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22 魔女の復活


「あの…パパ…」


慌しく…いつも逃げるように家を出て行こうとするブレムを、ヨルアは意を決して呼び止める。


一昨日…医師から告げられた、予想もしていなかった妊娠…


生理が来なくて体調もすぐれない日が続いていたので、念の為に受診した先で妊娠の可能性を言われ、慌ててこっそり婦人科にかかって…運命の診断を告げられたばかりだった。


誰に相談して良いか分からずに…ヨルアはそれからずっと、1人で悩みに悩んでいた。


お腹の子の父親が誰だかは分かっている…


1年半前に…懲りずにずっと長いことヨルアを追いかけていた幼馴染みのケビンのアプローチを受け入れたヨルア…


彼の献身的な様子に絆され…何より、父ブレムが暗黙のうちにそれを望んでいるように感じて…そうすれば父が喜んでくれるような気がして…


つい1カ月前に迷いながらも身体の関係も受け入れたのだが…


避妊せずに求めて来たケビンに少し抵抗はしたが…まさかたった一度の行為で妊娠してしまうとは…


向こうの家族に告げたら…戸惑いながらも受け入れてくれそうだが、結婚と出産まで一直線に事は動きそうで…


ケビンとの結婚の意思は…今のヨルアにははっきり言って全然ない。


何よりヨルアはまだ18歳で…


ヘレナの影響で特殊任務犬のトレーナーを目指しながら、とりあえず進学し学位を取る事も視野に入れ猛勉強の最中だった…


この先、どうすれば日々過酷な状況で仕事をしているブレムの力になれるかを、勉強しながら色々探って行きたかった。


かと言って、お腹に宿った命をどうしていいのか…ヨルアは大きな葛藤の中にいた。


「…なんだい?」


ブレムが少し面倒そうに振り返った…


…多分、ケビンの気持ちを受け入れた事は、既に向こうの両親のどちらかから聞いているであろうブレムだが…ヨルアには未だ何も言って来ない事も、彼女の心を不安にさせていた。


なによりここ1年近く…ブレムは殆ど帰宅せずにいて…


昨日の夜にやっと帰って来たと思ったら、まるでヨルアを避ける様にまだ薄暗いこの時間にヌビラナに戻ろうとしている事は…


今、一番悩みを聞いて欲しい存在に見捨てられた様な…そんな絶望に近い感覚がヨルアの心にじわじわと浸食し始めていた…


「わ、私ね…ケ、ケビンとお付き合いしてるの…その…なかなか報告が出来ないでいたのだけど…そ、それでね…」


ブレムはヨルアの報告にニッコリと嬉しそうに笑って…


「そうか、良かったな。実は、少し前にケントさんから聞いていて…知ってはいたんだ。ケビンは誠実で思い遣りもある子だ。この縁は大事にするんだぞ。」


ヨルアの頭を軽く撫でた…


…まるで良く決断したと言わんばかりに…


だがその一方で、一刻も早くこの場を去りたいような…ブレムのヨソヨソしさもヨルアには伝わり…


肝心な事の相談は諦めてしまった。


もう…私の事なんて…どうでもいいのかな…?


そう思ったら、眩暈と吐き気が急にヨルアを襲った…


「ヨルア…?」


うずくまりかけているヨルアをブレムは心配しているようだったが、今のブレムと会話を続ける事が辛くて…


「…もうすぐ大事なテストがあるから少し寝不足気味かな?心配かけてごめんね。パパも気を付けて行ってらっしゃい…」


吐き気と闘いながら、ヨルアは必死でこの場を取り繕う言葉を絞り出した。


「…本当に大丈夫か?病院に…」


「寝てれば治るから。」


ブレムは本当に心配してる様子だったが、ヨルアはさっきまで相談するつもりでいたのに…彼に妊娠を知られる事がいつの間にか恐ろしくもなって来ていた。


立っているのもやっとな状態の中、ブレムを必死で追い立て…ドアに鍵を掛けて、ヨルアはそのまま座り込んだ…


「…無理するんじゃないぞ…」


ドアの向こうでその言葉を残し…ブレムは去って行った…


「うん…パパも…気を付けて…」


朦朧とする中でヨルアはやっと応え…そのまま少し意識を失った。




「ええ?また行くの?…今日は君の親父さん帰らないって連絡あったんだろう?なんで……それにヨルア…最近顔色が悪いぞ。ウチでしばらく休んでいた方がいいよ…」


「……」


…以前は月に1度はヨルアと暮らしていたマンションに帰宅していた父ブレムだが…3ヶ月…半年…と、徐々にその感覚は延びて行っていた。


ヨルアは父の帰宅する毎月の予定日には、必ず下宿先のケビンの実家からブレムと暮らしていたマンションに帰宅していたので、今月も…例え1人でも…その日はマンションを無人にするのは嫌だった。


最近は滅多になくなったけど…帰れない月は夜にヨルアに電話してくれたりするので…その通話の時はマンションに居たいのだ。


恋人ケビンとしては、先月帰宅したばかりのブレムはまず今回は帰えらないだろうと思ったし…何より、最近顔色も良くなく塞ぎ込みがちなヨルアが心配だった。


「もうこれは習慣みたいなモノだから…帰らないと気が済まないの。心配してくれてありがとう。テストも終わったから…これからは少し気も休まると思うから…大丈夫よ。」


「…そうか…今回はカシル達も遊びに来る予定だから、またみんなでキャンプに行けるかな?って…あの2人も楽しみにしていたんだけど、体調が良くないならゆっくり休んでいる方が無難かもな…うん、分かったよ。」


「…ごめんね…」


「あ、気にしなくていい。先月は皆んなで一緒にハイキング行けたしな…また元気になったら行こう。」


母ヘレナの大病の治療にあたってくれていた、医師でありティリの能力者でもあるミアハの病院に勤務する夫妻が、定期的にヘレナの療養中も自宅に訪れ、特に治療師として優秀だった夫人の方がしばらく週末はティリの能力者としての治療に通っていた縁から、時々一緒に連れて来ていた彼等の子供達がケビン兄妹やヨルアと仲良くなり、もう治療の必要の無くなった今でも一緒に遊ぶ事が多かった。


なんといってもこの仲間の中でカシルはかなり行動的で、年齢的にはソフィアの一つ下なのだが、この中ではまるでリーダーの様に皆んなを海でのダイビングや森でのキャンプや山でのハイキング、街へ行けば映画館やゲームセンター、ケント御用達のスポーツ施設を利用して様々なスポーツを楽しんだり…その様々な場面でカシルは仕切り役となり、皆を楽しませる事に使命感を持っているかの様に奮闘していた。


まあ皆で遊んでいる時もケビンのヨルア贔屓はあからさまなので、察した皆んなが何をやるにしてもケビンとヨルアをペアにしてしまうので、ヨルアはもケビンを受け入れないとなんだか悪いような気持ちになって来て…成り行きでOKしてしまった部分はあった。


一緒に居たいというより、それが楽だと感じてしまったのかも知れない…


2人並んで歩く帰り道…ケビンは優しくヨルアに肩を抱き寄せる…


「…うん。そうだね…」


力なく微笑むヨルアに、ケビンはいつもと何か違う違和感を覚え…


「ねぇヨルア…もしかして…何か悩んでるの?…その…僕もマンションに一緒に行こうか…?」


「…もう…心配し過ぎ。大丈夫、悩んでないよ。カシル達が来るんでしょ?私は少し休めば大丈夫だから…あ、別れ道だね。皆んなによろしくね。明後日の夕方には戻るって、ヘレナママに伝えてね。…じゃあ…」


ヨルアは肩に回されたケビンの腕をやんわり解きながら、立ち止まる事なく…バス停への道へ…


そして軽くケビンに手を振ってから…背を向けた…


「あ…うん、気を付けて…」


ケビンは立ち止まり…しばらくヨルアの後ろ姿を見送った。


「……」


…ヨルアは未だ…ブレムと暮らしているマンションには誰も上げようとはしない…


もはや、ケビン達家族と暮らす時間が圧倒的にに多くなっているにも関わらず…今日のようにブレムは帰らないと分かっていても…月に1度は必ずあのマンションに1人で過ごし…恋人のケビンすら立ち入らせてはくれない…


昔、まだ幼いヨルアがブレムと暮らしていた頃には2、3度遊びに行った記憶はあるが…


…身体を繋げる事は許してくれたのに…まだまだヨルアに壁を感じる事に落ち込むケビン…


だが…


「ま、焦るな焦るな…ヨルアは僕に初めてをくれたんだ。…今はそれだけでも凄い事だ。頑張れ、俺。」


成長と共にどんどん美しさが際立って行くヨルアに、それこそ言い寄る奴は結構いたが…自分の彼女になってくれた喜びを今は噛み締めよう、と…


長年のヨルアの塩対応にはかなり打たれ強くなり、ある意味逞しくなったケビンは自分にそう言い聞かせるのだった。





「…ふぅ…」


バス停への道を歩きながら、ヨルアは溜め息を吐く…


…今はなんとか切り抜けたけど…悪阻みたいな症状がじわじわ酷くなって来ていて…


周囲の大人が疑い出すのは時間の問題…


でもどうすれば…?


堕すのは可哀想…でも産んだら人生のレールは…ブレムからどんどん離れて行ってしまう気がした。


…ケビンは良い人だし、大切な幼馴染み…


…だけど…抱かれてみて…恋する気持ちは彼に全くはない事に改めて気付いてしまった。


…私は…どうしたらいいの?


「……」


バス停には人影はなく…たどり着いたヨルアは1人ベンチに座り、ムカムカが止まらない身体を休ませた。


今日は、選択してる授業が教師の都合でズレ込んだ為に遅くなったケビンを待って下校したので、いつもはヨルアの他に数人はバスを待っているのだが、今日は誰もいないので、体調のすぐれないヨルアにはこの状況は有り難かった。


「?」


俯いていた為、すぐ気付かなかったが…いつもと違うエンジン音がバス停で止まった違和感にヨルアは思わず顔を上げた。


「ハ〜イ、ヨルアちゃん。やっと会えたわぁ。久しぶりねぇ…私の事、覚えているかしらぁ?」


グレーのスポーツカーの運転席の窓から、赤茶色の…短いが洗練されたオシャレな髪型の、美しいが向けられた笑顔がどこか毒々しい女が…ヨルアに手を振っていた。


「?!」


どこか見覚えはある…が、誰だか分からない…


だが…何故だか出会ってはいけない人に会ってしまったような…得体の知れない恐怖が…ヨルアの深い所から湧き上がって来る感覚はあった。


「…忘れちゃっている感じねぇ…ちょっとショックだわぁ…」


固まって立ち尽くすヨルアに少しガッカリしつつも…女はなんだかそれを楽しんでいるような…


そして女は助手席の方へ手を伸ばしてゴソゴソと…何やらバッグから取り出し…


窓からヨルアの方に向かってソレを差し出して…


「これ…覚えてるかなぁ…?」


と言ってから歌を唄い始めた。


…とても綺麗な声…懐かしい…けど…怖い…


ヨルアは聞き覚えのある歌を聞きながら、女が見せびらかしてるモノをまじまじと見た。


…それは…注射器だった。


ドクン…


ヨルアの中の奥深い場所に追いやったハズの凶暴な何かが…込み上げて来た…


視界が…薄っすらピンク色になった…


と、


ヨルアのその変化を見た女は歓喜する。


「良かったぁ!ヨルアちゃん、身体も思い出したのねぇ?そう…あの時の注射器と同じ型のモノよぉ。あの薬のお陰でヨルアちゃんは今まで普通の生活が送れていたんだからぁ…私に感謝してね。」


女はその注射器を尚もヨルアに見せびらかすようにして、楽しそうに語りかける…


ドクン…


…何があったのかは分からないけど…あの女性のやってる事に不安を感じ、必死で止めようと格闘している場面が脳裏に蘇って来た…


ドクン…


そう…そういえば…あの時、揉み合っているウチに視界が赤くなって来て…そう…こんな風に…


「…え?」


大きな動悸の様な衝撃が身体の中から響き始め、ヨルアは記憶の場面からハッと我に返ると…


ヨルアの視界は真っ赤に染まっていた。


女はそれを見て喜びながらも、素早く銀色の顔まで覆われたヘルメットみたいなモノを被り、車から降りて来た。


「…ヨルアちゃん…嬉しいわ…あの素晴らしい能力が蘇ったのね…。いい?ヨルアちゃん、その力であなたのパパを…あの方を守るのよ。」


「…パパを…?」


なんだか唐突に変な事を言い出した女を、ヨルアは混乱の中でまじまじと見つめた。


「…はぁ…美しい赤い瞳ねぇ。ゾクゾクするわぁ…」


特殊な防護マスクなのだろうか?そのマスク越しの籠った声で、女はヨルアの変色した瞳に見惚れていた。


「そうよぉ〜あなたのその力で守ってちょうだい。あの方は今、ちょっと窮地に立っておられるのぉ。アンタは昔私に啖呵切ったのよぉ。[パパは私が守る]ってねぇ。だから…私はあなたを殺さなかったのぉ。パパが今、どんなに困っているか…知りたくなぁい?」


女はヨルアの耳元で囁くように問いかける…


「…パパが…困っているの…?」


「そうよぉ。パパを助けたいならぁ…私と来てぇ…ね?」


「……」


…この女の何を…どうすれば…信じられるというの…?


ヨルアは懸命にパニックの中で情報を整理しようとするが…本能からであろう警戒心が思考を混乱させて…身動きすら出来ないでいた。


と…


過度のストレスで、少しの間忘れていた吐き気が再びヨルアを苦しめる。


「……」


何度もえずくヨルア…


「……」


しばらくヨルアを見つめていた女はヨルアの横に座り、近くで様子を伺っていたが…


突然ハッとして、


「アンタ…もしかしてぇ…妊娠してるのぉ?」


「……」


吐き気が酷くて否定も肯定も出来ないヨルア…


だが…ヨルアの微妙な反応に女は独特の勘が働いてしまった。


「…当たりかしらぁ?…相手は誰なのぉ?」


みるみる不機嫌になり、質問もぞんざいになって行く女…


「……」


「…まさか…ブレム様じゃ…」


「…な…訳ある…か…パパを…侮辱する…な…」


どんどん酷くなる吐き気の中で、ヨルアは必死に否定した。


「…そう…焦ったぁ〜」


女は心底安心したように胸を撫で下ろす。


「でも血の繋がりは無いんだからさぁ…例え相手があの方でも産んでも障害は出ないわよぉ?」


「え?…」


…女がどさくさでサラっと言った言葉に、ヨルアの吐き気は一瞬、止まった…


「ええ〜アンタ、まだ聞かされてなかったのぉ?マズったな…まぁいいや。じゃあ…本命はあの公安トップの男の息子ってとこかしらぁ?」


「……」


ヨルアは唖然とする…


一体…この女はどこまで自分の事を調べ上げているのか…


「…そう…相手はあのお坊っちゃまなのねぇ…じゃあ話は簡単じゃなぁい。堕ろしなさい。好きでもない男の子供を産んでぇ…あの方を守り切れると思うのぉ?」


「……」


…多分…女の声がどんどん小さくなって行くのは…防護マスクのせいだけではないだろう…


…それにしてもこの女は…自分の何を知っていて、ケビンを異性としては好きではないと分かるのかしら…?


ヨルアの意識はだんだんと薄れて来ていた…


ダメだ…今…気を失ったら…多分…私は…


必死で堪えるも、ヨルアの上半身は揺らぎ出し…ベンチの背もたれにやっと身を委ねるが…更にその身体は意志に反して横に傾いて行き…隣りに座る女にもたれるような状態になっていた。


「…しょうがないなぁ…決断出来ないなら、私が知り合いの婦人科医に頼んであげるわよぉ。」


と、ヨルアの腕を自身の肩に掛けて車まで運ぼうとした時、


猛スピードで走って来た黒い乗用車が、女の車の後ろに止まった。


慌てて降りて来た人物を見て、防護マスクを取りながら、女は歓喜する。


「ブレム様。」


…ブレム…?…パパ…まさかね…


薄れて行く意識の中、ヨルアはフッと一度笑み…


意識を完全に手放した。


「…何をしてる…娘から離れろ。」


「キャー!ブレム様、お久しぶりです!!あぁ今日会えるなんて思わなかったぁ〜嬉しいですぅ!」


怒りのオーラを纏い、鬼の形相で近付いて来るブレムに怯む事なく、まるで噛み合わない…アイドルスターに興奮する少女のような言葉をブレムに発するジョアナ…


「…君の近況は1年くらい前に聞いた。出所したと思ったら今度はヨルアに付き纏いか?前にも言ったと思うが、ヨルアに危害を加えたら容赦はしないと言ったはずだが?この子に何をした?ああ髪が…もう…いい加減にしてくれ。」


…だいぶ戻りつつあるが、ピンク色に変色しているヨルアの髪を見て、目を潤ませながらブレムはジョアナに銃を向ける。


「何もしてませんよぉ〜。私はただぁ…ヨルアちゃんに思い出して欲しくてぇ…これを彼女に見せてあげただけですからぁ…」


と、ジョアナは再び注射器を取り出してブレムに見せびらかす…


「⁈…お前…一体…どういうつもりだ…」


ジョアナに向けられた銃を持つ手は、怒りの為に震えていた…


ジョアナはブレムのその彼の震える手をジロリと見やり…


「ブレム様…銃は止めた方がいいかも…その引き金を引いたら…きっと後悔しますよぉ〜」


そう言いながらジョアナは防護服の襟元をチラッとブレムに見せるようにめくる…


「……」


胸元には薄茶の円柱形のモノが並んで…見えるだけでも2、3本…ジョアナの胸に巻き付けてあるように見えた。


…ダイナマイト…?


「ブレムさんが引き金を引いたらぁ…私は着火スイッチを押しますよぉ。私的には3人で心中も悪くないですけどぉ…」


ジョアナは再びニッコリ笑う。


「今日、私がこの子に会いに来た理由は言いません…目覚めたこの子にでも聞いて下さぁい。誰かからヨルアちゃんの[何か]を聞き付けたからぁ…きっとあなたはなりふり構わずここまで飛んで来たのでしょうねぇ…まぁ…その何かついての処理はぁ〜この後ゆっくり話し合って下さぁい。でもぉ〜ヨルアちゃんがあなたにちゃんと話すまではぁ…お相手の公安一家には知らせない方がいいと思いますよぉ…じゃあ。」


ジョアナは立ち上がり、投げキッスしながらブレムの前を通り過ぎた。


「…大きなお世話だ。一応、警察には君の事は報告しておく。」


すれ違いざまにブレムはジョアナに言い放った。


「そんな冷たい事言わないで下さいよぉ〜…大きなお世話でもしないとぉ…この子はきっと私と似たような運命を辿っちゃうじゃないですかぁ〜」


車に乗り込みエンジンをかけながら、ジョアナはそう言い終えるとブレムにウィンクした。


「うるさい!…もういい加減にしてくれ…君に何が分かる…娘に近付いたら…今度こそただでは済まないと思ってくれ。脅しじゃない。」


背にヨルアを庇いながら、ブレムはジョアナに再び銃を向ける。


「…この子ぉ…多分貧血でぇ…もしかしたら脱水にもなってるかもなんですぅ。さっきずっとえずいてたからぁ…最近あまり食べられていないのかもですよぉ〜。あなたはやっぱり…尊敬する方ですねぇ。その子は見捨てないで下さいねぇ…じゃあまた〜」


ブレムの銃に臆する事なく…一瞬真顔で助言を残し…ジョアナは走り去った…


…奴は一体なんなんだ?…訳が分からん…


ジョアナの言動に翻弄されながら、ブレムは唖然として彼女の車を見送った。


一応、車種とナンバーは控えながら…


そして…


ブレムがゆっくり振り向くと…血の気のない顔色で…何かに憔悴し切ったような表情でベンチに横たわるヨルアがいた。


「…ごめん、ヨルア…君はあの時…既にかなり悩んでいたんだな…」


既に金髪に戻ったヨルアの頭に頬擦りしながら…ブレムは涙を流した。


「取り敢えず…病院へ行こう。そして、目覚めたら…久しぶりにじっくり話をしよう…」


目を開けないままのヨルアにそう語りかけながら、ブレムは娘を抱き上げ…車の後ろのシートに横たわらせた。





「まぁ…何か毒物を体内に入れられた可能性はかなり低いと思うけど…確かに栄養状態は良くないね。心労と悪阻の両方が作用してしまったんじゃないかな。まずはこの子の気持ちを焦らずに聞いて…妊娠の対処はその後だね。」


採血の結果を見ながら医師はブレムに言った。


「…改めて…礼を言うよ。知らせてくれて本当に有り難かった。知らずにいたら今頃ヨルアは…」


この医師から連絡を受けて慌ててブレムは休暇申請をして帰還し、夢中で下校からのヨルアの足取りを辿り…


マンションに帰宅する時にいつも使用するバス停に差し掛かった際に、バス停に乗用車が止まっている不自然さに目を遣ると…全身銀色の妙なモノに包まれた人物が、ピンク色に髪が変色したヨルアを担いでいるという…あまりにショッキングな場面だった。


それは…かつてあの焼け野原で真っ赤な髪になって倒れていたヨルアを装甲車の中で発見した時に匹敵する衝撃だった。


いや…その前に…この目の前の男…軍人時代に交流のあった若き医師は、今は軍を離れて独立し、立場も体型も当時より少し貫禄が出て来た印象の婦人科医のゲアルが、たまたま受診して来たヨルアの保護者の記入欄を見て、心配してわざわざ連絡をくれたので…


まず彼の厚意が無かったら…と思うと、彼には感謝しかない。


「まだ学生だし…産むのは現実的に厳しい様に思うが、まず彼女の意思を確認してからだな。…だが…それより厄介なのは…」


そう…妊娠以上にヨルアの今後に影を落とす問題であろう…あの物騒な能力の復活だ。


…だがブレム的にはヨルアの妊娠は…ケビンとの交際の話をケントから聞かされた時ぐらい…いや…それ以上の衝撃だった。


自分でそうなるようし向けながら…ヨルアにどう接して良いのか分からないくらい…正直、辛いモノだった。


ヨルアをこんなに追い込んだケビンの軽率さに、今のブレムは腑が煮えくり返るくらいの怒りを感じている。


だが…彼はお腹の子の父親でもあり…ヨルアが望めば将来の伴侶にもなり得る男…


彼の本来の人間性を知っているからこそ…どこかでヨルアを託す思いもあった。


彼の軽率さは若さゆえの部分もあるだろう…


…とにかく今は…彼の軽率さに怒る自分の感情を優先すべきではない。


…それよりも、深刻で厄介な問題が…最愛の娘に再び起きてしまったのだ…


「…長年、特殊能力者の対応に特化している専門医を紹介するよ。ヨルアちゃんの体調が落ち着き次第…そちらを受診してみて。」


「…ありがとう…助かるよ。」


力なく答えるブレムの心中を推し量ってか…ゲアルはヨルアに関しての話はそれ以上せず…


「ただブレム…君も…色々と心配な情報を耳にしてる。あくまで指揮官なんだから…危険な作業はもう…シールドの届くギリギリの場所での作業は止めるべきだよ。境界の放射線量はかなり高いようだからね。作業員すら行きたがらない場所に行くのはもう…この子の為にも…な。君の身体のメンテナンスも紹介状の中に加えて置くから、これを機に君も身体をもっと労わってあげて欲しいんだがね…」


ここで初めてゲアルはニコッと笑った。


「分かったよ…ありがとう。」


ブレムも、笑顔で返した。





「…パパ…?…なんで……?」


明け方の個室のベッド脇に陣取って、椅子に座りながらウトウトしていたブレムは、ヨルアの声が耳に入り、ハッとする。


「…ヨルア…目が覚めたのか…?…どこか…辛くはないか…?」


椅子を少し…ヨルアの枕元の近くに移動させながら、ブレムは声をかける。


「…夢を見てるのかな…?…パパが…こんな近くにいるなんて…」


知らない場所で目覚めて…たまにマンションに帰宅しても食事の時くらいしか顔を合わせようとしなかったブレムが、こんなに近くで自分をジッと見てるなんて…どこか夢見心地でブレムを見ているヨルア…


「何言ってるんだ…君は貧血で倒れたから、今入院しているんだよ。…テストで頑張り過ぎたんじゃないか?美味しい物を沢山食べてしっかり寝れば、じきに元気になるってさ。だからあんまり無理するなって言ったろう?」


…妊娠の話題はあえて避けて、ブレムはヨルアを気遣った。


「…無理してるのはパパでしょう?もう若くないんだから…このままだとパパの方が壊れちゃうよ。」


ヨルアは微笑みながらブレムに言い返す…


…だが…その笑顔はすぐに崩れ…目にはみるみる涙が溜まって行き…ヨルアは両手で覆って泣き顔を隠した。


「もう…知ってるんでしょう?問題は過労じゃないって事…」


「……」


ブレムは…ヨルアのこの涙を見て、この子が今までずっと誰にも言えず…1人で抱え込んで悩んでいた事を改めて思い知る…


ブレムは質問には答えずにヨルアの頭を撫でた…何度も何度も…労わるように…


「ヨルアはこの間…ヌビラナに戻ろうとしていた時…パパに打ち明けようとしていたんだな…ごめんな…」


「…パパ…私はケビンと結婚しなくちゃいけないのかな…?」


しゃくり上げながら…顔を手で覆ったまま…ヨルアは絞り出すような声で問いかける。


「…ヨルアは…どうしたいと思ってる?…何も心配しなくていいから…本当の気持ちを聞かせて?」


ヨルアの頭を優しく撫で続けながら、ブレムは何もプレッシャーをかけないように、細心の注意を払いながら尋ねる。


「…分からない…ケビンは大切な幼馴染だけど…結婚したらずっと…ああいう…セックスをしないといけないなら、結婚なんてしたくない。嬉しくも何もない…あんな痛い事…もう2度としたくない。皆んなと遊ぶのは楽しいけど…ケビンとだけ一緒にいたい訳じない。付き合うって何?…もう分からないよ…」


「……」


…これが…ヨルアの本当の心の声なのか…?


「…ならどうして…ケビンと…その…そういう事になったの?まだ早かったようにパパは思うけど…セックスは…女の子は初めてはとても痛いと感じる事が多いようだよ。…だからこそ…中途半端な気持ちでするモノではないんじゃないか?」


「ウッ…ク…だって…ック…」


ヨルアの嗚咽がじわじわ大きくなって行く…


「…ごめん…責めてる訳じないんだ。ヨルアが悪い事をしたって思ってもいない。それだけは誤解しないで。パパは…今はとにかく、ヨルアの気持ちを知っておきたいんだよ。」


「……」


ヨルアは顔を覆っていた手をゆっくり離し…ブレムに向かってその両腕を広げる…そして、


「…パパ…抱っこして…」


縋るような目でブレムに乞うヨルア…


「!……」


その潤んだ目に吸い込まれるように…ブレムは気が付くと、ヨルアを力いっぱい抱きしめていた。


…なんだ?…今のヨルアの目は…なんて目で見つめるんだ。


勘弁してくれ…


「…な、なんだ…ヨルアはいつまで経っても甘えん坊で…赤ちゃんみたいだなぁ。」


自身の高なる感情に振り回されてしまわないように、ブレムは努めて明るく言った。


「ケビンはいつも…私の話を辛抱強く聞いてくれるし…優しいし…話していても気を使わないから、私にとっては大事な存在だとは思うの。…でも…ときめくとかないし、2人きりでずっと居たいとも思った事ない。でも…周りの人達は皆んな…ケビンとカップルになればいいと思っていて…そうなった方が皆んなの為にいいと思った。…恋人って思うようにすれば、いつかそういう気持ちになって行くのかも知れないって…でも1年経ってもそうならなかった。なのに…ケビンはだんだんそういうスキンシップみたいなモノを求めて来るようになって…ケビンはいつも一生懸命だから…悪いな…って思って、初めてはケビンでいいのかも知れないって…思ったの。」


「………そうか…」


ブレムは…ヨルアの辿々しい告白に…頭をハンマーか何かで殴られたような感覚に襲われた。


ケビンはブレムが見ている限り、本当に優しく誠実な心根の子だし…ヨルアをずっと好きでいてくれた。


そのケビンを取り巻く環境が何より温かく、ブレムを安心させる雰囲気があったので、ヨルアはここに納まるべきと思った。


それがヨルアの幸せになるのだと…信じて疑わなかった。


ヨルアが彼等の家に嫁げば、彼女の亡くなった両親もきっと納得するだろうと…


自分の側にいて、世間で妙な噂を色々と立てられるよりか…ずっと良い人生を歩めるだろうと…必死で自分にも信じ込ませて来たのだ。


なのに…


愛しい娘が「皆んなの為」という動機で異性と付き合った結果が…これなのだ。


思春期の娘が…「悪いな」と思って恋愛感情を持てない相手に初めてを捧げるというのは…


自分は…暗黙のうちにヨルアにそれを強いて来たのか…?


ブレムは、ヨルアに申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。


「…ヨルアは…お腹の赤ちゃんをどうしたいと思っている?正直に言って欲しい。どちらにしても、君の選択を最優先する。パパが責任を持ってヨルアを守るから…信じて…」


ブレムがヨルアの背中をポンポンと…優しく叩きながら抱擁を解こうとすると、ヨルアはブレムの身体にしがみつくように…それを拒否して更に抱き付いた。


「分からないの…ケビンとの結婚は今は全く考えられないけど…堕ろすって…赤ちゃんが死んでしまう事でしょう?それは…可哀想で…でも今の私1人では育てて行けない。皆んなは…ケビンの家族は妊娠した私の事をどう思うかしら…?…考えれば考えるほど…分からなくて…怖くなるの…」


ヨルアは混乱の真っ只中にいた。


…未知の経験で、まだ具体的な進路も決まっていないのに…そりゃ未来なんて想像出来ないよな…


ブレムはヨルアをキツく抱きしめ返し、


「落ち着いて、ヨルア。この先は…何があってもパパがヨルアを守る。…だから…妊娠の事は一緒に考えて行こう。…いいね?」


ヨルアはブレムの言葉に一度大きく息を吸ってから、


「……うん…」


と答え、抱擁する腕を緩めた。


その感触がブレムにも伝わり…少し遅れて彼も抱擁を解く…


そして…お互いが離れて行く瞬間に目が合うと…


ヨルアは潤んだ目に…更に艶やかな表情が加わり…


一度解いた両腕を今度はブレムの首に回し…彼女は口付けをした。


「!!…」


予想外ではあったが、ヨルアの動きがあまりに滑らかな上に…ヨルアの縋るような潤んだ目にブレム魅入られてしまい…少しの間思考が止まって…


「……」


いつの間にか彼女の行為を受け入れてしまっていた…


時間にしたら、それは5秒にも満たない間の出来事であったが…


ブレムはハッと我に返り、ヨルアを強く引き剥がした。


…なんだ…?…今のは…


酷い混乱に陥り…


「止めなさい!こんな事…親子で軽々しくしたらダメなんだよ。君はもう子供じゃないんだから、そんな事くらい分からないと…」


思わず…ブレムは怒鳴ってしまった。


しまった…言い過ぎた…と思った時は遅く…


恐る恐るヨルアを見ると…まるで捨てられた子犬の様な…打ちひしがれた目をしてブレムを見ていた…


「…ごめんなさい…もう…しないわ…」


…そう言うと、ヨルアはブレムに背を向けてしまった…


「…ごめん…言い過ぎた…ただヨルア…」


深く傷付けてしまった気がして、ブレムは何か言葉をかけようと、咄嗟にヨルアの肩に軽く手を置いた…が、次の瞬間…その手は強く払われた…


「…私は大丈夫よ…今のは冗談だったの。悪ノリしてごめんね…」


と言って、ヨルアは背を向けたまま腰まであった毛布を肩まで掛け直し…


「もう少し寝るね…私はもう一人で大丈夫だから…パパも帰って寝た方がいいよ。」


と言って、その後はずっと黙ってしまった…


「そう…だね…ゆっくり眠るといい…パパは大丈夫だよ。どこでも寝れるから…おやすみ…」


「……」


なんとなく…


ヨルアの背中に拒絶を感じながら、未だ続いてる混乱の中でブレムはやっと言葉を紡いだ。


…未だかつて…


ブレムがヨルアのイタズラを強く叱って、彼女が拗ねてしまったとしても…ブレムを強く拒絶するような行為をした事は一度としてなかった。


…自分は何か…取り返しのつかないような事をしてしまったのだろうか…?


ブレムの中で、いい知れぬ不安が膨れ上がって来ていたが…


いや、あの子は…今まで経験した事のない特殊な状況に置かれているんだ。


この問題が落ち着いて来れば、ヨルアはきっと…いつもの明るく素直なヨルアに戻るはず…


向けられたヨルアの背中を見つめながら、そう自分にいい聞かせ…ブレムは必死に愛する娘のこれからに意識を向けた。





「う〜ん…確かに…興奮時の君の脳の波形は…能力者に有りがちなパターンを示しているね。能力の発現時には髪と目に特徴的な変色がある…」


様々な状況で計測したヨルアの脳波の波形データ内容をざっと説明すると…ゲアルに紹介された能力者専門診療の医師は、机の上に置かれたガラスケースの中でグッタリしているマウスに視線を移す…


「君がピンク色の目と髪になっている状態で触れたマウスがこれだからね…。国策で活動している能力者のランク付けで言うなら…君はSランクだろうね。私が見聞きしてる範囲では、このテイホ国内でSランクの能力者は存在していない。君はこれから、その力のコントロールを身につける必要があるね。でないと…」


ブレムとヨルアは息を飲んで医師を見つめる…


「君は危険能力者として、一生政府に目を付けられ…ほぼ軟禁状態の生活を送らねばならなくなるだろう…」


ああそう言えば…昔…似たような警告を自分にした大臣がいたな…


…つまり…ヨルアはまたあの時の状態に戻ってしまったという事か…?


あのイカれた女…ジョアナに対し、殺意さえ湧いて来るブレム…


「…以前…この子はエジ…なんとかという能力を消す薬を、不本意な形で投与されて…幸運にも副作用や後遺症みたいなモノはほぼ残らずに今まで過ごして来られました。あの薬をもう一度…」


「薬はもう無理です。」


ブレムが医師に懇願する前に、医師は拒絶の言葉で遮った。


「エゾイドという薬の事を仰っておられると思いますが…あの時の件は我々の間でも有名なエピソードで、その方面の研究者なら皆知っています。確かあの時…対応した医師は直後にその薬の中和剤も打っていると記憶しています。…症例はそれほど多くはないのですが、能力を消滅させる薬は2度目はほぼ効かないようです。更に、過去に中和剤を打たれている能力者は、その後に再び能力を消滅させる薬を投与された3日以内にもれなく強い拒絶反応が出て…過去の症例においては100%死亡しています。…つまり…ヨルアさんの能力を外的な処置で消滅させる事は…もう不可能と思って下さい。」


ブレムは…あまりにシビアな医師の宣告に愕然とした。


ヨルアが心配で…恐る恐る横を見るが…本人は驚くほどに反応は薄く…無表情で聞いていた。


「では先生…私はどうしたら良いでしょうか?」


特に取り乱す事も無く、ヨルアは淡々とした口調で医師に尋ねる。


「まずは感情抑制のトレーニングを行う必要があります。君はそれによって能力の発現はだいぶ抑えられるタイプだと思う。そして段々と、能力が出て来るタイミングみたいなモノが体感的に分かり出して来ると思うので、そのタイミングの感覚で発現自体をコントロールする…その2つのコツを掴む訓練プログラムを君用に作ってやって行く感じかな…」


「…期間は…どのくらい要しますか?」


「う〜ん…個人差があるからね。早ければ1か月…長いと1年くらいかかる人もいるかな。…ただ君の場合は…危険な能力と言えるレベルだから…一旦、日常から完全に離れて、最低でも1年は訓練に集中した方がいいと思う。学校は…残念だけど、休学した方がいいんじゃないかな。何かあってからでは…君の人生全般が狂ってしまうからね。若いんだから、1年なんてすぐ取り戻せる。…スタッフ皆でサポートするから…一緒に頑張ろう。」


と言って医師は、終始冷静に聞いていたヨルアの肩をポンと軽く叩く…


「いかがですか?お父さん。」


「……」


むしろ、ブレムの方が動揺し悲壮感が漂って来ていたので、医師は父ブレムからヨルアの背中を押して欲しいかのように、あえて声をかけたように感じた。


「…ヨルア自身がそのプログラムを受け入れる意思があるなら…私に異存はないです。…ヨルアは本当に…1年休学する覚悟はあるんだな?」


再びヨルアを見て、ブレムは最終確認のつもりで尋ねる。


「…仕方ないと思う。私の人生より…私の能力で人に迷惑かけたり…命の危機に貶めてしまう方が怖いもの…仕方ないよ…」


やはりヨルアは淡々と話し…既に覚悟は決まっているようだったが…


ブレムには何か…冷静というよりも…ヨルアの一連の反応はどこか投げやりな様にも見えて…今まで見た事のない雰囲気のヨルアの冷静さが…なんともブレムを不安にさせた。


「じゃあ、なるべく早い方がいいと思うので、一応、入院という形で手続きして頂けますか?」


早速という感じで医師は手続きに取り掛かろうとするが、


「あ、ちょっと待って頂けますか?娘は今、知人の家に下宿する形で通学していますので…挨拶や準備等ありますから、入院まで2週間ほど時間を頂きたい。」


…まだ妊娠の対処も結論が出ていないから…なるべく現段階では誰にもヨルアの妊娠を知られたくなかったブレムは、入院手続きに待ったをかけた。


「…分かりました。…ただ…その2週間の間に何かあれば、ヨルアさんは半永久的に政府の管理下に置かれてしまう事を忘れないで下さいね。…では、2週間後の入院という事で、予約しておきます。」





「…それで…ヨルアの結論は…?君はこれからどうしたい?」


病院から一旦帰宅し、ヨルアには少しリラックスした時間が必要だろうと、ブレムはあえて妊娠の話題には一切触れず、普段通りに過ごし、なるべくヨルアに話しかける機会も減らすようにして丸1日過ごした。


そしてその夜…


夕食後少しして、ブレムはリビングのソファにいたヨルアの隣に極々自然を意識して座って、例の件の彼女の結論を尋ねた。


「…ごめん…まだ結論が出せないの。…それにしても…パパはいつまでここにいられるの?私のせいで…慌てて来たんでしょう?」


「…娘の一大事に駆けつけるのは当然だ。…溜まりに溜まっていた休暇を少し長めに取らせてもらったんだよ。ヨルアはそんな事を気にしなくていい。それより…ケントさん達に1度挨拶に行かなくてはならないな…あれから彼とは何か話したのかい?」


「…うん…」


ブレムから、学校やケント宅にはヨルアは少し風邪を拗らせているので、1週間ほど療養させると連絡を入れておいたのだが…


ケビンがそんなヨルアを放って置く訳がない。


イヤーフォーンには数え切れないほどのケビンの心配するメッセージが入っていたので…思い切ってヨルアから連絡し、1週間後には戻れそうだから心配しないでとケビンに要件だけ告げて早々に切った。


それでも…その後もケビンは1日に2回は必ず留守電にヨルアを気遣うメッセージを入れていた…


「パパ…ケビン達には私の能力の事をパパから話して置いて欲しいの。そしたら…私は明日の夜にケビンに電話して…明後日、入院前に最後に登校するって伝えるから。それでね…その時にケビンと少し話して…お腹の子の事をどうするか決める。…だけど…私の妊娠の事はもう誰にも言わないで。」


「誰にもって…」


「勿論、ケビンにもよ。」


この時、ヨルアは何か覚悟を決めたような目でブレムを見た。


…産むにしてもケビンに言わないって事なのか…?


ブレムはそう聞きたかったが…


「…分かったよ。」


ヨルアの目を見てしまったら、そう答える事しか…ブレムは出来なかった。





「とにかく、身体を大事にね。私達は皆んなヨルアちゃんが元気で戻る事を信じて待ってるから…忘れないでね。」


ヘレナは目を潤ませながらヨルアを抱きしめた。


学校へ向かう前に、とりあえずケント宅にある私物を取りに行って挨拶を先に済ませようとしたブレムとヨルアだったが…


「どうせ戻るのだから、荷物の全てを運ばなくてもいいのでしょう?」


と笑顔でヘレナに言われ…とりあえず衣類と少しの日用品を準備しておいたカバンに詰め込んで車に乗せ…


「このヘンテコな能力で皆んなに迷惑をかけないように、頑張って来ます。」


と、ヨルアは精一杯の笑顔を作り、そこから車で学校へ向かった。


ブレムと共に校長室へ向かい、一応、校長にだけ能力の事は告げていたので先に挨拶を済ませ、職員室では担任に表向きの持病の治療という名目で挨拶をし…そこで一旦ブレムとは、放課後に再び迎えに来てもらう約束をして別れた。


…そして、最後に教室に…


もう受けられる授業は午後だけだが、最後の授業を受けるべくヨルアが教室に向った。


途中…まだお昼休み中だった為に校内外はあちこちで生徒達が各々の休憩時間を過ごしていた。


と、


「…なあケビン…お前の美人の彼女…今ちょっと大変な事になってるんだろう?俺の父ちゃんが勤めてる能力者専門の病院でさ…俺と同じ学校の女の子が来たって知って、調べてみたら凄い能力で…コントロール出来ないなら大変な事になるって心配してたんだよ。…今回の休学って…多分、そのせいだろ?」


トイレの影の廊下から、ケビンと…おそらく例の病院の職員を親に持つ同級生らしき人物の会話が聞こえて来てしまい…


ヨルアは咄嗟に彼等から見えないであろう死角に身を潜めた…


…きっと…この学校に私の事が広まるのも時間の問題だろうな…


そう思ったら、久しぶりにまた悪阻の波がやって来て…


仕方ないので、ヨルアは彼等がいる近くのトイレに駆け込み…入り口の所で様子を伺った…


「知らないよ…何か見間違えたんじゃないか?」


慌てて否定するケビンの声が聞こえて来た。


「名前と学校名見て言ってるのに…見間違えなんかあるかよ。やけにムキになって否定するって事は…そうなんだろう?」


「……まあ…だけどお前の親父さん…守秘義務違反だろ。そっちの方がヤバいぞ。お前がもしこれを言いふらしたら…俺の親父に言いつけるからな。」


ケビンなりに恋人を守ろうとしてる感じが伝わり…ヨルアは胸がジーンとなった。


「まぁまぁ…ケビンだって、そんな力を持ってる彼女って…本音はビビってるんだろ?普段だってお前…あの子に頭上がらない感じみたいだしな…ますますケンカ出来ないじゃん。」


「…それは…まあ…な。」


…2人のクスクス笑う声が聞こえたヨルアは耐えきれなくなり、トイレの個室に駆け込み…今日食べた物を全部吐き出した。


そして、やっと吐き気が治って来て、トイレを出ると…午後の授業の始まりを告げるチャイムがなり始めていて…


ヨルアが廊下に出た頃にはもう生徒達は皆…教室に戻っていた。


…もう……いいか…


ヨルアはそのまま授業は受けずに学校を去った…


ブレムが学校に迎えに来るのはまだまだ先…


ならば…バスで帰ろう…


また微妙に繰り返して来る悪阻に耐えながら…


ヨルアはバス停までの長い道をてくてく歩き出した。


「…こんな親達から生まれてくる赤ちゃんは…きっと不幸だよね…」


ケビンの顔なんて…金輪際、見たくもない。


ヨルアは途中の小さな川に掛かる橋を渡りながら、流れる川に向かってイヤーフォーンを投げ捨てた。


…ブレムとは…もう最近は殆ど通話してない…留守電は聞くばっかりで…殆どケビンからのメッセージだった…


…こんな物…もう…必要ない。


「……」


頬がむず痒くて…なんとなく触ると濡れていた。


こんな…どうでもいい事にも涙が出るんだな…


…もう…何もかも…どうでもいい…


赤ちゃんも…


そして、


バス停がやっと近付いて見えて来た時…


「あらぁ?ヨルアちゃんじゃなぁい…なんでこんな時間に帰るのぉ〜?」


「……」


あの独特で不気味なテンションの喋り方は…


あの女以外、考えられない…


「…もう…放っといてくれませんか…」


女の方を見ようとはせずに歩き続けるヨルア…


「…放っとかない。この前も言ったでしょぉ…あの方が今、大変なのよう〜」


「……」


女は…無視して歩き続けるヨルアの歩調に合わせて車をノロノロ走らせ…窓から話しかけながら尚もヨルアに付きまとう…


「身体ボロボロになっても頑張ってるのにぃ…このままだとこの星の為にあの方が今までやって来た事がぁ打ち切りになっちゃうのぉ〜。アンタがちっぽけな事に悩んでいる内にぃ…あの方がぁ…下手したら殺されてしまうかも知れないって言ったら?…そんな状況を私が放って置くと…あんたは思うのぉ?」


ヨルアはピタっと立ち止まる。


「…殺される…?」


ヨルアに合わせてジョアナの車も止まる。


「…そうよぉ〜政敵の古狸ジジイ達がぁ…何して来るか…結構ヤバい状況なのぉ〜」


「……」


「…詳しく聞きたくはなぁい?聞きたいなら助手席に乗りなさい。ドライブがてら説明してあげるわよぉ。誓って説明だけしたら帰すわ。今はあの方の心労を増やしたくないしぃ…」


…心労を増やしたくない?…どの口が言ってんだか…


ヨルアは苦笑したが…もうどうなってもいいような気分にもなっていて…


気付いたらジョアナの車に乗っていた…


「うわぁ〜ヨルアちゃんと初ドライブなんてぇ…ドキドキするわぁ〜」


「…さっきの話の続きをして下さい。」


ヨルアは窓の外へ顔を向けジョアナとは視線を合わせようとはせず、とにかく父ブレムの窮状の説明を要求した。


「ったくぅ…父親に似て遊び心を持とうとしないんだからぁ〜…血の繋がりはないのにねぇ〜」


ジョアナのどこかヨルアの気持ちを逆撫でするような言葉に、身体がピクッと一瞬反応したが…


「……」


ヨルアは、今知りたい事以外の話は全て無視する事にした。


「…父はなぜ殺されそうなんですか?」


…この女がどれだけ信用できるか分からなかったが、その話だけは…なぜだか嘘ではない気がヨルアはしていた。


「アンタ…ホント…面白味ないわぁ〜…分かったわよぅ…」





ジョアナの話によると…


ここ10年近くに渡ってブレムが指揮を取って来たヌビラナでのプロジェクトは今、転機を迎えているらしい…


ヌビラナの珍しい現象を実際に陸上で間近で見る事を売りにした富裕層向けの観光地化の声がかなり前からあるにはあったが、戦争によって滅んでしまったヌビラナの未知の先住民が戦争の為に仕掛けたままになっているトラップをまず取り除かない事には、その構想はいつまで経っても前には進まず…話題には上るが…いつの間にか立ち消えるを長い事繰り返していた。


そんな中…やや大きめの小競り合いを終結させ、テイホとメクスムの大国がいよいよ同盟を結び、連合国としてその関係が安定して来た事によって世界全体の情勢も安定し、連鎖的に経済活動も安定した結果…様々な科学技術の発展に伴って人々の興味が宇宙へ向けられるようになると、ある小国が放った探査衛星によりヌビラナの地下はある物質を多量に含んでいる事が分かったのだが…当時はその成分に関しては全く注目はされなかった。


そんな折、テイホ国主導によるヌビラナ観光地化プロジェクトがやっと前進し始めた。


まずトラップ撤去が一番の懸案ではあったが、最新の軍事技術によりなんとかその問題をクリア出来そうな段階に入った事で、計画はゆっくりだが着実に進み始めた。


だが、ヌビラナへの大型星間移動船が完成という段階に入った頃…


母星アリオルムでは土壌全体においてある問題が起き始めている事を、大国それぞれの研究機関が把握し始めていた…


それは、地中深くのあちこちで特殊なバクテリアの急激な減少が起きている為に、それによって植物全般の発芽や成長に影響が出て、世界の食料事情に関する様々な問題が深刻さを増しつつあるのだ。


それはとてもとてもゆっくりだが…着実に進んでいて…


困った事に、その酵素がなぜ減り始めたかの原因もよく分からず…地中においてのバクテリアを増やす有効な手立ても見つからない状態が続いていた。


手段は全く無い訳では無いが…それなりに強い薬品を持って広い範囲で対処すれば、バクテリアの増殖は一時的にある程度促されても、地中の様々な微生物の生態系を崩してしまう危険が高く…有効な対処法は以前として確立されないまま…


大国がその問題の解決にしばらく手を拱いていた中、ある物質がそのバクテリアの急激な減少を止める為に有効である事が分かり、然もその物質は地表に多量に撒いても地中の微生物や生態系への影響が殆ど無いようだという実験データも上がって来た。


しかしながら、その物質は今の時点での科学技術では人工的に大量に作ることは難しく…その物質を使っての問題解決は不可能と思われたのだが…


ヌビラナの地下で見つかり、その含有量もかなりのモノという物質がそれだった為…


ヌビラナ掘削プロジェクトは観光地化より優先される事となり、そのプロジェクトの指揮を取っているのがブレムだったのだ。


ブレムはヌビラナまで行って現場で直接指示を出すばかりか、場合によっては自ら危険な場所の作業にも参加して、なりふり構わずの姿勢で挑んで来た。


お陰でそのプロジェクトは、どのエリアを重点的に掘れば良いかも大体判明し、大々的な発掘の為の基地も完成し、周辺地域全体にシールドを張り巡らす作業もほぼ完了の状態まで来ていたのだが…


「このプロジェクト自体に知識も興味もない政治家がねぇ…経済の為に観光地化をまず優先させろって騒ぎ始めたのよぉ。…背景にブレム様を背後から支援していたある有力政治家が倒れてねぇ…政界復帰が難しくなった事が影響しててぇ…対立する一派がブレム様の仕事にチョッカイを出し始めたのよねぇ….。で、その一派の中にアブナイ方々と太いパイプがある厄介な奴等がいてぇ…現場の作業員達に熱烈に指示されているあの方がとにかく邪魔でぇ…強硬手段に出る可能性もあるのよぉ〜。かなりムカつくんだけどぉ…正攻法で対立したり暗殺なんてしようモノならぁ…ブレム様が逆に恨まれて一生奴らにつけ狙われるようになっちゃうかも知れないでしょう〜?」


…今この人…サラッと暗殺とか言ってたか…?


聞いている内容の中で色々物騒な言葉が散りばめられてる事にヨルアが面食らっている内にも、女はそんな反応などお構いなしにどんどん話を進めて行く…


「さすがのアタシもちょっと困ってるのねぇ〜。それでねぇ…あなたの出番なのよぉ〜。私ね…あんたが昔、テロリストを殺した時の記録を色々と調べたのよぉ…それでぇ…」


「ち、ちょっと待って!…テロリストを殺したって…何?」


さすがに聞き捨てならない話が飛び出し、ヨルアは思わずジョアナの袖を掴んで引っ張る…


「… まぁそうよねぇ…あの方は優しいからぁ…そんな過去はいちいちアンタに喋らないわよねぇ〜。…実際、証拠は何もないからぁ…アンタがヤッたなんて公式な記録は残ってないわよぅ?だけどぉ…一瞬で凄い変な死に方したらしいしぃ…捕まったテロ首謀者の1人がねぇ…当時アンタはその男に拘束されていてナイフで首を少し傷付けられていたんだってぇ。その最中に男は突然死してぇ…その時のアンタの髪と目は真っ赤だったんだってぇ…。まぁ証明が難しい状況証拠しかなかった訳だけどぉ…アンタ…過去に私も失神させてるしねぇ…なんとなくぅ…アンタの力でそうなったって当時近くにいた人は思ったんじゃなぁい?でもさ、アンタはあくまで自己防衛でやってる事だからぁ〜しょうがないんじゃない?…やだぁ…泣かないでよぉ〜。私はアンタは悪くないって言ってるのよぉ〜」


「……」


ヨルアの涙腺は…崩壊していた…


…こんな…得体の知れない狂気を孕む女に悪くないって言われて…何がどう慰めになるというのか…


…私は…殺人者…?


ヨルアは耐え切れず、顔を両手で覆い…蹲った…


ジョアナはそんなヨルアをチラッと見て、少し面倒臭そうな顔をした。


「…多分だけど…その能力が無かったらぁ、アンタは今ここにいないかも知れない…生きていなかったかもよぉ…。私にとってみたら羨ましいとしか思えない…素晴らしい力なのよぅ〜。何よりその力はぁ…あの方を救えるかも知れないのよぉ〜」


ヨルアは嗚咽し蹲ったまま…


「わ…たし…た…く…ん…人…を……殺……と……?」


と、ジョアナに問う。


「う〜ん…そうねぇ…私だったらソレも有りねぇ…だけどブレム様は嫌がるから…アンタは出来ないんじゃなぁい?私はねぇ…アンタにその力で人殺しをしろとは言ってないのぅ。アンタのその力は…もっと便利な使い方があるでしょぉ〜…?」


「……」


ヨルアはしゃくり上げながら、ゆっくりと顔を上げ…ジョアナをジロッと睨む。


「…なんなのよ…ヒック…デリカシーない事は容赦なくベラベラ言うくせに…ヒック…回りくどい言い方してないで、結局、私に何をさせたいのか…ヒック…早く言いなさいよ!」


ヨルアはだんだん怒りが込み上げて来て…しゃくり上げながらもジョアナの運転する腕を掴みながら、話の核心を聞き出そうとする。


「ち、ちょっと待ってよぉ〜…危ないでしょぉ〜。……アンタ、結構力強いんだねぇ〜…ますます頼もしいじゃなぁい〜」


ジョアナはなんだか面白そうに、ヨルアに振り回されている…


「うるさい!…ヒック…早く言え!」


ムキになってジョアナの肩を掴んで揺さぶるヨルア…


「ちょっとぉ〜そんなに引っ張ったら事故るじゃなぁい〜」


微かに少しピンク色かかって来たヨルアの髪をチラッと確認したジョアナはふと真顔になり…


「…そう言えばさぁ〜……アンタ…お腹の赤ちゃんはどうする事にしたのぉ〜?」


ヨルアはハッとして、ジョアナから手を離し…俯く…


「…分からない…」


怒る勢いを失ったヨルアの髪は、スゥっと元の金髪に戻って行く…


「ええぇ〜っ、好きじゃない男の子供を産んで育ててる間に……ブレム様が死んじゃうかも知れないわよぉ〜。何を悩むのよぉ〜。」


「……」


ジョアナは車を路肩にゆっくり止める。


「…望まれず生まれた子の見本が今、アンタの目の前にいるのよぉ…迷ってるくらいなら産むべきじゃないと思わなぁい?」


ジョアナの忠告に少し驚き、顔を上げるヨルア…


「……」


ヨルアが尚も反応出来ずにいると…


「ただ可哀想とか…安っぽい感情で迷ってるのぉ?……なら…」


「!!…」


突然の衝撃がヨルアの下腹部を襲った。


「私が前に進ませてあげるわよ…」


ジョアナはヨルアの下腹部を拳で殴っていた。


「…あれ…?」


直後、ルームミラーを覗き込むジョアナ…


一瞬の激痛と…時間差で新たな鈍い痛みが腹部全体に広がって行き、お腹を抑えながら顔を歪めるヨルア


「あ〜あ…ブレム様もう来ちゃったぁ…。い〜い?アンタにあの方を助けたい意思があるならぁ…ここに連絡して。」


と言ってジョアナは、腹部の痛みに苦しむヨルアの服のポッケにメモ紙を入れる。


「病院へはぁ…あの方に連れて行ってもらうといいわよぅ。ブレム様もきっとホッとするでしょう。」


と言いながら、ジョアナは後ろから凄い勢いで走ってくる黒い車に一度手を振って、ヨルアを助手席からゆっくりその場に下ろす。


ヨルアの下半身には小さな赤いシミが…じわじわと広がりつつあった。


「じゃあヨルアちゃん…またねぇ〜」


という言葉を残して素早く運転席に戻り、ジョアナは急加速でタイヤに黒い煙を吐かせながら猛スピードで去って行った。


直後、入れ替わるように黒い車が倒れているヨルアの側に横付けされた。


「ヨルアぁ!!……なんでこんな事に…」


慌てて駆けつけたブレムは、ヨルアのスカートに赤いシミが広がっているのがすぐ目に入り…今、ヨルアに何が起きているのかを即座に悟った…


「…赤ちゃん…もう…ダメだね…でもこれで…いいのかもね…」


かなり痛いのか…顔を歪めながらお腹を押さえて…悲しげに笑うヨルア…


「まだ分からないだろ…とにかく、直ぐ病院に行こう…」


あっという間に…穏やかな日常も…赤ちゃんも…全て奪われてしまったヨルアが…ブレムはあまりに不憫で…


溢れ出て来る涙を拭おうともせず、ブレムはヨルアを抱き上げ、急いで後部座席に寝かせてゲアルの病院へ車を走らせた。





病院の長い廊下…


男が一人…長椅子に座りながら、まるで何かに祈るかの様に組んだ両手に額を擦り付けて…蹲り…


手術室のランプが消えるのをひたすらに待っていた。


やがてランプは消え…手術室からまずゲアルが出て来た。


「ヨルアちゃんは大丈夫だよ。命に別状はない。…臍のすぐ下辺りが少し赤くなっていて、殴られたような跡があった。胎児は…流れてしまったよ。」


「…そうか…」


「…もう出て来ると思う。…3、4時間もすれば意識は戻るよ。」


ザッと説明して立ち去ろうするゲアルに、ブレムはすかさず彼の腕を掴む…


「…例の処置は…?」


ブレムは縋るような目で彼を見る。


「……ああしたよ。状態は悪くない…それでいいんだよな…?」


「…ああ…君に感謝する。」


「…じゃあ…な」


ゲアルは通り過ぎる際に、ブレムの肩をポンと一度だけ叩いて…去って行った。





「…パ……パパ…?……どこ?」


ヨルアは…ブレムを探すようにして目覚めた。


腕を上げて宙を掻くような仕草をする娘の手を握り、


「ここにいるよ。…ヨルア…まだ点滴は終わってないから…腕をそんな風に動かしてはいけないよ。パパはずっとここにいるから…」


「…パパ…」


ヨルアは心から安堵したように…ブレムを見るなりニコッと笑った。


「何も…心配しなくていい…パパがヨルアを守るからな…」


「……」


ヨルアは握られている手を握り返し…なんとも嬉しそうな顔した。


ブレムは、ジョアナの行為に憤りはしてるものの、今の状況にどこか安堵もしてる自分に嫌悪感を抱き…


自分の複雑な心境をまだ上手く整理出来ないでいた…


「…直ぐ元気になるからな…ヨルアの笑顔が見れてパパも安心した。」


…そんな自分に信頼を寄せ、辛い中でも笑顔を見せてくれるヨルアの姿を見ると…なんとも胸が痛んだ。


「パパ…私はパパがずっと側にいてくれた事が分かったからもう大丈夫。だから…もう家に帰って休んで。私の事でろくに寝てないでしょう?」


ヨルアの笑顔は消え…ブレムの手を更に強く握った。


「…パパは…大丈夫だ。そんな余計な心配しな…」


「ダメ!ダメなの…ただでさえ…パパは無理し過ぎてるの。パパにはいつも笑顔で…元気でいて欲しいのよ…パパにもし何かあったら…それを考えたら…私…」


ヨルアはブレムの言葉を遮って、彼の手を両手で握り締めながら懇願するように捲し立てた。


「お、落ち着いてヨルア。点滴が漏れてしまうよ。…分かったから…でも今夜は帰らない。隣に付き添い用のベッドがある部屋をゲアルが勧めてくれてね…今夜はここに寝て、明日の夜は一旦帰る事にするよ。…さすがに今夜は戻っても心配で眠れそうにないから…それで勘弁してくれよ…」


ブレムは困ったように笑いながら、ヨルアの頭を撫でる…


「…ごめんね…パパ。…心配ばかりかけて…」


ここで…目覚めてから初めて…ヨルアは涙を零す…


「…そうだよ。学校から予定していた午後の授業にヨルアが出てないと…担任の先生から確認の電話があった時は焦ったよ。ヨルアのイヤーフォーンも繋がらないし…ヘレナさんに電話しても戻ってないって言うし…めちゃくちゃ心配したんだよ。でもね……僕からしたらヨルアは娘としてとても優等生だよ。それに心配するのは親の役目と思ってるから…まだしばらくは心配させてくれよ…」


ブレムはヨルアを慰めるように、何度も何度も…頭を撫でる…


…親…か…


「…ごめんなさい…」


ブレムの優しい眼差しを見つめると、ヨルアはまた涙が滲んで来る…


「…まだ夜は長いからね…ヨルアが眠くなるまで少し話をしよう。…まずは…前に写真を何度か見せたと思うけど、パパが仕事をしているヌビラナのいう星の独特で珍しい空の話をまたしようか…眠くなったら寝ていいからね。」


「…うん…聞きたい…」


…眠くなるどころか…麻酔が切れて痛みが強くなる事を予め予想し、ブレムは少し長い話を始めた。


実際、少しして痛みが強くなり…看護師を呼んで鎮痛剤を投与してもらって…ヨルアが再び眠りに就く頃には、空は白み小鳥の囀る声がしていた。


その間の2人は…ケビンや流れた子の事も…まして、こうなった状況を作ったジョアナの事には全く触れる事なく…


多少痛みに悩まされながらも、まるで10年前の…2人で暮らしていた頃に戻った様な…つかの間の幸せな時間をヨルアは過ごせたのだった。


そして、薄れて行く意識の中で…


…これからは…私がパパを守るから…ね…


と、彼女は誓うのだった。





流産の処置から4日後…


念の為、殴られたらしい痕跡のある腹部周辺の検査もしたが、異常は見られないという事で、ヨルアは無事退院した。


退院し、ヨルアは真っ先にケビンにお別れの手紙を書いた。


そして自宅で数日療養をしていよいよ明日、例の能力者の専門病院に入院すると決まった夕方に…


自室の机の目立つ場所に、ブレム宛の置き手紙を置き…少し河原を歩いて来ると言ってマンションの自宅を出たまま…


ヨルアは姿を消した。









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