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35 未来を見つめる名前


「あら、あなた…もしかしてイトリアさんかしらぁ?お手紙どうもありがとうねぇ…」


不意にフロアのエレベーターの扉が開き、トバルと一緒に少しお腹の大きな綺麗な女性が出て来て、たまたま廊下にいたイトリアを見るなり挨拶をして来たのだった。


「えと…あの…こんにちは…」


見た感じウェスラーの部下ではなさそうな…


見慣れない人がこのフロアにやって来たところを見るのはイトリア的には初めてだったので…かなり面食らってしどろもどろな挨拶になってしまったが…


…どこかで見覚えのある女性だな…と記憶を辿ろうとしたイトリアに、


「ご、ごめんな…騒がせてしまって…。こいつは息子の嫁なんだ。ちょっとボスと約束があるんで失礼するな…」


「あら、お義父さん…イトリアさんなら一緒に居てもらってもいいんじゃなぁい?だってあの人…」


「いいから。話をややこしくするんじゃない。ボスを待たせてるんだから…ほら、行くぞ。」


「ああもうお義父さん…そんなに引っ張らないで下さいよぅ…」


ちょっと風変わりなその女性は、呆気に取られているイトリアを気に掛けながら…トバルに腕を掴まれて引っ張られるようにウェスラーの部屋へ入って行った…


「……」


トバルさんとこのお嫁さん…という事は…?


「あ、歌劇の人か…」


今の女性が誰だかやっと分かったイトリアだったが…


う〜ん綺麗な人だけど、舞台とは別人みたいで…化粧や衣装で随分変わるのね…


…でも……


なんとなく…イトリアは嫌な予感がしていた。


どうかデュンレと何か揉めてるとかじゃありませんように…


と、イトリアは無意識に祈りながら…途中だったフロアの廊下の掃除当番の続きを再開するのだった。




「待て、ジョアナ。」


「私の伝えたい事は全部言ったから…もう帰るわよぅ…」


廊下の掃除を終えたイトリアは、かつてエンデのいた部屋でやっと届いた編入先の教科書で予習をしていたが…


どうしても父の部屋の様子が気になって、彼の部屋の前に立つ警備の人達に中の人数を確認し、給湯室でお茶の用意をしていたところ…


デュンレのやや大きな声と共に急に廊下が騒がしくなって来た為…


「……」


はしたないとは思いながらも、デュンレが妹を呼び止めている様子がどうにも気になって、廊下に少し顔だけ出してしまっていた。


と、


「あらぁ…イトリアちゃんでしょぉ?」


顔を出してすぐにジョアナと目が合ってしまって…


咄嗟に頭を引っ込めたイトリアだったが…


…デュンレは呼び止めていたし…


ジョアナに気付かれてしまったイトリアは、慌ててティーセットとお菓子を専用のワゴンに乗せて、急いで父の部屋に向かおうとした。


だが、それより早くジョアナはイトリアのいる給湯室に来ていた。


「ここには給湯室もあるのねぇ…あら、素敵なティーカップ…」


「あ、あの…これからお茶をお持ちしようとしていたんです。よかったら…」


「あ、ごめんなさいねぇ。私は用事が済んでしまったからぁ…ウェスラー様には私の大のお気に入りのお菓子を召し上がって頂きたくて今日お持ちしたので…皆さんでこちらのお茶と一緒に召し上がってぇ…それじゃ」


と、急にジョアナの背後からデュンレも顔を出す。


「ジョアナ…話はまだ途中だろ?あ、イトリアさん…すみませんが、それをウェスラー様の部屋まで…」


ジョアナの腕を掴んでイトリアにワゴンの移動を頼むデュンレだったが…


「だから、私の今日の用事は済んだのよぅ……あ、そうだイトリアちゃん…」


デュンレの腕を振り解きながら、ジョアナは何か思いついたようで…嬉々としてイトリアに向き直り、


「あなたは聞いているかしらぁ?この人…兄さんは今月いっぱいで秘書を辞めてここを引き払うんですって。ウェスラー様からせっかくここまで引き上げてもらった身で…こんな恩知らずな人…信じられるぅ?イトリアちゃんはどう思う?あなたの感想をこの人に伝えてあげてくれないかなぁ。」


と、ここまで言って、ジョアナはみるみる顔が青ざめて行くイトリアの反応を見ながら[ほらね]という顔をして、今度はデュンレに向き直り…


「イトリアちゃんときちんと話してからなら、兄さんともう一度話してもいいわよぅ。でも今日は帰るわ…じゃね。」


とだけ言って、


「…この人は関係ないだろう…」


かろうじて言いながらもイトリアの反応に気を取られているデュンレを見計らって、ジョアナはスルッと兄を擦り抜けてスタスタとエレベーターに向かい…距離を置いて様子を見ていたトバルと共に、エレベーターに乗り込んでしまった…


「…なんで…?」


給湯室に2人取り残され…血の気の引いた顔色のイトリアがやっと発した問いかけの言葉だったが…


「…ウェスラー様には事情は既にお話ししてあります。あくまで私事ですので、あなたに話すべき事ではありません。申し訳ありません…」


デュンレは顔色を変える事なく、イトリアに答えた。


そんなデュンレを見上げながら、茫然自失の表情で彼の言葉を受け止めるイトリアの目には、涙がみるみる溜まって行く…


「…そう…」


それ以上返す言葉は見つからず…イトリアはデュンレの脇をすり抜けて、小走りで自室に戻って行った。


「……」


デュンレは少しの間、後ろを振り向けなかったが…一呼吸して、一旦ウェスラーの部屋へ戻ろうと振り向くと、背後にはウェスラーが立っていた。


「君の話はとりあえず聞いたが、私はまだ受け入れた訳ではないぞ。ジョアナさんの気持ちも理解出来る。君がここから去れば私や妹さんが幸せになれるとでも考えているなら、君は思い違いをしてる。繰り返すようだが、ジョアナさんともう一度じっくり話した方がいいと思う。とりあえず、今日の話し合いはこれで終了だ。」


ウェスラーもまた、デュンレと同じように感情の見えない表情ではあったが…困惑している雰囲気はじわじわとデュンレに伝わって来ていた。


「……」


デュンレは何も答える事が出来ず、自室へ戻って行くウェスラーの後ろ姿にゆっくりと…深く黙礼をした。



そして深夜…


10時過ぎて…余程の用事でない限り、フロアのスタッフ同士でもそろそろお互いの部屋の行き来を控える時間帯に、ウェスラーの部屋で不意に入室希望する者の存在を示すランプが、ドアの横でチカチカと光った。


眠っていたり、会う気が無ければスルーしてしまう事もままあるのだが…


今夜はなんとなく心当たりがあり…


「…誰だ。」


と、テーブルの脇に装着してある機器のボタンを押して尋ねる。


「イトリア様です。」


すぐに警備員から予想通りの言葉が返って来た。


「分かった…」


というウェスラーの返答と同時にドアが開く…


「こんな遅い時間にごめんなさい…」


まだ就寝の準備は全くしていない様子のいで立ちで…泣き腫らしたのがソファに座るウェスラーの位置からでも一目で分かるような目をして、イトリアが心許なげに近付いて来る…


「…来ると思っていたよ。まあ、そこに座りなさい。」


微かに頷くような仕草をして、イトリアはウェスラーの正面に腰を下ろす…


「…デュンレの事だね?」


イトリアは今度は深く頷く。


「…私も彼から辞意を聞いたのは3日前でね。…何か物思いに耽るような様子を時々見かけていたので気にはしていたが…君も彼からある程度聞いているのではないかと思うが…彼の家族は本当に色々とあってね…」


深い皺を寄せた眉間に指を当てて辛そうな表情を浮かべる父もまた、デュンレが去る事の痛手を感じているのだと察し…改めて悲しみが込み上げて来たイトリアだったが…


今はグッとその感情を押し込めて、


「パパ…デュンレがなぜそう決断したのか…私には何も話してはくれないの。言える範囲で構わないから…彼は何を悩んで、今、何を望んでいるのかを教えて下さい。その上で、私なりに考えたいの。私はデュンレのお陰で外の世界に目を向けられるきっかけをもらったと思う。その彼が遠くに行ってしまう事はショックだけど…彼が心から望む事なら受け入れるしかないと思っています。でも、何も事情を知らないままで彼を見送る事はしたくないの。昼間のジョアナさんの様子もとても気になったし…今は最低限の事情が知りたい。お願いします。絶対に口外はしませんから、教えて下さい。」


イトリアは、ソファから降りてウェスラーに向い跪く…


「イトリア……」


目の前のイトリアの姿に困惑するも…ウェスラーは複雑な表情で頷いた。


「君は…私の知らない間に色々な事を感じ…悩んで…少しずつ成長しているんだね。…とにかく、顔を上げて元に戻りなさい。」


そう言うとウェスラーは、ソファに戻ったイトリアに少し長い話を始めたのだった。





そして更に2日後…


イトリアの元にジョアナから、やはり少し長めの手紙が届き…イトリアはある事を心に決めた…





更に7日後…


「え…?」


ウェスラーと彼の自室で翌日の地方の農地視察の移動手段を確認中、デュンレはウェスラーからある報告を唐突に受けて固まる…


「…え…っと…それはどういう…」


「言葉のままだよ。一昨日、本人が直接言って来たんだ。申し訳ないが迷いはない、とね…。ああいう言い方をして来たらあいつはもう引かない…まあ、私の娘だしな。」


そう言いながらウェスラーは脇に書類を置いて、深く座り直しながら冷めてしまったカップのコーヒーを啜る…


「そんな呑気に構えてらして…本当によろしいのですか?…あんなに頑張って難関を突破したのに…」


「残念だが…しょうがない。頑固なあいつを止めるのは至難の業だからな…。だが、学校に行かずとも私の側で手伝いをすると言ってくれているから…まあそれが救いだ。誰にもイトリアを止められないなら…せめて妥協点は見出さないとね。なんだ、あいつはまだ君にも言ってなかったか…君には勉強を見てもらっていたからな…言い出し難かったんだろう。すまなかった。」


「…そうでしたか…いえ、私の事はどうかお気になさらず……」


…どうしてそんなにあっさり了承してしまう…?


あの子には今は同世代の子達となるべく関わって欲しいと…あなたは半年前にそう真剣に頼んで来たではないか…


既に完了系のように話すウェスラーに段々と腹立たしさを覚えたデュンレは、


「一応、移動手段の段取りは以上になります。私はこの後、手配先の最終確認を致しますのでこれで…とりあえず失礼致します。」


「そうか…ありがとう。」


今日の分の数種類の新聞をチェックし出したウェスラーは、デュンレを労うとまたすぐに新聞に目を通し始めるのだった。


「……」


多くのモヤモヤを抱えながらデュンレは退室する…


「なあ…デュンレ…」


向かいの自室のドアを開けたところで、背後から自分の名を呼ぶトバルの弱々しい声が…


振り向くと、


「すまない…ちょっといいか?」


と言ってトバルはデュンレの部屋に押し入り、素早くドアを閉めてしまう。


「な、なんなんですか…」


普段は大体深夜に他愛もない世間話をしたくて、ニコニコしながらお酒とつまみを携え強引に入っては来るが…こんな不安気でや弱々しい声で話しかけて来るトバルは見た事がなかった。


「…少し前にな…嬢ちゃんがロワナさんのお墓参りに行きたいって言うから…付き添ったんだ。そしたら…墓地の入り口に見覚えのある車が止まっててな…どうやら、そこで嬢ちゃんと嫁が待ち合わせをしてたみたいでさ。2時間以内に必ず戻るから、2人きりにしてくれって…まあジョアナは…テイホでどんな仕事をしていたかは知ってるだろう?だから、セキュリティの部分は心配せずに置いて来てしまったんだ。だけど、2時間経とうとしていた時にジョアナのイヤーフォーンにかけたら繋がらなくて…急いで墓地に行ってみたけど誰もいなかったんだ。で、行き違いも考えて今戻って来たんだけど…嬢ちゃんは戻ってないんだ。お前…嬢ちゃんと時々出掛けてたから、行き先に心当たりがあるかと思って…」


デュンレの表情がどんどん険しくなって行く…


「彼女のGPSは?外出時はいつも位置情報発信機能をバックに付けてるはずですよ。」


デュンレは慌てて自身のイヤーフォーンを耳から外して、イトリアの位置情報を壁に映し出す…


「……」


その画像ではイトリアは自室にいる事になっている。


デュンレはドアを蹴破らんばかりの勢いで部屋を飛び出し、イトリアの部屋へ向かう…


一度ノックして反応がなかった為、


「イトリアさん、失礼致します。」


と、後を追って来たトバルと共に中へ…


やはりイトリアはおらず…


「おいデュンレ…あれ…」


トバルの指差す方を見ると、机の上にGPSの機器と共にメモ紙が置いてあり…


慌てて駆け寄り、デュンレがそれを手に取ると…



[デュンレへ


今日は戻らないとパパに伝えて。


私がどこに行ったか…あなたなら分かるはず。



イトリア]




と置き手紙のように書いてあった。


まったく…手の焼けるお人だ…


「ボスに一応報告…っておい!」


トバルが話しかけた時は既にデュンレは廊下に飛び出ていた。


そのままエレベーターには向かわず、デュンレは非常階段のある廊下の突き当たりのドアへとダッシュする。ポケットのキーケースを取り出し、階段に出て直ぐにキーを閉じた非常階段出口のドアに差し込んで鍵をかけた。


長い長い非常階段をひたすら駆け降り…2階から直接下のコンクリートの地面に飛び降りて、少し離れた地下駐車場への入り口に回り込み、自身のプライベート用の車を見つけて乗り込んだのだった。


「心当たりは2つ…」


歌劇場はもうジョアナは避けたいだろう…ならば、あそこしかない。


イトリアの行き先をデュンレは確信し、車を急発進させたのだった。



一方…


置き手紙を持って廊下に出たトバルの元にウェスラーや他の警備員達がゾロゾロ集まって来る。


「なんとかここまではイトリアの計画通りだな。後は…あの子だけでなく、あいつの妹さんや私達の思いがどこまで伝わるか…だな。」


「ボス、どうなるか我々と賭けますか?」


ウェスラーの呟きにトバルは呆れた提案をして来る。


「トバル、アンタって人は…自分の息子の結婚がかかっているんでしょう?賭けてる場合ですか。」


テイラは思わずトバルを叱るが…


「テイラ…イトリアが計画したんだ。全て上手く行くに決まってるだろう。」


ウェスラーが得意気に言うと、


「あ、じゃあボスも参加ですね。」


と、トバルはニヤッと笑う。


「トバルったら!」


テイラはかなり呆れ気味だが、


「嬢ちゃんと嫁なら上手くやってくれるに決まっているからな。デュンレの気持ちも分かるが…俺や息子はその問題はとっくの前に乗り越え対策済みだ。今回奴に突きつけた決断に関してはジョアナは本気だ。そもそも息子はやっとプロポーズにウンと言わせたんだよ。やっと纏まったモノをデュンレが間接的にでもこわしたら、奴は今度こそ抜け出せないような後悔にハマる…だから…ここは嬢ちゃんと嫁に踏ん張ってもらわないと。」


「……」


トバルの表情はかなり真剣だったので…テイラはそれ以上、何も言えなかった。





「…やっぱりここか。とりあえず、無事で良かった…」


辺りは少し日が落ちかけていて薄暗くなって来ている中…かつてロワナとイトリアが暮らしていた家の前に見覚えのある車と、明かりが灯っている室内の様子を確認し、デュンレは安堵の息と共に呟いた。


しかしまだちゃんと姿を確認した訳ではないので、車から急いで降りたデュンレは早足で玄関へ辿り着き、ドキドキしながら呼び鈴を押す…


「はぁ〜い…」


という…聞き覚えのある声と共にドアが開く…


「…お前は…ここで一体何をやっているんだ?…トバルさん、かなり心配していたぞ。ウェスラー様の令嬢を誘拐したって思われても仕方ない事をしてる自覚はあるのか?」


「怖っわ…」


やけに冷静なジョアナを見て、デュンレの怒りは更に募る…


「ふざけるのもいい加減に…」


「ジョアナさんを怒らないで。私が頼んだ事なの。」


デュンレが少し声を荒げた途端、ジョアナの後ろでイトリアの声がして…


「イトリアさん…」


ジョアナの肩の辺りから顔を覗かせたイトリアを見て、デュンレはやっと心から安心したのだった。


「なら、貴方もお父上からしっかり叱られるべきです。だがその前に、どうしてこんな事をしたのか…私は聞く権利はあると思います。失礼します。」


緩んだ緊張を悟られまいと、デュンレは努めて冷静に苦言を呈し、ジョアナを押し退けて中に入って行く…


「もちろん。私もあなたに聞いて欲しい事はあるし、聞きたい事もあるわ。どうぞこちらへ…」


イトリアがニッコリ笑って案内したテーブルの上には、既に人数分のティーセットとお茶菓子がしっかり準備されていた…


「……」


「さあ兄さん、イトリアちゃんが催したお茶会をゆっくり楽しみましょうよぉ…あ、多少遅くなっても大丈夫。ちゃんとウェスラー様とお義父さんの了解は得ているからぁ。ね?」


背後からジョアナに肩に手を置かれたデュンレは、イトリア達によってここに誘き寄せられた事を、ここでやっと確信するのだった…




「…イトリアさん、それは具体的な理由にはなっていない。君が真剣に頑張っていたから僕もなるべく時間を作って勉強を教え、応援して来たつもりですよ。…難関校をせっかく合格出来たのに…なんで今になって止めようとするのですか?3日後に登校する予定だったでしょう?」


「…だから、あなたの教え方が私にはとても合っていたのよ。今後もあなたの勉強のサポートがあると思ったから、多少背伸びして選んだ学校でもあんまり不安は無かったの。だけど…私には理由も説明してくれずにいなくなるなんて…想像もしていなかったわ。でも正直、パパを支えて行きたい目標がやっと見つかったから、私は学歴はそれほど必要とは思ってない。私は…表立って娘アピールは絶対にしたくないから、世間に対しては裏方という存在で、出来るだけ娘として前には出る気はないから…学歴は別にいいのよ…」


「…兄さんも多少なりとも把握はしているでしょう?ウェスラー様の評価は今や急上昇中だから…政敵の粗探しはこれからどんどんキツくなって行くのよぅ…。イトリアちゃんは家族を巻き込んだテロ事件に関して偏ったマスコミ報道を間に受けてしまって、結果ウェスラー様を長く悲しませた事を今はちゃんと自覚しているわよぅ。だから、これまでのイトリアちゃんの様子をマスコミが面白おかしく書く事をとても怖がっているのぉ…。私達と、おんなじよぅ…大事な人達を守りたいがゆえの苦悩よぅ。」


「……」


と、


デュンレはここで立ち上がり、ジョアナの元に跪いた。


「ちょ、ちょっと…何のつもりよぅ…」


「ジョアナ…すまなかった。家族がどうなっているかも知らず過ごしていた間にお前は…ずっとあの2人の側にいてくれたんだよな。弱って行く母さんの世話をずっとしていてくれた間もあいつは…お前にスパイ紛いの仕事をさせていたとも聞いている。…多分、それはあのまま家に留まっていたなら、その殆どは俺が背負うはずのモノだっただろう。本当に…申し訳ない…俺は何も守れなかった…」


デュンレはずっと顔を伏せたままだったが…声は次第に辛そうになって行ったのはイトリアも分かった…


「…兄さん…悔やんでも過去は変わらないのよぅ…悔やむ事なら山ほどある私はねぇ…常に未来に目を向けてないと死にたくなって来ちゃうからさ…兄さんも悔やむのは程々にしてねぇ…それに…」


いつも独特の雰囲気で話し行動するジョアナもまた、少し声を振るわせていた…


「あんな父親でも私は…認められたくて、望んで側にいたし、望まれようと不本意な事もした。結果として私は寄り添い方を間違えたと思うけど、それは私の意思だったしエゴでもあったから…それをアンタに背負ってもらうのは違うと思う。ただあの頃は…連絡のしようがなかったから仕方なかったけど、ママは…兄さんを溺愛していたママは…会いたかったと思う。もう大分意識もぼんやりして来て…意思疎通が難しくなっていた頃だったけど、夕方になると…[あの子は今日も仕事が忙しいのかしらね…帰って来たら声ぐらいかけなさいって言っておいて…]って…あいつはその頃には愛人の所には行っても病院になんて殆ど来なかったし…病室では私とママとの2人きりの事が多かったの。日が傾いて来るとママはいつも兄さんの話をしてたのよ。それだけはね…いつかあんたに会えたら伝えなきゃって思ってた…」


「……」


デュンレは体制を少し崩し、無言のまま四つん這い様になった彼の背中は…震えていた。


「でも兄さんは、私や両親の事をそんな風に思っていてくれたのねぇ…ありがとう…」


ジョアナは素早く涙を拭いて立ち上がり、デュンレの側まで行ってすぐ隣に座り込む…


イトリアは…とりあえず、そんな2人のやり取りを黙って見守った。


「…こんな風に兄さんと話せる日が来るなんて…少し前までは思っていなかったわ。私だって思い通りの道に進ませてもらえなくて、ママと同じ道も実力的に無理だったから…自暴自棄になってた時期は随分家族に迷惑かけてたし…なんとなくだけど、私は一生兄さんの前には姿を現してはいけない気もしてた。ライアンからプロポーズされた前後でボスから兄さんの近況を知らされて…なんとライアンのお父さんと同じ職場で秘書をしていたなんてね…本当に驚いたわ。結婚は無理って断り続けたけれど、それでもライアンはしつこくて…一時は別れて彼の前から姿を消そうとすら考えた。でもそれはボスに止められたの。…そしたら………」


ジョアナはデュンレの腕を掴んだまま俯いて…黙ってしまった。


顔を上げ、そんなジョアナを心配そうに見つめるデュンレ…


彼の目は…涙で滲んでいた様にイトリアは見え、


「ジョアナさん…?大丈夫ですか?」


ずっと黙っているジョアナが心配で、思わずイトリアは声を掛けたが、


「あ、大丈夫よぅ。つい思い出したら…」


ジョアナは直ぐ顔を上げて反応したが…また少し沈黙する…


そう言えば…


デュンレと話す時…というか、昔話をする時のジョアナは普通の話し方になっている事にイトリアは気付いた。


「アイラさんとウチのボスは古くからの友人らしいから、なんとなく経緯は聞いているよ…」


ボソッとデュンレが言うと、


ジョアナは再び素早く涙を手で拭って…


「…まあそうね。お義父さんからも兄さんへ情報は行くだろうし…ある日ボスに呼び出されて…仕事の件かと思ったらライアンとお義父さんがいて本っ当にびっくりしたの。…ボスがね…[本当に結婚が嫌な訳じゃないんだろう?3人で相談したんだ。私達が君の心配はなんとかしてあげるから、結婚しなさい]って…あの日の事は…私は一生忘れないと思う。」


ジョアナの目からは止めどなく涙が溢れだが…彼女はもう拭うことなく、掴んでいたデュンレの腕を更に力を入れて引っ張る。


「兄さん、あの人達の厚意を無駄にしないでよ。兄さんが何を心配しているか大体分かるわ。私がライアンと結婚する事で、ウェスラー様の秘書である兄さんの肉親の犯罪歴を政敵に突かれてしまう事を心配しているんでしょう?ヘイリーの娘は彼の死後ずっと行方不明って事になっているし、クソ親父のせいでジョアナという名前は諜報活動のコードネームみたいな存在に成り果てているから…ボスがね…信頼のおける人物の娘として第2の人生の為の戸籍を作ってくれたの。ボス自身もリスクのある事なのに…そこまでしてくれたんだから私は結婚するしかないと思った。だから、それでもあんたが心配するなら私は結婚はしない。兄貴を犠牲にして得る幸せなんて私は願えないよ。本音はウェスラー様をずっと支えて行きたいんでしょう?」


「……」


だがデュンレの表情は…依然として固かった。


「…バラしてしまうけど実はね…ボスから兄さんの近況を聞いて居ても立っても居られなくて…一度だけ兄さんが仕事している姿をこっそり見に行ってしまった事がある。兄さんはあんまり喜怒哀楽は顔に出ない人だと思ってだけど…お義父さんや他の警備の人と話してる様子がなんだかとても楽しそうで生き生きしてたのは、本当にびっくりだった…」


「…お前だけが問題な訳じゃない。俺は全てを捨てて家を飛び出て…ウェスラー様が拾い上げて下さるまでの約3年半は飲んだくれ、酒場でケンカばかりの毎日だったんだ。なんだかんだ言ってもあの時点では軍上層部だった親父の後ろ盾があってこそ、まあまあ華やかなりし仕事に就けた現実も、あの頃に思い知ったしな。これ程までに政治家として注目され始めているウェスラー様の秘書は、もう私なんかがやるべきじゃないんだよ。」


「ねぇデュンレ…パパをバカにしないでよ…」


ここで堪らずにイトリアが2人の会話に割り込む…


イトリアの参戦に、デュンレは不意を突かれた様な表情をする…


「他のスタッフの人達も言ってるけど…あなたはなんとなくパパに似ていると私も思ったわ。…だから尚更パパはあなたを…シムル…亡くなった弟と重ねて見ているようにも思えるの。そんなパパからしたら、あなたは身内に近い存在なのよ。今のパパは別に政治のトップに君臨したい訳じゃないと思う。利害関係で潰されない程度の力は欲しいとは思うけど、やりたい方向で成果が上げられていける事の方が優先だと思うわ。その為には自分の理想を理解してくれる部下は必須だし…あなたの事は、自分の大事な理解者のように頼りにしてるように思うわ。そんなパパだからきっとあなたの過去も受け入れて側に置いてる事は…見ていれば私だって分かるわ。ただ能力だけで秘書にする人じゃない…父の覚悟を見くびらないで。」


終始辛そうに聞いていたデュンレは身体をゆっくり起こして、その場に座り込んだ…


「君は…やっぱり政治家ウェスラーの娘なんだね…。君ぐらいの年頃の子は、普通はそこまで考えて親の部下の事は見ていないよ。…まあ、あの特殊な環境で生活していれば、君もウェスラー様を取り巻く人間関係は望まずともよく見えるだろうけど…ヘイリーの息子デュンレとして秘書の仕事をしてしまっている以上、これから何かのタイミングであの方自身だけでなく、部下や家族の事を意地悪く追求する存在が出て来ない保証はどこにもないんですよ…」


「デュンレ。」


イトリアは堪らず椅子から立ち上がり、デュンレの正面に回り込んで膝を折り、彼女もまた座り込んだ。


「私の過去も…パパの足手纏いになる可能性があるわ。あなたがパパの元からいなくなるなら、私はここに戻って暮らすつもりよ。パパの側でウロチョロしていなければ、世間は私の存在にはあまり注目はしないでしょう?一部報道では、私はあのテロ事件で死んだ事になっているらしいし…」


「ち、ちょっと待て、君は何を言っている?君と僕では立場が違う。ロワナさんが体調を崩し始めた時点で、あの方は直ぐにでも君達を呼び寄せて、今のフロアに住まわせたかったんだよ。また君がここに戻ってしまったら…ウェスラー様は今度こそ心労で倒れられてしまうよ。それに…さっき君はあの方の為に生きたいと言っていたばかりだぞ。そんなに脆い決心だったのか?」


気がつくとデュンレは、自身の腕を掴んでいたジョアナの手を振り払う様にして、イトリアの両肩を掴んで彼女に詰め寄る体制になっていた。


「あの…」


苦笑しながらジョアナは2人に声をかける。


「お取り込み中にごめんねぇ…私、ライアンと待ち合わせしているからぁ…そろそろ行くね。とりあえず、私は兄さんに言いたい事は伝えたからぁ…後はしっかり考えて決めて頂戴。幸いまだ入籍してないから、兄さんが辞める決心が変わらないなら私は皆の前から姿を消すつもり…これは脅しじゃない。私だけのうのうとは暮らせない。兄さんの決断はそれだけ影響が大きい事は忘れてないで欲しいわ。じゃね…」


「お前…言い逃げか?狡いぞ。」


…やっぱりジョアナさんて、兄妹の会話になると普通の話し方になるんだ…面白い人だなぁ…


それにデュンレも…ジョアナさんと話すと僕から俺になるんだ…


目の前の兄妹のやり取りを興味深く眺めているイトリアに、ジョアナは今度は軽くウィンクして、


「…まずイトリアちゃんと話さない限り、この話は埒があかないわよぅ。この子を納得させない限り、兄さんは今夜は帰れなそうねぇ…頑張って。」


立ち上がったジョアナは2人に向かって手をヒラヒラさせ颯爽と出て行ってしまったのだった…


「……またそれか…」


「………」


「……」


残された2人の間に暫しの沈黙が訪れ…


「…とりあえずテーブルの方に…」


戻りましょうと言いながら立ち上がるはずだったデュンレだが、咄嗟に右手首を掴んだイトリアの手によって、その行動は阻まれた。


「行かないで!」


イトリアは俯いたまま…デュンレの手首を掴む力は更に強くなる…


「イトリアさん…」


「…お願い…あなたがいなくなったら…私、どうしたらいいか…」


そのまま縋るようにデュンレの方に身体を寄せて来るイトリアの様子に…何かマズい流れを感じたデュンレは、


「床にずっと座り込んでいたら下半身が冷えてしまいますよ。あなたをまた病室へ戻したくはありませんからどうか…」


と、とにかくイトリアの上半身だけでも起こそうとするが…


「…じゃあどこにも行かないって…約束してよ…」


泣きながら…イトリアはデュンレの膝にしがみ付いた…


「……」


「…なんで黙ってしまうの?…デュンレ…ねぇデュンレ…」


片手でデュンレの手首を掴んだまま…もう片方の手は彼の腿を軽く叩きながら…イトリアは泣き続けた…


「……」


自分の為に…ここまで必死で引き留めて来る少女…


まだどこかあどけない表情をも残す、美しく気高いイトリアに…デュンレはとっくの昔に惹かれていた。


かつてテイホにおいて外交官の仕事に就いていた頃は…外交官の妻の座狙いという打算で近づいて来た才色兼備の女性はまあまあいたが…経験の一つと、試しに付き合ってみた女性がたまたまだったのか…卒のない清楚な振る舞いがひとたび夜のベッドの上では肉食獣に変貌して行くギャップにデュンレは、吐きたくなるような嫌悪感を抱いてしまい、若干の女性嫌いに陥っていた。


気が付けば、そのまま10年近く時が経ってしまっていた。


…こんなに…母以外でこんなに自然に女性と会話が出来たのは何年振りだろうか…


純粋に自分を必要としてくれるイトリアの気持ちに戸惑いつつも…デュンレはもはや抗いきれないほどの自分の恋愛感情に戸惑っていた。


だからこそ…この感情が溢れ出てしまう時が怖かったからこそ…自分は早めに姿を消したかったのに…


…でも、ここでこの想いを解き放ってしまったら…もう引き返せない…


ここはなんとか堪えたいデュンレだったが…


次の瞬間、イトリアがガバッといきなり顔を上げる。


「私、あなたが……」


咄嗟にデュンレはイトリアの口を手で塞いでいた。


「それ以上は…言わないで下さい。」


彼女の全ての仕草が愛おしい…だが…今の言葉のその先は…自分は聞いてはいけないと思った。


「あなたの人生は…まさにこれからなんです。ここでの感情に流された言葉であなたに後悔はして欲しくありません。それはあなたのお父君…ウェスラー様の為にも今はそうすべきです。」


気が付くとデュンレは彼女を引き寄せ、労る様にイトリアを優しく抱きしめていた。


「…そう………これってきっと…デュンレなりの思い遣りなのね……ありがとう……」


デュンレの手が自分の頭に触れた時、イトリアはビクンと背筋が反応して最初こそ驚いた様子だったが…


やがて彼女なりにデュンレの言葉の意味を察し、切なそうな顔で見上げ、そして…


彼の胸に顔を埋めた彼女の声は消え入りそうに…悲しげに震えていた…


「でも…それでもあなたは…パパの側にいるべきよ。ここで長く不安な夜を過ごした私にはなんとなく分かるの。あなたは今はまだ…1人になってはいけない。あなたを心から必要としている仲間達から離れてはいけない気がするの。…ねぇ…お願いだから…」


「…イトリアさん、こんなタイミングですみませんが…お茶を入れ直して頂けませんか?…とりあえず…私達は落ち着いた状態で話をしましょう…」


…デュンレはそう言うと、少し強引に抱擁を解いた。




「これはね、今日の為にここで焼いたスコーンなの。パパは昔チョコチップ入りが好きだったのを思い出して作ってみたのだけど…さっきジョアナさんに味見してもらった時は好評だったから、味には少し自信があるわ。もうすっかり冷めちゃったけど、冷めても美味しいお菓子だから…」


テーブルを挟んで再び席についた2人は、イトリアが入れ直した紅茶で少し喉を潤し…彼女がお茶受けとして用意されていたスコーンに手を伸ばした時に、イトリアがちょっと照れ臭そうに説明を入れたのだった。


「…僕はウェスラー様と食べ物の好みが少し似ていて…実はスコーンやクッキーにチョコチップを入れたモノは結構好んで食べているかも。うん、確かに美味しい…。イトリアさんはたまに来客用のお菓子を作られたりされていますよね?僕等は密かにアレを楽しみにしているんですよ…」


本当に…これはお世辞でもなんでもなく、イトリアは料理のセンスはかなりある様で…自分だけでなくフロアにいる仲間達は殆ど、イトリアの作るお菓子が皆に振る舞われる時を楽しみにするようになっていた。


ただ受験前は彼女の負担にならないよう、味は褒めても催促だけはしないようにしていたのだった。


「そう…なんだか間に受けてこれからも作ってしまいそうよ…でも嬉しいわ。」


「お世辞なんかじゃないですよ。受験勉強中だったあなたの負担にならないよう、皆、あからさまに褒めたり催促しないよう気をつけていたのです。ここで皆を代表して気兼ねなく褒められる事は、僕としても嬉しい限りですね。」


…自分が感情の波に飲み込まれてしまわないよう…イトリアの身体を冷やさないよう…慌ててティータイムを要求したデュンレだったが…やっと彼女の手作りお菓子の美味しさを存分に褒められるのが、自分が一番最初でなんだか嬉しかった。


それに…


自分の先程の反応を拒絶と受け止めているらしいイトリアの表情がどことなく冴えなくて…デュンレはとにかく彼女を笑顔にしてあげたかった。


それも社交辞令ではなく、本当に思っている事をなんでも良いからデュンレは褒めたかった…


「…僕はどうやら独りよがりに思い詰め過ぎていたようです。先程のジョアナの目が本気なのは僕にも分かりました。あいつの婚約を僕が原因で破談にしてしまう訳にはいきませんから…多分、あの子の人生にとって最大の良い出会いはライアン君だと僕は思っているので…彼とゴールイン出来るなら兄として祝福してあげたい。あの子を見捨てずにずっと愛し続けてくれたライアン君と結婚しないなら…ジョアナはもう誰とも結婚しないのではないかと思うのです。」


「お腹には赤ちゃんもいるし、まだお会いした事はないけど、そのライアンさんとの関係自体に問題がないのなら、赤ちゃんのお父さんと結ばれて欲しいと私も思うわ。」


「…そうですね…ただ父親の身勝手さをずっと見て来たジョアナは、結婚に夢は見ていないように思う。だけどあいつは、本質は信じた相手には誠実で優しく尽くす人間なので…本当は結婚に向いていると僕は思っています。然もその相手がライアン君で、その父親がトバルさんなら…絶対に逃してはいけないパートナーです。今までの不遇を吹き飛ばすような良縁を僕のせいで壊したら…あの親子…特にトバルさんには恨まれて…彼がウェスラー様の目を盗んで催すポーカー大会には2度と混ぜてはもらえないでしょう…」


「ポーカー大会の理由って、必要なの?」


ここでやっとイトリアはクスッと笑った…


「なんだかんだでトバルさんは、ウェスラー様の亡くなったお父君の後輩でありラグビーというスポーツの地元のチームメイトで、ウェスラー様とも古い付き合いのようですから…彼は一番信頼されています。それに彼のポーカー大会は部下達の大事な交流の場でもあるんです。誘われなくなったら、それはやっぱり寂しいですよ…」


「いつか…ああレストランで皆で食事をした時だったか…あなたはポーカー大会に釘を刺していたじゃない。なんだかんだで参加したいのね…」


「ウェスラー様も本音はそうですよ。部下達の交流の場には時々は混ざりたいんです。…ただトバルさんは自らは中々ポーカー大会をお開きにはしないので、僕やウェスラー様が釘を刺す必要が出て来てしまうんです。トバルさんもお歳を召して来て少し自制する力がね…徹夜したら翌日の仕事にも影響しますしね。」


イトリアは、なんとも優しい表情で職場の仲間達の事を話すデュンレを見ながら、自分もその状況が容易に想像出来るので楽しい気分になって行った…


「…結局、今までもこれからも、デュンレはパパ達のピースにしっかりハマってしまっているという事よ…パパを支えてあげて欲しいの。その為だったら、私に出来る事ならなんでもするから…」


イトリアは和やかに会話をしながらも、本題にしっかり話題を戻していた。


「…分かりました。まだ僕の家族の件でマスコミが嗅ぎつけている気配は無いようなので、ひとまず僕はしばらく様子を見ようと思っています。ですから、あなたには予定通り学校に行って頂きたい。これが僕の辞めない条件です。勉強に関しても、僕の教えられる範囲なら出来る限り時間は作りましょう。これからウェスラー様を本気で支えて行きたいと思うなら、あなたはまず一般的な社会性は身に付けた方がよろしいかと…あなたもいずれ、ウェスラー様ぐらいの年代の議員や側近の子息や令嬢と、仕事に直接の関係はなくとも交流は必要になって来る可能性は十分ありますから…その方達はまず間違いなく、ある程度のレベルの学歴は有しています。交流する上では似たような経験を共有して行く事は大事です。学歴もあるに越した事はなく、邪魔にはなりませんよ。ですから…」


「わ、分かったわ…デュンレらしいとは思うけど、そんなに理詰めで私を追い込まないで。あなたが勉強を見てくれるなら、私も安心して頑張れると思うし…ジョアナさんが言ってたわ、兄さんは学生時代の成績は全般において凄かったって。首席を争うレベルだったってね。道理で…博識で本当に分かりやすく教えてくる人と思ったわ。あなたが教えてくれるなら、私はきっと頑張れる…じゃあ交渉成立ね。」


そう言うとイトリアは紅茶を啜りながら、感慨深そうに室内をじっくり見回した…


「辛くなってしまいそうで…中々ここには近付く勇気が持てなかったのだけど、実際、それほど悲しくはならなかったわ。多分だけど…ママと弟がいなくなってしまったところで私の中の時間はどこか止まっていたと思う。あの悲劇からずっと…私は被害者としてあの事件直後の時間に蹲っていた感じ…。以前あなたも言っていたけど、その間パパは…家族が亡くなってしまった責任を一人で背負って苦しんでいたのよね。ママやシムルは…そんな私とパパをどんな思いで天国から見ていたのでしょうね…」


潤んだ目で問うように訥々と話し出すイトリアにデュンレは、


「…あなたがそんな風に感じていて下さる事が、ウェスラー様にとっては何よりの救いとなると思います。…少し前にエンデという不思議な力を持つ少年がウェスラー様に、[あなたと娘さんが心から笑える日が来る事を、奥様と息子さんが切望している]と…エンデがウェスラー様と出会った日からずっと伝えて欲しいと訴えていたのだと言っていました。この話の内容の真偽は確かめようもありませんが…彼はウェスラー様の家族の名前も経緯も…詳細を的確に語っていたそうです。そしてその少年と会話して行く内にウェスラー様の表情はどんどん明るくなって行き…ロワナ様の介護で心身共に弱りつつあったあなたとの関係をなんとかしようと、積極的に動き始めたのもその頃です。今の私が言える事は、ウェスラー様とあなたが日々を前向きに捉えて過ごされているように見えるのは確かです。きっとお母様や弟さんも…今は少なくともガッカリはされてないと私は思いますよ。」


「……」


イトリアは…いつもより一歩踏み込んだデュンレの話を少し驚きながらも興味深く…時折、涙をハンカチで拭いながら聞いていた…


「…そんな事があったのね…。私もいつかその子にママやシムルや…おばあちゃまの事を聞いてみたいな…」


デュンレはそんなイトリアに優しく笑いかけ…


「ウェスラー様やトバルさんとの交流は続いているようだから、きっと会う機会もあると思いますよ。ちょっと生意気ですけど…根は良い奴だと思います。トバルさんなんか特に気に入っていたようだし…ウェスラー様がミアハという小国のトップとの会談を望む事があれば、彼はきっと付いて来るでしょう…」


「そう…楽しみね…」


と、


イトリアが微笑んだタイミングで、彼女の耳元のイヤーフォーンが振動する。


「今日、出掛ける前にパパが持たせた緊急用のイヤーフォーンなの。」


と言ってイトリアは通話する。


「あ、うん、大丈夫よ。もうすぐ帰るから…戻ったら一度デュンレと一緒にパパの部屋に寄るわ。…じゃあね。」


デュンレにウィンクしながらイトリアは通話をオフにする。


…やはりか…


「…皆んなで僕をハメましたね…?」


イトリアはイタズラっ子の様な表情でペロッと舌を出す…


「デュンレと一度ゆっくり話すべきってジョアナさんに強く言われて…私が考えた作戦よ。」


「…まったく…」


デュンレは不機嫌そうではあったが…それでもどこか嬉しそうでもあった。


「でも良かった…これで私も安心して勉強に頑張れるわ。初恋は実らずだったけど、大事な家庭教師は失わずに済んだし…これから行く学校で素敵な出会いがあるかも知れないから…とにかくデュンレのアドバイス通り、色々と学校生活を全力で頑張ってみる事にするね。それじゃあ…」


と、イトリアは席を立つ。


「せっかくだから、簡単なモノになってしまうけど私の手料理を振る舞わせて。ここまで来てもらったお詫びの印に…」


「待って。」


と言いながらデュンレも立ち上がり、台所に向かう彼女の腕を背後から慌てて掴んで引き止めた。


「え?急に何…?…」


今までの和やか表情とは打って変わり、デュンレの顔は怒っているような…怖いモノに変化していて…


「私…何かあなたの気に触るような事を言ってしまったかしら…?」


「…違います。僕は別に怒ってませんよ。」


掴んだ腕を離し、デュンレはゆっくりとイトリアの目の前まで来て、片膝を立てた状態で跪き、右手を自身の太腿の上に置いてイトリアを見上げる。


「…念の為、説明させて頂きますが、僕はあなたをフッた覚えはありません。先程も言いましたが、あなたはまだ若く、これから広い世界の事を知識だけでなく色々な経験を通して学んで行くべき方です。おそらくあなたにとって僕は、父君であるウェスラー様以外で身近に交流した最初の成人男性ではないかと思いますので、今は交流の形を固定せずに出来るだけ多くの人達と接して頂きたい。僕とあなたは歳も10以上離れていますし…周囲に色々言われてウェスラー様に要らぬ心配やご迷惑はかけたくありませ…」


「デュンレ、私はあなたのように頭が良くないから…この長い説明の目的が分からないわ。結論を早く言って。」


意図のよく分からない…長い説明に痺れを切らしたイトリアはややイライラしながら、デュンレの言葉を遮る…


「……厳密に言うと、僕はあなたの気持ちに応えられない訳ではなく、今は応えられないと…申し上げたいのです。」


「……」


イトリアは少し考えたが…眉間に皺を寄せながら、


「まだよく分からないわ…どういう事?」


「…あなたが学校を無事卒業し20歳を迎えた時…僕はあなたに交際を申し込みますから…今ではなく、その時のあなたからお返事を頂きたいのです。」


「え…」


イトリアの顔がみるみる赤くなって行く…


「…それって…デュンレも私の事を好きっていう事…?」


「…どうやら…そのようです…」


そう答えたデュンレは俯き…イトリアから見て顔はよく分からないが…彼の耳は真っ赤になって行った…


「ああデュンレ…」


イトリアは感極まって、彼女も膝をつきデュンレの首に腕を回して抱きついてしまった。


「ちょっ…ダメですよ。イトリア様。」


デュンレは真っ赤な顔になりながらも、必死でイトリアの腕を振り解こうとするが…夢中で抱きつくイトリアの力は予想以上に強くて…


「いいじゃない…これはハグよ。…お願いデュンレ…今だけは許して…」


愛しい人の懇願にはデュンレも抗えず…


「もう…君はズルい人だ…本当に今だけですよ。」


気が付けば、デュンレもイトリアの背中に腕を回し…最初こそおずおずという感じだったが…イトリアが途中でぎゅっと更に力を込めて抱きしめて来ると、デュンレも反射的に思い切り抱きしめてしまっていた…


「イトリア…」


耳元での…自分の名をさん付けはなく呼ぶデュンレの声にウットリしながらイトリアは…


「今だけでいいから…20歳になるまで待っているから…もう少しだけ…このままでいて…」


彼女もまた…デュンレの耳元で切ない懇願をするのだった。


「…違います…待つのは僕です。あなたがこれから色々な人と出会って相応しい人を見極める為の時間なんですよ。その時は…あなたがどんな選択をしても僕は受け入れますからそれまでは…ウェスラー様の部下として、あなたの家庭教師として、僕はお2人にひたすらに寄り添って参ります。」


「そんなこと…あなたこそ…ズルい人だわ…」


私の気持ちは決まっている…変わる訳ないじゃない…


と思うイトリアだったが…


1年半後に思わぬ伏兵が現れてしまう事は、この時の2人は知る由もなく…


この後も、2人はしばらく固い抱擁を終わらせる事が出来ず…


結局、ウェスラーから再び帰宅の催促の電話が来てやっと2人の身体は離れ…その後のイトリアの手作り料理は時短作品を余儀なくされサンドイッチと簡単な野菜スープだけになってしまったのだった。


「話は上手くまとまったようねぇ…」


とっぷりと日は暮れ、やっとデュンレとイトリアが車に乗り込んで帰宅の途につこうとした時、デュンレのイヤーフォーンのバイブが震える…


「ジョアナ…お前…」


デュンレとしては状況的に色々と突っ込みたいタイミングの通話だったが、


「これで私は生まれ変わっても良さそうだからお知らせして置くわ。私は明日からはフェリアとして生まれ変わる予定なのでよろしく。気を付けて帰ってね…」


「え?…フェリア…?あ、おいっ……まったく、言うだけ言って切りやがって…」


一方的な通話に少し不満気なデュンレだったが…


「…ジョアナさんから?」


「ええ…あ、いや…明日からあいつはフェリアと改名するようです。」


…おそらくジョアナ…もといフェリアにとっても今夜は運命を分ける夜だったのかも…


ライアンとの約束というのも嘘で、話し合いをしやすくする為に途中退場し外でずっと見守っていたらしい様子が短いやり取りからじわじわ見えて来たデュンレは…


「そう…明日からフェリアさんなのね。きっとライアンさんやトバルさん…そしてあなたと…周囲の人達の温かい繋がりによって幸せな人生になる名前よね。」


「…そうですね…そうなれるよう…これからも陰ながら応援して行くつもりです。…なんて…そう思いながら、実は守られているのは僕の方かもしれませんが…」


名前の意味をしみじみ噛み締めてくれるイトリアをチラッと見ながら、そしてルームミラー越しに背後から警護するかの様にずっと付いてくる彼女の車を確認しながら…


デュンレは微笑んだ。








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