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36 丘の上のエンデと目覚める力達


「…あの…ねえ、おじさん…」


少し前にヨハとヒカが倒れたという情報はポウフ村の…タヨハ達ミアハ系の一部の人間に伝わり…衝撃が走った。


かなりショックを受けていたタヨハを心配して尋ねて来たハンサが、しばし人払いをした状態の神殿内で何やら真剣な話し合いをした後、1人先に神殿から出て来た所をタニアが素早く近寄り、彼の腕を引っ張ったのだ。


不意に呼び止めた人物がちょっと意外で…一瞬動きの止まったハンサを、タニアは人気のない方へ強引に連れて行く…


「ち、ちょっとタニアちゃん、僕を襲う気?パパとエンデ君が悲しむよ。」


戸惑う中、思わずハンサが冗談を言うと…


「あ…ごめん…」


ハッとして手を離し、タニアはポロポロと涙を溢す…


「え?…なに…どうしたの?ヨハ君達はとりあえず命に別状はないって聞いたろう?…タヨハさんの様子もかなり落ち着いて来たってエンデ君から聞いたけど…?」


そう…


月の下で3人で歌ってから、エンデとタニアの2人はあらゆる場所や時間帯に、様々な手法でエンデの歌をタヨハに聞かせ続けた。


深夜にうなされた時は勿論、先日言っていた流星群の夜にも今度は3人分の椅子を出して、流れ星の下でまた3人で歌ったり…昼間もマリュにも協力してもらい、農作業の休憩の時に子供達とエンデがマリュの弾く小さなアコーディオンに合わせて歌を合唱して何気にタヨハに聞かせてたり…様々なシチュエーションになるべく自然な形で歌を取り入れて、エンデの歌声によるタヨハのトラウマ治療を試みて来たのだ。


努力の甲斐あって、この作戦は大いに効果を示し…今ではタヨハは全くうなされない夜も徐々に増えて来ている。


更にこの作戦はタヨハだけでなく、エンデの歌を聞いたポウフ村の人々にも良い影響が出ているようで…夜は良く眠れるようになったとか、周囲の人との口喧嘩が減ったとか…そういう事が結果的に様々な作業の効率の上昇にも結び付いているようだとの報告も増えて来ているのだ。


…確かにタニアとエンデで色々と計画した[あらゆる時と場所で、タヨハになるべく自然な状況で歌声を聞いてもらう作戦]は成功を収めつつあり、タニアもホッと一安心の状態になりつつあるのだが…


「…もしかしたら…おじさんはエンデから何か聞いているかも知れないけど…今、私が見えている事をおじさんに話すわ。」


と言って、タニアは袖で涙を雑に拭い、更に人目の付かない方へ移動してその辺りにある切り株に座り、ハンサにも座るように促す。


「…多分、この話はまだパパには聞かれたくないの…あのね…」


今現在、エンデとの間で起きている問題をざっとハンサに話す。


「…なるほどね…どおりで最近はあまり神殿近辺でエンデ君を見かけないと思った…でも彼は夜はタヨハさんの為にまた神殿に泊まっているって聞いたけど?」


「…彼は…深夜日付けが変わるまでの間にパパに変化が無ければ出て行ってしまうわ…最近なんて夕方までには夜のパパの様子がしっかり見通せるみたいで…パパがそれだけ安定して来て悪夢も見なくなって来たからだと思うけど…夕食の後、3人で近くを童謡とか歌を唄いながら散歩して…神殿へ戻るとエンデは寝る前にいつのまにかどこかへ行ってしまうの。…少しづつ…私を避ける時間が長くなって来ている感じなの…」


…せっかく元気になったと思ったら、君はまたそんな泣きそうな顔して…


でもそれは…


ハンサは正直、ちょっと寂しかった。


…僕に娘がいたらきっと…今みたいな複雑な気持ちになるんだろな…


気が付くとハンサはタニアの頭を撫でていた。


「…なんだか昔を思い出すな…あの頃のタニアちゃんも凄く辛そうだった。けどさ…タニアちゃん、君は今はとても美しいだけじゃなく、人の痛みの分かる逞しい女性になって来ていると思うよ。もうわけの分からない声に怯えて周囲に心を閉ざしていた可哀想な少女じゃない。一度落ち着いた状況で冷静にエンデ君としっかり話してごらん。まだ悲観する状況でもないように思うけどなぁ…」


「……」


…確かに、おじさんの視点で考えたら…そう提案されるのも自然と思う。


…だけど私とエンデは…視点の範囲が普通じゃない…


多分、私も…こんな能力が無かったら…


悲しいと思いながらも、いずれポウフ村を去って行くエンデを…涙を飲んで送り出せたのかも知れない…


幼い頃は知りたくもなかった大人のネガティブな心の声…


今は…知らなければ通り過ぎて行けた…エンデの切ない感情…


知らなければ…苦しまないで済んだのに…


こんな力さえ無ければ…


エンデの事で眠れない夜を何日も過ごす事はなかったかも知れない…


でもね…エンデ、私はもう聞いちゃったの。


おじさんの言うように、ただ悲観して泣きじゃくるばかりの少女ではなくなったのよ。


タニアは覚悟を決めてハンサにある事を懇願する。


「おじさん、こんな事…おじさんにしか頼めない…。私決めたの。」


タニアは先程から左手に抱えていたモノをハンサに手渡す。


「…これを…長老に渡して頂きたいのです。私の…今の気持ちと…あるお願いが書いてある手紙です。私は罪人で…これが許される事なのか分からないけれど…ハンサさんにしか託せないと思いました。」


ハンサ自身もタニアがずっと左手に抱えているモノはおそらく自分に渡すモノだろうとは思っていたが…戸惑いつつも努めて冷静になってタニアに尋ねる。


「…この手紙を長老に渡す事と、エンデ君の件は何か関係があるの?」


「間接的ですが、あります。…私はちょっとやりたい事が出来て…少しだけここを離れるつもりでいるので、その間はエンデにパパを見ていて欲しいのです。」


「え?…タニアちゃんがポウフ村を離れるの?なんで…」


これにはさすがのハンサも面食らう…


「…手紙に理由は全て書いてあります。…私も…エンデ程じゃないけど未来の流れは少し見えるんです。カリナさんは今も時々私の様子を伺っていて…いずれここにやって来ます。それまでにやっておきたい事があるのです。」


「…タニアちゃん…」


ハンサは…なんとも言えない気持ちになっていた…


本当の記憶と力を取り戻し、落ち着く間もなくタヨハさんの問題に心を痛め…その間はまだ2ヶ月も経っていないのに…君なりに本当に…色々悩み、考えていたんだね…


「……」


それにしても…


タヨハさんからの揺るがぬ愛に支えられた君はなんとも…頼もしくさえ見える。


ハンサは託された手紙を抱き、片方の手で再びタニアの頭を撫でる。


「…分かったよ。じゃあこれは必ず長老に渡すね。」


タニアは嬉しそうにハンサを見る…


「ありがとう…おじさん………でもね。」


と言ってタニアはハンサの撫でる手に自分の手を置いて彼の手の動きを止める。


「私はもう子供じゃないから…頭を撫でられるのは…複雑よ…」


だがハンサは全く動じずにニコニコしている…


「いや…僕にとってタニアちゃんは娘…いや…それを言ったらタヨハさんに睨まれそうだから……まあティリやレノ的にいったら、君は姪っ子のような存在なんだ。」


「姪っ子?…って?」


「…そうだな…あ、ヨハ君がその内結婚して、赤ちゃんが産まれた時を想像してみて。僕から見たらタニアちゃんはその赤ちゃんみたいな存在なんだ。」


「赤ちゃん…?あの子…結婚出来るの?」


タニアにとってはヨハを例に挙げられても…やはりちんぷんかんぷんだった。


「ハハ…そうだね…例えがイマイチだったかな…?でもセレスのどのような立場の人間でも結婚を制限する気はないと長老が仰っておられるのだから、ヨハ君だって制限される理由はないよ。」


「……」


う〜ん…


いずれにしても、彼を例に挙げられるのは…う〜ん…


実際、タニアはヨハと仲良くした記憶はない。


おじさんはやはり例えが下手くそと思うタニアだった。


「お〜い…タニアぁ……おかしいな…どこへ行っちゃったんだ?」


不意に遠くでタニアを呼ぶタヨハの声がした。


「タヨハさんが心配するから…タニアちゃんはもう行った方がいい。僕も…タニアちゃんを独り占めしてる現場を見られたら睨まれるから、このままひっそり帰るね。じゃあ…」


「……」


…どうもハンサは、かつて彼に嫉妬しまくっていた時のタヨハの印象が…トラウマレベルで今も強いらしい…


でも…


なんだかんだでずっと自分を気にかけ…それでいて何事も無かったかの様に変わらず接してくれるハンサが、タニアはとても有り難かった…


…かつてカリナがハンサに似た人を悪用した事とか…彼は一生知る必要はないとタニアは思っている。


タニアにとって初恋の人…


だけど今なら分かる。


ハンサの中にはずっとずっと大切に想う人がいるけれど…彼はその人との結婚は…とうの昔に諦めていた。


その大切な人にとっても…ハンサは今も大切な人で…


…おそらく2人は…その出口の見えない恋心を墓場まで持って行くつもりなのだろう…


彼女は…彼には結婚相手を探して家族を作る事は諦めてないように振る舞っているけど…


本音は…そんな気はさらさら無いのだ。


見えてしまうと…2人のお互いを思う気持ちはなんとも切なくて…


なんとかハッピーエンドになる未来を応援してしまいたくなるタニアだった。


何の抵抗もなく…今のタニアはそう願う。


…タニアは多分…


本当の記憶を取り戻す前から…ほろ苦い初恋の痛みは手離せていた。


パパとエンデの…自分を優しく受け入れ支えてくれた日々が…気が付けば過去の悲しみを全て溶かし…流し去ってくれていたのだ。


そして気が付けば…


記憶の復活は、カリナと過ごした日々の記憶も鮮明に甦らせ…こっそりセヨルディを抜け出し、テイホで能力強化した時のやり取りも全て思い出して…


カリナと似たような能力の強化と力のコントロール訓練の記憶に…タニアの身体はすぐに反応し目覚めたのだった。


…ただの片想いって思わせてくれていたなら…こんなに悩まなかったのになぁ…


初めて3人で月を見ながら歌を唄った夜…色々と見えてしまった…


彼は…「丘の上で」という映画の中の歌が好きなようで…その作品の主人公に自分の人生を重ねて見てしまっているのだ。



その物語は…


近所の幼馴染だった少年ユールと少女ヴィレアは仲良しで、いつも丘の上の草原で遊んでいた。


だがある時、彼等の国が戦争に巻き込まれると、軍人であるユールの父は程なくして出兵し、それから間もなくヴィレアの家族は遠い町に引っ越す事になってしまった。


もう会えなくなる事を2人は悲しむが、5年後に例の丘の上で会う約束をして別れる。


そして自国の敗戦濃厚な噂が囁かれ始めた頃、いよいよ一般の若者にも出兵の命令が下され始め…とうとうユールも戦場へ…


やがて国民を混乱に陥れた戦争もようやく敗戦国の立場で終結したのだが…


5年後に、ヴィレアは約束を守って丘の上に行く…


しかしユールは現れなかった。


日もとっぷりと暮れ、ガッカリしながら丘を下って行くヴィレア…


だが…実はユールも丘に来ていて、ずっと物陰からヴィレアを見ていたのだった…


ユールは戦場の爆風に飛ばされて負傷する。


幸い命に別状はなかったが目を痛め、かなり弱視になって終戦を迎えた。


命辛々なんとか帰国は出来たが、視力は殆ど戻らず…彼はその後も日々失明の恐怖に日々怯えていた。


まだ戦争の傷痕も色濃く残る中で、こんな状態で無理にヴィレアに会っても辛いだけと…ユールは美しく成長した彼女の姿をボヤける視界にギリギリ焼き付けて、ヴィレアの元から完全に消える事を決意したのだった。


やがて…徐々に戦争の気配が薄れて行く中…


戦死した父と、過労で父の後を追うように母も亡くなってしまったタイミングで、ユールは住んでいた母の実家近くの地を引き払った。


その後、完全に祖国を離れたユールは、思いがけずある仕事でそこそこの成功を収めていた。


新たに住み始めた地域で、たまたまその地域のあるイベントのテーマ曲を一般から募集している事を知り、昔から音楽が好きだった彼は、職人に特別に誂えてもらった分厚いレンズの特製メガネで、連日譜面と睨めっこしながら作り上げた作品を応募したところ、それが見事選出され、それを機に作曲の仕事の依頼が徐々に増えて行き…生活にも少し余裕が出来ていた。


そんなある日、彼は久しぶりに故郷の空気を吸いたくなり…帰国して懐かしい駅に降り立つ。


記憶を頼りにかつて暮らしていた地域に向かおうと、バス停に向かう途中で何やら沢山の人々の騒めく声に気付く。


なんとなく気になって、通りすがりの人に騒がしい集団の方向を指さしながら尋ねると…その騒めきの元は結婚式と分かった。


ユールはなんだか胸騒ぎがして、人混みの近くまで行って人々の話し声に耳を傾けると…その式の新婦はなんと…ヴィレアだった。


その騒めきの中で「ヴィレアは素敵な男性に見初められて羨ましい…」という、ヴィレアの友人らしき若い女性の声が聞こえて来る…


ユールは耐えきれずにその場から急いで離れた…


トボトボとあてもなく歩いている内に、あの思い出の丘に登りたくなっていた。


周辺の風景はすっかり様変わりしていたが、よく通った場所な事もあって、ユールはなんとか丘の上に辿り着く。


頂上から少し外れた木の下に座り…なんとなく即興で歌を口ずさむ…



愛しい人よ…


思い出は全て宝物…


それは大切に胸の中…


後悔は丘の上に置いて行くね


どうか君は光の中…


ずっと幸せで笑っていて…


愛しい愛しい宝物…



即興の歌を幾度か口ずさんでいる内に、いつの間にか涙が溢れてしまっていたが…


ユールは人目も気にならず、名残惜しそうにまた歌い始めていた…


「これ、どうぞ。」


「?!」


不意に手のひらの上に何かが乗せられた感覚と共に少女の声がして、ユールはハッとして声の方を見る。


逆光でユールには殆ど影の形しか見えなかったが…その影はユールを心配そうに覗き込んでいるようだった。


「おじさん…とても悲しそうに唄っていたから…良かったら使って下さい。」


置かれたモノを掴んでギリギリの視力で見ると…それはどうやらポケットティッシュのようだった…


「あ…ありがとう…」


ユールは戸惑い、人目を気にせず唄っていた自分の姿が急に恥ずかしくなって来て、慌てて立ち上がるが…


少しパニックの中で身体を動かした為に、ユールはよろけてしまう…


と、転ぶ直前で誰かがユールの肩を支えた。


「…あ、すみません…」


ユールが咄嗟にお礼を言うと、


「いえ私こそ…ごめんなさい。おじさんの邪魔をする気はなかったの…」


ユールを支えてくれたのは先程の少女だったようで…彼女はすまなそうに謝った。


「いや…気にしないで。君のお陰で転ばずに済んだよ。ありがとう…じゃ…」


ユールは気恥ずかしさで直ぐにでもその場を去りたかったが…少女を気遣い、努めて意識して自然な動作でゆっくり歩き出した。


「……」


少女の反応は無かったが…


まだ自分の方を見ている気がして…


ユールは徐々に歩調を早めて行った。


少し遠ざかったかな?と、気を緩めた時…


「今は私が…おじさんの幸せを祈りますね〜!どうかお元気で。」


「……」


またしても、少女の不意打ちに驚くユールだった…


「………」


あの歌の歌詞に反応して、少女は自分を励ましてくれたのだと気付き…何かを言葉にしたら涙声になってしまいそうで…


彼は振り返る事も出来ず…


でもやはり涙が再び溢れて来ていた。


そうだね…


悲しそうに幸せを祈られてもヴィレアは嬉しくはないだろう…


僕も頑張って生きて行く。


ユールは丘を背にして歩きながら、あの丘で…かつてたくさんの思い出をくれたヴィレアと、ついさっき自分の為に祈ってくれた少女に、心の中では目一杯、笑顔で手を振っていた…


少ししてエンドマークが出て、丘の上でユールが唄っていた曲が流れ出す…




それは、セジカが貸してくれた小説が映画の元ネタだった。


メクスムで少し流行って…映画化もされたそうで…


主人公のユールが丘の上で歌い出す曲は、メクスムの都市部では少し流行ったらしい。


セジカの話だと、少し前にエンデがその映画をユントーグまで観に行く予定でいる事をセジカにポロッと漏らしてしまって…結局、セジカやサハ、更にイードの4人で映画に行く羽目になり…


その後、たまたまセジカがその歌を口ずさんでいた所をタニアが居合わせた事で色々な映像が見えてしまい…


後にタニアはメクスムの言葉を勉強する名目でセジカから原作の小説を借りたのだった。


メクスムの言語はセレスの学びの棟ではそこそこ勉強していたし、カリナも仲良しだった頃は色々と教えてくれたので、タニアはほぼ問題なくその小説は読めてしまった…


内容は割とシンプルな…戦争に翻弄された若者の悲恋のストーリーで、タニア的にはあまり心には刺さらなかった小説だが…


これは実話を元に書かれたモノで、完全なフィクションではないらしく…それで映画化まで進展した作品らしい。


実話の方は戦争で男性は戦死し、それを知らないまま待ち合わせの場所へ行った女性は、その後も何度も2人で遊んだ思い出の地の森に通い…


彼女の姿は地元では名物になり始めていた矢先…女性は交通事故で亡くなってしまったのだった。


その話は当初ニュースにもなり…


悲劇的な実話をマイルドにして書かれた悲恋の小説は、若かりし頃の戦争体験と重ねたメクスムの高齢者層に受けたらしい…


そして…


なぜ、戦争を経験したメクスムの民でもないエンデがあの作品に強く執着したか…?


その理由をタニアは既に分かってしまっている。


私は…あの作品は嫌い…


エンデをあの映画の主人公にさせる気はないわ。



「うん。おじさんも気を付けてね…今日はどうもありがとう。」


タニアは目の前のハンサにそう言って微笑み、タヨハの声のする方へ……


一度も振り向く事なく、走って行った。



 



やったぁ!わーい♪…成功だぁ。」


突然、早朝の瞑想の神殿の広場に少年の歓喜の叫び声が響き渡り、瞑想をしていた長老は驚いて声のする方を見る。


…誰も入って来る気配はなかった…


そもそもこの時間帯は、例外もあるが自分と長以外はここには誰も入っては来れない…筈なのだ…


「…あれ?…ここ…どこ…?」


「…やはり君だったか…リンナのイタズラかな?」


瞑想の間のエルオの女神の像の直ぐ前で、20cmに満たない丈の若木が植えられた植木鉢を両手で抱えながら立ち尽くすトウを見つけ、苦笑しながら長老は彼に近付いて行く…


「え…長老…様…という事は…?」


長老の姿を捉えたトウの表情がみるみる強張って行く…


「…リンナが女神に早く知らせたい事が起きたのかな?…トウ、なんにせよここは土足で立ってはいけない場所だ。とりあえず、靴を脱いで植木鉢と靴を通路の方に置こうか…」


「は、はい!す、すみません。」


トウは慌てて履いていた靴を脱ぎ、通路に向かい靴と植木鉢を置く。


「慌てなくていいよ…トウが悪い訳じゃない事は分かっているから…」


そう言ってゆっくりと立ち上がり、長老はトウのいる方へ歩いて行く…


「さっき成功〜って嬉しそうに君が言っていたのは、この若木の事かい?」


植木鉢に植えられている若い木の枝を気にしている様子のトウの背後から、長老はその植木を一緒に見ながら話しかける。


「え?、あ、えと、あの…そうなんです。この植木鉢の中の土はポウフ村の…今、皆さんが開墾している場所の土ではなく、元々エンデさんが生活していた雑木林の近くの土をレノに持ち込んで、ブルーベリーの苗の発育状況を見ていたモノの一つなんです。レノの地では植物の発育に大きく影響する問題の酵素の世界的な減少に伴って、その酵素に匹敵する力を秘めた他の種類の酵素を、リンナのアドバイスに従って色々と研究していて…ここの研究所のテイスさんが作ってくれた繊細な温度や湿度管理の出来る温室の中で、ミアハ以外の他の地域の土で、皆んなで作った代替酵素だけ入れて、初めてここまで成長した若木なんです。」


長老の質問に緊張しながらも、トウは屈んで若木の枝に僅かに散見される新芽らしき膨らみを嬉しそうに撫でながら、長老に説明をする。


「ほう…それは…いわゆる問題の酵素の代替物が見つかったという事でいいのかな?」


「…だと良いのですが…テイスさんの作ってくれた繊細な機器と、おそらくリンナの力と…レノの能力者の方々の力もあって、ここまで育ってくれた…というのが現実です。今のところ…」


トウは少し悔しそうな顔をする。


「…でも、このパターンの実験は15個の植木鉢で試みて、10本の若木が順調に育っています。他にの酵素の品種改良も色々同時進行で頑張っているので…集められたスタッフの皆さんも様々な案を出してくれるので、可能性の希望は色々な方向へ広がりつつあります。」


「…そうか……楽しみだな。」


長老はトウのすぐ隣まで来て、同じ視点で見える角度まで屈み込み、笑いかける。


「はい。…希望は多いほど良いですよね。焦らず…でも急いで頑張ります。」


トウの目は喜びで輝いていた。


「…思いがけず、朝一番で嬉しいニュースを聞けて良かったよ。これからも君達に期待しているよ。」


長老はトウの頭をポンポンと撫でて立ち上がり…


「…そう言えば、君がここに瞬間移動して来たという事は…リンナも一緒なのだろう?あの子はどこに…」


と言いながらキョロキョロする。


「あ、あの…」


長老に頭をポンポンされて恐縮してしまったトウは…再びしどろもどろになりながら、長老に合わせて立ち上がり…頭上高くを指差す…


「…リンナも…土足の僕をここに連れて来て女神様に注意されたみたいで…」


長老が頭上高くを仰ぎ見ると…リンナは羽ばたきながら、済まなそうに長老に向かって「ごめん」と言っているように手を合わせて頭を下げていた。


「ハハ…リンナは反省中か…まあでも…私やハンサや…テイスに早く知らせたいっていう君の気持ちが聞こえて、良かれと思ってやってしまった事なんだろう…」


長老がそう言うと、リンナは変わらず同じ位置で羽ばたきながら、嬉しそうにウンウンと頷いた。


「…リンナの気持ちは有り難いけどね…ここは女神の胎内のような場で、ミアハの聖域中の聖域だから、また女神に嗜められぬよう…ここのマナーはしっかり守ってくれ。トウもまた私に叱られてしまうかもしれないからな…」


長老がそう言うと、リンナは恥ずかしそうに両手で顔を覆い、更に高い所に飛んで行ってしまった。


「う〜ん…高すぎて見えない…言い過ぎたかな?ごめんごめん…怒ってる訳じゃないから…戻っておいで。これからもトウをよろしくな〜」


と、長老は慌てて声をかけて、どこにいるか見えないリンナに向かって手を振る。


「あはは…大丈夫です。リンナは都合が悪くなると何処かへ行ってしまう事は割とあります。でも、すぐに戻って来ますから…」


トウがそう言ってる間に、いつの間にかリンナはトウの頭の上に胡座をかいていた。


「あれ、いた。本当だね…」


リンナは頭の上で何事もなかったかのようにニコニコしていた。


「です…」


トウは苦笑した…


「…まあ…君達も仲良しなようで何よりだ。…そろそろハンサがやって来る頃だから、出口に向かって歩いて行ってごらん。テイスにも知らせたかったんだろ?ハンサに頼めば彼の所へ連れて行ってくれるだろう…」


トウはハッと我に返り、


「あ…長老は瞑想中だったみたいですよね…お邪魔してすみませんでした。」


畏まって、改めて謝罪をする。


「いや、いいんだよ。希望を感じるニュースが聞けて嬉しかったよ。君のような子がヒカの兄で良かったと心から思っている。これからもよろしく頼むね。…さあ、もう行きなさい。これから来場者…特に能力者が入って来ると色々と面倒だから…」


と言って、長老はさっさと元の瞑想していた位置に戻る。


「はい。…お言葉をありがとうございます。お邪魔しました。」


トウは長老の後ろ姿に丁寧に一礼をすると、植木鉢を抱えて軽快に出口を目指した。


「……」


遠ざかるトウの足音を聞きながら…


…あの子に…いや、あの家族に…ヒカ達のヌビラナ派遣の件をそろそろ話さなければならないと思いながら…今に至るな…


タヨハにも…ハンサやエンデには一応口止めはしてあるが…彼等のさりげない言動で既に何かを察しているかも知れないが…ヌビラナ派遣の件はそろそろ彼には伝えなければなるまい…


感情移入をしてしまいがちなその2つの家族の事を考えると…幾度となく溜め息の出てしまう長老なのだった…















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