51 訪問者
「?…は〜い。」
いつもより早めの夕食を終えて間もなく、まあまあ遅い時間帯の呼び鈴に少し驚いたゼリス…
セレスの殆どの能力者達は、警備員が周期的に巡回してくれるエリアの、小さめだが大体の家具や必需品の設備が整っている戸建ての家がたくさん立ち並ぶ中の一軒を、それぞれ当てがわれて生活している。
ベテランの能力者となると、世界各地の神殿の専属の神官として、そこを終の住処としてその一軒家を出て行く者も少なくないが、新人の能力者も大分少なくなって来てはいるが、毎年数人は入って来るので…空き家や増築も最近は殆どなく…
そんな場所での平穏な生活に良くも悪くも慣れてしまっているゼリスは、夜分の呼び鈴にもまた先輩能力者が料理の調味料や材料がないので貸してくれとか…そんな用事だろうと、何も考えずにドアを開けた。
「…えっ…?」
「こんばんは、久しぶりね…」
笑顔でそこに立っていたのは…とても意外な人物で…
「あ…こ、こんばんは…」
ゼリスが驚きのあまりにまじまじと見てしまった、その美しい女性は…
満面の笑みを浮かべて、彼女もゼリスを見ていたが…
「……」
その瞳の色は一瞬、微妙に変化した…
「あら、やっと会えたわ…久しぶり。」
夕食後…
他の警備員達には申し訳ないと思いつつ…何日振りかで自室に戻れて少し気が緩んだのか、ヨハには珍しく早い段階で眠気を覚えたところでノックの音が…
カシルあたりかと出て見ると…そこにはなんとも柔かな表情を浮かべた意外な人物が立っていた…
「あ…ナランさん…本当にお久しぶりです。」
このタイミングでの彼女の訪問の意図がよく分からず…ヨハは最初こそ少し戸惑ったが…
「元気そうで…本当に安心したわ。」
彼女のふくよかな体型と優しげな笑顔は、いつ見てもヨハをリラックスさせる何かがあり…いつの間にやら彼女との再会を自然に喜んでいた。
「あの朝以来ですよね…その節はありがとうございました。ナランさんもお元気そうでなによりです。」
「あの朝…そうね、もう何年経つかしら…?あの時の事も今はこんな風に笑顔で話せるようになったのよね。あ、そうだわ…あなた達は明日にはメクスムに行くとさっきハンサ君から聞いたから…そんなにのんびりと話してられないわね。ゆっくり休まないとだもんね。…実は今ね、先にヒカちゃんに会って少しお説教しようと思ったんだけど…もうぐっすり寝てしまったみたいでね…。」
お説教…?
ナランは腕にかけた小さな紙袋をチラッとヨハに見せて、
「…少し冷めてしまったけど…ホットミルクと手作りクッキーを焼いて持って来たの。…少しいいかな…?」
と言いながら、彼女はヨハの部屋をチラッと見る。
…ナランが差し入れ付きで、あえてヨハの部屋で話したい事…
それは多分…
「あ、どうぞ。殆ど寝るだけの部屋になっていて、もてなせる物は何もないのですが…」
と、ヨハは躊躇なくナランを招き入れた。
「ごめんね…突然に押しかけた側は何も文句なんて言えないわ。食後のデザートと思って、ミルクとクッキーに少しだけ付き合ってちょうだい。」
ヨハが引いた椅子に早速座ったナランは、そう言いながら素早く紙袋からミルクとクッキーをテーブルに並べた。
「自分で言うのもなんだけど、私のクッキーは割と評判が良いのよ。遠慮なく食べてね。」
そう言いながらナランは早速そのクッキーを口にするのだった。
「じゃあ遠慮なく…頂きます。」
…確かに、
自慢するだけの味で…ヨハは夕食後なのに1枚をペロッと食べてしまった。
「…確かに凄く美味しいですね。」
「ふふ…でしょう?…でも多分…ヨハ君は結構疲れているのだと思うわ。以前はお菓子を食べている姿なんて見た事がないくらい…甘い物には興味を示さなかった子だからね…」
クッキーをあっという間に1枚をたいらげたヨハを嬉しそうに見て…ナランは言った。
「まあ…こんな日もたまにはいいでしょう?食後のクッキーがしょっちゅうだと将来は私みたいになってしまうと思うけど…って、クッキーの話を盛り上げてる場合じゃないのよね。」
と言いながらも、ナランは既に3枚目のクッキーに手を伸ばし…
「あのね…君達がここを発った日だったかな…ハンサさんから君達の近況をチラッと聞いたの。まさか…あの子から君の元を離れようとする日が来るなんてね…ビックリしたわ。」
「……」
…やはりか…
この人は以前から僕とヒカの事をとにかく心配してくれていた…
「ヒカは…素直ですからね。僕のいない間に色々な世間話を聞いて…彼女なりにこれからの僕との距離感を一生懸命考えたのだと思います。」
…ヌビラナに着いたらまずはヒカとじっくり話して…どんな答えを聞いても、あの子にとっての最善を優先すると決めてはいる…
だって僕は…
「ヨハ君。あの子はね…」
少し俯いたヨハの隣りにズズッと椅子を近付けて、ナランはヨハを抱き込むように肩をガッと掴む。
「今だから言うけど、あなたがティリに行ってしまって会えなくなった日から…1年近くはほぼ毎晩、あの子はこっそり泣いていたのよ。当時担当だったマリュと私が非番の時は分からないけど…毛布を被って眠りに就くまで…声を忍ばせてはいたけれどね、それらしい気配が毎晩あった事を私達はずっと把握していたの。学びの棟に移る頃にはそんな様子はほぼ無くなってはいたんだけど…あの事件があって間もなく…今度は夜中に急に泣き出すようになって行って…ある時にフッといなくなって白詰草の草原で見つかって…そのすぐ後に体調崩して入院したでしょう?あの辺りからはなぜか夜泣きがピタッと治ったそうよ。」
…ああ…そう言えばそんな事も…
「…そんな事もありましたね…」
ナランはヨハを見てハッとし…
ポケットからティッシュを取り出して彼にそっと渡す…
「…ごめんね…あなたを泣かせるつもりはなかったの…」
彼の肩をポンポンと…ヨハを慰めるように触れながら、ナランは腕をゆっくりと離す…
「…いえ…今更こんな事で泣くなんて…自分も意外で…」
と、ヨハは背中に軽い衝撃を受ける。
「何言ってるの。あなたには大事な思い出でしょう?これからあなたが…命をかけて守りたいと思っている子の話を私はしているのよ。」
ナランはヨハにゲキを飛ばすように背中を少し強めに叩き…
そんな彼女も泣いていた。
「……」
「…思い出せなくたって…あの子にとってもきっとそうよ。だって…それから師弟となって過ごした時間の方が遥かに長くなっているのよ。あなたが必死で紡ぎ直した絆はちゃんと結ばれているわ。2人の様子を見ていれば分かるもの…」
ナランはそう言ってもう片方のポケットからハンカチを出し、軽く自分の目の周りを拭う…
「ねえヨハ君…私があなたと初めて育児棟で2人きりで話した時の事…覚えている…?」
「…なんとなくは…」
「…まあ…私も全部じゃないけど…あの子から心まで離れないでと…ヨハ君に頼んだ事はハッキリと覚えているの。…君がティリから戻って…せっかく長老が作ってくれたあなた達のこの環境を…ヒカちゃんが自ら壊そうとしている事は残念でならないのだけれど…」
「……」
勿論、ヨハもこれからヒカと今後の事は師としてしっかり話そうとは思っている。
彼女が受けていた弱い暗示のエネルギーみたいなモノも壊したし…今度は素の状態のヒカと2人きりで話せるチャンスはまあまあ作れると思う…
けれど…その上でのヒカの意思がもし…自分の望まない方向へ向かうのだとしても、それは仕方のない事なのだ。
そんな彼の葛藤を知ってか知らずか…ナランは彼の方に身体をしっかり向けて居住まいを正し、今度は彼の手前の方の肩に手をやりガシッと掴む。
「でもね、もうあなた達はヒカちゃんの自立試験合格によって師弟関係は解消したようなモノでしょ?君も今の時点では長とか長老へのレールは外されているのなら…見方を変えれば、今は色々なしがらみもない状態で交流出来るチャンスだと思うわ。」
隣りからポジティブな風をガンガン送って来るナランの方を、ヨハはやっと顔を上げて見ると…
「…!」
ナランは満面の笑みでヨハを見ていた。
「い〜いヨハ君…私はあなたがダウンして動けなかった時、お見舞いに行ったのよ〜まぁその時のあなたは眠っていたのだけれど…当時の2人の様子を見る限り、あなたを見るあの子の目は昔のまんま…あなたの側を離れようとしない小さなヒカちゃんのままだったわ。心配そうではあったけど、あなたの為に嬉々として動き回っていた…あなた達はもう望む距離感でいてもいいのよ。とにかく、あの子の上辺の言葉に振り回されて、変に遠慮して後悔しないようにね。…それだけ言いたくて今日は来たのよ。」
そう言い終えるとナランは、スクッと立ち上がり…
「クッキー…ヒカちゃんの分まで焼いたから残っちゃったわね…明日こっそりあの子にもあげて。」
言うだけ言った様子のナランはなんとも満足気で…
「じゃあね。」
軽く手を振って、見かけのふくよかさを感じせない…風のような軽やかさで去って行った。
「……」
久しぶりに見た彼女は相変わらず温かく…快活で颯爽としていて…
意外と可愛かった部屋を出る直前のウィンクが、やけに印象に残ったヨハなのだった。
「あら……?…こんばんは。」
一方、そのナランは研究所を出たところで思いがけない人物に遭遇する…
「あ…こんばんは…あ、あの…その節はご迷惑を…」
その思いがけない人物…タニアにとっても予想外の人との夜遅くの再会に、少しテンパってしまっていた。
なんとか思考を巡らせ、とりあえず当時迷惑をかけてしまった事を謝罪しようとしたのだが…それはナランのキツイ抱擁によって遮られる。
「いいのよ…あの時の事はもう忘れましょう…いえ、謝らなければならないのは私達の方かも知れないわ。あの頃は…何も気付いてあげられなくて本当にごめんね。本当にごめん…」
ナランはタニアを更にキツく抱きしめて…
「でも良かったわ…本当に…本当に…。私とリシワさんはね、あなたがポウフ村に送られて行く朝…ひっそりと見送ったの。…もう…もう…あの時のあなたとは見違えるようよ。タヨハさんに支えられながら頑張ったのね…」
そう言ってやっとタニアを解放した時には、既にナランの顔は涙でしっかり濡れていた。
「いえ…お世話になったのはパパだけでなく、エンデやマリュさんやハンサさんもで…これからは彼等への恩返しの人生になると思います。」
タニアはタニアで…
抱きしめられながら、ナランの言葉通りの気持ちがダイレクトに伝わって来ていたので…彼女も色々な感情が取り留めなく湧き上がって来て、涙を抑える事は不可能な状態となっていた。
何より、ナランやリシワがずっと自分の事を気にかけていた事が嬉しくて…
同時に申し訳ない気持ちもごちゃ混ぜになり…タニアの涙腺も崩壊状態になってしまっていた。
「いいのよ…恩返しなんてもう…だってあなたは…これから命に関わるような危険な場所に…あの子達の為に行くのでしょう?…あなたはもう英雄よ。」
ナランはそう言いながら、タニアの涙を何度も何度も指で拭う…
「そんな大層なモノでは…」
言いかけたタニアをナランは再び抱きしめる…
「タニアちゃん…英雄っていうのは、生還して完璧な英雄になるの。必ず無事に帰って来るのよ…」
「はい…皆んなで必ず…」
「…そうよ…あんなに…あなたと暮らす事を楽しみにしていたタヨハさんを…もう泣かせてはダメなのよ。…分かった?」
「……」
タヨハの名を出されたタニアはもう…返事を返す事も出来なくなっていた。
2週間もしたら、きっとここも大騒ぎになっているのだろう…
怖い…
でもなんとしても皆んな無事に帰るの。
ああパパ…エンデ…会いたいよ…
絶対に私達は生きて帰るからね。
…待っていて。
昼間、女神に見せられた彼の星の近未来の光景に、誰にも言えず一人打ちのめされていたが…
今のこのナランの力強い抱擁と励ましは、
「…ありがとうございます…」
タニアを大いに勇気付け、
そのまましばらく…タニアは何も言えずナランに縋り付いてしまっていたのだった…




