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23 長老の決断と夢の少年


ヒカが倒れてから2週間が過ぎようとしていたある日の午後…


ヒカの治療を終えた直後にヨハは、ケイレを声をかけられ…自室で小さなテーブルを挟んでケイレと対面する形で椅子に座っていた。


「お忙しいのに無理を言って申し訳ないです。先程も申し上げましたが、ヒカさんの治療はとりあえず今日までの2週間を1つの区切りとして一旦終了します。この後はヒカさんの月経の周期を予想して…状態によっては今回の最初のスタイルの治療になるかも知れないのですが…」


ケイレはここまで話すと…下の食堂からヨハが差し入れてくれたコーヒーの入ったカップを両手で包み込むようにして俯き…少しの間沈黙した…


「……」


ケイレが折り入って何を伝えようとしているのかは…ヨハは大体の察しは付いていたが、黙ってケイレの次の言葉を待った。


「ヒカさんは1つの大きな峠は越えられました。けど…あなたもお気付きかと思いますが、2週間の治療を終えた今現在…快復に必要なだけのエネルギーが…どうも順調に上がって来ていません。あくまで私の経験上の判断になりますが、ヒカさんはこれ以上の快復は無理だと思います。彼女の体調に関しては、今以上の事は望まず…ヒカさんの体調のレベルで可能な仕事なり出来る事を見つけて上げ、その中で穏やかな生活を送る為のケアを中心に考えて今後対応して頂けたらと思います。」


…覚悟はしていたけれど…予想通りのかなり辛い話だった。


表面的にでも落ち着いて聞く為に持ち込んだコーヒーだったが…一口も口にする余裕が無くなってしまい…ヨハはカップを置いた。


「…ケイレさんの見立ては…?」


震える声で尋ねるヨハの心中を察し、ケイレは少し躊躇するが…覚悟を決めて答える。


「…質問は寿命に関する事と受け止め…治療師としての率直な見解をお答えします。おそらく持って5年…20歳までの生存は厳しいかと…」


ヨハは無表情に戻すも…それはすぐに崩れて、泣き笑いのような切ない顔になり…


「僕も…(あなたの見立てと)同じでした…」


と答えた。


「………」


こういう事をクライアントや家族に伝える場面はいつも辛いが…ケイレなりにある程度の経験を積んで対応は慣れて来たはずだが…


長老の前以外は素の喜怒哀楽を見せようとしない目の前の…まだ少年の気配が濃く残るヨハの隠し切れない深い悲しみ見てしまうと…


ケイレはかける言葉が出て来なくなってしまっていた。


ほぼ知識や経験値の差で…治癒能力的には同じレベルの人間に対し、自分の言葉の何が慰めになるのか…?


昼下がりのヨハの部屋は…暫し悲しい沈黙で満たされた。





それから僅か2日後…


ハンサ・ケイレ・ヨハの3人は急遽、長老から招集がかかってエルオの丘の長老専用の資料室にいた。


「皆んな忙しいところ…急にすまないね。昨日、元老院の会議である件の承認が降りたので、大至急、集まって貰った。今から簡単にその件の説明をしようと思うので、どうかよろしく…」


「……」


長老の表情からは何も読めない3人だが、今回集められたこの顔触れからおそらくヒカの治療に関するモノだろう事は大体察する事は出来た。


…ヒカは未だに貧血症状が残り、体力を戻して行く為のリハビリの1つとして、1日に何度か研究所内を歩かせているが…5分程度歩くだけでバテて動けない状態になってしまう事が続いている。


[ヒカは快復がかなり遅れていて、次の月経が訪れた際に再び深刻な状態になる可能性が高まっている]


というのが、ケイレとヨハの共通の見解で…


「あの…長老…まさか…」


ふと何かを思い出し、ハンサが心配そうな面持ちで口火を切る。


「あ、そうか…君には以前、つい口を滑らせてしまったよな…」


長老は苦笑する。


ハンサには珍しく顔色を変え、


「しかし、あれは…」


と言いかけるも、長老は人差し指を自身の口の前に持って来て[黙って]というサインを送る。


「とりあえず、決定した事を話させてくれ…3日後にミアハに代々伝わる秘儀[女神の泉]をヒカに施す予定でいる。これは長老に代々伝えられる秘儀の1つなんだが…このエルオに住まう女神と私の間で行われ、3人の長達、そして今後ヒカの治療やケアに中心となって関わって行くであろうこの3人のみ立ち合ってもらう極秘儀式の為、当日も表向きは緊急会合という名目で君達をここに呼ぶ。儀式は前後の段取りを含めると2時間弱…夜明け前の時間帯から行う。スケジュール調整が少し難しいと思うが…よろしく頼む。」


と、長老はここまで澱みなく喋り…3人に向かって頭を下げた。


「……」


3人の中でハンサだけは納得が行かないような…なんとも言えない表情で長老を見ていたが…


他の2人が左膝を立て右腕をその上に乗せるポーズをとり始めたので、ハンサもそれに合わせ…


「御意…」


と言って、3人は長老に頭を垂れた。





「……?…」


浅い眠りの中…


ヒカは虹色のオーラを纏った美しい女性に手招きをされていた…


「…綺麗な人…」


ヒカが見惚れていると…その女性は急に眩い光を放ち…


消えてしまった…


まるで…

朝に一気にカーテンを開けた時のような…暗闇の中で急に照明を付けた時のような…


なんだかとても眩しい光を当てられた感じがして、ヒカは目を覚ます。


「あれ?」


見慣れた病室の景色は普段の昼間の明るさで…特に眩しくもない…


けれど…いつもと明らかに違うのは、蝶々が1匹…部屋の中に飛んでいて…


何か…とても甘い香りがする事…


更に…


ヒカを混乱させたのは、


「え?…え?!…だ、誰…?」


見た事のないレノの少年が、ヒカのベッドの向こうで周囲をキョロキョロしながら立っていた事…


「え?…え?…ここ…どこ…?」


少年の方もかなり驚いている様子で…


戸惑いながら辺りを見廻していた途中で、やっとヒカを見つける。


「ワッ…びっくりした…誰?…」


少年は驚くあまり、何歩かヒカから遠ざかる…


「び、びっくりしているのは…こ、こっちです。あなたは誰ですか?」


そっちこそ、勝手に部屋に入って来て何言ってるんだ?とばかりに、ヒカは同じような質問を返す。


すると…


「……」


少年は何か腑に落ちたようで、少しだけヒカに近づいて顔を覗き込み…


「君…もしかして…ヒカ?」


と問いかけて、ニッコリ笑う。


「そ、そ、そのようですね…あ、あなたは?誰なんですか?」


ヒカの方は、相変わらずさっぱり状況が掴めず…混乱したまま少し逃げる体制になっている。


「僕は…トウって言うんだ。君の……いや…」


「君の?…」


ヒカは訳が分からないながらも…


目の前で微笑むレノの男の子が、なんとなく自分に似てる様に見えた…


「……」


「どうしてあなたはここにいるの…?どうやって…ここに来たの…?」


ヒカの質問にトウは急に困り出す。


「…分からないんだ…庭の…ブルーベリーの実を摘んでて…ヒカは大丈夫かな?…って思ったら…ここにいた…」


「???」


当然だが…トウの言ってる事がヒカにはよく分からなかった…


だが、トウの方はヒカの困惑に動じる事なく、ニコニコしながら更に近づいてヒカの手を握った。


「!?、な、なんですか?」


「…よく分からないけど…会えて良かった!元気になって来ているんだね……あ…」


「え?、え?…透け…て…」


話している途中で2人の間を蝶がスーッ通ると、同時にだんだんトウの身体が透けて来ていた…


トウは残念そうな顔をして自身の身体を見る。


「あ…もう戻るのかな…これ、ヒカにあげる。頑張…て……」


ヒカに手を差し出しながら、トウの姿はみるみる消えて…居なくなってしまった…


そして…消えて行くトウの手から紫色の小さな玉がコロンと2粒…白いシーツの上に落ちた…


「……」


呆気にとられながらも、ヒカはすぐにその紫色の粒を手のひらに乗せる。


「あ、ブルーベリーだ!」


ヒカの好物を置いて行ってくれたあの少年は、良い人かも知れない…


かなり俗物的な材料でヒカはトウを判断をした。


「………」


…数分後…


その2粒のブルーベリーをジッと見ているうちに…ヒカは我慢出来ずポイっとその2粒を口に入れ…食べてしまった…


「うん、凄くあま〜いっ。」


そして…


不思議な少年が蝶々と共にやって来た証拠品が手元に無くなってしまうと…


「…きっと私…夢を見ていたんだ。うん、そうに違いない。」


と、今目の前で起きていた事を無かった事にしてしまうヒカなのであった…





「…なんだか…凄く調子が良いようだね…」


研究所の廊下を歩くヒカの隣で、ヨハが驚きながらもご機嫌な様子で話しかける。


最近、夕食前は日課のようにヨハに見守られながら研究所内を歩いているヒカなのだが…いつもなら息切れがして来る5分のタイムリミットが過ぎても、こうしてペースを落とさずにスタスタ歩いている…


いや…歩き始めから身体が軽やかな気がヒカはしていた。


「なんだか身体が軽いです…いつもこんな風に歩けたら楽しいのに……本当に…今なら外を歩いてみたい気分…」


ヒカ自身も、自分の身体の調子良さに驚いていた。


2週間と少し前…明け方に目覚めた時に、側にル・ダではない男性(長のイレンだが)がいて、なんだか無性に不安になり大泣きした挙句にル・ダに抱きついてしまった事は…ヒカはしっかり覚えていて…


なんで大泣きするほどにヨハが恋しかったのか…なぜ抱きつくなどという…暴挙に及んでしまったのか分からず…


いや…どちらかというと、理由を考える事を自分が無意識に避けているような気もするけれども…


ヒカはあれから恥ずかしくて恥ずかしくて…2.3日ル・ダの顔がまともに見れなかった。


だが、数日後に意を決してやっとその事をル・ダに謝れたのに…


当のル・ダは、


「気にしなくていいよ。ヒカはきっとあの時は寝ぼけていたんだよね…」


と、ニッコリ笑顔で返されてしまうと…


1人で気にしている自分が虚しくなって…


「なんだ…そうか、私、寝ぼけていたんだ…」


よく分からないけどヒカもそれで自分を納得させて、その記憶は意識的に頭の隅に追いやってしまい…


少ししたらすっかりル・ダと普段通りの会話が出来るヒカに戻っていた…


「…そんなに調子が良いの?…お昼前に歩いた時は5分もしない内に脇の椅子に座ってしまったのにね…」


ヨハには今日の午前と午後の変化がなんとも不思議に思えていた…


最近の研究所の廊下は、バテたヒカがいつでも座れる様にとハンサが至る所に座り心地の良い茶色の手摺り付きの長椅子を設置してくれたのだが…今はもう10分以上歩いているが、まだ全く座りたいと思わない状態なのだ。


「…あ、……あのブルーベリーのお陰だったりして…」


昼食後、今日の午後はル・ダから瞑想の指導を受ける予定だったが、急遽長老に呼ばれて行ってしまったので、自分で出来る範囲で瞑想のおさらいをしようかなと考えていたら…ウトウトと食後のお昼寝になってしまい、ヒカはなんとも不可思議な夢を見たのだ。


「ブルーベリー?…誰かから差し入れでも貰ったの?面会があった話は聞いていないけど…?」


タニアの事件以降、特にヒカのいる研究所内のセキュリティが厳しくなって来ている為、監視カメラの設置やヒカへの面会も、研究所内の人間が誰も把握しないまま彼女の病室に入る事は不可能になっている。


思わず口走ってしまった言葉をル・ダに聞かれてしまい、慌てて気恥ずかしそうに説明する。


「ち、違うんです。ゆ、夢の中で食べたんです…そう…美味しかったけど…寝ぼけていたんですね…あれは…」


「……」


…夢…唐突な体調の改善傾向…先程の長老の話…なんだかそれらは無関係ではない様に感じ、ヒカの見た夢がヨハは無性に引っかかった。


「ヒカ…嫌じゃなかったら…夢の話…僕に詳しく聞かせて。」





「…そうか……なるほどね…」


その日の夜の研究所の応接室…


ティリの医療施設の視察から戻ったばかりの長老とハンサを捕まえ、ヨハはいつものヒカの歩行リハビリに付き添っていた際の出来事を2人に話した。


自慢の白髭を弄りながらヨハの説明を聞いていた長老は…どことなく嬉しそうな様子に見えた…


「これは、エルオの女神が私の願いを受け入れようとしている印と私は捉える。吉兆だ。」


長老が笑みを浮かべながらヨハの話に反応すると、


「しかし、例の儀式が決定した直後で、夢の少年から渡された実を食べてヒカちゃんの体調が良くなったのだとしたら、見方によっては違う方法もあるというメッセージの様にも取れませんか?」


すぐさまハンサが違を唱えるような指摘をした。


「…まぁ一理はある話だね…だがおそらく、ヒカが夢だと思っている出来事は夢ではない。実際にあの子にはトウという2歳離れた兄がいる。その兄のトウに変わった事が起きていないか長のサラグを通して確認してみよう。その上でトウが現実にヒカが会っていたとしたら…これは結構重大な意味が含まれている事かも知れないんだ。」


と、ハンサの意見に反応しながら長老は立ち上がり、応接室の机の上の固定電話の受話器を取る。


「……あ…サラグかい?夜分遅くにすまないね。実は……………という訳でね…急がせて悪いが、当人への確認をよろしく頼むね。じゃあ。」


と、レノの長に対してほぼ一方的に喋り、長老は電話を切った…


そして、ブルーベリーの少年の検証はレノの長の返事待ちという形で一時保留となり…


その後、ヨハは急いでヒカの病室に戻った。




「すみません…マリュさん…偶然居合わせただけなのに、厚かましいお願いをしてしまって…」


病室に入るなり、既に眠っているヒカのベッドサイドの椅子に座るマリュに、ヨハは謝る。


「ううん、気にしないで。私も久しぶりにヒカちゃんと色々お話し出来て楽しかったわ…。見た感じ…かなり元気になったように見えるけど…まだ君は一晩中この子に付いているの?」


気遣い無用とばかりにマリュはヨハの謝罪を流すも…自分へ心配の目を向けられ、ヨハは苦笑する。


「いえ…ただヒカの体調はまだ倒れる前のレベルには届いていないので…見えていない場所で眠るより様子が分かる場所の方が安心出来るので、最近は夜勤の看護師が使用していた隣の部屋で寝ています。モニターが付いてますから、育児棟でヒカを見ていた時の要領で過ごしています。慣れたモノです。」


「…そう…でも君は最近、昼間は徐々に長老に付いて出掛ける様になったと聞いているわ。また夜も看護師さんの力を借りる事を考えた方がいい様に思うけど…。ヒカちゃんの事は完全に快復するまで時間がかかりそうな話も耳にしているし…君のペース配分もしっかり考えて行かないと、結果的にヒカちゃんを心配させる事にもなりかねないわ。…今の君は力を抜く勇気も必要そうに見えるのよね。あえて言葉には出さないけど、皆んな君の心理的なプレッシャーや健康の事を気に掛けているのよ。私で良かったら話くらいは聞けるから…遠慮せずに言ってね。」


「…ありがとうございます。」


ずっと2人の様子を見て来たからこそ言えるであろう…マリュの温かい気遣いに、色々な感情が込み上げて来そうになるのを必死に抑え、ヨハはなんとか笑顔を作る。


「……」


ヨハの反応を見て更に何か言おうと口を開きかけたマリュだが…


「いけない、長老に用事があるんだったわ。まだ研究所にいらっしゃるかしら…ハンサさんに聞いてみよう。」


と、元々の用を思い出して立ち上がる。


そして再びヨハの方を見て、


「いい?私は2人の事、ずっと応援してるんだからね。それは忘れないでね。じゃ。」


と、ウィンクして、マリュは慌てて部屋を出て行った。


「……」


マリュの優しさにジーンと余韻に浸っていたヨハだったが…


「?…2人の事…?」


マリュの去り際の言葉とウィンクが…なんだか意味深で不思議なニュアンスに聞こえ…ヨハは首を傾げた。





「…そう…まだ研究所におられるのね…ああ良かった。大至急、資料室に行ってみます。どうもありがとう。」


マリュがハンサとの通話を切ろうとすると、


「ちょっと待って!夕方にナランさんから思いがけない報告を聞いて、確認しようと思ってたんだ。タヨハさんの神殿に転勤てどういう事だ?」


「どういうって…その通りの事よ。急いでるから、それじゃ。」


「ちょっと待っ…」


と、慌ててイヤーフォーンの通話を切って、


「…ナランさん…なんで今日の今日で彼に言っちゃうかな…」


と小声で愚痴りながら、マリュは資料室へ急ぐ…


…予想通り…


資料室のドアの脇にはハンサが立っていて…腕組みをして近付いて来るマリュをジッと見つめていた。


「…先程は…どうもありがとう…」


とハンサに小声で挨拶しながらドアをノックするマリュ…


「マリュか?…入ってくれ」


中から長老の言葉が聞こえ、マリュがドアノブに手を伸ばすと、一瞬、遮られ…


「抜け駆けするなと言ったのは君では?」


というハンサの低く不満気な声が聞こえたが…直後、マリュを遮った腕はサッと離れた。


「…後で説明するわ…」


と小声で返し、マリュは何事もなかったように入室した。


「失礼します。夜分遅くに申し訳ないです。」


マリュが軽く一礼して顔を上げると、長老は奥の窓際の椅子に座って何やら資料を見ていた。


「いや…少し厄介な仕事だと思うが、よく引き受けてくれたね。ヒカの担当から外れて、ナランもやっと君が育児棟に戻って来てくれたと喜んでいた矢先だから…彼女はガッカリしていたよ。けど、向こうもね…タニアの状態がなかなか安定しなくて苦戦しているようで…条件に合う女性アムナが決まったと早速連絡したら喜んでいたよ。…まぁ…とりあえず、こちらに来てコレを見てくれ。」


資料をあれこれ整理しながら、長老はマリュに向かって手招きをする。


「あ、はい。」


と、マリュが資料の並べられている机まで近付くと、タニア関連と書かれた資料と、セキュリティと書かれた袋が置かれていた。


その内の1つであるタニア関連の資料を長老はファイルにまとめてマリュに渡した。


「出発までにこの資料はしっかり目を通して置いてくれ。それと…これから行く先は平和な場所なんだが、稀に物騒な事が起こるやも知れない可能性があるから、防御グッズを渡しておく。一応、移動時は警備を付けるが、これらは念の為、自宅を出る前に装着して神殿に着くまでは絶対に外さないように…」


と、長老は更にセキュリティと書かれた袋からカーキ色を少し暗くしたような特殊な色彩のサングラスと、内側が金属の網が張り巡らされたような鬘、そして、綿素材っぽいナチュラルな肌触りの大きな白い布を広げて出してマリュに見せ、再びそれらを袋に戻して渡した。


…これが…防御になるの…?


「…分かりました…」


と、なんとも腑に落ちない様子でマリュはその袋も受け取った…


長老はマリュの怪訝そうな顔を面白そうに見ていたが、


「今は訳が分からんかも知れんが、それが君を厄介な敵から守ってくれる。…とにかくマナイは常に身に付けていて欲しい。向こうに着くまでの道中で知らない女性がやたらスキンシップをして来ようとしていたら要注意だよ。可能ならばなるべく目は見ない握手もしない…接触は避けるんだ。白い布は向こうで小さ目に切り分けて皆で使って。詳しい事は向こうに着いてから金髪で藍色の目の青年から聞くといい。あ、それから向こうにいるミアハの民は、可能な限り月に1度は帰国してエルオの広場で瞑想するよう、タヨハに伝えてくれ。」


「はぁ……」


渡されたファイルと3つの防御アイテムを抱えて立ち尽くすマリュの、背後の掛け時計が視野に入った長老は、


「あ、もうこんな時間か…私の用事は済んだから、もう行っていいよ。タニアが落ち着くまでだから、短期任務になるか長期になるか今はなんとも言えないが…君なら安心して任せられる。よろしく頼むね。あ、そのまま退室して構わないからね…挨拶もそれでは大変だろう…じゃ。」


と言いながら、軽く敬礼のポーズをしてマリュに退室を促す。


「はい。ご期待に沿えるよう頑張ります。では。」


と、マリュも長老の敬礼に応えるように一礼し、ドアの方へ歩き出す。


と、


「あ、それから帰りはドアの外でジッと聞き耳を立てて待機してるハンサに送ってもらいなさい。帰りながら経緯を彼に軽く説明して上げる必要もありそうだからね。」


マリュの背中に向かって、長老はサラッと一言付け足した。


「……」


マリュはそれを聞いて一瞬、歩みを止めたが…


「…ご配慮を…ありがとうございます。」


と答え、振り向かずに部屋を後にした。


「……」


勿論…2人の足音が遠ざかって消えるまで…長老がドアの方を生温かい目で見ていたのは言うまでもない…




翌日…


レノの長サラグは、トウと父親のリュシを伴って、血相を変えて長老の元にやって来た…







その2日後…


「…起きて…ヒカ…」


ヨハに軽く身体を揺すられ、ヒカは眠そうに目を開ける。


「あ…おはようございます…ル・ダ…」


目をこすりながら起き上がり、顔を洗って口を濯ぎ、軽く髪を梳かす。


「明け方は少し冷えるからね…これを着て。」


と、ヒカは防寒用の上着を羽織らせられ、2人は病室を出る。


研究所の外に出るとまだ辺りは暗く…街灯の下でハンサと警護らしき人が待っていて、4人は待機していた車に乗ってエルオの丘へ向かう。


歩いて行けない距離ではないが、ヒカの体力や諸々を考慮しての移動となった。


丘の麓に到着し地下に降りる途中の個室で、儀式の立ち会い人の中で唯一女性であるケイレによってヒカは着て来た衣類を全て脱がされ、替わりに大きな白い布を身体に巻き付けられて部屋を出る。


そしてヒカは、ケイレとヨハとハンサの3人と共に、長老と長達の待つ地下深くへと向かう…


ヒカは瞑想の広場までは何度か訪れた事はあるが…今いる場所は初めて踏み入れる世界で、少しドキドキしていた。


下を見ると地下から六角柱の形をしたマナイの結晶のかなり巨大な石柱が、深淵の地から生えたようにエルオの地下の中央部にどっしり鎮座していて、その大きな大きな石柱の頂上部の少し凹んで平らになった広場のような場所で、長老と長達はヒカ達の到着を待っていた。


マナイの石柱の頂上へと向かう階段を辿々しく降りて行くヒカの背後から、


「疲れたら無理しないですぐ言うんだよ。」


というヨハの小さな声が、2人の前後を歩くケイレとハンサにも時々聞こえて来ていたが、謎のブルーベリーを食べてから好調を維持しているヒカは、


「大丈夫です。」


と、ヨハに答えた。


そんなやり取りを数回繰り返すうちに、4人は長老達の元へ辿り着いた。


「ヒカ、よく頑張ったね。息苦しくはないかい?」


と、笑顔の長老に尋ねられる。


「おはようございます…はい…苦しくないです。」


「それは良かった。」


と答えながら、長老はヨハに目で合図をする。


それに反応し、後ろにいたヨハがヒカの羽織っていた上着を剥がし、長老の側まで連れて行く…


「ヒカ、このまま私につい来てて…」


長老は声をかけながら歩き出し、ヒカはそれに追随する。


長老の目指す場所は、すぐ先のこのマナイの結晶の石柱の中心部…


5mほど歩いた先に直径2m深さ2mぐらいの円柱の穴があり、長老が止まった場所のすぐ下には穴の内部に降りる階段が彫られていた。


長老はヒカに手招きし、


「ここから下に降りて。降り切ると真ん中に腰掛けられる場所があるから、そこに座っていて。私がいいって言うまで何も言葉を発さず、そこでジッとしているんだよ。」


と告げ、長老はヒカに中に入るよう促す。


「…はい…」


と言って、ヒカは恐る恐る掘り抜かれた小さ目の階段をゆっくり降りて行く…


そして、穴の底に到達すると、長老の言っていた通り掘り削られたようなマナイの石の台が中央にあったので、ヒカは感触を確かめるように何度か台に触れながら、そこに腰掛けた。


「…そう…そのまま動かないでいて…繰り返すけど、私が合図するまで動いてはいけないよ。」


何かを待つように、長老は上を見上げながら、穴の中のヒカに指示を出す。


少し離れた縁の手前で様子を見守る6人も、これから始まる事を息を潜めて見守っていた。


「……」


暫しの静寂の後…


中央の2人のいる場所に朝日が射し込んで来ると、長老はすぐ様3人の長達の方をチラッと見る。


その動きに反応し長達は長老の後ろへ横並びのような形で移動する。


そして、射し込む朝日を浴びながらヒカのいる場所に向かって呪文のような…ヒカや後ろで様子を見守る3人達には分からない言葉を唱え始める…


ミアハに古来より伝わる民謡の様な…懐かしいような不思議な旋律の言葉が、洞窟内の音響もあって辺りに響き始めると…


どこからともなく水音が聞こえ…


マナイの石柱の周囲は下からどんどん迫り上がって来る侵入路不明の水に浸され、それはあっという間に頂上部付近まで迫って来ていた。


と、その現象から少し遅れてヒカの足元にも水が侵入し始め、


「ヒャッ」


というヒカの声が聞こえて、その声にヨハもつい身体が反応してしまう…


「ヒカ、大丈夫だから動かない!」


呪文の途中で、動揺するヒカに長老が素早く声をかける。


ギリギリで水位上昇が止まるが…


長老達の呪文は続けられる。


「……」


やがて水音も聞こえなくなり、水面の波立ちが見えなくなって来た頃…


「…え?……」


再び微かに驚くようなヒカらしき声が聞こえた…


石柱周辺をどっぷり浸している水が青白く光り始めたのだ。


…おそらくヒカの身体を浸している水も、同様に光り始めた事に驚いたのだろう…


尚も呪文は続く…


それは15分近く続いたろうか…


自分のいる場からはヒカの姿を見ることが出来ないヨハにとっては1時間にも感じる長い時が過ぎ…


マナイの中心部にいる4人の呪文の様な声はやっと止まった。


そして、長老ら4人はマナイの中央部…ヒカのいる場所に向かって左膝を付きその上に右腕を乗せて首を垂れる。


直後、


「親愛なるエルオの女神…この度は我らが願いをお聞き入れ下さり、深く感謝致します。」


という長老の言葉が聞こえ…


少しして、4人が立ち上がると…


マナイの石柱を浸していた不思議な水は、いつのまにかすっかり引いていた。


中央の4人がそれぞれ握手し合って、儀式は終了した。


そのやり取りを終結無言で見守る背後の3人…


直後、ヨハは中央部へ小走りで寄って行く。


長老が手を貸して、ヒカが中央の穴から上がって来るところだったが、待ち切れずヨハ自身もヒカに手を差し出す。


「ヒカ、身体が濡れて寒くない?」


と、引っ張りながら声をかけると、


「いえ…全然…この布も濡れてないし…なんだか温かいくらいです。」


と言って、ヒカは力強い足取りで穴から出て来た。


不思議な事にヒカに巻かれている布からは全く水滴は垂れておらず、濡れている様子すらなかった。


そして…


ヒカは登り切ると直ぐに、長老に向かって左膝を付きその上に右腕を乗せ首を垂れ、


「長老、この度は私の為に貴重な儀式を行って下さり、誠ににありがとうございました。」


と挨拶をし、


立ち上がると、今度は長達の方を向いて同じポーズをして同様な挨拶をし、


今度は後ろの2人の近くに行って、同じ様に…


そして、最後にル・ダであるヨハの前に行き…


首を垂れて挨拶をするが…後半のヒカの声は少し震え、途切れ途切れだった事は…皆気付かないふりをした。


前日にル・ダの指導の元でこの練習をした時はすべて上手く行ったのに…


なぜかル・ダの前でだけ、思うように出来なかった事が少し悔しかったヒカだったが、ル・ダがそんなヒカを少し目を潤ませながら優しい表情で見ていてくれた事が、細かいミスも帳消しにしてくれているようで…


何も考えずル・ダに飛び付きたくなる衝動が湧き出して来るが、ヒカはそれを必死で堪えた。


「……」


「良かったな、ヒカ。湧き出た水が青く輝いたという事は、エルオの女神が願いを聞き入れてくれた証だ。これできっと良くなる…焦らず頑張るんだよ。」


と、長老は2人の間に割って入るようにしてヒカをギュッと抱きしめる。


「……」


長老に押しやられて少しヨロけたヨハは不満そうな表情で、


「僕を押し退けてまで割り込まなくても…」


と呟くと、


「まぁ…そう妬くな。」


と、長老は面白がってヨハをからかうようにウィンクする。


「なっ……神聖な場で何やってるんですか!もう離れて下さい。そんなに長い抱擁はセクハラですよ。」


と、ヨハは2人を引き剥がそうとする。


「神聖な場でお前こそ何言ってるんだ。」


と、揉み合う2人の間で戸惑いながらも笑っているヒカ…


「また始まった…」


少々困った様子で3人を見るハンサ…


「あら、見ているのは中々楽しいですよ。」


と、むしろ微笑ましそうに見つめるケイレ…


「ま、まぁ…とりあえず、無事に儀式が終わって何より…」


3人の長達もやや顔を引き攣らせながら、目の前で繰り広げられているコントの様なやり取りを笑顔で見守っていた…




早朝の慣れない事だらけだった厳かな儀式は、ヒカなりに自分の為の儀式と理解して神経も張り詰めていたのだろう…


更に研究所に戻り、慣れない顔触れとの朝食にもかなり緊張もしたのだろう…


病室に戻るとかなり眠そうだったので、ヨハがベッドで休むように言うとヒカは横になり、ヨハのかけた言葉に反応する気力も残っていなかったかのように途端に眠りに落ちた…


その様子を少しだけ見守るつもりでベッド脇の椅子に座ったヨハだったが…いつの間にか彼も睡魔に引き込まれ、ヒカの肩の脇辺りの布団に軽く組んだ両腕の上に顔を突っ伏し…いつの間にか熟睡してしまっていた。


「おい、起きろ!昼食だってよ。」


…なんだか親しみのある…それでいてどこか太々しい声が聞こえ…同時に肩をバンバンと叩かれる…


話しかける声が大きいのも耳触りだが、なにより肩を叩く力が遠慮もなくやたら強く、痛みで覚醒するヨハ…


「……」


こんな…長老よりがさつで厚かましい起こし方をする男は1人しかいない…


「…カシル…痛いよ…」


頼りにはなるが、相も変わらず不躾な男の名を呼びながら、ヨハは不機嫌そうに顔を上げる。


「よう、久しぶり!一応、元気そうだな…安心したよ。」


久しぶりにヨハから見たカシルは…声こそ元気だが、少し疲労気味に見えた。


「久しぶりですね…お陰様でなんとかね。…なんだか君の方が疲れているように見えるんだけど…病院の方が忙しいの?」


と、ヨハの指摘に少し笑顔が曇るカシル…


「…相変わらず…変に鋭いところが憎たらしい奴だな…」


と言いながら、近くにあった椅子をちゃっかりヨハの隣に並べて座る。


「実は色々あって…今は病院には出勤してないんだ…」


「…待って、ここは病院の医局じゃないから…長くなるなら場所を変えよう。ヒカが起きちゃう…」


話が長くなる予感がしたヨハは、ヒカの方を気にしながら椅子から立とうとする。


「…そうだな……って……おい…」


ヨハに提案され、そこで初めてヒカの寝顔をまじまじと見てカシルは顔色を変える。


「なんだこの可愛い女の子は…どこかで妖精みたいな子とか噂は聞いたけど…可愛すぎるだろ…」


驚愕の表情になり、カシルはヒカの顔にどんどん接近して行く…


が、それはすぐにヨハの厳しいガードに阻まれる。


「止めて。それ以上は接近禁止!話は他の部屋で聞くから…とりあえず離れろ。」


更に顔を遠ざけられ、カシルは不満を露わにする。


「なんだよ。見て減るモノじゃなし…」


と抵抗するも、渋々椅子から立ち上がる…


「…減るんだよ。今日はかなり疲れたと思うからまだ起こしたくないんだ…さあ、行くよ。」


と、なるべくヒカに接近出来ないようカシルの腕をガシッと抱えながら、ヨハは名残り惜しむ彼を引きずるようにして部屋を出た。


「は、離せよ。…お前…意外と力強いのな…」


と、ジタバタしながらカシルは半強制的に退出させられたのであった。


「2人共、遅いですよ。長老が待ちくたびれています。」


2人が病室を出ると、今度は廊下にハンサが待ち構えていた。


わざわざ2人を迎えに来た雰囲気で、若干、不機嫌な様子だった。


「今日は大変珍しい事に、長老は皆さんとの昼食後はエルオの丘に戻って休むと仰っています。どうか、長老の気が変わらない内に昼食を召し上がって下さい。」


「……」


と、ハンサの半分小言の様な説明を受けながら、2人はすっかり神妙なモードに切り替わり…黙って長老の待つ食堂へ向かった。




「…おや?ヒカは来ないのかい?」


食堂には他の研究員達の姿はなく長老とケイレのみがいて…長達の姿もなかった。


「ぐっすり眠っているので起こさずに来ました。少ししたら様子を見て連れて来ます。」


長老の問いかけにヨハが答えると、


「ヨハは長老達と話があるだろうから、俺が連れ来てやるよ。」


と、ニヤニヤしながら会話に割り込むカシル…


「今日はヒカにとっては少し特別な日なんだ。頼むからあの子に構うな。」


再びカシルの腕を引き寄せて耳元で念を押すヨハ…


「?…」


視線の先にいたケイレが、珍しく微かに表情を曇らせたのをヨハは偶然垣間見てしまった…


…なんだろう?…珍しいな…


「いつまでも戯れ合ってないで、早く座れ。」


長老は少し呆れたような表情で、2人の着席を促し、更に彼等の後ろへ視線を移して…


「ハンサ…君もだよ。わざわざ2人を呼びに行ってくれてありがとう。さあ、一緒に食べよう。」


「私?…あ…はい…では失礼します。」


今朝の儀式の雑務処理にでも行こうとしたのか、背を向けて廊下に出ようとしていたハンサ…


いつも自身の存在感をあえて消すかのようにさりげなく動き、長老の行く先々で色々なフォローや根回しが出来る人だから、彼が長老にとっては無くてはならない存在になっている事は、今は誰もが知るところとなっている。


カシルとは全然違うタイプだが、彼も職場の人望は厚く、ヨハやヒカにとっても頼りになる存在だ。


ハンサが最後にテーブルに着くと、長老が手で合図をし、食事が次々に運ばれて来た。


「…?…なんだかメニューがいつもより豪華のような…?」


ヨハが目の前にある料理を見ながらボソッと呟く…


「ふふ…普段は食べる事を省略しがちな君でも気づいたか?イレンを除く長達とは食事を共にする事は割とあるが、普段、忙しく動き回っている君達と一緒にこんな風に食事をする機会は中々ないからね…。それに…今日は少し特別な気分でね。メニューは私からシェフに少しリクエストさせてもらったんだ。どうぞ召し上がれ…」


と言って、長老はいつになく嬉しそうに皆に食事を勧めた。


「長老こそ、普段から休みなく動き回られておられるのですから…栄養をしっかり摂って下さいね。」


ハンサがスッと言葉を挟む。


「分かっているよ。いつもありがとう、ハンサ…」


やけに素直な…ウィンクを伴った長老の返事に、少し照れた様子のハンサ…


その様子を見て


「長老、そのウィンクは気持ちが悪いので、止めた方がいいと思います。」


と、遠慮なくツッコむヨハ…


「何を言うか、私のウィンクにクレームをつけて来るのはナランとお前くらいだ。大国ではせがまれる事もあるんだぞ。」


「…怖いモノ見たさという事も…」


「ヨハ君…失礼だよ。」


ヨハは長老との応酬をついにハンサに嗜められる。


「いいんだよ、ハンサ…私は寛容だからね。あ、ヨハ…今夜、夕食の後に資料室に来なさい。有り難い任務を2.3追加してやろう。」


ヨハは長老のキツめの反撃に口に入れたトマトを詰まらせそうになり…


「寛容?…寛容の意味…」


と、ゲンナリしながら長老を見る。


「……」


カシルは一連のやり取りを唖然としながら眺めていたが…


「…ヨハ…お前の太々しさは、畏れ多くも天下の長老を前にしても変わらないんだな…筋金入りだわ…」


と、半ば感心したように呟く…


「カシル、もっと言ってやってくれ…」


長老がすかさず加勢するも…


「…いや、太々しさに関しては、カシルにだけは言われたくない。」


と、ヨハはキッパリ言い切る。


「あははははは…」


突然、大きな笑い声が辺りに響き、ヨハ達の一連のやり取りを遮る…


笑い声の主はケイレ…

皆、目尻を抑えながら可笑しそうに笑うケイレに視線が集まる。


「あ…すみません…私、セダル様とヨハさんのこういうやり取りを見るのが楽しみで…一緒にお食事出来ると聞いて…もう…期待通りでした。…失礼しました…」


尚も笑いの余韻で肩を振るわせているケイレ…


ハンサはやれやれという表情で、


「楽しい会話もいいですけど…皆さんのせっかくのご馳走が冷めてしまいますよ。」


会話で中々手を付けられていない料理達を指差して、食事の方を促す。


「……」


ケイレの大笑いする姿を見て、


…良かった…自分の知っている、いつものケイレさんだ…


と、少し安心するヨハだった…




「ところで…」


皆が食事に集中し始めて少しの間、食堂内に静けさが訪れたが…


研究所の昼食のメニューには非常に珍しいメロンのデザートを皆が味わい始めた頃…


再びの会話のきっかけとなる質問を、ヨハがカシルに投げかける。


「カシル、今日は君はどうしてここにいるの?僕に会うとか、ましてやヒカのお見舞いに来た訳ではなさそうだし…」


「今頃?…病室に呼びに行った時は何も聞かなかったクセに…」


メロンをスプーンで掬いながら、カシルは少しズッコケるようなポーズをしてヨハを見る。


「今日もそうだったけど、カシルはいつも最初は僕に変な絡み方をして来るから、本題が最後の方になってしまいがちになるんだ。仕方ないよ。」


スプーンでメロンを口に運びながら、ヨハは正論然とした口調で真顔で答える。


「…ホンット相変わらず可愛げないな…こんな小生意気な男が弟子では、長老も苦労が絶えませんね…」


長老は既に昼食を平らげ、いつものように両肘をテーブルに付き、指を組んでその上に自身の顔を乗せながら、なんとも微笑ましそうにヨハとカシルのやり取りを眺めていた…


「そうなんだよ…。だが…私も似たような愚痴を最近、君の父上から聞かされたばかりではあるがな。何処の保護者も色々と苦労は絶えないのかもな…カシル…」


不意打ちのように、今の彼が抱えている大きな問題を突きつけられて、カシルの表情から笑顔は消え…シュンとなってしまう。


更に長老は続け、


「…まだメロンが食べかけだったのに、頭の痛い問題を思い出させてしまったね…すまない。話の流れとしては良い頃合いかと思ってね…」


「カシルは何かプライベートな事情もあってここに居るという事でしょうか?」


俯くカシルを通り越し、ヨハが長老に確認するように視線を向ける。


「…まあ…ざっくり言ってしまえばそんな所かな?」


ここで長老のニコニコモードが少し切り替わる。


「今日、ここにカシルを呼んだのは、今回のヒカの治療に関して病院側の窓口として協力してもらった労いの意味もあるのだが…彼は今、ある事情で実家のご両親…特に父上と揉めている最中でね。彼なりの思いや理想もあり、今は詳細は避けるが彼がこれから進もうとしている方向は、私としてはとても頼りになる事でもあるんだ。だから、尚更、父上とは拗れないように慎重に落とし所を見つけて欲しかったんだがね…。とにかく、ウチの誰かさんのように彼も思い込んだら頑として譲らない部分があるようだから…冷却期間も兼ねて、しばらくセレスの研究所に籍を置く事になったんだ。」


「…誰かさんの話は余計です………って、えっ?カシルがこの研究所に?」


ヨハは、想像もしてなかった展開にかなり驚いたが…周囲を見るとケイレやハンサは特に表情も変えず…


「…もしかして、知らなかったのは僕だけですか?」


「…まあ…そうだね。君はここしばらく…悲壮感が漂っている状態だったからね…ただ、彼がここに籍を置くのは暫定という感じだから、今後も私が呼ばない限り研究所で見かける事もほぼないだろう。」


「そうですか…」


…確かに…


つい2.3日前までヨハの頭の中はヒカの命の問題でいっぱいいっぱいで、他の事は意識の中に入って来なかったのは実際の話。


その間にもミアハでは色々な事が待ったなしで起きていて、この人は相も変わらず対応に追われる日々を過ごしていた事をヨハは改めて思い知る…


ハンサが何かにつけて激務の長老を休ませたがる理由も同時に思い知る…


「それでカシル、病院の方の仕事はどうするんだ?再生医療や人体の冷凍と解凍蘇生の話は以前よくしていた記憶があるけど…これから本格的にそっち方面の研究でもするの?」


「…それは…だな…」


カシルはヨハの質問に口籠もり…長老の方を見た。


「まあ…君にも追々話すよ。今はとにかく、父上と冷静に話し合ってくれない事には…私も立場上、ちょっと困るのでね…頼むよ、カシル。」


と、長老がカシルの代わりに答える形となった。


「はい…善処します…ご心配をお掛けして…申し訳ないです…」


…カシルは…


ヨハが未だかつて見た事がないほどに…シオらしかった。


そして…


長老は徐に立ち上がり、


「それじゃ、私はこれで失礼するよ。皆んなそのままゆっくり食べて行ってくれ…ハンサ、君もだよ。朝から諸々の準備は大変だったろう…今日はもうこの後はゆっくり休んでくれ。ケイレも今日はありがとう。カシルは…良い連絡を待ってる。ヨハは夕食後にちゃんと資料室に来るんだよ。じゃあ皆んな、またね」


と、片手をヒラヒラさせながら食堂を出て行ってしまった。


「うぇ…さっきの話は本気だったのか…」


とゲンナリするヨハ…


「……」


ハンサもスッと立ち上がり、早足で出て行こうとする…


「ハンサさん、どこ行くの?まだ食事残って…」


とヨハがハンサの背中に声を掛けると、


「途中、どこかで引っかかっていないか、長老がエルオの丘までたどり着くのを見届けて戻るよ。」


と背中で答えて出て行ってしまった…


「ハンサさんは本当に…長老や周りの様子をよく見て良く働くな。俺もここでは彼に結構お世話になっている。長い事、長老が彼を常に側に置いて離さないというのも分かる気がするよ。」


カシルには珍しく、感心気味にハンサを褒める


「…そうだね…僕やヒカだけでなく、他の職員もハンサさんを頼りにしちゃってるから…彼も休める時はしっかり身体を休めて欲しい人だよ。本当に…」




少しして…


「…じゃあ、俺もそろそろ…親父とこの後話す約束だからさ…」


と、カシルが立ち上がる。


「あ、ケイレはどうする?事務所までなら送ってくぞ。」


と、カシルがついでの感じでケイレに尋ねると…


「あ、じゃあお言葉に甘えてそうします。」


と、ケイレも立ち上がる。


すると、カシルは今度は意地悪そうな顔で、


「あ、ヨハ、帰る前に俺がヒカちゃんを起こして連れて来てやるからちょっと待ってろ。」


と言って食堂を出て行こうとする。


「だっ、ダメだ。構うなと言ったろ。」


ヨハは慌てて立ち上がり、カシルの腕を掴む。


カシルは完全に面白がってニヤニヤしている。


「冗談だよ。あーでも可愛いかったから、もう一度見ておきたかったなぁ…」


と、反応を楽しむようにヨハを見るカシル…


「見なくていい。カシルみたいな遊び人は見なくていい!」


かなりムキになって引き留めるヨハ…


「…心配しなさんな…幼気な少女に手を出す趣味はないから…じゃあまたな。頑張れよ。」


と、しがみつくヨハの手を振り解きながらカシルも出て言った。


そしてケイレも…


「それではヨハさん、またヒカちゃんの月経の周期が近づいた頃にお伺いしますね。」


と言って軽く一礼し、カシルの後を追うように走って行ってしまった…


「?…」


…まただ…


カシルを追うケイレの表情が、再び僅かに曇る瞬間を見てしまったヨハだった…




「あれ?もう解散になってしまったんだ…」


ヨハだけになった食堂を見て、少し驚くハンサの声が背後から聞こえた。


「…カシルはこの後お父さんと話し合うそうで…ケイレさんは彼に途中まで送ってもらうそうです…」


食堂のガラス窓から見える2人の小さくなる後ろ姿を追いながらヨハが答える。


「……」


「?…何か2人が気になるの?」


ハンサがヨハの様子が気になって近付いて来る。


「…カシルって…恋人はいるんですかね?」


「おや、ヨハ君もそんな事が気になる年頃なのかな?」


隣まで来て興味深そうにヨハを見るハンサ…


「…ティリの病院にいた頃は、彼と大国の最新医療の話をするのが好きでした。色々と自然を楽しむ方法を教えてくれたのもカシルでしたが…あの頃は彼の恋愛事情なんて全く興味無くて、聞きたいと思った事もなかったんです。…だけど1度だけ…若い看護師の女の子が彼に告白しようと待ち伏せしていた場面に出会して、僕はその時は面倒でしかなかったので通り過ぎたんですが…確か…一緒にいた同僚の看護師がケイレさんの事を言っていたのを、今、思い出したんです。」


「…2人は付き合っていると?」


ハンサの質問にヨハは首を振り…


「カシルはいつもケイレさんと一緒だから、2人の関係を確認してから告白した方がいいんじゃないかみたいな内容だったと思います。今日、初めて2人が揃っている様子を見たのですが…確かに仲は良いんだなぁと…」


「……」


ハンサは少し困ったように頭を書きながら、


「…もう、そんな噂が立つくらい時間が流れたという事かな…」


「?…どういう意味ですか?」


「……こういう事は直接カシル君本人に聞いた方がいいと思うよ。…彼には心に決めた人がいるというかいたというか…おそらくだけど、ケイレさんとは仲間というか同志というか…恋人とかそういう関係にはなっていないと思うけどね…」


「…そうなんだ…」


何気にハンサは色々知っているんだと、少し感心してしまうヨハ…


「カシルには心に決めた人が……そうなんですね。…彼は今日、何度か面白がってヒカにちょっかいをかけようとしていたので、撃退対策の参考にさせてもらいます。ありがとうございました。」


何か悪巧みをするような顔をして不敵に微笑むヨハを、呆れ顔で見るハンサ…


「まったく…ただカシル君を揶揄いたいだけでしょう。そんな事したら益々ヒカちゃんが狙われてしまうよ。」


「え?…」


ヨハの表情が少し強張る…


「…でも、そんな事が考えられるくらい、君も余裕が出て来たという事かな…」


親しい人の恋愛事情を気にしたり、揶揄う友人の仕返しを考えたりする…年相応のヨハの無邪気さに触れ、微笑ましくも感じるハンサ…


「人の恋愛の話はいいから、あの方が今日のヨハ君達の為に特別オーダーしてくれたご馳走は有り難く完食しましょう。あ、そろそろヒカちゃんを起こした方がいいかも…早くしないと食堂の職員の人達がお昼休憩に入ってしまうから…ヒカちゃんにも温かいご馳走を食べさせてあげたいでしょう?ほら早く…」


と、ヨハをヒカの元に向かわせて、ハンサもまた食べかけのご馳走を完食すべく、再び席に着くのだった。





「すごい…凄い…あんなに重かったかった一歩一歩が…楽しくなるくらい軽〜い。」


ヨハに起こされ、ハンサも交えた3人で少し豪華な昼食を終えた昼下がり…


ヒカは、最初は恐る恐る…やがて噛み締めるかのように…そして今は楽しそうに軽やかに、廊下を休みなく何度も歩いて往復する。


もう既に15分ぐらいは歩き続けているだろう。


嬉しそうに歩くヒカを見ていると、横でずっと寄り添い歩くヨハの表情も自然と明るくなる…


「ル・ダ…このまま外を歩いてもいいですか?」


「……少しだけだよ…」


嬉しくて仕方ない様子のヒカの笑顔を見たら…ヨハは「無理せずまた明日」とは言えなかった。




「疲れたらすぐ言うんだよ。」


と、玄関のところでヨハが念を押すも…


外に出て最初こそ、立ち止まって陽の光を浴びる仕草をしたり、花壇の花々を眺めたり香りを嗅いだりしていたヒカだったが…


「あ、走ってはダメだよ〜」


急に小走りして小鳥を追い始め…


ヨハの声に立ち止まって振り返ると、ヒカは舌をぺろっと出し悪戯がバレた子供の様に笑った。


「まったく…」


と言いながらもヨハも…


つい数日前にはケイレから…自身も薄々感じていた不安をそのまま言葉として突きつけられ打ちのめされただけに…


1度は諦めたはずの、元通りの元気なヒカの姿を目の当たりにしてしまうと…強くは言えなかった。


その後も蝶々を追ったり、楽しそうにヨハの周りをクルクル廻るヒカが可愛くて、嬉しくて…


だが…


少しして、2人の間に風が吹き抜けた。


心地よい風だったが…

また熱を出して寝込ませたら可哀想と、ヨハは慌てて


「ヒカ、続きはまた明日にしよう。」


と言うと…


「……」


ヒカはあからさまにガッカリした表情になる。


ヨハは近寄り、


「油断して熱でも出たらまたベッドに逆戻りになってしまう…焦らず、ゆっくり身体を慣らして行こう…」


ヒカに視線を合わせるようにしゃがんで、慰めるように頭をポンポンと軽くタッチする。


いつもならヨハの指示は素直に従うのだが…


今日のヒカは、ヨハのポンポンとした手を両手で掴み、


「ル・ダ、お願いします。見える所まででいいので、白詰草の草原まで行かせて下さい。どうしても、今行きたい…」


真剣な目でヨハに懇願し、粘る。


「…どうして今なの?明日でも白詰草の草原は無くなったりしないよ。君は熱が出やすかったし…久しぶりの屋外だから心配なんだよ…」


…ヒカの気持ちは分からなくはないが…ベッドに逆戻りでガッカリするヒカをヨハは見たくなかった。


だが今日のヒカはやたら粘る…


「ちょっとだけ…遠くから見るだけでも良いので…」


「……」


そんな縋るような目で懇願されてしまうと、ヨハも無理には引き止められない…


療養中も(早朝に大泣きして看護師を困らせた時以外は)我が儘らしい事は一切言わずに頑張って来た子だから…


ハァ…


ヨハは根負けし、溜め息を一つ吐いて立ち上がり…


「分かったよ…もうちょっとだけ歩こう。でも、シンドくなって来たら絶対に僕に言うんだよ。」


と、念を押しながらゆっくりと歩き出す。


「ル・ダ、ありがとうございます!」


すぐ後ろでヒカのとても嬉しそうな声が聞こえて来た…がその気配はすぐにヨハを追い越して行く…


「あ、コラ、走ったらダメだってば!」


「うふふ…ごめんなさぁ〜い。」


走れる事が嬉しくてたまらないのか…ヒカは謝りながらも止まらない…


「…もう、謝りながら走るな〜」


と、ヨハも走り出し、ヒカを追いかける。


「わぁル・ダに怒られる〜」


嬉しそうに逃げ回るヒカを追うヨハもなんだか高揚した気分になり、2人はいつの間にか鬼ごっこをしてるような雰囲気になっていった。


「走るなってば〜」


…いつぶりだろう…?


ヒカと暮らした育児棟の日々が戻ったような…なんとも軽やかな時間…


時々感じる陽の光や…鳥の囀り…身体をすり抜けて行く風…


そのすべてが優しくて…ヨハは泣きそうになった。




結局…


ヒカの背中を追っている内に、彼女が目指した白詰草の草原にいつの間にか2人は辿り着いてしまっていた。


「…捕まえた。ヒカの作戦勝ちだな…お転婆め。」


やっとヒカの腕を掴んで振り向かせると、予想外の事が起きていた。


「ヒカ…?」


その瞳は笑っているのに涙で潤んでいて…頬には涙の通った筋が幾つか見えたが、ヒカは掴まれていない方の腕で顔を素早く拭った。


「…ここまで来れて凄く嬉しいです。…ル・ダ、我が儘を言ってごめんなさい…」


また潤んで来る瞳を逸らすようにして、ヒカは白詰草の花が集中して咲いている所へサッと移動する。


「……」


泣いている理由が知りたいけれど聞く事が出来ないヨハ…


「…ヒカは本当に白詰草が好きなんだね…小さい頃、育児棟の裏手の白詰草の原っぱにヒカを連れて行くと、どんなにご機嫌斜めでも笑顔になってくれていた事を思い出すよ。君と初めてここに来た時も、泣いていた顔がすぐ笑顔になってはしゃいでいたしね…」


「……なんでだか…クローバーのお花畑が大好きなんです…」


少し離れた場所で、ヒカはヨハからは微妙に顔が見えない角度でしゃがみ込んでヒカが何か作り始める。


…時折、微かに震えている様にも見えてしまうヒカの小さな肩が気になって…


「…ヒカ…大丈夫?…気分が悪いなら言わないとダメだよ。」


ヨハの声かけにもヒカはそのままの姿勢で何かを作る手を止めず、


「大丈夫です…あともう少しだけ…待って下さい…あと少し…」


と、せっせと花を摘みつつ何かを作り続けていた。


「……」


以前より青みがかってきたヒカの髪は時々風に揺れ、陽光を透かしながらキラキラ煌めいていた。


未だ変異が進む…不思議な身体を持つ少女…


君の存在全体が醸し出す独特な色彩は、白詰草の葉の緑と花の白の中に予定調和のように溶け込みながら…かつ、陽だまりのような柔らかな輝きを放って、ヨハの視界を占領しながら癒してもいた…


…こんな風に優しい時間を過ごせるのは…いつ以来だろう?


君は少しづつ大人に近づいて行っているはずなのに…今も妖精のような輝きを放つ事は変わらないんだね…


元気になって本当に良かった…


本当…に…




「…ダ?……ル・ダ?…」


可愛いらしい声が自分を呼ぶ…


「……?…え?あ⁈」


しっかり見守っていようと思っていたのに…また不覚にも胡座をかいたまま居眠りしていた事にハッと気付くヨハ…


「…完成したの?」


目の前に座っている少女はニッコリ笑って頷きながら、手にしていた白詰草の腕輪をヨハの手に通す。


「お待たせしてごめんなさい。…ずっと…意識が戻ってからベッドの中で、元気になれたら一番はじめに此処に来て白詰草の腕輪を作ってル・ダに渡そうと…目標にしていたんです。」


ヒカは少し恥ずかしそうに説明をした。


「…そうか…凄く綺麗に編めているね。可能ならば宝物にしてずっととっておきたいよ。…ありがとう。」


ヨハは腕輪を陽に翳し嬉しそうに眺めながら、お礼を言った。


…けど、無茶をしたお説教は此処で言っておかないとと思い、再び視線をヒカに戻すと…


「ヒカ…?」


「私…こんな病気して…ル・ダや長老や…皆さんに心配を迷惑もたくさんかけてしまったけど…これから一生懸命頑張って、立派な能力者になります。きっとなります。だから…」


笑顔が一変…


ヒカは縋るような…悲しげな目に涙をいっぱい溜めて、ヨハの腕を掴む。


「居なくならないで…ヒカのル・ダを辞めたりしないで…」


青緑色の美しい瞳から涙が滝のように溢れ落ちて、ポタポタとヨハの手や白詰草の腕輪に落下して行く…


ヒカは…


此処を目指して走り出した時に気付いてしまった。


あの日、イレンが去った後…なぜあんなに不安になって…ヨハを探そうと夢中になってしまったのか?


そしてヨハを見つけて大泣きしてしまったのかを…


病気で動けなくなって、師弟関係を解消されてしまう事でヨハとの繋がりが切れてしまう事が恐ろしくなったのだと…


決して側に居て当たり前の人ではなく、いずれ自立することでヨハの元を離れなければならない未来が来ようとも…


今はヨハの傍に居たいと切望している自分の気持ちに…


病気が良くなった時点で、こんな爆弾を抱えているような身体の自分との師弟関係を解消を言い渡されるのではないかと…


ずっと知らない振りをしていた自分の恐怖に気付いてしまったのだ。


「…もう…こんな我が儘は言ったりしないから…良い子でいるから…だから…」


「…なんでそう思ったの?…誰かに何か言われたの?」


「……」


きっかけはイレンの言葉だが…あの時の彼の言葉はヨハと自分の師弟関係を否定するニュアンスはなかったように感じた。


ヒカは首を横に振る…


「…これからも…ル・ダの弟子でいたい…です…」


再びヒカがヨハを見上げると…


彼は…笑っていたけど…泣いてもいた。


あぁやはり…


彼の弟子ではいられないのかも知れない…とガッカリして項垂れた瞬間、


「?!」


ヒカはヨハの胸の中にいて…強く抱きしめられていた。


「…バカだね…そんな事をずっと心配していたの?…そうだね…こんなに手がかかる弟子は僕じゃないと務まらないかもね。頑張って僕の弟子として巣立ってくれないと困るよ…」


驚くような展開にドギマギしながらも…ヨハの言葉はヒカの耳に優しく染み込んで行った…


おずおずと腕の中から師を見上げ…


「私は…これからも貴方の弟子でいても良いのですか…?」


「もちろんだよ。」


と、ル・ダは涙に濡れた瞳のまま笑いかけ…


再びヒカをギュッと抱きしめた…


「……」


なぜル・ダまで泣いているのかが、ヒカはイマイチよく分からなかったが…


[このままル・ダの傍に居ていいんだ]


という嬉しさがお腹の底から込み上げて来て…


「うわぁ〜ん…良かったぁ…」


と、ル・ダにしがみつくようにまた大泣きしてしまっていた。


「…昼間…僕のいない時は、ひたすら歩く練習をしたりベッドの上で瞑想の練習をしていた事はいつも聞いていたよ。…こんなにひた向きに頑張っている可愛い弟子を僕が見捨てる訳がない。君がこの先、僕から巣立って立派な能力者になっても…一生…僕は君の師匠のつもりでいるから…安心して。いや…覚悟してかな?」


「お小言がいっぱいでもいい…ずっとル・ダの傍がいい。うわぁ〜ん…」


「…そうか…その言葉…忘れないでね…」


…なんだか勢いでマズい事を言ってしまった気がしたヒカだが…


怖くて触れられないでいた不安が一掃された嬉しさをヒカは抑えきれず、この時はなんでも来いの心境になっていた。


だが後に…


[お小言いっぱい]の部分だけは後悔する事になるのだが…






そして…夜


「そうか…あの子は…お気に入りの白詰草の所まで走って行ったのか…」


資料室でヨハからヒカの午後の様子を聞いて、長老は自慢の白髭を撫で付けながらかなりご機嫌な様子だった。


何より…


ヒカが倒れてからずっと、どこか追い詰められているような硬い表情をしている事が多かったヨハが、とても嬉しそうにヒカのくれた白詰草の花の腕輪を見せている姿に…今まで彼を苦しめていた不安や悲しみが全て消滅したような晴れやかな表情は…


見ている長老も胸に来るモノがあった。


「僕は心配で…白詰草の所へ行くのは少しづつ様子を見てからにしようと止めたのですが…行けるところまで行ってみたいときかなくて…本当に…やっと元気な、以前のヒカに戻った感じでした…」


報告しながら、ヨハの言葉は所々詰まり、目も潤む…


「…あの儀式はな…ヨハよ…。1人の長老の代で一回1度のみ許される秘儀の1つなのだが…儀式を行って女神に祈れば必ず願いが受け入れられる訳ではないのだよ。更に言うと、願いが叶えられる際は前兆的な事が起こるとも言われている。然も…まぁこの話は次のお楽しみとするか…とにかく良かった。今回のヒカに関する私の措置に対しての長達の反応はかなり微妙なモノだったが…女神の意思がハッキリ現れた事で、あの3人もしばらくは疑問を抱く余地も無かろう。レノの長も…まぁこの話もまたいずれな。」


本当に嬉しそうに、自慢の髭を何度も撫で付ける長老…


そんな長老に対し、ヨハは左膝を折り右腕をその上に乗せて首を垂れ…


「…ヒカの為に大事な儀式を行って頂きありがとうございます。本当に…感謝しかありません。僕もヒカもミアハの為に力を尽くせるよう…これからも一生懸命頑張って参ります。」


と、改めて礼を述べるヨハ…


そんな様子に長老は満足そうに頷き、


「うん、よろしく頼むよ…ただそんなに気負わずともいい。焦らずにな。…もしかすると女神の意思はもっと先の…大きく広い意味で…何かの準備というか…今回のヒカの治癒は行き掛けの駄賃的モノかも知れないと思っているんだ。今まで通り、焦らずに頑張って行ってくれ。」


「……」


長老の話を聞く内にヨハの表情は徐々に任務モードの真顔に戻り、


「あの…長老、結局…あの儀式で女神はどのような願いに応えて下さったのですか?…ヒカは命の危機を乗り切ったと受け止めて良いのでしょうか?…あの儀式の少し前にケイレさんと少し話しましたが、あの時点でのヒカは生命エネルギーの状態を見る限りは20歳まで生きられるかは非常に微妙と感じていました。ヒカの専属医として恥ずべき事ですが、僕は未だ…能力者としてあの子の身体の状況を冷静に見られない部分が残っていて……あの子の健康はこのままずっと続くと思って良いのでしょうか…?」


「…そうだね…」


ふぅ…と小さく息を吐いて、長老は髭を弄るのを止め、両腕を組むようにして前のテーブルに置き、ヨハを見つめる…









「あの儀式は私と女神との約束みたいなモノで、どんな内容の約束が交わされたかは長達にも言えない事なんだ。従って君にも言えない。だけどこれだけは伝えて置こう。あの子の気持ちと実際の行動が女神の意思に沿っている限り、ヒカの健康は守られる。変異の子はミアハの大きな節目の前に出現するらしく…その変異の子がセレスの大きな力を持つ事は未だかつて無かったんだ。あの子が無事に成長を遂げる事は、特にセレスにとって何か意味があるように思うんだ。それは今回の儀式の成功で確信に変わった。セレスが滅べばミアハの弱体化は時間の問題だ。そのミアハの弱体化はね…長老のみが開く事を許されている古文書には、今の世界のバランスを崩すキッカケにもなってしまうとあるんだ。だから…無理は出来ないが、あの子を能力者として一人前にする事は急務なんだよ。だがあの子は特殊な存在ゆえに偏見を持たれがちだ。だから私や私に関わる者達の側にあの子を置き…守りながらそれを実現させて行かなければならないと私は考えている。」


「……」


長老はジッと話を聞くヨハの顔を不安気に覗き込む…


「あの子は…ヒカは、これから更に心身共に強くなって行かねばならないが…」


と、長老は今度はヨハの正面から隣りの椅子へと回り込み、ヨハの肩を抱く…


「私はもうヒカの健康の事はとりあえず心配はしていない。今現在、どうも気になるのは君の弱気さだ。ヒカの寿命の事や第三者によって押し込まれた君との幼い頃の記憶を取り戻す事は、決して諦めたりしないと…私を睨むように言い放った時の強い気持ちを君はどこに置いて来た?確かに現時点で君は、ヒカの身体を癒す事に関して経験値を含めケイレのような一流治療師には少し及ばないかも知れない…けれどヒカは君を必要としているし、君には不測の事態でもあの子を守れる程の能力を与えられている。正直…あの子がどれだけ生きられるかは私にも分からないよ。だが君の努力でヒカの人生をより豊かにして行く事は出来るのではないか?未来なんて分からない事ばかりだが、ヒカに関しては君にしか出来ない事は結構あると私は思うがね…」


「…僕は……」


ヨハは長老と目が合わせられず…俯いたまま…両膝に置いた拳にクッと力を入れ…言葉が出て来なくなってしまっていた。


ヒカの死の恐怖…


あの日、ヒカが倒れ一気に瀕死の状態に陥った時から…この世からヒカがいなくなってしまう世界を想像すると…いつも恐怖で固まってしまう…


どこかでイユナの倒れた記憶が重なっても来る…


…どうしたらいいのか…自分でも分からなくなってしまうのだ…


「………」


ハァ……


長老はヨハの強張った表情を少しの間見つめていたが…溜め息を吐きながら前に向き直る。


「…かつてナランは育児棟で片時も離れようとしない君達を見て、レノやティリでの兄弟というのはあんな2人の事を言うのでしょうかね…と、目を細めて言っていた。兄弟も含まれるが…家族はね…それぞれの死も覚悟し寄り添って行くんだよ。もしも…あの子を思う気持ちが本物ならば、せめて自立出来るまでは、生も死も含め覚悟を持って寄り添ってあげてはくれまいか?…だがそれは決して強制ではないよ。そこまでの覚悟は持てないと言うなら、君の代わりにヒカを守り寄り添ってくれる者を探すよ。あの子は素直だし辛抱強く頑張る子と聞いているし…なにより、とても可愛らしいからね。真剣に探せば…君の代わりはいずれ見つかるだろう…」


チラチラと横目でヨハの様子を伺いながら、少々意地悪な予想をする長老…


と…


ヨハの様子を見た何度目かの時…彼は鬼の形相で長老を睨んでいた。


「…誰が出来ないと言いました?」


地に響くような低い声でヨハが反応すると…


「まぁ…仮にカシルなんてヒカをしっかり守ってくれそうだぞ?なんでも大国に短期留学した際に色々な格闘技を嗜んだそうだからな…」


更に追い討ちをかけるように、ヨハにとって心をざわつかせる人物の名前を口にすると、


「?!」


ヨハは挑発にしっかり乗って、長老の腕をガッと強い力で掴んで来る。


「…冗談でもヒカの事で他者の名前は出さないで頂きたい。ヒカは僕にしか守れない…僕が、僕が守るんです!」


言いながら、腕を掴むヨハの力が更に強くなる。


「まぁ落ち着け…とりあえず、その手を離してくれ。痛いよ…。あくまで例えだよ。君はまだ覚悟しかねている様子だったから例え話をしたまでだよ。今のところ、ヒカは君に一番心を許している。君が最も適任に決まってるだろう。」


「…今のところ…?ずっとです。過去も今も未来も…ヒカは僕を必要としてくれる筈です。あの子の事を一番良く分かっているのは僕で…僕じゃなきゃダメなんです!」


尚も長老の腕を掴んだまま訴えるヨハ…


長老はかなり熱くなったヨハの様子を見計らい、


「だろ?…じゃあそういう事で、これからもヒカをよろしく頼むね。」


と言って、腕に食い込んだヨハの指を引き離しながら、長老は彼にニコッと笑いかけて立ち上がる。


「……」


ここでやっと冷静さを取り戻し、長老の術中にハマった事に気付いたヨハは、退室しようとしている彼を呆然と見ていたが…


ハッとある事を思い出す…


「あ、あの長老…ちょっと待って下さい。えっ…とですね…折り入ってお願いがありまして…」


「ん?…」


ヨハから折り入ったお願いとは…医師を目指したいと言い出した時以来だな…と、長老は立ち止まり振り返った。






翌日の早朝…


研究所の資料室には長老と…今度はカシルがいて…


カシルは長老の足元に膝を付いて手を合わせ、何かを必死に頼んでいるようだった。


そんなカシルの前で長老は仁王立ちとなり、呆れつつ怒っていた。


「…研究所の裏に止まっていた得体の知れない巨大な車は…やはり君の車だったのか。カ〜シ〜ル〜…お前なぁ…いい加減にしろよ!」


カシルは更に平伏し、とにかく長老に手を合わせて…ひたすらに頼む。


「お願いです。1年…いや、半年でいいですから…。父の了承の条件が、病院から例の機器を撤去する事でした。リラの両親も…最近は僕を説得して来る状態でしたから…いよいよ後は僕だけなんです。でも…どうしてもすぐには…どうか、置いて頂けるスペースと電源だけ下さい。管理費は勿論、お支払いします。半年までにしっかり覚悟を決めますから…どうか…」


長老はこめかみに手を当て、悩ましい表情をする…


「君は…どうしても父上と私の間に溝を作らせたいようだね。今決められない事が、どうして半年後に出来ると思うのだ?もう随分と経つよな…6年…いや7年以上は前だな……」


「……はい…7年は過ぎました…」


カシルは伏せていた身体を起こし、長老を真っ直ぐに見る…


「……分かった…セレスの研究所で預かろう。」


長老の言葉にカシルは破顔し…


「ありがとうござ…」


お礼を言いかけるが、長老はすかさず釘を刺す。


「半年後、リラさんはこのセレスの研究所から直接ご両親に然るべき形で引き渡す。この経緯は私から君の父上…タトス君に報告させてもらう。これが引き取る条件だ。これを受け入れ、条件を遵守出来ないならば…とても残念だが君との仕事の契約は白紙とさせてもらう…いいかな?」


「……」


…カシルは少しの間切なそうに遠い目をし、沈黙していたが…


「分かりました…」


と、条件を受け入れた…


「……」


カシルの悲しみを帯びた瞳を見つめながら…長老は軽く溜め息を吐き、ある提案を思い立つ…


「…良い機会かも知れない…君に合わせたい人物がいる。」


「…?」


怪訝そうな顔でカシルは長老を再び見上げた…





同じ頃…


「ヨハ君…ちょっといいかな?」


病室のベッドの上に胡座をかいているヒカに、朝食前の瞑想の指導をしていたヨハを、ハンサは廊下から手招きし、声を掛けた。


「?…はい…」


こんな…ハンサにとっては長老のスケジュール確認や準備を始める超忙しい時間帯に、彼から直接声をかけて来るのはかなり珍しい事だったので、ヨハはやや怪訝な表情になりながら病室を出た。


部屋を出た所で、ハンサがヒカの為に設置した長椅子にヨハを座らせ自身も隣に腰掛けながら、声のトーンをかなり落として問いかける。


「今日、朝イチで電話があったんだよ。昨日の午後にヒカちゃんと2人で裏の草原に行ったのは本当?セヨルディの件で昨夜君から長老にお願いしたというのも?」


「あ、はい、そうです。」


ハンサが何を話したいのか予想が付かず、ヨハやや緊張していた。


「…やはり…君には話しておいた方が良さそうな話があるんだ。夜に少し時間を空けてくれないかな。今日はこれから長老に付いて出掛ける予定で、研究所に戻るのは夜10時近くになってしまうと思うけど…いいかい?」


ハンサの雰囲気はどことなく張り詰めた感じがあり…きっとあまり先延ばしにしない方が良い話にヨハは思えた。


「分かりました。僕は今日はここで1日ずっとヒカに付いていられるので、ハンサさんのご都合で問題ないです。夜、研究所に戻って来られたら連絡頂ければ…」


「そうか…じゃあ唐突な話で悪いんだけど、よろしくね。」


やはり朝は忙しいのだろう…会話中も何度かさりげなく腕時計を見ていたハンサは、そう言うと慌しく立ち上がり去って行った。


「……」


…階段を駆け降りて行くハンサの足音を聞きながら、昨夜の長老へのお願いはもしかしたら叶わない事も覚悟しておいた方がいいな…と思うヨハだった…








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