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34 後悔の幻影


それは唐突な土砂降りで…


「もう、天気予報では午後には止むはずの小雨だったのに…」


イトリアは自室の窓から忌々しそうに空を見上げる。


「パパに買ってもらったばかりのスカートを履いちゃったじゃない……出掛ける支度を完了したら土砂降りって…今日は行くのやめようかな…?」


イトリアにサボりたい気持ちが一瞬、舞い降りるが…それは直後に浮かんだ祖母の笑顔で直ぐ霧散した。


「ダメよ…あの親子は私を待っているの。あの日の私を見捨てるような真似は…出来ない。」


自分の両頬を両手でパンッと軽く叩くと、イトリアは勢いよく立ち上がる。


「これくらいの雨なんて…雷雨の道を1人で歩いて診療所まで解熱剤を貰いに行った時に比べたら…さあイトリア、行くわよ!」


あえて自分を鼓舞するように大きな声を出してドアを出るイトリアだった。


「……」


やっぱり今日も付いて来るか…


マンションを出ると直ぐ、背後にいつもの人の気配を感じた。


父であるウェスラーは今、10年近くに渡る地道な農業対策において評価がじわじわ高くなっていて、間もなく政権トップへ押し上げられそうな勢いをイトリア自身もじわじわ感じて来ているので…最初は警護なんてと父に苦情を入れたが、過去のトラウマも影を落とす親子ゆえに、その度にトバルを始め側近の大人達にあれこれ説得され…


父や彼等の気持ちも理解出来るし、イチイチ反論するとまたそこから長くなるパターンは分かって来たので…もう文句は言わない代わりに、警護の存在はあまり意識しないで行動する事に決めているイトリアなのだった。


…今夜は朝までの予定だからってヨリによって…あの人…朝まで付いている気かしら…?


イトリアの住むマンションから徒歩5分の場所にある閑静な住宅街の中の一軒家…


そこは元々、イトリアがブレムの住むマンションに越して来てから初めて仲良くなった学友の家族が住んでいた家で…彼女は半年以上前に隣り町に引っ越したのだが、その家に買い手がつくまでの間だけ、ウェスラーに頼み込んで借りている家なのだが…


そこには今、イトリアの元同級生の親子が暮らしているのだった。


「あ…今日も来たんだね…ありがとう。本当に助かるよ…」


イトリアより若干背が低く、金髪混じりの薄茶の髪の貧相な体格の少年は、青く澄んだ目を細めて彼女を一瞬見つめ…直後に前に鍔のある帽子を深めに被りながら、中に入ろうとするイトリアとすれ違うように外に出て行こうとする。


「待ってラフェン、これ…夕食も持たずに夜の仕事はキツイわよ。どうせ昼間だってろくに食べてないんでしょう?」


イトリアからすれ違い様に弁当を差し出され、一瞬、戸惑うも…


「…気持ちは嬉しいけど…イトリアが食べなよ。」


と答えて受け取らず、ラフェンは出て行こうとする。


「勿論、自分の分も作って来たわ。おじ様の分もね。」


「…これ以上は甘えられないよ…先月の家賃もまだ払えていないのに…」


「いいからほら、これ持って。せっかく作ったんだから絶対に食べてよ。拒否したら大声で泣くからね。もう遅刻するから早く行きなさいよ。」


本当は食べたいのに躊躇するラフェンに強引に弁当を渡して追い立て、イトリアは突っ返されないよう慌ててドアを閉める。


「…ふぅ…」


…ダメだ…


このままだとラフェンはいずれ倒れてしまう…


今のラフェンを少し前の自分と重ねて見ている事をイトリアは一応自覚はしている。


だが同時に、ラフェンは自分の様に意地を張って自分を追い込んだ訳じゃない事も…


本当にもう誰も頼れない状況で…17歳で学校も途中で辞めている身で仕事を探しても、親子の窮状を脱し切れるほどの稼ぎにはほど遠く…夜間工事の補助員としての給金はかなりの重労働には見合わない賃金で…


今のイトリアの自己満足で中途半端な援助を続けても…そう遠くない未来にあの子は過労死してしまうだろう…


「み…水…誰か…水をくれ…」


と、奥の部屋からラフェンの父ダンの呼ぶ声が聞こえ、


「はぁい…ただ今。」


モタモタしてるとダンがベッドから落ちてしまうので、急いで吸飲みに水を入れてイトリアは奥の部屋へ急ぐ…


個室に入ると、やはりダンはベッドから落ちる寸前だった。


「ダンさん、こんにちは。お水をお持ちしましたよ。そのまま降りても歩けないと思うので…車椅子に乗りましょうか?」


ダンは身体を自力では起こせず、痩せ細った足をズリズリと動かし、ベッドから下りようとしていたらしい…


少し前に事業が経営破綻して、まずこの人が行方不明になり…それから間もなく夫人が心労で倒れ…一人息子のラフェンは唐突に登校しなくなった。


それから程なくしてラフェンは退学した…


彼が母を1人で看ているのかと思ったイトリアは居ても立っても居られなくなり、担任から聞き出した彼の住所を尋ねるが…既に引っ越した後で…


その後、どうしても彼の事が気になったイトリアは、父ウェスラーに泣きつき、彼の居場所を突き止めたのだが…


かなり治安の悪い地域のボロアパートに住んでいる事が分かるとウェスラーは、イトリアにもう彼には関わらない方が無難だと忠告するも…


勿論、それで引き下がるようなイトリアではないので、ウェスラーの部下を泣き落としてそのアパートに内緒で連れて行ってもらうのだった。


「様子を見たらすぐ帰る」


と約束し、そのアパートに行くと…


ノックに反応はなく、試しにドアノブを回すと開いてしまったので…


「ラフェン君いますか?」


と玄関から声をかけてみると…


「……」


微かに人の声がした気がしたイトリアはもう一度、


「ラフェン君?」


「…れ…」


確かに人はいるようだが…


…まさか…?


嫌な記憶が甦り、イトリアは意を決して入室しようとするも…


「イトリアさん、いけません。危険ですよ。」


部下の男に手を掴まれるイトリア…


「だって…病気で動けないかも知れないわ。…私が何を心配しているか…あなたなら分かるでしょう?」


止める部下を縋るような目で訴えるイトリアに、男は軽く舌打ちし、


「もう…だから言ったのに…こういった場所ではどんな理由で身動きが取れないのか…理由はそれこそ色々あるんです。…私の後ろを離れずに付いて来て下さい。」


男は不本意な表情を滲ませながらイトリアの前に出る。


「…ありがとう、デュンレ…」


ホッとしたように礼を言って、イトリアはデュンレに続く…


「…いつでも警察に連絡出来る体制でいて下さい。私が合図したら躊躇なく…ですよ。」


そう言いながらデュンレは更に進み…ダイニングの様子が見えるとすぐに…


「…まず、救急車を…」


と言った。


狭い部屋の床には少年が倒れていて…


脇の小部屋に設置されていたベッドには…誰か大人が…半分ずり落ちた状態で…


「水……くれ…」


と、踠きながら呟いていた…


慌ててイトリアは救急車を呼んだ。




後で警官から聞いたところによると、彼の母は既に半月前に病死していたそうで、ベッドに寝ていたのは行方不明になっていたはずの父親だった。


救急車で運ばれたダンとラフェンの2人は…餓死寸前だったのだ。


その騒ぎでアパートに行った事が父ウェスラーにバレて、デュンレ共々イトリアは叱られる事になるのだが…


ウェスラーなりに、祖母を長く看続け心身共に追い詰められた自分とラフェンの現状を重ね合わせて見ている娘の行動は、下手に制限は出来ないと判断し…


イトリアの懇願を受け入れ、1年未満の条件付きで、彼等親子の住む家を用意し、彼女が可能な範囲で彼等の面倒を見る事を許可したのだった。


なぜ、その期間を設けたかというと…


1つは、イトリアがある程度ケジメを持って関わらないと、ズルズルと彼等の人生まで彼女が背負いかねない危険を孕む事を危惧した為。


2つ目は…2カ月前に自殺未遂で見つかったラフェンの父ダンは元々心臓の持病があったのだが…経営悪化による心労と自殺未遂により持病の悪化が著しく進み…更には一時的な呼吸停止による脳へのダメージもあったらしく…四肢の機能の麻痺や認知障害も起こしているとの事で、担当医師の見立てではダンの心臓はおそらく半年も持たないだろうと伝えられた為だ。


メクスム国では、親の負の遺産は子供は背負わなくても良いが…代わりにその子の生涯においての様々な権利が制限されてしまう…


選挙権や老後の医療費の割引権利の剥奪等…借金を背負わなくていい代わりに、まあまあシンドい人生になってしまうのである。


いくらイトリアでも、ハンパない額の彼の父の借金まで立て替えて欲しいとはウェスラーにはネダれない…


だから…あの子が独りぼっちになるまでの間に、イトリアは可能な範囲で彼等を手助けしつつ…ラフェンの今後の事もなんとか知恵を絞ってみようと考えたのだが…


実際は、父の看病をしながらのラフェンの夜のバイト代だけでは日々の食費も十分に賄えない状況だったのだった。


ダンは親族にも借金があり、亡くなった妻の親戚にも借金を無心しまくっていたらしく…彼等とは音信不通状態で頼る事も出来ず、早い段階でラフェンの家族は孤立状態だったようで…


父が失踪し母が倒れた時点で、背負い切れない荷物と絶望感が彼の心を折ってしまっていたようにイトリアには見えた。


ラフェンは年齢の割に状況を達観視し過ぎているような…イトリアの厚意はあまり抵抗無く受け入れてくれたが…かなり辛い状況なのにイトリアに今以上の援助は求めては来ない為…


彼等親子の窮状は、イトリアの見ている範囲だけでもあまり助けになっていない…


クラスでは目立つ存在ではなく、在学中ではイトリアとはまともに会話した記憶もないような関係だったラフェン…


だが、イトリアは密かに彼の存在はなんとなく気にはなっていた。


なぜなら彼は、イトリアの少し後から途中編入して来た子だったから…


ラフェンの父親はやや虚栄心が強く、都市部への事業拡大を求めつつ、その地域のやや生活に余裕のある家の子供達が通う学校…つまり、今のイトリアが通う由緒ある名門校に一人息子を転校させたのだが…その事業拡大と転居によって返って経営は悪化し、ラフェンの取り巻く状況はみるみる悪化して行ったのだった。


クラスメートと仲良くなる間もなく、ある日突然に退学してしまったラフェンに関する噂で、イトリアのクラスは一時期かなり盛り上がった。


そしてその時に色々と耳に入って来た情報で、イトリアはラフェンの窮状を知ることとなるのだった…


「…ラフェン…あなたは1人でよく頑張っているわ。そんなあなただから、私はあなたの未来を諦めて欲しくない。希望を持って生きて欲しいのよ…」


イトリアはラフェンを通して自分の過去を見てしまう…


闇雲に父を責め、頑なになってしまった事で頼れる存在を締め出し…


結果的に介護していた祖母にはかえって淋しい思いをさせてしまった。


いや…なにより…


最愛の父ウェスラーと過ごす時間を自分の頑固さが奪い、父にも大変な苦労をかけてしまった事も…


未だ許せない自分がいた。


正直、まだ父の前では素直になり切れていない…


イトリアの過去を悔やむ気持ちの全てが…今はラフェンに向かってしまっていた。


それになぜだか…ラフェンの事を通してなら…イトリアはウェスラーと普通に会話が出来るのだ。


ラフェンの手助けは…本当は自分の為にやってる事かも知れない…


ラフェン…


もう少しだけ、余計なお節介をさせて欲しいの…





「…ねえ、パパ…」


「……」


イトリアが部下の代わりにコーヒーを運んで入室して来た時、ウェスラーは既に嫌な予感はしていた…


娘が頼まれてもいない手伝いをする時…それは親なら誰でも予想する「おねだり」…


ただこの娘の厄介な所は、自分の欲求を満たす女の子らしいおねだりではなく、彼女の辛い経験から来る…かつての自分に似た状況の人を助けて過去の自分の後悔を癒すという…実にややこしく断り難い頼み事なのだった。


「…ラフェン君の事かい…?」


軽い溜め息と共にウェスラーは尋ねる。


「あら、さすがパパ…とても察しが良いのね♪」


そう言って嬉しそうに、ウェスラーの隣に座りながら父の腕に触れるイトリア…


「とりあえず、用件だけは聞こう…」


捨て身の説得で、やっと自分の元に戻って来てくれて1年半…


普段は割と素っ気ない愛娘にそんなおねだりをされたら…そう言うしかないではないか…


「病院や施設に頼める金銭的余裕はないって言って、ラフェンは日中はお父さんを家で看ていて、夜はバードな肉体労働をこなしているけれど…彼自体がもう限界だと思うの。明らかに見るたびにやつれて来ていて顔色も良くないの…当たり前よね、お父さんは寝ている時以外はじっとしてないし、食費も…お父さんの最低限の食費と医療費で、彼は1日に1食食べられているかどうかという生活みたいで、先々月から家賃も滞納してるようだし…」


ラフェンの置かれた過酷な環境を思い出すのか…イトリアは俯きながら辛そうな表情を浮かべて訥々と話し出す…


「…私も…彼の家にお手伝いに行く時は、必ず差し入れを持って行くようにしている。けどね、」


「イトリア。」


これからおねだりの本題に差し掛かろうという所でウェスラーは、一旦、イトリアの話の流れを切る。


「良い機会だから、君に伝えておきたい事があるんだ。…君も一応、頭では分かっていると思うけれど…あの親子は君のおばあちゃまではないんだよ。」


「…?…分かっているわ。パパは何が言いたいの?」


ウェスラーを見上げるイトリアの目がやや険しいモノに変わる。


今まではあえて触れなかったイトリアの傷の核心とも言える部分に父は触れようとしているのだと察し、彼女の心は徐々に警戒モードに入って行く…


4年と少しの間、イトリアが献身的に介護した祖母ロワナは1年半前に他界した。


亡くなる2カ月前からもう彼女は意識はほぼなかったが…イトリアは祖母の息を引き取る場には立ち会う事が出来なかった…それどころか葬儀にも…


それが彼女の心の痛みに近いモノになっている事は、イトリア自身だけでなくウェスラーや部下達も把握はしていて…このフロアにおいてロワナの話題はややタブーになっているくらいだった。


そこに今…ウェスラーがあえて触れて来た事に、鼓動がいつもより早まっている事を感じながら…イトリアは父の次の言葉を待つ。


「君はこれから少年が…父であるダン氏との今生の別れをどのように迎えるかという事を中心に物事を考えて行く事が必要だと思う。ラフェン君が後悔を残さないような…配慮ある寄り添い方が必要じゃないかな。助けたい気持ちは分かるし、君のその行為は私としても誇らしいよ。けど…彼が1人で立てる力を削ぐような援助では、後々君も後悔するような結果になりかねない…。難しい事ではあるが、君はあの家庭の主役になってはいけないと思うんだ。」


「でもパパ、彼のお父さんは時間があまり残されていないわ。私が動くしか…」


イトリアはウェスラーの話がじれったく感じて、思わず彼のシャツの袖を思わず掴んで軽く揺さぶる…


だがウェスラーは動じる事なく話を続ける…


「イトリア…今はとりあえず、私の話を最後まで聞いて。私もね…援助した以上は中途半端に彼等を見放すつもりはないよ。彼等の今の経済状況や援助者となりうる存在も私なりに調べてはいるが、現在の彼等は完全に孤立してしまっているようだしね…。明日も君はあの家へ行くんだろう?そしたらラフェン君には、当面の生活費や諸々はこちらで全て立て替えるから、まずは仕事を辞めて身体を休めるように言いなさい。それはあくまで立て替えで、ちゃんと自立出来る状態になってから少しずつ返していけば良いとも加えて伝えて欲しい。そして、君は彼がこれからどうしたいのかをなるべく自然なやり取りの中で聞き出し、その情報をある程度整理した上で、もう一度私の所に来なさい。」


「…パパ…」


イトリアの表情がフッと緩む…


そんなイトリアの様子見て、ウェスラーも微笑む…


「誰に似たのか…君は思い込むと周囲が見えなくなってしまうからね。最近は目にくまが出来ている事がかなり増えたよ…勉強と介護の両立はかなり厳しいと思うよ。私は君の健康も心配なんだよ、イリア…」


ウェスラーは彼女をまだ幼い頃の呼び方で呼んで、手をイトリアの方へ伸ばし頭を優しく撫でる…


「…昔…ママが言ってた…あなたはパパ似だって……パパ…ありがとう…」


瞳を潤ませながら…イトリアの顔は笑っていた。


「…そうだね…私もそう思うよ。」


そう言いながらウェスラーは、今度はイトリアの肩を優しく抱き寄せる…


「だから…愛しいし…色々と心配にもなる。人に寄り添うという事は自己満足だけでは拗れる事もあるし、真摯に向き合う程に難しかったりもする。理想は、支える側もしっかり自分の力で立てていて、支えようとしている人が自力で困難な状況を抜け出せるように考えながら手助けをする事だとパパは思うよ。君もそうであるように、ラフェン君にもちゃんと自尊心はある。…少し前に話した彼の印象は、見かけこそ弱々しいがしっかりとした男の子らしい考えは持っている子に見えた。人助けはくれぐれも慎重にね。それに……」


中途半端な感じでウェスラーの言葉が途切れる…


イトリアは不思議に思い、再び父の顔をじっと見る。


「それに…何?」


「いや…」


ウェスラーは少し気まずそうな顔になる。


「パパ…言いかけて止めるのは気持ち悪いわよ…」


「…ラフェン君も一応は男の子で…君は女の子だ。君はあくまで同情でも、今弱っている彼が君の行動をどう受け止めるか…分からないだろう?人助けに夢中になり過ぎて…その…あんまり心配かけるなよ…」


「何を……」


ウェスラーの話が要領を得ず、聞き返そうとしたが…


イトリアはハッとして、顔がみるみる赤くなって行く…


「…知ってたの…?でも違うの、」


「分かってる…まだ付き合っている訳じゃないんだろ?あいつも…仕事は出来るが…その…律儀だし奥手みたいだからな…だが気付いている奴はチラホラ…な…」


「もう、パパのバカ…」


真っ赤っかになった頬を両手で隠すようにして、イトリアは俯いてしまう…


「そうよあの人は…まだ君は学生だからって…勉強は教えてくれるけど…手も繋いでくれないし、デートもしてくれないのよ。分かっていたなら…言わないで…」


「…悪かったよ。つい口が滑ってしまった。だけど…だからこそ、君が元同級生の男の子の家で夜を過ごす事は…ラフェン君がいない夜だとしても、監視カメラや警備は付けているとしても…奴にとったら気が気ではないんだろう。君が介護に行った夜の翌朝は…いつもぼんやりしているぞ。あまり寝てないのは直ぐ分かる。だから…あいつの為にも…よくよく考えてラフェン君には接する事だよ。」


「…分かったわ…」


…寝てないどころか…あの人はちょこちょこ家の周辺まで様子を見に来ています…とは、ウェスラーには言う勇気はなかったイトリアだった。




もう…2年近く経つのね…


当時は祖母の家に間借りして、多少引きこもり気味ながらも徐々に体力の衰えが目立ち始めたロワナを支えながら、平穏に暮らしていたイトリアだったが…


とうとうロワナが自力で歩けなくなり、同時進行で認知症の兆候が目立ち始めた辺りから、かろうじて保たれていたイトリアの生活のバランスも狂い始め…心身に掛かる負担は日を追う毎に増すばかりだった。


そもそもテロ事件直後の偏った情報を信じた事で、母や弟の死に関して思い込みに近い憎しみを父ウェスラーに抱き、彼への反発心から母方の祖母ロワナの暮らす家に転がり込んだ事から始まった2人暮らしで…


最初こそ、ロワナは父の元に戻るようイトリアを説得していたが…立て続けに夫と一人娘を亡くして、一人暮らしの心細さもあり…徐々にイトリアとの暮らしを受け入れてしまったのだった。


だがじわじわとロワナの健康が損なわれ、彼女との意思疎通も難しくなって来ると、ごく限られた人としか交流して来なかったイトリアの孤立感も増して行き…


介護の睡眠不足も祟って…イトリアはゆっくりと心のバランスを失い始めて行ったのだった…


イトリアの異変を早い段階で察したロワナの担当医師は、肉親であるウェスラーを探り当て、急いで彼に連絡して来た。


ウェスラーは、エンデから忠告された事もありすぐ対応し、可能な限り時間を作って早く2人を自分の側へ呼び寄せたい旨をイトリアに伝え、説得し続けるも…完全に意固地になってしまっている娘を納得させる事が出来ず、なかなか最後の一歩が踏み出せないまま彼も追い込まれていた、そんな折…


訳ありで部下にし、予想外の能力の高さと律儀さに惚れて秘書に抜擢した男が…ウェスラーの都合が付かない時には自分が差し入れだけでも持って行くと申し出てくれた。


「行ったついでに、僕なりの家族とのすれ違いを通した経験から見えたモノを、チャンスがあったら彼女に伝えて見ます。」


と言って、ウェスラーが行けない日は全て、彼がロワナの掛かりつけ医師からのアドバイスも受けて、用意した必要物質を届けに通ってくれたのだった…


そして…


彼が通うようになってからイトリアの態度も僅かだが軟化し始めて、ウェスラーとも少しずつ…ほんの少しだが、普通の会話が出来るようになって行った。


だがそれから間もなく…


ある日にウェスラーが尋ねると、呼び鈴に何も反応が無く…ドアには鍵がかかっていた。


家の中をカーテン越しに覗いてみるも、人が動く気配がなかった為、イトリアは何か一時的な用事で近くに出掛けているのかも知れないと、ウェスラーは少し様子を見て待ってみた。


時間にしたら15分前後だったように感じたが…実際はもっと短かったかも知れない…


彼女が戻る様子はなく、中で人の動く気配がないのは相変わらずで…


寝たきりの祖母を置いての外出もだんだん不自然に思えて来たウェスラーは、急いで掛かりつけの医師に連絡してみたが何も有力な情報はなく…ただ医師からは、


「あまり考えたくはないですが、中でイトリアさんが動けなくなっている可能性もあり得ますよ。」


と言われ、漠然とした不安が切羽詰まったモノへと急激に変化したウェスラーは、意を決して合鍵を財布から取り出し突入を試みた。


残念ながら不安は見事に的中し、イトリアは台所で倒れていて…


ロワナも…いつものようにベッドに横たわってはいたが…呼吸がかなり苦しそうだった。


ウェスラーは慌てて救急車を呼び…管轄外ではあるが救急隊員の人をなんとか説得して自分の暮らすマンションの近くの大病院に彼女達を運んでもらう事が出来たのだった。


結局、イトリアは過労により普通ではあまりない感染症で高熱が出ていて、更にそれにより腎機能もかなり弱っていたようで…対応が1時間遅かったら命に関わっていたと、担当医師に言われたのだった。


ロワナも…イトリアが長時間離れていた事で痰がうまく排出出来ず…かなり危険な状態に陥っていた。


その後、イトリアは1週間近く意識が朦朧とした状態が続き…やっと高熱が引いて来て普通に意思疎通が可能になったのは、運ばれて10日が過ぎた頃だった。


だがその間にロワナは…


残念ながら、運ばれて2日後に亡くなり…葬儀も埋葬もイトリアが高熱にうなされている間に滞りなく済んでしまっていた。


「嘘よ…そんな事…信じない……」


やっと自力で食事が取れるようになった頃…ロワナの様子を見に行くと言って看護師を困らせ始めていたイトリアに、ウェスラーは思い切って真実をそのまま告げた…


「嘘じゃないんだ…先生には外出許可を頂いたから、これからおばあちゃまに会いに行こう…」


ベッドから降りたものの…イトリアはぼう然自失のまま立ち尽くし、そのまま着替えようとはしないので、ウェスラーはとりあえず持参した厚めの上着を彼女に羽織らせて、秘書のデュンレと警護のトバルと共に、ロワナが埋葬された墓地へ向かったのだった…


移動中のイトリアは窓際に頭を預け、通り過ぎて行く街の景色を虚ろな目で眺めているが…車中では誰が話しかけても上の空のような返事をするだけだった。


そんな娘を見ながらウェスラーは、エンデが帰国する前の最後のやり取りを思い出しながら…激しい後悔の念に苦しんでいた。


アニアの忠告通りに…エンデが去ってすぐに動き、もっと勇気を出してイトリアに関わろうとしていたなら…ロワナがもう少し容態が安定している内に2人を連れて来られただろう…


私だけではなく…きっとイトリアも今後は後悔に苛まれるんだろう…


「……」


そんなウェスラーの果てのない自責の念は、移動中の車内に充満し…部下達も沈黙しがちになり、そんな空気感の中で一行はロワナの眠る墓地に着いた。


「…おばあ…ちゃま…?…」


虚な意識の中で車を降り、広い墓地を少し歩いて…


やがて皆が立ち止まった墓石に刻まれた名前が、ゆっくりとイトリアの視界に入る…


イトリアは倒れ込むような勢いで墓石に跪き、ポロポロと涙を零す…


「…ご…めん…わ…たし……ごめ……」


自分の涙で濡れて行くロワナの名前の部分を、何度も何度も袖で拭いながら…イトリアはしばらくそのまま…


「……」


そんなイトリアを、ウェスラー達は無言のまま見守っていた。


「…私が君達を見つけた時、おばあちゃまは少し呼吸が苦しそうだったが…逝く時は穏やかな顔をしておられたよ。」


少しして…ウェスラーが重い沈黙の中でやっと言葉をかけた。


「……して…」


ウェスラーは…イトリアがやっと自分に何か言葉を発した気がして、


「…なんだ?」


と、イトリアの傍に屈み込む…


「少し…5分でいいから…おばあちゃまと2人きりにして…下さい…」


絞り出すように…イトリアは病み上がりの弱々しい声でウェスラーに懇願する…


「…分かったよ。」


と言って、ウェスラー達はイトリアから少し離れた場所に移動し、彼女を見守る事にした。


そして…


「…彼女はまだ加療中の身体ですから、そろそろ戻った方が…」


あれから15分以上経っても、ロワナの名前の場所を触りながら何か話しかけ続けるイトリアの体調を心配し、デュンレがウェスラーに声をかける。


「分かってる。…分かってはいるんだよ…」


ウェスラーも…それは良く分かっていた。


…だが…


「…では私に少しだけ…彼女と話す時間を頂けませんか?…風も少し出て来ましたから、彼女の体調的にあまり猶予は無いと思うので。」


珍しく、デュンレが能動的にウェスラーの親子問題に関わって来る。


彼の生い立ちから来るイトリアへの思いは、ウェスラーなりになんとなく理解は出来ている為…


「…じゃあ、君に任せてみよう。出来るなら…なるべく早くに頼む。」


「はい…」


縋る思いでウェスラーはデュンレに託す。


「…イトリアさん、そろそろ戻りませんか?ここでまた体調が悪くなってしまったら…あなたのお祖母様も悲しまれると思います。またいつでも…ここに来たくなったら私共がお連れしますから…今日はもう戻りましょう。」


相変わらず墓石に四つん這いに近い体制で手と膝を付き、ロワナの名前が刻まれている箇所を撫で続けるイトリアに、デュンレは少し距離を取って背後から声をかけるも…


「……」


イトリアはほぼ無反応のまま…


デュンレは腕に掛けていた物を徐に広げてゆっくりと前に進み、イトリアの肩に…


こういう状況を予想して持って来た、彼女の予備の上着だった。


「ああ…ありがとう…」


抑揚のない声でイトリアは、とりあえずという感じの礼を言う…


「…あなたとお祖母様のお2人を…ウェスラー様は可能な限り仕事をセーブして付ききりで看病されていましたから…ここであなたがまた寝込まれたら、さすがにウェスラー様も倒れてしまいます。どうか…今日のところはお戻り下さい。」


イトリアは微かに苦笑いをし…


「…あなたはきっと…優秀な部下ね…」


背後にいるデュンレにかろうじて届くレベルのか細い声で、揶揄する様に反応する。


「…以前イトリア様にはお話しましたが…ウェスラー様は私の上司である前に恩人です。私だけでなく、部下達には皆信頼されていてとても懐の深い方です。私みたいな…父から見放され、全てを捨て飲んだくれて喧嘩三昧の挙げ句に路上でぶっ倒れてるようなヤバい人間を助け、更には秘書として側に置いて下さるような代議士なんて…少なくとも私は見聞きした事がありません。大袈裟でもなんでもなく、あの時にウェスラー様に助けられていなかったなら…私はここに生きてはいないでしょう。こんな自分を受け入れ信頼して下さっている方の為に私は命を捧げる覚悟です。だから彼の為には有能でありたいと、一生懸命にもなります。」


「……」


「あなたが望めば、今後もいつでもここにお連れしますから…どうか今日はもう…」


と…


イトリアは、デュンレが話し終わらない内にスッと上半身を起こした。


「…それで…?…あなたはご家族とは和解されたのですか?」


まだ膝をついたままのイトリアが、乱れた髪を軽く整えながらデュンレに尋ねる。


「…知りたいですか?」


「……別に…」


「…私の父はね…元々は軍人だったのですが、途中からウェスラー様のように政治家を目指していたんです。…ただ私から見て彼の理想はクソでした。父は結局、願い叶わずで見事落選した事だけは、世の中の為に良かったと今も思っています。」


「…だから、今のあなたとお父様は?」


質問には答えてくれないデュンレに剛を煮やし、イトリアは立ち上がって振り返る。


だがデュンレは動じる事なく…


「…ここでは言えません。」


と淡々と答える。


「じゃあ…どこでなら…」


言葉に少し感情のこもって来たイトリアの様子に、デュンレは内心安堵し…


「…あんまり人には聞かれたくない話なのでね…そう…病室でなら。あなたの点滴が終わる午後ならもしかしたら…個室ですから周囲の雑音もなく、少しゆっくりお話し出来るかも知れませんね。」


…こいつ…


世間的に殆ど擦れていないイトリアは、デュンレのちょっとした話術にハマってしまい…


「…分かったわ…あなたの言う通りにして上げる。」


と、少し悔しそうに車へと戻って行った。


途中、ウェスラーがデュンレに軽く頭を下げた事は、イトリアは知る由もなかったが…




「…もうっ…いい加減にしてよ!デュンレの嘘つき!」


突然、イトリアの怒鳴り声と共に目の前のサイドテーブルを思い切り拳で叩く音が病室に響いた。


イトリアの食べ終えた昼食の食器の乗ったトレイを片付けようと、デュンレが部屋を出ようとした時の出来事だった…


食事が運ばれて来る前からかなり不機嫌だった為、ある程度の予想はしていたデュンレは、努めて冷静に振り返り…


「…どうしましたか?いきなり大きな音を立てたら、病院の皆さんがビックリしてしまいますよ。」


イトリアはテーブルを叩いた拳をじっと見つめながら怒りを隠そうともせず…


「デュンレが嘘つきだからよ。…あなたはパパには誠実かも知れないけど…私には嘘つきよ。あれからずっと肝心な事には何も答えてくれないじゃない。あなたなんて大嫌い。あなたの言う事なんて、もう一切聞かないわ。…どうせ明後日には退院するんだから、イチイチ世話を焼いて下さらなくても結構よ。」


イトリアはベッドを降りながらデュンレを罵り、彼に近付いてトレイを奪おうとする。


だが、デュンレは素早くそれをかわす。


「分かりました。私がお嫌いなら、これからはなるべくあなたの視界に入らないよう努力します。ただその前に…許可を貰いましたので、退院前に、最後に私とのドライブに付き合って頂けませんか?…そこであなたの質問には全てお答えしましょう。」


「え…?」


[質問に全て答える]…というデュンレの言葉に、イトリアの怒りはほぼ一瞬で収まってしまう…


あの日…少し風の出て来た墓地で彼は、イトリアの質問には病室なら答えると言ったのに…


デュンレはその後、順調に回復に向かうイトリアに、午後はなるべく勉強を教えて欲しいとウェスラーに請われ、出来る限りスケジュールをやり繰りして彼女の病室へ通った。


自身の家族との思い出話や世間話を交えながら、無理のない範囲で希望の編入先の学力レベルに追いつける為の勉強を、彼女の身に付いている知識や思考力を会話の中から探りながら教えたりしていたが…


彼女が一番知りたがっている、今現在の家族の様子や交流に関しては、デュンレはさりげなくはぐらかし続けて10日が経ち…いよいよ明後日に退院が決まってしまった事で、イトリアの苛立ちがピークに達してしまっていたのだった。




「ねぇ…これはただのドライブではないの…?」


かつてロワナの墓地へ行った時のように、イトリアは軽く上着を羽織る感じで捉えていた外出だったが…


あれからすぐデュンレの部下らしい女性達が現れて、上品なワンピースを着せられ髪も軽く結われ…更には薄っすらメイクまで施して、デュンレの運転する車の助手席に乗せられたイトリアは、困惑しながらデュンレに尋ねる。


「まあ…お身体も大分良くなられた事ですし…オシャレをして少し早めに外の空気を感じて頂くのも気分転換になるのではと…。それにしても…ウェスラー様の奥様はとても美しい方だったそうですが…さすがその遺伝子をしっかり受け継がれておられますね。とても素敵です。」


「え…そんなこと…ないわ……って、ダメよ。私はもうはぐらかされないわ。」


デュンレに褒められ一瞬、頬を染めたイトリアだったが…


「ただの気分転換のドライブにここまで本格的に支度を用意する?いくらなんでも事前の説明が足りな過ぎるわ。いい加減にしないと…私このまま車から飛び降りるから。」


これにはさすがのデュンレも少し焦り…


「まあ落ち着いて。…行方不明だった妹が…メクスムの都市部で歌劇の歌い手として活動していた事が最近分かりましてね。どうしてもその様子を見てみたいとは思っても、慣れない場所に男1人で行く勇気がね…。で、社会勉強と気分転換も兼ねて、あなたに付き合って頂こうかと。勿論、ウェスラー様の了解は得ておりますよ。」


「…そうなの……その……良かったわね。」


イトリアは…彼の口から久しぶりに妹の話が出て来て…一気に神妙な表情になる。


デュンレが話す家族の近況で唯一、イトリアに話してくれたのは妹の事で…


彼女はある時から足取りが掴めない状態になっていて、デュンレは彼女をずっと探していると…


「…ありがとうございます。体調もほぼ快復され、気力もかなり戻って来られたあなたなら…多少シビアな内容のお話をしても、もうそろそろ大丈夫かと思いまして…。妹の出演する舞台の会場まではやや距離があり、病院からは1時間弱かかるかと思いますので…道中の私のつまらないお話に少しお付き合い下さい。」 

「…分かったわ…」


前を直視しながら運転するデュンレの目は…イトリアには少し悲しそうに見えた。


「…妹は…今となっては、この世でたった1人の僕の家族なんです。」


「…そう……えっ?たった1人って…」


「私の両親はもう亡くなっているんですよ。親不孝な自分はどちらの死にも立ち合えず…全て後から知ったんです。」


「……」


イトリアは今までに、両親との和解は叶ったのかと…デュンレに何度か質問をしていた。


知らなかったとはいえ、デュンレに対して繰り返した質問はとても残酷なモノに思えて来て…今までのイトリアの勢いは一気に消沈してしまっていた…


「…知らなかったとはいえ…私の執拗な質問はとても無神経だった…ごめんなさい…」


助手席から向き直れる範囲で身体を向け、イトリアはデュンレに向かって深く頭を下げる。


「謝らないで下さい。あなたにあえて興味を持ってもらうような話し方をしたのは私ですから。まあでも…両親の死を知った当時は正直ショックでした。トバルさんやウェスラー様にまで…あの頃はかなり心配をかけてしまいましたから…」


イトリアには微笑みかけたが…その時の様子を思い出したのか、直後にデュンレは辛そうな表情を滲ませた。


「でも…ウェスラー様はああ見えてとても聞き上手でいらして…さりげなく話題をそちらに向けて来るんです。他の先輩取り巻きの方達もね…聞き出されては慰めてもらい…なんか温かくて。私はね…あの時ほど人の優しさが身に沁みた事はありませんでした。そして、人に話を聞いてもらっている内に…いつの間にか悲しみも吐き出せてる事も…後になってですが、私は知ったんです。」


「……」


デュンレはそのまま…


両親が亡くなったいきさつだけでなく…家族がバラバラになってしまった詳細を訥々と話し始め…


イトリアは…相槌は勿論、質問を挟める事も出来ずに…デュンレの話にただひたすらにじっと聞き入っていた。


「私がもう少ししっかりしていれば…たとえ期待はずれの息子でも、父が家族にもたらして来た混乱をなんとか出来たかも知れないと…今でも考えてしまう事はよくあります。でもそれは今となってはどうにも出来ない過去なんです。不毛な後悔に落ち込んでる暇があったなら…妹の幸せの為に、私は出来るだけの事をするつもりでいます。妹の背負ってしまった罪は、本来は自分が背負うはずだったモノと自覚していますから…その事は常に忘れる事なく、今後の彼女の人生を陰ながら支えて行ってあげたいと思っているんです。」


「……」


「…せっかく、綺麗なお顔に塗ってもらったメイクが台無しになってしまいましたね…申し訳ないです。」


ハンカチで何度も涙を拭いながらじっと自分の話を聞いているイトリアに…デュンレはすまなそうに言った。


イトリアは、そんなデュンレの言葉に無言で顔を横に振る…


そんなやり取りをしている内に、デュンレの運転する車は目的の会場に入ろうとしていた。


「まあイトリア様、メイクが…お目々の周りが黒く滲んでしまってます。こちらへいらして下さいませ。急いで直しましょう…」


車が建物の地下の駐車場に止められ、イトリアはデュンレに促されるまま降りるとすぐ、ドアの近くに立っていた女性が慌ててイトリアの手を引き、近くの車に誘導される。


「……」


メイクを直してくれているスタッフをよく見ると…先程病室で支度を手伝ってくれていた人だった…


道中はデュンレの話を聞く事に夢中になっていて、外の景色は殆ど記憶にないイトリアだったが…どうやらイトリア達の乗る車の前後は、2人の護衛の為について来た車のようだった。


そして、急いでメイクを直されたイトリアが車を降りると…ドアの側で待っていたデュンレがすかさず跪き、手を差し伸べて来た…


イトリアは戸惑いつつ…向けられた手のひらの上にゆっくりと自身の手を乗せる…


「…ではお嬢様…参りましょう…」


デュンレは微笑み、流れるような所作でイトリアをエスコートする。


「今日のデュンレは…まるで王子様みたいね…」


デュンレにリードされるまま、彼と腕を組んで歩くイトリア…


長い事ずっと田舎に引きこもっていた女の子は…自身を王女様のように扱う洗練されたデュンレの動きにただただポーッとなってしまっていた…


「…ありがとうございます。そんな風に褒めて下さるのはイトリア様が初めてです。秘書のお前がマナーも知らない田舎者と思われてしまったら、恥をかくのはお前ではないと…取り巻きの先輩達に色々教え込まれたんです。あなたに褒めて頂けたので、これからは少し苦手意識が薄れそうです。」


と、デュンレは少し照れていたようだったが…すぐにまたいつもの感情のあまり見えない表情に戻ってしまっていた…


…という事は…デュンレがこんな風に女性をエスコートをする機会は時々あるということなのかな…?


「…私にはとても自然な動作に見えたわ…色々なマナーを覚えるのも大変なのね…」


デュンレが他の女性の手を取るシーンを想像したら…何故だかイトリアの胸はキュンと少し痛んだ。


「…何を呑気な事を…秘書の私ですらこうですから…ウェスラー様の娘であるあなたの楽しいマナー訓練は間もなく幕を開けますよ。」


「え…そうなの?嫌なんだけど…」


素早いイトリアの反応にデュンレは、やれやれとでも言いたげな表情で眉間を指で押さえ…


「…まあ…その件に関係する話も帰り道で致しましょう。」


と言いながら、会場入り口で係員に2人分のチケットを渡すデュンレ…


「何?関係する話って…」


…またこの人は何か引っかかる話し方をする…


と、イトリアは話題を他に移さないよう、慌てて聞き返すのだが…


「おう、デュンレ。」


ロビーに入った途端、横から聞き覚えのある声に遮られる。


「あ…いらしてたんですね。」


デュンレは声の主であるトバルを見て、特に驚くでもなく答える。


「…まあな…じきに娘になるんだし…息子の恩人でもあるからな。一度は聞いてみてくれってライアンは煩いし…かと言って男2人で見に行くのもなんだかな…って考えてたら…今日になっちまったんだ。」


「娘って…」


デュンレはトバルにツッコミながらも…なんだか嬉しそうに笑った。


「…まあ同じようなもんだろ。…嬢ちゃん、そいつは一見冷たそうだが根は誠実な奴だからかなり有料物件だよ。これからも仲良くしてやってな。若い頃のボスにもなんか…似てるしな…」


「…有料物件?…それってどういう…」


デュンレとの会話や、途中から自分の方を向いて話し始めたトバルの話す内容もなんだかちんぷんかんなイトリアは、色々意味を尋ねたかったが…


「ちょっ…何を言ってるんですか。この方はウェスラー様のご息女ですよ。いくらトバルさんでも軽率な発言は控えて下さい。この方はこれから慎重に世の中の事を色々学んで行かねばなりません。私はその為にこの方に付いて見守っているに過ぎないのですから、イトリアさんに変な先入観を与えてしまうような発言は困ります。」


最初こそ…少しムキになった様子に見えたデュンレだったが…


「……」


トバルの言葉よりむしろ、彼の[付いて見守っているに過ぎない]という言葉がなんだか無性にイトリアの心をざわつかせ、落ち込んでもいる自分に少し戸惑っていた。


「まあ…そうだな、悪かった。今日の俺は少し…いや、かなりソワソワしてるから…これ以上余計な事を口走らないようこれで退散するとするよ。ただ俺は…鋭いのは耳だけじゃないぞ…」


「だからそういう…」


「ああそうだな、やっぱり今日の俺はいつもより口が軽くなっているようだ。…お前にとっても今日は特別な日だろうしな…お互い楽しもう。じゃあ今度こそ行くとするよ。嬢ちゃんも、またな…」


デュンレの苦情をかわしながらトバルは、2人に向かってそれぞれ軽く敬礼のようなポーズをして、ロビーからホールへ向かう人の流れに飲み込まれて行った。


「まったく…今日のあの人はかなり浮かれているな…」


彼の向かったホールの入り口を見つめながら呟くデュンレは…発した言葉とは違い、やはりどことなく嬉しそうだった。


「トバルさんのお目当ての方と、あなたの妹さんは同一人物なの…?」


トバルとの会話に半分も付いて行けてなかったイトリアはデュンレに尋ねる。


「…どう思いますか?」


デュンレは一瞬、複雑な表情を浮かべたが…すぐにいつものポーカーフェイスに戻って、少し意地悪そうな顔で質問返しをした。


「またそうやってはぐらかす…もう知らない。」


イトリアは、デュンレにまたもやあしらわれている今の状況が、何故だかとても悲しくなってしまい…ジワっと涙が滲んで来てしまった。


…私が2人の会話に入り込めるほどの信頼関係は構築されていないの分かる…けど…話せないならハッキリそう言ってくれた方がよっぽど…


だがデュンレに涙を見せるのも悔しくて、イトリアは組んでいた腕を外して先に行こうとする。


「待って…」


と、咄嗟にデュンレはイトリアの手を掴む…


「ごめんなさい…気分を害したなら謝ります。私も実はかなり緊張しているようです。詳しくは帰り道でお話ししますから…今はどうか…」


確かに…イトリアが振り返った時に見たデュンレはとても不安そうな顔をしていた。


…もう、本当にズルいんだから…


「…分かったわよ。…帰り道ではぐらかしたら、今度こそ車から飛び降りますからね。」


と言って、イトリアは再び彼の腕に自身の腕を絡めて、


「さあ、行きましょう。」


と、デュンレを促すのだった。




「…あの…右側の後ろに立っている、ピンク色のスカーフを首に巻いた女性が…妹のようです…」


公演が始まって間もなく、デュンレは隣の席からポツリと一言だけイトリアに説明した。


「……」


デュンレの方を反射的に見たイトリアは…


ただでさえ薄暗い中でサングラスをしていたので、少し驚いた。


だかその理由は少しして…


デュンレの頬が舞台のライトを反射しキラッと光った気がした時に、大体の意味を察した。


「凄い、引き込まれるような歌声ね…素晴らしいわ。」


初めて観る歌劇にひたすら感動しながらイトリアは、本心から思った事をひと言だけ…あえてデュンレの方を見ずに伝えた。




そして、公演は終わり…


「会いに行ってみては?」


とイトリアは提案するが、


「いや、それはいいんです。」


とデュンレは即答した。


「どうして?ずっと会えていなかったんでしょう?せっかく公演を観に来たのだし…」


と、イトリアは粘るも…


「色々な方の厚意で、妹の近況の詳細は把握出来ているんです。今はそれだけで……言ったでしょう?陰ながら見守って行くって。陰からの方がかえって動きやすい面もあるのですよ。」


デュンレはそう言っていたが…


笑顔はどこか切なかった。




「…ねえデュンレ、妹さん…とても素敵だったわ。歌声は本当に…出演されている人達の中で飛び抜けていらしたと思うし、とてもお綺麗な方ね。これからどんどん活躍されて行くのでしょうね…」


「……」


帰りの車中…デュンレは全く喋らなくなっていた。


でも不思議とそんな彼をイトリアは受け入れられていた。


けれども…


車がいよいよ病院の駐車場に入ったので…


「今日はとても楽しかったわ。ありがとう…」


彼にお礼だけ言って車を降りようと思った時…


「イトリア様、あなたは優しい方ですね…色々とご配慮を感謝します。退院後になってしまいますが…私はウェスラー様より、あなたの学校編入の為の臨時講師に任命されておりますので…その際に時間の許す中で私がお話し出来るギリギリの範囲にはなりますが、質問には可能な限り答えて参りましょう。」


「そう…なの?分かりました。よろしくお願いします。」


聞き返したい事は山ほどあるが…彼の今日これからの時間は、出来るだけ家族を思う時間に使って欲しいと思ったから…今は止めておく事にしたイトリアだった。


なのに…


「…妹は来月にトバルさんの息子さんと結婚する予定なんです。なので残り僅かの公演を終えたなら、妹はしばらく活動を休止するようです。」


なんで…?


「そうなの…?…せっかく聞きたい気持ちを我慢していたのにこんなタイミングで?…もうあなたって…」


止まった車の側では既に会場でメイクを直してくれた女性スタッフが待ち構えていた。


質問したいストレスが再び一気に膨らんで来たイトリアは、頬を膨らませながら車のドアを開けようと手を掛ける…


「…それは失礼致しました。では、お詫びの印にまたドライブにお連れしましょう。」


「え?」


と振り返ろうとすると、


「イトリア様、お疲れ様でした。」


と、待機していた女性スタッフがイトリアの座っている助手席側のドアを開ける。


「あ、ああ…どうもありがとう…」


車を降りながらかろうじて振り返った時、ドアが閉まるまでの瞬間に見えたデュンレの顔は…


少しだけ微笑んでいたように見えた。


ああでも…そうだわ…


気付けば、この人のせいで私は…お祖母ちゃまの事を考える時間が減って来ている。


他の事を考えていいって…いつの間にか思わせて…


それは今まで想像もしていなかった時間だけれど…


生きるという事が思いのほか楽しく優しい日々を過ごしている自分を…


戸惑いながらも、いつの間にやら私は受け入れ始めているのだ。


そして更にイトリアは気付いてしまった。


知りたがっているのは、デュンレと家族の関わりよりも…デュンレ自身の事になりつつあるという事実を…


それはなんでなのか…?


分からないのに、その欲求を無視しようととすればするほどに…なぜだか胸が苦しくなって来る…


ならば、あなたの事は可能な限り知り尽くしてやる。


その貪欲な欲求を満たせば或いは…この変な胸のざわつきや痛みは消えるのかな?


イトリアは退院後に始まる新たな生活に思いを馳せるのだった…




そして退院後…


イトリアは父ウェスラーの暮らすフロアで生活する事となり…


デュンレの言葉通り、彼は可能な限り秘書の仕事をセーブされてイトリアの専属家庭教師となった。


ウェスラーがある程度安心出来るセキュリティが整えられていると判断した、中流層以上の家庭の子供達が通うまあまあ難関な進学校に、イトリアが編入出来るまでの期限ではあるが…


午前は他の女性スタッフによる教養やマナー、午後は編入試験対策や基礎学力を高める為の勉強と…


カリキュラムはなるべくイトリアの負担にならないよう考えて組まれてはいるが…息苦しそうな…ストレスを感じている表情が目に付き出すと、ウェスラーやデュンレや、時には護衛も出来る女性スタッフ達が、自然散策を兼ねたドライブや都市部でも特に文化の中心地でのショッピングや芸術鑑賞、時には同世代の若者が多く参加しているボランティア等…社会勉強を兼ねて色々な場所にイトリアを連れ出した。


その中で、徐々にイトリアが特に興味を示して行ったのが、ボランティア活動と…歌劇鑑賞だった。


そして、特にドライブや歌劇鑑賞に関しては、随従するスタッフにはいつも強くデュンレを指名して来た。


「ねえ…本当に会わなくていいの?」


デュンレの妹が出演している公演の最終日には、イトリアは強くオネダリをして会場に連れて来てもらっていた。


「…いいんですってば。この後はウェスラー様と来週のテイホの政治家達との会談の打ち合わせがありますから、花束をお渡ししたいならお急ぎ下さい。」


「……」


イトリアは渋々…1人で舞台の方へ歩き出し、既に幕は降りていたが舞台の手前の…誰か他のファンが置いて行ったであろう花束の側に自身の胸に抱いている花束を置いた。


デュンレには見えないように、花束の中に妹の芸名宛に「イトリアより」とだけ書いたメッセージカードを挟んで…


実はイトリアは、彼女の所属する事務所にファンレターを書いていた。


[先日、知人に連れられて観たあなたの歌声に心が震えました。素晴らしかったです。知人の方はデュンレさんと言いまして、私がとてもお世話になっている人です。こっそりバラしてしまいますが、彼はあなたの舞台を見ながら涙を流していました。それほどに素晴らしい舞台でした。あなたの今と未来が幸せでありますよう…祈っております。   イトリア]


と書いたファンレターを、少し前に事務所に郵送で送っていて…


住所は書かなかったので、実際に本人が読んでくれているかはなんとも自信はないのだが…低い可能性に賭けて、この私の名前だけのカードと花束も…後の公演にも来ましたよというギリギリの意思表示的メッセージとして送ったのだった。


デュンレはいずれ妹と会う事になるかも知れないが…


再会する前に、出来ればデュンレの思いが良い意味で伝わればとイトリアは願ったのだった。


…デュンレ…お節介が迷惑だったらごめんね…


とは思いながらも…2人の絆は良い意味で繋がっていて欲しいと…願わずにはいられないイトリアなのだった。




それから3ヶ月後…


「おめでとうございます。本当に良くここまで頑張りましたね。」


第1目標としていた学校にイトリアは見事に合格し、デュンレの手配によるウェスラー御用達のセレブの隠れ家的レストランで、ウェスラーや部下達皆んなで合格のお祝いをしてくれる事になったのだが…


「ありがとうございます。…もう…恥ずかしいからお祝いはいいって言ったのに…よりによってこんな凄い立派なお店で…」


「畏れながらイトリア様。お祝いしたいウェスラー様の親心を喜んで受け入れて差し上げるのも親孝行の1つでございますよ。それにここはセキュリティの面でウェスラー様が唯一評価するお店ですから…選ぶお店も色々と事情があるのです。良い機会ですから、イトリア様は普段あまりご一緒出来ないウェスラー様との夕食のひとときをじっくり楽しんで下さいませ…」


と、すかさず教養面やマナーを指導してくれた年配の女性スタッフに、イトリアは説教されてしまった。


「テイラ…お祝いの場にそんな説明は無粋というモノだよ。今夜の食事会は皆の普段からの尽力に感謝する意味でも催したんだ。私やイトリアに気兼ねなく、皆、今夜は美味しい食事とお酒を楽しんでくれ…」


いつの間にか…


イトリアは、今ここに集まってくれた人々全員と打ち解けていた。


中には一言二言の言葉を交わしただけの者もいるが、彼等はいつも…イトリアに温かい挨拶を返してくれる…


人と関わる事の楽しさを、イトリアは日々感じる事が出来るようになっていた。


これも全て…言葉や態度はどちらかというと素っ気ない父やデュンレの様々な配慮と、皆の暗黙の連携があっての結果なのだろうと…徐々にイトリアは分かって来ていた。


「ねえパパ…」


トバルとの雑談が途切れた父にチャンスとばかりにイトリアは話しかける。


「なんだ?」


呼びかけに反応しただけのウェスラーがイトリアの方を向く…


「大好きよ。今まで心配ばかりかけてごめんなさい。私…これからはパパの為にも色々頑張るからね。」


イトリアは満面の笑みで言った。


不意を突かれ、一瞬、驚いたように目を見開くウェスラーだったが、


「そうか…パパもイトリアが大好きだよ。頑張らなくていい…パパの為を思うのなら、これからもずっと元気で…パパの側にいてくれ。」


…硬派なウェスラーらしく、言い方こそ淡々としていたが…直後になんとも照れ臭そうな表情を見せた父に、イトリアは再び満面の笑顔で反応した。


「ありがとう、パパ…」


「…ちょっと…失礼…」


いきなり席を立ち出て行こうとするウェスラーを、イトリアは少し不安気に目で追う…


「心配すんな嬢ちゃん、タバコかトイレだ。ボスは照れ屋だし、本当は涙脆いんだ。内緒の話だぞ。」


トバルがニコニコしながら小声でイトリアに伝えるも…普段から話す声は人一倍大きいトバルの内緒話は皆に聞かれていたようで…


「トバル、全然内緒話になってねえぞ。」


同じ警備仲間の男がツッコむと、皆がドッと笑った。


それぞれが勝手に雑談しながらも、親子のやり取りは皆なんとなく気にかけていたようだった。


「いいんですよ。今は深く考えずとも…とにかくお元気で…ウェスラー様の側にいて差し上げて下さい。」


続けて声をかけたテイラの目も少し潤んでいたが…誰もそこに触れる者はなかった。


「そうだな。肩の力を抜いてな…早くここの暮らしと学校に慣れる事だな。ボスはそれだけで安心なんだよ、嬢ちゃん。」


「トバルさんは少し慣れ過ぎですよ。オフにウェスラー様の留守を見計らって、同じくオフのスタッフを集めて賭けポーカーは止めてくださいね。以前、未成年のエンデにも賭けさせようとしていたでしょう?もうすぐお孫さんが産まれるのだし…賭け事は控えて下さい。」


…えっ?…


思いがけない新たな情報に、イトリアは思わずデュンレの方を見る。


と、


「そうだぞ…可愛い孫には色々買って上げたいんだろう?止めろって言っても無理だろうから、せめてポーカーの回数を減らせ。それから、フロアの奴等でやるなら私も混ぜろ。それなら多少は許す。」


目は少し赤かったが、いつもと変わらないウェスラーがトバルを嗜めながら戻って来た。


「デュンレ、孫の話を巻き込むのは汚いぞ。ボスが混ざるのは構わんが…いつも色々と理由を付けて2時間くらいで終わらせてしまうんだ…」


「賭け事は全て止めろと言われるよりいいだろう?」


いつも通りの口調ではあるが…今夜のウェスラーがかなりご機嫌である事は、イトリアだけでなく、ここにいる全ての人達は感じているようで…皆んな…責められているトバルでさえニコニコしていた。


まあ少し悔しそうだったが…


「デュンレめ…お前にだって攻め所はあるのを俺は知ってる。…なぁ嬢ちゃん?」


唐突に意味深な事を言ってイトリアにウィンクする。


「いや、私は何がなんだか…何も知らないです。」


いきなり自分に振られて焦ったイトリアは首を少し左右に振りながらトバルに答える。


「いや…嬢ちゃん、そう言う事じゃないんだよ…」


「トバル、止めときなさいよ。例え冗談でも…ウェスラー様の表情をご覧なさい。」


テイラがそこで口を挟むと、皆の視線がウェスラーに集まる…


「表情って…テイラ、私は今はどんな顔をすれば良いのだ?」


困ったような…少し不機嫌でもあるウェスラーがそう言うと、再びドッと沸く…


「とにかく、変な憶測で話を進めるのは良くないぞ…トバル。」


困惑気味なウェスラーが釘を刺すと…


「…そうですよ、トバル。」


テイラもそれに追従する。


「…テイラ…お前はそういう所…ズルいよな…」


少し不貞腐れたトバルは、グラスに残っていたワインを一気に飲み干した。


そんなやり取りがあって、デュンレとイトリアの事に触れる者はその後はなかったが…皆なんとなく…時々デュンレを見てはニヤニヤしていた。


ただ…この場でその意味を一番理解していないのはイトリアであろう事もまた、皆はなんとなく察していたから…まだ進展してもいないモノを変に揶揄する事はあえて止めたのかも知れない…


…こうして楽しい夜は更けて行った…


…だがこの時、トバルの挑発にも乗らず淡々とやり過ごしていたデュンレが、ある大きな決心をしていた事は…ウェスラーすらも気付かなかったのだった。


そしてそれは…


突然の嵐の襲来のような出来事と共に、イトリアも否応なしに知る事となった。











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