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30 本当の家族


急に揺れ方が酷くなり、エイメは物言いたげに窓の外を覗き込んでいる2人の方を見る。


「凄いね…湖の向こうは外国だよ。あ、あっちの森の向こうに僕達の家があるんだよ。こんな見渡せる高さまで来れるんだね…」


「え?森の向こうがレノなの?すぐ隣ってル・ダはよく言ってるけど、こうして見るとやっぱり遠いね…」


「そうでもないわよ。私達のお家からヒカちゃん達のいる研究所までは車で行けば1時間ぐらいよ。ここはミアハでも端っこの方だからね…観覧車からだと私にも遠く見えるけど…」


「ここは森というより山の一部だから…割と遠くまで見えるけど、僕達の家からヒカちゃんのいる研究所までは、車でも道路が空いていたらの話でしょう?普通は研究所まで1時間半くらいかかるよ。あっヒカちゃん見て、あっちにエルオの丘が見えるよ。」


トウが身体の向きを変え急に移動すると、また観覧車は少しグラグラする。


「ち、ちょっとトウ、あまり歩き回ると揺れるから…怖いわ。座っていても見えるんだから…少しじっとしていてよ。」


どうやらエイメは少し高所恐怖症気味のようで…ヒカを交えた家族水入らずで乗る観覧車は、滅多に実現する事ではないから嬉しいのだが…エイメ的に楽しく話せる余裕がないのが少し悔しかった。


「…ごめん…なんだか楽しくてつい…」


「エイメは高い所はダメそうだな…ここにいる皆んな観覧車は初めてだから、トウやヒカちゃんがはしゃぎたくなるのは仕方ないよ。まあでもコースの半分は過ぎたから、トウもそろそろ座って見ようか。」


「…そうだね…」


と、トウがヒカの隣の席に戻ると…


「あ、トウ君見て、ル・ダとカシルさんが手を振ってるよ。」


落ち着く暇もなく、嬉しそうにヒカが指挿す。


「あ、ホントだ。お〜い…」


トウが下に向かって手を振り、つられてヒカも手を振る。


微妙な揺れに慣れず困惑しながらも、楽しそうな兄妹の様子をじっと嬉しそうに眺めているリュシとエイメ…


ハラハラとワクワク…そして微妙なほのぼのの家族水入らずの観覧車の時間は、あっという間に過ぎて行った。


係員の人が補助をしてくれて、エイメ、リュシ、トウの順に次々に降りて行き、最後にヒカの番になった時…


横からいきなりカシルが係員の前に割り込んで、


「さあヒカちゃん、僕が支えているからゆっくり降りて。」


と、ヒカに手を差し伸べる。


「え?…あ…すみません…」


と訳が分からないままヒカはカシルに手を預ける。


カシルはヒカをスマートにエスコートして下に降ろす…


そして振り返ると、ヨハだけでなくエイメ達も冷ややかにカシルを見ていた。


「係員の人が困惑してるよ。同じミアハの人間として恥ずかしくなるから…そういうの止めてくれない?」


その中でもヨハは特に不機嫌そうな表情で、腕を組みながらカシルに苦情を言う。


「ヒカちゃんは病み上がりなんだぞ。今日の警護の責任者としてちゃんと見ていてあげないとダメだろ?…ねえ、ヒカちゃん。」


カシルはヒカの両肩に手を置いてニッコリ笑いかける。


「おい警護部リーダー、君の担当はこっちだよ。」


少し離れた所からハンサがカシルに向かって手招きをする。


「…チッ、ハンサさんまで…俺が行かなくとも警備員達が長老の周りをぐるっと取り囲んでいるんだしさ…こんな機会でもないとヨハが煩くてヒカちゃんとお話も出来ないんだからちょっとくらい…ねぇヒカちゃん。」


今度はヒカにウィンクするカシル…


「はぁ…?」


エイメが徐々に不機嫌な表情になって来たタイミングで、


「カシル〜ちょっと来てくれ。早く来ないとクビだぞ〜」


という長老の声が人集りの向こうから聞こえて来た。


「はぁいだだいま。ああ残念…じゃあまたね、ヒカちゃん。」


カシルがどさくさでヒカに抱擁しようとするスンデのところで、ヨハがヒカの腕を引っ張って奪い返す。


「ヒカには僕とトウ君がいるから大丈夫だから、安心してしっかり長老に付いてあげて。こっちにはもう来なくていいからね。」


少し悔しそうに見るカシルにヨハは笑顔で手を振って見送る。


何か言い返そうとしたカシルだったが、


「カシル君、早く!」


とハンサに大きな声で呼ばれて、渋々警備の集団の中に入って行くのだった…


「あの人…エンデ君やタヨハさん達のいる神殿周辺の警備責任者なんでしょう?なんか軽そうで…心配だわ。」


エイメはカシルの型破りで一見軽薄そうな様子を見て、本気で心配しているようだった。


ヨハは苦笑いして、


「大丈夫だと思います、多分…。カシルはああ見えて人望あるし仕事も出来ます。さっきみたいな事も計算あってやってたりしますから…。何より長老は警備に関しては自分が信頼できる人でないと近くには置きません。」


と、ヨハは余裕の笑みでエイメに説明するも…


ヨハを揶揄うにしては、最近会えばヒカにチョッカイをかけてくるカシルの傾向に、内心ヨハはかなりイライラはしている。


…ホント…油断も隙もない…


「?」


不意に裾を引っ張られる感覚に気付き、見ると…


「やっぱりあの人…来てるみたい。今、リンナの声が聞こえて…」


ヨハとは視線をあえて合わせないようにしてトウが小声で呟く…


今までトウ達が乗っていた観覧車はセヨルディに最近新設されたモノで、観覧車の周辺の広場には子供達が無料で遊べる簡単な遊具が集中している場所があって、その周囲を訪れた家族が楽しめるようにブルーベリーの木が囲んでいて…紫色の熟した実もヨハ達のいる場所からチラホラ見えている。


セヨルディではここ最近、意図的にブルーベリーの木を人が憩うような場所に植えていて…訪れた人は摘んで食べてもOKになっている。


あまり当てにはならないが、あわよくばリンナの力でセヨルディを守ってもらいたい元老院の思惑が透けて見える場所になっているのだ。


「そうか…ありがとう。」


ヨハもヒカや夫妻に気付かれぬよう、トウと視線を合わせないようにして小さく囁く…


ヨハの中で、約2ヶ月前の夜にハンサと話していた場面が蘇って来る…


ヒカの治療を終えて一旦帰宅したヒカの両親だったが、その後もエイメは積極的に夫のリュシや長男のトウを伴ってヒカのお見舞いに訪れていたのだが…なかなか快復して行かないヒカを励ます意味で「ヒカちゃんが元気になったら一緒にセヨルディに遊びに行こう」と誘っていたようで…


[女神の泉]の儀式の後で元気になったヒカが早速、エイメさん達とセヨルディに行きたいとヨハにお願いして来たのだった。


…あえて口にはしないが、ヒカはエイメ達が自分の家族である事をなんとなく察しているようだった。


長老はヒカの身体に関してはもう心配ないと言うが、ヨハはまだ完全に安心しておらず…ヒカが望むなら出来るだけ早くその願いを叶えてあげたくて長老に申請したのだが…


その直後、夜遅くにハンサから厳しい現実を突き付けられるような話を懇々と聞かされる事になったヨハなのだった。


「先日のあの儀式はね…ヨハ君。本来はミアハを統べる者…つまり長老の体調を整え寿命を延ばす為の儀式なんだよ。あの方は確かに長老として活動されている間は女神から守られている存在だけど、彼の日常は非常に多忙で…プラベートな時間は彼の寝室にある泉で身体を清める時と睡眠と…朝食の時間くらいなんだ。そして、その睡眠ですら…平均は2.3時間くらいだと思う。あの方の寝室は彼が信頼するごく限られた人しか清掃は許されていなくて、たまに僕も掃除の番が回ってくる事があるんだが…寝た形跡がない日も存在する。長老はね…女神から守られている存在ではあるが、とてもとても過酷で重い荷物を背負って歩み続ける存在なんだ。だから僕は…実際に長老の激務を知ってからは、あの方に人生を捧げる覚悟でこの仕事を続けている。とても踏み込んだ事を君に言っているとは思うが…ヒカちゃんの事がほぼ解決した今、そろそろ長老が背負っているモノの重さを君も徐々に知って行く必要があると僕は思う。…君はこのセレスで…真っ白な頭髪だったりセダル様のような頭髪のない老人を…長老以外で見かけた事はあるかい?」


「……」


「気が重くなる話しばかりしてすまないが…これがセレスの現実なんだよ。セレスは出生率はもとより、寿命…特に男性の寿命がどんどん短くなって来ているんだ。特にセレスの能力者はね…君も既に地下にある成就の間を見た事はあると思うが…アレもセレスの能力者の宿命かも知れない。だから、僕達ものんびりと構えていられる時間は殆どないと考えた方がいい。ヒカちゃんの事が一段落して、最近やっと顔色が良くなって来たばかりの君にこんな話をして申し訳ないが、君を信頼しているからこそ、今、話しておきたいと僕は思った。」


…確かにハンサの言う通り、ヒカが倒れた時も長老は素早く色々と手配を指示してくれたし、長老自身もあの時は治療の現場やヨハの側に居てくれた…


けどその間の様々な変更不可能なスケジュールを長老は粛々とこなしてもいた。


確かに…ヨハ自身も長老がプライベートな用事で出掛ける話題は聞いた事がなかった…


どこかで長老とはそういうモノと…特に疑問も持たず…自分はひたすらヒカだけの事に集中していた。


いや、集中出来る環境を周囲の人達が作っていたから出来たのだ。


おそらくハンサも長老とほぼ似たサイクルで日々生活しているのだ。


「これから長老に付いて弟子として同行し、ヒカを伴って自分も師として能力者として修行するという事は、長老やハンサさんの視点でモノを考えなくてはいけない段階に入って来ているという事ですね…」


「そう…だね。君が将来、本当に長老になるのかは分からないが、少なくともそれに近い立場にいる可能性は高いのだから、そろそろ本腰入れて長老の一挙手一投足を良く見て考える時間を増やして行って欲しいと僕は思っている。それに…」


ハンサは大きく息を吐いて、ヨハを見つめる…


「君とヒカちゃんはミアハ全体で見ても既に注目を集めてしまっているのだけれど、更に男女の師弟関係はあまりないケースだから、これから君達がセレスの外に師弟で赴く姿はかなり目立つと思う。余計な詮索をされないよう意識して行動する必要が今以上に出て来るだろう。快復して初めての白詰草の草原までのお散歩で感極まってしまった様子は僕や長老や…少なくとも研究所の職員は理解出来る。けど、世間は年頃の君達の抱擁を好意的に見てくれる人ばかりではないという事は肝に命じて、節度ある関係をより意識した師弟関係でいて欲しいと僕は願う。」


「…具体的な状況をご存知なんですね。部外者の人が見て、本部にでもクレームの電話が入った…という所でしょうか…?」


ヨハは膝の上に置いた手を強く握りしめる。


「まあ…そうだね。あの辺りに住む…引退した元学びの棟のアムナで、ヒカちゃんの体調の件はなんとなく知っていて、君達の容姿も把握している人だった。誰にも他言するつもりはないけど誤解を招く行為だから忠告してあげて、と…僕指名で来たクレームだった。」


「…すみません…。ヒカは…まだ自分の体調面に不安が拭えず…僕との師弟関係を解消される事を酷く恐れていたようで…あの時、修行を一生懸命頑張るから弟子でいさせてくれと泣かれてしまって…」


両膝の上に置かれた拳が微かに震え…ヨハは俯き加減で当時の事を説明した。


「……そう…」


ヨハは声も微かに震え…俯いているのは泣きそうな顔を見られない為のようにも見えて…ハンサは少し言葉に詰まった…


「ヨハ君…僕はね、長老にだって多感な頃はあって…恋愛をしていた時期も当然あっただろうと思っている。でも長となり長老となる中で、当時の厳格な条件をクリアする為に彼が個人的に諦めたモノは少なくないだろう…その長老が次期長老の条件に独身の部分を無くす方向でいる事を何かある度に口にし、君達にも離れ離れにならないようさりげなく手を回している…。その努力を不本意な形で無駄にして欲しくないんだよ。」


「…はい…」


「エンデ君からの情報だとテイホ国は今、ヒカちゃんを手中に収める事に狙いを絞って動いているらしい…彼女の持つ特殊な変異を促す細胞をなんとか培養し取り込みたくて、彼女の命の事は度外視で身体中のあちこちからサンプルを取り研究に利用したいらしいよ。その略奪の中心的立場で動いているのが、あのカリナというティリの血を引く女だそうだ。そいつがタニアちゃんを傀儡化したのもセヨルディだったらしいから…この情報を踏まえてもヒカちゃん達をセヨルディに行かせたいなら、君もそれなりの覚悟を持ってヒカちゃんをガードしなければならないよ。それでもと君が思うのなら、僕達も全力で準備しよう。覚悟はいい?」


ヨハは…お互い名乗ってこそいないヒカの家族の団欒の場を、なるべく早く作ってあげたかった。


向こうの家からはきっとトウ君も来るだろう…


セヨルディでは、彼と意思疎通を図りながら、絶対にヒカを守ってみせる。


…多分だけど…


あの夜、ティリで戦ったのは殆どカリナだろう…


ならば、今度も絶対に負けない!


ヨハの中から沸々と闘志が湧き上がって来ていた。


ヨハは顔を上げ、毅然としてハンサを見る。


「はい。ヒカ達の団欒は僕が絶対に守り抜きます。」


「…よし分かった。なら、少し先の事になってしまうかもだけど、長老とスケジュール調整を進めるね。」


ヨハの迷いのない表情を見て、ハンサはニコッと笑った。





「…ったく…なんなの?この警備員の多さは…長老までこの日に合わせて来るなんて…小賢しい事を…」


新しく出来た観覧車がよく見えるカフェの2階の窓際に陣取って、ちょうどヒカ達が降りて来た所を小さなオペラグラスで確認しながら、カリナは苛立っていた。


カリナが怒っている理由は警備員の多さだけでなく、長老を中心とした周辺が常に青い霧がかかったような状態に見え、その霧が自身の能力に良くない影響を与えている感覚を感じている事だった。


…ただでさえ今日のあの娘の近くには厄介なのが2人もいるし…


それに…長老の護衛とはいえ…なんでカシルまで…


「ねぇ…アンタさ、今日はもう次のテイホ行きの船で帰ってくれない?アンタを守りながら逃げきれる確率低そうだからさ…」


観覧車がよく見える窓際の…カリナの隣に座ってカフェオレを飲んでいるいつもの子分兼見張り役の男に…彼女は真顔でそう告げた。


「…分かりました。…カイルです。いい加減、名前を覚えて下さい。」


そう言うとカイルは席を立ち、店を出て行った。


「…今日は随分物分かりが良いこと…」


出国する人達の列の最後尾にカイルがついた事を上から確認して、カリナは心からホッとしていた。


「……」


まあ今日はなんだか素直過ぎて…少し不安も過るのだが…


「…では、そろそろ行きますか…」


ヒカ達の集団がこちらの通りに移動して来るのを見つめながら、カリナも席を立った。


今日のカリナにとってせめてもの明るい材料は、タヨハの側にいる金髪で独特の深い青の目の男がここにいない事…


アイツはおそらく攻撃性のある能力は持っていないが、時間の流れの中から得る情報収集能力は明らかに自分より上…


裏を掻かれたら…カリナのスパイ生活どころか…人生も今日で終わるかも知れない…


いや…拘束されたら自ら終わらせるしかないのだ。


万が一の事があってもパパのプロジェクトの邪魔にならないよう…それなりの準備はして来たけれど…


カリナはいつも以上に落ち着いた動作で、湖まで伸びるメイン通りの中心部の建物にある公衆トイレの、一番奥の個室に入る。


約5分後にヒカが隣の個室を使用するので…その際の一瞬の遭遇に今日は賭けている。


…どうもあの子は私の力が及び難い…前回のマーキングは肌の接触と視線を合わせる事の両方を施したが…時間の経過と共にその力がどんどん薄れて行っている感触がある。


普通、カリナからその力を解除させない限り、マーキングによる傀儡は半世紀近くは可能なのだが…あの変異の娘はここ1ヶ月の間に急激にマーキングの力は弱まってしまっていて…


もう…その力はほぼ解除の状態になりつつある…こんな事は初めてで…カリナは驚き戸惑っている。


マーキングはカリナにとっては大事な傀儡のアンテナ…


彼女は間もなくセレスの能力者として自立する為に、師匠のヨハと癒しの行脚に入るようだが…


こちらの狙いをほぼ把握している彼らは、タニアの側にいる厄介な透視能力者と親しいメクスムの有力政治家の強い保護を受けているポウフ村以外は、主にミアハ国内を巡って修行するようで…


約半年後に予定している彼等師弟コンビのヌビラナプロジェクト参加までに、どうしてもマーキングをし直す必要が出て来たのだった。


カリナがそれまでにヒカに接触できるチャンスは今しかない…と見ている。


とにかく、ヒカがヌビラナまで行く気持ちを萎えさせてはならないのだ。


またマーキングが薄くなってしまう可能性もあるが…やるしかない…


「……」


あと1分したらあの子はやって来る…


カリナは緊張で額や手のひら…脇の下と…やたら変な汗が滲んで来ていた。


「…もう、トウったらあちこちヒカちゃんを連れ回そうとして…ごめんね。…疲れてない?」


「いえ全然…トウ君てル・ダと同じくらい物知りでとても優しくて…話してて楽しいです。」


ここでヒカの母らしい女のフフッという含み笑いが聞こえる…


「あの子…確かに知識欲は強いんだけど…ヨハさんの天才ぶりを色々聞いてるから意識しちゃってるの。敵うわけないのに、ちょっとライバル視してるみたい…」


「へぇ〜…でも凄いです。私、真似しようとしても出来ないです。」


「ハハ…同じ事をトウに言ってあげて。喜ぶと思う…」


2人は話が尽きない様子で、それぞれ個室に入って行く…


「……」


変異の娘にも…ちゃんと血の繋がった家族がいるのね…


まあ当たり前なんだけど…


「……」


カリナはなんだか居た堪れない気持ちになり…


「……」


気が付くと、公衆トイレの外に出てしまっていた。


「ヤバ…」


バカバカ!私ってば何やってるのよ…


と、もう一度トイレに戻ろうとすると…


「ヒカに…何するの?」


不意に背後で声がし、ギョッとして振り返ると…


緑色をした髪と目の、例の厄介な少年が立っていた。


あれ…?この子…なんだか見覚えが…


「殆ど忘れちゃってるんだね…ヨルア。」


「……」


何?……こいつ…


カリナは全身から血の気が引くような感覚になった…


「大丈夫、僕は何もしないよ。だから、君もそうして欲しいんだ。」


「き、君は…何を言ってるの…?」


カリナはかろうじて何も知らない体で答える。


「安心して。あの子の心はもう既に誇り高い能力者だから…小細工なんかしなくても、必ずヌビラナには行く。だから…今日はもう帰って。」


…こいつは何を言ってる…?


もしかして…私って……詰んでる…?


そう思った途端、カリナの視界がピンク色になって来た…


…ああもう…こいつを殺すしか…


と思った時…


クゥ〜ン…


え?…トインの声?…


あり得ない…家に置いて来たのに…


この時、カリナの身体がやっと動いた。


…そうだった…この子をなんとかしないと…


と思った時、


「すみませ〜ん、ちょっと誰か…あっちに黒い大きな生きものが動いてるんですけど…」


という子供の声がして、周囲がざわつき始めた。


見ると、2.30メートルくらい先に10歳くらいの男の子がいて、少し怯えながら近くの森の方を指差していた。


「熊か…?」


と誰かが言うと、辺りは騒然となった。


しめた、この隙に…


カリナは騒いでる少年とは反対方向に離れ…少し早足になり…やがて全力で走り出していた。


「…君も素敵な家族がいるんだね…」


空耳かも知れない…


あの緑色の瞳の少年の声が背中に向かって聞こえたような気がしたが…?


…って…今はそんな事をじっくり考えている余裕はない。


カリナはとにかく夢中で走った…


そんな彼女が慌てて出国の手続きの列に紛れ込む頃には、一応危機を脱した安堵で緑の少年の言葉なんて…すっかり忘れていた…


「…大丈夫だったか?」


エイメ、トウ、ヒカの3人が公衆トイレを出てリュシとヨハの待つカフェへ合流する為に通りに出ると、少し青ざめたリュシが立っていた。


「え?何かあったの?」


エイメはキョトンとしてリュシに尋ねる。


「いや…さっきカフェに入って来た人が、近くで熊が出たらしいとか言ってたからさ…。カフェに入ってすぐヨハ君もどっか行っちゃって…1人で待ってたらなんだかどんどん心配になってさ…」


走って来たのか…少し息の荒いリュシとは対照的に3人は落ち着いた様子で…


「…そうだったの…どうりで手を洗っていた時、少し外が騒がしかったわ…。警備員さんが何人か森の方へ行く姿も見かけたわね…」


と、エイメはヒカにも確認するような感じで少し前の様子を説明し、ヒカもエイメの話を頷きながら聞いていた。


「…熊は大丈夫だと思う。本当に危険が迫っていたらリンナが教えてくれるけど…今のところ現れていないよ。」


「トウはこの前もそんなこと言ってたな…しかしヨハ君はどこに行ってるんだろう?てっきりヒカちゃんが心配でトイレの様子を見に行ったのかなと思ってだが…」


「……」


…リンナは基本、トウに危険が迫っていれば、その少し前に教えてくれるが…


最近はトウの不安姿を見たくなくて、親しい人や家族の危機も教えてくれるようになって来ていた。


さっきもヒカ達がトイレに近付くとすぐにリンナはカリナの待ち伏せを教えてくれたので、女子トイレの前に控えていたトウはすぐイヤーフォーンでトイレ周辺の様子を見ていたヨハに連絡したのだ。


逃げ出したカリナをヨハは遠巻きに追って行ったが…カシルに呼び止められている姿を見た。


トウはまだトイレにいる2人から離れられなくて戻ったが…


4人は、合流した後とりあえず先程のカフェの近くでヨハを待っていた。


だがヨハはなかなか現れず、いよいよ連絡してみようとトウがイヤーフォーンをいじり出すと…


「ごめん…さっきトイレの近くをウロついてた女を追ってる途中でカシルに会って…女の追跡はカシルに任せて来た。」


戻って来たヨハは追跡の顛末を報告しながらヒカの様子を心配した。


「ヒカ、トイレで知らない人に話しかけられたり、接触されたりしなかった?」


ヒカはエイメの方を見ながら、


「…そういう事はなかったです。トイレの中は誰もいなかった…。あ、エイメさんとほぼ同時に個室に入ったタイミングで、私の隣に入ってた人が出て行く気配はありました。エイメさんと一緒にトイレの建物から出たらトウ君がいて…それからはずっとエイメさんとトウ君が両側にいてくれたので、他の誰かとすれ違う事もなかったです。」


ヨハはヒカの報告を聞きながら、ヒカをクルッと一回りさせて着衣の変化も調べて…


「そう…良かった。」


そう言ってやっと笑顔を見せた。





「?!」


カリナは人気のない湖の畔を歩いていた。


正規の手続きを踏む際に捕まる事を警戒したカリナは、もっと手早く…人知れずセヨルディを離れられるあるポイントへと…焦らずに…内心は急いでいた。


なるべく自然に…慌てている感じに見られない…ギリギリの速度の歩調で目的地を目指す…


…あと少し…あともう少しで…例のポイント…


と思った時、


「久しぶり…元気だったか?」


カリナは唐突に手首を掴まれ、背後から男の声で話し掛けられる。


恐る恐る声の方に顔を向けると…


「よう…本当に久しぶり。」


声のトーンは気さくな感じだが…淡い色眼鏡越しに見る彼の目はどこか切なく、深刻な雰囲気を纏いながらも笑顔を貼り付けたカシルがいた。


「…今、休憩中なんだ。少し話さないか…?」


「……」


絶望的な表情を浮かべるカリナにカシルは…


「…俺は捕まえに来たわけじゃない。お前の事は今ここでは俺とヨハとトウの3人しか知らない。本当に少し話したいだけだ。」


カリナが少し冷静になってよく見ると、カシルは小洒落たサングラスを掛け外国風の私服になっていた。


遠くに見える警備員達もカシルとは思っていない様子だった。


更にカシルは耳打ちする。


「向こうに見える警備の奴はな…見てない風で色々警戒して見ている。下手に動けばお前が詰むだけだ。観念して少しだけ俺に付き合え…」


「強引なのは相変わらずだね…」


「まあな…」


「…私、全然褒めてないんだけど。」


「お前こそ…相変わらず分かってねえな。強引は俺にとったら褒め言葉なんだよ。」


2人は湖の畔を並んでゆっくり歩き出す…


少しだけ…


カリナは、いつも4人で休日に連んでいた頃に戻ったような気分になっていた。


ただ昔と違うのは…


万が一の時用の猛毒カプセルの入った容器を…カリナはポケットに忍ばせたまま握り締めていた事…


カシルはフェリーの港から徐々に離れ、人気のない湖の畔を…まるでカリナを落ち着かせる様に、意識してゆっくりと歩く…


ふと立ち止まり、微妙に後ろを歩こうとするカリナの隣を維持するように、時々立ち止まりながら…少し前を指差す…


「とりあえず…あそこに座ろうぜ。」


そう言いながらカシルは、割と大きな黒い流木の中央辺りまで行って腰を下ろす。


「……」


「いい加減、緊張解けよ。…つっても無理か…でもさ、俺もなんだかんだで病院の跡取りコースみたいなのから外れてこんな仕事を選んだからさ、いつどうなるか分からないって覚悟は一応してるんだわ。だから…久しぶりに会ったお前との時間ぐらい、素で話したいんだよ。」


そう言って、その流木の自分の座っている隣をポンポンと叩いて、カリナを手招きする。


「そういえば…いつか皆んなでセヨルディ行こうって言ってて…結局実現しないままだな…」


「…4人で行けば良かったじゃない。」


カリナはソロリソロリとカシルの座る流木に近付きながら反応する。


「…お前…おじさんから何も聞いていないのか…?」


「何を?…内容聞かないと…知ってるかどうか答えようがない…」


苦笑いしながらカリナも、カシルから少し離れて流木に腰掛ける。


「お前がいなくなってからケビンは見ていられないほど落ち込んでさ…ブレムさんはお前が特殊能力者としての道を進む事になった以外は、あの家の人達には何も話さなかったみたいだけど、何か不審に思って独自の情報網で調べた親父さんにケビンは酷く怒られて…殴られたみたいだぜ。で、あいつ…何度か家出して行方不明になったりして…1年留年してるんだ。…だから…俺達兄妹もあの家に寄り付ける雰囲気じゃなくなって…俺はケビンと、ミリはソフィアと細々連絡は取り合ってはいたんだけど…気が付けば皆んな社会人になって…またなんとなく最近また4人で会うようになったんだ。」


「…そう…なの…」


「…おいっ……ほら、これで拭けよ。」


涙をボロボロ流し始めたカリナを見て、カシルは一瞬驚くも…視線を湖に移しながら彼女の方へティッシュを投げる。


「この話はするつもりじゃなかったんだけど…ケビンの為に知らせておいた方が良いと思ったんだ…ごめんな。」


「……」


俯き…ティッシュを目に当てながら、カリナは黙って首を横に振る…


もうこの時点でカリナは…すっかり学生の頃のヨルアに戻ってしまっていた。


最後に電話で話した時のケビンはいつも通りで…でも妊娠と流産の事は告げてないから知らないと思っていたけど…ずっとヨルアの事を心配して労わってくれていた。


ケビンはケビンなりに…自分の進路に影響するほどに…私の事で苦しんでいた事を、ヨルアは初めて知るのだった…


「俺もかなりガキだったからさ…ケビンはいい奴だし、燃え上がる恋じゃなくても…ヨルアがいいならなかなか良いコンビになるんじゃないかって…安易に考えてたかも知れない。ヨルアが本当はどうしたいかは…どこかでなんとなく分かってた気はするけどな…」


「その話は…止めて…」


「分かった。…でもこれだけ言っときたい。ケビンなりにもう乗り越えて、その上でお前の事は心配してる。皆んな会いたがってるぞ。叶うなら…近い未来にさ、5人で此処に来ようぜ。」


カシルは相変わらず湖を見たまま…学生の時のようにヨルアを誘う。


「無理に決まってるじゃない…もうそういうのいいってば…」


おそらく、ミアハでは既にカリナはお尋ね者扱いなのに?その自分が…?


笑わせる…


叶うはずのない話をされて、ヨルアは悲しみと怒りが込み上げていた…


「…まだ間に合うだろ。お前次第だと俺は思うけどな。俺達だってさ…色々あったんだぞ。言っとくけど…今現在は4人共…誰も恋愛は上手く行ってないしな。俺なんか親と大喧嘩して婚約したのに…相手が死んじゃったんだぜ…可哀想だろ?」


ヨルアはフッと笑い…


「…ソフィアを振った天罰じゃない?あの子…ずっと片想いしててやっと告白したのに…あんた…呆気なく振ったでしょ?私、あの子のやけ食いに何度付き合った事か…」


ここで初めて自然にカシルを見た。


「しょうがないじゃん。アイツはミリと同じ…俺には兄弟みたいにしか見えないんだから…俺のストライクゾーンの狭さはお前も知ってるだろ?」


「…まぁね…」


そう…コイツはレノの可愛らしい系の女の子しか本気になれない…


「…あ、そう言えばあの子も元はレノだったね…だからさっきも観覧車の下をウロチョロしてたの?」


「バカ、ウッカリした事を言うもんじゃない…ヨハに聞かれたら殺される…ってまあ…あの子はタイプっちゃタイプだけど、俺は友達の彼女は取らない主義だから、あり得ない線だな。」


「え?あの2人って…そうなの?私なんでだか…セレスの…長老に近い人達の事ってあまり良く見えないんだよね…悔しいけど。」


カシルはここでスッと真顔になり、再び湖に視線を移す…


「今はまだ違う。…でもヨハ達がお互いの気持ちに気付くのは…時間の問題のようにも思うけど…どっかの国があの子を拉致しなきゃ、幸せな未来だってあり得ると俺は思う。」


「……」


カシルの言葉に急に時間を現在に引き戻されて、ヨルアは俯く…


「…長老の側にはさ…彼も太鼓判を押す千里眼みたいな目を持つ男がいてさ。その男が言うには、あの変異の子をもし殺してしまったら、ブレムさんの長年の努力はほぼ失敗に終わるらしいぞ。それに…セレスも近い未来に消滅し…それによって、この星におけるミアハの歴史も終わるかも知れないんだそうだ。」


「…あの子が死んだらパパのプロジェクトがダメになるの?意味が分からない…なんで?」


かなりムキになってヨルアはカシルに問う。


「…分からない…エンデは詳しい事は言わないが…長老も…代々伝わる古文書にあの子達の事らしい予言が記されていて、エンデの言葉とほぼ同じ内容の箇所がいくつもあるんだそうだ。」


「…そんなアテにならない予言なんて…」


とヨルアが言いかけると、


「あの男は、エンデは…ブレムさんのプロジェクトは今、暗礁に乗り上げた状態で…その関連で命を狙われていた時期もあって、その為にお前がその能力を利用して本格的なスパイ活動をしなければならなくなったって…俺に言ったんだ。…これ…多分、お前ら周辺のトップシークレットだろ?」


「……」


…なに……筒抜けじゃない…


嫌な動悸がヨルアの身体の全身に響き…手のひらにグッショリと汗をかく…


「詳しい事は俺も分からないけど…どうやらあの子…ヒカちゃんはミアハだけでなく、ブレムさんのプロジェクトも…引いてはアリオルムの命運も握って生まれた子らしいぞ。ヨルア、あの子は殺しちゃいけないんだ。具体的な理由は知らんが、ヨハとも引き離してはダメらしい。お前も…色々と難しい立場にあるんだろうな…それでも…」


カシルはヨルアの側に来て跪く…


「頼む、あの子達には手を出さないでくれ。あの2人は必ずヌビラナに行くから。それは俺が保証するから…俺はお前とは戦いたくないんだよ。」


だが…ヨルアは…カシルをちゃんと見ることが出来ずにいた…


「…ごめん…パパの恩人でもある私のボスが…あの子を生身のまま政府に渡さないと…潰されちゃうかも知れないの…本当にごめん…」


「……」


「………」


「…分かったよ。この話はもうしない。次に会った時は……容赦はしないぞ。」


顔を上げ…カシルは悲しげにヨルアを見る。


「…分かってる…」


そう言ってヨルアが立ち上がろうとすると…


「じゃあ…最後に2つだけ…いい事を教えてやる。この先を少し行った所の岩陰にある穴は、お前らテイホのスパイの船への転送スポットだとバレてるぞ。それから…ブレムさんにティリの治療師を頼ってくれと伝えてくれ。ヘレナさんだって1度は再発したけど…今も健在だぞ。このままじゃ1年持つか分からないってエンデが言ってた。完治は無理でも、一時的にでも元気になれるかも知れないだろ?どうか意地を張らずに頼ってくれ…」


「……」


桟橋の方へ無言で歩き出したヨルアだったが…


立ち止まり、


「今日はありがとう!久しぶりに話せて楽しかったよ。私はもう…多分、ここには来ないわ。だからテイホのスパイがどうなろうと知ったこっちゃない。だけど…パパには治療を受けるように言ってみる。じゃあね…」


と言って…


カシルの方を見る事なく…再び歩き出した。


「…最後じゃねえぞ。5人でまたここに来るんだよ。」


カシルが叫ぶようにヨルアに言い放っても…


ヨルアはもう…振り向く事はなかった。






「…はい……」


深夜の寝入り端…エンデはイヤーフォーンの微かな着信音で起こされる…


見ると発信者はマリュだった。


今夜は割と早いな…


「あ、エンデさん…またこんな時間帯に本当にごめんね。タヨハさんが…うなされているというか…何か叫んでいて…ベッドから落ちたみたいな音がしたの。タニアちゃんは起きちゃうし…タヨハさんの寝室に入りたがるんだけど…誰も入ってはダメなのよね…?」


「警備の人は…いますよね?」


「…うん、今夜もドアの前に1人…一応、夜勤の野外警備の人に神殿周辺を見てもらったけど、タヨハさんが窓から外に出た形跡もないみたい。」


「そうですか…。ノックして反応があったら、いつものようにちょっとの間で良いので冷たいシャワーを浴びてもらって下さい。で、可能ならばその後は…警備の人に近くで見守ってもらいながら、タヨハさんを散歩させて少し気分転換を…ドアの前の警備の方にはノックして返事がない場合は少し中を覗いて、危険な状況でなかったらそのまま様子を見て…なるべく不用意に部屋へ入らないよう伝えて下さい。多分…もう今夜は叫んだりはしないと思う。タニアちゃんはタヨハさんが落ち着けば、すぐまた眠れると思います。色々とお手数かけますが…よろしくお願いします。」


「分かったわ…なんか最近…立て続けでごめんね…」


「いや…こちらこそ…マリュさんが睡眠不足になってしまいますよね…明日は具体的な対策を色々考えてみますので、すみませんが…とりあえず今夜はよろしくお願いします。」


「あ、私は結構タフだから大丈夫よ。じゃあ…失礼します。」


「……」


いよいよ心配していた状況になって来たな…


エンデは通話を切って、ふと漆黒の窓を見る…


まだまだ夜は長い…マリュさん、すみません…


隣に眠る…夜泣きがやっと落ち着き始めた最年少のユシレの毛布を掛け直しながら…


エンデは深い溜め息を吐いた。







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