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20 治療と…悪夢の再会


「長老。」


イレンとの話を終えて廊下に出ると、再び背後から声をかけられる。


今度も聞き覚えのある声だが、長老にとっては信頼感のある声だ。


「やれやれ…今日はヒカの部屋には中々辿り着けなさそうだな…」


長老が振り向くと、ざんぎり頭でセレスの人間にしてはやや身嗜みに無頓着な男…長老の秘書兼補佐役のハンサがいくつかの書類を手に立っていた。


「?…何か言われましたか?」


「使命感は認めるがややストレスの溜まる…いや、なんでもない。直後にバランスの良い考えと行動力を持つ君に会えたのは幸運だったということかな…」


「?…はぁ…」


キョトンとするハンサ…


ハンサはイレンよりやや下の世代ではあるが、セレスの能力がもう少し強く能力者としての実績があれば、イレンを差し置いて長にしたかった程の頼りになる男だが…長老としてはもうちょっと身綺麗にして欲しいと感じる時もある。


が、長老の身嗜みに細かく指摘して来た彼以前のやや神経質な秘書よりいいかなと…そのくらいは気にしないようにしている。


「いや、いいんだ、こっちの話。で、待望の客人達はご到着かい?」


ハンサはやや困った顔をして、2人のいる廊下の少し先にある応接室をチラチラ見ながら…


「…はい…到着はされているのですが…例のご夫婦は…とにかく早く病室へ行きたいとの強い要望がありましたが、治療の内容と段取りの説明の為になんとか応接室に待機して頂いております。ですが…例の治療師の指定した今回の治療用の特注マナイも届いていない状況です。とりあえず直ぐ皆さんに会って頂いた方がよろしいかと…」


ハンサは、長老がイレンと話をしてる間に色々と対応に苦慮していたようだった。


「…そうだね…肉親なんだから一刻も早く瀕死の娘に会いたいだろう…」


長老は言い終わらない内にスタスタ歩き出し、応接室のドアを開けた。





長老が今日の為に呼んだ4人を連れてヒカの病室へ向かうと…


ヒカのいる病室のすぐ脇のクリーム色の壁に背中を預け腕を組んで俯いていたヨハは、人の気配に気付いて顔を上げる。


「まだ診察中なのか?」


と長老が問うと…


「ええ…まもなく終わると思います。」


とヨハは答えた。


すると、そのやり取りを聞いていた長老のすぐ後ろにいた女性が、


「え…どういう事なの…?あの人は確か…」


と、小声で言っているのが長老やヨハの耳にも届いた。


そうこうしている内に病室の扉が開き、医師らしき1人と看護師らしき2人の女性3人が、小型の検査機器らしき物を移動させながら退室して来た。


そして、雰囲気が少しナランに似たふっくら体型の医師らしき年配の女性が、


「ヨハ先生、特に問題はありませんでした。念の為、子宮内部の映像は後ほど見て下さい。」


と、報告をしていた。


「ありがとうございます。」


と、ヨハが一礼し、女医も会釈して去ろうとした時、


「あの…ヨハ先生ですよね?これは一体どういう事でしょうか?貴方がヒカの主治医で、ヒカの身体の事は全て診ておられると伺ってますが…こんな大変な時なのに、貴方はどうしてあの子の診察に立ち会わないのですか?」


「止めるんだエイメ。こんな時に…」


隣にいた夫らしき男性がヨハに噛み付いたエイメを諌める。


「…こんな…こんな時だからじゃない…」


と、諌める男性の腕を軽く振り払い、その女性はハンカチで目頭をおさえる。


と、ちょうど二人の側を通り過ぎようとしていた女医がエイメの前で立ち止まり、


「ヒカさんのお身内の方ですね。私は婦人科医のフィナと申します。…ご心痛をお察し致します。ただこれだけは言わせて下さい。ヨハ先生はお若いですが信頼できる方です。この件は私でよければ説明させて頂きます。病室の隣に待機しておりますので、いつでもお声掛け下さい。」


と言って、会釈をして隣室に入って行った。


「……」


昂ぶった感情は少し収まったものの、まだ気持ちをどう整理して良いのか分からないエイメだったが…


気が付くと彼らの側までヨハが来ていた。


「ヒカのご両親ですね。突然の事に治療のご協力まで頂き感謝致します。不安な気持ちにさせてしまって申し訳ないです。今日の治療が済みましたら、改めて僕か…」


「ヨハ!」


いつもより大きく、ヨハの名を呼ぶ長老の声にその場にいた者達は皆ビクッとなり、一斉に長老の方を見る。


「…そうやってなんでも1人で抱え込むなと言ってるだろう。これは最終的に私が許可した事だ。必要とあらば責任の所在も含め私が2人に説明しなくてはいけない事だよ。」


そして、ヒカの両親の方に向き直って…


「すまない…君達には私が先程説明すべきだった。今日の治療後に私から詳細を話すから、どうか今は私に免じてこの場は収めてくれ…」


と、両親には穏やかにゆっくりとしたトーンで話し、長老は頭を下げた。


長老に頭を下げられる展開を予想もしてなかったエイメは慌てふためき、涙も引っ込んでしまった。


「いや…あの……長老、頭を上げて下さい。私も感情的になってしまって……申し訳ございません…」


と、しどろもどろになって彼女が応えていた時、


「あの…お取り込み中に失礼します。」


と、今、通って来た廊下の方から声がして、その場にいた人達の視線が今度は声の方に集中する。


声の主はハンサだった。


「長老…マナイが到着しました。」


彼の一言でその場の空気が変わった…


「まぁとにかく、ここでいつまでも話し込んでる場合ではありませんね…早く治療の準備を始めませんか?」


と、その集団の中でやや大柄で温和な雰囲気を纏ったティリの女性がその流れに乗って皆の入室を促す。


「そ…そうよね…その為に来たんですもの。」


と、バツの悪そうにしていたエイメもそもそもの目的を思い出し、部屋に飛び込むような勢いで入って行った。


そして、マナイの入った箱を持って集団の最後尾で入室しようとするハンサの方を長老は振り返り、「助かったよ」とばかりに軽く目で合図をした。




「ヒカ!」


エイメは誰より早く病室に飛び込み、真っ青な顔色で目を閉じて横たわるヒカの枕元に縋り付いた。


「この前見た時はあんなに元気だったのに…あれから半年も経ってないのよ…ヒカ、ヒカ…」


ヒカの頬を何度も優しくなでるエイメの目からはポロポロと涙が流れ落ちた…


「?……ヨハ先生…?」


先程皆に入室を促したティリの女性が、ヨハの側を通った直後にピタッと動きを止め、彼の方に向き直り声をかけて来た。


「なんでしょうか…?」


ヨハは微かに嫌な表情を浮かべたが、即座に彼はポーカーフェイスでその女性の方を向いた。


「失礼、私は治療師のケイレと申します。通話では何度かお話ししておりますが、お会いするのは初めましてですね…」


ケイレは軽く一礼して、ヨハの頭から足の先までをゆっくりと見回した。


「電話の中でもお話したかと思いますが、先生の能力の高さは様々な場所で聞き及んでおります。実際にこの少女の容態を拝見し改めてあなたの見立ては正しかった事を確認しました。評判通りの方と感じました。しかし…あなたは今日はこの少女の治療に加わるべきではありません。」


ケイレの言葉で部屋の中は静まり返る。


「それは何故だい?ケイレ。」


すかさず長老が二人の間に割り込んで来る。


ケイレは不快な表情を露わにしたヨハから視線を離さず…ヨハの目をジッと見つめる。


「ヨハ先生…おそらくあなたは昨日から丸一日、食事も睡眠もろくに取らずに治療をし続けましたね?そんな無茶を続けたら…死にますよ。」


周囲がざわつき始める…


ケイレはここで初めて長老の方を向き、


「長老、この方は今日は治療を行える状態ではありません。治療に必要なエネルギーがギリギリの状態で…既に貧血と鬱症状が出ています。ヨハ先生の代わりの方を至急お願いします。」


「僕は大丈夫です。過去にも夜通しでヒカを治療した事もあります。こう見えて頑丈なので…ご心配をかけてすみません。」


と、ヨハは笑みを浮かべ、治療の準備を始める。


「…いくら丈夫でも限界はある。過去に倒れて3日も目覚めなかった事もあるだろう…」


長老は箱からマナイを出すヨハの動きを見つめながら指摘する。


「僕はヒカの主治医であり師でもあるんです。こんな時に倒れてなんかいられません。大丈夫です。皆さんはどうかお気になさらず、そのまま準備を続けて下さい。」


準備を続けようとするヨハにケイレは言葉を続ける…


「…セレスの方々が地を癒す場合と違い、我々ティリの能力者の人への治療の場合は殆どのケースでエネルギーを奪われたまま治療を終えますので、能力者の長時間の治療は禁止となっています。今のあなたでは僅かな力しか出せないし、この後あなたが倒れしばらく動けなくなる可能性は高い。今日だけは他の人に変わった方が…」


「とにかく!今僕はとにかくヒカを救いたいんです。やれる事は可能な限りやらなければ…お願いですから、皆さんの不安を煽る事は言わないで。」


準備する手を休めず、ケイレの言葉を遮るようにヨハが声を荒げる…


こんな風に露骨に…しかも人前で感情的になるヨハはかなり珍しい…


「……」


それだけ…ヒカの命の危機にヨハの心も追い詰められているということか…


ヒカの事となると頑として譲らない彼の性格を考えると、ヨハは引かないだろう…


かと言って、ヨハの代わりが出来る者は今すぐ補充出来るものでもないし…


長老もどうしたらいいか答えに窮していると…


「…ん…」


と、微かにヒカの声が聞こえた。


側にいたエイメがヒカの手を握って声をかける。


「ヒカ、私の声が聞こえる?…目を開けてごらん…」


隣にいた父親らしき男も、


「ヒカ、ヒカ…」


と声をかける。


「…お兄ち………、ヒ…がん……る…が…る……ら…」


誰かに話しかけている…?うわ言?


エイメには分からなかった…


「お兄ちゃん?…て……?」


「…ヒカは小さい頃はお兄ちゃんお兄ちゃんといつもヨハに付いて回っていたからね。眠っていると今でも時々小さい頃のヒカが出て来るそうだよ。」


エイメの問いを長老が受けて説明しながらヨハの方を見ると…


「……?!」


ヨハは顔を歪め、目に涙を溜めていた…


そしてベッドに近寄り、


「ヒカ、これからヒカが元気になる為の治療をするんだよ。僕はずっとここにいるから…君は絶対元気になれるから…一緒に頑張ろう…」


ヨハは声が震えそうになるのを必死に抑え…勤めて明るくヒカに声をかけた。


「…ん…ヒ…が………る…」


ヒカはヨハの言葉に反応するかの様に目を閉じたまま微かな笑みを浮かべ、そのまま声を発しなくなった…


目を潤めていたヨハだったが、再び感情の読めない表情に戻り、


「治療の為の準備を…皆さん、よろしくお願いします。」


と、マナイの箱の場所に戻って皆に頭を下げる。


その時、


…コンコン…


ノックの音に皆の視線が今度はドアに集まる。


ドアはゆっくり開き、入って来たのは…


イレンだった。


「お取り込み中に失礼します。私はセレスの長のイレンと申します。こちらではこれから大掛かりな治療行為が行われると聞きました。私で何かお手伝い出来る事があればと思い、お伺いしました。」


と、彼は皆に向かって恭しくお辞儀をした。


「私もそちらのケイレさんほどの力はありませんが、お手伝いします。」


と、先程の女医のフィナがイレンの後から入って来た。彼女は診療と共に能力者としてある程度の治療も出来る人だった。


長老がふと見ると、イレンとフィナの後ろでハンサが軽く目配せをしてスッと居なくなった。


恐らく…ケイレがヨハの問題を指摘した時点で人知れず退室し、隣室のティリの医療スタッフ達や下でウロウロしていたイレンに声を掛けて回っていたのだろう…


…助かるよ…


「ああ2人とも…本当にいいところに来てくれた。今日はヨハのコンディションに問題があるようなのでね…。イレン、君はヨハの隣で彼と同じように対応してくれ。」


長老は2人を歓迎し、イレンをヨハのいる場所へ誘導する。


ケイレはまだヨハに何か言いたそうな様子だったが、準備を手伝い始める。


大人の親指ほどの大きさの五角錐のマナイが、ヒカの身体の周囲を囲むような配置で尖っている方を彼女の身体に向けた状態で沢山並べられて行く…


大きめのクッキーぐらいのサイズの円形で平たいマナイは、ヒカの7箇所のチャクラの位置に置かれる。


マナイはエネルギーの浄化やバランス調整と共に癒しの力の増幅作用もある鉱物で、セレスの北側に位置するエルオと呼ばれる小さな丘の地下のみに存在するのだが、不思議な事にマナイによる癒す力の増幅作用はミアハの者にしか現れない。ミアハの為のみに存在してるような石で、ミアハの人々…特に能力を使って仕事をしている者には必要不可欠なアイテムでもある。


マナイの配置が決まると次は、ヒカの頭頂部の位置に長老、下腹部の両側の左にケイレ・右に彼女の弟子と女医が立つ。


そして、ヒカの足の裏側の位置にイレンとヨハ、足首辺りの両側にエイメと夫のリュシが立つ。


皆がそれぞれ指定の位置に立つと、この治療の中心的存在のケイレが皆の微妙な位置調整を行い…


「では皆さん、それぞれの場所から軽くヒカさんの身体に直に触れて下さい。」


とヨハが指示を出す。


皆が従い、片手は各々がペンダントのように首にかけている専用のマナイを握り、もう一方の手は指示されたヒカの身体の一部に軽く触れる。


それを見届けたヨハはヒカの胸辺りにチャクラチェッカーを置き、その上に顔以外の身体全体に薄い特殊な布をかけて、自身も所定の場所に戻る。


ここからケイレが皆に声をかける。


「では治療を始めます。先程の説明通り、午前の治療の予定時間は1時間です。状況で若干前後するかも知れませんが、よろしくお願いします。チェッカーはしばらく鳴り続けると思いますが、長くても30分前後で静かになると思います。治療中のトイレはご自由に、気分が悪くなった方は直ちに抜けて下さい。では…」


ケイレの説明の終わりを待って、能力者達は静かに目を閉じ、治療の為の瞑想に入る…


そして…


程なくしてチェッカーの警告音は鳴り響いたが、15分くらいするとそれは鳴り止んだ。


と、ほぼ同時にヒカの身体が一瞬、青白く発光した。


変化に気づいた者達が驚き目を開け、ざわめきが起こったが…


「稀に起こる現象ですが問題ありません。そのまま治療をお続け下さい。」


とのケイレの淡々とした指示により、能力者達は平静を取り戻して治療が再開され…


病室内に暫しの沈黙が訪れた。





午前の治療を滞りなく終了し、昼食と午後の瞑想の為の休憩を終えた能力者達が再びヒカの病室に集まって来る…


午前にヒカのベッドの周囲で治療を行っていた場所にはそれぞれ椅子が置かれていて、皆が揃ったタイミングでケイレが再び口を開く…


「朝、皆さんが集まられた場でも既にお話ししましたが…ヒカさんの治療は、このあとの治療で明らかな好転の兆しが見えなければ、それは宿命的な不調…つまり寿命が尽きる前の状態と私達治療師は判断致します。治療の初日の反応でそれはハッキリと出ます。好転の兆しが見られない状態で治療を継続しても回復した前例は無く、数日〜半年前後の延命の為の治療となります。したがって、ヒカさんの治療はこの午後の治療が1つの正念場となります。午後の治療時間は少し長めの2時間を予定しておりますので椅子をご用意致しました。皆さん、どうかよろしくお願い致します。」


ケイレの説明にヒカの両親やヨハの表情は若干強張り、そんなヨハを長老は不安そうな表情で見守り…イレンは彼らの表情のそれぞれの変化を交互に見遣り…


午後の治療は開始された。





午後の治療が始まって少ししてチャクラチェッカーが鳴り止み…


そして…


「………」


ほぼ同時のタイミングでケイレとヨハ、そして長老の表情が少し緩んだ…


更にしばらくすると、その場の治療者全員の顔に安堵の表情が浮かんだ。


この治療の間はケイレの要望でヒカの輸血や点滴も全て外されていたが…


やがてヒカの青白い顔色に徐々に赤みが差し…唇も元気なヒカの時と変わらないピンク色に少しづつ変化して行った。


長老はヒカの快復の兆しに安堵し、そのヒカの様子をなんとも嬉しそうに見ているヨハに表情を緩めた。


結局、ヒカの午後の治療はケイレの判断で30分くらい延長されたが、希望を持てる状態で無事に終了した。


その後、ヒカの今回の治療の為に集まってくれた人達は、この事態の為に準備された宿泊の為の部屋にそれぞれ案内された。


治療を終えた直後のケイレは「こういう…変異と成長期…その2つの要因で著しくエネルギーバランスの崩れた子の治療は私は初めてなので、なんとも言えないが…」と前置きし、この形の治療期間を一週間の目安で考えていると皆に伝えた。


「実際に治療しながら治療期間は若干変化して行くかも知れないが…」とも。


とにかく、重要な初日の治療は無事に終わろうとしていた。


一旦、自室で荷物を整理する為に、皆はヨハと長老を残して退出をした。


イレンの宿泊の為の部屋も確保出来たようで、ハンサに案内されて彼も部屋を出て行った。


「…まずは大きな山を一つ越えられたな。…とにかく良かった。頑張ったな…ヒカ。」


長老は目を閉じたままのヒカの額を優しくポン、ポンと、2回触れた。


「……」


気が抜けたのか、ヒカを見つめるヨハの目は少し潤んでいたが…長老は気付かない振りをした。


「ヨハ、まだ治療は続く。これは決してゴールではない。君に途中で倒れられたら一番困るのはヒカだ。この後、夕食を済ませたらお前に点滴を打ってもらうように頼んである。これはケイレの要望であり、私の命令だ。点滴を打ったら今夜はすぐ寝なさい。今後しばらくあの子には、夜は看護師が交代で付いてフィナとケイレも時々様子を見に行くと言っていたし、ご両親もとにかく今夜は深夜まで側で様子を見たいと言っていたから、夜は万全だ。」


「……」


ヨハは少し不満そうな表情は見せたが…反論はしなかった。


「…分かりました。」


長老は今度はヨハの頭も優しくポン、ポンと触れながら…


「昨夜はここで君は一晩中ヒカを守ったんだ。それこそ、命を削る思いをしてな…ヒカはきっと大丈夫だ。この後まず君がやるべき事は心配せずにしっかり食べて眠る事だよ…」


と言って、長老も部屋を出て行った。


遠ざかって行く長老の足音を聞きながらヨハは、


「フゥ…」


と小さく息を吐いて…


なんとも嬉しそうに血色の戻ったヒカの顔を見つめ、毛布から少し覗いていた小さな手を両手でそっと握る。


「…頑張ったね、ヒカ。きっとまた元気になれる。だから…あともう少し…頑張るんだよ。」


と、優しく話しかける…


すると…


「?!」


ヒカの小さな手がほんの少し握り返して来た。


ヨハはちょっと驚きながらも…ニッコリ笑った。


「そうだね…ヒカはずっと頑張ってるよね。僕も頑張るから…」


と、呟くように語りかけながら…ヨハもヒカの手をちょっとだけ握り返してみた。



「……」


病室のドア越しに、食事の前に少し様子を見て行こうと立ち寄ったエイメの姿があった。


ボソボソと部屋の中からヒカに話しかけているヨハの言葉を、部屋には入らず耳を傾けて…


エイメは微笑み…そして、そのまま下の階へと降りて行った…






…コンコン…


「…ヨ……て…さい。」


コンコン………コン…


…ん…ノックの音?…そういえば…ずっとさっきからドアを叩くような音がしてるような…


…声?……誰…?


「ヨハ君、そろそろ起きて下さい。皆さん朝食を召し上がっています。君も朝食を摂るようにと長老からの伝言です。」


…誰?…男の声…あれは…


「う〜ん…」


…瞼が重い…あれは…ハンサ…さん…ん?、ハンサ?


バッとヨハは飛び起きる。


「え?ハンサさんですか?」


やっとヨハの思考回路が作動し始める。辺りはもうすっかり明るくなっていて、朝のようだ…


「はい…おはようございます。下で皆さんは朝食を召し上がっています。長老も珍しく今日は下で皆さんと共に食事をされていて…ヨハ君も降りて食事を摂るようにとの事ですよ。」


なかなか目覚めきらない意識を奮い起こしながら、


「僕…朝食は摂らない事も多いので、大丈夫ですよ。このままヒカの様子を見てから瞑想部屋に向かいます。」


ドア越しにハンサの要請にやんわり断りの言葉を告げるも…


「…長老からの伝言です。本日、朝食をキチンと摂らない者はヒカちゃんの治療への参加を不可とするとの事です。長老は食堂で君が来るまで待つそうです。…伝言は伝えましたよ。では、失礼します。」


「え?ちょっ…と……まっ…」


ヨハが慌ててドアの方へ歩き出そうとするも、身体はまだ若干寝ぼけているようで、足がもつれて…咄嗟に近くの棚に掴まる。


そうこうしてる内にハンサの足音は聞こえないほどに遠ざかっていた。


「……」


[[…決して一人で抱え込むな…]]


事ある毎に誰かしらが掛けてくれる温かな言葉…


遠巻きに見守りながら支えようとしてくれる人達…


…分かっている…

…分かっているんです…


いくら優秀と持て囃されたって、自分の能力も体力も限界がある事も…


自分こそが冷静にペース配分を考えて走り続けなければならない状況である事も…


今、ヒカの治療に関わっている人達のサポートが…涙が出るくらいに有り難い事も…


だけど…恐ろしい…


僕は怖くて堪らない…


ヒカが…この世から居なくなる事が現実にやって来るかも知れない恐怖が…その恐怖がドカッと心に居座って、休む事を許してくれない…


…きっと、夕べの点滴には睡眠剤も入っていたのだろう…自室で横になって点滴が始まってからハンサに起こされるまで…全く記憶がない…


「…?」


珍しく今朝はヨハのお腹が空腹を感じている…


食欲促進の薬も入っていたかも知れないな…


ハンサもわざわざ部屋の前まで来て声を掛けずとも、内線の電話や館内放送をヨハの部屋に固定して自分を起こす事も出来たろう…


ほんのひと時だが…

周囲の温もりあるサポートを感じる。


そして、その一つ一つがヨハの恐怖を和らげてくれている…


「……」


ヨハはフッと笑って、支度を始めた。




ヨハが食堂へ降りると、長老とケイレとケイレの弟子の計3人がいて、ケイレと長老が何やら真剣に話をしている様子だった。


他の人達は既に食事を済ませた後の様で…見当たらない…


「あ、ヨハ、こちらに座りなさい。」


と、長老に手招きされた。


「おはようございます。遅くなりましてすみません…」


と、軽く皆に一礼をして、ヨハは長老がチョンと指差した隣の席に座った。


「おはよう、ヨハ。よく眠れたかい?」


既に食事を済ませた長老は、両肘をテーブルに付いて組んだ指の上に顎を乗せ、いつもの優しい眼差しでヨハの顔を見る。


「ええ、どなたの発案か知りませんが特製点滴のお陰でハンサさんが呼びに来られるまで気絶してました。」


と、長老の質問に皮肉を混ぜて答えている内に、ヨハの前に温かな食事が運ばれて来た。


「そうかそうか…さあ、食べなさい。」


ヨハの皮肉は全く意に介せず、長老は相変わらずニコニコしながらヨハに食事を促す。


「私達の事は全く気にしなくて構わないからね…君は食べる事に集中しなさい。ただし、好き嫌いなく…半分以上食べるまでは席を立ってはいけないよ。」


ヨハはスプーンでスープを啜ろうとして吹き出しそうになる。


「止めてください。学びの棟の子供じゃないんですから。」


嫌そうな顔を長老に向ける。


長老はヨハの苦情に全く動じずに相変わらずニコニコしながらヨハを見ている。


「同じようなモノさ。」


と言いながらウィンクした。


「!!…ウィンクは止めて下さいっていつも……スープを吹くところだったじゃないですか。」


と、長老のウィンクに一瞬たじろいで文句を言いながらも、ヨハは目の前にある料理を次々に平らげて行った。


ケイレは二人のやり取りに少々驚きつつも、微笑ましそうに見つめていた。


「ヨハ先生は長老の前では自然体になれるのですね…信頼関係が出来ている証です。体調もエネルギー状態も随分とマシになりましたね。少し安心しました。」


どっしりと安定感のあるエネルギーを放ちながら穏やかに話しかけるケイレ…


ヨハは自分の人知れず足掻いている部分を常に見透かしていそうなケイレになんとなく苦手意識を持ち、彼女にはニコリともせずナプキンで口元を拭いながら、


「…僕は…ヒカにとにかく今の危機を乗り越えて欲しい思いだけで動いています。そこしか見えなくなってしまう事は自分で自覚してるつもりでいてもやり過ぎてしまう様で…皆さんにご心配をかけてしまった事は申し訳なく感じてます。長老のやや強引な指示が腹立たしく感じても、あくまで正論で動く人という部分は信頼してますから、こうでもしなきゃ動じないと辛抱強くフォローや軌道修正をしてくれる長老始め周囲の方々の懐の深さは感謝しているつもりです。」


「なんだ、よく分かってるじゃないか。」


と、長老は組んでいた指を解いて片方の手をヨハの肩まで伸ばして、ポン、と嬉しそうに軽く叩く。


ヨハは眉間に若干のシワを寄せる。


「…まぁ長老は指示に翻弄される僕をいつも楽しんでいる側面もあるので、多少の小生意気な口を利いてもバチは当たらないかなとは思ってます。」


…なるほど…


ヨハは聡明で能力が高く、大体の事はソツなくこなせて大人びた振る舞いが出来ていても、捉えどころなくややトボけたやり取りで少年を構う長老に対してはムキになって時々噛み付く…今の彼の姿は年相応の少年らしい生意気さで生き生きとした姿にも見える。


…そういうヨハにも動じることなく受け止めている長老の姿は師というより父親のようにもケイレには見えてしまう…家族を持たないセレスの師弟関係の在り方でもあるのだろう…


昨日は感情的になったエイメを落ち着かせあの場を収める意図もあったのだろうが、長老は躊躇なく彼を叱ってもいた。


一方で、彼には変に取り繕って素の心を押さえ込まない様にと、日々試行錯誤でヨハに関わっているのかも知れない長老の深い思いをケイレは何となく察した。


「噂はそれとなく聞いておりましたが…長老はヨハさんが可愛くて仕方がないのですね。」


最後の一口を飲み込もうとしたところでケイレの発言が耳に入り、ヨハは危うく喉に食べた物を詰まらせそうになる…


「ケイレさん…もうその辺で勘弁して下さい。そういう話をすると、長老はこの後どんなイタズラやややこしい用事を仕掛けてくるか…想像しただけで頭痛がして来そうです。」


「人聞きの悪いことを言うな。どれも私からの愛のこもった試練なんだから、我が儘を言うもんじゃない。」


また隣からポン、と肩を叩かれる。


「試練…モノは言いようですね…」


食べ終えた食器を下げに来てくれた食堂のスタッフの人に会釈しながらヨハは呟いた…


「あははは…」


思いも掛けず、ケイレが笑う。


「あ…失礼しました…いや…貴重な場面を見せて貰いました。長老とヨハさんはなんというか…本当に良い師弟コンビですね。」


一瞬、ヨハは何か言いかけたが…


「…もう…そういう事でいいです…」


と呟いて席を立とうとするが、長老は咄嗟にヨハに届く方の手で彼の腕を軽く掴み…


「で、ケイレ、先程はどこまで話してたかな?」


と問いながら、ヨハにそのまま話しに加わるよう促す。


「あ…えっと、そうですね。ヒカさんの今後の治療の件でヨハさんの見解をお伺いしたいとお待ちしてました。」


…朝起きてここに降りて来る前に、ヨハはとにかくヒカの様子を見ておきたかった。


また真っ青な顔に戻っていたらどうしようと…確認するまでは生きた心地がしなかったが…


ドアの前で少しためらうも、意を決して部屋に入ると…


大きな不安は霧散した。


昨夜、看護師やエイメ達に挨拶をしてこの部屋を出る前の最後に見たヒカの様子からほぼ変化はなかった…


「時々寝返りを打とうとする様子も見られて、今にも目を覚ましそうな気配もあります。声掛けには反応はしないけれど、何度か(お兄ちゃん)と言葉を発していましたよ。」


と、夜勤で付いていてくれた看護師から報告も受けた。


もともと小さい頃は変異によってエネルギーバランスが崩れやすい身体だったが、治療でチャクラバランスを整えてあげる事で不安定だった体調は安定して行った。


更に瞑想と呼吸で自らチャクラのバランスを整えられるようになると、ヒカは体調を崩す事はほぼ無くなり、相変わらず食は細めだが徐々にスタミナも同年代の子に近くなって行った。


それが…


初潮によって振り出しに戻るどころか、チャクラの弁が全て壊れてしまったかのように開きっぱなしとなり、血液を作る力が落ちる一方で経血は体外に放出されていたので重度の貧血と深刻な低血圧、そして内臓機能も徐々に弱まって来ていて、増血剤投与や輸血にヨハの治療を持ってしても、効果は期待したほどには現れなかった。


それが…ティリで1番と言われ、大国からの依頼も後を絶たない程に治療師として評価の高いケイレをカシルから紹介してもらい、彼女が師から代々受け継がれた治療法に加えて彼女自身の数多くの治療経験を生かした方法を組み込んだと言われる…昨日のセレスとレノのエネルギーも取り入れ、更にはマナイの力も巧みに使う方法で、ヒカのチャクラバランスが見違えるように改善した事には、ヨハはミアハとしての自身の知識や経験不足を思い知らされた。


「今の段階では…僕は治療に関する判断をケイレさんに委ねたいと思います。自分もティリの力はそれなりにあると自負する部分がありましたが、今回の治療でのヒカの変化はケイレさん達に感謝しかありません。と同時に、自分の経験不足の現実に打ちのめされました。上を見れば遥か高みに上がいるモノだと感じる貴重な体験をさせて頂いたと思います。…その上で自分の意見をあえて申し上げるならば、今の形での治療をあと2日くらい続けた時点でのヒカの身体の状態を見て、その先の治療法を模索してもいいようにも思います。」


ケイレは穏やかな面持ちで終始ヨハを見つめ、言葉をじっと聞いていた。


「…ヨハ先生のような能力の高い方より光栄この上ない評価をして頂き感謝申し上げます。嬉しいです。と同時に奢りが芽吹き、治療師として踏み外す振る舞いにならないようにと身の引き締まる思いです。私もあと2日は今の治療で様子を見ての判断が良いと感じます。その間で意識が戻れば、ヨハ先生が今までヒカちゃんに教えて来られた呼吸法を通してのチャクラの調整方法がそこで大いに役立ち、そこからの治療に関してはセレスやレノの方々の力をお借りせずともよい状態になると考えます。早ければヒカちゃんは今日中に意識が戻る可能性もありますし…では、ひとまず今日と明日は同じ方法で行きましょう。」


2人のやり取りを腕を組んで目を閉じ耳を傾けていた長老が、このタイミングで目をパッと開けて、


「よし、治療の方向は決まったな。ではそろそろ我々も行こう!」


と言ってスッと立ち上がった。


午前の治療は滞りなく行われた。今日はヨハのコンデションの改善が見られたので医師のフィナは能力者の治療には参加せず、代わりに体動が徐々に見られるようになったヒカの身体を治療中にズレ過ぎないよう戻して貰う為に2人の看護師がベッドの両側に付いた。


午後は長老が大国での会合出席の為に治療チームから外れたが、幸いイレンがまだ滞在出来るとのことでそのまま残った。


そして、治療が始まる直前にケイレから、


「ヒカちゃんにこれだけ自力で身体を動かせる力が戻って来たという事は、おそらくこの治療中か治療後に意識が戻るように感じます。治療中だった場合に彼女が混乱しないようにヨハ先生はヒカちゃんの頭上の位置にいて、目覚めた時はケアしてあげて下さい。」


と指示を受けた。



そして…


午後の治療が間も無く終わろうとしていたタイミングで、待ちに待ったその時は訪れた。


丸2日閉じていた少女の瞳は、ゆっくりと開かれ…病室の柔らかな光を受け入れた。


「……」


治療に臨んでいた者達すべての表情が緩む…


「ヒカ…」


まだぼんやりとしている意識の中でヒカがぐるりと周囲を見渡すと、自分とよく似た緑色の瞳が自分の名を呼んだ…


その瞳は涙で潤んでいた。


その瞳を通り過ぎ…ヒカ自身の真上に視線を戻す…


「…ル…ダ……なんで顔が逆さまなの…?」


頭上からヒカの顔を嬉しそうに見つめていた青い瞳は、ニコッと笑った。


「おはよう、ヒカ。」




ヒカはその後は徐々に快復して行き、翌日には食事も自力で摂れるようになったので点滴も半分くらいに減り、その翌日には誰かに支えられながらではあるが自力で歩けるまでになっていた。


そして、ヒカが目覚めて3日目の早朝…


ヒカの両親はひっそりと研究所を離れようとしていた。


ヨハは治療初日にケイレから治療を施す側のコンディションの重要さを指摘されて以来、長老の指示により夜は看護師が交代でヒカに付いてもらう体制を常態化された為、午後の治療後は日付けが変わるまでに自室に戻り、明け方からヒカに付き添うという日々のリズムが出来始めていて、その日の早朝も看護師と交代して病室で1人、ヒカの傍らに座っていた。


寝返りでずれたヒカの毛布を掛け直そうとヨハが腰を浮かせた時、カチッという小さな音が耳に入った。


振り向くと、ヒカの両親がゆっくりとドアを開けて入室して来るところだった。


「あらヨハ先生。おはようございます。こんな早朝にごめんなさい…ここを立つ前に、顔を見て行こうと思って…」


声をひそめて少しすまなそうにエイメがヨハに軽く会釈をして、リュシと共にヒカのベッドに近づいて来たので、ヨハも一礼しヒカの側の位置を彼らに譲った。


「おはようございます。こんな朝早くに立たれるのですか?」


2人はヒカの枕元まで来て、なんとも愛おしそうにヒカを見た。


「長老から直々にヒカの重篤な状態を知らせるお電話を頂いて、取るものとりあえずで来てしまいましたから色々と…残して来た子供達も心配ですしね。ケイレさんから半年くらいは月経の際は油断は出来ないので、また緊急招集が有るかも知れないと思っていて下さいと言われましたから…主人は当分ちょっと難しいようですが、私はスケジュールを整理してまたちょこちょこ様子を見に来ます。」


「…今回は…その…このまま帰られてよろしいのですか?」


エイメはヒカの頬をそっと撫でながら、問いかけるヨハに視線を向ける。


「この子に名乗るかという事?…まぁ…この子の完全な快復を私達は信じてますから、今その話はやめましょう…」


エイメは再び視線をヒカに戻し、愛おしそうにまた頬を撫でる…


「そうですか…。立ち入った質問をしてしまった事をお許しください…」


…やってしまった…


2人がこんな急に帰るとは想像しておらず、つい余計な質問をしてしまった事をヨハは後悔した。


リュシはやや複雑な表情を浮かべ、エイメは淋しそうに微笑んで…2人はヨハの謝罪に軽く首を振った。


そして…


「ヒカ…生きていてくれてありがとう………でもあなたは…」


と言いかけてエイメは急に涙ぐむ…


「エイメ、そろそろ行こう。ハンサさんが手配してくれた車が付く頃だ。」


リュシはやんわりと退室を促す。


「……」


エイメは潤んだ瞳でヒカを見つめながら軽く頷いて、ゆっくり立ち上がる。


「ではヨハ先生…これからもヒカをどうかよろしくお願いします。」


リュシが改まった様子でヨハを真っ直ぐに見て、深々と一礼をする。


リュシに続いてエイメも…

切なそうな目をして一礼し、2人は部屋を出て行った。


「……」


2人に応えるように一応、ヨハも礼は返したが…


ヒカの命の危機という不本意な状況ではあったが、やっと再会を果たした娘を置いて再びレノに戻る夫妻の気持ちを考えると…ヨハはなんとも居た堪れない気持ちになった。


「……」


再び沈黙の訪れた病室…


不意にヨハは部屋を飛び出した。


途中、隣室に待機している看護師に、


「すみません、少し病室を離れますのでヒカをよろしくお願いします!」


と声を掛け、階段を駆け下りる。


研究所の正面玄関を出たところで夫妻は車を待っているようだったが、息を切らして近づいて来るヨハの気配に気付き振り返った。


「今日立たれるお2人に、私だけ会えたのも何かの巡り合わせかも知れません。お見送りをさせて下さい…」


息を切らしながら、ヨハは彼等に笑いかける。


凄い勢いで追って来たヨハを見て、リュシとエイメは最初は少し驚いてはいたが…フッと笑顔になった。


「ありがとう…」


リュシがお礼を言い…少し遅れたタイミングで、彼の少し後ろにいたエイメがヨハの正面に回って来た。


「ヨハ先生にはもう1つありがとうだわ。今階段を降りながら、あなたに感情的に突っかかってしまった事を謝るチャンスをまた逃しちゃったなぁって思っていたところだったの。ここでやっとあなたに自分の失態を謝れるわ。」


と言って、エイメはヨハの両腕を軽く掴んで頭を下げる。


「謝るなんて…顔を上げてください。そんな必要はありませんよ。」


ヨハは首を振り少し後ずさろうとしたが、エイメはヨハの腕を離さず…


「少しだけ…このまま聞いて下さいな。最初の夜にフィナ先生が病室でご説明下さったの。ヨハ先生はヒカの師であり主治医ではあるけれど、年齢も近い思春期の女の子の初潮の状態を肉眼で診察する事に躊躇されて、フィナ先生に子宮口の診察と検査を急遽お願いしたと伺いました。これは彼がヒカさんを大切に思うがゆえの配慮で、彼女がセレスで大事に育てられている証のようなモノだとも…女医としてヨハ先生の配慮に感動したと熱く語られていました。…私もね…貴方達のやり取りを見ていて徐々に気づいてはいたの。だけど…真っ青な顔で横たわる娘を目の当たりにしてパニックだったし、意識が戻ってもあの子はあなたばかり探すしで…心が掻き乱されたまま…自分の失態を謝るきっかけをずっと逃して来てしまった。あの時は…本当にごめんなさい。」


ここでエイメは掴んでいたヨハの腕を放し、改めて深々と再び頭を下げた。


「…意図が分からない人の行動に不安になり、分からないゆえに不満を持ったり憤る事は誰しもあると思います。どうか…お願いですから、頭を上げてください。」


ヨハは頭を下げ続けるエイメの背中に手を置いて、言葉をかける。


返って気を遣わせてしまったか…?と、ヨハは2人を追った事を少し後悔するも…この機会に自身の心情を伝えてみようと思った。


「…正直、予想より急激に訪れたヒカの命の危機に動揺し、心が掻き乱されていたのは僕も同じです。僕はずっと…ヒカが小さい時からあの子の成長と健康を願って努力して来ました。オネショを片付けたり着替えさせたり…時にはお風呂に入れる手伝いをする事もありましたから、ヒカも僕に裸を見られる事に何の抵抗もなく、それが普通と捉えていましたが…ティリでの研修中にヒカはある事で僕に関する記憶を全て失ってしまい、僕がセレスに戻り彼女の主治医として診察をするようになってからは、僕に胸を見せる事も恥ずかしがるようになっていました。過去の僕を忘れ、年頃の女の子として恥じらうようになったヒカへの接し方に悩み、縁あってフィナ先生に相談していた矢先に初潮が来て倒れたので…緊急でフィナ先生に来て頂き、力をお借りする流れとなりました。ただ…ヒカが陥った命の危機の原因は、きっかけこそ初潮でしたが子宮の機能自体に問題がある訳ではないので、僕も無意識に彼女の子宮の診察を避けて通りたかったのかも知れません。主治医としてこれからも彼女を守って行く為にも診察に関する事はしっかりヒカと向き合って話さなければならない必要性を感じました。血の繋がりこそありませんが、あの子は色々な意味で自分の生き方に覚悟を持たせてくれた特別な存在です。…だから………」


「………」


「?……ヨハ先生?」


終始穏やかな表情で語っていたヨハの表情が急に強張り、沈黙しまったので、エイメは急に気分でも悪くなったのかと心配になり、ヨハの背中に手を当てて、


「大丈夫ですか?気分が悪いようでしたら無理なさらないで…なんなら誰か…」


呼びしましょうか?」と言いかけた途中で、


「違います。大丈夫です……ヒカの[もしも]を考えてしまうと恐ろしくて…時々こんな風にね…情け無いんですけど。」


と、エイメの言葉を慌てて遮って、ヨハは苦笑した。


すると次の瞬間、


「?!」


ヨハはエイメに抱きしめられていた。


「ありがとう……ありがとう…あの子は幸せな子ね。あなたも…ヒカを大切に思うがゆえにこんなにも苦しんでいるのね…ごめんなさい。でも、本当にありがとう。」


ヨハは咄嗟の事に驚いてエイメを見ると…緑色の瞳は涙に濡れていた。


「…エイメはね…ヒカをあんな特殊な身体に産んでしまった事をずっと申し訳なく感じていたんです。そして僕達は…あの子を手放してしまった事もずっと悔やんでいた。短命かも知れない事を予め知っていたら自分達の手元で育てるべきだったと…」


エイメとヨハのやり取りをじっと見守っていたリュシが、ここで言葉を発した。


エイメはヨハを抱きしめていた手を解いて涙を拭いながら、リュシの言葉に続く…


「でもね、何度かヒカを引き取りたいとセレス本部に掛け合って……その都度長老が直接私達に対応して下さるんだけど、[あの子の出現には兆しを感じるから、どうか私を信じて欲しい]の一点張りでね…返してくれなくて…で、今回の治療で快復の見込みがないようなら今度こそ引き取ろうと本気で考えていたの。でも……必死であの子を守ろうとするあなたと…あなたの思いに応えようと頑張るヒカを見てしまったら…私達はもうあの子を取り戻す事も出来ないんだと…分かってしまったのよ。」


一度止まりかけていた涙がエイメの頬を再び濡らした。…だがエイメの表情は穏やかだった。


「それに4ヵ月くらい前にね、学びの棟の応接室からヒカの広場での様子を見せてもらった時も、あの子は同年代のお友達と楽しそうにしてて…で、その後に長老がヒカを応接室に呼んでくれて…私達は衝立越しにいたのだけど、[ご両親に会いたいかい?]って長老が聞いたら、あの子…[会いたいですけど今じゃないです]って、迷いもなく答えたの。長老が[どうしてだい?]って聞いたら、[私はセレスの強い能力があるからここに来たのだから、セレスの能力者として役に立てている姿を私を産んでくれた人に見て欲しいので…今はまだ会わないです]って…すぐにでも衝立を退けて出て行こうとしてたのに…ヒカは全く淀みのない言葉でそう言ったの。力が一気に抜けてしまったわ…。そして今回は、ヒカとあなたの絆を見せつけられてしまったし…ヒカが会いたいと望まない限り、私達はまだ名乗れないわ。」


泣き笑いのような…複雑な表情でエイメは軽く首を振る。そんなエイメをリュシも瞳を潤ませながら切なそうに見つめていた。


「でもね。」


と、エイメは涙を拭う。


「私達はあの子が元気になって普通の生活に戻れる日まで、どんな形でもサポートをしていくつもりでいます。親だって名乗らなくたって会いに行けるでしょう?出来る事まで無くなってしまった訳じゃないわ。」


何かを吹っ切るようにヨハを見て、エイメは今度は力強く微笑んだ。


「ヨハ先生、私達は淋しさもあるが、あなたのような人がヒカの側にいてくれる事が分かって、安心して帰れるんです。どうか、どうか…あの子のこと…よろしくお願いしますね。」


今度はリュシが前に出て来て、ヨハの両手をグッと握って頭を下げた。


「…僕は…どんな事があっても全力でヒカを守って行くつもりです。どこまでご両親の御期待に添える形になるか分かりませんが…あの子の為の最善を常に考えています。その心積もりはずっとこの先も揺らがない事を信じて頂けたら幸いです。あの子が将来どんな生き方を選択するのか…僕は分かりませんが…まずは今の危機を乗り越えてくれるよう…全身全霊で対応します。」


ヨハとヒカの両親…

お互いが伝えたかった大事なことをだいたい言い終えたタイミングを見計らったように、車はやって来た。


お互いにもう言葉は発する事なく…短いけれどヨハと固い握手をそれぞれ交わして、2人は車に乗り込んだ。


夫妻が窓から軽く手を振る仕草をする中、車はゆっくり動き出し…研究所から去って行った。


ヨハは軽く一礼し、車が見えなくなるまで彼等を見送った。




同じ頃…


もう一人…


早朝に研究所を離れようとしている者が、ヒカの居る病室のドアを開けようとしていた。







「よう。」


井戸水の出が悪くて、少し離れた川辺で洗濯物を濯いでいたタニアは、聞き覚えがあるような…ないような…背後から突然掛けられた男の声に振り向くと…


「あぁ、やっぱりタニアだ。久しぶり。…ミアハで警察に捕まったって聞いたから心配してたんだぜ…」


…なんだかやたら馴れ馴れしく話しながら近付いて来る人物は…短髪で薄茶色の髪に青い目をした若い男だったが…


グレーのシャツに青いジーンズを履いていて、所作が微妙にガラが悪く…


タニアの中でなんとも言えない不快な感情が湧き上がると共に…離れなけばイケナイと警告音が鳴り始めていた。


「人違いのようですよ。私、急いでるので…」


と、水に浸けたばかりの洗濯物を慌てて纏めてバケツに入れ、立ち去ろうとしたが…


「?!、何なの?…離して!」


男は素早くタニアの腕を掴んだ。


「なんだよ…知らないふりして何のつもりだ?…俺が悪かったから…小芝居は止めてくれ。…今度は子供を堕ろせなんて言わないから…また仲良くやろうぜ。」


と、掴んだ手を振り解こうともがくタニアの耳元に顔を近づけて耳朶を舐めて来る。


「イヤッ、誰か…」


川辺で揉み合う2人…


「⁈……」


「今すぐ、彼女から離れろ…」


低く唸るような男の声が聞こえると、急に茶髪の男の力が弱まり…


自分を羽交い締めにしようとしていた男からタニアはやっと逃れられた。


先程の怖い声がした方を改めて見ると…


茶髪の男の背後で彼の背中に黒い塊を突きつけ彼を睨んでいるエンデがいた。


今まで聞いた事のないような声音で相手を威嚇し刺々しいオーラを放つエンデに、タニアは唖然とし…そのまま動けないでいた。


「…なんだよお前…もう新しい男作ったのか?…尻軽な女だなぁ。」


突きつけられた物が銃と男は感覚的に察し、ゆっくり両手を上げながらタニアを罵る。


と、次の瞬間、男はエンデに殴り倒された。


「彼女をこれ以上侮辱したら…殺す。」


エンデは倒れた男の頭に銃口を向け、唸るような声で忠告する。


エンデの目が本気のように感じ、タニアは思わず彼に縋り寄り、


「エ、エンデ、私は大丈夫だから…どうか銃を下ろして。何か勘違いしてるのよ。私こんな奴知らないもの。」


と言うと、男はタニアの言葉に被り気味で、


「おかしいのはお前だろ?ネサムだよ。セヨルディで何度もデートしたろ?」


2人からジリジリと距離を取りながら言い放ち…


転けつまろびつで逃げ出す。


「待て!」


とエンデは男を追おうとしたが…


「?…タニア?」


カッと目を見開き、遠ざかって行く男を見る彼女の様子がおかしい事に気付き、追うのを諦めた…


と、背後から駆けて来る数人の足音が聞こえ…警備の人達と分かると、


「あの男を追って下さい!」


とエンデは叫び、少し離れた道路を目指しているらしい男を指刺す。


「了解です。」


という声を確認して再びタニアを見ると…


「ネ…サム…?…セヨ…ルディ…セヨルディ?……ネサ…」


ぶつぶつと同じ様な言葉を繰り返し、目は焦点が合わなくなって来ていた。


身体は痙攣するように小刻みに震え…


「タニアちゃん、しっかりして!」


硬直したまま、支えるエンデの腕に倒れかかった…


…仕方ない…このままタニアを神殿まで運ぶか…


と、エンデが抱き上げようと膝の裏に腕を入れるや否や…


「イヤッ違う、ネサム…イヤァ〜〜!止めてぇ〜!」


と、両手両足を振り回して暴れ出した。


「タニアち……」


それは…


エンデが久しぶりに見る…何度目かの光景だった…






「…なんだよ…ハァ…あいつら……ハァ…いねぇじゃ…ねえか…ハァハァ…」


川沿いをひた走り、前方に橋が見えて来たが…橋の手前で待つと言っていた仲間は…見当たらなかった…


「ハァ…もう…なんだよ……ハァ…どこまで…ハァ…逃げりゃ……」


じわじわと追っ手の足音が近付いて来る中…とにかく橋を登り舗装された広めの道路に出た。


と、もの凄いスピードで後ろから赤い車が走って来て、ネサムの横で急停止した。


「早く乗って!」


という女の声がして後部座席が少し開いたので、男はドアに掴まり滑り込んだ。


と同時に、


キュルキュルキュルという音と共に車のタイヤが急回転し、タイヤの焼けるような匂いだけ残して、その赤い車は猛スピードで走り去った…


少し間を置いて、警備の男達が橋の近くまで辿り着き…そのうちの1人が


「クソッ…やはりエンデさんの予想通り仲間がいたな…しかもあの運転捌き…ただの仲間では無さそうだ…」


と呟き、悔しそうに軽く舌打ちをした。





「……」


「あ〜良かった…危機一髪。助かったっす…」


座席に背中を預け、シャツをパタパタさせて汗ばんだ胸元に風を入れているネサムは、サングラスをかけた運転席の女がルームミラー越しにかなり不満そうに睨んでいる様子に気付かずにいる…


「…アンタね…あの子の顔を確認して過去の事を話して反応を見たら直ぐ戻って来いって言った筈よね。なにいつまでも抱き付いて、あの金髪君に顔見られてんのよ!」


思いっきりドヤされ、ネサムは初めてルームミラーから女が自分を見ている事に気付く…


「いやぁ…タニアみたいな美人は中々居ないっすからね…また会えて嬉しくて…つい…」


失態を把握出来ず、悪びれもせずに言い訳するネサムに…何も言う気になれず、女は深い溜め息を吐く…


「ハァ…」


「そっちこそ…橋の所で待ってるって言ったのに…焦ったじゃないですかぁ…」


我慢出来ず、助手席の男がネサムの苦言に反応する。


「あなたがあの人に絡んでいた時、近付いて来た金髪の男がこちらに気付いたんだ。無駄に戦闘になっていたら、怪我するのは相手だけじゃないでしょ。」


「だってさ…タニアが逃げようとしなきゃ俺だって…」


ネサムは男の説明に不満そうに口を尖らせる…


「……」


女がルームミラー越しにネサムをチラッと見て、再び口を開く…


「あんなに近くまで追って来たんだから、この車も既にチェック済みよ。このままあんたを連れて走り続けるのもマズい状況になっているのよね……あっこの森がいいわ。」


と言って、走っていた大きな森の中を通る舗装道路から逸れて、いきなり獣道の様な草の生えた細い道へ入り込み…しばらくそのまま走り進む…


「ど、何処へ…」


ネサムが戸惑いながら女に尋ねると…


「とにかく、一旦車を変えないと……あ、あの辺なら大丈夫そうね…」


と、大木が倒れ、その周囲に草が高く生い茂っている場所があった。


女は大木の側に車を止めて降りると、大木の周りを確認し、ネサムを手招きする。


「ここならすっぽり身を潜められそうだから、30分以内に車を変えて迎えに戻るから隠れてて。」


女の唐突な要請にネサムは、あからさまに嫌な顔をする。


「あんたのミスで足がつきそうなんだから、これぐらい我慢してよ。…ほら、早く隠れて!」


「…早く来て下さいよ…」


ネサムは渋々…横たわった大木の下に入ってしゃがむ…


「あんたが捕まっても困るから、言われなくてもそうするわ。…ふらふら歩き出すと狼に見つかるかもだから、なるべく動かずに待ってた方がいいわね。」


「そんな…怖い事言われたら、俺ここに居られないよ〜」


と、ネサムが大木の下から出て来そうになると、


「大丈夫よ…明るいうちはね。だからすぐ戻って来るわよ。あっ、そうだ、ちょっと待ってて」


と女はポケットから香水スプレーを出し、男の周りにシュッシュッとそれを撒き出した。


「この香水は狼や肉食の獣の嫌う成分が入っているから、気休め程度でも安心するでしょ。」


「…ホント…早く来て下さいね…」


女は再び運転席に乗りながら、


「分かってるわよ。じゃあ…また後で…」


軽くネサムに手を振ってドアを閉め、見事なハンドル捌きで車の向きを変えると、女はアクセルを思い切り踏んで元の獣道を戻って行った…


「…」


車のエンジン音が聞こえなくなると、ネサムは元居た大木の下に隠れ…


「…俺、虫苦手なんだよな…ホント…頼みますよ…カリナさん……」


と、泣きそうな声で呟いた…





「……」


しばらく走って森の道を抜けた所で、助手席の男がカリナに尋ねる。


「…車って…何処で交換するんですか…?」


「無いわよ。この辺にそんな所なんて…ウチの拠点もないし協力者もいないから、仮に追っ手が来たとしても、なんとしても巻いて巻いてテイホまでこの車で乗り切るしかないわ。」


「…じゃあ…さっきの人はいつ迎えに?」


カリナはここで更にアクセルを踏み、車を加速させる。


「行かないわよ。アイツとはここまで…そもそもアイツは他にも色々やらかしてるからね…。それに強姦する奴なんて…反吐が出るわ。」


[…逃げなさい、ヨルア。振り返らず行きなさい…早く!]


…悪夢の様な夜…暴漢に押し倒されながら叫ぶ母の声が…今も耳から離れない…


幼き日、木造のアパートで母と暮らした最後の夜の辛い記憶が…一瞬、カリナの中を通り過ぎた…


「…でもあのままでは…誰かに見つかってしまう可能性もありますよ。」


「…多分…間も無く見つけてくれるでしょうね…狼ちゃん達が…」


カリナはフッと笑う。


「あそこは有名な狼の生息地で、日が傾いて来たら地元の人はまず近づかないし…普段も特別な用でも無ければ人は気味悪がってあまり通らない道…戻る際に撒いた香水は雌狼のフェロモン入りなの。もうそろそろあの匂いに寄ってくるんじゃないかしら…」


「でも…いくら狼でも骨までは食べないでしょ…人骨が見つかったらとりあえず色々と調べるのでは?」


カリナは助手席の男をサングラス越しにチラッと見て、


「あの辺りは禿鷹も結構来る場所なの。彼らは骨も割と好んで食べるし…狼も保存食みたいに獲物が取れない時は住処にとって置いて骨を食べたりするのよ。僅かに残ったとしてもね…あの森はよく嵐の通り道になるから、落ち葉が覆ってしまえば…ね。」


ウィンクした。


「でもそこまでする必要って…あの人にも迷惑かける事になりませんか?そもそもこれは…」


カリナはどんどん不機嫌な表情になる。


「あぁうるさい。私がぬかる訳ないでしょ…ほらっ。」


「いつの間に…」


カリナは上着の両側の大きめのポケットから、ネサムの所持していた銃・ナイフ・財布・イヤーフォーンを取り出して男に見せた。


「誰だと思ってんの?」


…ハァ…


と軽い溜め息を吐きながら、男はドサッと背もたれに背中を預ける。


「そうですね…あなたのその能力は最強の武器…傀儡のカリナとは良く言ったモノ…なら…あの人の記憶を消せばいいだけでは?ね、戻りましょう?記憶を消してテイホの街中に降ろせばいいじゃないですか…」


「うるさい!……それ以上なんか言ったらアンタをここで降ろすわよ。」


「……すみません…」


男は一応、謝りはしたが…サングラスを外してじっとカリナを見つめる…


「アイツは…ミアハの子供をたくさん攫って…直接手は下してないけど子供達を見殺しにして…女も…ただの欲望の対象で金儲けの道具扱いをして来た…人間と思ってないような奴なのよ。…それに…もう…森に戻っても無駄なの…」


「……」


「…アンタさ…どうせあの老獪な…呑兵衛で葉巻き好きの爺さんから私のお目付け役を頼まれてるんでしょ?…嫌ならいつでも降りていいのよ。なんならこれからその爺さんとこまで送ってあげるから…」


「嫌です。絶対にやだ。」


間髪入れず男は答える。


「やだって……」


カリナは苦笑いする。


「…だったら私に指図するな。」


「…あなたは最強で…傀儡師のカリナなんでしょ?殺さないで解決する方法はあなたなら色々あるはずだ。それが俺の尊敬する傀儡師カリナなんです。」


「だから何だっていう話。アンタに尊敬される為にこの仕事をやってる訳じゃない。」


「…あの人は?…あの人もそう信じてるんじゃ…」


「……」


カリナは…気まずそうに視線を景色に移す…


「カリナさんは一流の能力者で…最強でしょう?少なくとも俺はそう思ってますから…」


「…最強でもないわよ…ミアハには厄介な存在が…少なくとも3人はいるわ。なぜだか私の力が及ばない奴…傀儡が使えなかったら…余裕ある事なんて言ってられないのよ。まあ…これからは殺さないよう…努力するわ…」


そう呟くように言って眉間にシワを寄せるカリナを見て、男は思わず失笑する。


「さっきの自信はどこ行ったんですか…」


「ま、負けないわよ。うん、私は最強よ…ジョアナさんから受け継いだ奸智だけはミアハの連中には負けないし。私はトータルでは負けないのよ。あの2人の女の子は絶対に奪ってやる。オーッ!」


自分を鼓舞しながら拳を振り上げるポーズをするカリナを、男は横から眺めながら…


…いや…さっきの美人は違うでしょ…


あの人が一番頭を痛めている件だよ…


と思ったが、カリナの逆鱗に触れるのも面倒なので…男はそのまま黙って、彼女の運転に支障が出ない様に見守った。







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