「持っていて」と渡す。
初めて見た時は年齢より幼く見えて、華奢過ぎる身体が心配にもなったヒカだが…未だ食が細めにも関わらず体調も安定し、彼女なりに順調に成長してきている事を、背負った時の重さでヨハは改めて感じる…
元々レノの民は葉緑体を持っていて、口腔摂取の養分が少なくとも割と大丈夫という噂は決して噂の話ではなく、この後に研修に行ったティリの病院の医師からしっかりとしたデータの載った資料と共に説明され、知る事になるのだが…
安心しながらも、自分とヒカの日常はどんどん離れて行く…
ヒカの世話を始める時から分かっていた事なのに…
ヨハはなんだか寂しさがじわじわと込み上げてしまう…
「…⁈」
不意に肩にかけられていたヒカの腕が、ヨハにしがみつくようにぎゅっと締め付けて来る。
「…寒いの?」
「……」
「………ヒカ?」
「…寒くない…お兄ちゃん温かいから…」
伝わる感じからはどこか身体が辛いようでもなさそうだけど…?
「…くっついてるの…明日はお兄ちゃんいなくなるから…」
…ヒカなりに僕がいなくなる周期を覚えたんだね…
「…ヒカはお兄ちゃんを応援してるから泣かないの。ヒカは頑張るの………頑張る……うわぁ〜ん…」
「………」
泣き出したヒカを慰めなくてはいけないのに、色々な思いが込み上げて来て…ヨハは言葉が出て来なかった…
「………」
そして、気がつけばヨハの青い瞳にも涙が滲んでいた…
小さいなりに…この子は自分の置かれている状況と感情との折り合いを懸命につけようともがいている…
ヒカの葛藤を目の当たりにする度に、今の自分に出来る事には限界がある現実を思い知らされて…ヨハも悲しかった。
今はとにかく、この子はセレスのコロニーに溶け込んで行かなくてはならない…
自分は距離を置いて支えるしか出来ない…けれど…
「…ヒカは…家族って知っている?」
泣きじゃくるヒカを背負い歩きながらヨハは尋ねる…
「家族…?………ヒック…分からない…」
しゃくり上げながらヒカは答える…
「僕達ミアハの中にはね…他にティリとレノという違う能力を持つ人達がいてね…その人達は家族という小さい仲間がそれぞれあるんだよ…その家族は赤ちゃんの頃から大人になってもずーっと仲間なんだって。セレスには家族という特別な仲間は無くて、皆んなが仲間なんだけど…僕はヒカを大事な家族と思ってる。これからもずーっとね…。だから…僕はヒカの側から用事で離れる時はあっても家族だから…いなくなったりしない…信じて。」
「…家族…?……ヒック…ずっと…?」
「そう…家族だから…僕は君をずっと見守っているよ。それは忘れないで。…会えない時は僕も悲しいんだよ。」
「…ヒック…ナランさん…お兄ちゃんも悲しいって…だからヒカがお兄ちゃんを応援するの…頑張るの…」
ナランさん…
ヨハの瞳がまた少し潤む…
「…そうか…じゃあ僕も…いつか…ヒカの側にずっといられるように頑張るよ…。だから、もう泣かないで…」
…今のヒカは狭い空間の中で僕を見ている。いつかは僕を必要としなくなるかも知れない…。それでも、僕は君を家族と思う事にするね…ヒカ。
「……お兄ちゃん……大好き……ら………頑……」
抑えきれない感情を吐き出して泣き疲れたヒカは、ヨハの背中で急に眠りに落ちようとしていた。
「あっ…」
その中で、握られていた歪な花冠がヒカの指からすべり落ちる寸前でなんとかヨハは受け止める。
この冠は…君の方がはるかに似合うよ…
気がつけばもう2人は育児棟のゲートの前にいた。
「失礼します。」
ノックはなく、カチャッとドアが開くと同時に声が聞こえ、セレスには珍しい恰幅の良い女性が入って来た…
「おや、久しぶり…君がこんな所までわざわざ来るとは…珍しいね。」
ここはセレスの研究所の資料室…
椅子に座って幾つかのデータをチェックしている長老めがけて、ツカツカと女性は近づいて来た。
「今日ここにおられる事は間違いないとハンサさんにお聞きしましたので、早い方がいいと思い伺わせて頂きました。不躾にすみません…」
愛用している銀縁の眼鏡をゆっくり外しながら、長老は少しだけ目を細める。
「君がそんなに慌てているのは本当に珍しい事だ…一体どうしたんだい?」
のんびりしたペースで話し続ける長老に少しイラッとしながら、その女性は長老のテーブルを挟んだ正面の席に、了解も得ず硬い表情のまま座る。
「…今日はなんだか不機嫌そうに見えるよ、ナラン。」
「…棟では迂闊には話せないと思いましたから、ご多忙な長老の動向を追ってこちらへ押し掛けるしかないと思いました。私がなぜ不機嫌かは長老は既にだいたいお察し頂けているように思いますが?」
「………」
長老はナランを見つめたまま言葉を発しようとしない…
「お陰様で、貴方様の名配置により、ヒカちゃんの状態はかなり改善しました。正直、ヨハ君があそこまであの子に献身的に動いてくれるとは予想出来ませんでしたので…本当に助かりました。ただ…今の2人は第3者が迂闊に入り込めないほどに絆が深まってしまっています。長老の事ですから、こうなる事も予想は出来ていたように私は感じます。……それなのに…」
「…それなのに…?」
自慢の白髭を弄りながら長老は淡々と先の言葉を促す…
「……ヨハ君に…ヒカちゃんのような変異の子は皆、過去に10代半ばで亡くなっている事を…あらかじめ知らせてあげなかったのはなぜですか?かつてあの子は目の前で、当時唯一心を開いていたイユナが突然亡くなるという壮絶な経験をしています。イユナの時と同じ様なショックを与えてしまう可能性のある事を…私はこのままずっと黙っていなくてはならないのでしょうか?イユナの時より悲しみが深くなってしまうリスクもある事なのに…いくら後継者として期待しているからといって、こんな形でリスクを大きくして置く理由が…私には分かりません…」
困惑と怒りの感情を隠さず、ナランは長老の真意を問うように真正面から睨むように見つめる…
「…私は…今はその時ではないと思っている。変異の子の詳細データは私と君と長達と…ごく一部の人間しか知らない。変異の子の過去のデータの件はそれぞれタイミングを見計らって私から話すつもりではいる。ただ…」
「ただ?」
長老なりの考えはあるのだろうとはナランも思っている。だが改めて、彼は今後の2人をどう育てようとしているのかを、この際しっかり聞いておきたかった。
「過去のデータは参考にはするが、今回のヒカケースには当てはまらない部分も結構ある。過去の子のように10代後半までに亡くなる未来が確定している訳ではない前提で、こうやってヒカの週ごとの検査データを見ながら変異の子の問題点を探ろうと日々奮闘はしているつもりだよ。そして、ヨハは彼のたっての願いで医師免許取得の為に与えた時間は自由に学ばせているが、いずれこの本部の近くに住まわせて私に付いて行動してもらう予定でいる。ヒカも…様子を見ていずれここに呼び寄せるつもりだ。まぁその時点で2人の距離感がどうなっているかは彼ら次第で…誰にも分からない事だと思わないか?特にヨハは、これから様々な人達との出会いがあるだろうし、ヒカもヨハのいない時間の中で様々な人達と交流していくのだし…」
…確かに…
時間の流れや環境の変化での心境の変化は誰にでも起こり得る事ではある。まして、2人はまだ幼い…
「………」
ナランも少し2人に感情移入をし過ぎていた事を少し反省しながらも…
でも…
それでも…
2人は巡り合うべくして出会っているような感覚にさせられてしまう部分があるのも確かなのだ…
「…ですが…あの子達を側で見ているとですね……なんというか………」
更に不確かで捉えどころのない事を口にしてしまいそうで……ナランは黙り込む…
「君が言わんとしている事は私もね…分かるよ。運命的というか…もっと言うとね…あの子達の出現は、ミアハにとっての[兆し]のようなモノなんじゃないかともね。」
[兆し]……そうか、確かに。
ナランにとっても、なんともストンとハマる言葉ではあった。
「それに…」
長老はフッと笑う…
「あの子は…ヨハは…感が鋭いし行動力は私も感心するからね…。ヒカの事は私が余計な口を挟まずとも色々調べまくるだろうね…」
「……」
ナランも…そんな気はしている。
「それでも…知るタイミングは大事ですよ。確かに寿命なんて誰でも不確定な未来の事ではありますが…ヨハ君は既に身近な…数少ない心を許した存在の死に対してのトラウマを持っていますから。」
長老は相変わらず白髭を弄りながら、微笑を崩さない…
「あの子にあるのはトラウマというより、当時の自分の無力さに傷ついてるのだと思うよ。…おそらく、これからヒカの事は落ち込む暇もなくパワフルに支えて行こうとするだろう。…まぁでも、君の心配も分かる。リスクも踏まえて、ヒカの事は近い未来に折を見てヨハに話すつもりだよ。」
…この人に限っては大きくリスクの及ぶ可能性のある事を意味なく放置する訳はないという信頼感はある…
「それに…予言の書の存在は…君も把握はしているだろう?」
「…まあ……」
「…説明は出来ないが…私はあの子を絶対に死なせない。」
長老は、強い決意のこもった目でナランを見る…
「……」
これはまさに…我々の預かり知らない部分でも色々と動いている、彼らしい言葉だ。
彼の目を見て一応安心するナランだが…
あえて周囲に分かる様にして置く丁寧さがないから皆ヤキモチもするのだ。
「……」
何はともあれ、わざわざ研究所まで押し掛けて聞いておく価値はあったとナランは思った。
「…少し安心しました。ご多忙な中を唐突に押し掛けてしまい、失礼致しました。今日は長老のお考えをごく一部でもお伺いする事が叶い、本当に良かったです。ありがとうございました。」
そう言うとナランは席を立って一礼をした。
「いや私こそ君と話せて良かったよ。君らしい愛ある抗議はしっかり届いたよ。これからもヨハとヒカをどうかよろしく頼む。…やはり2人の事を君に任せて正解だったと、私も安心している。」
そう言いながら長老は、ナランの一礼に応えて髭を弄っていた右手を軽い敬礼のように頭上に挙げた。
「身に余るお言葉…感謝致します。私達の元に来た子は全て親のつもりで接しておりますから…最善を尽くせるよう頑張ります。今日はありがとうございました。では失礼します。」
軽く会釈だけしてドアに向かうナランに…
「…もう帰ってしまうのかい…?…寂しいな…」
と、長老は声を掛ける。
「……」
声に反応してナランは歩みを止め振り返ると…
長老はニコニコしながら投げキッスをナランに送って来た。
「?!」
…来たな…
若い子ならまだしも…私はもうそんな事で動揺する歳ではないわ。お茶目ジジイ…
「私もお名残惜しいですけどね…ではまた!」
ぎこちなく笑って、ナランは部屋を出て行った…
ナランの足音は徐々に小さくなって…
「………詰まらんな…」
最近はナランもあまり狼狽えずに返して来るので、ちょっと物足りなく感じる長老なのだった…
「ったく…お茶目なんだかセクハラなんだか…」
まぁ…ああいうトボけた長老だから、ミアハの外の人々からもそこそこ人気があるのだろう…
研究所の長い廊下を歩きながら、かなりお茶目どころかふざけているセレスの愛すべき老人の先程の仕草を思い出し、苦笑してしまうナランだった。
「…ねえ、ヨハ君…」
いよいよ明日ティリに立つという日の昼下がり…ヨハが学びの棟の自室で荷造りの最終確認をしていた時、不意に1年下の秀才と評判の女の子ゼリスが訪ねて来る…
彼女はヨハに触発されたらしく、海外への留学を目指してヨハに色々と勉強の事で話しかけて来る事が増えていたが…ヒカの件があり、ヨハが学びの棟にいない事が激増してからはほぼ接点は無くなっていたのだが…
「…ちょっといいかな…」
ゼリスはヨハの部屋に入室したい様子だが、荷造りはほぼ完成しているものの、置いて行くモノがまだ部屋のそこかしこに散乱していた。
う〜ん…この状況ではちょっと困るんだよな…
「待って、部屋がまだ整理されていないんだ。急ぎの用事かな?なら外で話すのでもいいかな…?」
「…忙しい時にごめんね。分かったわ…じゃあ…」
ヨハが自室を出ると、ゼリスは少しおずおずと自分達のいる廊下の東側の窓を指差し、
「あの裏手の大きな木の下まで来てくれるかな…?」
と言ってヨハを手招きするのだった。
…忙しいのに…ちょっと面倒だな…と思いながら、ヨハは前を歩くその可愛らしい少女にややゆっくりとした歩調でついて行くのだった。
ティリのとある大病院の最地下…
そこにはたった一つ小さな部屋があり、関係者以外立ち入り禁止の札が下げられている。
今、ほぼ毎朝のようにそこに訪れる人物は階段を降り切り…今朝も変わる事なく鍵を開けて入って行く…
その部屋の中には、銀色の金属質の長方形…それはちょうど人が1人収まる位の大きさの容器がポツンと中央に置かれており、そこから伸びる白いコードは電源に繋がれ四六時中ウィーンという低いモーター音が部屋の中に響いていた。
その長方形の容器の傍にはもう一つ、小さなクリーム色の機器が置いてあり、その機器も銀色の長方形の容器へとコードが繋がれている…
その部屋に在るのは、その謎の物体2つだけ…
その訪問者の男は入るなり先ずクリーム色の機器の状態を確認し、それを終えると銀色の長方形のケースへ近付き、その容器の上部に付いている四角い窓の上のカバーのような金属版を開けて中を覗き込み…
愛おしそうに話しかける…
「おはよう、今日も良い天気だよ。来る途中の道に白詰草の花が咲いてたから…リラに見せたくて積んで来たんだ。」
と、男は手に持っていた小さな白詰草の花束をその窓のような場所に置く。
「よくレノの病院にいた頃は河原で話したな…。あそこは…行く度に色んな花が咲いてた。帰る途中で追いかけっこみたいになって…お前…義足なのに必死に走るから危なっかしくて…」
男は…
いつも最初は楽しそうに思い出話を始めるが…話の後半はいつも涙声になってしまっていた…
「夕べさ…また親父と喧嘩しちゃったよ…」
男の脳裏に昨夜の記憶が過ぎる…
[お前…まだテイホの1週間前のあの報道に目を通してないのか?あの機器は初期段階の冷凍時に細胞の損傷を引き起こす問題を大きく報じていたぞ。いい加減に目を覚ませ。お前の自己満足で機械にリラさんを閉じ込めて…彼女のご両親をイタズラに悩ませるような事をするじゃない。今お前がやっている事は、誰の為の措置なのかを頭を冷やして良く考えろ!]
[光熱費は俺が払っているし、管理も迷惑はかけてないつもりだよ。院長にも許可は貰ってる。元気な頃のリラには会おうともしなかったあんたの言葉なんて…響く訳ないだろ…]
結局…母親が止めに入るまで非難の応酬という、いつもの喧嘩のパターン…
「リラ……諦めが悪くてごめんな…でも俺が…お前の治療法を必ず見つけてやるからな…」
涙を一度拭ってから立ち上がり、男は機器の窓の部分を元に戻し、側にポツンとある小さな丸テーブルに置かれた小さな花瓶に前日の花と白詰草を入れ替える。
「じゃ…また明日な…」
と小さな窓口に優しく話しかけ、男は部屋を出て行くのだった…