27 守るべき人
高級ホテルのとある階で…
高級な黒のスーツに身を包んだ初老の男に腕を絡めてしなだれ掛かる、ブルーのマーメイドドレスの妙齢の美しい女は、真紅の絨毯の廊下をふらつきながら歩き…不満そうに口を尖らせる。
「いやぁねぇ、アランさんたら…私みたいな女は本気になったら一途になるんですよぉ…心外だわぁ。」
「…どうだかな…私の懐に一途なだけだろう?…本気というなら…」
男はふらつく女を支えるように背中に回していた手をスルッと下の方に伸ばし…
「この後は私の部屋でしっかり証明してもらわないと…」
と、女の耳元で囁き…お尻の辺りまで下げた手をいやらしく動かしながら密着させる…
「あん、もう…気が早いんだからぁ。屋上のプールバーに行くって言ってたのにぃ…テートさんの嘘つき。…あ…なんだかトイレ行きたくなっちゃった…」
歩いている少し先にトイレを見つけ、女はそれを指さす…
「ちょっと待ってて下さいねぇ…いなくなっちゃ嫌ですよぉ〜」
と、女は男の手をやんわり解いて、ふらっとトイレに入って行く…
「ああ分かってるよ。ここで待ってるから…寝るなよ。寝るなら行っちゃうからな。」
男は仕方ないなぁといった感じで、腕組みしながら近くの壁に背を預けて待ちの体制になる。
「もう酷ぉい…寝たりしませんよぅ…」
中から女の声が聞こえて来た。
男は口説こうと焦って、先ほど女に強めの酒をしきりに勧めてしまった事を今になって少し後悔し始めていた。
「分かったから…早くしてくれ…」
「……」
女はもう反応しなくなった。
「……」
5分…10分と経ち…なかなか出て来ない様子に、本当に寝てしまったんじゃないかと少し焦り出した時…
スッと女子トイレから誰かが出て来る気配を感じ、男は壁から背を離しトイレの方へ身体を向ける。
なんだ…
美女ではあるが別人で、違うタイプの結構若い女だった。
「あれ?…あなた…」
男を見てその女はニコニコしながら近付いて来た。
「やだリックさん、久しぶりじゃなくて。」
なんだ勘違いか…
男はその若い女に笑顔手を握られた瞬間は喜んでしまったが…
「お人違いされてるようだ。私はリックという名では……」
少しガッカリしながら手を振り解こうと彼女の目を見ると…
「……君……?…目が…」
先程まで薄茶に見えていた目が赤く変化していて…尋ねようとするが…意識が朦朧として来て…
「あら、失礼しました。…でもあなた…ご気分がすぐれないようですね。もうお部屋に戻って休まれては?」
男はここにいる理由が思い出せず…
「…その…私は……そうだな…戻るか…」
女の言う事が全て正しい気がして来て…男はそのまま自分のキープしてある部屋へ…戻って行った…
赤目の女は何事もなかったかのように、少ししてから男の後を歩き出し…彼が部屋に入るのを確認すると、部屋の前を通り過ぎ…階段を使って下の階のトイレへ。
そこで鏡で目の色が元の薄茶に戻っている事を確認し、周囲に人がいない事を確認しながら掃除用具入れのスペースに押し込んでいたカバンを取り出し、個室に入る。
そこでこのホテルの従業員の制服に着替えて後ろに纏めたブルネットの髪の鬘を被り、着替えて脱いだドレスをカバンに詰めて個室を出て、再び周囲を確認しながらトイレの窓を開けて下の様子を見下ろし、そこをめがけて窓の隙間からカバンを落とした後、何事もなかったようにトイレを出てすぐ近くのホテルの従業員専用の扉を開けて、そこから少し歩いた先の通用口から外に出る。
更にその通路から人気のない路地側に入ると…
「…段取りはまあまあだったわねぇ…大分実践も慣れて来たじゃなぁい?」
「…3度目ですから…」
さっきトイレに消えたジョアナが待っていた。
「この先に車を止めてあるからぁ…少し急いでねぇ。」
と言いながら、ジョアナは急に早足になる。
「い〜い?…急いでても無闇に走っちゃダメなの。目立つ事はなるべくしないのよぉ…」
相変わらずトボけた言い方だが、ジョアナは的確にヨルアを誘導して行く…
…父ブレムと暮らしたマンションを離れてから半年が経とうとしていた。
自分がいなくなった事でのブレムの心労を気にして、ジョアナからもらった特殊な携帯用の電話から1週間に1度は近況を彼に報告していた。
それは何より、ヨルアの意思というよりもジョアナのボス的存在からの指示だった。
ヨルア自身はまだ見た事はないボスだが、ジョアナはそのボスを心から信頼している様子だった。
マンションに暮らしていた頃は、ブレムがヨルアの電話に出る確率は徐々に低くなっていたが、この電話から掛けるとブレムはほぼ必ず出た。
そして必ず、居場所と…誰といるのか?いつ戻るのか?を聞かれ、とにかく戻って来なさいと捲し立てられる…
ほぼ同じパターンを繰り返し、ヨルアはその3つの質問にはいつも答えられなかったが…この瞬間だけはブレムは自分の事だけを見ていてくれているようで…幸せだった。
「…あの方に結婚の噂があるのをアンタは聞いているかしらぁ?」
半年前…散歩のふりしてマンションを抜け出し、ジョアナから渡されたメモの場所に行き…彼女の車に乗ってすぐ聞かされた話はそれだった…
「いえ…」
ヨルアは動揺を必死に隠し、俯きながらやっと答えると…
「そう…かれこれ1年前近く前だと思うけどぉ…お相手は昔あの方が中退した大学の教授の娘さんらしいわぁ。ブレム様はかつてその教授にかなり気に入られてたみたいでねぇ…ブレム様の気にするある研究の報告会で偶然再開した際に彼に娘さんを猛プッシュされたみたいよぉ。才女だけど控えめな人みたいでぇ…歳は30歳になったばかりみたいだけど若々しく綺麗な人で、ブレム様もまあまあ気に入っておられるのか…時々会っているみたいねぇ…」
ジョアナはそう話しながら、ヨルアの様子をチラチラ伺う…
「…今、この状況でぇ…私がなんでこの話をしたのか…分かるかしらぁ?」
車を運転中にも関わらず、ジョアナはヨルアの顔を覗き込むようにして質問する。
「…いえ…」
唐突にブレムにお付き合いしてる女性の存在の話を聞かされ、ヨルアの頭の中は本当はショックで真っ白になっていた。
「あの方にぃ…何があってもぉ…アンタは守る覚悟があるかを聞いているわけぇ…」
…出来れば…許される限り、ずっと一緒に暮らしたかった。
…すぐ側でパパの為に生きたかった…
…それが叶わないならせめて…
「大丈夫です。私は…パパを守る為ならなんでもします。」
ヨルアのその言葉を聞いて、ジョアナは心からホッとしたようで…
「そう…そうでなくちゃねぇ…頼もしいわぁ…」
と、笑顔で言って…
それから半年が過ぎていた。
「さぁ、急いで乗り込んでぇ…」
やっと2人は車まで辿り着き、ジョアナは運転席へ…
そしてヨルアが助手席に回り込もうとすると、突然黒いモノに阻まれて腕を掴まれた。
「…⁈」
慌ててその存在を見ると…信じられない人がそこにいた。
「…パパ…?…なんで…?」
「…なんで?…聞きたいのはこっちの方だよ。君は一体何をやっているんだ?」
「……」
ブレムは無表情で努めて冷静に話しかけていたが…ヨルアにはブレムから怒りと呆れ…そして僅かな不信感が伝わって来ていた。
「パパ…私は必ず帰るわ。でもそれは今じゃないの…お願い…手を離して…」
そう、1年以内には必ずブレムの元に戻って、ヨルアは自分なりの恩返しをして行くつもりだったのだ。
こんな…中途半端な状況で会いたくはなかったヨルアは、ブレムの掴んだ手を解こうと必死でもがく…
「あらやだブレム様…今任務中なんですからぁ…邪魔しないで下さいよぉ〜」
イレギュラーな状況を察して車から降りて来たジョアナは、ヨルアとブレムの間に入ろうとする。
「任務?任務ってなんだ?お前は娘に何を吹き込み、何故にこんな格好で怪しげな事をさせている?いい加減にしてくれ…警察に通報するぞ!」
ジョアナはブレムに胸ぐらを掴まれても全く同じる事なく…むしろ薄っすら笑顔すら浮かべて説明を始める。
「…それは困りましたねぇ〜でも警察ならヨルアちゃんも一緒に拘束されるんじゃないですかぁ?私はある人から頼まれてぇ、今のヌビラナプロジェクトを潰す目的であなた様の命を狙おうとしてるジジイどもをヨルアちゃんの力で考えを改めて頂く為に頑張っているんですぅ〜。だからぁ、最近のブレムさん…仕事がやり易くなって来てるでしょお〜?」
「……」
…そもそも、この女がヨルアの腹部を拳で殴って流産させたとブレムは疑っていて、なぜヨルアはそんな女に付いて行こうと思ったのかが…ブレムは未だ理解出来ていない。
「…君は一体…誰の元に付いてこんな活動が出来ているんだ?両親も既に他界している前科者の君は、身元保証人がいなければこんな…政治家や財界大物相手の大掛かりなスパイ活動みたいな事を続けるのは不可能なはずだ。ヨルアを物騒な事に巻き込むのはどうか止めてくれ…今日は君のボスに直接会って話しをつけたい。合わせる気がないなら、このままヨルアは連れて帰らせてもらう。」
「パパやめて…こんな所で揉めたら人が集まって来ちゃうじゃない…」
ヨルアはブレムに掴まれている腕を必死に振り解こうともがくが…最近少し痩せて来たこの男のどこにこんな力が潜んでいたのかと思うくらい…掴んでいる手は強く、どうにも外せない…
「あ〜あ…もうしょうがないなぁ…ボスぅ、黙って見てないで出て来て下さいよ。ブレム様は本気みたいですよぉ〜ヨルアちゃんはこのまま連れて行かれてOKなんですかぁ?」
と、ジョアナはブレムの目をジッと真顔で見つめたままで、何かを諦めたかのように、少し大きめの声で見えない誰かに呼びかけを始めた。
「…やれやれ…君の行動力には感心するよ。ここを嗅ぎつけて自ら乗り込んで来るとはね。」
少し間を置いて開いたジョアナの車の後部座席からは…意外な人物が降りて来て、ブレムの行動力をまず賞賛した。
「貴方は…」
ブレムは唖然とし、言葉がなかなか出て来ない…
ブレムが一瞬、その男に気を取られた隙にヨルアは彼の拘束から逃れ、車の向かう側に隠れた。
「…アイラさん…これはあんまりです。僕がかつてこの子の能力の事で上司とやり合い、将来を思い悩んだ時期を…貴方は知っているはずです。」
アイラはポーカーフェイスの表情の中に少しだけ悲しげな影を過らせたが…
ゆっくり歩き出しブレムに近付くと、
「…やはりケントは嗅ぎつけたのかな…大方アイツの回りくどいアドバイスにヒントを得て今夜…君はここを探り当てたというところかな…?それにしても…噂通り少し痩せたなぁ。君の命を賭けたプロジェクトは、結果がでるまではまだしばらくかかるだろう。体調管理は大事だぞ。これは医師としての忠告だ。」
「…貴方もここでのらりくらり僕を煙に巻くつもりですか?」
「いや…煙に巻くつもりなら、わざわざ正体を現したりしないよ。私は今、君の進めるプロジェクトを真剣に応援しているんだ。そんな自分が君に疑われ距離を置かれたら、計画そのものが水泡に帰す危機だからね…」
アイラはブレムのすぐ隣まで来て肩に手を置き…
「実は不測の事態に備えて、ここから少し離れた通り沿いのホテルに部屋を取ってあるんだ。この際だから君にはそこで全て説明する。一緒に来てくれ…あ、ヨルアはね…まだ今夜の仕事は終わっていないんだ。手を付けた作戦はしっかり完了させないと返って危険だ。だがこの後の工程には危険なモノはない。すまないが、このままヨルア達を行かせてやってくれ…頼む。」
アイラはそう言うと、ブレムに深々と頭を下げた…
「…分かりました。今の時点ではまだ貴方を信頼したいと思っています。でももしも…この後1度でも裏を掻く様な事をされたら…貴方との関係はそこで終わりです。今は…とりあえず貴方を信じる事にします。それから…」
と、ブレムは車の向かうに隠れているヨルアに向かって…
「君も…後で経緯を説明して貰うよ。内容次第では…僕にも色々と覚悟はある。ヨルア…いいね。」
と言い放って背を向けると、アイラと共に大通りに向かって歩き出した。
「…さて、私達も急ぐわよぅ…」
ブレムとアイラの後姿を少しの間見ていたジョアナはそう言って運転席に乗り込み…ヨルアは…ブレム達の方を何度も振り返りながらそれに続いた。
それから3ヶ月後…
「じゃあ…彼とじっくり話し合ってよく考えてから、今後の事は決めるように。温情も背景も全く配慮せず空気も読まない、あのジョアナから合格点を貰っているのだから、君は諜報員として優秀だ。…その能力は君のひたむきな願いを叶えて行く為に授かったのだと信じて頑張り抜くのだよ。私から言えるのはそれだけだ。」
アイラはプライベートな別荘の書斎にヨルアを呼び付け、そう告げて微笑んだ。
特殊能力を活かしてブレムを守る術をヨルアなりに会得し、ジョアナの指導によるその課程は節目を迎えていた。
「色々と…お世話になりました。」
ヨルアはアイラに対して片膝を付き、頭を下げて最後の挨拶をした。
ブレムに無理矢理連れ帰されそうになったあの夜以降、この食えなそうな…白髪でふくよかな老体に会うのは初めてだった。
どこか得体の知れない空気も漂わせながらも…この男なりに真剣にこの国の未来を案じるが故に、ブレムのやっている事を評価し本気で応援をしている事がヨルアなりに分かったので、彼を信じる事にした。
そして彼は、彼なりにジョアナの身の上を本心から同情し心配もしているようだった。
そのジョアナも…彼やブレムを信じ、彼等を彼女なりに守ろうとしている事には…当初、彼女が本気と分かった時には「なんだか訳が分からない人」という印象しかなかったが…
彼女のあの独特な口調とどこか異様な雰囲気は、彼女の身内…特に父親との様々な葛藤の中で傷付き病んだ後遺症の様なモノらしい事も…接しているうちに色々見えて来た。
そう、ヨルアは…
8ヶ月に及んだこの男の持つ諜報機関の中での能力者用訓練の中で、人の思考を読みそれを通してある程度の過去や未来の動きが見えるようになっていたのだ。
いや…それはかなり捉え所のない力だった故に、ヨルア自身はそれをずっと特殊能力とは自覚していなかったようで…
「私は君を応援しているからね。…ブレムがドアの向こうで待ちくたびれているようだ。さあ行きなさい。」
アイラは笑顔を崩さず…ヨルアの背後にあるドアの方へ右手を指し示す。
ヨルアもここで初めて笑顔になり、アイラに背を向けドアに向かってゆっくりと歩き出した。
「……」
…ブレムと一緒にアイラの別荘を出るまでは、ヨルアなりに今後の仕事に希望を持ち、ワクワクもしていた。
なのに…
住み慣れたマンションに着いた頃にはヨルアはガッカリし…リビングでテーブルを挟みソファに座って言葉を発する気力が一気に無くなったいた。
「……」
「…黙っていては何も伝わらないんだよ、ヨルア。」
…どの口が言っているのだ?
ヨルアはブレムに対して失望と不信感を募らせつつあった。
なぜこんな事を…?
動機を知りたくても、彼の鼻の奥深くに埋め込んだ小さな金属片が…その情報を伝える事を邪魔していた。
パパは…そこまでして私に知られたくないモノがあるの?
ジョアナさんの言っていた女性の事?…それとも…?
この金属チップはアイラさんの助言なのかしら…?
ヨルアは…訓練してる間はジョアナと同じ階のマンションで生活していた。
部屋こそ別だったが、ジョアナはヨルアの不安やストレスを取り除くべく、何かと気にかけ世話を焼いてくれた。
その交流の中で、彼女の事は本人に直接聞かずとも、ある程度は能力を通して知る事が出来たし、自分にして来た行動の意味も大体理解出来た。
故に彼女に対しては同情もしたし、ある種の友情みたいな感情も芽生えた。
ヨルアの訓練指導に関わった他の数名の人達ともある程度の信頼関係は築けた。
訓練の中で接していた人は皆、アイラを除いて妙な金属を入れていなかったし…
ただ…ターゲットとして狙った政治家の中には2名程…ブレムとアイラと似たような金属を埋め込んでいる奴がいた。
埋め込まれた金属チップに関しては、ヨルア的には思考や感情が上手く読めないだけで傀儡を仕込む任務には支障は無かったが…
一番の障害の中心人物達は、頭に金属チップも入っている上に…それほど脅威ではないが少し厄介な能力者達を常に周辺に侍らせている感じで…ヨルア達は未だ接近出来ないでいる。
いずれアイラから再び呼び出されるとしたら、大体はそのお偉いさん関連の事だろう…
確か…あの夜、ブレムがヨルアを連れ戻そうとした時には…まだ彼の鼻の奥深くにその金属の気配はなかった。
ブレムが自分を必死に探し回っていた姿や、早く連れ戻したい思いが伝わって…内心では凄く嬉しかった…
なのに…
ただでさえ彼はいつも薄い生地を衣服に付けていて…アイラよりも情報は遮断されている…
パパは…私の能力がそんなに恐ろしい?
ブレムの警戒は、ヨルアをかなり失望させていた…
…私がこの人に信用されていないのは無理もないかも知れない…
心配ばかりかけた挙句に黙って家を出てしまったのだから…
ならば…
「…パパ、私ね…」
ヨルアはある覚悟を決めて口を開く…
「この能力を通してパパを手伝い、守る事は…私の使命だと思っているの。私レベルの能力者はどの道…政府から一生目をつけられるわ。まともな人生を歩めないなら…せめて望む人の為に仕事をしたいの。だけどもしも不測の事態になって、パパが命をかけているプロジェクトの足を引っ張りたくはない。…だから…」
「…だから…?」
真っ直ぐに自分を見つめるヨルアの目に、ブレムは彼女の並々ならぬ覚悟を感じ…息を飲んだ。
「私が思う存分、望む仕事が出来るよう…養子縁組を解消したいの。」
「?!…」
ブレムは愕然とし…
「……なん…で…?」
暫し言葉を失った。
「…なぜ…そこまでする必要がある?…説明が足りな過ぎやしないか?…それに…いつ気付いた?」
ブレムはしどろもどろになりがちな言葉をなんとか纏め…ヨルアに質問を浴びせた。
ヨルアはフッと失笑し…
「パパ…私はいつまでも子供じゃないのよ。何より…スパイを目指している人間が自分の出生や身辺に関する調査もしていないなんて…同業者に笑われるでしょ。…血の繋がりは無くても戸籍上は親子なら…何か問題が起きたら責任はパパに行ってしまうもの…それは避けたいの。」
「…にしても…極論過ぎるよ。アイラさんの…あの老獪な爺さんの下で仕事をするつもりなのか?」
ブレムの組んだ両手は…微妙に震えていた。
「とりあえずは。でも分かりません。政府がこのまま放って置いてくれればいいけど…2、3年はアイラさんの事務所で働いて考えます。」
「……」
項垂れるブレム…
「…ジョアナさんは…壮絶な家族との軋轢を経て沢山の傷を持ち…それ故に色々な問題を起こして来た人ですが、彼女は世間の評価をもろともせず、自分の信念で動ける人です。最初はそれがとても異様に映り怖かった…でも、彼女なりに自分の傷と向かい合っていて…損得で人を見ない部分は尊敬しています。その彼女が信頼するアイラさんの元でなら、私も自分の居場所を見つけられる気がするんです。」
…確かにアイラは当初、ジョアナは父親との関係を修復出来れば彼女の人生も良い方向に向かうと信じ、自身が間に入って和解させ、彼女の父ヘイリーに歌手を目指すジョアナを許してあげるよう促した。
彼等家族はそこで一応和解し、最初こそ上手く行っているように見えていたが…
メクスムで歌手活動をしているジョアナが、どうやら父の指示で諜報活動のような事をさせられているらしいという情報が半年もしない内にアイラの元に流れて来たのだった。
かなり保守的で独特の思想を持つヘイリーは、軍人を辞めた後は政治家を目指し、ジョアナの得意分野をシビアに見て選挙活動に有利になるよう彼女を利用していた。
時にはジョアナにハニートラップを仕掛けさせ、ターゲットから必要な情報を引き出す為に身体の関係を持たせる事まで指示していたようだった。
アイラは責任を感じ、彼に忠告したり、ジョアナには「なんでも遠慮なく相談して来い」と、なるべく接点を絶やさないよう注視していたようだが…
ジョアナ自身は父の役に立っている事が嬉しいらしく…アイラの声掛けにも「ありがとうございます。」と笑顔でかわすだけだった。
だが、そんな彼等の関係に変化が生じ始めたのはヘイリーの妻が心労で倒れてから…
彼女が期待し溺愛していたジョアナの兄が、外交官の仕事で少し大きな失敗をした事をヘイリーが罵った事で大喧嘩となり…その事が原因で息子が仕事を辞め家も出て行ってしまったショックで妻は体調を崩し…間もなく寝たきりになってしまった。
ジョアナも心配し、歌手活動は一時休んで帰宅して母親の看病の為に病院に通うようになった。
時々、父から依頼された仕事をこなしつつ家事をやり、更に母の為に病室に通う毎日は大変ではあったが…家族の役に立っていると感じられる毎日がジョアナは嬉しかったらしい…
しかし、寝たきりだった母親が亡くなった少し後…
葬儀から半年も経たない状況で、ヘイリーは後妻を迎えると言って15歳も年下の秘書の女性を自宅に招き入れ、一緒に暮らし始めたのだ。
かれこれ5年近く前からその女性秘書が父の愛人だった様子はジョアナもなんとなく把握してはいたが…母を裏切っていただけでなく、まさかこんな早い段階で再婚決めてしまうとは…
この段階でジョアナの中の父の評価はガラッと変わった。
実は、ジョアナには彼女の過去の全てを知った上で理解し支えてくれていた恋人がいたのだが…ある時から急に彼との連絡が途絶えていた。
自分でも行方を探しながら、この時初めてジョアナはアイラに相談をした。
看病していた母親の状態が悪化していた時だったので、アイラは「私が調査してみるから、君は今はお母さんの側にいてあげなさい」とジョアナに告げ、調査を続けていたが…結局有力な情報がないまま時は過ぎていた。
ジョアナなりに、恋人の行方不明はヘイリーが関係している感覚はなんとなくあったが…まさかという思いでずっと疑惑に蓋をしていたのだが…
ジョアナに何の相談もなく秘書の女を自宅に住まわせ始め、ジョアナには自宅を出て元の住まいに戻るようしつこく言って来るヘイリーに対し、もはや否定的な感情しか無くなっていた。
「この男にとって家族って…なんなの?」
ある日、ジョアナは渦巻く憎悪に身を任せ…ヘイリーを刺した。
現場を目撃した秘書の女の通報でジョアナは捕まり…傷はやや深かったものの、幸いヘイリーは一命を取り留めた。
だが傷の治癒まで時間が掛かり、合併症も併発した為、しばらく寝たきりを余儀なくされたヘイリーは、認知機能に色々と問題が起き始め…凄惨な場面を目撃した上、自力歩行も出来なくなり自身の顔の認知も覚束なくなって来たヘイリーの看病に愛人は辟易し、正式に入籍をする前だった事を幸いに行方を眩ましてしまった。
ジョアナが服役した為、ヘイリーは傷の治癒後は老人施設に送られたのだが…その手配も全てアイラがやってくれた事をジョアナは後で知る事になる。
そしてその約1年後にヘイリーは…家族は勿論、面会に訪れる人間も誰一人ないままにこの世を去った。
彼の遺骨を受け取り、簡単な葬儀を行って墓に埋葬してくれたのも…アイラだった。
そして、
ジョアナの出所時に迎えに来てくれたのも…アイラだった。
「私が余計なお節介を焼いた事で君は犯罪を犯す羽目になったとも言える。責任を感じているんだ。ここまで君に関わったのも何かの縁だろう…良かったら私の元で君の尊敬するブレム君の為に、今までの諜報活動のスキルを活かしてみないか?…勿論、断るのは自由だよ。お給料は弾むけどね。」
とアイラは出所祝いという名目でジョアナを食事に誘い、彼は今後の事を打診しながら…
「…いいんですかぁ?…こんな…前科者の私なんて…」
俯き…涙をポロポロ流すジョアナに、アイラは笑顔でテーブルの上にハンカチを差し出した。
「…家族の為に健気に頑張っていた君を僕は知っているし…正直言うと、私はそれほど善人でもない。君はヘイリー君の元で優秀な諜報活動を展開していた事は調査済みなんだよ。私の下での仕事だって命の危険はないとは言えない上での依頼なんだ。ただの親切心で頼んでいるつもりは毛頭ない。それでも良かったらのオファーだ。でもそんな仕事はもう真っ平と思うなら、メクスムに暮らす元部下のツテで歌手の仕事を紹介してあげる。ただ出来ればその際はメクスム内での気になる噂なんかを時々知らせて貰えたなら有り難いんだがね。」
アイラは言葉の最後に抜け目のない条件を付け足して、ペロッと舌を出す。
そんな彼の表情を見て、ジョアナは初めてクスッと笑った。
「ボス…歌手をしながらのスパイではダメですかぁ?…広く活動しながら、彼の…ライアンの情報を集めたいしぃ…ブレム様の為の仕事もしたいです。」
アイラはジョアナの返答に破顔し、
「勿論OKだよ。ありがとう。」
と言って、アイラはテーブル越しにジョアナを手を強く握った。
という…
ジョアナがアイラの元で仕事をするようになった経緯を、あの夜ブレムはヨルア達と別れた後に、ホテルの一室でアイラ本人からざっと説明を受けていた。
「…君が流産してしまったのは、僕は自然なモノではなかったと…そこにはジョアナが絡んでいると思っている。…君はそんな彼女を受け入れられるのだな…。私はあの時、もし君が産みたいならそれも受け入れようと…本気で思っていたんだよ。誰がお腹の子の父親だろうと…君が産んだ子ならジィジとして愛そうと覚悟を決めていた。その事を…学校から帰ったら君に伝えようと思っていたんだ。」
ブレムは力無く…絞り出すような小さな声で呟いた…
「…な…んで今更…そんな事…」
ブレムの言葉にヨルアは、顔を両手で覆い号泣した。
「すまない…辛い事を思い出させてしまったな。それに……後出しジャンケンみたいな事言ってるパパは卑怯だよな。だけど……血が繋がっていなくとも、僕にとって君はかけがえのない娘なんだよ。僕達の間柄を紙切れ一枚で君が捉えているように感じて…凄く悔しいな…」
…だったらなぜ…
鼻の奥に入れたチップの事を問いただせず…膝の上で握りしめたヨルアの拳の爪が突き刺さるほどに食い込む…
…ジョアナを追い詰めたのは実の父親…彼女は家族の為に一生懸命頑張って来たのに…報われなかった事が多すぎて…
その部分をパパはどの程度まで把握しているのだろう…?
…もしかしたら…パパは勿論、アイラさんも気付いていないかも知れない悲しい事…
それは…ジョアナが過去に2度、身籠った子供を堕していて…2度目の妊娠は父親のヘイリーが身体を張った諜報活動の中でハニートラップを彼女に強要した結果という事…
「今日はちょっと特別な日だからぁ、夕食付き合ってくれないかなぁ?私が奢るからさぁ…」
と、プライベートはおよそ人と連む事のないジョアナが、任務終わりに珍しくヨルアを誘って来たのは…アイラの所有するマンションに住むようになって3カ月くらい過ぎた頃…
その時は何故だか…ジョアナがとても寂しそうに見えてしまったヨルアは、断る理由も特に思い付かずジョアナのお気に入りだというお店について行った。
そのお店というのは、普段のジョアナからはあまり想像出来ないような…クラシカルだがあまり畏まっていない落ち着いた雰囲気のレストランだった。
ジョアナは1年のウチに何日か特別な日があって、その時には大体このお店に来るのだそう…
食事の後にはあまり強くはないがいつも頼むお気に入りのワインがあって、普段はそれを少しだけ1人で嗜んで帰るのだそうだが…
今夜は何かをヨルアに聞いて欲しかったのか…ワインが進み…それと共に、今日は何の日だったかをジョアナは訥々と話し始めたのだった。
「今日はね…私の長男君の命日なの。まぁ産めなかった子なんだけど…周囲にかなり反対されてね。まだ医師になったばかりのライアンを困らせたくなくて…産みたかったけど揉めた末に結局諦めて…堕した後で男の子だって分かったの。」
ワインをちびちび飲んではグラスを覗きながらジョアナは告白し始めた。
…この人って…本当に変わってる…
酔うと普通の話し方になるんだ…
ヨルアは最初こそジョアナの話し方の変化に気を取られていたが、だんだんと彼女の父親の話に移り…小さい頃は大好きで褒められたくて必死だったけど、どんどん嫌いになって…アイラさんのお陰で仲直りはしたけど、結局、自分の事が第一優先の酷い親父だったと…
最愛の彼氏が行方不明になって、父親を憎む気持ちに歯止めがかからなくなり…刺してしまい…
刑務所に入った自分を迎えに来てくれ、前科のある自分を拾ってくれたのがアイラだったと…
後半は殆ど身の上話になって行ったのだが…
「……」
ヨルアが愕然としたのは…
彼女の父は、自分の仕事を有利に運ばせる為に娘に身体を張ったハニートラップを幾度となく強要した事だった…
最初こそ断っていたジョアナだったが…自分の暴走で両親に迷惑をかけた過去の負い目もあり…結局、ずるずると父からの理不尽な指示に応えて行く状況になって行った…
ジョアナは当然、妊娠が発覚しても父親が誰か分からず…彼女は父親にも相談出来ず密かに中絶し…
その1週間後に彼女の父は、実家に愛人を連れ込み結婚すると言い出す。
それは彼の妻でありジョアナの母が亡くなって半年も経っていない頃の出来事で…
それから間もなく事件は起きたのだった。
「…私ね…実は2回堕してるの。さっき長男君って言ったから…アンタもちょっとそんな気がした?」
ワイングラスをしばらく眺めていたジョアナはチラッとヨルアを見る。
「…いえ…あまり深く考えずに聞いてました。」
そう答えたヨルアの目を少し探るように見つめながら…
「…まぁ、そういう事にしておくわね。…でね、凄く産みたかった長男君だったけど…次男君は…事故に遭ったような妊娠だったから…迷わず堕したの。だけど不思議な事に…時間が経てば経つほどに…堕した子達に対して申し訳ないと思う気持ちは同じくらいになるのよね…。」
ジョアナの視線はもうワイングラスに戻っていて、僅かに残っている赤いワインを再び揺らめかせている…
「…あの時…アンタ…痛かったわよね。…ごめんね。」
ジョアナはサラッと言った。
「……」
…多分この人は、ヨルアを流産させた事を謝りたくて…今夜の食事に誘ったんだ…
と、この時ヨルアは察した。
産む覚悟を持てなかった事…堕すくらいならなぜ避妊しなかった?と…ずっと過去の自分を責め続けているジョアナ…
両親の期待に応えられなかった事、ヤケクソで起こした数々の不祥事の尻拭いを両親にさせてしまった事も…ずっと自分を責めている。
やけになって問題を起こしまくっていた頃に「私はどうしてあなたを産んでしまったのだろう…」と嘆いた母の言葉に今も傷付き…
「出来損ない」と蔑み、娘である自分をただの駒の1つとして使い…心も身体も仕事の手段にした父の所業を無かった事には出来なくて…今も苦しんでいるのだ。
そして…
あの時のヨルアが自分の母親に、ヨルアのお腹の子が自分に見えてしまった場面が…何度もジョアナの記憶の中で再生されては消えていた…
ずっと…親から刷り込まれた劣等感と、諸々の罪悪感に苦しめられた彼女の人生…
今の彼女の命の光源は…アイラの存在と…恋人の消息を確認する事の2つだけ…
ワインの力でジョアナの様々な記憶が甦り…それを見てしまったヨルアは打ちのめされていた。
「……」
何も返す言葉が浮かばず…必死に堪えても、涙が止めどなく流れ続けた。
「ちょっ…と…」
ヨルアの号泣に面食らうジョアナ…
「わ…たし…小さい頃…とても…綺麗な歌声を聞いた事があって…あの歌声は…今も思い出すんです。あの歌声に私は凄く安心したんです。あんな…素敵な歌声はきっと神様のプレゼントだと思うくらい…忘れられない。だから…その人の行方不明の恋人はきっとどこかで…その人の歌を聞いて…再会を願っていると…私は思います…そしてその人は…テイホの南の山奥で軟禁状態で医療活動を強いられてますが…なんとか生きています…その…亡くなられたお父様に騙されてテロ組織に売られてしまったようです…」
今の自分の心境の何をどう誤魔化したらいいか…訳が分からなくなって…付き合いで飲んだお酒の勢いもあって…ヨルアは一番触れては行けない部分に触れてしまった事に少しして気付き、小さく落ち込む…
「…アンタって…」
ジョアナは驚いたように目を見開き…やがてクスクスと笑い出す。
「…すみません…色々変なこと言っちゃって…」
「本当にブレム様に育てられたのね。どんどん似て来て…ああ本当…妬ましいのにどうも憎めないのよ……今夜は付き合ってくれてありがとう。それから、どさくさで貴重な情報をありがとう。…そろそろ帰ろうか…」
店内の客が、泣いているヨルアをなんとなく気にし始めたので、ジョアナとの初めての食事会はそれでお開きとなった。
そしてマンションに着き、それぞれの部屋に戻る廊下での別れ際…
「アンタはさ…」
と、ヨルアを呼び止め…
「ブレム様の事が落ち着いたら…ドックトレーナーして、今度は本当に好きと思える人の子をね…産むんだよ。おやすみ!」
と言うだけ言ってヨルアに反応する間も与えずに、彼女は部屋に入って行ってしまった。
「…おやすみなさい…」
…まったく…いつもマイペースな上に一方的な人だなぁ…
ヨルアは溜め息を一つ吐いて、ほろ酔いの足取りでふらふらと自室に入る。
…けど…
だんだんジョアナの人となりが分かって来ると…
やはり彼女はサイコパスや変人などではなく…ありのままの自分を最愛の家族に受け止めてもらえなかった事で今も苦しんでいるけれど、元々は健気で優しい心の持ち主なんだと分かって……なんだか嬉しくもあり悲しかった…
結局、彼女はそれ以降はヨルアを夕食に誘う事はなかったが、彼女の指導の下でこなす任務はよりスムーズになって行き…気が付けばヨルアはジョアナを深く信頼するようになって行った。
ジョアナの指導は厳しくシビアで、ヨルアのもたつきやミスに対しては容赦なく叱責はする…
だが…過去に一度、ヨルアのミスでかなり困った状況になった時、ヨルアには隠れた場所で待機させ、ジョアナは命を張ってミスの後始末の為に汚れ仕事をし、ヨルアには説教をしたがアイラにはヨルアのミスと報告はしなかった時…
自分はジョアナを手本にして行こうと心に強く誓ったのだ。
私はもう…きっと子供は産めないだろうし…
ヨルアがそう感じた出来事は、ジョアナとの食事会から約2カ月後に起きた。
ある朝起きると、自身の両手が老人のようにシワくちゃになっていて、慌てて洗面台に駆け込むと…鏡には見知らぬ老女が写っていた。
だがそれは自分であると気付くまで、さほど時間は掛からなかった…
パニックになり悲鳴を上げたヨルアの声に、勘の鋭いジョアナは素早く反応し、ドアをこじ開け洗面所で失神しているヨルアを発見すると、直ちにアイラに連絡した。
数時間後、ヨルアはアイラの所有する研究所で目覚めた。
アイラから色々と任されているのであろう研究所の責任者から、
「おそらくこの現象は強い能力を使うヨルアの身体が、どのような周期で起きるか現段階では不明だが、エネルギーをリセットする為に起こしている一時的な老化現象だろう。」
との旨を告げられた。
結局、その現象は1週間が過ぎた頃にゆっくりと消滅した。
以降その現象はまだ起きてはいないが…いつ起こるかの周期は未だ分からないまま…老化現象の再びの到来にヨルアは日々怯えている…
もしこの先の未来に妊娠出来ても…妊娠中にこの現象が起きたら、お腹の子にも何らかのダメージが起こる気がして…
それより以前に、ヨルアの能力を知っている男性はまず不用意に交流はしないだろう…
ヨルアは結婚とか妊娠とか…希望ある未来は考えづらくて…ほぼ視野の外…つまり、諦めている。
ヨルアにとって最愛の存在であるブレムが命掛けで進めているプロジェクト達成の為に、自分が出来る形で貢献する事が、ヨルアが唯一心から望める未来であり、生きる意味だ。
けれども悲しいかな、養女という立場はブレムに近過ぎて…彼にはなるべく影響が及ばないようヨルアが活動する為には、距離を置いた関係でいる方がブレムに火の粉がかかるリスクはかなり下げられるのも事実だ。
ヨルアはそれでもいいと覚悟している。
けど気持ちは…親子のまま…信頼出来る関係でいたかった。
なのに…
パパは私に何を知られたくないの?…
小さな小さな金属チップがヨルアの心を遠ざける…
「私みたいな異常な力を持った能力者は政府関係者の犬になるか、軟禁状態の中で生きるしかないのでしょう?…ならば、会った事もない政治家に仕えるくらいなら、パパの為に命を掛けたいの…私の生きる術はこれしか考えられない。だからお願い。私とパパの関係を他人に戻して。」
ヨルアは立ち上がり、ブレムの側まで行って絨毯に膝を着いて懇願する。
「…異常な力とか犬とか…そんな風に自分を例えるのは止めろ。………分かったよ。」
ブレムの承諾の言葉に、ヨルアの表情はパッと明るくなるが…
対照的にブレムは眉間に皺を寄せたまま、難しい顔を崩さないでいた。
「…君の仕事は認めよう。だが、私がヌビラナに行って不在の時はアイラさんに任せるが、基本は私の部下として指令に従う事。そしてもう一つの条件は、君が諜報活動を続ける限り親子関係は解消しない。以上だ。」
「な…っ」
それではブレムがなんらかの報復をされるリスクは下がらず…ヨルアの目指す理想の形とズレて行く…
「君は…安易に命をかけようとしてる危うい気配を感じる。頼むから…スパイ活動で命を落とすなんて事……君が僕の立場だったらどう思う?」
「…どうせ化け物と恐れられる力なら、パパを守る為に使うって決めたの。…ジョアナさんは身元を上手く隠して他国で歌手活動をしながらスパイの任務をこなしていると聞いていたから…私はドッグトレーナーとして活動しながらパパを守る事にする。政府から認可されれば、特殊能力者は政府関係者と個人契約で護衛に付く事も出来ると聞きました。もしパパが嫌なら諜報活動はしませんから、護衛として雇って下さい。お願いします。」
ヨルアはブレムの顔を見ずに絨毯に膝を着いたまま、深く頭を下げてひたすら頼む…
…お願い。私にはこの道しか無いの。どうか分かって…
「……」
しばらく沈黙していたブレムは、ヨルアの頭上で一度だけ…困ったというような溜め息を吐いて…
「…しばらく会わない間に…なんだか君がとても遠くに感じるよ。…そこまでして請うからには、君にもそれなりの覚悟があるのだろう……ではスパイではなく護衛として君を雇おう。だが…護衛の仕事を甘く見てはいけない。ヌビラナまで付いて来る覚悟があると思って僕は君を護衛として雇うつもりだが…それでいいんだな?」
ブレムの問いかけにヨルアはガバッと顔を上げ、
「勿論です!」
と答え、嬉しそうブレムを見た。
…当初の予定から微妙に路線はズレたが、堂々とブレムを守れる立場なら、やり方はなんとでも…然もヌビラナで側で見守れるなら、こんな安心出来るポジションはない…
ヨルアはほぼ希望通りに事が進み、ワクワクして来た。
「…だがさっきも言ったが、君との親子関係は変える気はない。…いいね?」
…ブレムとしては、自分の側に置いておいた方がスパイ紛いの行動や無茶はしないだろう…という、ギリギリの苦肉の策だった。
「…はい。」
…娘を護衛に付ける事でブレム自身が周囲にあれこれ言われる懸念は出て来るが…交渉がまた振り出しに戻ってしまう事を恐れたヨルアは、頷くしかなかった…
どうせ私の能力が分かれば、皆んな遅かれ早かれ私を恐れるのだから…こうなったらどんどん恐れて貰おう。
私はどう思われてもいい…パパを守れるなら…
それが私の生きる意味であり使命なのだ。
ここに、ブレムを守護せし最強の魔女が誕生した。
その日の深夜…
「……」
ブレムはベッドに眠るヨルアの寝顔をそっと確認し…
やっと無事に戻って来た娘の姿に安堵する一方で、今後のヨルアの動向には不安材料が多すぎて…ブレムはしばらく悩みの種が尽きない事を予感しゲンナリする…
だか、アイラが約束通りヨルアを返してくれた事にとりあえずは感謝するブレムだった。
あの日…アイラとホテルの一室で話した夜…
「過去のデータによると、ヨルア並みの強力な能力者は1度薬で能力を消しても、強いストレスや恐怖がキッカケで能力の復活が100%起きているんだ。能力が復活した時に周りの人間が的確に対処しないと死者が出るような事も起きてしまっているから…ヌビラナプロジェクトを止めさせたいヤバい政治関係者が君に刺客を送ろうとしている情報を掴んだ今、対応を心得た人間が意図的にあの子の能力を復活させてあげた方が、無駄な被害は出ず一石二鳥と考えたんだよ。あの子は遅かれ早かれ能力復活によって、一般社会にそのままいたら孤立するし政府の干渉も強くなって行っただろう。闇雲に怖いと忌み嫌われるより、能力者として政府のお墨付きで活躍し恐れられる方があの子は前向きに生きられると思わないか?」
「でもそ…」
「君が入隊して来る前にね…私の医療チームの中にもいたんだよ。看護師の男の子だったが…ある時から急に、その子が人体に触れるとその部分に水ぶくれのようなモノが出来て、火傷の時みたいな痛みが起きるんだ。彼は何か薬品が指に付着していた可能性を疑い、念入りに手洗いをしてゴム手袋まで装着して勤務中は対処していたが…症状は軽度になったが、やはり彼が触れた部分に火傷のような症状が現れるんだ。おそらく彼は特殊能力者だろうという事で研究所で詳しく調べる事になった矢先、プライベートで友人等と飲みに行った際に酔った勢いのちょっとしたトラブルで怒った彼が思わず友人の腕を掴んだら…掴んだ部分が黒く焼け焦げたような状態になって、大騒ぎになってしまったんだよ。掴まれた友人は結局、その腕を切断する羽目になり…その能力者の子は仕事を辞めすぐに能力を消す薬を投与してもらったそうなんだが…その後結婚し子供も生まれ、7.8年程は問題なかったそうだが…ある時、家族で街に買い物に出かけた際にガラの悪いグループに絡まれて、殴りかかるそぶりをした男の腕を咄嗟に掴んだら、かつての友人と同じ事が起きて……色々あって彼は思い悩み…当時は今より能力者への理解や体制も行き届いていなかったからね。結局、怪しげな自称実業家に雇われていいように使われた挙げ句に命を落としたという悲劇の事例が私の身近でもあるんだよ。私が能力者の抱える問題を真剣に調べるキッカケになった件だった。」
データだけで変に決め付けて先回りするのもどうか…と反論したかったブレムに、アイラは言葉を挟む間も与えず、更に続けて語り出した。
「国内の例に限らず、私も色々なケースを調べて来たが…ヨルアレベルの多才な能力者はかなり稀だ。それ故に野心家や危険思想を持つ輩に目を付けられ易く、本人も周囲が理解し支えてあげないと自暴自棄になって暴走するリスクも孕む。こちらで色々と調べさせて貰ったが、あの子は君の役に立ちたがっている。不本意とは思うが、あの子の能力を君が上手く使ってあげる事で政府の直接の干渉から遠ざけ、あの子的には最上の居場所を得られるんだよ。」
「……」
だからといって、トラウマ的な人物をあえてヨルアに接近させて強引に能力を復活させた事はブレムとしては納得がいかず…他にも流産の事とか…言いたい事は山ほどあるが、とりあえず今はアイラの主張は全て聞こうと…不満のオーラを漂わせながら無言で自分を見つめるブレム…
そんな彼を見て内心では苦笑し、彼から少し視線をずらしてアイラは続ける。
「私もただのボランティアで今回の一連の行動に至った訳ではなく、それなりの目的があってやっている。…かつて学者を目指していた君が大学を辞めて軍人になったのは、事業に失敗した両親を助ける為だったよな。体力に自信のあった君が手っ取り早くある程度のお金をを稼ぐ為に入隊したと…当時飲みに連れていった店で君が語っていたのを私はよく覚えている。結局その後、君の両親は過労が原因ともいえる病で立て続けに亡くなり…似たタイミングで君も怪我が相次いで…結果、片足を失い…君は軍を去った。私が君の何に驚いているのかと言ったら、君は資金のない状態で大学時代に師事していた教授や交流のあった軍関係者の人脈を最大限に活かして選挙に勝ち議員になってしまった事と…これはあくまで私の憶測だが、議員になった動機だ。」
アイラのお酒好きは相変わらずのようで…話の合間合間にウィスキーのロックを口を潤すかのようにチビリチビリやっている…
「かつて君は災害に強い農作物を作る為のバイオ研究に携わっていたが、ある時から地中に含まれるある酵素に関する研究にシフトチェンジしたようだね。それは今の君が全力で推し進めているヌビラナプロジェクトに大いに関係している研究だったのだろう?君の研究対象だった酵素は、なぜだがこの地上では減少の速度に自然生成のペースが追いつかない状況に陥っており…それを餌にする有益なバクテリアも減る一方で…遡ること10年前に比較的ご近所の惑星ヌビラナの地下にその酵素は多量に含まれているらしいという発表が地味にあった事を突き止め、君は学者の立場でアリオルムの危機的な問題をただ提唱しても物事はそう上手くヌビラナ発掘の話には結びつかない事を予め想定し、議員の立場からヌビラナの開発を強く呼びかけ、当初は観光地化がメインだったがそのプロジェクトが立ち上がると、危険を顧みず自ら現地で指揮を取る覚悟を持って、今のプロジェクト進行にひたすらに突き進んで行った先見の明と実行力に、私は脱帽するしか無かったよ。」
アイラはまたグラスを口にして、口腔内をまたウィスキーで潤す。
「ここ数年続いている世界各地の農作物の微妙な生育不良は、実は深刻な問題の入り口だった事がつい最近、様々な分野の科学者の間で密かに囁かれるようになって来て…遅ればせながら一昨年前から私も本格的に調べ始めたんだが…君がやっている事の的確さには本当に驚愕だった。」
ここでまたアイラはグラスを口へ運ぶ…
「院長の座を後輩に譲った後、元々は我が国の医療技術の発展と経済安定を目的として道楽で立ち上げた財団だったが…今は君の携わっているヌビラナプロジェクトの後方支援に密かに活動の軸を置いているんだ。多少強引に事を進めてしまった事は申し訳なかったが…ヌビラナでの観光地化を優先させたい者達が水面下で手を回し始めていたから…あの時は結構切羽詰まっていたんだよ。」
そして…残りを一気に飲み干し、アイラは空になったグラスを置いて、ブレムの方へ向き直る。
「君は…ジョアナに対して不信感が拭えていないとは思うが…あの子は諜報員としては優秀だし、何より君を助けたいと本心で思っている。だからジョアナはヨルアを危険に追いやるような事は絶対にしないし、いずれ必ず君の元へヨルアを返す。だからもう少しだけ…待って欲しいんだ。」
「…もう少しとはどれくらいです?」
「2.3ヶ月と言ったところかな…私が色々調べた上で言える事は、当初、君が入所させる予定だった政府が運営している能力者訓練施設は…いずれ君からあの子を引き離していたと思う。能力者を公的な存在として政府の管理下に置いて、最終的には家族との面会もあまり自由には出来ないような環境にしてしまうようだ。私の財団は一応、政府公認で立ち上げたからね…財団存続の為の諜報員の養成管理も出来るんだ。で、私の了承があれば、ここで訓練を受けたヨルアは正々堂々と君に託せるんだよ。君も思うところはあると思うが…国の養成所の事は君も調べてみるといい。私が一方的に考えたプランにただ乗る事も君は納得行かないと思うしね…」
「分かりました。…お話しは以上でしょうか?とりあえず今回は貴方の言葉を信じます。貴方の仰るように自分で色々と調べる必要があるように思いますし、明日中に一旦ヌビラナに戻らないとですので…今夜はこれで失礼します。」
と、ブレムは淡々と答えて、立ち上がった。
「あ、それから…能力者を使役する者は、鼻の奥の脳に近い所に能力者による思考の読み取り防止の為の特殊な金属チップを入れる必要がある。それも君なりに調べてみるといい。なんならウチの研究所でも対応出来るから、必要ならいつでも相談してくれ。」
「…分かりました。」
早々に立ち去ろうとするとブレムに、アイラはもう1度声をかける。
「あ、後ね…余計なお世話かも知れないが…あの子の力の暴走を防ぐ為には、今は君達親子の間にはなるべく人を入れない方が良いように思うぞ。例えば…ウィルの娘のエレーナとかね。」
背を向けたブレムの右肩が微かに反応する。
「…よくお調べになっておられますね。確かにそれはあくまでプライベートな事ですので…」
とだけ答えて退室を急ごうとするブレムにアイラは…
「…彼女は…君にはかなり好意を持っているようだが…ヨルアと3人で仲良くとかは考えていないと思うよ。学生時代の彼女とは接点が少しあってね…エレーナは容姿端麗で賢く、一見大人しそうだが、本質は個性的でかなりクセがあってね…異性からモテてはいたのにずっと交際が成就に至らなかったのも…それが影響しているように思う。ただ気軽に付き合う相手なら、恩やしがらみのある人と縁続きの人は止めておいた方がいいし、結婚をしたいならヨルアとの関係性も考えて慎重に選んだ方がいいぞ。…亡くなった両親からヨルアを預かっていると、今も律儀に捉えている君だからこそ…な。だが確かに余計な事だったな。すまない…」
「…参考にさせて頂きます。…では。」
ブレムはそう言って今度こそ…1度も振り返る事なく出て行った。
「……」
…あえて言われなくても分かっていますよ、十分過ぎるくらいに…
あの夜の事は訴訟を起こしたいくらい嫌な記憶ですから…
苦々しい表情を浮かべながらホテルの廊下を早足で歩き、ブレムは帰路を急いだ。
ふと耳に掛けていたイヤーフォーンを手に取ると…着信音オフにしてあったが、不在着信記録にはエレーナの名前が30件近く表示されていた。
「……」
熟睡するヨルアの額にそっと手を置くブレムには、安堵だけでなく苦悶の表情が滲み出ていた。
1年と少し前…ブレムがあの…とんでもな性癖の女…エレーナから一方的に逃げて距離を置いたあの日から、未だに偶然を装い上品に付き纏い続けいて…
身近な人間達には自分との交際を匂わせるような言動をさりげなく見せているとの情報も耳に入って来ていた。
アイラの言うように、一見控えめで品の良い美女に見えるが…彼女は本当にかなりとんでもない…
ブレムの心の隙間にスルスルっと入り込み、巻き付いたら離さない…羊の皮を被った大蛇のような女性で…今はもう嫌悪感しかない。
あれはもう1年半近く経つか…
「ケビンがね…ヨルアちゃんからやっとデートOKの返事を貰ったようなんだ。最近のアイツは笑っちゃうくらい有頂天になってるよ。」
愛息のそんな様子が親としても嬉しいのか…ケントが電話でそんな内容を報告して来た時…ブレムは分かりやすいくらい対照的に落ち込んでいた。
「そうか…上手く行くといいですね…」
表面的には一緒に喜ぶ降りをして、内心ではいても立ってもいられない心境となり、
「たまたま休暇取れたから…」
とヨルアに連絡し、その週の週末にヌビラナから帰還し久しぶりにヨルアと夜に外食に出かけたが…
結局、ケビンとのデートの件は触れる事が出来ず…むしろヨルアからなんとなくその事をブレムに報告したそうにしていた気がするが…ヨルアからケビンの名前が出て来る事すら怖くて…気が付けばブレムの方が2人の交際の話題を避けている始末で、最近のヌビラナの様子やヨルアの学校の成績の話題をとにかく広げて盛り上げ…そのままマンションへ帰宅したのだった。
だがモヤモヤする気持ちは中々鎮まらないまま…ヌビラナプロジェクト責任者のポストを獲得した際にケント達からお祝いに貰ったワインが…なんとなくブレムの視野に入った。
入浴を終えてリビングを通ったヨルアは、ブレムが飲酒している事にかなり驚いたが…
たまにはそんな時もあるかと、
「パパお酒弱いんだから、飲み過ぎたらダメだよ。」
と言って、更におつまみを作ろうかと聞いて来る…
「いや…少し味見してみたくなっただけだから、大丈夫だよ。」
と答えたものの…結局ブレムはこの後の睡眠薬のつもりでチビチビと飲み続けてしまった。
シンと静まり返った深夜…ブレムはいい加減飲むのは止めようと立ち上がり、一旦、トイレに行く…
トイレから出て自分の寝室に向かうまでの間のヨルアの部屋を通り過ぎようとした時…なんだか無性にヨルアの寝顔が見たくなって来てしまったブレムは…
ゆっくりと、音を立てないようにドアを開けた。
「…ヨルア…?」
暗闇の中で小さく声を掛けてみたが反応は無く…
やはり眠っているようだったが…
ちょっとだけ寝顔を見たら落ち着くだろうと…ベッドに近付いて行く…
暗がりの中、だんだん目が慣れて来るとブレムはヨルアの頭のある方向に真っ直ぐ向かい…
ベッドサイドに着くとその場に座り込み…おずおずとヨルアの寝顔を覗き込んだ。
まだあどけなさも残るが…いつの間やら大人の女性らしい顔つきになって…メリッサとレトの良いとこ取りのかなりの美人さんになった…
…ケビンは…アイツはいつか…この子の…こんな可愛らしい唇を奪うのか…?
…その先は…想像する事もおぞましかった…
「ケビンなんて優しいから…旦那さんにするならいいんじゃないか?」
良かれと思い、自分の心にはキツく蓋をして…ブレム自身もヨルアにケビンを勧めていた場面を思い出す…
クソッ…この子を一番愛してるのは自分なのに…
溢れ出すケビンへの嫉妬…
飲みつけないお酒の力も作用して、激しい嫉妬がブレムの全てを支配して行く…
そして、気が付けば…
ブレムはヨルアに口づけをしていた。
ヨルアの瑞々しい唇の感触と…首元から仄かに発するソープの香りにブレムはうっとりとし…
ブレムは我を忘れてヨルアの唇の感触を味わい…その甘美で禁断の行為にしばし酔いしれた。
それは実際の時間にしたら1分前後か…
そのまま欲望に身を任せてしまいたかったブレムだったが…ほんの一瞬だけ浮上した理性にハッとなり…
慌ててヨルアから身体を離した。
「……」
ヨルアは1度寝てしまうと眠りはかなり深く…いつも滅多な事では起きない事が良かったのか悪かったのか…
ヨルアはブレムの行為に目覚める事なく、何事もなかったかのようにスヤスヤと寝息を立てていた。
「…クッ…ヨルア…すまない…」
ブレムは顔を歪め、ヨルアの部屋を飛び出した。
…ダメだ…今夜はヨルアと同じ屋根の下ではいられない…
ブレムはキーケースを鷲掴みし、逃げ出すようにマンションを出て…その夜は車の中でやり過ごしたのだった。
それからのブレムは、帰還をあえて避けたり、嘘を言ってマンションには帰らなかったりが続き…意識的にヨルアとマンションで2人きりになる事を避けていた。
ヨルアを養女にした日から、ブレムは亡くなったレトとメリッサに「立派に育てて良き人生のパートナーの所にヨルアを嫁に出すまで頑張ります」と、心の中で誓いを立てている…
今後どうなるか分からないが、ケビンならヨルアを大切にしてくれる事は予想は付くので、父親として温かく見守って行かなければならないはずなのに…実際はケビンに猛烈に嫉妬していて…挙げ句にあんな事を…
ブレムは…このままだといつか自分がヨルアにとんでもない事をしてしまいそうで…恐ろしかった。
そんな折に…
「あらブレムさん、お久しぶり…懐かしいわね…」
テイホ国の土壌変化をテーマにした世界的な研究報告会にブレムが個人枠で出席した際、大学時代に師事していた教授が薬学方面の研究でそこそこ名を馳せている娘を伴って出席していて…その娘というのがエレーナだった。
彼女は所作は控えめだが容姿端麗で、学生時代はかなりモテて目立つ存在だったようだが、ブレム自身が学生時代の時には彼女はまだ10歳前後の子供だったので直接の接点は無かったが…議員になってヌビラナ開拓を本気で画策していた頃に、教授の自宅に複数の質問を携えてお邪魔してた際、彼女とは挨拶程度の会話は何度か交わしていた。
「やあブレム君、元気そうで安心したよ。娘のエレーナはね、実は君の隠れファンで…今日は半分君目当てで私に付いて来たようなモノなんだ。良かったら仲良くしてやってくれ。」
彼女の背後でニコニコしていた教授から冗談とも本気とも付かない事を言われ…
ヨルアの事で悩んでいたブレムは、「ヨルアが結婚するまでは自分の恋愛なんて考えられないと思っていたが…他の異性に意識を向けて行けば或いは、こんな苦しい葛藤から解放されるのでは?」という期待に縋りたくなり…その後、彼女に誘われるままなんとなくの流れでお茶に付き合った。
彼女との会話は当たり障りのない話題に終始し…返って今のブレムにはそういう彼女のなんとなく好意は感じる程度の消極的な接し方に、ある種安心感を得てしまったのかも知れない…
だがしかし、彼女はさりげなく能動的で…その日お茶をした際にプライベートの連絡先を知りだがったのはエレーナの方だった。
だが…
「食事くらい一緒にする話し相手でも今はいいのかも知れない…」と軽く捉えていたのはブレムの方だけだったようで…
2度目に誘われたレストランが、ある高級ホテルの中にあった事の意味を、もう少しブレムはシビアに勘繰れば良かったと…後に激しく後悔する事になる。
「え…?シャンパンは苦手でしたか…」
予め頼んでおいたらしいシャンパンを開けてもらっている最中に、ブレムが飲酒を辞退しようとエレーナに告げると、彼女は残念そうにそう言った…
だが…少しして…
「これ…ブレム様の為に特別に取り寄せた希少なモノなんです。どうか、味見だけでもして頂けないでしょうか?もしも気分が悪くなってしまったりされた時は、私が責任を持ってお送りいたしますから…ね?」
その夜の彼女はなんだか押しが強く…そこまで言われると…断る事で気まずい空気になりそうで…ブレムは仕方なく数口飲んだ。
「…?…ケホッ…」
口当たりこそいい酒だが…シャンパンにしては異様にアルコール度数が高いように感じて、ブレムは思わず咽せてしまい…もうこれは口にすまいと思った時は既に遅かった。
メインディッシュに手を付けた辺りまでは意識は保てていたが…だんだんと視界が揺らめいて来て…身体の火照りもじわじわ感じ…デザートを口にした所でブレムはとうとうスプーンが持てなくなってしまった。
多分…あのお酒はアルコールが強いとかの問題ではなく…それ以外の何かが…混入されていたのかも知れない…
「あらブレム様…酔いが回ってしまわれましたか?…しっかりなさって………」
心配そうなエレーナの声が徐々に遠くなり…
「…強いお酒ですからって飲み続ける彼を止めたんですけどね…少しお部屋で休ませますから…どなたか主人を運ぶのを手伝って頂けますか…?」
「?…主人…?…」
自分は嵌められたのか…?と気付いた時…意識はスッと落ちていた。
次に意識を取り戻した時は、ブレムは見知らぬベッドの上に寝かされ、口に何かを詰め込まれたような不快感で、顔を一心不乱に振りながらもがいていた。
すぐ近くで、
「…ブレム様……ああ…」
という女性の声が聞こえ来てハッとして目を見開くと…
何かが口の辺りを這い回るような気持ち悪さに無意識に左右に振る自分の顔を追いかけるように、女性が自分の口の中に舌を入れて来る姿が見え…
そのおぞましい光景を作っていたのは…エレーナだった。
彼女はブレムに全裸でのしかかり、執拗にディープキスを繰り返していた。
「…ああブレム様…お目覚めになったのね…今夜はゆっくり楽しみましょう…」
エレーナがそう言って妖艶な笑みを浮かべる…
なんだ…?…この…悪夢のような状況は…
ブレムはなんとか身体を起こそうとするも…エレーナは全体重をかけるかのようにブレムの上半身を押さえつけてくる…
なにより、腕が上手く上がらないと思ったら…手錠のようなモノがブレムの両手に嵌められていた。
「逃がしませんよ。」
なんとも不気味な笑顔を浮かべて、エレーナがブレムを見下ろしている…
「…これはもう…犯罪だろう。」
ブレムを見下ろし興奮しているエレーナとは対照的に、ブレムの気持ちはどんどん冷ややかに…吐き気さえ覚える状態になって行き…今起きている問題の解決方法を冷静に思考し始める…
「君がいくらその気になっても、望むような展開にはなれないよ…残念ながら…仕事のストレスや過労は身体を蝕んでいてね…僕は早い話、不能になってしまっているんだよ。」
「…嘘よ…ずっとあなたに憧れていたのですよ。今夜、私はあなたに徹底的にご奉仕してあなたの子供を授かり…めでたくゴールインするんです。未来の旦那様、夜は長いですから…頑張りしましょうね…ブレム様…」
と言い終えると、エレーナは確認するようにブレムの下半身に手を伸ばす…
「…止めてくれ…吐き気がする…役には立たないって、言ってるだろう。」
ブレムの方は必死に身体を捩りな彼女を拒絶する。
…激務が原因で随分と間からそういう行為は出来ない状態なのは本当で…それに好きでもない気持ち悪い嗜好の女に触れられても…嬉しくもなんともない。
「…ご安心を。私が…今から元気にして差し上げますわ。それに…ブレム様…片足が義足でしたのね…これからは私がブレム様の義足の代わりになりますわ。」
ブレムの拒絶に怯む事なく、エレーナは彼の股関の方に顔を移動させて行く…
…もう…勘弁してくれ…
「…君に…言わなければならない事がある。私は…君が大嫌いになってしまったよ。こんな事をしても僕とは結ばれないし…それに…間もなくここに警察がやって来ると思う。」
「そんなデマカセ言っても無駄ですよ。旦那様。」
相変わらず、エレーナはブレムの告白には全く動じず、ブレムのイチモツに顔を近付けて行く…
「デマカセなんかじゃない。それに私は無精子に近い。調べればすぐに分かるよ。君が何を考えているかなんて興味もないが…今のこの状況を僕のSPがリアルタイムで聞いてると思うので、間もなく警察と共にやって来るだろう…君がどんなに粘ろうとも情事は成立しない。残念だったね…」
「…嘘よ…」
ここでエレーナの動きがやっと止まる…
「精子の件は友人の医師に健康診断を頼んだ際に念の為調べろと勧められて…こっそり調べてもらったんだ。それに…警察の件も脅しなんかじゃない。私にも一応SPが付いていてね。遠隔から私の動きを常にチェックしていて…就寝の少し前の時間帯に連絡がない場合は向こうから連絡が入るんだけど、それに対応出来てないから、発信機を辿ってもうそろそろ来ると思う。」
ここまで聞くと、エレーナは顔色が真っ青になり…
「連絡は単なるど忘れで、この状況も恋人同士のプレイの一つと言えば問題視されないレベルよ!」
エレーナは叫ぶように言ってブレムから離れ、慌てて衣服を着用し始めた。
「友人に公安上層部の人間がいてね…もしもの時の為に色々と装着させられている。例えばボイスレコーダーとか…今夜のこのホテルの防犯カメラと照らし合わせてボイスレコーダーの記録を確認すれば…この状況が同意のモノか否かはすぐ分かるはずだよ。」
乱れた髪を整えメイクも直して、帰り支度を始めているらしいエレーナからすっかり笑顔は消え、悔しそうに表情を歪めた。
「…私…そこまで信用されていなかったの…?酷いわ…」
「酷いのはどっちだろうね。君…僕の事はどこまで本気だったか分からないけど…本当に付き合いたい人にこんな事していたら…一生恋愛成就なんて出来ないと思うよ。」
ブレムが話している間にエレーナは自分のバッグを肩に掛け、後は部屋を出るだけの体制になって初めてブレムの右手の方の手錠の鍵を開ける。
「あとは自分でやって下さい。」
と言いながら右手にその鍵を持たせて…
「あなたはきっと私にまた会いたくなるわ。過労やストレスが原因のEDならば治療は可能ですわ。知り合いに良い医師を知っていますから…またご連絡します。」
「……」
「ブレム様、次回こそ…結ばれましょう。」
そう言ってプレムに怪しげな笑みを向け、投げキッスをして…変態女は去って行った…
「…ご冗談を……」
…あんな…温厚な紳士の教授から…どうやったらあんなイカレた娘が育つんだ?
表面的には淑女で容姿端麗だから…水面下では結構な人数が被害に遭ってそうだな…
…ああでも…今後がちょっと厄介だな…
ブレムは、今はとにかく自分の身体からエレーナの痕跡を全て消し去りたくて、急いでシャワーを浴びに行く…
…だがまあ…
警察の件はハッタリだが、以前ケントから押し付けられた万年筆タイプのボイスレコーダーは持ち歩いていて正解だった。
レストランでブレムが感じたシャンパンに関してのやり取りの違和感は間違いなかった。
教授はブレムが下戸気味な体質の事は把握しているし、自分に興味のあるエレーナが知っていないとは思えなかった為、あの時ブレムは咄嗟に万年筆の形をしたボイスレコーダーのスイッチにさりげなく手をやったのだ。
この後、ケントに頼んでホテルのスタッフから念の為にエレーナと自分の映っている防犯カメラ映像を譲ってもらう交渉もしないとかな…
今後あの女がどう出て来るか分からないが…一応色々と備えなければと、ゲンナリするブレムだったが…
ブレムはあの時の事を苦々しく思い出し…
ヨルアから意識を逸らそうと中途半端な気持ちで女性に逃げても碌な展開にならない事は…一応ブレムは学習した。
まあ何はともあれ、今現在エレーナはまだヨルアにまでチョッカイを出していない事には安堵しつつ…
あの時に彼女が醜態を自分に晒してくれた事によって、ブレムはある意味、頭を冷やす結果となったし…
幸か不幸か…流産をキッカケにしてケビンとの関係がヨルアの中では完全に終わった事が…ブレムの心に大きな平安をもたらしたのは…ヨルアには申し訳ないが…事実だった。
「さて、久しぶりにヨルアの寝顔も見たし…そろそろ寝るか…」
明日の早朝からの引越しの準備の事を考え、自身も今夜は早く寝ようとヨルアの様子を伺いながらそっと立ち上がる。
今後の移動の利便性を考え、ブレム達は明後日中にこのマンションを引き払い、星間移動船専用空港の近くのシンカラムという場所に極秘で引越す事になった。
このマンションの場所はケビンもエレーナも把握しているから、彼等の不意の訪問でヨルアを動揺させたくない意図がブレム的には大きい…
自分にはおそらく…それ程多くの時間は残されていない…
それまでにヌビラナプロジェクトをなんとしても起動に載せなくてはならないのだ。
なのに…今回のヨルアの妊娠・流産・失踪はブレムの意識をヌビラナから完全に逸らしてしまった。
ならば…もうこうなったら、ヨルアをなるべく手元に置いて仕事をするしかないのだ。
皮肉にも、お互いを命を賭して守ろうとしている2人…
割り切ったブレムは、愛しい魔女を連れて新たなステージへと進む。
1週間後…
いよいよ初めてヨルアを連れてヌビラナに立つ前日…
ブレムは密かに…久しぶりにアイラと対面していた。
「しかしまぁ……君はかなりクセの強い女性に好かれやすいねぇ…ジョアナに関しては君には憧れの範疇だったみたいだが…」
と言いながら、アイラはクスクス笑う。
「笑い事じゃないんですよ。…本当にしつこくて困ってて…微妙に減って来てはいますが、毎日20件前後のメールと着信ですからね。それに変な男に尾行されてて…直ぐ巻きましたけど、恐らく僕の新居を突き止めようとしてるんだと思います。」
面白がっているアイラに対し、苦虫を噛み潰したよう表情でブレムは窮状を訴える。
「君の可愛い護衛に頼めば解決は早いのでは?彼女の能力でエレーナの君に関する記憶を弄って貰えはいいじゃないか。」
「…そんな事…できたら恥を忍んであなたに相談なんてしてませんよ。娘に…僕があの女に嵌められベッドに縛りつけられた挙げ句、逆レイプされそうになった記憶を見られるんですよ。その内、アイツが教授をけしかけてヌビラナまで来たりしたら…仕事と部下の僕への信頼も危機に陥りますから…本当に困ってるんです。」
段々と半泣きの様な表情になって来るブレムを見て、アイラはそろそろ揶揄うのは止めようと真顔になり、葉巻に火をつける…
「まぁ君としては、ヨルアに知られるのが一番の恐怖だろうけどな。私的には仕事の方に支障が有りそうな話なら…対策に動かなくてはならないかな…」
そう言ってアイラが葉巻を一服吸って煙を吐くと…ブレムがケホケホと咳をした。
「実はその件はね…既にジョアナが動いている…」
「え…?」
ブレムが軽く煙を払う仕草をしながら微妙な表情になると…
「実はエレーナは、幼い頃から厳格な躾をされて育った反動みたいなモノがちょっと…水面下で色々な問題を起こしている原因になってるようなんだ。あの教授もかなり古風な考えを持っているようでね…まぁ蛇の道は蛇ではないが…ジョアナなりの解決の為のプランはキッチリ出来てるみたいだから、経過を少し見てみようと思っている。…ところで…」
葉巻を消してアイラはブレムをジロリと見る。
「…君のその咳は今の煙のせいだけではないだろう?……君のオペの件は…あの子にちゃんと話したのか?」
ブレムはアイラから目を逸らし…
「いえ…まだです。」
アイラは呆れたように溜め息を吐き…
「あの子にも一応心の準備が必要だよ。隠し通せる事じゃないだろ。早い方がいい。…エレーナの件はこちらに任せろ。依頼に関しての代金も要らない。だが…1週間以内にあの子に病状を話せ。自分からが無理なら私から話すぞ。」
ブレムはサッと視線をアイラに戻し、
「いえ…それには及びません。…僕から話します。」
「そうか…執刀医の事は私もよく知る人物で、腕も確かだ。…きっと何もかも上手く行く。…困った事が出来たらなんでも言ってくれ。出来る限り力になるから…」
…途中から急に張り詰めた空気の中で…
突如響くノックの音…
「お取り込み中にすみません…明日の会議の件で今ちょっと連絡が入りまして…少しよろしいですか?」
直後、アイラの秘書らしい男の声がドアの向こうから聞こえ…
「ああそうか…今行くよ。大体の用件は済んだところだからな。」
と言いながらアイラは席を立つ。
そのやり取りを見たブレムは、
「あ、それでは僕が出て行きますので、ここで秘書の方と打ち合わせされて下さい。…色々と本当に…ご配慮を感謝します。」
と言いながら席を立ち、深く一礼をして部屋を出て行った。
「いいか、くれぐれも1人で抱え込むなよ。この依頼の報告がてらジョアナと見舞いに行くから…頑張れよ!」
廊下を遠ざかる足音に向かってアイラは叫んだが、その言葉が最後までブレムに届いたかは…アイラにも入れ替わりに入って来た秘書にも分からない事だった…




