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15 魔女とその父


「あ、パパだ。」


そう叫んで少女が男に抱きつくと、彼はいつも少し困ったように微笑んでいた…


それでも男は…その後は必ず少女の名を呼んで抱きしめ返してくれた。


「ヨルア…良い子にしてたかい?」


「うん。良い子でいたらパパはまた来てくれるって言ったから…だからヨルア、ママのお手伝いもいっぱいしたよ。」


少女は男の腕の中で嬉しそうに答える。


「ヨルアったらもう…何度行ったら分かるの。その方はね…」


少女の母は、その男を嬉々として父と呼ぶ娘に困ったような顔をして嗜めようとするも…


「だってレィナちゃんやメルちゃんのお家にもパパはいるよ…ヨルアのパパだもん。」


「違うのよ、そのおじさんはね…」


母の言葉をムキになって遮る娘に尚も説明しようとする女性…


「まあまあ…ヨルアの好きなように呼んでいいよ。そうか、良い子でいたならお土産をあげよう。」


と、男はいつも親子のやり取りにやんわり割って入るも…肝心な答えは曖昧なまま…帰宅する度に普段は食べられないような高級なお菓子とか当時の流行りのおもちゃ…少し少女が成長すると、ノートや色鉛筆…時には流行りの服もくれた。


いや…


少女もだいぶ後になって気付くが、男はいつも少女の家で日中を過ごし、1.2週間は出掛けていていなかったから…彼の本当の家は、少女と母の暮らす小さなアパートではなかったのだろう…


それでも…


彼が来た日は少女だけでなく母も嬉しそうで…楽しく幸せな時間を過ごしていた。


あの日が来るまでは…


その母娘のアパートに彼が最後に訪れた日…それは少女と母の運命を大きく変えた事件が起こる4.5日前の夜の事…


「……だから、君達は出来るだけ早く…遅くとも1週間以内にはこの地を離れた方がいい。簡単でいいから荷物をまとめて、とりあえずこのメモの場所に移動して下さい。なんなら私も手伝うから…」


「いえ…それには及びません。荷物も少ないですし…ただ…今ちょっと娘が体調を崩しているので、明日の移動は難しいように思います。ですが必ず2.3日中にはこのアパートを出ます。」


母と深刻な話をしている父の膝に座って、ぼんやりしながら聞いていた少女は、その後の2人のやり取りは全く覚えていない…


少女はその時微熱を出していた。


翌日には少女はとうとう高熱となり、幾日か寝込んでしまった為…母はすぐにそこを離れる事を躊躇してしまった。


結局…その事が後の悲劇を呼ぶ原因となってしまうのだが…


少女の熱がやっと下がった日…


その日は母は朝から慌てて荷作りをしていた。


翌日の早朝にそのアパートを出るつもりで急いで準備をし、夕方にはその旨を少女が父と勘違いしてる男に連絡をしていたようだった…


だがしかし…


母の行動は1日遅く…その夜に悲劇は起きた。


銃声と怒号から始まり、人々の悲鳴があちこちから聞こえて来て…少女は灯りを消した暗闇の中で恐怖に怯え、泣きながら母の腕に縋りついていた。


「大丈夫よ…きっと大丈夫だから、今は泣き止みなさい。でないと、外の男達に見つかってしまうわ…」


母は少女を落ち着かせようと、抱きしめながら耳元でそう囁く…


外で銃を撃ちながら何やら叫んでいる男達が何者かは分からないが…母がここまで警戒しているという事は、あまり好ましくない状況に陥っている事は確かなようだった。


母は少女をキッチンに連れて行き、翌朝に出る時の為に用意していた小さなカバンに素早く冷蔵庫から取り出した何かを新たに詰め込み、食器棚の前の床をそっと剥がした…


「これからママの話す事を落ち着いてよく聞いて。この下には長いトンネルがあるの。それはね…以前何か怖い事が起きた時の為にブレ…パパが作ってくれた秘密の逃げ道なのよ。この下の横穴は少し離れた川の側まで続いているから、あなたはそこまでこの穴から行くの。」


母がここまで説明したところで、玄関の方からガチャンという音がした。


「なんだ…ここは留守かぁ?」


「留守だっていいさ、今夜はこれからが本番だ。どんどん食べ物と金目のモノを確保して行こうぜ。」


危険な空気を感じさせる2人の男の会話が聞こえて来て…


次にはガチャガチャとドアを無理矢理こじ開けるような音が…


怯えて固まる少女を見て、母は再び抱きしめる。


「心配しないで…大丈夫よ。でも時間がないわ、あなたは先に川辺まで行って待っていて。ママも後から行くから…もしも夜が明けても私が来なかったら、近くに幾つか小舟が繋いであるはずだから探して。その小舟で川を渡ってカバンの中に入っている紙を大人に見せなさい。それはパパに会う為の目印よ。」


「……」


少女はここで母と離れる事が理解出来ず…涙が止まらないまま…ただ母を見つめる。


そこでガチャッという音と共に、人の足音が…


とうとう危険な輩が入って来た事を告げる音だった。


その音に呼応する様に、母はその中に懐中電灯を先に落とし、やや強引に娘を床下に押し込む。


「床の裏側に内鍵があるから、床を閉じたらすぐに床に付いてる赤い棒をぐるっと回すのよ。もしママ以外の人が後を追おうとしたら、行く途中にある太い棒を外しなさい。そうすれば誰もあなたを追って来れないわ。」


…つまり、母は一緒に来れない…自分1人で行かなければいけないという事…


娘の反応を待たずに母は慌てて床を塞ぐ。


「早く行きなさい!振り返ったらダメ。早く!」


声のトーンを限りなく落として母が叫ぶ。


と…


「なんだ…誰かいるみたいだな…」


と、かなり近くなった男の声がした。


「マ…」


咄嗟に母を呼ぶ少女の声を掻き消す様に


「誰です?あなた達は…」


と、母が男達に向かって叫ぶ。


「おぉ…女じゃねぇか。…お姉さん綺麗だね。仲良くしようよ…」


という男の声のすぐ後で、布を裂くような音と共に、


「いや、止めなさい。」


という、母の悲鳴に近い声が聞こえた。


少女は堪らず床を僅かに持ち上げた…すると、上半身の服を破られながら男にのしかかられている母の姿が…床に置いた男のランプに照らされていた。


「ママ!」


少女は思わず叫び、床を押し上げた。


「…なんだ……あっちにも可愛い子ちゃんがいるじゃねえか。こっちへおいで…お菓子をあげよう。」


と、母の腕を押さえていたもう1人の男が少女に近づいて来る…


その男はニヤニヤすきっ歯を見せながらヨルアに手招きをする。


「おいで…このお菓子は美味しいよ〜」


「逃げなさい!逃げてパパに会うのよ。早く行きなさい!」


必死の形相で叫ぶ母に圧倒され、少女は咄嗟に床に潜り、赤い棒を回した。


「…ん?なんだ?ガキめ…中から鍵を掛けやがったな。」


少女が潜り込んだ床が持ち上がらず、ムキになって床を引っ掻く男…


「フン、こんな床なんてすぐ壊せる…待ってろよ〜」


男の声と共に何かでドンっと床を強く叩く音がして、少女はゾッとして仰け反る…


今までの…信じられないような怖い出来事の数々は皆全て夢であって欲しいと願いながら…少女は懐中電灯を持って暗く狭い横穴を夢中で進んで行った。


そして、しばらく進んで行くと…途中で太い棒が穴の真ん中に立っていた。


少女はそれをなんとか避けて進み、通り過ぎた所で母の言葉と共に先程の男の声も思い出し…恐怖で咄嗟にその棒を引き抜いた。


すると、ゴゴッという音と共に、少女が今まで進んで来た後ろの穴が一気に崩れてしまった。


…これでもうあの怖いおじさんは追って来れない…


でもそれは同時に、ママの元へは後戻り出来ないという事…


そう思った途端に、少女の目からは再び涙がドッと溢れた。


「ママぁ…うわ〜ん…」


少女はしばらくその場で泣いていたが…


…いや、ママはきっと朝までに自分の所に来る。


ママを助けてもらう為にパパに会わなくては、と…


抱え切れない恐怖と悲しみを必死で意識の外に追いやって、少女は這いつくばった体制で懐中電灯で前を照らし、出口を目指して懸命に前へ進み続けた。


少女が出口に辿りついた頃は、まだ何かが爆発する音や銃声…人の悲鳴が時々聞こえていて…恐怖に耳を塞ぎながら母親の到着をまった。


…やがて空が白み始めると、その騒ぎは少女のいる所まで届かなくなって…静寂に少し安心した為かウトウト眠ってしまった…



…どれくらい寝てしまったのか…なんだか身体が熱く、呼吸も少し辛くて少女は目が覚めた。


…どうやら体調が…再び悪化しているようだった。


ママは…まだ来ない…


…どうしよう…


穴から少し外の様子を見ようと身体を動かした時、首元の違和感に少女は気付く…


…いつも身に付けているよう母から言われていた白い石みたいなモノのペンダントが…紐ごと無くなっていた。


…もしかして…


昨日の夜、棒をくぐる時に頭を下げた際に落ちちゃったのかな…?


もしあそこで落としてたら…もう取りに行けない…


…どうしよう…


「?!…あ…」


落ち込む一方で、右肩に重みを感じ…昨夜逃げる際に母が肩に掛けてくれた小さなカバンの存在を少女は思い出した。


そういえば…あの棒の所でこのカバンが引っかかって、一度カバンを外してカバンだけ先の方に投げて棒の所を潜ったんだっけ…


多分、あの時に一緒に石の紐も脱いじゃったんだ…


少女はカバンの中のモノを確認してみる事にした。


中には、少女の好きなフルーツジュースの入った紙パックと、切り分けたオレンジが入ったタッパと…紙に包まれたモノの中にはハムと目玉焼きが挟まれたパンが出て来て…喉が渇いていた少女は紙パックのジュースを一気に飲み干し、オレンジもあっという間に外側の皮を残して食べ尽くしてしまった。


そして、ハムと目玉焼きのパンを齧り付こうとした時…


クゥ〜ン…


と鳴きながら中型犬くらいの大きさの犬が、匂いを嗅ぎ付けたのか…ゆっくりと少女のいる穴に近付いて来た。


よく見ると、その犬は身体はそれほど小さくはないが、顔がとてもあどけなく…まだ子どものように見えた。


片方の耳からは少し出血していて、身体中が煤を被ったように汚れて…元の毛の色が何色なんだかよく分からない犬だった。


「…犬さんも…酷い目に遭ったの…?」


その犬の様子はまるでもう1人の自分の姿のように思えて…少女は悲しくなった。


「お腹空いた?」


少女は今食べようとしていたパンを2つに分けて、一方を犬の足元に置いた。


「半分こしようね。」


と言いながら少女はモシャモシャともう片方のパンを食べ始めるが…犬はほぼ一口でペロッと食べてしまい…尚も少女をジーッと見ていた。


「これで食べ物は終わりなの。…ごめんね…」


少女は犬の視線がいたたまれなくて、慌てて残りのパンを頬張った。


パンを平らげた少女は少し身体の調子が良くなったように感じ、犬としばらく穴の中で寄り添いながら母の到着を待っていた。


…しかし母が一向に来る気配はなく…待っている内にまたウトウトしてしまい…


しばらくして…


ウゥ……グルルゥ…


という威嚇する犬の唸り声で少女は目覚めた。


「どうしたの…?」


と、犬の睨む方を見ると…


カサッという枯れ草を踏む音と共に、穴のすぐ外に大人の黒い革靴が見え…


「…こんな所に犬と子供…上手く隠れたねぇ。」


と、スーツ姿の男が穴を覗き込んで来た。


…この人…パパと似たような格好してる…?


少女が穴の中から顔を出し、


「…おじさんはパパのお友達?」


と聞いてみた。


そのスーツの男は、改めて少女の顔を見てニコッと笑う。


「可愛いお嬢ちゃんだね…君はこの辺りの子かい?」


「…そうよ…怖い人から逃げて来たの…」


「…そう…怖かったね…でももう大丈夫だから、出ておいで…」


男はニッコリ笑って少女に手を差し出すが…


ウゥ……


と、犬は威嚇を止めようとしない…


「……」


男の様子になんとなく違和感を感じながらも、少女は差し出された手を握って外へ引き上げられた。


…と、


「あぁテオさんここにいたんだ、そろそろ戻りま……あれ?お前は…」


遥か向こうから駆け寄って来た男を見て、少女は全身から血の気が引いた。


スーツ姿の男のすぐ後ろまで来た男の顔は…忘れもしない…昨夜押し入って来た2人組みの1人だった…


「なんだお前…こんな所に隠れてたのか…」


…男はニヤッと笑い…例のすきっ歯がまた見えた。


少女は慌てて川辺に向かって走り出す。


…小舟はどこ…?


だが所詮は少女の足…あちこちの枯れ草と泥濘にも足を取られ…


「おっとお嬢ちゃん…どこ行くの?…川の方に行かれるのはちょっと困るんだな…」


すきっ歯の男にあっけなく捕まってしまった。


「やだ、離して…」


もがく少女を抱きしめるように拘束しながら…


「コイツは金になりそうだから、生かして閉じ込めときましょう。」


と、テオというスーツの男に提案し…いやらしそうに少女の頬を舐め上げる。


男は酒臭く…何か他の異臭も混ざっていて…気持ち悪い匂いとパニックで、少女は踠きながら思わずえずく…


テオは苦笑いしながら、


「お前、嫌われているみたいだぞ。…高く売りたいなら手を出すなよ。」


と言いながら川の反対側に向かって歩き出す。


…と、


ガゥッ!


「痛てて…くそ、何しやがる。」


捕まってしまった少女を助けようとしてるのか、先程の犬がすきっ歯の男の足に噛み付く。


と同時に、少女も男の腕から逃れようと必死に踠き出す。


「あぁ、クソッ…」


余裕の無くなった男はポケットから折りたたみナイフを取り出し、少女の首元に刃先を突きつける。


切先が僅かに食い込み、少女の首筋から一筋の赤い雫が流れ落ちて行く…


「大人しくしろ。暴れるなら殺すだけだよ?嬢ちゃん。」


首筋の微かな痛みと共に何トーンも低くなった男の声が耳元に響き、少女は固まった…


そして、少し余裕の出来た男は、自分のふくらはぎに噛み付いたままの犬の背中を切り付ける。


キャンキャン…


犬が悲鳴を上げて離れた瞬間を狙い、男は更に犬を思い切り蹴り上げた。


ギャンッ


という声を上げ、1m以上先に飛ばされた犬は…そのまま動かなくなった。


「止めて、もうじっとしてるから…」


「……」


男は少女の懇願には反応することなく…動かなくなった犬の側に行き、もう一度蹴り上げた。


…犬は…もう何も反応しなくなった…


「止めてぇ!」


少女は耐え切れない展開に、思わず顔を伏せて叫ぶ…


「お前も逆らえばこうなる…よく覚えておけ。」


「……」


男の相変わらずの低いトーンでの言葉は、少女を恐怖と…深い絶望へとゆっくり追いやって行く…


ドクン…


普段は少女の奥深い所で眠っている何かが…強い鼓動と共に目覚めようとしていた。


「……」


ドクン…


「…おい、クソガキ、聞いてんのか?」


顔を伏せたまま動かない少女の髪を後頭部から引っ張り上げ、無理矢理に顔を上を向かせながら男は声を荒げて威嚇する。


「まったく…高く売りたいなら傷を付けるなと言ってるだろ…早速首に傷付けやがって…」


犬の鳴き声に振り向き、様子を見ていたテオが嗜めるように呟く。


「大人しくさせとかないと…コイツもつい殺しちまうかもですからね…」


「まぁ…ここら一帯を一夜で焼き払ったお前達ならな…」


テオの言葉に少女は更に愕然とする…


なんだか見た事ない景色と思っていたが…見た事ない場所にいるのではなく…いつもの場所が違う景色に変わってしまっていたのだと…少女はここで初めて気付く…


ドクン…


少女の見る世界は…徐々に淡いピンク色を帯びて来る…


そして…


「…ママは……どこ…?」


一番知りたかった事…でも…恐ろしくて聞けなかった事の答えを…この男は知っている気がしていた。


「ママ?…あぁ…昨夜は楽しませてくれたよ。…相棒の胸を切り付けるまではな…」


男は少女の後頭部の髪を更に強く掴んで引っ張り…睨み付けた。


ドクン…


少女の視界はピンクから赤に変わりつつあった…


「ママ…?どこ?…」


少女の異変に徐々に男も気付き出す…


「どこって…そりゃあ…あの黒焦げアパートに眠っているよ。…ぐっすりとね…」


ドクン…


先程から…少女の心臓は張り裂けそうな大きな鼓動を打ち続ける…


…でもそんな事はどうでもよかった…


男の後ろに黒く広がる遥かな平地…


それはいわゆる焼け野原…


おそらく、昨日まで母と少女が住んでいた木造アパートもあった場所。


そこに母がいるという事は…?


男の言葉が絶望を意味している事は…少女なりになんとなく理解した。


「お前…目…髪が…なん……赤…?」


「…赤…?」


少女にも何が起きているのか…分からなかった…


少女が男を至近距離で見つめると…ドクドクと…目から何かが男の目をめがけて流れ出したような感覚があった…


「?!」


男は驚愕の表情から…白目となり…泡を吹きながら、グズグズと崩れるように倒れた…


「おい、どうした?」


異変に驚き、テオが駆け寄って来る。


うつ伏せになって倒れている男を仰向けにすると…彼は白目を向いたまま、顔中に青黒い血管が浮いていて…既に呼吸が止まっていた。


「ヒッ……何…だ…?こ…」


テオは抱き抱えた男の形相があまりにショッキングだった為…思わず男の身体を突き放しながら尻餅をついてしまった。


その側で…


変わり果てた男の遺体の側で立ち尽くす…


まだあどけなさも残る瞳と、朝起きるといつも母が三つ編みしてくれた長い髪の色が…真っ赤に変貌した少女…


「ママ…パパ…どこ…?」


焼き払われた場所を見つめ…少女は呟く…


「…お前…その…眼…髪……ど…し………」


部下の男と少女のあり得ない変貌を目の当たりにし、腰が抜けた状態のテオは…何が起きているのか分からず言葉を失う…


「ママ……」


焼け野原となってしまった黒い地へ向かって、少女はゆっくりと歩き出す…


「……」


腰が抜けたテオは、少女の動向をただ見守るしかなく…


どれくらい経ったろうか…


少女の姿がかなり小さくなった頃に、やっと立ち上がる事が出来た男は…


ふと、ある事を思い出して、少女が隠れていた穴に向かう。


「…あった!」


テオが穴を覗いて最初に少女を見つけた時、少女は薄茶色の小さなカバンのような物を抱えていたような気がした…


何か…今しがた起きたあり得ない現象に関する情報が入っているのではないかと…穴の中を物色した。


「…なるほどね…」


見つけたカバンを開けると、そこにはタオルと着替えらしき服に隠れた一番底にメモ紙が…



[このメモを見つけて下さった方へ

どうかこの子を刺激せず、速やかに役人へ預けて下さい]


[役人の方へ

速やかにこの子をブレム議員へ引き渡して頂きたく、よろしくお願いします]



複数のお願いの文言の後には、その議員の電話番号らしい数字が書かれていた。


「…もしかすると…これはとんだ拾い物かもな…」


ニヤッと笑うと、すぐさま耳に手をやり…テオは誰かに指示を出す…


その時にもう一度、遥か先の少女の姿を追うと…


「…?」


なぜか姿が見えなくなっていた。


…どこへ?

ここには隠れられるモノなんて…


テオは慌ててポケットから小さな双眼鏡を取り出し、少女が歩いて行った方向を確認をする…


いた。


焼け焦げた建物の残骸の手前で1箇所…赤い塊が地面に貼り付いているように見える…


あれはおそらく少女の髪…


少女は倒れていた。


「…⁈」


少女の方へ歩き出そうとしたタイミングで、テオは耳元に振動を感じた。


「ああジェイか、例の子が今…え?……そうか…夜明けを待って敵さんもいよいよだな。」


マズいな…橋は全て破壊したのに…なぜわざわざ移動が困難なこちらの川側から来る?


一体、ここに何があるって…


「!」


あの娘か。


なんか引っかかってたんだよな…傍受した無線でやたらこの辺りを気にしてるやり取りがあったのは…


あの子が居たからか…?


「俺の勘て…やっぱ凄いな…」


「こんな所で自画自賛すか?…捕まって死にたくないなら早く乗って下さい。」


車に乗った男がテオに背後から声を掛ける。


「…ジェイ、向こうに倒れてる赤毛の娘を拾えるか?」


テオは慌てて助手席に乗り込み、呼ばれて彼を拾いに来た部下らしき軍服の男に尋ねる。


「無理ですよ。こんな隠れる事も出来ない場所で…逃げ遅れた一般人装って早くここから離れないと、なぜか敵さんの水陸両用戦車が大挙してこの辺り目指してるみたいですから…」


やはり…目的はあの子か?


「……いや…なら多分…あそこに倒れてる赤毛の子どもは駆け引きの材料に出来るかも知れないぞ…」


一刻もここを離れたいジェイはウンザリした表情で、車を発車させる。


「…仮にあの娘が目的でここに来るのだとしても、奴等があの子を生かしたいのかその逆かは調べ切れてないでしょ?それにもし、あの子が本当に触れずにあいつを殺したのなら…俺達だって近付いたら同じ目に合うリスクは低くない。…判断材料が少な過ぎます。とにかくここは引きましょう。」


だが尚もテオは渋る…


「…いや待ってくれ。あの子は親を探してる…母親はアイツが殺っちまったみたいだが、父親は今どこにいるのか分からない。父親を一緒に探す振りして誘えば気を許してくれそうなんだよ。俺は今までのやり取りで信用を失ってそうだから…お前ならなんとかなりそうだ。」


「……」


部下の男は一旦車を止めて俯き…不満を必死に押し込めているような…不穏な気配を漂わせていた。


「…いくらあんたが今回の作戦の資金調達者といえど…いい加減にしてもらえませんか?…俺も過去に戦場に特殊能力者を同行させた経験があるが…あんな…真っ赤な髪で…目が合うだけで数秒で人を殺せる能力者なんて…そんな強力で物騒なのは見た事がない…化け物レベルだ。元はあんな異様な髪色じゃなかったんでしょ?情報が殆どない現段階で、扱い方がほぼ分からない危険な子を我々が無傷で扱えると思いますか?…とにかく、この川よりの地帯が間もなく敵さんでいっぱいになる事は想定外ですから、我々は一刻も早くここを引き上げねばなりません。」


…ま、そりゃそうか…


と、テオが車の助手席に渋々乗り込んだ時…


地鳴りの様な音が川向こうからじわじわと近付いて来た。


と同時に、


<<かなりの数…少なくとも30台以上の戦車が川を渡り始めそちらに向かっている。大至急戻って下さい。>>


と…車内に無線連絡が入った…


「あぁもうっ、言わんこっちゃない…こんな所でグダグダしてる内に、我々の車は彼らのレーダーにとうに確認されている…とにかく、一か八かで振り切るしかない。」


軍服の男は、アクセルをふかしながら慌てて方向転換しようとした。が…テオは急ハンドルを切るジェイの腕に手をやった…


「待て。今、慌てて逃げ出す我々を彼らは一般人とは思わないだろう。問答無用で攻撃して来る可能性の方が高いと思わないか?」


「ではここで捕らわれるまで待って捕虜になれと?俺は軍服だし、あんたは水面下では政府にマークされてた筈だ。そんな俺達が拘束されたら、待つのは拷問された挙句の処刑しかない。…なら逃げるだけ逃げて撃ち殺された方がましだ。」


「…一か八かの手がある。…君はブレム議員を知ってるか?」


「…まぁ…それが何です?」


ジェイはかなりイライラしながら尋ねる。


「…どうやら彼があの子の親だと俺は睨んでる…本当に一か八かだがね…とにかく、あの子の所まで車を飛ばしてくれ。」


テオの指示は訳が分からないが、もうヤケクソでジェイはアクセルを踏んだ。


「もし、これで俺だけ死んだら…アンタを呪い殺します。」


「…まあしょうがない…俺もなんとか頑張るよ。」


そう言ってテオは、先程見つけた少女の母親が書き残したらしいメモ紙を見ながら電話をかける…


「…あ、ブレム議員ですか?突然にすみません。…今さっき、あなたのご息女らしい子供が倒れているのを発見しまして…そちらの優秀なレーダーはもう僕達の事を捉えているかも知れませんが…よかったら今から僕達と取り引きをしませんか?」


「……」


イヤーフォーンの呼び出しには、確かに誰かが出たが…相手はテオの問いかけを聞くと、何も言わずに電話を切った。


そうこうしてる内に、戦車の音はどんどん近くなって来ていた…


そしていよいよ川を渡り始めた戦車達の姿が徐々に見えて来て…ちょうど時を同じくして、彼等の車も横たわる少女の側に着いた。


「軍手はあるか?」


「…あるけど…?」


怪訝そうな表情で、ジェイはポケットから軍手を取り出して見せる。


「…俺はあそこで死んでるヤツの仲間だとあの子に思われてるから…すまないが、あの子の様子を見に行って来てくれ。助ける風で一緒にパパを探そうと誘えば多分、あの子は信じて攻撃はしないと思う。俺はあの子に顔を見られないようにして、ブレムとこれから交渉してみる。」


「…軍手は…?」


車のドアを開けながら部下の男が尚も尋ねると…


「念の為、あの子の目を見るのも危険だが接触も気を付けろ。難しい条件だが、頑張ってみてくれ…幸運を祈る。」


テオは戦車の様子を気にしながらジェイに指示を出し、再びイヤーフォーンに手をかける。


「…やれるだけやってみる。もし上手く行ったら…後であんたを1発殴らせろ。」


と言ってジェイは、不機嫌な表情を隠そうともせず少女に近付いて行った…


「?」


…気のせいかな?


…なんだか…遠くから見た時より髪の赤みが薄くなったような…


少女はジェイの方へ顔を向ける形でうつ伏せに倒れていたが、表情はなんだか辛そうで…汗もかいているように見えた。


「お嬢ちゃん…大丈夫?」


と、ジェイが屈んで少女の肩の方へ手を差し伸べようとすると、


「その子に気安く触れるな。」


という声と共に、少女の足元にいきなり人が現れた。


「うわっ!」


想像もしてなかった展開に、ジェイは思わず尻餅をついて無防備な体制になってしまった。


「……」


軍人らしいその男は少女を庇うように男の前に出て銃口を向けた。


彼の姿が…いや…彼の周辺全体が微妙にボヤける…


シールドを張ったのか…?


万事休す…か….


部下の男はゆっくりと両手を上げる。


「お前はそのまま動くな。…そこの車の中に隠れている男も、出て来て手を上げろ。」


次々と川から上陸した戦車が彼等の周囲を通り過ぎて行き、同時に遥か北の…テオ達の作戦拠点のある方面から微かに爆発音のようなモノが数回、聞こえた気がした…


既に政府軍の本格的な反撃は始まっているようだった…


戦車達は次々と彼等を通り過ぎて行くが…一台…見た事のない超巨大な装甲車だけがこちらに近付いて来ていた。


…その装甲車は銃を構える男の10mくらい背後まで来て、ゆっくりと止まった。


「…転送装置か…あんたはブレム氏?」


少女の側に立つ男は微妙な笑顔を見せ、


「…その質問に答えたら、君は生きて帰れなくなるかもしれないぞ?」


そんなやり取りをしてる間に、ジェイは背後に人の気配を感じ…それは車から出て来たテオだと察した…


「そちらは随分と凄い生物兵器をお持ちなんですねぇ…向こうに倒れている男は一瞬で命を落としましたよ。」


圧倒的優位に立つ敵を前に、神経を逆撫でするようなテオの言葉…


「…」


ジェイクはテオの挑発の意味が分からず小さく舌打ちしたが…


彼の予想に反して男はみるみる青ざめ、明らかに動揺している様子だった。


「……」


が、


かと言って彼等に反撃のチャンスが生まれた訳でもなかった。


なぜなら…


シールドの向こうの男の、更に少し離れた背後には3人の兵士がいつの間にか現れ、彼等もジェイ達に銃を向けていた。


…ああ…きっと最新鋭のシールドってのは防御と同時に攻撃も可能になるんだな…


完全に俺達は詰んでる…アイツのせいで…


絶対…、もし生きて帰れたなら、自分の後ろに立っているであろうアイツを10発ぶん殴ってやる…


テオの無駄な挑発とも取れる言葉に怒りがじわじわ増していくジェイだった。


と…


「う…ん……」


少女は意識を取り戻したようで…ゆっくりと身体を起こそうとしていた。


「…?」


いつの間にか少女の目も髪もかなり赤みが抜けて来ていた。


「…大丈夫か?そこでじっとしてなさい…」


男は背後の少女を気にしつつ、銃口は2人に向けたまま…


「…前の軍服の男は手榴弾と銃とナイフ、後ろの男は銃を持ってるだろ?全てスキャン済みだ。武器をそれぞれ足元に置いて立ち去れ。とりあえず、この子に外傷が無かった事に免じて今は見逃してやる。早くしろ。1分ほど攻撃を待ってやる…」


「?!」


今の男の言葉には、目の前の2人だけでなく、彼の背後の兵士達も少し困惑しているようだった。


…だがどちらにしろ、圧倒的に劣勢にある2人の男達に選択の余地は無く…武器を取り出しゆっくり足元に置いた。


「…パパ…?」


既に立ち上がっていた茶髪の少女は、背後から男の足に抱きつく…


と、


その親子の背後から部下の兵士が1人…銃を構えたまま前に出て来て、テオ達の足元に置かれた武器を目視で確認しながら側に寄せ、其れ等に何やら布っぽい物を掛けた。


「…もう大丈夫だよ…おウチに帰る前にお兄さん達にご挨拶なさい…」


父に会えてかなり安心したのか…もしくは、あまりに悲しみが深い為に一時的に母や犬の事は忘れてしまったのか…


少女は屈託のない笑顔で頷き、男達の元へ歩き出す。


「ヒッ…」


近付いて来る茶髪の少女に2人の顔が引き攣る…


「大丈夫だ、この子はハグしたいだけだよ。」


少女の長い茶髪の髪が軽やかに風になびき…


まず、手前の尻餅をついたままのジェイをハグする。


次に、テオの元へ…


「…もう…赤みはかなり抜けている…君達が再びこの子を怖がらせさえしなければ、もう身体にダメージを受ける心配はないよ。ハグさせてやってくれ…」


なかなか少女の目線に屈もうとしないテオに向かって、男が声をかける。


テオは仕方なく頭を下げる…


少女が軽くハグすると…少女のきめ細かな髪がフワッと男の頬を撫でる。


「バイバイ…またね。」


ハグを終えた男達に笑顔でそう言うと、少女は真っ先に男の所に戻って再び足元にしがみつく…


「今から10分やろう。その直後に我々は君らの仲間達に総攻撃を開始する。じゃあな。」


男はそう言うと、懐から懐中時計のようなモノを出し、スイッチを押した。


テオとジェイは、そのスイッチのカチッという音にハッと我に帰り、慌てて車に乗り込んで去って行った…


「ブレムさん。」


彼らが猛スピードで去って間もなく…ブレムの背後で納得の行かない表情で控えていた3人のうちの1人が、不満気に彼の名を呼ぶ。


「…言いたい事は分かる。だが…あの2人はもう我々から逃れる事は出来ない。なぜなら、この子の能力の発現はまだ収まっていないんだ。間もなく収まると思うが…さっきのハグはある種のマーキングで、この子が会いたいと願えば再び側に引き寄せられる…背景組織をもう少し探る為に奴等を少し泳がせて見てみてもいいかと思ってね…」


ブレムが不満そうな部下達に説明を終えた直後、


「パパ…」


今までブレムの足にしがみついていた少女が、今度は彼の裾を引っ張り…


「ねぇパパ…頭痛い…」


と、辛そうな彼を見上げる…


「そうか…分かったよ。おいで。」


と、ブレムは少女に背を向けながらしゃがむ…


だが少女は、彼の背にたどり着く前にぐずぐずと倒れ…再び意識を失った。


「ヨルア!」


慌ててブレムは向きを変え、ヨルアを横抱きにして立ち上がる。


「身体が凄く熱いな…すまないが至急転送を頼む!」


「…ですがその子は…その…大丈夫なんですか?」


今までの経緯を見ていた兵士達は…ヨルアの装甲車内への転送を躊躇していた。


「この子の髪を見ろ。金髪に戻ってるだろう?この状態なら直に触れても全く問題ない。そもそもかなりの恐怖や怒りが無いと…能力の発現は起きない。私もあんなに赤くなったあの子の髪は見た事がないんだ。あぁヨルア…どんなに怖かった事か…」


ブレムは…人目も憚らず…大粒の涙を溢しながら、目を閉じたヨルアの顔に頬ずりをした…


かつての戦場の英雄の…およそ見た事のない姿に兵士達は…戸惑いながらも装甲車内に連絡をし、転送のスイッチを押した。





「…って。もうビックリよ。あの堅物に隠し子って…」


「いや、ちょっと違う…あの子の母親がまだ身籠っている時に、父親がブレム氏の目の前で倒れてそのまま亡くなってしまい、あの方はあの子と母親の事を気にして面倒をみていたらしい…」


「でもそれならさ、パパって呼ばせるのはどうよ…」


「いや、生物兵器みたいなあの子を人知れず匿って経過観察する為に足繁く通っていたって聞いたけど…」


「怒ると髪が真っ赤になって、目も真っ赤になって…あの子と目を合わせただけで死んじゃうみたいよ。」


「…生物兵器って言うより、モンスターだな…」


「だな…。母親は例の襲撃のあった地域で遺体で見つかったみたいだから…あの人は今後あのモンスターをどうするのやら…」


「可愛い子だからモンスターは可哀想…魔女っ子でいいんじゃない?」


「…そういう問題?…じゃあこの中の誰かがあの子の担当になれと言われたら、あんたを指名しといてあげる…」


「ち、ちょっと……それは違うだろ…?」


「ブレム議員…ここに着くなり、早速官邸に呼び出されたみたいだし…」


「…あの川方面に待機中だった陸軍と、完成したての転送装置付きの装甲車を独断で動かしたんだから、まぁ…な。わざわざ古巣の軍に自ら乗り込んで、ほぼ私情をはさんでそれらを指揮したなんてな…。だけど…あの子の暴走はブレムさんじゃないとどうにも対応出来そうになかったらしいなら…あの人がいなかったらあの子は今回の反乱軍に利用されていた…もしくは殺されていた可能性もあったろうしな…」


…たくさんの人の声…


「あの現場の事は多分…ほとんど無かった事にされるのだろうけど、官邸では大目玉を食らうのは間違いないだろうな…」


お喋りしてる…


「…でも…さ、それにしても実の子じゃないなら…そこまでする?」


…うるさいなぁ…


「う〜ん…でもブレム議員は軍人時代は面倒見の良さで部下に慕われてたらしいから…う〜ん…分かんないな。まぁまぁイケメンだけど女っ気ない人だったから…今回の彼らしくない公私混同な行動にビックリしたりショック受ける現役兵士も少なくないだろうな…」


……身体が重い…動けないよ…


熱い…苦しい…


「ウッ…ゴホゴホッ…」


少女は自分の咳で目が覚めた。


「…たい…頭が痛い……ママどこ…?」


白い…お部屋…ママ……パパもいない…


「ママ?…どこ…?…パパ…うぇ〜ん…」


「?!……」


少女の泣き声で、遠くからずっと響いていたお喋りがピタッと止まる…





一方…


会議後の官邸の一室ではテイホの防衛大臣グエンが、ブレムを前にして渋い表情を終始崩さず…先程から質問というより詰問している状況が続いていた。


「…君とあの子の関係性はひとまず理解した。だが…装甲車に同乗していた隊員達の話では、君はあの子に大分感情移入している様だったと…私はその点が心配なんだよ。君は…今後あの子をどうするつもりなんだ?」


「…養女に…迎えるつもりです。」


「本気か?君は独身で…あの子とは血縁関係はないのだろう?心情的な部分は理解出来なくはないが…あの子のモンスター級の能力は…扱いを間違えば君の地位を脅かす存在にもなり得るんだぞ?今の段階で手離すべきだ。」


「…あの子の能力はそもそも…恐怖から自分を守る為に相手の動きを一時的に奪う防衛本能から来るモノです。危機が去れば能力は眠りに落ちます。あれ程の…色素の変化と能力の暴走が起きたという事は…一晩の間にあの子はそれだけの恐怖に晒されたという事なんです。襲撃の準備を察知した初期段階で、無理してでも私が直接あの親子を避難させておくべきだった。私の予測の甘さが招いた事ですから…あの子の母親に代わって私が守る義務があると考えます。」


何の迷いもなく放たれたブレムの言葉に…グエンはガックリと肩を落とす…


「君には政治家としての仕事がある。ただでさえ問題を抱える子供とどう生活し育てて行くつもりだ?…あの子は普通の子供ではない。シッターや家政婦に頼むにしても、不測の事態が起これば君の管理責任能力を問われ、議員生命も閉ざされる可能性だってあるんだぞ。…まだ若いとは思いながらも私は君に期待している。今回のクーデター紛いの暴動は、元は農地の不公平な分割による対立を煽り、政治利用しようとした変な思想の自称カリスマトレーダーが起こしたモノだ。[土地が異常に痩せて行く現象は拡大する一方で、もはや手遅れ]なる怪しい情報に富裕層達は今、不安の中で右往左往し始めている。その状況をどんな人間が舵を取って行くかでも未来は変わる。軍部での人望も厚かった君の政治家としての道を…たった1人のモンスターの暴走で失いたくはないんだよ。」


ジッと睨むような強い視線で訴えるグエンを、ブレムは怯む事なく見つめ返しながら、


「…あの子をどうしろと…?」


「……」


先に視線を逸らしたのはグエン…

俯き加減で目頭をマッサージしながら、


「…調査報告の内容次第では、君の責任問題も議題に挙げられるだろう。あの子の力は君自身の命運にも関わる問題だ。そこまで背負う覚悟がないなら、今の時点で危機の芽を摘んでおく…つまり今の段階であの子の能力を取り除く、もしくは…軍部の例の部署にあの子を委ねろ。」


「…分かりました。では、せめてあの子が快復するまで時間を下さい。私個人の身の振り方を含め、よく考えて見ます。」


「…あの子の病室には監視カメラが付いているし…周辺警備を付ける。くれぐれも妙な気を起こすなよ。もし変な行動を起こしたら…」


ブレムは右手のひらを軽くグエンに向け、その先の言葉を静止する。


「私はあの子の将来を大事に考えたいだけです。軍部に預ける事が悪い選択とも思っていないですし、バカな行動をしてあの子の今の唯一の保護者を辞める気もありませんから…」


そもそも…


一部の元軍人と不満分子を煽る活動を展開している自称トレーダーが、何やら物騒な輩ばかり集め始め来ているとの情報があった問題の地が、軍部出身の与党議員ブレムの生活域だった事から、何度もグエンに呼び出され協力を要請され身動きが取れなくなった為に、二人の引越しを見守れなかった事がこの悲劇に繋がった原因の一つという部分を、ブレムの感情としてはもう少し訴えたいところだが…


「私は…あの子が私を父親と誤認してしまった時から、彼女の人生を最優先に考えて行くと…覚悟を決めております。」


グエンは苦笑しながら溜め息を吐く…


「ブレム君…過去の経緯は聞いたが…あの子の父親の死は不幸な巡り合わせであって、君のせいではないよ。君は充分あの母娘に尽くして来た。」


そう言うと彼は徐に席を立つ。


「とりあえず1週間は猶予をやる。ゆっくり考えて返事をくれ。」


「いや、その前にあの子の母親の遺体収容を早く…」


退室しようとするグエンを引き留めようと、ブレムも立ち上がる。


「遺体回収は軍事作戦終了後からだ。これから今回の暴動に関する空軍側からの報告を聞きに行かなくてはならないんだ。悪いね…焦らずよく考えてくれ。」


グエンはブレムの要求を軽く遇らうと、サッサと出て行ってしまった…


「……」


かつて、特殊能力による犯罪を犯して能力剥奪の刑を受けた人々のその後を、ブレムは何人か見た…


残念ながら、今はまだこの地上の最高レベルの知識と技術を持ってしても、都合良く特殊能力だけ封じる方法は開発されていない…


能力剥奪の処分を受けた者達は、その後の人生では能力と共に一部の記憶を喪失したり、五感のなんらかの異常、慢性的な鬱症状、身体のどこかの身体能力が奪われ、程度により自力歩行が困難となる等…何かしらの障害が残るケースが殆どで…


中には時間の経過と共に能力が戻る場合があり、そういうケースの場合は障害もほぼ解消されるが…彼等は再び犯罪を犯さずとも、蘇った能力を人前で使用しただけで拘束され、一生…自由な生活は送れなくなるのだ。


ブレムがずっと恐れていた「ヨルアの特殊能力が最悪な形で外部に漏れる」という事が現実となり…この危機を前に、父として娘の行く末を考えたなら…


あの子…ヨルアが犯罪者になるリスクを限りなく低く出来る方法は…一刻も早く能力をコントロールする術を身に付け、この国の為に能力を生かす仕事に就くしかないのだが…


あの子の能力の質から見て、その職種はかなり限定的とブレムには思われた。


…あの時…意識を取り戻したあの子の前であの2人の男を射殺する場面を見せたくなくて…逃亡を見逃した事を軍部はどこまで許容してくれるか…


結果的に彼等は今回のテロ首謀者の拠点に近い方面に控えていた部隊に捉えられたそうだが…ブレムはあの場面でヨルアのもう一つの能力の公表を兵士達にしてしまったようなモノだった。


その彼等が、現場で見聞きしたヨルアの能力を上層部に報告しない訳がない。


ヨルアの心配と同時に…自分の処分がどの程度になるのか…今のブレムはなかなか厳しい状況に置かれている事は確かだった…


メリッサ…


君が必死で守ったであろうあの子を…私は守るどころか…


君達の救出に間に合わなかったばかりか…私は…


君はどんなにか…怖かったろう…痛かったろう…無念だったろう…


…すまなかった……


「う、…く…」


部屋の景色は涙でボヤけ…ブレムは爪が食い込むほどに強く握りしめた拳で、自身の大腿部を何度も何度も叩く…


「……メリッサ…」


つい一週間前にあの部屋で見た、2人の笑顔が切ないくらい鮮明に思い出された。


と、不意にドンドンと強めのノックの音が…


「ブレム議員、たった今、軍立病院から連絡がありまして…ヨルアちゃんがあなたを探して泣いているそうです。その…髪の色に少し変化があったそうで…誰も近寄れないで混乱してるみたいです。大至急、向かって頂けますか?」


ドアの向こうから聞こえる女性職員の声に、ブレムはハッと我に返る。


「分かった。体調が悪いところに慣れない場所で少し興奮気味なんだと思う。あの子の髪は赤っぽくなるまではほぼ問題は起きない。心配ならば目を見ず、直接肌に接触しないように注意すれば大丈夫だよ。至急向かうと伝えてくれ。」


「…分かりました。お伝えします。」


カツカツと遠ざかるヒールの音と共に、人の気配は消えた…


…感傷に浸っている時間なんてない。とにかく今はあの子の為に私が出来る最善を見いだし手繰り寄せて行くしかない。


あの子にはもう…私しかいないんだ。


ブレムは自身の頬を両方の手のひらでパチンと叩いて気合いを入れ、急いでヨルアの入院している軍立病院へ向かった。





「もっと…お姉さんのお歌が聞きたい…ねぇお願い…」


「…じゃあね…」


ヨルアの楽しそうな声が廊下に漏れて来ていて…ブレムは少し安堵しつつ、隔離病棟の個室のドアを開けた。


「お姉さんに歌を唄ってもらっているのか?良かったな、ヨルア…」


「うん。お姉さんね…とっても声が綺麗でお歌が上手いの。」


「恥ずかしいわ…ヨルアちゃん。私は沢山の歌を知ってるだけなのよ…」


少し困ったように…でも嬉しそうに照れる担当らしき看護師…


彼女はヨルアの手を握りながら、色々な童謡や流行りの歌を唄って上手く落ち着かせてくれたらしい…


「……」


有り難い状況ではあるが…彼女が淡い銀色の防護服と手袋をしてヨルアに対応している姿に…ブレムはチクリと胸が痛んだ。


「ジョアナ…久しぶりだね。元気そうでなによりだ。娘の相手をしてくれて感謝するよ…」


その若く美しい看護師には彼は見覚えがあった。


「…感謝だなんて…そんな言い方は止めて下さい。軍にいた時はどれほどあなたに助けて頂いたか…」


ジョアナはブレムの目を真っ直ぐに見る。


そう…彼女は看護師の免許を取って早々に、軍人である彼女の父の強い意向で陸軍に帯同する医療チーム所属となったのだが…慣れない環境の上に、緊張するとパニックに陥りがちでしばしばミスを連発し…慣れた他のスタッフ達にドヤされる事も多かったり、癖の悪い軍医のセクハラにも悩まされていて、ブレムは落ち込む彼女を見かける度に励まし、時に彼女はブレムに直接相談もして来たので何度か聞いてあげていた記憶もある。


その内容の殆どが彼女に執拗にセクハラを繰り返す軍医の件で、徐々に悪質さを増して来ている様子だったので、軍会議に上げいよいよその医師が更迭となった事がきっかけで、当時はかなり彼女に懐かれて少々困っていた時期もあった…


だが、ある作戦で右足を失う不運に見舞われたブレムは、最新技術の義足を付けてもらったとはいえ、第一線で隊を指揮するのはキツいと判断し、かねてから密かに準備していた自身の夢実現の為に政治活動を開始し、彼女と会うのは除隊して以来となる。


「君も軍から離れていたんだね。お父上もその方が君の為と思ったのかな…?」


ジョアナは苦笑しながら首を振った…


「いいえ…結構反対されて…でも母が…説得してくれたんです。それでやっとです。父は、母の言う事なら渋々聞いてくれますから…」


「……」


確かに…当時ジョアナの父親の愛妻ぶりは有名だった。


彼女の父は若い頃、軍に帯同していた彼女の母と大恋愛の末に結ばれたそうで…


その体験から、彼は娘にも有望な軍人から良い伴侶を見つけて欲しかったらしく…妻と同じ道を歩ませようとしたらしかった。


…だがブレムが見ていた限りでは…ジョアナは仕事が出来ない訳ではなかったが、メンタルの不安定さも他の職員より少し目立っていた。


その為に自律神経の問題で起き上がれなくなるという症状が出たそうで、3週間前後職場を離れた時期があり、軍を離れて間もなく症状が改善した報告を聞いていたブレムは…その頃から彼女は普通の病棟勤務の方が向いている気はしていた。


「…まぁでも…落ち着いた環境で君が仕事が出来ているならなによりだよ。娘はまだしばらくここでお世話になると思うから…よろしく頼むね。」


そう言ってブレムが笑いかけると、ジョアナは嬉しそうにやや顔を赤らめて…


「あ、いえ…私は臨時担当で…正式な担当の方は明日には決まるそうです。わ、私でよろしければ是非、立候補させて頂きます。」


と、ブレムに告げた。


ジョアナは更に何かいいかけたが、ヨルアの点滴が終わった事に気付き…


「あ、点滴が終わりましたね…私はあなた様が来るまでのヨルアちゃんの点滴の見張り役を承っていたので…ではちょっと失礼します。」


そう言いながらジョアナは立ち上がり、部屋を去ろうとしていた。


「私はもう軍人ではないし、君の上官でもないよ。娘と遊んでくれてありがとう。」


ブレムは退室する彼女に礼を言いながら、その後ろ姿を見守った…


「……」


出て行ったジョアナから視線を下の方に移し、ブレムが改めてヨルアを見ると…


入室した際に見せていた笑顔はすっかり消え失せ…ヨルアは悲しそうに俯いてしまっていた。


「どうした?ヨルア…看護師のお姉さんが行ってしまって寂しくなったのか?」


軽く頭を撫でたブレムの手を、ヨルアはガシッと掴み泣きそうな表情になる。


「…違うの……お姉さんは…パパの為にここに来たみたいだけど…私はいない方がいいみたいなの…」


「?…まだ熱が少し高いから何か見えちゃったか…?看護師のお姉さんはここでお仕事していただけだよ…」


ヨルアはブレムの手を掴んだまま…涙をポロポロ零す…


「あのお姉さんはパパの事が好きだから…私が邪魔で怖い人になって行くの…うわ〜ん」


ヨルアはブレムの手を両手で強く掴んだまま、泣き出した…


「ヨ、ヨルア…どうしちゃったんだ?パパはどこにも行かないよ。君のお熱が下がって元気になるまでずっとここにいるよ。約束する。大丈夫だから…」


「…本当?ずっと?パパはパパのお家に帰らないの?」


しゃくり上げながら不安げに尋ねるヨルアに、ブレムは苦笑しながら空いてる右腕を後ろからヨルアの肩に回して、


「…そうだよ。ずっとヨルアの側にいるよ。元気になったら、一緒にお家に帰ろう。」


「…ママも一緒に?」


「?!」


無意識に避けていた人物の名をサラッと出したヨルアの質問に、ブレムはギクッとなり、一瞬固まる。


「…マ、ママはね…ちょっとご用事があって…しばらく帰れないんだって。だから、その間はパパがずっとヨルアの側にいるんだよ。」


きっちり熱が下がってから説明しようと思っていたが…不意に聞かれてブレムはかなり焦った。


…ここでパニックになったら職員に何を告げ口されるか分からない…


母の死を自覚したヨルアがどうなってしまうのか…?


考えると恐ろしさは込み上げて来るが…あの子のどんな感情も悲しみも…受け止めてあげられる人間はもう自分しかいないのだ。


母の話は退院後自宅で…例えどんな状況になろうとも、ヨルアの感情を受け止めようと覚悟している。


覚悟は持ちつつ…今はメリッサの死の事は意識から外すようにすることを、ブレムは改めて自分に言い聞かせた。


「パパと一緒にいていいの?」


「ああ、そうだよ。」


ヨルアは表情が徐々に明るくなって行く…


「ずっと…いてもいいの?」


「…そうだよ。」


ヨルアは…破顔し…


「嬉しい…パパ大好きだから…」


目を輝かせてブレムを見上げた。


「……」


「…パパ…?」


ブレムは…思わずヨルアを抱きしめ…泣いていた…


「どうして泣いてるの…?…パパは…悲しいの?」


不安そうにヨルアがブレムの顔を覗き込む…


「…違う…ヨルアが…パパとずっといたいって…言ってくれたから…良かったなって…」


ブレムは抱きしめている腕に、更に力を込めてしまっていた…


だがヨルアは嫌がらず…そのままでいてくれた。


そして…


「パパ大好きだから…パパが良かったって思って、ヨルア良かった…」


と言いながら、ヨルアはブレムの頭をヨシヨシと撫でた。


「パパ…泣かないで…ヨルアがずっとナデナデしてあげるから…」


「…ヨルア……パパも大好きだよ。だから…2人で頑張ろうな…」


ブレムは…何か張り詰めていたものが切れてしまったように…涙が止まらなくなっていた…


子供の前で…こんな…全く情け無い…


そう思いながらも…涙は止められなかった。


「よく分からないけど…ヨルア頑張る…パパ…いい子いい子…」


ヨルアはブレムの涙には全く動揺せずに…何度も何度も頭を撫で続けた。


「パパ…ヨルアはパパの側にずっといたいけど…あの人は…パパにはヨルアが邪魔みたい…ヨルア、独りぼっちになったら…みんな壊しちゃうみたいだから…怖い…」


「…え…?」


驚いてヨルアを見ると…


ヨルアは少し悲しそうに…


「ヨルアが…パパを悪い人達から守ってあげる。だから…ヨルアを独りぼっちにしないでね。」


と言って、今度はヨルアがブレムを抱きしめ返して…再びニッコリ笑った。




翌日…


「ブレム!」


下の階でヨルアの着替えや生活用品を購入し部屋へ戻る途中で、ブレムは思わぬ人物に背後から呼び止められる。


「アイラ…さん…?」


振り向くと、白髪でふくよかな体型の男性が嬉しそうに駆け寄って来た。


「久しぶりだなぁ…君もすっかり偉くなっちゃって中々見かけなくしまったからなぁ…こんな所で会えるなんて嬉しいよ。」


そのアイラという高齢の男性は、人好きのする笑顔でブレムを思い切りハグした。


「この病院の院長がご冗談を。あなたこそ…中々会ってもらえないと、議員達が時々愚痴っているのを耳にしますよ。」


「選挙前の上っ面だけの議員の訪問にイチイチ付き合う義理はないからね。医療現場の問題を真剣に憂いてくれている政治家なら肩書き問わず喜んで真面目な話をしているよ。」


このアイラという人物は、ブレムが軍の一兵卒で奮闘していた頃の、軍の医療チームの責任者でもあった。


当時の若きブレムは、彼には色々…特に足を失った際に色々とお世話になった。


軍人としての今後を憂いていた時期に、理想を語るブレムの背中を強く押してくれて…議員となったのは彼のお陰と言っても差し支えない存在である。


アイラは、ブレムが軍人生活に区切りをつける数年前には既に軍を退いていて…会うのは除隊して以来だったが…今のブレムには彼の年齢を感じさせない力強く温かいオーラは、なんとも安心感をもらえる有り難いモノだった…


「元気そうで安心した。…その…大変だったな。専門分野ではないが能力者の件は時々扱う。私で良ければ相談くらいは聞くし、人脈で有能な人物も紹介出来るかも知れんから遠慮せず言ってくれ…あそうだ、」


アイラは胸ポケットから小さい紙を取り出してブレムに渡す。


「私の名刺だ。最近はあんまりなくなったが、特別に情報交換したい人物にだけ渡してる。私の個人的な連絡先の入ったものだ。…君には渡しておいた方がいい気がしてな…しばらくは君も大変で難しい立場と思うが、また君と飲みたいよ。」


「…そうですね。状況が落ち着いて来たなら是非…」


そうだった…


彼はかなり酒豪で…当時、入隊したての新人は彼に付き合わされ潰される洗礼をそれぞれくぐり抜けて来た経験を持っているのだ。


ブレムも後多分に漏れず…その経験がややトラウマになり、その後の様々な酒の付き合いが苦手となった彼は「人に隙を見せない堅物」と言うイメージが付いてしまった。


まあ実際…メリッサとヨルアに出会ってからは、意図的にそのイメージを利用してあえて私生活をベールに包むようにして来たのではあるが…


さすがに…年齢的にみても彼はその頃より酒は弱くなってるだろうが…こちらはそもそもあまり飲みつけてないから、また潰される危険も無くはない…


「では…娘が待っているので…」


長話をして藪蛇にならないようブレムは早々に話を切り上げ、軽く会釈して立ち去ろうとすると、


「あぁそうだな…困ったら、本当に遠慮なく相談してくれ。まあ頑張れよ。」


「…立場上、入院している娘の情報は把握されていますよね。ありがとうございます。今…少しの間ジョアナさんに娘を見てもらっているので失礼し…」


「ちょっと待て、今ジョアナと言ったか…?看護師のジョアナか?」


ジョアナの名前を聞いた途端…アイラの表情が一気に強張った。


仕事中に…知り合いとはいえ、看護師に余計な頼み事をしてしまったのはマズかったかな?


しかも、院長であるアイラの前でつい名前を出してしまい…ブレムは自分の不用意さを後悔した。


「勤務中の看護師に業務以外の事を頼んでしまったのは良くなかったですね…すみません。休憩に入るところだからという彼女の厚意につい私が甘えてしまって…どうか叱らないであげて…」


「違う!そういう事じゃない。とにかく、早く部屋に戻った方がいい。私も行く。」


アイラはかなり慌てた様子でブレムの腕を掴みながら走り出す…


「あ、はい…」


いきなり何なんだ?と戸惑いながらも…アイラの様子の変わりようにブレムも胸騒ぎを覚え、走り出した。


[…パパが好きで…私が邪魔で怖い人になって行くの…]


昨日…ヨルアは確かそう言っていた…


ヨルア…どうか無事で…


ドクドクと…うるさい程に鳴る鼓動…周囲の怪訝な視線を気にする余裕もなく、ブレムは夢中で走った。


「ヨルア!」


…どうか、取り越し苦労であって欲しいと願いながら、ブレムは病室のドアを一気に開けた。


「……」

 

ヨルアは…


ベッドに横たわっていた…が、明らかに様子がおかしい…


赤茶の髪がみるみる元の髪色に戻って行っているが…目を開けず反応がない。


何より、肌が…じわじわとくすみ始めていて水分が抜けて行くような…異様な状態になっている。


何が…起きている…?


ヨルアは…死んだ…のか…?


「…遅かったか…」


背後で舌打ちしながら呟くアイラの言葉も、今のブレムの意識に入っては来ない…


「ヨルア…どうしたんだ…?」


ベッドに駆け寄ろうてして何かに躓く…が、そんな事はどうでも良くて…それを乗り越えブレムはヨルアの身体を抱き起こし、必死に揺さぶる。


「…ヨルア、目を開けなさい。ヨルア、ヨルア………頼む、起きてくれ……」


「……」


きっと眠っているだけと…何度も何度も…彼はヨルアを揺さぶり続ける…


「どうしたんですか?」


必死の形相で駆けて行く二人の様子を見かけたスタッフ達が部屋に集まって来る。


「…悪いがαエゾイドと注射器を持って来てくれ。それから、床に失神してるこの女を拘束して詰め所に運んで…それから至急警察も呼んでくれ。」


背後ではアイラがテキパキとスタッフ達に指示を出していたが…


今のブレムは、ヨルア以外は全て意識の外だった。


「うわ〜〜っ!!ヨルア…ヨルアぁ…頼むから目を開けてくれぇ…」


「……」


アイラの指示通り対応してるスタッフ達が…ブレムのかなり取り乱した様子に唖然とする…


「用が済んだスタッフは部屋から離れて通常業務に戻って。あ、君はジョアナが握っていたこの注射器の残液を研究センターへ持って行って調べてくれる?」


相変わらずアイラは冷静に淡々と動いていた。


「院長、お持ちしました。」


「あ、ありがとう。君ももう戻っていいよ。」


先程指示したモノを届けたスタッフも部屋の外に出してドアを閉め、アイラはそれを持ってヨルアの枕元に近付いて来る。


「落ち着け、ブレム。その子は死んでない。よく見ろ…呼吸してるだろう?」


「……え?…」


少し間を置いてから、アイラの言葉はやっとブレムに届き…


慌ててヨルアの胸元に耳をあてると…やや弱いが心音も聞こえた。


「ヨルアの今の特殊な状態には心当たりがあるんだ。おそらく…この子は、間もなく呼吸も心音も元の状態に戻るだろう。」


そう言いながらアイラは、ヨルアの腕に先程スタッフに持って来させた薬液を注射した。


「昨日…この子が入院した日の夜に、薬局である薬液が盗まれたんだ。その薬はエゾイドという…罪を犯した特殊能力者に打たれる薬で…様々な副作用を残して能力を消滅させる激薬だ。」


アイラの言葉にブレムは目を見開く…


「……」


「私は過去に何度か特殊能力を持つ犯罪者の能力的処刑に立ち会っていてね…仮死状態までには至らないが、一時的な血圧低下と共に意識が無くなり呼吸も心音も弱くなる。そして…どうしてそうなるか原因は未だよく分かっていないが…人によってはこの様な…一時的な老化現象が起こるんだ。大体は元に戻るんだが…私は過去に1人だけ死亡したケースも見ているから、念の為、この薬剤の中和剤を打っておいた。」


「なぜヨルアはこんな目に…?…ジョアナは一体…どうしてこんな…。この子は母とはぐれてから…とても怖い思いをしてるんです。私があの地に駆けつけた時…ヨルアの髪は真っ赤だった。どれほどの恐怖の夜を過ごしていたのか…現場では変死していた男が1人いました。…断言は出来ませんが…ヨルアの能力と無関係ではないと思います。でもそれは、あの子の防衛本能からくる反応だったんです。…あの子はただ怖くて…誰もあの子を守ってやれる者がいない状況で…やっとここで一安心出来ると思ったのに、なんでこんな…」


ブレムはずっと…しがみつく様にヨルアを抱きしめている…


「…何か良くないモノを注入されている事をこの子は察し、恐怖を抱いたのだろうね。おそらくジョアナの失神はヨルアが関係しているだろう。この子は頑張った。みすみすジョアナを逃がしていたら、今度は君に何かを仕掛けて来た可能性もある思う。ヨルアは頑張って君を守ったとも言える。」


アイラはヨルアの頭を撫でながら…


「よく頑張ったな、さすがブレムの娘…」


と言った。


「……僕が…不用意過ぎました。ヨルアには…本当に色々申し訳ない…」


再び溢れる涙を拭おうともせず…ブレムもヨルアの頭を何度も何度も撫でた…


「あのジョアナは…一体なんなんです…?」


「…まあ…立ち話もなんだから……最近、腰の具合がね…ちょっといいかい?」


そう言ってアイラはベッドの脇に椅子を2つ並べ、片方の椅子に座りながらブレムを手招きする。


「ジョアナは看護師の服装で倒れていたが、諸々の問題でこの病院を1年前にクビになっているんだ。つい最近には警察の事情聴取も受けていた情報も確認している。」


「……」


昨日…ヨルアに歌を唄ってくれたり、はにかみながら近況を話してくれた彼女の様子と…実像のギャップがあまりにも乖離していて、未だ現実が頭の中で整理出来ていないブレムは…混乱の中にいた。


「今だから話せる事だが…君は軍を離れてから今まで、職場の誰にも住居の情報を告げずにいただろう?私は結果的に良い判断だったと思うぞ。」


「…それはどういう…?」


「…うん…脈も…呼吸も大分落ち着いて来た。遅くとも明日中には意識も戻るだろう。ただ…この老化現象は個人差があってな…早ければ2.3日…長いケースだと1ヶ月前後まで残るかな…。その間は…女の子だし…なるべく鏡や人目に触れさせないようにしてあげた方が無難かもな…」


会話しながらも、ヨルアの容態をチェックし続けるアイラ…


「あ…君の質問はえっと…そうそう…君は今後もしばらくはなるべく周囲に居住地を知られないままにした方がいいと私は思う。ある程度情報はコントロールされて世間には晒されないだろうが…君の娘としてこの子の存在は軍部やこの病院では広まってしまったから…。あ、そうだ、念の為、今すぐこの部屋のカメラのチェックをした方がいい。私は腰がね…さっき全力で走ったのも良くなかった様だ…済まないがよく見てくれ。」


「…昨夜に一度チェックしてあります。」


昨夜はヨルアの最後の点滴の後に一応、ブレムはチェックして置いたのだった。


アイラはじれったそうに、


「ジョアナが出入りしていたんだから、チェックは彼女の退室毎にしなきゃダメだったんだよ。あの子は職員でもないのにヨルアが入院した当日に紛れ込んでいるんだぞ。ご丁寧に防護服まで着ていたな…おそらく入室して直ぐに監視カメラに細工をしていた可能性が高い。あ、そうだ…」


アイラは耳にかけっぱなしになっているイヤーフォーンを弄り…


「あ、私だ。手が空き次第、君と看護師長で病院内全域に盗聴機が仕掛けられていないかを調べてくれ。警察が来たらジョアナの情報入手手段と侵入手口を調べてくれるとは思うが…共犯がいる可能性も高いから、調査は君と看護師長の2人だけで頼む。」


と指示を出していた。


「…軍の関係者が利用するケースが殆どだから、詰め所や会議室とVIP待遇者用の個室周辺は電波を遮断してるが…職員同士が病院専用のイヤーフォーンで報連相する場面が結構あるからね…。ジョアナは彼の父親の計らいで一応依願退職扱いになってるが、医師との不適切恋愛を繰り返していたり、病院内の複数箇所に盗聴機を仕掛けたり微量ずつ様々な薬剤を抜き取っていたり…疑惑が山盛りで浮上していた。彼女を巡ってのトラブルや疑惑が後を絶たず、結局、事実上クビにしたんだ。」


「……」


ブレムの抱く今までのジョアナのイメージからは遠くかけ離れてしまっている彼女の近況には…彼はとにかく言葉を失った…


「彼女の事は僕が軍人時代の記憶しかありませんが…まるで自分の知っている彼女ではないような…。いつから…何がジョアナをそこまで変えてしまったのでしょう?」


「いつから…ねぇ」


アイラは意味深な表情でブレムを見てから…軽く溜め息を吐いた。


「ジョアナは君のように夢の為に自ら選択して軍を離れた訳じゃなく…諸々の不都合な真実が明るみに出て移動を命じられたんだ。ここに来た時点で家族とは断絶状態になってしまっていたようで…生活を楽にする為に医師に擦り寄ったり、ここでくすねた薬剤を怪しい人物に横流ししていたり…他にも細かな疑惑を入れたら、ジョアナはかなりの曲者だったという事かな…。彼女は君の前では一生懸命にか弱き乙女を演じてたようだからねぇ…。今回も君の前では昔とほぼ変わらない様子に見えたんじゃないかい?」


「そうですね…相変わらずだなぁと感じました。ただヨルアが…」


アイラはヨルアの名前に微かに反応する。


「…この子が?」


「熱も高かったし、色々あり過ぎて…この子の不安がそういう言葉を言わせているように思ってたのですが…昨日再会し、少し会話して彼女が退室した後に…お姉さんがパパが好きで怖い人になる…と言って、悲しい顔をしたんです。…子供ながらの視点で何かを感じ取っていたのかも知れません…」


「ほう…ヨルアちゃんがね…」


アイラは興味深そうに目を細めてヨルアを見た。


「…この子はかなり鋭い事を言ってると思うぞ。まだ私が軍にいた頃に、ジョアナが君を追いかけ回している噂は時々耳にしていた。君は良くも悪くもそういう事にとにかく鈍いから、あの頃はギリギリ難を逃れたとも言えるかも知れないな。異性関係にルーズだったジョアナも、そんな君の天然堅物ぶりには取り付く島がなかったのかも…」


天然堅物って…


ブレムはアイラの言葉にやや引っかかりながらも、


「異性関係にルーズ?彼女は当時は妻子持ちの医師から嫌がらせのようなセクハラに悩まされていたのではないですか…?」


「…まぁ最初は皆もまさか彼女が不倫してるとは思わなかったし、妻子ある彼もそれをあからさまに言えないから、当初は事を荒立てないよう…表向きはセクハラということにして、水面下では裁判沙汰にしてジョアナに圧力をかけたみたいだが…この件もジョアナの親が金銭で和解に持ち込んで尻拭いしたみたいだ。後から分かった事だが…表面上はセクハラに見せて、ジョアナはあの時は不倫関係を拗らせていたんだよ。かなり貢がせた挙げ句振ったようでな…後で諸々明るみになって行ったが、他の若手軍医とも関係を持っていたようだし…君には悲劇のヒロインを演じ相談を持ち掛けていたんだな…」


「???彼女はなぜそんなややこしい事を?全く意味が分からない…」


「ふふ…いいねぇ…いかにも君らしい反応だ。そんな君だから、周りの連中も当時軍を去って行こうとしていた君には余計な情報を耳に入れたくなかったのかも知れないな。多分…君が軍を去る前後でジョアナは2.3週間休んでいたと思うが…これも後で公になったが、妊娠していて揉めた末の中絶の為の休暇だったようだ。…あっ、少し体動が出て来たね。良かった。これならヨルアちゃんは今夜中に意識が戻るかも知れないな…」


2人はヨルアの容態を気にしつつ…更に会話を続ける。


「彼女はね…本当は声楽の道に進みたかったようだが、両親から夢を押し付けられ、進路を考え始める時期からずっと両親とはギクシャクしてたらしいが、渋々母親と同じ道を志すが医師にはなれずで、結局…」


「え、医師?お母上は看護師ではなかったのですか?」


アイラはやれやれという風にブレムを見る…


「一事が万事で…あちこちで嘘を吐き何が本当やらという事がジョアナ関連の話は実に多いんだよ。彼女には優秀な兄がいるんだが…両親からはいつも比較され出来が悪いと言われ続けて育ったみたいなんだ。だけどね…私は彼女の父親と若干交流があるが…顔や雰囲気がどことなく君に似ているんだ。性格的には彼はちょっと色々…まあそれは今は逸れる話だからいいだろう。彼女は多分、両親に反発しながらもどこかで認められたい気持ちもあったんだと思う…」


「…でもなんでヨルアにこんな酷い事を…能力者の…ある意味処刑の薬を勝手に投与するなんて…許せないし訳が分からない…」


ブレムは頭を抱える…


「…確かに、今回は君に近過ぎる位置にいるヨルアちゃんには災難だったな。けど…あの父親もなぁ…ジョアナはちょっと気の毒とも思えてしまう部分もね…彼女はもしかしたら…君に理想の父親像を見ているのかも知れないとも思う。もしかしたら…ヨルアちゃんの能力が君の足を引っ張ると考えた可能性もあるかなぁ…」


「え…?」


アイラの問いかけにブレムが顔を上げる…


コンコン…


と同時に、ドアをノックする音が部屋に籠って響いた。


「ちょっとよろしいですか?警察の方が到着しまして、お2人にそれぞれお話を聞きたいそうです。院長…先に廊下の方へよろしいですか?…ブレムさんは、病室の方で軽い現場検証を兼ねる形でお話しを聞きたいそうです。」


「話の続きはまた改めてだな…じゃ…」


アイラはブレムに軽く目配せをして、部屋を出て行った…


結局、その後の警察とのやり取りは夕方まで続き…その後も何度かヨルアの様子を見に来た病院スタッフや特殊能力関係の専門家の人に対応したりで…やっと病室内が落ち着いた頃には、すっかり夜になっていた。


グッタリしながら、付き添い用のベッドに腰掛け、ヨルアの様子をボーっと見つめながら缶コーヒーを飲んでいると…


「…マ……マ………どこ…?」


うなされているのか…苦しげな表情で首を動かして、母を呼ぶヨルア…


「……」


なんと応えてよいか分からず…ブレムはメリッサの代わりにヨルアの手を握る。


「パ……が…たくさ…困る…ら…ヨ…は…行かな…と……ママ……お…て…ないで…」


「ヨルア…パパはここにいるよ…」


切ない声で母を呼ぶヨルアの声に、胸が詰まるブレム…


「マ…行か…な…で…、ヨル…も行く…」


メリッサの方へ行きたがっている…?


ヨルアはメリッサの状況を理解しているのか…?


ブレムは動揺しながらも、思わずヨルアの…老婆のような痛々しい小さな手を握りしめる。


「ヨルア、パパはここだよ。パパはヨルアを愛している…どうか行かないでくれ。」


ブレムはヨルアの手を握りながら、顔を伏せ…祈るように懇願していた…


「ヨ…は…ばけ…の…でおに…つ…から……行く…の」


「?!……」


ジョアナと2人きりの時に直接何か言われたのだろうか…?


なんだか生きる事に絶望してるように聞こえ…ブレムの心は張り裂けそうになる。


あの時…


片足を失った自分なんかの為に…最後の力を振り絞って命を落とした君の父のレト…


茫然自失の自分を許し、当時本当は一番辛かったであろうメリッサが励まし続けてくれた…


そんな中で生まれた君は…見るといつも全身で生きる喜びを僕に伝えているようだった。


君は僕を父と勘違いし、純粋に僕を必要としてくれた…


だから僕は…


だから…僕は今ここに生きている。


「ヨルア…ヨルア…どうかパパの為に生きて側にいて…ヨルアが大好きだよ。行ってはダメだ…どうか…」


泣きながら…ひたすら懇願するブレム…


[…この子の持つ能力はかなり強力なようだ。将来…力の誤用が起きないよう…保護者の君達はしっかり導き寄り添って行く覚悟が必要だよ]


生まれて間もないこの子を見て、あの老人はそう行った…


今…この子のあの能力はもう完全に消えたのか…?


少しの間は様子を見ない事にはなんとも言えないだろう…


薬の副作用もどうなって行くか分からない…


ヨルア…君の未来は今のところ心配だらけだ。


僕はこの先、それこそ沢山の事で思い悩むだろう…


大変な未来だと思う。


でも、それでも君に生きていて欲しい…


僕が支えるから…


どんな事があっても支えるから…


僕の側で生きていて欲しいんだよ…


「ヨルア…」


「……」


まるでブレムの呼びかけに答えるかのような…絶妙なタイミングでヨルアの茶色の瞳がパチっと開いた。


「…パパ…?…どうして泣いているの?」


必死でヨルアに呼びかけながら、

流れ落ちる涙を幾度か拭っている内に、ブレムの目は真っ赤に充血していた…


ブレムは慌てて袖で涙を拭い、


「…ヨルアが側にいてくれる事が嬉しいんだ…泣くなんて、パパはダメだね…」


拭っても…またすぐに涙は溢れて来た…


「ダメじゃないよ…パパ…泣かないで…」


ヨルアは身体を少し起こして、手でブレムの涙を拭った。


「…凄く怖い夢を見たの。パパのお荷物だから遠くへ行けって言われて…パパとお別れするのが嫌でお姉さんと戦ったの。でもママが…知らない人…優しそうな男の人といて…辛かったらおいでって………私はパパとお別れしなくちゃいけない?」


ヨルアは辿々しく夢?の話をしながら…ポロポロと涙を溢した。


「?!…」


知らない男の人?メリッサと一緒…?レトさん…?


…まさか…


気が付くと、ブレムはヨルアを抱きしめていた。


「ダメだ。行ってはダメだよ。それは夢だから…ヨルアはここにいていいんだよ。僕が守るから…どうか僕の側にいて…お願いだから…」


泣きながら…なりふり構わずブレムは懇願し…ヨルアを更にキツく抱きしめていた…


「パパ…ヨルアもパパといたい。良い子でいるから…ヨルアを嫌いにならないで…」


感情が昂ってしゃくり上げながら、ヨルアもブレムにしがみつくように抱き付いた。


この時、ヨルアの髪は淡い金髪のまま…変化はしなかった。


ヨルアは生後、首がやっと座り安定し出した頃から…ギャン泣きすると金髪が淡いピンクに変化するようになった…


更には、徐々に目までピンク色に変わるようになり…怒ったり悲しかったりの感情の昂りが収まると次第に髪も目も元の色に戻って行くのだが…


ミアハという極めて特殊な種族の民で、人体を治療させる能力を活かした仕事をしていた父親のレトの体質をミアハの民以外との混血という事で何か良くない変異で能力を受け継いでしまった事を心配するメリッサは、元々、出産が無事に済みメリッサの体調が安定したタイミングで、夫のレトがミアハの聖地であり民の精神的な拠り所でもあるエルオの丘を訪れ、内部の広場の奥に鎮座するエルオの女神像に、母子共に無事に出産を乗り越えられた事の感謝を伝える為の、ヨルアを連れてのミアハ訪問を予定していたので…


メリッサは、レトのいない状態でヨルアを連れてエルオの丘に行く手続きをし直し、まだ体力的に不安がある為ブレムにミアハまで車で連れて行ってもらった。


その際にメリッサは、誰でもいいからミアハの民にヨルアの問題について相談したかったのだ。


だがメリッサがミアハ本部に連絡した際、エルオの丘の内部へはミアハの血を引く者でないと入場出来ない為、ミアハの能力者が家族の代わりにヨルアを抱いてエルオの女神に感謝の祈りを捧げる事になるとの内容を伝えられた。


それでもヨルアに起きている問題をミアハの誰かに聞いて欲しいメリッサは、それでも構わないと告げミアハに向かう事となった。


そして当日…


エルオの丘の前では頭髪の薄い長い顎髭の老人が待ち構えていて…


「よく来たね…ではヨルアを預かろう。」


老人はニコニコと穏やかな笑顔でブレム達を出迎え、ヨルアを抱くとサッサと中に入って行ってしまった。


挨拶も交わす事なく…あっという間の展開に呆気に取られている2人に、入り口で老人の側に寄り添うように立っていた若い男性が、


「今日は、大変幸運な巡り合わせで…たまたま急に時間の空いた長老が、ヨルアちゃんの祝福に立ち会われます。大変多忙な方ですので、あなた方へのご挨拶が簡易なモノになってしまった事をお許し下さい。」


と言って、ブレム達に頭を下げた。


「まぁ、なんて事。…亡くなった夫から伺っておりました。とても多忙な方で、滅多にお目にかかれないと…。夫はかつて一度だ瞑想からの帰り道に直接お声がけを頂いた事を嬉しそうに語っておりました。」


両手で口を覆い…メリッサは興奮気味に薄青い瞳を潤ませて歓喜していた。


そんな若い男性とのやり取りの後、間もなくヨルアを抱いた長老は戻って来た。


「ヨルアはいい子でいたよ。グズる事もなく、私が祈りを捧げている間に眠ってしまった…」


相変わらずニコニコと話しながらヨルアをメリッサに預けて、長老は更に…


「まだ首も座るかどうかという段階の赤子なのに…かなり強い力を感じた。この子は特殊能力者だねぇ…。抱いていて感じたエネルギー的には、もう既に兆候は出始めていると思うが?」


と、ブレム達に問いかけた。


「そ…そうなんです。この子は大泣きすると目や髪の色がピンク色になって来るんです。… この子のその変化の意味が分からなくて心配で…今日はここのどなたかに聞いてみようと思っていました。この子は大丈夫でしょうか…?」


そうそれ!と言った感じでメリッサは、ブレムを押し除ける勢いで長老に不安を捲し立てた。


長老もメリッサの勢いにやや圧倒されながらも、彼女の話を真剣に聞いていた…


「…今日はどうやら…私はヨルアの為に女神に呼ばれたようだ…」


長老はフッと小さく笑いながら呟いた。


「ちょっと待っていなさい。」


と告げて、長老は再びエルオの丘の入り口に入って行く…


そして、程なくしてバスタオル

くらいの大きさの真っ白い布を脇に抱えるように持って来て、それをブレムに渡した。


「この布は…詳細は言えないが、エルオの女神の聖水に浸した布なんだ。この子はミアハのティリという種族の父親の能力を受け継いだようで…ティリ系の血筋から稀に出る特殊能力は、身体の神経系に働きかける能力で…おそらくだがヨルアの身体の色が部分的でも変化している最中は、この子の目を見たり身体に触れてしまうと一時的に身動きが取れなくなるという事が起きて来ると思う。この子は能力がかなり強いから…今後成長と共に能力が覚醒して来ると、変色時には接触した相手を失神させたり…場合によっては死に至らしめてしまう恐れも出て来る深刻な可能性を孕む能力だ。」


「……」


不明だった事が分かり、


一瞬安堵したメリッサだったが、その後の長老の説明にみるみる顔が青ざめて行った…


メリッサの身体が僅かに揺らいだので、ブレムは心配になり…


「メリッサ…大丈夫かい?ヨルアは私が抱いていよう…」


と、声をかけながらヨルアを預かった。


そのやり取りを見ていた長老は、メリッサの背中をポンポンと軽く叩き、


「落ち着いて…この力の暴走が起きないよう…仮に起きた際には君達保護者が対処出来るように、この布を持って来たんだよ。…それから…これを…ミアハの能力者が常に携帯しているマナイという石だ。このエルオの丘の地下でのみ採れる石のカケラを、この子がもう少し大きくなったら首にかけて常に身に付けるよう伝えなさい…この子の力の暴走を緩和してくれるはずだ。」


長老は胸元から乳白色の半透明の石のカケラに紐を通した首飾りを、眠っているヨルアの胸の辺りに置いた。


それはブレムの親指ほどの大きさの直方体で、片方の先が少し尖っているその石は、よく見ると翼と三角の形のモノが刻印されていて…独特の美しさを放つ石だった。


「君達はその布を細かく切って、その布切れを着用する全ての衣服のどこかに縫い付けて置きなさい。エルオの女神がヨルアから発する強力な力を遮断してくれるだろうから…大事に使ってくれ。」


そのタイミングで、少しの間どこかに行っていた先程の男性が長老の元にやって来て…


「長老…次の予定が…」


と言いにくそうに告げると、


「ああ分かったよ。」


と軽く右手の平を男に向け話を止める仕草をする…


その様子を見てブレムは、まだショックから立ち直りきれないメリッサを促し、お礼を言って立ち去ろうとすると、


「…この子の持つ能力は過去に類を見ない程に強力なようだから、将来…力の誤用が起きないよう…保護者の君達はしっかり導き寄り添って行く覚悟が必要だよ。その力はおそらく、自己防衛の必要が出来た時に無意識に出て来る。危機意識が強いほどに力の発現も強力になって来るだろう…。だが本来、その力は他者の為…引いてはエルオの女神の為に使う目的で授けられた特殊な力なんだ。私情で悪用したりするとエルオの女神の守護も力も消滅して行くと言われている…この話を、物心つき始めたヨルアに何度もしてやって欲しい。…それでは、女神の御加護が君達に永遠にあらんことを祈っている…」


と、長老はブレムとメリッサの目を交互にしっかりと見ながら告げ…去って行った。


それから4年経ち…


去年のヨルアの誕生日にメリッサは、長老から言われた事を何度か伝えながら…例の石のペンダントを彼女に授けた。


確かに…その頃からヨルアの髪や目がピンク色に変わる様子は見なくなった。


だが昨日…病室で高熱のヨルアの汚れてボロボロになった衣服を着替えさせていた最中に、例のペンダントをしていなかった事にブレムは気付いていた。


ヨルアの力の暴発を嘆いていた矢先…ジョアナの所業は許し難い事だが、これでグエンに際どい選択を迫られなくなると…実は少しだけホッとしてしまっている自分もいた。


やはり能力は…ジョアナが打った薬で消滅したのか…?


…それならば……


本当は、退院後にきちんと話すつもりでいたが…


ブレムは覚悟を決めた。


ブレムはヨルアから身体を離して、まだ少ししゃくり上げている彼女の肩に手を置く…


「ヨルア、よく聞いて。君のママは…」


「ママは天国に行っちゃたの。パパと一緒にいたいって言ったら、ヨルアがそう決めたなら頑張りなさいって…隣の男の人が頭を撫でてくれたの。そして、ママはその人と一緒に行っちゃったから…ヨルアは独りぼっちになっちゃったの。ヨルアはパパといてもいい?パパといたいの…お手伝いもちゃんとするから…」


ブレムの口からママというワードが出ると、ヨルアは何かのスイッチが入ったかのように、一気に喋り出し…ブレムは呆気に取られた。


…やはりメリッサは、ヨルアにお別れを告げに来たのだろうか…?


でなければ、ヨルアがこんなにあっさり母親の死を受け入れている事の説明が…


[この子に…まだレトのことを上手く話せないでいるんです。死がまだよく理解出来ず、生前の彼を知らないヨルアに説明しようとするとどんどん虚しくなるのね…彼が亡くなる前に近くにいた人があなたのような…人の死の重さを受け止めきれる誠実な方で良かったと、しみじみ思います。あなたはもう充分過ぎるくらい、私の悲しみに寄り添ってくれたわ。ブレムさん、私達はもう大丈夫ですよ。]


1年前…


ヨルアの4歳の誕生日を祝う為に訪れたブレムにそう言って、メリッサが苦笑いをした事を思い出す…


ヨルアの見た夢は、メリッサが自分亡き後のブレムの負担を配慮し、更にヨルアの未来も案じ、連れて行こうしていたようにも感じた…


それに…


メリッサは、レトの存在をヨルアに見せて…更に間接的にブレムにも見せて、[私は大丈夫]と伝えているようにも感じた…


「…メリッサ……君は…」


レトの死後…身重のメリッサの事がずっと気になって、時間が空けばアパートを尋ねていたブレムは…


ヨルアを産んだ後もブレムの厚意には寄りかかろうとせず、なんとか親子2人で生きて行こうとしているメリッサがイジらしくて…


つい1週間前……


思い切って、


「2人でヨルアを見守り育てる戦友になりませんか?」


と…


メリッサにプロポーズしたばかりだった…


「ありがとう…」


と、メリッサは涙ぐみながらうなづいた。


「…でも…あなたは本当にそれでいいのですか?」


ブレムは…不安気に尋ねるメリッサに、初めて彼女に口付けをする事で答えた。


あの夜は、ヨルアが熱っぽくて…夜はウトウトしながらもグズついていたので、ブレムはいつもより早めにアパートを後にし…メリッサとはとうとう一線を越える事はなく…入籍も出来ないままとなってしまった。


そんなブレムにメリッサは、ヨルアを残して逝く事を躊躇してしまったのかも知れない…と、なんとなく…思ってしまった。


すまないメリッサ…

君とヨルアを守れなかった事を許してくれ。


…いや


…命を落としてしまった君に許しを乞うのはあまりにも…


だがせめてヨルアは…この子は、私が命をかけて守って行くつもりだ。


この子の花嫁姿を君に見せられるまで、僕がこの子を未来の伴侶に託す日まで守り切れたなら…君に許しを乞えるかな?


誓うよ。


僕はヨルアを命をかけて守って行くと…


不安気に自分を見上げて涙ぐむヨルアを、ブレムは再び強く抱きしめた。


「心配しないでヨルア。パパはずっと君の側にいるから…誓うよ。2人で頑張って生きて行こう。君はママの分まで生きなくちゃ…僕の大切な天使…大好きだよ。」


ブレムは未だシワの目立つヨルアの頬に、何度も何度も…愛おしそうに自身の頬を擦り寄せた…


「パパ…お髭がチクチクするよ…」


「…そうか?ごめんごめん…」


謝りながらもブレムは頬ずりを止めない…


「…でもパパのチクチク大好き。」


ヨルアも自分からブレムに頬を寄せて、いつまでもチクチクを楽しんでいるようだった…





「あらヨルアちゃん、おかえり。」


学校から帰宅したヨルアが、とある豪邸の庭の一画にある柵の中に入ると、数匹の子犬に囲まれた女性が少女を笑顔で迎える。


警察犬候補生の子犬達と戯れている女性は特殊任務犬の訓練士で、この屋敷の主人である国家保安局長の奥方でもあった。


ヨルアはその後無事退院し、ブレムの自宅での二人暮らしが始まった。


心配していた老化現象は10日前後でほぼ元に戻り、幸いな事にその後の能力の発現も薬の後遺症も見られなかったが…


ブレムの仕事中は幼いヨルアを自宅には置いて行けず、かと言って仕事場に同行させる事も難しいので、仕事の時はアイラが紹介してくれた議員専用の託児施設に預かってもらうようになったのだが…置いて行く度にヨルアは必ずギャン泣きし、ブレムを困らせた。


託児施設の子供達となかなか馴染めなかった事も、ブレムを悩ませていた…


だがある時にアイラから、


「私の甥っ子夫婦の家は特殊任務犬の繁殖と一部訓練もやっているので、気晴らしにヨルアちゃんを連れて見学に行ってみないか?」


と勧められ…ヨルアは犬が好きとかつてメリッサが話していた事をブレムは思い出し、連れて行ったところ…


ヨルアは予想以上に喜び、その後も犬と戯れたくてブレムに「連れて行って」とせがむようになった。


その内にそこの家の小さな子供達との交流も楽しみになり…


学校に通う年齢になったヨルアはその屋敷の近くの学校に入学し、下校からブレムが迎えに来るまでを、主にその屋敷の庭で過ごすようになった。


「ちょうど良かった…これからこのチビワンちゃん達のお散歩の時間なの。またヨルアちゃんに頼んでもいい?」


「はい!ヤッター♪」


タイミングが良いと子犬の邸内の散歩を任せてくれるようになった事は、ヨルアの中で不思議と自身の肯定感にも繋がり、今日もこの訓練士ヘレナからの依頼に小躍りしながら喜んだ。


「…いいなぁ、僕もヨルアと行きたい。」


ヨルアより2つ年下で、もうすぐ学校に上がる予定のこの家の長男ケビンは羨ましそうに、子犬を連れて柵を出ようとするヨルアを眺めていた。


「ヨルアちゃんはママの代わりにお仕事としてお散歩に連れて行ってくれるのよ。お散歩には子犬達の為のルールがあるの。ヨルアちゃんの邪魔をしないって約束出来るなら、行ってもいいわよ。ケビンは約束を守れる?」


「うん、僕はヨルアの邪魔しない。約束する。」


嬉しそうに青い瞳を輝かせ、ケビンは夢中でヨルアを追いかけて行く…


「あぁ慌てて走らないの。…まったく…どうせ犬達はどうでもよくて、ヨルアちゃんと散歩したいだけなんだから…」


ヘレナがお喋りしながら遠ざかって行く2人の姿を見守っていると…


「ふぇ〜ん…」


家の奥から泣き声が聞こえて来た…


「あら、もう起きたのね。」


と、お昼寝から起きたらしい娘ソフィアの元へ、ヘレナは急いだ。


間もなく2歳になるソフィアが生まれて半年後にヘレナは大病が発覚し、しばらく治療に専念せざるを得なくなってしまったが、最近やっと病気の脅威が薄れ…娘を産む前の生活のペースを取り戻しつつあった。


だが体力面では2人の幼児を抱えての犬の世話は、正直キツいと感じる事もあり…とうとうこの仕事にケリを着ける時が来たかと落ち込んでいた時、この家に縁あって訪れ、何かと犬の世話をしたがるヨルアの存在にヘレナはかなり救われていた。


更に、動きが活発なケビンはヨルアがお気に入りなので、ヨルアが学校から帰宅するとケビンの相手からはほぼ解放される為、今のヘレナ的にはヨルアの存在はますます大事なモノとなっていた。


ブレムからしっかり躾けられているようで、ヨルアは我が儘を殆ど言わないし、放って置くとブレムが迎えに来るまでずっと犬の世話を焼いている…


ヘレナにとってヨルアはまさに救世主的な存在であった。


ヨルアにやっと穏やかな日常が戻って来た事は、ブレムにも深い安堵をもたらし、ささやかだが共に幸せを感じられる日々となった。




そんな…優しく賑やかな時間が流れ始めて更に3年が経ち…


ブレムの仕事も充実して来て徐々に迎えが遅くなると、ヨルアはまるでヘレナ達一家の一員になった様に楽しそうに子供達とお喋りしながら寛いでいて…ブレムはその光景を見る度に寂しさと焦りを感じた。


だが、ブレムの姿を見つけたヨルアが目を輝かせながら自分の胸に飛び込んで来ると、不安は吹き飛び、なんとも満たされた気持ちにになって、ヨルアをぎゅっと抱きしめるのだった。


「う〜ん…ヨルアも重くなったな…良い子にしてたかい?」


「あ〜お迎えが来ちゃった。ヨルアが帰っちゃう…ヨルアはウチの子になっちゃえばいいのに…」


ブレムに抱っこされて嬉しそうなヨルアを見て、ケビンが不満そうに呟くと…ブレムの気持ちはざわざわと波立って行く…


「何言ってるのケビン、そんな事を言ったらヨルアちゃんのパパに怒られるわよ。ねぇブレムさん。」


ヘレナが揶揄うように言ってブレムにウィンクする。


「ケビン…ヨルアはパパのお嫁さんになるんだから、ここの子にはなれないの。」


更にヨルアが真顔でそんな事を言うので、ブレムは妙な汗を掻きながら…


「ヨルア…バカな事を言ってないで早く帰る支度をしなさい。」


ヨルアは急に不機嫌になり、


「バカじゃないもん。ヨルアはパパのお嫁さんになるんだもん。」


そう言いながらブレムの腕から降りて、椅子の脇にまとめて置いた荷物を取りに行く…


そんなヨルアにケビンは説明をする。


「親子で結婚は出来ないんだぞ。ヨルアは僕のお嫁さんになればいいじゃん。」


「ケビンは年下でまだまだ赤ちゃんじゃない…私の弟にならして上げてもいいわよ。」


ヨルアは上から目線でケビンに言い放ち、ブレムの方へ戻って行く…


「ぼ、僕は赤ちゃんじゃないぞ!ヨルアのバカ!」


プロポーズしたのに赤ちゃん扱いされ、悔しくて涙ぐみながらケビンはヨルアに言い返した。


「あはは…ケビンは振られたのか?ヨルアちゃんは可愛いものなぁ…まぁ諦めず頑張れ。」


子供達の他愛ないやり取りを聞きながら笑うこの家の主人…ケントが珍しく早く帰宅して、ブレム達の背後に立っていた。


「あ、ケントさん…ご無沙汰をしております。…なかなか直接ご挨拶が出来ずで…申し訳ないです。いつもヨルアがお世話になっております。本当に…助かってます。」


ブレムはヨルアの頭を一緒に下げさせながら、慌ててケントに挨拶をした。


「いや…こちらこそですよ。ヘレナはヨルアちゃんのお手伝いにどれだけ助けられているか…お互い様という事で、こちらも今後ともよろしくお願いします。」


ケントもブレムと同じくらいの角度で頭を下げて挨拶をした。


…と、これまで周囲のやり取りは全く無視してテレビ番組を観る事に夢中になっていたソフィアが、ケントの所までトコトコと駆けて行き、抱っこをせがむ。


ケントが望まれるまま嬉しそうに抱き上げると…


「ソフィアもパパのお嫁さんになるの。」


と、ソフィアはドヤ顔で宣言する。


「……」


一瞬置いて、周囲がドッと沸いた。


「そうか…じゃあパパもソフィアにプロポーズしなくちゃな。」


と言ってケントはソフィアの頬にキスをした。


「そう……じゃあパパの毎朝の戦争のような支度と夜のお酒とお風呂の準備をソフィアが全部やってくれたら、お嫁さんの座を譲ってあげる。」


ヘレナが皮肉を込めてケントをチラ見しながらソフィアに言うと…


「ヘレナ…勘弁してくれ…一番愛してるのは君だ。」


ケントはヘレナに謝罪するように頭を下げた。


「ソフィア、おじさんとおばさんはもう結婚しているのよ。ケビンと結婚すればいいじゃない…」


ヨルアはちょっとだけお姉さん風を吹かせながら、大真面目にソフィアに提案すると、


「だ〜から、親子も兄弟も結婚出来ないんだよ。ヨルアは本当にバカだなぁ…」


すかさずケビンが指摘する。


「バカって何よ!バカって言う方がバカなんだからね!」


「何だよ…そんな怒らなくてもいいだろう…ヨルアなんかもうお嫁さんにしてやらないからな…」


ヨルアの剣幕に押されてシュンとなるケビン…


「私はパパのお嫁さんになるって言ってるでしょ。もう、何回も言わせないで!」


まるで自分はブレムのお嫁さんになる事が前から決まっているかのような勢いで話すヨルアに、ブレムは呆れて溜め息を吐く…


「ヨルア…パパがいつ君をお嫁さんにすると言った…?決まってもいない事を決まってるように言うのは嘘つきだよ…」


「ヨルアは嘘つきじゃないもん。パパのお嫁さんになるの!」


ヨルアは引っ込みが付かなくなり、涙ぐみながらブレムに訴える…


「お互い…モテて困りますな。」


ケントが、困り果てているブレムの肩を叩きながらさりげなく目配せする。


ケントはブレムとヨルアのやり取りを完全に面白がっているようだった。


「…フン、もう何言ってんだか…」


ソフィアにケントを一時的に奪われたヘレナが、ちょっと拗ねたように呟いた…




翌朝…


「…ヨルア…もういい加減、機嫌を直してくれ。ヨルアがずっとそんな顔していたらパパは悲しくなるよ…」


「……」


テーブルを挟んで不貞腐れた表情で、ブレムと視線を合わせずトーストを齧っているヨルアに…正直、彼はかなり困っていた…


1日前の事を次の日まで引きずってヨルアが怒るのは、ブレムが知る限り初めてだった。


「…じゃあ…ヨルアはパパのお嫁さんになってもいい?」


ブレムの反応を探るように、上目遣いで恐る恐る尋ねるヨルア…


「……」


困ったな…


まるで恋人の気持ちを確認するような…そんな可愛いらしい仕草を娘にされて、嬉しくない父親はいないのではないだろうか…?


ヨルアがまだ幼いからこんな愛しいやり取りが出来るのは、ブレムなりに理解しているつもりだ。


…だが幼い故に、配慮なくヨルアが人前で自分に恋人のような接し方をしたら、事情を知っている人達は様々な想像をして…好き勝手にヨルアのイメージを汚したり、場合よっては今の2人の生活の障害となってしまう可能性も出て来る事を、ブレムはとても恐れていた。


…いや、ブレムが一番怖いと思うのは…ヨルアの一挙手一投足…いや、存在そのものが愛おしく…今の自分の生き甲斐となってしまっている事だ…


…いずれこの子は社会に出て人生の伴侶を見つけ…自分の元を離れて行くのだ。


その姿をヨルアの両親に見せてあげたい、自分のこの手で見せてあげたいと思う反面…その日を一番恐れている自分…


[ソフィアもパパと結婚するの]


昨夜のケントの家での一場面がブレムの脳裏にフッと浮かぶ…


…そうだ…


きっと、どこの家でもありがちな微笑ましい光景のはず…深刻に考え過ぎるのは、今は止めよう…


…ヨルアがこんな風に思ってくれるのは今だけ…


ならば、


「…そうだね…ヨルアが大人になってもパパを一番好きでいてくれたら、お嫁さんになってくれる?…でもね…人は大事に思う事ほど、簡単に人前で口にするべきではないんだよ。大切な事は普段は心の中の宝箱にしまって置くんだ。」


ブレムは徐に立ち上がり、ヨルアのいる方へ回り込んで跪く…


「…お姫様、20歳になったら僕と結婚して下さいますか?」


興が乗ったブレムがお芝居がかった口調で言って、ヨルアを見ると…


「……」


ヨルアは目に涙を一杯に溜めて、ジッとブレムを見つめていた。


…なんで泣く?…わざとらしい事して、返ってご機嫌を損ねてしまったかな…?


「ヨルア、これはじょ…?!っ」


「冗談だよ」と笑って収めようとしたブレムに、予想外の展開が待っていた。


ヨルアがブレムの口めがけて勢いよくキスをして来たのだ。


だが、ヨルアのもの凄い勢いのキスは…唇よりお互いの歯がガチンと当たり、キスと言うより口の激突になった。


「……」


ヨルアの予想外の行動と…いきなり発生した口周辺の痛みでブレムは言葉を失う…


ブレムは口を抑えながらヨルアを見ると…彼女は満面の笑顔を浮かべていた。


口から血を流しながら…


「ヨルア…血が出てる…」


ブレムは半分パニックに陥りながら、慌ててティッシュを取りに行こうするが…


次の瞬間、今度はヨルアに抱きつかれて身動きが取れなくなった…


「結婚する。ヨルア、20歳になったらパパと結婚するの…」


どうやら…今のヨルアは感激でアドレナリンが脳内に満ち溢れ…唇を切った痛みは感じていない様子だった。


ヨルアはブレムの首にガッチリ腕を回して抱きついていて、ブレムはなんだか必殺技をかけられているような感覚で立ち上がる事が出来ず…奇妙な体勢になっていた。


「ヨルア…唇を怪我しているみたいだから…とりあえず血を拭こうか…」


ブレムの言葉にヨルアはハッと我に返り…身体を離すと…


「パパ大変、血が出てる。」


ヨルアは血で真っ赤になっているブレムの襟元を指差して叫ぶ。


「いや…多分、僕のじゃない。ヨルアの唇が切れてると思うから、手当てをしよう。」


やっと…ヨルアの愛の必殺技から解放されたブレムは立ち上がる。


…こんなパパっ子になっているのは今だけと…


むくれた娘の機嫌を取ろうとウッカリ求婚の真似事をしてしまったブレムは…後悔していた。


なんだか嫌な予感がする…


ブレムは重い足取りで救急箱を取りに行くのだった。





「…2階は大丈夫。」


何やらアンテナのような物の付いた黒い小さな物体を手にケントが階段を降りて来る…


「…こんな山奥の別荘まで盗聴器仕掛ける輩なんているんですか?こんな山奥をウロウロしていたら目立つでしょうし…」


とりあえず任されたリビングの盗聴器チェックを早々に終えたブレムが、2階から降りて来るケントを階段の下で待っていると…


「いやいや…プロ用のモノなら衛星経由で音を拾えますから。ここは元々叔父所有の別荘で、昔から叔父も親父も度々大事な仕事の打ち合わせでここを使ってたんです。政治家やら軍人やら…色々な人間が出入りしていますから…まぁ過去には数回ちょっとあったので油断は禁物なんです。一応リビングと寝室には電波の妨害装置は付けてますが、それを常に起動させてると家族や部下との緊急時の通話もままならなくなりますからね…一応、それらは夜10時過ぎると自動的に解除されるので、それをヘレナは心得て必要な連絡はして来ますがね。明日は家族集合で賑やかになりますから…今日はあなたの前祝いも兼ねて少しだけ2人でお話ししたかったんです。ゆっくりじっくり飲みましょう♪」


ケントはそう言って、そのまま買い込んだ出来合いの料理やお酒の置いてある台所へ歩いて行く…


「ケーキと…本格的な料理は明日のヘレナに期待するとして、今夜の酒の肴は完全に私の好みで買い揃えさせて貰いました。ブレムさんのお口に合うかちょっと心配ですが、適当に楽しみましょう。」


ブレムもケントの準備を手伝いながら、


「お心遣いありがとうございます。…僕は食べ物に好き嫌いはないですが、お酒はあまり…正直、ちょっと苦手です。適当にお酒の間にお茶やジュースを挟みながら、楽しませて頂きます。」


と言い、苦笑いした。


他愛ない世間話から時々真剣な仕事の話も交え、1時間もすると2人共に少しづつ酔いも回って来て、家族に関するちょっと踏み込んだ話題も増えて来る…


「ところでブレムさん、この度はヌビラナ開発プロジェクト省の長を就任され、おめでとうございます。」


と言ってケントはブレムに握手を求めながら頭を下げる。


…またか…ケントさんもまあまあ出来上がって来たな…


ブレムは苦笑いしながら、


「ありがとうございます。…実質は星を飛び出しての作業の現場監督のようなモノですから、立候補する対抗馬はほぼ無く…厄介事担当省ですから。」


ブレムの方もほろ酔い気分で緩んで来て、自虐的にぶっちゃけた事情を口にしてしまう。


…自分もちょっと回って来てるな…この後はお酒を入れたフリしてジュースで行こう…


「仕事の方もいよいよ油の乗って来たところで、そろそろ人生のパートナーも必要じゃないですかぁ?夫婦って面倒な事もあるけど…なかなか良いモンですよ。」


「……」


…なるほどね…わざわざ面倒な外野もいない山奥に連れて来たのは何か意味があるような気はしていた。


今回ブレムが任命されたポストでは、この星…アリオルムを離れて直接に現地視察やその中で指示を出す事も出て来る。


そうなると1週間…いや、場合によっては1か月近く帰宅出来ない事もあるだろう。


その事を踏まえて、向こう3年間ヨルアをケント達の住まいに下宿させて貰う話が進んでいるのだ。


ブレムにベッタリで、徐々に出来始めた学校の友達と遊ぶよりもひたむきに彼を支えようと頑張るヨルアを見兼ねて、出会う機会も思うように持てないブレムに、この就任を機にケントはあえてブレムとヨルアの生活圏に距離を取らせて、彼に縁談を持ちかけようとしてるのだと察した。


「ヨルアちゃんは…最近ではもうウチの家族のような存在になっています。特にケビンはヨルアちゃんの家来にでもなるのかというくらい気に入って付いて回ってるし、ヘレナも…あの子を自分の後継者にしたいくらい犬関連の事はヨルアちゃんを頼りにしてしまっています。」


そう言ってケントは、やっと空いたブレムのコップにすかさずビールを注ぐ…


「……」


…油断した…


もう、ジュースに切り替えたいのに…


だがそんなケントも、それから小1時間ぐらいすると徐々に身体が揺らめいて来て、呂律の方も…


「…いっそ将来はケビンのお嫁さんになってくれたらって…僕はね…思っているんですよぉ〜。だからブレムさん、ヨルアちゃんの事は安心して任せて下さぁい…。変な虫が付かないように、僕もヘレナもしっかり見ていますからぁ…」


「…いやぁ…そうまで言って頂けるなんて…僕としてはありがたい事ですよ。」


…いや、自分としてはケビン君も…かなりヨルアを気に入ってくれているのは分かるだけど…今の時点ではヨルアは彼を異性とすら意識していないしな…


確かにケビン君は良い子だけど…あまり今からあの子の将来を絞り込んで欲しくは…


ケントさんはもう…そろそろお酒は切り上げた方が良さそうだなぁ…お酒は好きだけどアイラさんほど強くないようだし…


目が…かなりトロンとして来たケントを見ながらブレムは苦笑する。


「…ホント…ヨルアちゃんは良い子です。ブレムさんの心配も…僕なりに分かっているつもりですからぁ…ヨルアちゃんの事は任せて下さぁい…」


そう言うとケントはソファに一気に背を預けて…そのまま…目を閉じてしまった…


「…ありがとうございます…」


酔い潰れるほどに…ここまで自分に気を許し、ヨルアを受け入れてくれるケント達には…ブレムも感謝しかなかった。


そうだな…


ケント達のような…しっかりとした絆で結ばれている家族に受け入れられているヨルアは幸せだ。


この先、成長と共にヨルアもケビン君をそういう対象として意識して行く未来は無くはないのかも知れない…


そうだ。


親として望むのはヨルアの…あの子の幸せな筈だろう…?


なんとも満足そうな表情で眠るケントを見つめ…ブレムはモヤモヤする自分の感情をグイッと心の奥に押し込めて、やっと注げたオレンジジュースを一気に飲み干したのだった。









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