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17 師弟と親子


「やぁヒカちゃん、こんにちは。」


「こ、こんにちは…」


朝食後にマリュから「これからお迎えが来るからヒカちゃんはその人に付いて研究所に行ってちょうだい」と唐突に言われ、ヒカはこの場所に初めて案内された。


とても広く、学びの棟の瞑想とか体操をする場所に似てる気もするが、ちょっと違うような気も…とキョロキョロ見ていると、見覚えのある綺麗な顔の青年が入って来た。あれは確か…


「ヨハさん……あ、あの…この前は、に、入院した時、夜ずっと居てくれて、あ、ありがとうござ…ました。」


ヒカは慌てて、その人にしどろもどろな挨拶をする。


いつも…


この人を見ると何か気になって、なんだでだろう?と考えようとするが…途端に青色の怖い目が見えて頭が痛くなったりするので、ヒカはあまり近寄りたくないのだが、なぜか目が合う事が多い謎の人…


先日高熱が出た時は、朝目覚めたらベッドの脇にいてビックリしたけれど、とても優しい目で自分を見ていて…


なんだか凄く安心して…


こういうのは初めてじゃないような懐かしいような…不思議な感覚を覚えた朝だった。


病気だったからかな?


退院した時はいなかったので、マリュから「ティリの病院でお勤めして帰って来たばかりなのに、毎晩ずっと付いていて下さったのだから、次に会ったらお礼をきちんと言おうね」と言われていたが…


予想外の再会だったので、ヒカはテンパりながらお礼を言ってお辞儀をした。


「いいえ、どういたしまして。元気になって良かったね。」


ヒカが顔を上げるとその人は…


やっぱり優しい目をしていた。


いつ見てもとても綺麗なお顔…


まるで…いつかマリュさんが読んでくれたお伽話の王子様みたい…


「じゃあヒカちゃん、靴を脱いでここに上がって。」


ヨハの顔をボーっと見ながら靴を脱いで、ヒカは危うく段差に躓きそうになる。


「あ、少し段差があるから気を付けてね。」


と、ヨハは咄嗟につんのめりそうになるヒカの腕を掴みながら、微笑みながら注意する。


「あ、は、はい。すみません…」


ヒカは出入り口近くの板張りの床から少し高くなっている硬い体操用マットの様な繊維状の床の広いスペースへ気を付けながら上がり、恥ずかしくて顔が真っ赤になる…


ヨハはそんなヒカをマット状のスペースの中央へ誘導し、緩む表情を必死に隠すように少し顔を伏せて、淡々とした動作で幼い弟子を座らせた。


学びの棟の人達は皆、普段の生活ではアムナも子供も上半身は腿の辺りまでの身丈のやや長い長袖の前あきシャツに、幅広めでくるぶし迄くらいの丈の長パンツを着用している。それは運動時や瞑想時の胡座の際にも動きやすく、子ども達の様々な身体の動きにも支障のない余裕を考えた服装となっていた。因みに大人は淡い灰色で子供は薄緑色と分かれている。


今日のヨハとヒカの服装も同様にそのいで立ちである。


ヒカを胡座の状態で座らせ、ヨハ自身も同様にヒカと向かい合う形で座った。


「僕はね、ヒカちゃん。今日からヒカちゃん担当のお医者さんとなって健康管理の指導や治療をする人になったのだけれど、同時に瞑想の指導もする師匠になるように長老から指令を受けたんだよ。」


「え?ヨハ先生はお医者さんなのに瞑想の先生もするの?凄〜い。」


昔と相変わらず、ヒカは目をまん丸くして驚くようにヨハの言葉に反応する…


そんな…昔から変わらないヒカの表情が懐かしくて微笑ましくて…不覚にもついつい緩みそうになる顔をヨハは必死で引き締めながら話を続ける。


…ダメだ、僕はヒカの師なんだ。


余計な私情を入れていたら務まらないぞ。


「凄くはないよ。お医者さんになる為に一生懸命勉強したし、瞑想はね…まだ長老から色々と教わらなくてはいけない見習いなんだよ。長老からお墨付きを頂くまではあとちょっとなんだ。だからまだ僕の分かるところまでしかヒカちゃんには教えられないけど…ヒカちゃんは能力者を目指していると聞いたから、一緒に頑張ろうね。でね、長老からヒカちゃんに瞑想を教えなさいと命令されたから、これから僕はヒカちゃんの師匠になるからさ、僕の事をル・ダと呼んで。」


「ル・ダ?」


「そう…ミアハの人は皆、瞑想の師匠が出来ると弟子は師匠の事を[ル・ダ]と呼ぶんだよ。ヒカちゃんの師匠は今日から僕になったから、そう呼んで。そして僕も師匠だから君の事をこれからはヒカと呼ぶよ。最初は戸惑うかも知れないけど、慣れてしまえば大丈夫だから。」


まあ…ずっと僕はそう呼んでいんだけどね…と、ヨハは心の中では付け足した。


ヒカはジーっとヨハの目を見つめて聞いていたが、急に首を振って…


「ううん…[ちゃん]は無くて、ヒカの方がいいです。」


「…どうしてそう思うの?」


ヨハはつい…聞いていた。


「だっていつも…ん?、あれ?…よく分からないけどヒカがいいです…」


「……」


……なんとなく…


ヒカの表情が少し強張りかけてきたので、ヨハはこれ以上問うのを止めた。


「分かった。じゃあヒカ、さっそく瞑想の練習に入るよ。いつもの朝や夜ご飯の後にやる瞑想とは少し違うからね。今はそれのことは忘れて。」


と言いながら、立ち上がってヒカの姿勢や座り方をあれこれ説明しながら正した。


こうして…


ぎこちないながらも2人の師弟関係はスタートした。





「あれ?ヨハさん。」


ヒカの5日おきの定期的な検診の為に、病院でいつもの流れを一通り終え、医療スタッフの詰め所でカルテを記入して検査データのコピーを研究所へ持ち帰ろうと廊下に出たところでヨハは不意に声をかけられた。


声の方へ振り返ると…見覚えある若い女医だった。


「あれ…えっと…あ、ミリさんだ。お久しぶりです。」


ヨハが記憶を辿りながら挨拶をしたところで、ミリはヨハの目の前まで来ていた。


「お久しぶりですね…お元気でしたか?」


と、挨拶を返して来るミリから握手を求められたので、ヨハはそれに自然に応えた。


「はい、丈夫な身体だけが取り柄ですから。…でも、どうしてこちらへ?」


ちゃんと自分を覚えていてくれて、スムーズに会話出来たまでは良かったが…ミリはヨハの今の質問に軽い失望も感じた。


まだ研修医の身である自分がなぜセレスに移動になったかの質問だが…ティリの研修医は希望すれば2ヶ月間セレスやレノの病院で、研修医としてだが業務の経験が出来る制度があり、結構な割合の研修医がその制度を利用している。


よくある事だし、事前に赴任する病院には2週間前に通達されるのだが…ヨハはそこら辺の情報には全く興味ないのだろう…


「…ティリの研修医は希望すれば勉強の為に他のコロニーの医療機関で業務を経験させてもらえるシステムがあるんです。私は今回そのシステムを利用して、こちらに勉強に来たんです。…結構前ですが兄もかつてこのシステムでレノの病院に勉強に行っています。」


ミリはガッカリした様子を表情に出さないよう淡々と答えた。


ヨハはちょっと申し訳なさそうに…


「そうでしたか…他のコロニーの医療現場を知ることは大切ですよね。…僕はこういう制度とか結構無頓着で…失礼しました。あ…カシル先生は元気ですか?」


「兄なら…」


「相変わらずです」とミリが答えようとしたところで、


「あ、いたいた。お〜いミリ君、ちょっといい?」


ミリを監督しているらしい男性医師が遠くから声をかけて来た。


ミリはとても残念そうに、


「あ、すみません…ではまた…」


と軽く会釈をして、呼ばれた医師の方へ走って行った。


ミリの後ろ姿を見ながら…ヨハはカシルに送ってもらった時のお礼がまだだった事を思い出していた。


「あ、ヒカが待ってる。」


と、今の状況も思い出し、ヨハは慌てて下の階のロビーへと急いだ。






5日後…


ヨハがカルテを記入しようと詰め所に行くと、再びミリが話しかけて来た。


「あ、ミリさん、良かった…探す手間が省けました。」


ミリは予想外のヨハの言葉に一瞬、舞い上がったが…


「これ、以前にカシル先生が見たいと言っていたセレスに保管されている資料のコピーです。ミアハ内で研究されている人工子宮やら人の冷凍受精卵やら…カシルの喰いつきそうな分野のデータの一部を長老の許可を得てコピーしたものなんですが…すみませんが彼にに渡して頂けますか?」


涼しい笑顔で説明しながら資料を渡すヨハに、ミリは一瞬でも喜んだ自分を心の中で苦笑した。


だが…


「…分かりました。兄も喜ぶと思います。でしたらヨハさん、兄に渡す手間賃代わりにちょっと付き合って頂けますか?」


ヨハは予想外のミリの要求に驚いた。


「え?…なんでしょう…?」


ミリはニコッと笑って、


「15分…いや、10分で構いません。私のコーヒー休憩に付き合って頂けませんか?ヨハさんから見たセレスの医療とか日常とか…ちょっと聞いてみたかったんです。」


「……」


ヨハはティリを去る前のカシルとの食事会云々のやり取りを思い出した。


…まぁ10分くらいならヒカも下で待てるだろう…


「…分かりました。下でヒカが待っているので、本当に10分くらいなら…」


と、ミリの要求を承諾した。


ヨハの口からヒカの名前が出た事に何かじわっと不快なモノを感じたミリだが…ヨハが承諾してくれた嬉しさが勝った。


「良かったぁ…ありがとうございます。」


と、喜びを素直に伝え、ヨハと休憩室へ入って行った。




「あ、ヒカちゃん、いたいた…」


病院のロビーでソファに座ってヨハを待っていたヒカが声のする方を見ると、マリュが軽く手を振ってこちらに小走りで近寄って来た。


「あのね、これからヒカちゃんは研究所の瞑想のお部屋に行くでしょう?長老が30分くらいしたら様子を見に行きますって…。ヨハ君…ル・ダにもそう伝えてって。…じゃあ…瞑想頑張ってね。」


と告げて、マリュは手を繋いでいた小さな男の子と共に内科の待合室の方へ去って行った。


…待つ間の時間潰しに用意された童話の本は、まもなく読み終わろうとしていた。


ヒカはいつも詰め所のある2階から階段で降りて来るヨハを、その階段のすぐ下のソファに座って待っていた。


普通ならとうに降りて来ている時間なのだが…マリュから託された伝言の事もあり、このままここで待っていた方が良いモノか…だんだんと不安になる…


悩みながらも、長老からの連絡はすぐヨハに伝えた方がよい気がして…


意を決して立ち上がり、階段を上り始めたが…


ヒカは詰め所には行った事がないのでどうしていいか分からなくなり…階段を上がり切った所で立ち尽くす…


とにかく、目だけはヨハを探してキョロキョロしていると、見覚えのある看護師の女性が声をかけて来た。


「あらヒカちゃん…こんなところでどうしたの?…もしかしてヨハ先生を探しているのかな?」


「こんにちは…あの…」


ヒカはたどたどしくマリュからの連絡の話を看護師に伝えた。


「そう…確かさっき…この奥の休憩室に入って行ったかも知れないから覗いてみて。もしそこに先生が居なかったら、下で待っていた方がいいわ。先生も探してるかも知れないから…あっ、じゃあまたね、ヒカちゃん。」


用事の途中だったらしい看護師の女性は、ヒカに軽く手を振って慌ただしく去って行った。


ヒカは言われた部屋を目指して廊下を歩き出した。


目指した部屋に着くと…


ヨハらしき後ろ姿を見つけた。


「あ、……」


ヒカが近付こうとすると、後ろ姿のヨハらしき男性の正面に座って話しをしていた綺麗な女性がスッと立ち上がり、ヨハの顔の近くに寄って髪を触っていた。


「……」


ヒカはなんだかとても嫌な気持ちなった。


なんだか自分は…あそこに行ってはいけない気がして…


慌てて部屋を出て、急いで階段を降り…元のソファーに戻った。


「……」


ヒカはあの女性がヨハに触る事がなぜだか悲しかった…


「マリュさんの話…ル・ダに伝えられなかった…どうしよう…」


ヒカは不安と悲しみに押しつぶされそうになっていた。


「あれ、ヒカちゃん…元気かい?」


と、今度は背後から男性の声がヒカの名を呼んだ。


振り向くと、肺炎で入院した時の主治医だった。


その男性医師を見上げたヒカの目が、涙を溜めて今にもそれが溢れ出しそうだったので…彼は驚く…


「ど、どうしたの?」




遡る事、5分前…


「…って言って、兄はヨハさんに会いたそうにしてましたよ。この前なんか…」


付き合って購入したコーヒーを飲み干して、ヨハは部屋の時計をチェックする。


…10分はとうに過ぎている…

話しを切り上げねば…と声を発しようとしたタイミングで、


「あ、ヨハさん…ちょっといいですか…?」


と、ミリが徐ろに立ち上がってヨハの髪に手を伸ばした。


「あぁやっぱり…糸くずでした。取れましたよ。」


ミリは指でつまんだ糸くずを見せて微笑む。


そして彼女が再び椅子に座り直すと…


「…?」


ヨハの背後の景色がふと視野に入り…


ミリは一瞬、部屋を出て行く薄緑色した髪の子供の後ろ姿を見たような気がした。


…あれは…例のあの子かしら…?


と、気を取られていると、


「ありがとう…僕はもう帰ります。ヒカが待ちくたびれてると思うので…」


と言いながらヨハがスッと立ち上るところだった。


「あ、…こちらこそ…ありがとうございました。」


ヨハの所作には隙が無く…ミリはそう答えるのが精一杯だった。


早足で去って行ったヨハの余韻を、ミリは彼が先程まで座っていた場所にぼんやり感じながら…


「ま、院内で初めて話すのは…これが限界よね…」


と、少し残念そうに小さく呟いた。




ヨハが慌てて下のロビーへ向かうと、いつもの場所に座っているヒカに男性医師がしゃがんで何やら話しかけながら背中に手を置いていた。


なぜだかその雰囲気に胸騒ぎがし、ヨハは2人めがけて走っていた。


「ヒカ、遅くなってごめんね…どうしたの?」


ヨハの声に振り向いたヒカは泣いていた。


「…ル・ダ…ごめんなさい…長老が……」


とりあえず説明を聞くも、なんだかヒカの話は要領を得ない…


ヨハは一旦しゃがんでヒカの様子を伺う…


「長老がどうしたの?…どうして泣いてるの?…もしかして、身体のどこかが痛いの?」


「…」


ヒカの肩に手をかけ…

泣き顔にすっかり慌ててしまっているヨハは、つい質問を畳みかけてしまった…


すると、2人のやり取りを見守っていた医師が、


「私もまたどこか具合でも悪いのかなと思って、少し様子を見てましたが…違うようです…」


と、その医師は自分がヒカに話しかけた後の経緯をざっと説明してくれた。


「…という事の様で、あなたが来ない不安と、連絡を伝えられなかった罪悪感みたいなモノでどうしたらいいか分からなくなっていたようです。」


「そうでしたか…お忙しい中、お手数をかけてすみませんでした。」


あぁ…ちょっとした油断でやってしまった…


安易にミリの誘いに乗ってしまった後悔が、ヨハの中で駆け巡った。


男性医師は苦笑いをしながら立ち上がって…


「ヨハ先生もかなりご多忙な身とは思いますが…さっきここを通った受け付けの人の話では、この子は10時ぐらいからここに座っていたようです。…ここは警備の方が子供の様子は注意して見て下さっていますが…8歳のヒカちゃん1人でこのロビーに1時間以上待たせるのは…まだ少し厳しいように感じます。すみません…差し出がましい事を言ってしまいました。では、失礼します。」


と、苦言を残し去って行った。


「……」


ヨハは返す言葉もなかった…


「ごめんなさい…私がマリュさんから伝えてって言われたのに出来なかったから…私がいけないの…ごめんなさい。…ヒック…」


ヒカは涙が止まらない…


「僕が待たせちゃったからだよ…ヒカは悪くない。2階まで来てくれたならどうして帰っちゃったの?長老の事は最優先だからいつでも話しかけて大丈夫なんだよ…でもそうだね…僕が人とお話してたからヒカは悩んだんだね…。僕がすぐ戻っていれば起きなかった問題だ。ごめんね。さぁ…もう泣かないで…」


と、慰めながらハンカチで涙を拭っていると、耳に独特の振動が…


長老からの着信だった…


「はい、ヨハです。」


「…瞑想の部屋で待っていたんだがね…。一体、どうしてこんなに時間がかかっているんだい?」


やや不機嫌そうな長老の声…


ヨハは、少しヒカから距離を取って状況を簡単に説明する。


「すみません…行き違いがありまして、今ちょっと…ヒカが泣きやまないので少し落ち着かせてからそちらへ向かいます。」


「…そうか……これからレノの新しい研究所の視察があってね…その前に君達の瞑想の様子を見ておきたかったんだが…学びの棟から君のイヤーフォーンにかけたら繋がらなくてな…病院は場所によって電波が繋がり難いようだね。たまたま病院に向かおうとしてたマリュ君に会って伝言を頼んだんだが…面倒がらず病院に呼び出しをかけるべきだったな…すまない。次の予定があるから見学はまた明日にするよ。今日の件の詳細はその時に聞く。じゃあ頑張ってな…ヒカを頼む。」


と、長老は告げて通話は切れた。


「長老は全然怒ってないよ。今日はこれから用事があるから、また明日ってさ…」


ヨハは努めて明るく話しかけるも、ヒカはグスグスと中々泣き止まない…


以前、ヒカが入院した夜にマリュから色々と学びの棟での日常の様子を詳しく聞いた時は、以外と逞しくあっけらかんと過ごしていて、夜泣きは最近増えたけど昼間は落ち込む事はあっても泣いている姿は見た事がないと言っていた…


今日はどうしたのだろう…?


とりあえず病院を出たが…ヒカには少し気分転換が必要に感じて、病院の入り口近くのベンチにヒカを一旦座らせた。


「ヒカ…エルオの丘の脇の草原にクローバーの花が咲いているか、見に行ってみようか…?」


と言うと…ヒカはピタッと泣くのを止めて、


「うん…」


と頷いた。




……


ヨハはヒカの手を引いて、エルオの丘の脇のクローバーの草原へ向かって歩いている。


ヒカはあれからすっかり泣き止んで、ヨハとしっかりと手を繋いでご機嫌で歩いていた。


ヨハはヒカのこの切り替わりの早さを、なんだか新鮮で面白く感じていた。


自分のいない時間の中で、ヒカはヒカなりに逞しく過ごしてくれていたようで、ヨハは嬉しかった。


…君を見ていると、やっぱり僕は退屈しないな…


そうこうしているうちにクローバーの草原が見え始め…ヒカはパッと繋いでいた手を離して駆け出した。


「ヒカ…急に走ったら危ないよ。」


ん?、こんな場面は前にもあったな…


花は咲いていなかったけれど、ヒカは嬉しそうに…さっそく群生しているクローバーの密集地を見つけて座り、四つ葉のクローバーを探しているようだった…


ヒカのこんな楽しそうな姿を再び間近で見る事が出来て、ヨハは幸せな気持ちに満たされていた。


…あの悪夢の様な出来事は本当は夢だったのでは無いかと…ヨハは思えて来る…


胡座をかいて、ヒカの姿をしばらくボーっと眺めていたが…


ウトウト居眠りをし始めたタイミングで、


「ル・ダの四つ葉のクローバー見つけたよ。」


というヒカの声で我に返った。

見ると、ヒカが自分に四つ葉のクローバーを差し出していた。


「…僕にくれるの?」


「さっきはいっぱい泣いてごめんなさい…」


と、ヒカは少しバツが悪そうに、ヨハに四つ葉のクローバーを渡した。


これも前に似たような事が…


でも君はもう…僕の膝に当然のように座ったりはしないんだね。


そんな些細な違いが、あれはやはり夢ではなかったと…ヨハの幻想を打ちのめす…


ま、いっか…


「…ありがとう…じゃあこれは押し花にしてとって置くね…」


「押し花?」


あ…またヒカの目がまん丸くなった…


「そう、押し花にして置くと長い間綺麗なままで残せるんだ。」


ヒカは目を輝かせて、


「私もやりたい。」


とせがんだ。


「マリュさんにやり方を教…あ、そうだ、普段あんまり読まない分厚い本に挟んで置いても押し花になるよ。」


「じゃあル・ダと同じに出来るね。」


と、ヒカはニコッと笑った。


「…そうだね。じゃあ…もうそろそろ帰ろうか。」


と言って、ヨハが立ち上がると…


ヒカはちょっと遊び足りなそうな表情を浮かべたが…コクリと頷いた。


帰り道…

ヒカは気持ちがすっかり落ち着いて、今度は歩き疲れて来たのか…歩く速度が途中からどんどん遅くなっていた。


ヨハは長老から[師弟となった以上はスキンシップはなるべく避けて]と釘を刺されているので、一瞬悩んだが…


まあ今日はいっぱい待たせたお詫び…という事にして、ヒカをおんぶした。


程なくしてヒカはヨハの背中で眠りに落ちた…


そのまま歩き始めて間もなく…


「…ん…嫌なの…」


背中からヒカの泣きそうな声がした。


起きたのかと、様子を伺っていたが…本当に泣いている様子は無く…寝言のようだった。


「……」


ヨハはちょっとイタズラ心で、


「何が嫌なの…?」


と話しかけてみた。


すると…


「お兄ちゃんとお話ししたら嫌なの!」


「?」


お兄ちゃんという言葉が出て来たので、これ以上聞いていいものかヨハは迷ったが…


もしかして…


自分と話す事が嫌とヒカが思っているのか…?


だんだん心配になって来て…最後の質問にしようと、ヨハは思い切って再びヒカに聞いてみる…


「……どうしてお話ししたら嫌なの?」


「……」


「……女の人……お兄ちゃんの頭に触ったらダメなの!」


「??」


ヨハは意味が分からなかったが…


所詮は寝言だし、何か夢を見てるのかも知れない…と、それ以上ヒカに質問するのは止めた。


やがて病院の建物が見えて来た時に…ヨハはハッとして立ち止まる。


女の人?…頭……って…もしかして…さっきのミリさんとのやり取りを見て…?…まさか…それで泣いた…?


「……」


自分の背中で眠るヒカの安定した寝息を聞きながら、ヨハはゆっくりと歩き出す…


「…まあいいか…ヤキモチ妬いてくれたのかな?って…今日くらい都合よく想像しても誰も文句は言わないよな。」


「…」


少し堪えてみたが…ヨハの顔はじわじわと緩んでしまっていた。


失われたモノはある。


けれど、絆を紡ぎ直せばもっと…嬉しいと思える事もきっと沢山生まれるはず…


今の幸せな気持ちをヨハはもう一度噛み締めた。





「おい…あれ…ヨハ君と例の女の子じゃないか?」


病院の医師専用の詰め所の窓際で若い男性医師が2人で談笑していた時、窓の下をヒカを背負って歩くヨハの姿が片方の医師の目に留まった。


「ああ…そのようだ。あの髪の色は独特だしな…確か…つい最近ヨハ君はあの子と師弟関係になったと聞いたが、あれでは師弟というより妹のお守りをしている兄という感じだな…」


「そもそも師弟関係は15歳以上になった子と結ぶのが普通だろ?なんでまたあんな小さい子と…」


「…そりゃあ……あの女の子の事情じゃないか…?」


「事情ってなんだよ。」


「いやだから…あの子は…いや、止めよう。もうそろそろ行こうぜ。」


急にしどろもどろになって、休憩室を出ようとする医師…


その彼の腕を掴んで、片方の同僚医師が追求する。


「なんだよ。途中まで言って止めたら気になるだろ?事情ってなんだよ。」


「……」


腕を掴まれた医師はキョロキョロしながら周囲の人の有無を確認して…


「あの2人は、セレスの能力が凄くて長老のお気に入りらしいんだ。セレスの能力者が減ってる現状では貴重な存在だからな。…ヨハ君は長老の後継者候補とも言われているし。これ…おそらく元老院の中だけの話題らしいから、ヘタにこの話が広まったら…俺に話した親父がめちゃ怒られる内容だから絶対に言うなよ。あの女の子は変異の子という希少なケースでああなったのは知ってるだろ?」


「まぁ…なんかその話題もタブー扱いになってるよな…」


「俺の親父は前の長の補佐をやっていた事があって、その前の長の奥様から聞いたらしいんだけどな…変異の子は過去において皆10代までに亡くなってるらしくてさ。それをなんとか食い止める為に優秀なヨハ君を師にして能力エネルギーのコントロールを早く教えて、なんとか延命を試みているらしい…という噂だ。言うなよ、絶対に誰にも言うなよ。」


「…そうか……セレスの内部状況って…実は噂以上に色々深刻なのかもな…」


「…だな。おい…本当に言うなよ。これ、本来ならこんなところで噂話のように出来る話じゃないんだ。」


「言わないよ。……そろそろ行くか…」


「ああ…」


と、2人は出て行った…


彼等が会話していた窓の近くの衝立の向こうで、ミリが1人でカルテを書き込んでいた事には最後まで気付かずに…






メクスムのとある場所…


小屋の入り口近くでやっと捕まえる事が出来た1頭の白ヤギの乳を搾ろうとするも、ヤギは動きまわって中々思うように搾れず、美しい顔には似つかわしくない泥だらけの服の若い女性が、仕切り直そうとヤギの前に立とうとした瞬間、その声は聞こえて来た。


「タニアちゃん、不用意にヤギの前に立っては危ないよ。」


女性が声に驚いて振り向くと…


「エンデ…後ろからいきなり声をかけないで。ビックリするじゃない…あっ…」


後ろを振り返った一瞬の隙を突いてヤギはタニアにぶつかりながら通り過ぎ、走ってあっという間に遠くへ離れてしまった。


「もう、やっと捕まえられたのにまた逃げられちゃった…エンデのせいよ。」


半泣きのような声でタニアに責められたエンデは、苦笑いしながら頭をかき、


「ごめんごめん。ヤギは急に前に立たれると頭突きして来る事が割とあるんだ。まともに当たったら骨折してしまう危険もあるからさ……」


と、すまなそうに謝りながら理由を説明するその青年は、藍色の美しい瞳でなんとも優しくタニアに笑いかけた。


「そう…ね…同じような事…パパに注意されたばかりだったのに…私ってダメね…」


少しでもパパを楽にさせたくて頑張っているのに…すぐ忘れて…色々上手く出来てない…


大好きな父の役に立ててない自分にタニアは落ち込む…


シュンとしてしまったタニアの様子に慌てて、


「慣れない事を始めたばかりなんだから仕方ないよ。タニアちゃんは毎日頑張っている。人は覚えるまでは何度も失敗してしまうのはよくある事だよ。君のパパも僕も、君が頑張っている姿を見てるだけで嬉しいんだ。どうか元気を出して…あ、僕、捕まえて来るから待ってて!」


言い終えるや否や、エンデはヤギに向かって走り出す。


「え?私がやるってば……って、行っちゃった…。あの人…あの藍色の目は本当は見えてないとか言ってなかった?本当に本当に見えてないのかな…?不思議な人…」


必死にヤギを追うエンデを目で追うタニアの表情もまた、なんとも幸せそうで優しかった…


「タニア…」


ヤギと奮闘しているエンディの姿を時々可笑しそうに笑いながら眺めているタニアの背後から、再び誰かが優しく呼ぶ声がした。


振り向くと…


そこにはタニアにとって掛け替えのない存在…父・タヨハがいた。


「パ……」


いつものように抱きつこうと踵を返すタニアだったが、タヨハの後ろにもう1人…見覚えのある男の姿を見て、ピタッと動きが止まる。


「また来たの…」


一気に笑顔が失われ、警戒を感じる言い方…


タニアはタヨハを盾に隠れて、それきり黙ってしまった。


つい何秒か前の彼女とは雰囲気がガラッと変わり…


「タニア…」


困ったようにタニアを見るタヨハに、男はすかさず目で軽く合図し…


「こんにちはタニアちゃん。元気そうで良かった…驚かせてごめんね。パパや君に会いたくてまた来てしまったよ。」


タニアの拒絶反応にも動じる様子もなく、その男は寝癖の付いた頭を何度か掻いて微笑んだ。


「パパ…私、エンディを手伝って来る。」


言い終わるや否やでタニアはその男に背を向けて、ヤギをやっと捕まえたところのエンディの方へ駆けて行く…


「タニア…」


タヨハは溜め息を吐くように娘の名を呟いて、2人の様子を少しの間見守る…


「すまないね…あれでもかなり良い方向に進んでいる感じなんだ。」


「ええ…分かりますよ。僕にもそう見えます。お2人にはかなり心を開いて信頼している様子ですし、だいぶ安定した自我の中で彼女なりの感情表現をちゃんとしてると感じました。最初こちらでお会いした時は、視線はあらぬ方を見ていてほとんどダンマリで…たまに言葉を発しても意味不明で会話が成立しなかったですものね。……彼女は…記憶は…?」


日差しの下、和やかな雰囲気の中でヤギの乳搾りをする2人を、タヨハはなんとも眩しそうにに見つめながら…


「…どうなんだろうね…今のところなんとも…。でも…少し前までは僕やエンデ君にも無反応で…意味の分からない悪態をつく事すらあったんだよ。今回は君をちゃんと見て反応していた。君と向き合おうとしてる兆候にも見える。私としてはあの子は…今のような彼女が信頼出来る人間がすぐ側に常にいる環境でなら、記憶を取り戻した方がより逞しく優しく…豊かな人生を送れると思うんだがね…」


「……」


…この人は…


父親として、タニアという娘のトラウマごと受け止める覚悟で、どこまでも寄り添い続けて行くつもりなのだろう…


彼は確かにタニアの父親ではあるが…半ば犯罪に遭ってしまったような形で思いがけず父にされてしまったようなモノなのに…


「……」


思わず男はタヨハをジッと見入ってしまった…


タヨハは彼の視線に気づく…


「なんだい?僕はなんか変なことを言ってしまったかな…?」


「いや……改めて思いましたが…懐の深い方ですね。懐が深すぎるが故に、あの方が色々と心配されるのも分かる気がして来ました。」


アハハ…とタヨハは破顔し、


「…そうかい?昔はね…むしろあの人が周囲からそう言われていたんだけどね…」


そう言うと…タヨハはフッと真顔に戻り少し遠い目をした。


そして…


「今日は忙しいのに呼び出してすまなかったね。ではハンサ君、そろそろ神殿の方に移動して本題の話をしようか。」


と、タヨハはハンサを誘い、2人は神殿へと歩き始めた。


「ちょうどあなたに会わせたい人の身辺調査を終えた所だったのです。ソフィアさんからの紹介です。私としても良いタイミングでした。我等が同士。」


「うん、いいねぇ…同士とは言い得て妙だね…なんだかワクワクして来たよ。お互い頑張りましょう。」


その後神殿に入っても、2人の談笑は尽きることなく続いていた…






ある夜…


新たな環境での生活も落ち着き始めたヨハの部屋に、聞き慣れない…けど懐かしく…嫌な記憶も呼び覚ます音が、唐突に聞こえて来た。


それは、ヨハがティリの病院に研修に行く前日にヒカに渡した古いタイプの…通話者固定タイプのペアイヤーフォーンのカタワレ…


あの日…ヨハがタニアと会話してる際に、彼女はヒカの持っていたイヤーフォーンは主任に渡すと言っていたのだが、結局そのまま行方不明になってしまったので、残った片方のモノをヨハはなんとなく捨てられず…時折メンテナンスを施しながらずっと保管していたのだ。


それはヨハとヒカのみでやり取りするタイプの機器なので、かけて来る人はかつてヒカの持っていたもう片方の機器を持っている人に限定される…


タニアを捕縛した夜の記憶が一気に蘇り、かなり緊張しながら、ヨハは久しぶりに通話の為にそのイヤーフォーンを手に取る。


「…ヨハです…」


「あ、良かった、繋がった…久しぶりだね、ヨハ君。」


安堵の声と共に自己紹介して来た人物の名前を聞いて、なんとなく予想はしていたハズなのに…ヨハは少し緊張していた。











































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