31 羨望
…なんで?…なんでそこまでアイツに拘るのよ…
カリナはかなりの苛立ちを抑えながら努めて冷静に…タニアに何度目かの同じような内容の説明を始める。
「…でもさ、タニアちゃん…ミアハの長老やセレスの人達に私達の交流がバレたら…タニアちゃんは私と一緒にいられなくなると思う。だから…早めにミアハを出てテイホで一緒に暮らそうよ。」
「……」
タニアはどうにも決心が付かず…困ったように笑いながら、窓の外の景色に視線を移す…
3ヶ月前…カリナはセヨルディでネサムを巻き込んでトラップを張り、自身の傀儡の力でタニアの心を捉え、偽物の友情を得られる事に成功したのだが…ここに来て彼女はテイホで暮らす事を渋り始めていた。
その原因は…彼女の実の弟のヨハ…
一時は記憶の奥深くで放置されていた彼への執着が急に膨らみ始めたのだった。
キッカケは…テイホ国が1番に欲している変異の娘ヒカの存在を、ある時にタニアは衝撃的な形で目撃した事だった。
セレスの学びの棟と育児棟は、ほぼ円形の大きな広場を囲むように建設されていて、お互いのカリキュラムが重ならないように広場を上手く活用しているのだが…
ある日の昼下がりにタニアがふと窓の外の広場に目をやると、しばらく見かけなかったヨハが噂の変異の娘と遊具を使って楽しそうに遊んでいる様子が…
この瞬間、忘れかけていたヨハへの複雑な思いが浮上し始めたのだった。
親友を突然亡くした悲しみを、1度はハンサとの交流で癒せたが…ハンサの異動であまり会えなくなった頃に、再び学びの棟で同じ悲劇が起きたのだが…今度は若いアムナだった…
当時、その事件の少し前に周囲から浮いた男の子が育児棟から上がって来ていた。
その子はかなり賢く勉強は出来るのだが生意気で…人を寄せつけない雰囲気を常に漂わせていた子だった。
いつも1人で本を読んでいるような子だったが、その子に何度拒絶されても懲りもせず話しかけて見事会話のキッカケを作り…結果的に当時の彼が最も心を開いていたのが…その若きアムナだった。
だが彼女は…その彼の目の前で倒れ…そのまま亡くなったのだ。
彼はそのアムナと話すようになってからはとっつき難い印象は和らいで来ていたのだが…
アムナの急死から…彼はすっかり元の孤高の少年に戻ってしまっていた。
タニアは自分と似た体験を持つ彼がとにかく気になり…勇気を出して何度か話しかけてみたのだが…
「僕は今、人と話したくないんだ。あっちに行ってくれる?」
いつも殆ど目も合わせずに同じ事を言われ…とうとう話しかけるのを諦めてしまったタニアだった。
だがそれでも…その後いつの間にか何ヶ月もいなくなり、時々思い出したように学びの棟に姿を現す彼を、タニアはなんとなく気になって目で追っていた。
彼なら…大切な人を突然亡くした自分の悲しみを分かってくれる気がして…
けど彼は…孤独を好む人なんだと…ずっと思っていたのに…
あの変異の子の前でなら、あんな風に優しく笑えるんだと知った衝撃…
どうして…?
独特の色彩と雰囲気を纏う変異の幼女を遊ばせている時の彼の目はなんとも優しそうで…彼等を見かける度にタニアの中で疑問と羨望の気持ちが膨らんで行ったのだった。
同時に、あの孤高の少年を変えてしまった変異の幼女に対しての好奇心が日々膨らんで行ったタニアは、自分の特殊能力の存在を気付かせ、非合法な形でテイホに何度か連れて行ってもらった際にその特殊能力強化訓練を施してくれたカリナによって、人の思考や過去の記憶がある程度読める様になって来ていたので…
アムナになって、あのヒカという変異の娘に直に接してみたい衝動を抑えられなくなっていたのだった。
カリナとしては、タニアがヒカに接点を持つことは悪い展開ではないと思ったが…ヨハという少年は自分と同等…いや、何か自分とは異質の力を持っている気がして…ちょっと嫌な予感がしていた。
何より、カリナ自身はヒカやヨハに関する情報を能力で探ろうとすると、得体の知れない青い霧みたいなモノがかかって来て、よく見えなくなって来る事も彼女を不安にさせた。
だがタニア自身はそういう青い霧の話を言って来た事がないので…ひとまず、彼女のアムナになりたい要求は受け入れて、当分はセレスの学びの棟内部の情報を得る事に専念しようと判断した。
「…分かったわ…タニアちゃんがそれほどにアムナになりたいなら、私も応援するわ…」
いざとなれば、自身の傀儡の力でタニアの意思を押し込めれば、大抵の危機は避けられるだろうとカリナは考えた。
唯一の好材料は、間もなくヨハは医師になる為の研修で、セレスを離れしばらくティリの病院に行く事…
そして、もう1つの大きな懸念であるタニアとタヨハ親子の接触も、カリナの傀儡でなんとか回避出来ていた。
だが徐々に…
当初のカリナの思惑から離れ、タニアは予想外の行動を取り…結果的にそれが2人を窮地に追い込む事となる…
予想以上にタニアのヒカに対する好奇心は膨らんで行き…
ある時、タニアはカリナに相談もせずに学びの棟における年少組担当となる副主任に立候補し就任してしまったのだ。
あろうことか特殊能力を最大限にに使って…
そして、その2週間後…
事件は起きた。
ある日の昼休み…ヒカは誰もいない音楽室にいた。
当時のヒカは、特別にヨハ限定直通のイヤーフォーンを持たされていて、声が聞きたくなると時々人気のない場所に行ってヨハに通話していたのだが…その日はたまたま1人で音楽室に向かうヒカをタニアは見かけ…ドアの近くで通話の様子を聞き…そうしてるうちに今までの彼等の交流の映像がタニアの脳裏に流れ込んで来て…
ヒカに対する羨望はみるみる嫉妬へと変化して行った。
「……え?…」
ふと気がつくとタニアは音楽室の中にいて、足元には…ヒカが倒れていた。
タニアは何が起きているのか理解が出来ず、慌ててヒカの身体を揺らし声を掛けると…
ヒカは何事も無かったかの様に目を開けた。
タニアはとりあえず胸を撫で下ろし、ヒカにはもうすぐ昼休みが終わるから教室に戻るよう促した。
その時のタニアは何も起こらなかった事を信じ、自身も午後の予定の場所に向かおうとしたが…歩き出した際に軽く膝を払おうとした時に軽い違和感を感じ…
服の前ポケットの中を見ると、見覚えのないイヤーフォーンが入っているのを発見した。
半ばパニック状態に陥っていたタニアは、その日の夜にそっと外に出て、そのイヤーフォーンを取り出しカリナに連絡すると…カリナはかなり困惑していたが…
そこから後のタニアの記憶は…
複数の見知らぬ男達に連れられて、どこかの田舎に連れて行かれるまで、殆ど無くなってしまっていた。
「パパ…?」
畑の草むしりをザッと終え、畑の脇に置かれたベンチにエンデが置いて行ってくれたお茶とクッキーで簡単なお茶タイムをしていた時…タニアはなんとなく隣に座るタヨハを呼ぶ…
「なんだい?」
いつものように、タヨハは優しくタニアに微笑み応える…
長い間…無限ループのように悪夢をたくさん見て…
その先にやっと光を見つけ手を伸ばしたら…この人の笑顔があった。
気が付くとその周囲にも…安心出来る温かい笑顔達があった…
だけど…物心ついた時からいつも変わらず笑顔で抱きしめてくれた人は…
今、この隣にいるタヨハだった。
「たくさん…たくさん迷惑かけてごめんね。私はこうしてずっとパパの側にいられたら…それだけでいい…」
「なんだい急に…」
タヨハは戸惑いながらも…嬉しそうだった。
「パパ、私ね…一生かけて恩返しするからね。」
タニアは徐に立ち上がり、タヨハの背後に回って肩揉みを始める…
一瞬、タヨハは予想以上にビクンと大きく反応したが…
「…ありがとう。私はタニアが元気で笑っていてくれたら…それでいい。恩返しなんて考えなくていいから、君なりの生き方を見つけて…とにかく元気で…時々はパパに顔を見せに来てくれれば…それだけでいいよ。」
元気になったらいつでも遠くに行っていいと…なんだが突き放すようなタヨハの言葉に、タニアは無性に不安になる…
「私は…ずっとここにいたらダメ…?」
「いや…居たいだけ居ていいんだよ。君の将来は自由に考えていいという意味で言ったんだ。…君はいつか素敵な人と出会って離れて行く事を常に意識していないと…この先辛くなるだけだからね…」
「いや、私はずっとパパと一緒にいたい。結婚なんてしないわ。」
タニアは思わずタヨハの背中に抱きつく。
「…嬉しいけど…複雑だなぁ…孫と遊びたい夢もあるんだけど…まあいいか。ありがとう…」
タヨハは自身の前に回されたタニアの手を軽く握る…
「まったく…親子でイチャイチャして…どのタイミングで声かけようか迷っちゃったじゃないですか。ハンサさんからプリンの差し入れですよ。」
エンデはそう言いながらもニコニコしていて、プリンの入った袋をタヨハの脇に置く。
「わぁプリンだ…おじさん奮発したわね。外国のお土産でしょう?」
ポウフ村では珍しいお菓子に興奮するタニアを、エンデはなんともいえない優しい目で見つめる…
「…いや、昨日セヨルディに長老のお供で視察に行った際のお土産だって。作り方は割と簡単らしいので、今度鶏の卵が余ったら作って見るね。」
「凄い、エンデったらプリンも作れるの?本当になんでも出来ちゃう人ねぇ。…あ、良いこと考えた…私、エンデと結婚すればいいんだわ。そうすればここにずっといられる…一石二鳥じゃない?」
タニアは目を輝かせながらタヨハとエンデを交互に見る。
「バッ……何言ってんだ。一石二鳥って……そんな打算だらけの結婚は謹んでお断りします。」
タニアの予想外の言葉にエンデは思わず真っ赤になり…タニアの不純な動機に少々ムッとしながら反応する。
「いや…悪くない…かも…私は賛成かな…」
「もうタヨハさんまで…悪ノリしないで下さいよ。」
「いや…悪ノリなんかじゃ…」
…いや…本当に止めてくれ…と、エンデの心は掻き乱される事を必死に拒んでいた。
…僕じゃ…ダメなんです…
「…このままいたら…この2人の政略結婚にハマりそうなので、ここで退散します。」
「…何よ…政略結婚て……エンデのバカ…」
少し切なそうなタニアの文句を背に…エンデは何も反応する事なく、子供達の声が賑やかな方へ離れて行った…
「あの子は…子供達の養育施設と医療施設をこのポウフ村に作る事が自分の使命みたいに思っているからね…しばらくは自分のプライベートの事なんて考える余裕はなさそうだね…」
なんだかガッカリした様子で元の位置に戻って袋からプリンを取り出すタニアを、慰めるようにタヨハは呟く…
「だからって…冗談で流してくれればいいのに…あんなにムキになって断らなくても…」
「おや、タニアは傷心かな…?大丈夫、タニアならきっと素敵な人と出会って結婚できるさ。ヨシヨシ…」
と頭を撫でてタヨハは慰める。
「もう、パパまで……でもいいの。今はパパの側にいられるだけで…本当に私…今まで心配かけた分…頑張るからね。」
そう言うとタニアはニッコリ笑って、タヨハに腕まくりして見せる。
「タニア…」
胸の潰れるような思いで過ごした日々がタヨハの脳裏を駆け抜け…
今、目の前のタニアの眩しいくらいの笑顔にタヨハは込み上げるモノがあった。
だが、奇跡的に本当の記憶と自我をほぼ取り戻し…能力も復活したタニアに、カリナは必ず接触して来るとのエンデの言葉も同時に脳裏を過ぎり、この幸せに酔いしれてる時間はそれ程無いとタヨハは気を引き締めながらも…
気付くと…
タヨハはタニアの健気な言葉に堪らず…抱きしめていた。
「タニア、何があっても…君は私が守るからね。」
「パパ…違うわ。今度は私がパパを守る番よ…」
タニア自身も…タヨハの腕の中で幸せを感じながらも…
最近、毎夜必ずうなされるようになったタヨハの尋常ではない声を思い出す…
心配なのに…うなされているうちは誰もタヨハの元には行けず…自分も入室を止められる…
エンデもマリュも警備の人も…夜になると寝室でうなされるタヨハの事は…ちゃんとした説明はしてくれない
昼間のタヨハはいつも通り…こんなに優しく笑ってくれるのに…
タヨハの笑顔だけは壊したくない…
こんな優しいひと時が壊れてしまう事を、タニアは酷く恐れていた。
「………」
ポウフ村の…タニア達のいる畑から、約1km離れた大木の枝に座り…2人の様子を特殊な双眼鏡で見るカリナの手は…小刻みに震えていた。
双眼鏡が捉えている今の2人の姿は…心の奥深くで…カリナが渇望する世界だった…
…タニアちゃん…あなたがヨハも連れて行きたいって言ったから…あの時、私は一生懸命頑張ったのよ…なのに…
タニアに対する失望が…ゆっくりと憎悪に変わって行く…
…と、
クゥ〜ン…
下でトインが独特の鳴き方をする。
カリナがハッとして下を見ると、トインは大木の根本で伏せをしていた…
「カリナさ〜ん、トインが待ちくたびれてますよ〜」
トインの近くに立つカイルがカリナに向かって叫ぶ。
「バカッ、こんな所で名前をデカい声で呼ぶな!待ちくたびれてんのはアンタでしょ!」
「カリナさ〜ん、僕はカイルですよ〜」
…アイツ…絶対ワザとやってるだろ…
カイルの嫌がらせのような名前の連呼に、
「うるさい!もう降りるから、それ以上喋るな!」
と返し、カリナは渋々と木を降りて行く…
「今日はアイラさんに呼ばれてるんでしょう?僕の方にもさっきから何度も着信が…早く行きましょうよ。」
「……」
カリナは終始無言で…近くに駐車してあった車の後部座席にトインを乗せ…自分は運転席のドアを開ける。
「アンタの事は今日は特にアイラさんからは何も言われてないけど…これからどうするの?一緒にアイラさん家へ行く?それとも…」
「カイルです。…レブントの駅まで送ってもらう事って出来ますか?」
「…レブントの駅ね。分かったわ、カ・イ・ル。」
「ありがとうございます。」
カイルは助手席に乗り込み、カリナの嫌味ったらしい呼び方は全くスルーして、ニコッと微笑んでお礼を言う。
「……」
最近コイツはちゃんとコードネームで呼ばないと結構しつこい…そのくせ、自分の素性はほぼ話さないから小憎らしい…
アイラからただ面倒を見てやってくれと頼まれたが…本当に何にも知らずど素人の状態で組まされている謎のガキ…
歳の頃は17.8といったところか…信じられない事にコイツも鼻の奥に例の金属チップを入れていて…私の活躍を耳にして憧れたとかほざいているが、17.8歳のど素人がどうやって私の活躍を知り得るのか…?
考えれば考えるほど訳が分からなくなるので…カリナは下手な詮索は面倒なだけなので止めるようにはしてる…
してはいるが…アイラの家へ送る以外はこうして駅を指定して降ろせと言うのだが…いつも全然違う駅…しかも国を跨いで色々な駅を指定して来るから、いつか住居を突き止めたいとも思うが、カイルが現れる時は大体…今日みたいにカリナのメンタルがちょっとやられている時で…そんな余裕もないタイミングなのがいつも悔やまれる…
「…じゃあカリナさんもお気をつけて…」
「……」
爽やかな笑顔で車を降り、駅に向かって行くカイルは…そこら辺の学生となんら変わりないのだが…
慣れない後輩と組まされているというより…社会勉強しに来ているガキのお守りをしてるような…本当に訳の分からない奴…いや、相棒?
でも、なんだかんだで「まあいいか…」となってしまい…ある意味、ただモノではない奴とも思うカリナだった。
それから1時間後…
カリナはアイラの自宅の書斎で、テーブルに置かれた一枚の紙を挟んで…暫し沈黙が続き、2人は睨めっこの状態になっていた。
「…こんなモノを私に送って来る前に、君とブレムは1度とことん話した方がいいと思うがな…」
沈黙を破ったのはアイラ…朝方にカリナから郵送されて来た物は、ブレムとの養子縁組解消の為の書類だった。
書類は全てカリナの記入欄は埋められ、後はブレムがサインするだけの状態になっていた。
「説明の手紙を書いて添えてあったと思いますが…読んで頂けました?」
「…まあ…」
「理由はもう…パパの立場を守る為に尽きます。ミアハの連中にはこちらの狙いや手口はすべて読まれてます。変異の娘の兄やヨハは私を待ち伏せしていましたし、娘の兄からは私の本当の名を呼ばれました。私が公式に指名手配されるのは時間の問題の様に考え、パパやあなたとの設点を出来るだけ切る事が賢明と思います。」
「…だがなぁ…ブレムに少し前に連絡したが…あいつはサインする気はないそうだ。」
カリナは思わず舌打ちする。
「…なんでよ!あのクソ親父…長年の努力をここでパーには出来ないでしょ。何考えてんのよ…」
アイラは…困惑を露わに腕組みをする…
「君の天敵の…例の千里眼を持つ青年と親しいメクスムの友人のウェスラー議員は…ミアハ内では今のところ君を指名手配するような動きはないようだと話していたぞ。一応、さっきカシルにも別件のついでみたいな感じで長老や元老院の様子を聞いてみたが、君のスパイ活動に関しての話題には触れようとはしなかったしな…。あいつは時々ソフィアと連携してテイホにおけるミアハ系の人間の捜査なんかもしてるらしいけど…君達親子に関する危機なら、遠回しに教えてくれそうなモノだけどな…」
「…実は…カシルと先日セヨルディで少し話をしまして…変異の娘は私が余計な工作をせずとも、必ずヌビラナに師と共に赴くと…念を押す様に言われました。変異の娘の兄も…撤収する私に向かってそう叫びました。私は…ミアハ側が2人のヌビラナ派遣を決めているなら、もう余計な事はしない方がいいと思います。そして…」
カリナは一度深呼吸をする。
「先日、パパがヌビラナを立つ際にもう私の護衛はいらないと言われました。だから、父ブレむはもう私はヌビラナに来るなという意味で言ったと判断しました。なので…可能でしたらしばらくお休みを頂きたいです。」
アイラ的に思うところは色々あるが…
「まあ…いいだろう。」
と、一応申し出を承諾した。
「…ありがとうございます。…それと…もう1つ、お願いがあります。パパの病状は…かなり深刻なのでしょう?私はミアハのティリの治療を受けさせたいのですが…先日、出発前の空港で説得しても、右から左でした。ボスからも勧めて頂きたいのです。なんなら、ヌビラナまで治療師を連れて行ってなし崩しに治療を…料金は全て私の給与から引いて頂いて構いませんので…どうか…よろしくお願いします。」
カリナは徐に立ち上がり、深々と頭を下げる…
「……」
…う〜ん…マズいな…この子も色々追い詰められてるな…
「…分かったよ。私もやるだけは色々やってみるよ。」
カリナは顔を上げ、
「ありがとうございます。」
と言ってヨルアはホッとしたように顔を綻ばせ…
ぐずぐずとその場に倒れ込んだ…
「ヨルア!……」
アイラは慌てて立ち上がり、テーブルに突っ伏しそうなヨルアの上半身を直前で支え、空いた手で内線を押し…叫んだ。
「おい、誰か来てくれ。ヨルアが倒れたんだ。」
身体がかなり熱い…マズい…かなりマズい…このままじゃブレムより先に、この子が心労でヤバい事になるやも知れん…
…まったくアイツは…
一体、誰の為の思い遣りなんだ?
義理なんだ?
ここはもう…自分が動くしかないだろうと…アイラはある決心をする。
「エンデさん、やっと皆んな眠ったので…僕、そろそろ帰りますね…」
「あ、セジカ…ありがとう。本当に助かったよ。タニアちゃんはもう大丈夫そうだからさ、マリュさんはこれからこちらをメインで手伝ってくれるって言ってるから…セジカはしばらくレノで勉強の方を専念してくれ。サラさんと進路の事で少しぶつかったって聞いたよ。気持ちはありがたいけど…あんまり無理しないでくれよ。」
「…いや…ぶつかった訳じゃ…もうサハめ…おしゃべりなんだから…」
エンディは苦笑いして…
「…いや…アヨカちゃんだよ。あの子なりに心配してるんだよ…」
今度はセジカが苦笑いする…
「アイツはまったく、ぶつかったって…僕がここに手伝いに行く件で母さんから少し説教されてたところに乱入して…アヨカが母さんと喧嘩になったんですよ。僕の気持ちをアヨカなりに代弁して母さんに話そうとしてくれる気持ちはありがたいんですけど…アヨカは大体荒立てるというか…喧嘩しちゃうんです。母さんとアヨカは似てるとこが多いから、結構ぶつかってしまうんですよね。まあでも…憎めない…愛すべき妹です。」
…なんだかんだで…セジカも家族と幸せそうに暮らしてるなぁ…
いや…彼等だけでなく…エンデがメクスムから戻って間もなくに巣立って行った子供達は、皆家族と幸せに暮らしているようだった。
長めの休みに入ると、今も誰かしら遊びに来て色々と近況報告しながら手伝って行ってくれたり…時には電話で悩み相談もして来たりして、交流はずっと続いていた。
エンデは感慨深そうにセジカの話を聞きながら、わざと余らせた4個のプリンが入った袋を手渡す。
「これ、子供達に見つからないように、井戸に下ろして冷やして置いたんだ。帰ったら家族で食べてよ。」
「わぁ…まだあったんですね、嬉しい…。おやつの時に余ったプリンの取り合いで喧嘩になった子達の仲裁していたら、先に食べ切ったチビ達に僕の食べかけを取られてしまって…ガッカリだったんですけど…ありがとうございます。」
と…
「お〜い、どうするセジカ…もうそろそろ出たいんだけど…」
ウェクが声を掛けてくる。
今日はたまたま釣り好きのウェクが、獲れた魚料理を差し入れしてくれた際にセジカが来ているのを知って、帰りは送ってやると申し出てくれたのだ。
「ウェクさん、良いタイミングだね。じゃあまた…勉強頑張れよ。」
「はい。また来まぁす。」
手を振りながら、セジカはウェクの元へ走って行った…
「ふぅ…2か月後にあの建物が完成したら、ますます忙しくなるなぁ…」
雑木林のすぐ脇に建設中の2階建ての鉄筋コンクリートベースのレンガの建物は、最大で100人の人員が生活出来る施設となる。
エンデ達が暮らしていた荒屋は雨漏りも酷くなり、大嵐が来た際に屋根の一部が剥がれてしまったので…やむ無く取り壊し、今はプレハブの建物が代わりにあって、あの後、レブントやテイホの国境近くのハーマスという町のストリートで見かけたミアハの子らしき浮浪児を連れて来て…今は5人の子供が暮らしている。
結構前から長老が、他国で彷徨っていたミアハの子を拾って、密かにレノやティリに子供達の自立する為の施設を作っていたのだが…今はそこで働く職員に代わる代わる手伝いに来てもらいながらなんとかやり過ごしているが…来月からいよいよマリュを中心としたポウフ村版の学びの棟の新たなアムナの募集と育成を始める予定となった。
職員はセレスのアムナが基本のスタイルとなるが、募集対象はミアハの民となっている。
アムナが決まり次第、完成予定の診療所の人員募集をカシルが中心となって対応する予定で…
エンデはこれからますます多忙な日々となって行く…
セレスの超強力な師弟コンビがヌビラナに向かう前に…なるべく厄介な問題は解決しておきたいところだが…
今、1番の懸念は…タヨハだった。
タニアが「本当の記憶」と共に自我をしっかり取り戻した事で、緊張が一気に緩んだのか…タヨハは夜にかなりうなされる時間が長くなっている様で…
エンデは基本、夜はプレハブで子供達と寝ているが…最近はタニア以外の問題で神殿のマリュから深夜に連絡が来る事がじわじわ増えて来ていた。
タヨハさんがうなされていても、迂闊に彼の寝室には入れない…
それが例えタニアちゃんでも…
なぜなら…
「少し早いかもだけど…きっと…タニアちゃんはもう理解はできるはず…」
明日にでもマリュやタニアと今後の事を相談しようと思っていた矢先…
♪〜
久しぶりにあの人直通のイヤーフォーンが鳴った。
「あ、ウェスラーさん、こんばんは。ご無沙汰しています。」
あら?ヒカちゃん、久しぶり。」
朝食後、ル・ダとのエルオの丘での瞑想の前にいつもの習慣で研究所の入り口を掃き清めていたヒカに、背後から聞き覚えのある声が…
咄嗟に振り返って見ると、声の主は数少ないセレスの女性能力者の内でも若手の中で特に活躍が期待されているゼリスだった。
学びの棟で一緒に過ごしたのはたった1年だけだったが、ヒカが真剣に能力者を目指している事を聞き付けて、数少ない女性能力者を目指していた彼女は自分の将来の夢をヒカに話してくれ、体調も気遣ってくれたり、先輩の女性能力者の情報も色々と教えてくれたりしてくれた存在で…
「将来は能力者としてこんな風に語り合えたらいいね」とウィンクし、颯爽と学びの棟を去って行った彼女だった。
今は無事に師との修行を終え、ティリやレノの能力者とのグループで海外を巡っているらしい噂はヒカの耳にも届いて来ていた。
女性だが、どことなく長のイレンに雰囲気が似ていて中性的で神秘的な感じもあって…今は国内外に隠れファンがいるとかの噂もヒカは耳にしていた。
実力もあるので、今はミアハで何かと注目を浴びている女性能力者であり…
「良かった…イレン様から聞いていたけれど、本当に元気になっていて安心したわ。」
そう言ってヒカを思い切り抱きしめて来るゼリスは、自分に似ていると言われている事もあってかイレンに大層気に入られていて、近々長の補佐になるという噂もあり、先日は元老院の会議にも出ていたとか…
ヨハと同い年で、セレスの次期長候補とも言われているくらい目立つ存在なのだった。
ただ、言い換えるばそれはセレスが…
イレンのように、癒しの行脚だけがとにかく好きな男性能力者ばかりなので、年の割に能力者としての使命感と覚悟をしっかり持っている事を長老に気に入られているらしいというのが実際の話のようで…
「ゼリスさんもお元気そうで安心しました。研究所でも時々ゼリスさんのご活躍は時々耳にします。目標としている方の良い噂は私も励みになります。」
「あら、嬉しい事を言ってくれるじゃない。」
ゼリスは抱擁したまま本当に嬉しそうに反応し、ヒカの頬にキスをする。
「ヒャッ…ゼリスさん…あの…あの…」
女性の…いや、女性でなくとも初めて頬にキスをされてヒカはかなり面食らってしまう…
「あらごめんなさい。なんか…あなたの初々しい反応にまたキスしたくなってしまうわ…これは外国では挨拶みたいなモノなのよ。ビックリさせてゴメンネ。」
少しパニックになっているヒカを見て、ゼリスはここでやっと抱擁を解く。
「ああ近くで見ても、もう病み上がりの顔色では無いわね。本当に…凄い事みたいよ。あなたの様な変異の子で復活出来た子は、ミアハの歴史で知り得る限り存在しないみたいだから…。基本、セレス内部の事には無関心なイレン様が驚いているくらいだし。」
そこまで笑顔で澱みなく話していたゼリスは、ここで少し真顔になり…
「ねえ…今日はあなたのル・ダは長老に付いてティリの山奥の神殿に行っているのでしょう?」
心なしか辺りを気にする素振りを見せながらヒカに小声で尋ねる。
「あ、はい。私は一応まだ大事を取るよう長老がお気遣い下さり…来週からお2人に同行させて頂く予定になっています。」
「…そう……この後はエルオの広間へ瞑想に行くのでしょう?せっかく元気になったヒカちゃんに会えたから、私もご一緒するわ。…って言うか、今日はその為にセレスに戻って来たのよ…さあ、行きましょう。」
ゼリスはなんだか急かす様に、まだ箒を持っているヒカの腕を掴んで、エルオの丘に連れて行こうとする。
「あ、ちょっと待って…もう少しで掃き終わりますから。…後片付けまできちんとしないと、ハンサさんとル・ダに注意されます。ハンサさんだけなら本当に注意だけなんですけど、ル・ダが見聞きしてしまうとまあまあのお説教になってしまうので…」
慌ててヒカは踏ん張ってゼリスの動きを止める。
「…ふ〜ん…そうなの…ヨハ君はそういう所は融通が効かなそうだもんね…分かったわ。ここで待ってる。」
ゼリスはヒカの腕を放し、少し意味深な笑みを浮かべて腕組みする。
「まあ…ハンサさんの助言もあるのかな…?意識的にもなるか…。彼はしっかりル・ダをやってるのね。」
「…?」
ゼリスが何を言わんとしてるかがよく分からず、ヒカはキョトンとなるが…とにかくあまり彼女を待たせられないと、必死で残りの作業を終えるヒカなのだった。
「…綺麗に片付けられているけど、女の子の部屋にしては少し殺風景ねぇ…。本当に…トイレが付いている以外は、学びの棟の個室とほぼ同じ間取りなのね。」
「はい、私が研究所での生活に戸惑わないよう同じ作りにして下さったみたいです。それに…ここに来て直ぐ倒れてしまったので…隣の療養用の病室から戻ってまだそれほど日が経っていなくて、部屋の小物とか飾りとか…まだ意識が向いてない状態なんです。ここに人を入れるのも、お引越しの時のお手伝いして下さった方達以来で…なんだか緊張してしまってます。」
掃除の後、ヒカはゼリスに付き合ってエルオの広間でたっぷり瞑想を行い、その後は通常ヨハが任務で不在の時は食堂の厨房に入って色々とお手伝いに参加する予定なのだが、今日のゼリスはヒカと少し話がしたいらしく、ハンサや厨房のスタッフ達に直接頼んで少し時間を貰い、厨房の人が厚意で作ってくれたミルクティーのカップを持って、ヒカの部屋に押しかけている状況だった。
「…あなたの命の危機をなんとか乗り越えさせてあげたい為に…本当に色々と極秘で準備がされていたのね…。ヒカちゃんの今までの経緯を全く知らない人の方がミアハでは圧倒的に多いけどそれは…長達や研究所の人達が粛々とあなたを守っていたという証よね…」
説明を聞いたゼリスは、感慨深げにヒカを見つめる。
「…そうですね…ここに引っ越して来るタイミングや周囲の皆さんの言動は、当時は分からない事だらけでしたが…今は色々意味は理解出来てきています。」
「……」
にこやかに淡々と話しながらも…ヒカの独特の色彩の瞳がやや潤んで来ている様子に、周囲の人間達の思いをこの目の前の少女はしっかり受け止めている事をゼリスは察した。
「…間もなくあなた達師弟の修行の行脚が始まる話は聞いたわ。それでヒカちゃん…あなたはその行脚の後の事は具体的に考えている?」
「…いえ…漠然とはありますが、私の置かれている状況は異例な事だらけらしいので…ル・ダから直接これからのスケジュールを聞いてから、具体的に考えて行こうと思っています。」
…やはりか…
ヒカはここまで色々ゼリスと話してる間に、今日は何か思う所があって自分に会いに来てるような気配は察していたので…思い切って自室に招待して正解だった。
「…そう…まあそうよね。あなた達の事はいつも事後報告みたいな形で元老院で話題になるパターンが多いらしいし…長老もハンサさんもヨハ君も…研究所の外に出ると殆どあなたの話はしないと耳にするわ。ヒカちゃんも大切な将来に関する決断は多いに悩んで決めるべきと思う。だけど、あれこれ悩む材料として、私の能力者としての今までの経験から思う事を伝えておきたくて…今日は会いに来たの。」
ここまで言い終えると、ゼリスはミルクティーを一口啜る。
「そう…でしたか…」
ゼリスに釣られるように、ヒカもミルクティーを啜る…
「…ねぇ…ヒカちゃんはハンサさんが研究所に転勤して来る前に婚約していた人がいるのを聞いた事がある?」
ゼリスが発した、あまりに唐突な話題にヒカはミルクティーを咽そうなる。
「いえ…ハンサさんは私がここに来てから色々と気にかけて下さいますが…プライベートな話はほぼなさらない方ですし…ル・ダは人の噂話をあまり好まないので…初めて知りました。」
ゼリスはフッと失笑する。
「…まあ想像通りだけど…多分、ヨハ君も知らないかも。ハンサさんの婚約者の事は、セレスの長や長老…あとは…リシワさんと…ナランさんが多分知っているくらいかも知れないわ。私はたまたま聞いてしまったという感じだから…これはここだけの話という事でよろしくね。」
と言ってヒカに軽くウィンクして、ゼリスはもう一度ミルクティーを啜る。
「私がなぜハンサさんの婚約者の事をあなたに話したか…ハンサさんは婚約破棄の理由は誰にも洩らしてはいないみたいだけど…おそらく、長老の補佐役に抜擢されて、長老の仕事の過酷さやセレスの絶望的な状況が色々見えて来てしまったからではないかと思われているの。…私もね、イレン様の弟子として補佐をしてみて…セレスの状況も長老の激務も…何も誇張されている噂ではない事を知ったわ。」
「……」
ゼリスはどんどん深刻な表情になって行き…ヒカをじっと見つめながら話を続ける…
「ヒカちゃんが学びの棟に来る少し前まで、セレスの子供から20代くらいの人達が時々突然死していたのは聞いた事があるでしょう?」
「…はい、ル・ダが学びの棟に来て初めて仲良くなったアムナもそうだったと…聞いた事があります。」
「…彼は目の前でアムナが倒れる様子を見てしまったみたいだから…かなりショックだったようよ。その件が医師を目指す動機に繋がったみたいだし…でもね、私やヨハ君の少し前の年代から突然死は起きなくなったの。なぜだと思う?」
「…分かりません。」
…ハンサの婚約破棄の話から急にアムナの突然死の話題を出して来るゼリスの意図が、ヒカにはまだ見え来なくて…
ただゼリスの表情がどんどん厳しくなって来ているので…いい知れぬ不安がヒカの心に広がって来ていた。
「…ある意味それが…純粋なセレスの民が近い未来に滅ぶ事を告げている現象でもあるのよね…残念ながら…」
「そう…なんですか?」
ここでヒカの表情にも完全に余裕が消えた…
ここまで来てゼリスは、自分の話がヒカをかなり怖がらせている事に気付き…苦笑いする。
「あらあら…ごめんね、ヒカちゃんをそんなに怖がらせるつもりじゃなかったの。…でもこれがセレスの現実。…私の世代から下の子は大体…セレスとティリやの人工受精卵から無事育った世代なのよ。」
ここでゼリスは再びミルクティーで喉を潤し…
「つまり…何が言いたいかというとね、今までセレス主導で動いていたミアハ社会は、セレスの力が弱まる事で混沌の時代がゆっくりと幕を開けるという事。セダル様はその迫り来る混沌の速度を出来るだけ緩やかに…混乱やそれによるトラブルがなるべく少なくて済むよう…日々奮闘されているという事を、あなたは将来の選択をする前に知っておいた方が良いように思ったの。なぜなら…」
ゼリスはもう一口、ミルクティーを啜る…
「色々なリスクを予想して、長老はご自分により近い位置にあなたとヨハ君を置いて活動されているから、今の段階ではまだヨハ君やヒカちゃんまで嫌な話は届いていないと思うけれど…これから修行の行脚が始まるという事は、閉鎖的な…私達より上の世代のセレスの人達や、それに同調するティリやレノの大人達の言葉が直接届いてしまう事が起きて来ると思うの。あなた達のような若く世代の近い男女の師弟って最近はあまり見ないから…それだけであなた達は実はミアハ中の人々に注目されている。だからどさくさでヤジみたいな言葉を投げて来る人がいるかも知れない事は、一応、覚悟しておいた方がいいわ。」
「…そう…なんですね…」
実際、現段階でヒカは学びの棟周辺と病院から研究所を中継したエルオの丘までのエリアとセヨルディ以外の世界を知らない。
今まで会った事もない人達からル・ダと自分の師弟関係を否定的に見られているなんて…想像もしていない事だった。
「今後…もしも噂通りにヨハ君が長や長老の後継者となって行くなら、ヨハ君とヒカちゃんは…なるべく早い段階で距離を置いて活動して行った方が思うの。前例のない事というのは予想不能のトラブルを引き寄せるわ。現長老やその補佐がプライベートを犠牲にしてミアハの将来に人生を捧げている状況で…いずれその地位に押し上げられて行くであろうヨハ君の異例尽くめの状況の中で、特に批判の材料にされそうな要素を先回りして無くして行く事は、今後のミアハの混乱を小さくする為に大事な事と思ったし…これからヨハ君は慎重に行動して行かなければならない場面が増えて行くから…このままヒカちゃんがヨハ君の側で能力者の活動を続けて行けば、心ない批判も直接耳に届いて行くようになると思う。個人的なヤジだけで済んでいる内はいいけど、まとまった声に変化して行くと…それを利用した権力争いに発展する可能性もあって…私は怖いの…。行脚が終了し師弟関係の解消の段階に入ったら、お互いの為にヒカちゃんはなるべく早くヨハ君から離れて自立出来る準備をしておいた方が良いと思うわ…」
「……」
…勿論…漠然とではあるが、いずれはとヒカも覚悟はしていた。
けど…やはりヨハから離れて行かなければならないのかと…それもさほど遠くない未来に…
ヨハとヒカの両方をよく知っている能力者からその現実を突きつけられると…
「…ごめんね…君達の置かれている状況はちょっと特殊だものね…。泣かせるつもりは無かったのだけれど、決心が遅くなって行くほどヒカちゃんが辛くなると思ったから…」
涙をハンカチで拭いながら話を聞くヒカを、ゼリスは申し訳なさそうに見つめる…
「ミアハ内だけの問題でなく…今、世界で懸念される植物の成育不良問題がどんどん表面化して来ているからね。その影響はもれなくミアハも受けるでしょう…時代のうねりに一番翻弄されてしまいそうな立ち位置のヒカちゃんが心配で…わざわざこんなお節介な事を言って、嫌な思いをさせてしまってるわね…私。ごめんね…」
「…いえ……そ…」
そんな事ないですという言葉が上手く発せられない程に…ヒカは悲しみの感情が込み上げて理性では押し戻せなくなっていた…
涙を拭いて、やっと顔を上げても…また涙が溢れて来て…
「側に居られなくても、ヒカちゃんはヨハ君を能力者として支えて行く事は出来るのよ。…いや…強い能力を持つヒカちゃんだから出来る事だと思うわ。女性能力者として、これからあなたの背中を追う後輩もきっと増えると思う。セレスの為にも、私はヒカちゃんとお互いに励まし合って頑張って行きたいわ。自立段階に入ったら、私も出来る限りヒカちゃんを応援させてもらうつもりだから…」
「……」
ゼリスに何を言われても、ヒカは泣き止む事が出来ないでいた…
この深い悲しみは何処から湧き上がって来るモノなのか…ヒカはまだよく分かってはいなかった。
ゼリスはヒカの悲しみに思うところはあるものの…あからさまに感情を表面に出す場面を知り得る限り見た事が無かったヒカが、ここまで号泣する姿にはゼリスも少し驚いていた。
2つのカップが置かれた小さなテーブルを回り込んで、ゼリスはヒカを抱きしめる。
「…本当にごめんね…ヒカちゃんをこんなに悲しませるつもりじゃなかったんだけど…ミアハの平穏な未来の為に…ヒカちゃんが必要以上に傷付かずに済む為に…先輩女性能力者として私が見えている事を伝えておいた方がいいと思ったの。でも最終的に決めるのはヒカちゃんよ。自分の未来は自分で考えて決めるモノだからね。私の話はあくまで参考材料として考えて。ヒカちゃんがどんな選択をしても、私は出来る事はいつでも力になるつもりでいるから…それは忘れないでね。」
「……」
セレスの中においてはかなり特殊な関係を築いている2人を引き裂くような意見を、人の敵意や悪意にまだ慣れていないヒカに直接してしまった事が正解なのかどうかは、ゼリス自身も正直よく分からないのだが…
2人がこのまま一緒にいる状況が受け入れられないセレスの民がまあまあの数で存在している事は肌で感じているので、出来れば師弟関係解消の段階で離れる事が誰も傷付かずに済むと、ゼリスは思っている。
より良いセレスの未来と可愛い後輩の為に、覚悟を持って自分の考えを伝えたのだが…
未だ言葉を発する事も出来ずに泣き続けるヒカの姿を見ていると…自分はとても残酷な事をしているようにも思えて…
ゼリスはとりあえずこのまま…ヒカの感情が落ち着いて来るまで抱きしめていてあげようと決めたのだった…
「まったく…」
かつて看護師達が詰め所に使っていた部屋で機械を操作し、微かに聞こえて来る会話に眉間に皺を寄せながら、その人物は不機嫌さを露わにして呟く…
「胸騒ぎがして来てみれば…中途半端な情報を元に独断で行動されるのは…本当に勘弁して欲しいんだよな。さて…どうしたものか…」
更にしばらく会話に聞き耳を立てながら…その人物は徐に換気扇を回し、一瞬ためらったが…
ポケットからタバコを取り出して火をつけた。




