18 来たるべき時
様々な人々が行き交う独特な雰囲気の建物が並ぶ通りの、その区域に存在する店舗全ての案内が記された看板の脇で、キョロキョロと不安そうに周囲を見渡しながら1人立ちすくむ少女がいた。
「皆んな遅いよぉ〜…時間通り戻って来たの私だけって…」
ここはミアハ唯一の、独自性のある世界観がある程度統一された商業施設が犇めく区域、セヨルディ…
パムと呼ばれている湖に向かう通りの両側には様々な小規模店舗がザッと30件以上は並んでいる。
その両側のお店の裏にはそれぞれ森を切り拓いた広場が所々あり、その中は木々を所々残して休憩や飲食の為に設置された可愛らしいベンチや椅子とテーブルがランダムに点在していて、セヨルディに訪れた人々がそこでそれぞれに寛いだ時間を過ごしていた。
店舗の一つ一つが湖の畔の森の中という世界観を意識して皆個性的な可愛らしいデザインの建物で…
そこはミアハの外でも人気が高く、様々な国々から人が集まる場所でもあった。
ただ、この施設はミアハに多くの利益をもたらす反面、誘拐や盗難も大きな問題となっている場所でもあった。
セレスの学びの棟で暮らす子供達は、10歳を過ぎると徐々にこのセヨルディでの買い物も許されるようになる。
11歳になったヒカもこの日、同部屋だった仲良し4人組と貯めたお小遣いを携えて、いよいよセヨルディデビューを果たしたのだが…
ヒカはあまり人混みが得意ではないらしく、人酔いしてしまい…
途中から、それぞれ分かれて個人散策することになって30分後に集まる約束になっていた場所に早めに戻っていたのだが…
皆で決めた時間を10分過ぎても、他の3人は中々戻って来ない…
「あぁ疲れちゃったな…。こんな事なら中のベンチを待ち合わせ場所にするんだった…」
一旦、しゃがもうと視線を下に向けると、自分の靴先に向かって青くてキラキラした丸く小さいモノが転がって来た。
「?なんだ…?これ…」
「あ、それそれ、お願い拾ってぇ〜」
と、少し離れたところから叫ぶ声が聞こえた。
「え?…これのこと?」
声に反応して、足元をすり抜けて行く寸前でヒカはその青く小さな玉を拾う。
見るとそれは透明で…日差しをキラキラ反射してるように輝いて美しかった。
「あ〜良かったぁ…落ちなくて。」
落ちる?
先程よりかなり近くで聞こえる声の方を向くと、少し息の切れた様子の女性が斜め前に立っていた。
その女性はヒカが今まで見た事のない服装をしていて、赤みがかった茶色の髪をスカーフのようなモノで纏めてサングラスを掛けていた。
見た事ない格好ではあるけど、きっとオシャレな服装なんだろうという事はなんとなくヒカも分かり、サングラスで目はよくは見えないけど、多分、自分がこの青いモノを拾って喜んでいるような様子は感じた。
青いモノをつまんでいるヒカの手ごとしっかり包み込んで女性は頭を下げ、
「あ、ありがとう…貴方のお陰でその後ろの側溝に落ちずに済んだわ。」
「側溝?」
ヒカは女性の視線の方を見ると、確かに通りに沿って流れている何か(多分、下水)の上に蓋してある金属製の編み目のようなモノが目に入った。
「そう…この道は両側の側溝に向かって少しずつ低くなってるから…あそこまで転がって落ちてしまったら、もう見つけられなかったわ。
と、ヒカが側溝に気を取られている内に、女性はその青い玉をヒカの指の間からスッと奪い…左手の指にハマっていた指輪にその丸いモノを当てがって見せる。
「彼氏から貰った指輪なんだけど、どこに行くにも付けてたら枠が緩んで来ちゃたみたいね…」
「あ、宝石…か。」
生まれて初めて見る宝石…
5本の指をまっすぐに揃えて目の前に手の甲を見せている女性の指輪に、すっぽりと収まる青く丸い石…
「…きれい…」
ヒカは少しの間見惚れていた…
と、次の瞬間、女性は指輪から青い石を外してしまう。
「このままだとまた外れてしまうから、指輪も石も今日は外したまま帰らなきゃだわ…残念。」
と言いながら女性は、それらをササッとバックにしまった。
そして更に、あっけに取られているヒカを女性は唐突にバッと抱きしめた。
「本当にありがとう、あなたのお陰で指輪の事で彼氏と喧嘩にならずに済んだわ。」
「……」
ヒカは女性に抱きしめ揺さぶられたまま、言葉が何も出て来ない…
そして唐突にヒカを抱擁から解放し、女性は徐にスカーフとサングラスを取った。
予想はしていたけれども…茶色の髪に茶色の目、そして陶器のように滑らかな黄金色の肌の…とても美しい女性だった。
「あら、よく見たらあなたの目…青緑色なのね。とてもきれいねぇ…あなた…まるで妖精みたいね。」
と、少し驚いたように言いながら女性は軽くウィンクした。
「そ…っ」
そのきれいという言葉は貴方にそっくり当てはまりますが。と言いたかったけれど、この女性の所作はヒカにとって全てトリッキーで、言葉を発する暇もなかった。
が…
女性は突然に慌て出し、
「あなたにお礼がしたいのだけど、ちょっと急いでいてね…今はお礼が出来そうにないわ。ごめんなさいね…」
と、再びサングラスを掛け直し、
「私はカリナよ。縁があったなら、また会いましょう…じゃあね。」
と、軽く右手をヒラヒラさせ湖の方へ駆けて行ってしまった…
「……」
…なんだったんだ?
殆ど1人で喋って台風のように通り過ぎて行った女性の、かなり小さくなった後ろ姿を見つめながら、ヒカは呆然と立ち尽くしていた。
と、
「ヒカさん、だ、大丈夫ですか?」
今度は背後から慌てて駆けて来たらしい男性に息を切らしながら声をかけられ、ヒカの身体はビクンとなる。
振り向くと、黒っぽい制服を着たミアハの警備員らしき男性が立っていた。
「驚かせてすみません…今の女性はお知り合いですか?」
いいや…セレスの地はおろか、学びの棟から出た事がないですし…あんな派手な知り合いが出来るはずがない…
と、心の中で思いながら…
「いえ、知らないです。指輪の石が転がって来て、それを拾ったらお礼を言われ、風のように去って行きました…」
と、簡単に説明した。
「…そうですか…」
警備の男性は少し考え込む…
「一応、確認ですが…何も盗られてませんよね?ザッとでいいですから今ここで貴重品を確認して頂けますか?」
と、次に男性はヒカに簡単な荷物確認を促す。
ザッとと言われても…と、ヒカは苦笑いをする。
何故なら、ミアハの15歳未満の子供はセヨルディの入り口で発信機付きの頑丈で脱ぎにくい上着を着せられ、財布等の貴重品はその特殊な上着の内側ポケットに入れるよう促されるのだ。お買い物の際は外側のボタンとチャック、更に内側のボタンを外さないとお財布に辿り着けない為、子供達には不評なのである。
まぁ、様々な対策により最近は落ち着いて来たが、セヨルディという場所はミアハ外部の人が比較的簡単に出入り出来る為、スリやミアハの子供の連れ去り…特に近い過去ではレノの子供の誘拐が頻発した為、様々な誘拐対策が、当の子供達にとって多少の負担を強いる状況となっている。
ヒカもなんとかポケットの貴重品まで辿り着き、何も問題がない事を確認する。
「大丈夫です。何も無くなっていません。」
警備の男性はヒカの報告に若干、腑に落ちないような表情を見せたが…
「分かりました。被害が無くて何よりです。一応、他国の方には疑惑を避ける意味で、この施設内ではミアハの子供に不用意に声を掛けないで欲しいとお願いしてあるのですが、その中であえて接触して来る外国の方がいたら、一応警戒をして下さいね。せっかくの楽しいお出掛けに水を差すような事を言って心苦しいのですが…よろしくお願いします。」
と、警備の男性は優しく笑いかけながらも、この楽しそうな夢のような空間の中でも嫌なことは起こり得る事を丁寧にヒカに知らせた。
実はヒカの預かり知らない水面下では世界の様々な事情から、今ミアハの中で一番狙われているのはヒカだと想定してセヨルディの警備全体は極秘で動いているのだ。
ヒカ自身にそこまで知らせるのはあまりに酷だから、なるべく何も知らないまま楽しんで欲しいが…早速、得体の知れない外国人がヒカに接触して来たとなれば、警備員としてはある程度の警戒心を持って過ごして欲しい旨を伝えなければならないのは辛いところではある。
実際、
「…分かりました。気を付けます。」
と言いながら、楽しい気分がすっかり萎えてしまった様子のヒカを見てしまうと、警備員も仕事と言えど複雑な気持ちになった。
「午後からは警備員が更に増員されるので、やましい事を考える人の動きは午後はかなり抑えられると思います。セレスからお迎えのバスが来るまでの残り2時間、どうか存分に楽しんで下さい。」
と言って一礼し、警備員はヒカからゆっくり離れて行った。
「……」
…ここではミアハの子に話しかけて来る外国人は一応怪しまないとイケナイ…という事かな…?
あのお姉さん…そんな悪い人には見えなかったけど…
まあ過去にはミアハの子供がここで怖い思いをしてるという事は、頭の片隅に置いておく必要があるという事だろう…
そんな事を考えていると、いきなり背後からヒカの両肩に腕が被さって来て…
「ねえ、今、ヒカちゃん警備員さんと話していなかった?何かあったの?」
凄く聞き覚えのある声が片耳に響いた。
「もう…遅いよウラナちゃん。30分遅刻!」
「ええ〜……30分?15分くらいだよぉ〜。」
ヒカに後ろから抱きつきながら、ウラナは店舗案内の看板の上に設置されている時計を確認する。
「……私、人が沢山いるなあって思っていたら少し気持ち悪くなって来ちゃって早めに戻ったから…合わせて30分くらいここで待っての。そしたら外国の人が話しかけて来て…それを見ていた警備員の人が心配してくれてヒカに話しかけて来たという訳。…楽しい場所だけど、怖い思いをしたミアハの子もいるんだなって…今思っていたの。」
ヒカに抱きついたままのウラナが少し心配そうにヒカの顔を覗き込む。
「そうなんだ…遅くなってごめんね。ヒカちゃんはその外国人に何かされたの?」
ヒカは首を振り、
「ううん…きれいな女の人だったけど、青い石が転がって来て抱きしめられて…湖の方へ走って行っちゃった…」
「???…なんか…、ヒカちゃんの話はちんぷんかんぷんだけど、とにかく大丈夫だったって事ね。」
微妙な表情で微笑むウラナに、
「うん…」
と、頷いたタイミングで…
「ねえねえ、あっちに美味しそうなパン屋さんを見つけたから、皆でパン買ってお昼にしようよ〜」
と、待っていた他の2人が駆け寄って来た。
するとウラナがそれに被り気味で反応し、
「あ、可愛いクマさんの看板のお店でしょう?私も見たよ。行こう行こう。」
抱きついたままのヒカにも話しかけ、誘う。
「うん、行く〜」
更に遅れて来た2人に文句を言おうとしたヒカだったが、クマさん看板のパン屋さんの話に一気にテンションが上がり…
ワイワイガヤガヤと、4人での会話はパン屋に着いても尽きる事なく…
ヒカにとっても、その後の時間は忘れられない楽しい1日となった。
「……」
パン屋の前で笑い合い楽しそうにはしゃぐ4人の姿を、斜め向かいのカフェの2階の窓際の席で見つめる男女2人の姿があった。
「今日は警備員の数が多いなぁ…なんだか更に増えて来たし感じだし…。目的は果たしたのでしょう?もうここを離れましょうよ。」
「そうね…」
警戒を強める金髪の若い男に相槌を打つ女性は、ブルネットの髪に赤い縁のメガネをかけ、リバーシブルの上着を切り替えたらしく別人の様な出立ちだが…先程ヒカと接触した女だった。
「でもあの子…11歳でしょ?そろそろカウントダウン入ってるんでしょう…?それなのに…こんな警備員の人だらけの中に入る危険を犯してまで来る必要ありましたか?」
その…若そうな男は不安気にカリナに問いかける。
「まぁ……無駄足になる可能性もあるかも…でもね…」
4人組…いや、ヒカをずっと目で追いながらカリナはコーヒーを一口飲む。
「あの老体は未だあの子の延命に為の策に奔走し続けている。その側近達の力の入れようは尋常ではないの。あの老体が彼の場所で何か準備してる気配までは分かるんだけど…あのおじいちゃんとあの丘はまるで青い霧がかかってしまっているように見えないの。ホント、厄介だわ。ヌビラナプロジェクトが暗礁に乗り上げてるなら、こちらの件も進めるしかないじゃない?」
「あの、一応確認ですが、今回の事はあの人も望んでいる事ですよね?」
男は窓の下のヒカ達に目をやりながら、恐る恐るカリナに尋ねる。
カリナは軽く背もたれに身を預けながら髪を掻き上げ…
「コラ小僧、嫌な確認をするな。今回の件はパパの仕事を政府に邪魔させない為には断れない指令なの。国の研究所が首を長くして待ってる件よ。とりあえず種は蒔けたし…不確定要素が付き纏うあの子の未来だけど、こちらはとにかく、あの子の強運に賭けてみるしかないのよ…可愛い子だったからまたお話ししたいしね。あんたも可愛子ちゃんなら近くで何度も見たいでしょう?」
と、カリナはウィンクしながら男性を見て悪戯っぽく笑った。
男は照れてしどろもどろになり、
「…な、何言ってるんですか!…だってあの子は…」
「おい、気を緩め過ぎて口滑らすなよ。」
カリナは急に冷え冷えとした口調で、男の言葉を遮る。
「…ごめんなさい…でもさ、カリナさん…捕まってしまったら元も子もないです。あんまり意地にならないで下さいね。」
心配そうに呟く男に対し、
「うるさい。ナマ言うな。違う…これは使命感よ。」
少し睨むように彼を見据えてカリナは言い、再びコーヒーを一口啜った。
「♪〜」
ヒカが鏡の前で鼻歌まじりに髪を整えていると…
「フフッ」
唐突に聞こえた笑い声に驚き振り向くと…
「なぁんだ、ウラナちゃんか…びっくりするから入って来る時はノックしてって、この前も言ったじゃない…」
仲良しで同じ歳のウラナは、面長におさげ髪で長身の大人びた雰囲気の女の子…丸顔の短いおかっぱ頭で目が大きくあどけなさもやや残るヒカとは対象的な容姿の女の子かも知れない…
そんなウラナの意味深に笑う様子に不満そうな顔をしながらも、念入りに短い髪を整え続けているヒカを、彼女は尚も面白そうに眺めていた。
「ノックしたよ。けど返事がない代わりに鼻歌が聞こえて来たから入って来ちゃった。ハサミを貸して貰おうと思って…なんだか切れなくなっちゃったんだ。」
「…ハサミならウラナちゃんの後ろの引き出しにあるよ。」
「……」
目的のハサミを探そうともせず、ウラナは鏡の前で髪やら服を念入りにチェックしているヒカを、尚もニヤニヤしながら何か言いたそうに見続けていた。
「ウラナちゃん、なんでさっきから私を見てるの?」
気になって、ヒカはウラナに向き直って尋ねる。
「だって…ヒカちゃんはヨハ先生の所へ行く日はいつも、鏡の前でそうやって身だしなみを念入りに整えているなぁって…。ついこの前セヨルディに行った時なんて、髪の寝癖立たせたまま出かけようとするヒカちゃんなのにね…」
ヒカは11歳になっていた。
学びの棟では11歳になると、それぞれ個室を与えられるようになる。
それまでは4人部屋で生活をしていて、ウラナはその同室で仲良くなった友達で…日によってヒカの支度の整え方が変わる事を彼女は少し前から気付いていた。
「だって…ル・ダは色々厳しいんだもん。忘れ物すると注意されるし、身だしなみも襟が立っていたりボタンが外れかかっていてもすぐ気付くから…そういうのが重なるとお説教されるんだもん…」
なんだかヒカは、必死になって言い訳をしているようにウラナには見えた。
「この前なんかマナイを忘れたら、君みたいに強いセレスの力を持つ者がマナイを忘れたら大変な事になる可能性をいつも思わないとねって…マナイを忘れただけなのにお説教されてしまったんだから…」
と、焦って説明を続けるヒカに…
「…じゃあ…ヒカちゃんはヨハ先生は嫌い?」
今度はヒカは違う意味でムキになる。
「なんで?ル・ダはとても優しいよ。あんな優しい人を嫌いになる訳ないじゃない。」
ウラナは質問にムキになって答えるヒカを少し羨ましそうに見ながら…
「いいなぁ…。ヨハ先生はおとぎ話の王子様みたいだよね…そんな人がヒカちゃんのル・ダなんだよね。ヒカちゃんもなんだか楽しそうだし…」
…ヒカは、なんだか回りくどい質問をしたり急に羨ましがったりする今朝のウラナの言動の理由がよく分からないでいた。
「…ウラナちゃん…どうでもいいけど…ハサミはいいの?…私達、そろそろ話を止めないと遅刻かも。」
ウラナはハッと時計を見て青ざめる。
「いけない、ハサミよね…ハサミと…」
と、引き出しを開けてハサミを取り出し、
「じゃあ借りるね、ヒカちゃん。今日もお互い頑張ろうね!」
と、慌ただしく部屋を出て行った…
「ウラナちゃん…なんだか今日は変だったな…」
ウラナの冷やかしがイマイチ理解出来ないヒカだった。
心にほんのり小さく芽生えているある感情をヒカ自身が自覚するには、まだ少し時間が必要なようだった…
「ハァ…ハァ……おかしいな…?」
今日は瞑想の訓練の日で、その前にいつもの検診があるのだが、ウラナと話していた事が影響して、結局、遅刻ギリギリになってしまい…
ヒカは病院まで走って滑り込み、なんとか遅刻は免れたのだが…ひどく息が切れて身体がなんとも重い…
ロビーでなんとか呼吸を整えて、ル・ダの待つ診察室へと歩き出す。
「…あれ…?」
なんだか頭もクラクラする…
ま、今日は朝からいっぱい走ったからだろうと気にしないようにして、
「おはようございます!」
と、ヒカはヨハの待つ診察室のドアを勢い良く開けた。
「……」
ヨハがヒカの検診の為に午前中に使用している診療室は、今日は午後も他の医師は使用しないという事で、ヒカの検査データのコピーをその部屋に持ち込んで、ヨハはずっと睨むようにそれを見つめていた。
…検査のデータ的にはやや貧血という事以外には、いつもとほぼ変化ない結果だったが…
ティリの能力での治療時に感じた違和感…特に下腹部の感じの変化に胸騒ぎがしていた。
「…同じ歳の子に比べて体格も華奢だから…もう少し先と思っていたんだけどな……早いよ、ヒカ…」
と、徐に電話をかける。
「あ、ヨハですが、今日の長老のスケジュールを詳しく教えて頂けますか?…」
ミアハ本部の事務局スタッフと何度かのやり取りの後、ヨハは今度はイヤーフォーンで長老と数分間…声のトーンを落として深刻そうに話し込んだのだった…
「え?引っ越し?」
瞑想の訓練の終了後、ヒカはセレスの研究所への引っ越しを師匠のヨハから言い渡された。それも明日中にという唐突さに驚いていた。
「…長老はいずれ瞑想の訓練と共に、僕に付いてヒカにも長老のお手伝いをしてもらうつもりでいるようだよ。」
…にしても…
ヒカはあまりに急な指示に困惑するばかりだった。今の個室に越して1カ月も経っていなかったからだ。
ヨハは軽くパニックに陥っているヒカの様子を察しながら…
「引っ越す先の研究所の部屋もね…君が戸惑わないように同じ作りで、設置してある家具も同じだよ。急で済まないけど色々と事情があってね。皆んな手伝うから…勿論、僕も荷物を運ぶのを手伝うよ。だから、この後は部屋に戻って荷造りをして欲しい。君がまとめるのは衣類と細かい日用品と、後は…皆んなに見せたくないモノだけでいいよ。大きい物や重い物は僕やマリュさんや研究所の人達が協力して運ぶから。」
と、悪戯っぽく笑って言った。
「み、見せたくないモノなんて…あ…」
ヨハのからかうような言葉にまともに反応し、否定しようとした瞬間、ヒカはあるモノを思い出した。
ちょっと空気を和ませようとヒカをからかったつもりが以外な反応をしたので、今度はヨハの方がその様子が気になった。
「…へぇ…ヒカにも皆んなに知られたくないモノがあるんだ。」
ヒカはちょっと頰を赤らめて…
「え?えと……ひ、秘密です。」
「………」
ついこの間まであっけらかんと何でも自分に話してくれたヒカも、いつの間にか顔を赤らめて自分だけの秘密を作るようになっていたんだな…
ヒカもいよいよ思春期にさしかかる歳になった事を複雑な思いで受け止めるヨハだった。
…今は君の成長を喜びとして感じられない…
…これはカウントダウンじゃない…
…なんとしても乗り越えなければ…
「…?」
なんだか悲しそうに自分を見るヨハに、ヒカは何か違和感を感じるも理由が見当も付かない…
「ル・ダ…?」
「あ、あぁごめん、ちょっと考え事をしてしまった…じゃあ、明日の朝9時までに大体でいいから荷物をまとめて置いて。じゃないと秘密のモノを僕に見られてしまうかもね。」
と、意地悪そうに笑ういつものル・ダの顔に戻ったのを見て、ヒカは安心した。
「そ、そんな事には絶対になりません。…あ、あの、もう帰って準備してもいいですか?」
と、ヒカは慌てて立ち上がる。
「あ、そんなに焦らずに…作業はゆっくりでいいからね。今日は身体が重いって、さっき言ってただろう?」
ヨハも慌てて立ち上がる。
「?」
なんだか自分の体調をやたら気にする今日のル・ダを不思議がりながらも…
「大丈夫です。ではル・ダ、お先に失礼します。」
と、一礼してヒカは颯爽と部屋を出て行った。
「………」
遠ざかっていくヒカの足音を聞きながら、ヨハはイヤーフォーンを取り出す。
「あ、カシル先生…今大丈夫かな?いつも唐突に申し訳ないです。…例の件だけど…」
…広い瞑想部屋に再び胡座をかき、声のトーンを落として、ヨハはまた深刻な表情でボソボソと少し長めの話をした。
「…じゃあ、これで全部運び終わったって事よね…」
元々運ぶ荷物も少ない上に、リシワ、マリュ、研究所の男性スタッフ2人とヨハの計5人の大人が手伝ってくれたお陰で、引っ越しはたった1時間で終わってしまった。
後は衣類や細々とした私物を、ヒカが整理して収納するだけである。
「…それじゃあヒカちゃん…頑張ってね…」
と、マリュが目を潤ませてヒカを抱きしめた。
「……」
ただ引っ越すだけでなく、いきなり学びの棟でのカリキュラムからヒカは卒業という形になるようだった。
夕べも…
「ヒカちゃん、引っ越しちゃうんだって?」
夕食後、元同部屋だった3人が必死に荷造りしているヒカの部屋になだれ込んで来た。
特に仲の良かったウラナと、モルダ、サーナの元同部屋チーム4人がヒカの部屋に揃った。
突然の事だったが、皆んなでセヨルディに行った時に買って来たお菓子とジュースを持ち寄って、ささやかなお別れ会をしてくれた。
最後、なんだか悲しくなってヒカは泣いた。そんなヒカを見て皆んなも泣き出して、抱き合ってお別れをした。
…なんでこんなにも急に皆んなとお別れしなければならないのか分からなくて…
ヒカはいつまでも涙が止まらずに…学びの棟での最後の夜を過ごした。
「ま、まぁここから学びの棟は近いわ。ヨハ君の瞑想指導の時はヒカちゃんも弟子として来るんでしょう?皆んなはこんな急にお別れになると思ってなかったと思うから、きっと喜ぶわ。また会えなくなる訳じゃないのよ。そう…会えなくなる訳じゃないのよ…ヒカちゃん、元気で頑張るのよ…」
「?!」
リシワまで涙ぐんでいる事にヒカは驚いた。
…もう会えなくなる訳じゃないと言うのに…リシワさんまで…
毎年学びの棟を旅立って行く先輩達と話している際も笑顔だったし…彼女の泣いてる姿をヒカは初めて見た。
大げさのように感じる大人達の反応に戸惑いながらも…
「今まで色々ありがとうございました。」
と、ヒカは深々と頭を下げてお礼を言った。
研究所の玄関で皆と別れて、ヒカは荷物を片付けようと部屋に戻る途中…誰かがずっと後を付いて来るような気配を感じたので、立ち止まって振り向いた。
するとそこには意外な人物が…
「ル・ダ?!」
ずっと後ろを歩いていたのはヨハだった。
「片付けは1人で大丈夫ですよ。ま、まさか…私の秘密は探したって無駄ですよ。」
ヒカは自室の前まで走って、ドアの前を通せんぼする。
ヨハは楽しそうにヒカを見て笑った。
「あはは…ヒカの秘密探しは面白そうだね。いつかチャレンジしてみようかな…でも残念ながら、これから僕は部屋で書類を整理しないといけないから今日は無理だな。僕の住まいはヒカの相向かいの部屋なんだ。君は今日からお向かいさんだね…じゃあ…」
と、ヨハは近くまで来てギリギリで逸れて、ヒカに向かって左手をヒラヒラさせながら向かいの部屋に入っていった。
「……」
と、今閉じたばかりのヨハの部屋のドアが再び開く…
「これこれ…忘れてた…」
すぐ再登場したヨハは、真ん中に赤いボタンのある小さな銀色のカードの様な物をヒカに手渡す。
「今後は常にこれを首に掛けておいてね。」
見るとそれは角の部分に細いチェーンが付いていて、ヒカは言われるままにそれを首に通す。
「…コレ…なんですか?」
カードを色々な角度からジロジロ見て、ヒカは不思議そうにヨハに尋ねた。
目をまん丸くしてるヒカを、側で楽しそうに見つめながらヨハは答える。
「これはね、非常カード…緊急カードかな…。かなり困った時にその赤いボタンを強く押せば大きな音が鳴るんだ。変な人が話しかけて来て逃げられなかった場合とか…急に体調が悪くなって動けなくなってしまった時とかね…声が出せなくてもそれを掴んで押せば誰かが気付いてくれるからね。」
「…ここにそんな人が来るなんてあるんですか?…それに…今私は元気だし…」
ヒカは赤いボタンの部分に軽く触れながら、なんとも納得行かない表情でそれを首に掛けてヨハを見上げる。
「…本当にそうなったら困るだろう?念の為だよ。長老から預かったモノだから、ちゃんと首に掛けておいてね。」
「…?」
笑っているのに…
なんだかル・ダの目は笑っていないように見えた。
一瞬だったけど…悲しそうにさえヒカには見えた…
「じゃあ…また後でね。」
と言って、ヨハは背を向けた。
なんだか色々気になるのに…ヒカは何も聞いてはいけないような気がしていた。
「…はい、ありがとうございます…」
ヒカがやっと挨拶出来たのは、ヨハがドアを閉めた直後だった。
ドアの前で一人呆気にとられて立ちすくむヒカ…
もう…色々な変化が急過ぎて…
なぜこういう状況になったかの理由がヒカには全く分からないでいたが…
これらの急な動きは…
ヒカに間もなく立ちはだかる大きな峠をなんとか越えて欲しいと願う大人達の……
準備に準備を重ねた形でもあった…
2日後の朝…
引っ越しの整理もほぼ落ち着き、ヒカにとっては全く新しい生活の始まりだった。
天気も良く、窓を開けると小鳥のさえずりも聞こえる朝…
陽の光がヒカの身体を心地よく包み、窓から入るそよぐ風も爽やかで…
これから毎日大好きな師に会えると思うと、何もかもが軽やかに始まる朝のハズだった。
ヒカは朝食の前の瞑想の為の仕度を整えていたが…
なんだか身体が酷く重く、今回はお腹も痛い。
だが、動けないほどの辛さではないので、なんとか身だしなみを整えて部屋を出た。
1歩、2歩、3歩…足を踏み出す度に眩暈が酷くなっていく…
「な…に…こ……れ…」
景色が急に暗くなって…身体に力が入らなくなった…
4歩目を踏み出しところでヒカは…
意識を手放した。
ドサッ
「……?」
向かいの部屋で、同じように瞑想部屋へ向かう為の支度をしていたヨハの耳に、ふいに廊下から聞きなれない音が聞こえたような気がした。
胸騒ぎを覚え、彼は慌てて部屋を出る。
すぐ目の前の廊下には誰かがうずくまるように倒れていた。
首には昨日の礼のモノを掛けていたが…その状態に至る症状はあまりに急激に出たのか、押された形跡はなかった。
目の前に横たわっているのは…
淡い青緑がかったシルバーの髪の少女…
ヨハにとって想像もしたくないショッキングな光景がそこにあった、
「ヒカぁ〜っ!」
悲鳴のようにヒカの名を叫ぶヨハの声が、研究所の廊下に響き渡った…




