16 専属の医師
あれからヒカはみるみる快復し、入院から5日で無事退院となった。
その間のヨハは、マリュを中心に比較的多くの人がヒカの様子を見ていてくれる日中は研究所の新居に戻り、必要最低限の身の回りの事を済ませてから睡眠を取り、夕方から一晩中ヒカに付き添って、朝食を摂るヒカの様子を見届けてから帰宅…という生活を繰り返した。
入院2日目の夜、思いきってヨハは入院初日の明け方に一度目覚めた事を覚えているか、さりげなくヒカに尋ねてみたが…
残念なことに全く覚えていないと言われた。
実際あの後…朝目覚めたヒカは、ヨハがいた事にかなり驚いていたので期待はしていなかったが…
だが実際、表面的にはヨハの存在はあまり影響がないように見えても、その後のヒカは担当医師が驚くほど快復の速度が早く、食欲もすぐ戻り、入院中夜泣きは一度もしなかった。
そして何より…
夕方にヨハが病室に行くと、ヒカは以前の様に微妙に警戒したり顔を強張らせる事が無くなっただけでなく、微かに嬉しそうな表情すら浮かべてくれるようになった事が、ヨハにとっても次第に心に安定をもたらして行った…
少しづつ…
焦らずに…
ヨハにとって体力的には多少キツくても、目の届かない場所でただ心配しているだけよりずっと…
再びヒカに寄り添える今の時間は、かつて育児棟で共に過ごした日々のような空気感に少しずつだが近付いて行けているようで、本来の居場所に戻って来たような感覚をヨハに与えた。
相変わらず「お兄ちゃん」とは呼んでくれず緊張感や距離感を感じて落ち込む時もあるけれど…
ヨハにとっては、思いがけずヒカと新たな絆を築ける自信も抱けた、貴重な看病の時間となった。
そして、ヒカは無事に学びの棟の生活に戻り…
ヨハも解いた荷物をやっと本格的に整理出来る状況になった、そんなある日の夕方…
本部から、
「長老がエルオの丘の書庫で待っています。」
との連絡が入った。
セレス研究所のすぐ後ろに座す、ミアハの民の心の拠り所的存在であるエルオの丘…
ミアハの守護神であるエルオという名の女神が化身した姿と言い伝えられていて、高さ100mにも満たない低い丘だが内部は色々と複雑で…瞑想の為の広場や長老の住居や書庫等、複数の様々な用途のスペースが内蔵され、地下深くにはマナイの結晶が超巨大なオベリスクのように中央に鎮座し、その頂上部を平らに削ったスペースでは時に長老や長達による秘密の儀式が行われていたりするという…
エルオの丘内部は、能力者の必需品でもある特殊な鉱石マナイが唯一産出される場所であり、能力者がその力を定期的に浄化補充する場でもあり、ミアハの民の人生の節目にも寄り添う聖地であり…長老の住まう地でもある。
その丘の麓の南側正面には、内部へ入る為の唯一の入り口があって…
ヨハは半年振りにその入り口に立つ。
警備の1人に「入場許可証」見せてから、ヨハは一度軽く呼吸を整えその中へ足を踏み入れた。
いつもの瞑想の間ではなく、その脇にある長老専用の書庫へ来いとの命を受け、ヨハ自身は初めて踏み込む未知の場所にやや緊張しながら、セレスだけでなくティリやレノの能力者らしき人達がチラホラ瞑想を行っている大きな広場を回り込み、事務所の職員から預かった上の各スペースに向かう手前のゲート用の鍵を開けて通過し、階段を少し登って目的の部屋の前で止まる。
そこでも一度深呼吸をし…
コンコン
と軽くノックして「ヨハです」と名乗る。
「入って」
と反応する長老らしき声を確認し、ヨハは入室する。
その部屋は…
入り口からは想像出来ないほどの深い奥行きがあり、狭い通路を有しながらも奥には沢山の本棚が犇めいていて、それ等の手前に坐す長老の机には一面に様々なファイルが並べてあった。
「君が見たがっていたモノだよ。まあ中には既に君が何処かで盗み見てしまった資料もあるかも知れないが…辿れる限りの過去から現在までの変異の子に関する全てのデータだ。見てごらん…」
すかさずヨハが側にあった資料を手に取ると、長老は立ち上がってヨハの横をすり抜け…
「小一時間ほど遅めの昼食に行くから、ざっと目を通して置いて。」
と言って出て行ってしまった。
「……」
かつてティリに向かう前…
ナランの質問がどうしても気になって、セレスの研究所の資料室や関連資料を保管してそうなあらゆる場所に折りを見ては入り込み、変異の子に関する資料を探しまくったが、結局、ごく部分的な資料しか見つけられず…
ティリでの研修中にも、適当な理由を作ってはしばしば病院の資料庫にも入って色々探したが、やはりお目当ての情報は殆ど見つからなかった。
そもそも、関連資料のほぼ全てがここに集められていたなら、他の場所を闇雲に探しても見つかるはずも無い情報だったのかとヨハは納得するも…
一方で関連情報のほぼ全てをここに保管し、門外不出にしておく理由が何かある様な…特殊な事情も絡む現象なのかも知れないという新たな疑念を、埃を被りながらここで長い時間を過ごして来たであろう沢山のカビ臭いファイルから感じとっていた。
とにかく、これらの資料は次はいつ目を通せるか分からない…
ヨハは夢中になってひたすら資料に目を通し始めた。
そして、ヨハが全ての資料をざっと目を通しきれたタイミングを見計らったかのように、長老は戻って来た。
「目は通せたかい?」
「……まぁ…」
ヨハの声はどことなく沈んでいた。
「…思っていたより時間がないかも知れないんですね。どうして女性の方が短命なんでしょうか?…一番長く生きられた女性は15歳だなんて……」
「……」
長老はヨハの疑問には答えず、彼の近くの椅子に腰を下ろして一枚のカードを手渡す。
「これは、セレスにおいて医師として医療行為をしてもいいという許可証のようなモノだ。君は今日から無期限のヒカ担当の医師となった。失くすなよ。」
ヨハは渡されたカードをマジマジと見た。
「…僕がヒカの寿命を延ばす為にしてあげられる事って…あるんでしょうか…?」
「今日はエラく弱気だな…」
ヨハは切なそうに、テーブルいっぱいに散らばっているファイルを見る。
「この子達は皆んな…突然倒れてから1か月以内に命を落としています。こんな…希望をどう持てば良いか分からないデータを見てしまった後では、今のあの子の年齢まで持たなかったケースも存在していたという事は、来たるべき時の準備は今すぐでも決して早過ぎではないという事ですね。」
そう…「変異の子」とはそういう事なのだ。
過去に成人まで生きた者は存在しないから、「変異の子」なのだ。
「……」
長老はゆっくりと立ち上がり、散らばったファイルを整理し始める…
「マリュとの話をリシワから聞いたぞ。君はティリの能力者としての力も素晴らしいと…」
整理したファイルをテーブルの隅に積み上げて、長老は再びヨハの隣の席に座る。
「君が諦めたら、ヒカの運命は誰が変えるんだ?」
「……」
例外なく、資料にあった癒しのエネルギー変異が起きた子達は全て20歳までは生きられていない…どころか…10歳手前で亡くなった子も1割弱存在しているのだ。
これだけ数多くの症例が記されていても、具体的な対応策はほぼ見当たらなかった。
過去のデータにヨハは打ちのめされていて…長老の問いかけにも上手く言い返せない…
「まぁ…1つの希望的見方をすればだが、10歳未満で亡くなっている子は皆男児で、幼児期に既に一般のミアハの子に比べて発育状態が明らかに悪かったとある。これはヒカには当てはまらないし、ヒカみたいにセレス以外の子がセレスの強力なエネルギーを持つ前例も今まで無いんだよな…これをどう見るかだ。」
長老は、一度大きく深呼吸してからヨハの目を真っ直ぐに見る。
「ヨハよ…ここからは心して聞いてくれ。私も色々と調べて…君には見せられないのだが、代々長老のみに伝わる書物の中に変異の子の事を指すらしい文言を幾つか見つけているんだ。それによると、かつて変異の子が現れる前後の10年には、必ずミアハにおいてなんらかの危機が訪れている。ヒカのような子はね…ミアハの危機を知らせつつ、なんらかの警告と解決の糸口を持って生まれているように、私は思えてならない…」
長老はヨハの両肩に自身の手を乗せて、その置かれた手に少し力を込める。
「その解決の糸口を見つけ出す事が、ヒカの延命やミアハの諸々の問題の解消に繋がると私は睨んでいる。今のミアハや世界の情勢を注視しながらその点を共に探って行こう。そして…」
長老はニッコリと笑う。
「過去の変異の女の子達は皆、初潮を迎えた歳かその後3年以内に亡くなっている。成長ホルモンのバランスを整えてあげる事で命の危機を遅らせるか、場合によっては応急処置的な形ではあるが、ある程度の長さの延命を可能にすると思うんだ。そこでヨハ、君には能力者として必要なレベルの瞑想をあの子に教えて行って欲しい。」
「瞑想?…ですか………なるほど。」
長老の話を聞いている内に徐々にヨハの目に希望の光が灯る。
「学びの棟では、習慣的に授業前と夕食後に瞑想を行っているが、ヒカのような強いだけでエネルギーバランスが上手く取れない子は、能力を生業としている者達のようなエネルギーをコントロールする力を早急に身に付ける必要がある。身体を通すエネルギーのバランスを整えるという事は、成長ホルモンのバランスを整える事にも繋がる。過去の変異の子達は残念な事に、本格的な瞑想と呼吸法を学び始めか学ぶ前の段階で突然に倒れ、そのまま寝込んで亡くなっている。あの子の修練開始は早い方がいいだろう。そして…」
「そして…?」
長老は立ち上がり、
「君も…ヒカの様なかなり特殊な子に瞑想と呼吸法を教えるにはまだ若干経験不足だ。これから君は、同時進行になって行くが私に付いて能力者としての経験を積みながら、ヒカの治療と健康管理、そして現段階で君が出来る限りの瞑想の指導を行ってもらう。これ等は当面の君の任務である。勿論、私も最初の段階はなるべく君達の瞑想の場にも立ち会うつもりだ。よろしく頼む。」
有無を言わせないオーラを発しながら、長老はヨハに命じた。
それを受けてヨハも椅子から立ち上がり、数歩下がって左足をおり、そこに右腕を乗せて
「御意、謹んでお受けします。」
と答えた。
ミアハでは長老や長等、立場が上の者から正式に任務や指示を受けた際に、部下的な立場の人が行う簡易的な儀礼のようなモノである。
「いいかい、ヨハ。私が指示した事は、今後ミアハ本部から報酬が出る。という事は、世間の人間はもう君を子供としては扱わないという事だ。その感覚は既にティリの病院での研修で経験し自覚は持ってると思うが…今、長老である私から直接任命された事柄に関連する全ての行為は、権限が持てると同時に私やミアハの評価に直結して来るという事も、常に頭の片隅に置いておいて欲しい。」
…いつになく、長老の目は厳しかった。
ヨハはそのまま左足を折ったままの状態で
「…心します」
と、長老を真っ直ぐに見つめ答えた
厳しい目をしていた長老は、一転、破顔する。
「今の話を心を込めて聴いていてくれた様だね…君が順調に成長して来ている証だ。私も嬉しいよ。」
と言って長老はヨハを立ち上がらせて抱擁した。
「君はこれから勉強せねばならない事が沢山ある。ヒカの問題ものんびり構えてはいられないが、セレスが直面している様々な問題もまた実に深刻だ。今後、深刻な難題ばかりを背負わせる形になって行きそうで心苦しいのだが…この先、壁にぶち当たっても決して抱え込まず何でも相談してくれ。私の元での修行を終えアナシモ(成就の間)での儀式が済んだあかつきには…まあこれは様子を見てだが…徐々に元老院の会議にも参加してもらいたい。…とにかく…だな、焦らず急いで進んで行こう。」
「…御指導を宜しくお願いします。」
「……」
長老はまだヨハを抱擁していた…
「言って置くが、これはセクハラではないぞ。」
「…分かってますから、もう離して下さい。」
ヨハの冷やかな声に、長老はパッと抱擁を解く。
「なんだ抱擁くらい…減るもんじゃなかろ?」
長老はわざと少し拗ねたような感じで言った。
「長老のこういうオマケのようなふざけた言動で、厳粛なやり取りが台無しになります。」
ヨハが更に冷ややかに言って退室しようとすると…
「あ、ちょい待ち、まだ話は終わっておらん!」
と、長老は慌てて呼び止めて、ヨハの元居た椅子を指差しながら手招きをする。
「ふざけるから…話は終わったと思うじゃないですか。」
「まあそう言うな…重苦しい話が多いから、中休みだよ。」
文句を言いながら戻ったヨハの隣の椅子に長老も再び座る。
「…今後のヒカの事だがね…少しの間は学びの棟で生活しながら君からの治療と瞑想の指導を受けてもらうようになる。彼女の様子を見ながらの判断にはなるが、君と共に私の仕事に同行させる機会をゆっくり増やして行くつもりだ。変異の進行によって彼女の外見はセレスに近くはなっているが、髪や瞳の緑はこの先も抜け切らないだろう…。長老の側でセレスの為に頑張るヒカの姿を、ミアハの全体の人達に印象付ける事は重要だ。実際、セレスじゃないという言葉をヒカは学びの棟の子ども達から時々受けているようで…タニアの件もあったからマリュやリシワもピリピリしているらしい…」
「……」
ヨハがずっと抱いて来た不安が、自分の居ない場所で既に現実になっていた…
「…ヒカは…?あの子はどんな様子で受け止めているのでしょうか…?」
長老は少し愉快そうに笑みを浮かべていた。
「…それがね…彼女も不快な事だとは思うんだけど、結構ケロッとしているらしくてね…[髪や目の色は頑張っても変わらないからしょうがないもん]てね…。それに仲良しの女の子やヒカと仲良くしたい一部の男の子達が複数で庇うので、マリュ達があえて出て行く事は殆どないらしいよ。」
「……」
心配する状況ではないにしても…
何だそれ。
ヨハはなんだかモヤモヤした。
「…君も複雑だろうけど、ヒカは案外と逞しいようだ。今のところあの子はタニアのように思い悩む状況にはなっていないようだよ。」
やや不機嫌になって行くヨハの表情を見て、長老は少し面白がるように言った。
「まあ…ヒカが傷付いていないなら安心しました。」
ヨハは自分でもよく分からない苛立ちを抑えながら安心するそぶりで答えた。
「ヒカは独特な雰囲気を持った可愛いらしい容姿だからね…君がいない間もちゃんとナイト候補がいて良かったな。」
「なっ…」
反射的にヨハは長老を睨んでいた。
長老はヨハの反応を完全に楽しんでいる様子で、いつもの様に長い顎ヒゲを撫でながらニコニコしていた。
「…さて…誰かさんのヤキモチを煽るのはここまでにして置こう。ヒカの外見の問題は、今のところ子供達の中では大きな問題にはなっていないが、この先…そこから離れれば、セレスは元よりミアハ全体でも一般社会では古臭い閉鎖的な感覚で心ない言葉を放つ者も出て来るだろう。…そういう声を黙らせる為にも、ヒカにはセレスの為に頑張っている姿を私と君の側で見せて行く必要がある。…そこでだ。」
少しだけ、長老の雰囲気がまた変わる。
「セレスの社会に受け入れられて行く為にも、これからの君とヒカはある程度の節度を持って関わって行く必要がある。これから君は体調管理や瞑想や生活指導等、あの子の全ての指導に関して責任を負う[師ル・ダ]としてヒカに接して行って欲しい。不幸中の幸いで、今はヒカから君に抱きついたりする事もないだろうから…師弟として、新たな絆を築きながら頑張って行って欲しい。君もヒカも、ミアハの社会に認められる為には必要な距離感だと理解して欲しい。ティリの研修現場でも男女が仲が良いだけで色々な噂が立ってしまう事は、君も多少は見聞きして来たろうから…分かるだろう?」
…距離感…か…
長老の話に矛盾はない。実際セレスは特殊で…人々はとにかく距離感を大事にし、「結婚しない民」とティリやレノでは言われてはいても、思春期になればやはりそれなりに男女間で意識したり、時には恋愛関係になったりもするそうで…特に近年はセレス特有の事情で僕とタニアのようなティリとセレスの混血の子が大半を占めていて、セレス内の恋愛事情も色々と変化が起きているという話はチラホラ耳に入って来る。ただ能力者に関しては、個人差はあれど特有の波長で常に天から地へとエネルギーを流している状態が多くなるので、成長期のピークを過ぎると地と交流するエネルギーの安定感が心地よく、特別な異性との交流を望まなくなってしまうというセレス独特の事情はまあまあ引き継いでいるらしい。ティリやレノの人々は、そんなセレスの能力者の様子を陰で「地に恋をする聖者」と揶揄したりするとか…
だからこそ最近のセレスでは、古い感覚が染み込んでいる中高年層の大人達からシビア過ぎるほどの視線を向けられてしまう若い男女も少なくないらしい。
いたずらに心ない噂を立てられない為にも、ヨハとヒカが適度な距離感を保つ事は今後必要不可欠になって来るのだろう。
しかしながら今は…ヒカはヨハに関する記憶をかなり失い、そんな心配をする程の関係を構築可能なのかも分からない段階で、距離感を気にしなければならない必要性を求められる2人の未来の様子は状況的になかなか想像し辛く、なんとも言えないもどかしさがヨハの胸に拡がった…
「……」
ヨハの表情を見て複雑な思いを感じ取った長老の目は、少し悲しそうに見えた。
「君達を守る意味でも…必要な事なんだ。一度噂が立ってしまうと、他愛のない行動もある事ない事噂に尾ひれが付いて、側に居られなくなる未来も引き寄せてしまうかも知れないんだよ。師弟の距離感の中でなら、君は誰にも邪魔されずにヒカの側にいられる…どうか分かってくれ。」
…確かに…
閉鎖的なセレスの社会で、長老を支えつつヒカを世間の好奇の目から守りながら生きて行く為には必須な事だ。特に、ヨハ自身がこの先もヒカの側にいる為には仕方ない事…
少なくとも長老は、自分とヒカを近くに置きながら守ろうとしてくれている。
…その配慮はヨハにもひしひしと伝わり…本当に有り難いと感じてはいる…
「…そうですね。長老の御配慮に応えられるよう……一生懸命に頑張ります。」
「…よろしく頼む。君とヒカはミアハの希望だと私は捉えている。だが勘違いするな、二人を特別扱いをするという事ではないぞ。だが、君等と一緒に努力次第で様々な可能性の扉を開けて行けるような未来を感じて、結構ワクワクしているのは…正直な所だ。共に頑張ろう。」
…長老が背負うモノの重さを、漠然とだが理解出来るようになって来ただけに…
ヨハは笑顔が少し強張る。
「…はい。」
と…
ヨハは答えて立ち上がり、一礼をして部屋を出た。
「……」
彼の足音が遠ざかり…聞こえなくなったタイミングで、長老セダルは大きく息を吐いた。
「タヨハ…せめて今はあの子は私が守ってみせる。守らせてくれ……」
そして…
長老セダルは…
実はヒカの抱える記憶と寿命の問題を打破出来るであろう…ある方法方法を知りながらも、2人には決して伝えられないもどかしさを抱えている。
それは、遠い昔の大きな約束に関わる事…
長老はひしめく本棚の最奥部に向かい、マナイの鉱物を削って作り上げた古めかしいの箱の中から代々の長老のみが目を通すことが出来る…一冊の古めかしい紺色の書物を取り出す…
『強力な、地を癒す力を有する変異の娘が産まれし時、それは終わりの始まり。だが一方で、強く聡いセレスの子と出会い、失われた同族の末裔と共に民が力を合わせ古の約定を果たせし時、終わりの中の希望の始まりともなり得る』
そこは何度も目を通した問題の章の部分…
長老として、ヒカの命の危機回避の有力な1つの手段を知り得ながらも、それは一切他言は出来ない縛りのある章でもあった。
ヒカは難易度の高いその答えには自力で辿り着かなくてはならず…
もし仮に危機を乗り越えられても…彼女は命尽きるまで約定に縛られる事となる。
その後に続く文章を見つめ、更に今も気まぐれのように稀に増え続ける後の章の出現を渇望しながら…長老は深い溜め息を吐いた。
一方、
ティリのとある立派な住宅の一室…
ダダダダダダッ
突然、廊下を駆ける足音が近づいて来て…
バッと勢いよくドアが開いた。
「母さんから聞いたぞ。セレスの病院に研修に行くって本当か?」
自室の机に向かって長いこと面倒な書類と奮闘しているミリは、ノックもなしに自室に飛び込んで来た兄にイラッとしながらペンを置いた。
「もう、いつもノックしてって言ってるのに…お兄ちゃんうるさい。修正出来ない一発勝負の書類の記入をしてるんだから…邪魔だから出てって。」
「お前…こんな妹思いの優しい兄に向かってそれはないだろ…冷たい態度してると、お前がヨハの前では猫被ってた事をヤツにバラしてやるからな!」
と言いながら、カシルはミリのベッドにドカッと腰掛けた。
「妹思いの兄は早速そんな脅すような事は言わないわよ。それに私は無神経な兄にしかこんな態度は取ったりしない。ホント、いっつも行動が唐突で一方的なんだから…そもそもお兄ちゃんがヨハ君に合わせてくれないから、もっと確実な方法を考えたのよ。ヨハ君に変なこと言ったら、私もお父さんが隠し持ってるテイホの国立研究所の入室パスを時々無断で使用してる事を言いつけるわよ。」
「お前…ホント可愛くないぞ…ただの好奇心で行ってる訳じゃないんだから、そこは黙認しろよ。お前こそ、6つも歳下の美少年をたぶらかそうとするのは止めろ。そもそもアイツにはヒカちゃんという秘蔵っ子がいるんだ。この前だって、その子の件で顔面蒼白になって飛ぶように帰ったんだ。お前の割り込む隙間なんて無いと思うぞ。」
妹の脅しに顔を強張らせながらも、必死に応戦するカシルだが、そもそも兄としての威厳がないのでミリとの口喧嘩は大体劣勢気味に終わる…
だが、ヒカの名前を出されてミリも若干動揺してしまう…
「うるさいな…余計なお世話よ。妹の様な感覚で可愛いがってる可能性だってあるでしょ?それに私はヨハ君の医師としての能力と人間性に興味があるの。…長老の有力後継者候補という噂はあるけど…最初、病院内では決して好意的な視線ばかりじゃなかったわ。…なのに…ヨハ君は半年で評価を自力で変えてしまったのよ。そんな彼と少しだけ…じっくり話してみたいのよ。」
ヨハの事を語るミリの目に…興味だけではない一種の憧れのようなモノを感じとったカシルは、ガシガシと頭を掻きながら…
「……お前は…俺より親に期待されてるからな。アイツとの意見交換も参考にはなるだろう…。まぁなんでもいいけどさ、ヨハは頑固だけどいい奴なのは確かだよ。けど…セレスだし未来の長老候補でもあるんだから…結婚しない可能性高いし…本気でその気になる事は俺はオススメはしない。…これ…一応真面目な忠告だぞ。」
「……」
ミリは…目を伏せた…
「……だから、そういうんじゃないって言ってるでしょ!私だってもう子供じゃない。…ここに来た用件がそんなくだらない勘繰りならもう出てって…」
カシルはちょっとだけ心配そうにミリを見て…
「…そうだな…お前ならその気になれば、ちゃんと信頼できて魅力ある男を捕まえられると俺は思う。…わざわざ報われない恋に首を突っ込むほど愚かじゃないと俺は信じてる。…邪魔して悪かったな。」
と、立ち上がってミリの頭をポンと軽く叩き…
「あ〜あ…俺も久しぶりにヨハに会いたくなったな…」
と呟きながら…大きな伸びをしてカシルは部屋を出て行った。
カシルの足音が遠ざかり…部屋が静かになると、
「ふぅ…」
と、ミリは一度だけ大きく息を吐いて、再び書類の記入を始めた…




