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21 それぞれの支える形


カチャッ


ヒカに付いていた看護師がドアの開く音に顔を上げると、そこには意外な人物が立っていた。


「あ…おはようございます。今朝は随分とお早いのですね。」


「おはよう。昨夜エインシャから天候回復の知らせがあってね。そろそろだろうとは伝えていたのだが…後々の予定の事もあるので急遽テイホに戻る事になった。出発の前にこの子の様子を見届けて、叶うならばヨハ君とも少し話したかったのだが…いないようだね。」


セレスの能力者用のシルバーのローブを纏い、どこか古の神官を意識した様な彼独特の雰囲気で言葉を発しながら、イレンはヒカの枕元に近づいて来る。


「ええ…ヨハ先生は一度来られてヒカさん付いてらしたのですが、急用で今ちょっと…」


「…そうか…」


イレンは少し残念そうな表情でベッドサイドで少し屈み、ヒカの頰にかかっていた数本の淡く青緑がかったシルバーの髪を人差し指でそっと払って、ヒカの寝顔をジッと見つめる。


「…私がここで初めて治療に加わった時とは見違えるように顔に生気が戻ったね、運の強い子だ…」


…ヨハ君もこの子がここまで回復すれば安心して長老の後継の道へ進めるだろう…


と、イレンはこれからしばらく自分の仕事に影響が及ばないであろう事に安堵して、踵を返し退室しようとすると、


「あ、あの…長…お急ぎでなければ、15分ほどヒカさんを見ていて頂けないでしょうか…?」


「え?……どうして?」


イレンはなるべく帰り際に長老に出喰わしたくなかった。イレン自身も今後の事で長老としっかり話さなくてはならない時期が徐々に迫っていたが、まだ若干の迷いもあった。


今の時点で長老と話しても、自分が迂闊にやぶ蛇を突くような展開しか想像出来ないので、わざわざこんな早く立つようにしたのだが…


予定外の看護師の申し出に、イレンは若干動揺した。


「ヨハ先生はいつも明け方から交代の看護師が出勤して来る時間帯までずっとヒカさんに付いてて下さるので…私もちょっと当てにしてしまってました。先程、昨日届いた薬剤ケースを落としてしまい、中身が皆バラけてしまって…日勤の看護師と交代するまでに片付けて準備し直さなくてはならないのですが…、能力者さん達の治療が始まる前にヒカさんは幾つかの検査を済ませておく必要があり、この後はその準備に追われるのですが…まだヨハ先生は戻って来る気配が無くて…20…いえ15分あれば元に戻せると思います。すみませんが…その間だけお願いしてよろしいですか?」


「15分くらい側に居なくてもこの子はもう大丈夫では?状態はかなり好転したのだし…」


イレンも違う意味で少し焦ってはいたが、この質問は自然に出た言葉ではある。


「…ヨハ先生は優しい方ですが、ヒカさんに関しては妥協はありません。ご自身がヒカさんに付いている際はトイレで離れる時ですら必ず我々に声掛けをしてから行かれるのです。ヨハ先生が戻られた時に私がいなかったらどんな反応をされるか…私達がアテにならないと思われて御自分が夜通し付くとか言い出しかねません。そうなったら今度は長老やケイレさんになんと言われるか…」


話してるうちに看護師の表情には悲壮感が漂って来ていた。


「分かったよ。わ、私もあまり迎えを待たせる訳にも行かないからね…15分だけだよ。」


イレンの返答に若い看護師はホッと表情が緩んだ。


「はい、15分以内に必ず戻ります。すみませんがよろしくお願いします。」


看護師はイレンにお礼を言うや否やスッと立ち上がって慌ただしく部屋を出て行った。


「……」


イレンは眠るヒカの顔を改めてまじまじと見る…


仕事で様々な場所を巡っている彼だが、ヒカの様な容姿の人間は初めてで…ミアハ内の違うコロニーの者同士の婚姻は、色々な事情で少ないが存在はするし子供も生まれるが…ミアハ種族の混血の場合は父親の容姿や能力をそのまま受け継ぐ為、父親のコロニーで生活する分には混血の子が容姿が原因で周囲から浮いたりいじめられる事はほぼないと聞く。


イレンにとって、レノから少しずつセレスの人間に変貌しつつあるヒカの容姿はどこか神秘的に映り、ここ数日の間で特別な存在にすら思えて来てしまっていた。


この子にセレスの運命がかかっているという話や、実際に長老のこの子の扱いをこの目で見てしまうと、あながち噂だけの話ではない感覚をイレンも肌で感じていた。


「ヒカよ……」


[どうか元気になってくれよ]というイレンの心の声が少し漏れていた…


すると、思いがけずヒカの大きな瞳がパチっと開いた。


「あれ?…イレンさんだった…」


ヒカは少し意外そうな顔でイレンを見つめていた。


「おはよう、ヒカ。私の事は長と呼んではくれまいか…長老の事を名前で呼んだりはしないだろう?」


ヒカは相変わらずイレンをキョトンとした表情で見つめながら…


「おはようございます。長…」


と挨拶をした。


「…どうしてそんなに不思議そうに私を見るのだ?」


イレンの問いにヒカは少し悲しそうな顔になった…


「…遠くで色々な人の話し声がしてたから、起きなくちゃって思って…起きたら長しかいなかったから…。今朝はどうしてル・ダはいないのですか?長はル・ダの代わりにここにいて下さるのですか?」


「…長しか……か」


まだ完全に目が覚めていないようだが…率直なヒカの言葉にイレンは少し脱力した。


「…ヨハ君は今ちょっと用事が出来てね…すぐ戻って来るよ。まだ早いから、心配しないで寝てなさい。」


ヒカは不安げにイレンを見つめる。


「本当に?ル・ダは戻って来る?」


「本当だよ。私が信じられないかい?…君はヨハ君が大好きなんだね…」


ヒカは少しムッとして、


「学びの棟の子もマリュさんもナランさんも皆んなル・ダの事が好きです。ティリの人達も皆ル・ダ好きなんでしょう?私は弟子ですから好きに決まってます。ル・ダは優しいですから嫌いな人なんていません!」


と、イレンを強く見つめてまくし立てた。


「…いや、そういう…」


なんだか会話が噛み合ってない事を感じたが、意図を改めて説明するのも面倒なので、話の方向を少し変えた。


「まぁとにかく、君が元気になって本当に良かった。君は数奇で希な体質を背負って生まれた故に、今後も辛いと感じる事は恐らくあるだろう。…だが、そういう身体に生まれたからこそ、長老やヨハ君や他にも素晴らしい人達と過ごせる幸運にも巡り会えたとも言える。だから君は今もこうして生きていられる。…それは分かるかな…?」


唐突にシビアな話をされ、ヒカの表情がやや固くなる…


「…はい…分かります。」


イレンは神妙な表情をするヒカの額にそっと手を置いて…


「君の周りにはとても優秀な人達が集まっていて、君を助けようと必死に頑張っているんだ。きっと君は今の困難を乗り越えられると私は信じているよ。そして、元気になったら立派な能力者となってセレスを助け、長老やヨハ君に恩返しをしておくれ。いつか同じ能力者として君に会える事を楽しみにしていよう…」


「……」


ヒカが倒れてからずっと近くで世話をしてくれた人達があえてしなかったヒカの現実的な未来の話を、目覚めるなりイレンから唐突に突き付けられたようで…ヒカの気持ちは急速に沈んで行った。


「…長老やル・ダや…今までお世話になって来た人達や、セレスの為に私が役に立てる事は…セレスの能力しかないですから…そうなれるように一生懸命頑張ります。」


…漠然と捉えていた自分の身体や今後の事…いずれ訪れるであろうヨハとの師弟生活の終わり…いや…そもそもこんな身体になった自分は能力者になれるのだろうか?と、色々な不安が浮上してしまい…ヒカはどんどん落ち込んで行った。


「…君の活躍を期待しているよ。…でもまず今は元気にならないとだな。それは私を含め皆が願っている事だからね。頑張ってくれたまえ。…眠っているところを起こして済まなかったね。」


「…いえ…」


イレンはヒカの額に手を置いているせいで、彼女の落ち込みに気付いていないようだった。


イレンが手をゆっくり離すと同時に、看護師が部屋に入って来た。


「長、ありがとうございました…って、あれ?ヒカちゃん、もう起きていたの…おはよう。」


薬の件は無事解決した様で、看護師の表情は少し余裕が戻っていた。


「私がこの子を起こしてしまった様だ。すまないね…では、私はこれで失礼するよ。」


イレンは立ち上がり、ドアに向かう…


そしてドアを開けるとヒカの方を一度振り返り、空いている左手を少し挙げた。


「ヒカ…またいつか会おう。」


と言って、彼らしくサッと優雅にローブを翻し去って行った。


「……」


「…なんだか落ち着かない朝ですね。ヨハ先生が急に出て行ったと思ったら、入れ替わるように長が唐突にいらして…。まだ朝食までは時間がありますから眠って……って、え?…ヒカ…さん?…」


看護師がイレンの閉めたドアからゆっくりヒカに視線を移すと、ヒカは泣いていた。大きな瞳から流れる涙を拭おうともせず、悲しげな表情で天井を見ていた。


「ル・ダは…戻って来る?……」


夜、眠るまではいつもの様に笑って側に居てくれたのに…朝目覚めると大切な人は居なくなっていた…


似た様なことが前にもあったような…?


ううん…それよりも…


ル・ダは…いつも自分の側に居てくれる事がいつの間にか普通の日常になっていた…


けど、それはイレンの言うように当たり前の事ではない。


あの人は長老の後を継ぐと言われている人で…いずれ…


「……」


私はいつまでル・ダの側にいられるの?


いや、その前に私はいつまで生きられる?


こんな風になってしまった私の身体の事…まだ誰も…ちゃんと説明してくれない…


「ル・ダはどこに行っちゃったの?…ル・ダは……」


今まで無意識に見ないようにしていた、ル・ダがいない事が普通になる未来の日々考え出したら…


ヒカの心に表現し難い辛い思いが一気に膨らんで来て…


感情が制御不能になって行く…


「ル・ダは…?…ル……わぁ〜んっ」


看護師に背を向けるように身体を捩り、両手で顔を覆いながらヒカは号泣する。


込み上げて来る涙と声はもう、どうにも抑えられなくなっていた。


「ル・ダがいない……ル・…あぁ〜ん……ル・…ダ…ヒック…」


ル・ダを呼ぶ声は病室に響くが、切望する人は一向に現れない…


「ヒカちゃん、落ち着いて。ヨハ先生はすぐ戻って来ますから…どうしてそんなに悲しいの?」


急に泣き出し…しかも幼児のように声を上げて大泣きするヒカの様子に看護師は困惑しながらも、とにかく落ち着かせようと、向けられたヒカの背中に手を当ててゆっくりさする…


「先生はすぐ戻りから…大丈夫、落ち着いて…1度深呼吸しましょう。」


「……」


…少し落ち着いた…かな?

と、さすっていた手を止めようとした時…


ヒカの身体がピクッと大きく動き、顔を覆っていた手が急にベッド脇の落下防止の柵まで伸びて、


「ル・ダを探す。」


と言いながら、起き上がろうとジタバタ踠き出す。


看護師は予想外の動きに慌て、咄嗟にヒカの肩を掴む。


「危ないですよ!待っていればヨハ先生はすぐ戻って来るから…ヒカちゃん落ち着いて。」


まだ誰かの補助が無ければ1人では歩けない上に…こんな取り乱した状態で無理に歩いたらケガをしてしまう…この子は一体どうしちゃったの?


今の時間、この階にいるのは自分と少女だけ…少なくとも朝食の準備まで部屋を訪れる者は他にいないだろうし、隣の医療スタッフの詰め所も今はまだ誰もいないし…こんな状態では助けも呼びに行けない…


あぁどうしよう…


看護師もパニックになりそうだった。


先生、早く戻って来て!





一方…


ヨハはヒカの両親の見送りを終え病室に戻ろうとした直後、思わぬ人物に足止めを喰らっていた。


「…君はたしか……こんな朝早く僕に何の用ですか?」


微笑みながらも彼を見つめるその人物は…目は微かに怒りの炎を宿し、決してこれから楽しい会話が始まる様な雰囲気ではなかった。


そもそも、挨拶もなく急に腕を掴まれ、強い力でヨハはこの一部スタッフが休憩室代わりに使用している小会議室に引きずり込まれた状況だった。


「無礼はお詫びします。どうしても貴方様にお伝えしたい事がありました。」


と、その人物はヨハの腕を掴んでいた手を離し、左膝を突いてその上に右腕を乗せるポーズをとった。


ミアハにおいて立場が上の者に対して行う儀礼的な挨拶だ。


「私はケイレ様の後輩弟子のジウナと申します。まだ自立前の身ゆえ、こちらでは名乗らずにケイレ様に追随しておりました。この無礼の罰は後日甘んじて受ける覚悟でございます。」


確かに…


見た感じはヨハとそれほど変わらない年齢に見える少女ジウナは、この研究所で初めて見かけた時から極力自分の気配を消すかの様に、常にケイレの後ろで粛々と作業している様子だった事をヨハは少しずつ思い出していた。


あまりに唐突で強引な行動をとっておきながら、今度は恭しく挨拶をするこのケイレの後輩弟子にヨハは戸惑いながらも、厄介事に巻き込まれた心境でジウナに冷ややかに反応する。


「で、貴方の用件はなんでしょう?早くヒカの病室に戻りたいので、話は手短かに。」


ジウナは片膝を突いてヨハを見上げたまま、話し始める…






「あぁもうっ…」


ヨハは階段を必死で駆け上がる。


あの娘…かなり思い詰めたような表情をしてたから、とりあえず言いたい事はあらかた話させたろうから…気が済んだかな?


対応に追われ、気付けば病室を出て1時間以上は経ったか…


とにかく強引に引き止めた理由を聞き、慌てて会議室を出たヨハはひたすら階段を駆け上がる…


看護師には、ほんの少し外すような感じで告げて飛び出してしまったから…


心配してるかな?


いや、怒ってる…?


自分のいない間の病室の様子が想像出来ず、ヨハは焦っていたが…


「……?」


階段を登り終えたところで予想もしてなかった光景に出くわす。


「あ、ほら、先生が戻って来ましたよ。」


看護師の声と共に、ヒカが彼女に支えられて廊下に立っている姿が目に入った。


「…何…してるの…?」


右脇からヒカを担ぐような体制でガッシリ支えている看護師は、ヨハを見て心底安堵し、


「あれから程なくヒカさんが目覚めて、先生を探しに行くって泣かれて大変だったんです。ほら、ちゃんと戻って来たでしょう?」


と看護師もホッとしたようで、ヒカに笑顔で話しかける。


ヒカは何も言わず、泣き顔でヨハを見ていた。


ヨハは2人の元へ慌てて駆け寄る。


「せっかく良くなって来たのに、無茶したらダメじゃない……か…⁈」


困惑したヨハがヒカを嗜める言葉をかけている途中で突然にヒカに抱きつかれ…彼は固まる。


「ル・ダはまた知らない所へ行ってしまったかと…怖かったの。うわぁ〜ん…」


ヒカはヨハに抱き付いて、再び泣き出した。


それはまるで…


かつて、育児棟で彼が来るのをいつも待ち侘びていた幼い頃のヒカのようだった…


「……」


「…ヨハ先生…?」


ヨハは言葉を失い、固まったまま…不覚にも目に涙を浮かべていた。


心配そうに看護師がそっと彼の背中に手を置くと、ヨハはハッと我に返る。


「ヒカ…僕はもうどこにも行ったりしないよ。身体が冷えるから部屋に戻ろう…」


ヨハは努めて平静を装い、声を掛けながらヒカをサッと横抱きにして、そのまま泣いている少女をベッドに運んだ。


ヒカは横たえられてからずっとヨハの手を握って離さず、何も言葉を発しないままグスグスと少しの間泣いて…間もなく眠りに着いた。


その間のヨハは声をかけられず…眠りに落ちていくヒカを見守っていた。


側で様子を見ていた看護師と簡単に経緯を報告し合い、想定外の対応をさせてしまった事を彼女に詫びた。


「ヒカの予想外の行動にあなたもかなり焦ったでしょう…?遅くなってしまい本当にすみませんでした。また眠ったようですし、僕ももう出て行くような用事はないですから、どうぞゆっくり…これからの準備をされて下さい。」


「目覚めたら私やヨハ先生ではなくイレン様だったからビックリしちゃったんでしょうかね…先生の部屋が近かった事もあり私もつい油断してて…万が一の為にせめてイヤーフォンは常備しておくべきだったと、あの時は後悔しました。ここにはナースコールはないですし…病院のつもりでいたら不測の事態に困る事もありそうですね。よい経験になりました。これから来るスタッフにもここからの緊急連絡経路の問題は伝えておきますね。では、」


看護師はヒカが急に感情を爆発させたような一連の行動の事はあえて触れないまま…軽く一礼をして部屋を出て行った。


「……」


病室の時計を改めて見て、ヨハは軽く溜め息をつく。


まだ6時前か…


ヒカの両親の複雑な心情…


ケイレの後輩弟子ジウナという…ティリの若き治療師の視点からの警告という名の抗議…


そして…


さっきのヒカはなんだったんだ?あの雰囲気はまるで…育児棟にいた頃の…いつも不安そうにしていた幼いヒカに戻ったようだった…


命の危機に瀕した事で記憶が戻ったのか?


ヨハはぶるんと頭を大きく左右に振る。


いや…今はとにかくヒカの身体の快復の方に意識を集中しよう。今日は早朝から色々ありすぎて…感情が整理し切れない…


生命の危機は脱したとはいえ、ヒカの治療が手探り状態で続いている中で、今朝のヒカの様子は一瞬ヨハを歓喜の光の中に誘ったが…


この状況でのぬか喜びは今のヨハにはキツいダメージに思え、彼は今しがたの場面は意識的に思考の脇に追いやった。


「……」


眠りながらも離そうとしないヒカの手の温もりを感じながら、愛らしい眼尻に今も滲む涙をそっと指で拭い…


ヒカの為の今日一日の歯車が動き出すのをヨハは静かに待った。






「やっと…眠ってくれたか…」


神殿の中…やや鎮痛な面持ちで椅子に掛けているタヨハとエンデ…


「結局、あの男には逃げられ…素性は掴めなかったか…」


そう呟くタヨハの、テーブルの上に置いた拳に力が入り過ぎて、両腕には血管が浮き…微かに震えてもいた。


「いや…掴めたも同然です。橋に通りかかった車に乗って奴は逃げたそうですし、車のナンバーからは何も特定出来ずですから…、逃げ去った時のあの手際の良さは…男は割としっかりした組織の駒にされてるのでしょう。川辺での僕とのやり取りの中でも色々と見せて貰いましたから、情報的には収穫はありました。しかし…」


「くっ…」


タヨハは爪が食い込む程に握り締めていた拳をテーブルに叩きつけ……目に涙を滲ませながら震えが止まらない…


「なぜそこまであの子の心をもて遊ぶのだろう?あの子が彼らに何をしたっていうんだ。あの子は…また振り出しに戻ってしまったかのようだ。あれも…例の女性のさしがねなんだろうか…?」


そんなタヨハの震える拳に…エンデはそっと触れる…


「…多分。…そしてあの男の命はおそらくもう……走って行った先の森のような場所に置いて行かれて獣に襲われて…その先の未来が見えて来ないんです。奴はカリナにとっては駒でしかないようでしたが、男は様々な犯罪に手を染めていて…ミアハの子供達や女性の連れ去りに関しても複数絡んでいます。そんな男の為にあなたが拳を痛める必要は全くない。あいつをわざわざ送り込んで来たカリナは、こちらの警備状況の把握と…彼女のトラウマ的存在を遭遇させて、記憶と能力の再覚醒を狙ったようです。」


「…その例の女性は…どんな子ども時代を過ごしたのだろう…?…どんな心持ちでいたら…廃人のようにまでなって、やっと自我を取り戻し始めたあの子をここまで…」


俯くタヨハの目からは滝の様に涙が溢れ落ちる…


「…彼女は…今のタニアちゃんより少し若い頃に…絶望の中で子どもを堕していて…それからずっと、薄暗闇の中を歩いているような心理状態です…」


エンデは慎重に言葉を選びながら…声を絞り出すように答えた。


「…そうか…絶望とは本当に恐ろしいモノだね。…エンデ君、すまないが…少しの間あの子を見ていてくれないか…?このままだと私は……頭を冷やして来るよ。」


と言って、タヨハはゆっくりと立ち上がる…


「分かりました。」


エンディは途中まで付いて行き、彼を見送る…


「…タヨハさん。」


外に出ようとドアに手を掛けるタヨハの背中に向かって、エンデは声をかける。


「…またしばらく大変な日が続きそうですが…タニアちゃんはきっと立ち直れます。将来はしっかりと自分の力で人生を歩み、あなたを支えようとする未来が見えます。僕にはそれが見えるんです。僕もお手伝いしますから……どうか、どんな時も…それを覚えていて頂きたいんです。」


「……」


エンデの言葉を背中で聞きながら…ドアノブを持つタヨハの手は少し震えていた…


「……全く…また許可を得ずに見たんだね…」


「すみません…」


「…でも、君がいてくれて…本当に良かった。…心から思うよ。ありがとう。」


と言い残し、タヨハは外に出て行った…


彼は神殿の前の木にもたれ掛かり…しばらく泣いていたようだったが、やがて「ウォーッ」という叫び声が遠くから何度か聞こえて来たので、エンデは耳に手をやり…


「あ、夜分に失礼します。今聞こえている叫び声はタヨハさんですが、ほぼ心配ありません。…ただ念の為にどなたか1人、彼から見えない位置で無事に神殿に戻るまで様子を見ていてもらえますか?…はい…よろしくお願いします。…タニアちゃんは…なんとか落ち着いて来ました。それでは…」


「………」


…ここからが本当の正念場ですよ、タヨハさん。


私も頑張りますから…どうか…踏ん張って下さいね。


今は静まり返っているタニアの寝室の方を、エンデはジッと見つめる…


「……」


タニアちゃん、君はもう…安心していいんだよ。


どうか、タヨハさんや僕を信じて…


今の君はタヨハさんの深い愛に包まれている…


独りぼっちじゃないんだよ…


偽物に惑わされないないで、どうか…あの人の愛情を疑わないで…


どうか…


そして彼は徐に立ち上がり、間もなく夜風で冷え切った身体で戻って来るであろうタヨハの為に、ミルクを温めに台所に向かうのだった。






「イレン様。」


「…ここで何をやっている?先日の儀式中止で君の任務は終わっているだろう?新たな任務地はここではないはずだ。」


イレンがミアハから車でテイホ国へ出て、半日かけて電車でエインシャの駅に到着すると…ゼリスが心配そうに彼を出迎え、彼はやや困惑した。


イレンの若干咎めるような口調にもゼリスは怯む事なく、


「イレン様が心配だったからです。無理を言ってここに留まり、天候を気にしながら再来をお待ちしておりました。」


「…弟子に心配されている私は一体……」


師である長老セダルに怒られ…弟子のゼリスからは…まだ理由はよく分からないが心配されて…


イレンはガックリと…移動の疲れが一気に出て来たような気分になって、荷物を置き…思わず近くの柱に身体を預けるように寄りかかった…


「イレン様、ご安心下さい。イレン様のようなタイプの方は能力者の中には割とおられます。だから、私は貴方様をお支えする為にここいるのですから…」


少し落ち込んでる様子のイレンを慰めるようにゼリスは彼の背に手を当て、そう告げる。


「…ゼリス…君は確かに優秀だが…もう君は自立していて任務も順調にこなしている。こんな事で任務を放棄していたら、そのうち君は能力者として活動出来なくなってしまうぞ。私は弟子のそんな未来は望まないし…そもそも元弟子の助けなど必要とはしていない。」


ゼリスの気持ちはありがたいが…弟子には情け無い姿は見せたくはない。弟子を持った経験のある能力者なら、それは誰でも思う事だ。


イレンは自分が更に情けなく感じ、ゼリスに背を向けてしまう…


「…私もこのような勝手は滅多にするモノではないと承知しております。けれど…イレン様は先日、私が止めるのを振り切ってミアハに向かわれてしまいました。きっと長老に何かご意見があって向かわれたのだと思いますが…」


「……」


イレンはゼリスが何を言いたいのかを大体察し、背を向けたまま沈黙してしまう…


分かっている…


自分でも余計なお世話だった事くらい…


「…私は分かっております。後輩の能力者や元老院の人間からミアハの不安を漏らされたら…間に受けて長老に伝えようと頑張ってしまう事は、イレン様の長所です。間違ってはいません。けれど…」


「分かっている…いや、正直言うと後で気付いたんだ。あの方の側にはハンサ君がいる。彼ならそつなく振る舞いながら周囲の考えを吸い上げ、上手く整理してあの方に助言が出来るし…何より、元老院なら、会議の場で意思表示は私より上手く出来るだろう…ってな…」


なんとも弱々しく語るイレンの背中を一度離し、再び優しく触れながらゼリスは、


「…だから…以前も申し上げましたが、私がハンサさんの代わりにイレン様を支えます。何か周囲の方がイレン様に言って来たら、この私を…もっと使って下さい。貴方様のミアハを思う気持ちは、このゼリスがよく分かっておりますから…でなければ、長老は貴方様を長になど据えないでしょう。」


「…そうかな…そう思うか?」


必死に自分を慰めるゼリスの方へイレンはゆっくりと向き直る…


「勿論です。イレン様の使命感は素晴らしいです。」


色々と危なっかしい振る舞いはあるが、その点は心から思う事なので、ゼリスは少しだけ声が大きくなってしまう…


「…だからイレン様は…任務に集中しましょう。ヨハ君とヒカちゃんの事は、長老やハンサさん…そして、元老院に任せておけば良いのです。例え細波が立ったとしても、彼等が上手く対応するでしょう…」


「…そうだな…」


「以前、ゴタついた時に長老はそんなイレン様を受け入れて長にされたのですから…それでいいんですよ。それでも、今後困った状況になったなら…私がハンサさんのようにイレン様を守りますから…どうか1度冷静になって私の話を聞いて下さいませ…」


「…君は…本当に…私が落ち込むくらい優秀な弟子だな…」


ゼリスの温かい励ましの言葉が沁み過ぎて、思わず目が潤むイレンだった。


「…長である貴方様が私を弟子にして下さった事で、私を見る男性能力者の目も良い意味で変わりました。長が私を弟子として迎えてくれなかったら今の私は無いとさえ思います。…だから…少しずつ…このご縁は返させて下さい…」


そうなのだ…ゼリスは能力者を目指してル・ダを求めた時、その時に暗黙のうちにほぼ内定していた女性の能力者はやや年齢がいっていた事もあり…体力的な問題で能力者を引退宣言した為、同時に彼女との師弟関係は不成立となってしまい…ゼリスが途方に暮れていたところ、イレンが自分の弟子にどうかと長老に打診してくれたのだ。


以前からゼリスには会う度に声をかけてくれたイレンだった事もあり、ゼリスは当時は本当に彼の申し入れが嬉しく、その時の感謝の気持ちをいつか形にして返そうと、ずっと心に秘めていた事だった。


都合が良いことに彼の社交面の拙さをゼリスは上手くカバー出来る自信があった。


彼も年齢的にそう長く能力者として活動出来る訳ではないだろうとゼリスは思っていて…多少の無理をしてもイレンのフォローをして行こうと、ゼリスは勝手にそれは自分の使命とも思っているのだ。


「…そんな事…私は一応は長だからね。後継者を育てて行く事も大事な仕事と思っている。君はいつか長となっても申し分ない資質を持つ子だと私は思っているよ。だからこそ…私は師匠として君の足手纏いにはなりたくない…それは、それだけは分かってくれまたえ…」


「…分かっているつもりでしたが…そうですね。イレン様になるべくご心配をかけないよう、恩返しをさせて頂きます。」


ゼリスは明るく言い、イレンが一旦手放した彼の荷物を持ち上げる。


「だからそんな心配は…って、あっコラ、私の荷物だ。君の気持ちは分かったから、もう戻りなさい。」


スタスタと荷物を持って歩き出すゼリスを慌てて追いかけるイレン…


「はい、戻りますよ。明日の儀式が終わり次第、セレスに戻ります。」


「だ〜か〜ら〜ゼリス…君には君の任務が…」


一見、困っているようだが…よくよく見ると少し嬉しそうなイレン…


「…大丈夫です。イレン様はセレスであの子の治療に参加されてましたよね?だから、ダメ元で長老に任務の一部変更を昨日申請したら、イレンに感謝していると伝えてくれと…良い回答と共に伝言を頼まれました。…彼には少し言い過ぎたとも…だから、大丈夫なんですよ。」


「え……」


ゼリスの口から長老の意外な言葉が出て…イレンは絶句する。


「……」


イレンが黙ってしまったので、ゼリスは気になって振り向くと…


「やだイレン様…感激で泣いておられます?」


ほんのり目を潤ませているイレンをゼリスはちょっとだけイジる。


「な、そんな訳ない。は、早く行くぞ。」


泣き顔を見られたくないのか…イレンは急に早足となり、ゼリスを追い越してどんどん先に歩いて行ってしまった…


「ふふ…イレン様…ああいう所…本当に可愛い…」


聞こえるとまたムキになりそうだから、ゼリスは小声で呟き…イレンに追いつく為に徐々に早足になる。


イレン様との時間は私の大切な宝物…


「……」


ゼリスの心にはまだ少しだけ疼く過去の苦い思い出があり…あの少年の親にも…あの忌まわしい出来事をなかったように通り過ぎようとしてる長老にも…モヤモヤする部分が彼女を落ち着かせない気持ちにさせるのだが…


大切な師イレンの為に、改めて、当分その部分は封印する事にしたゼリスだった。







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