14 束の間の…
タニアの事件から半年が経とうとしていた。
あれからヨハは順調にティリの病院での研修医の仕事をこなし、間も無く一人前の医師となろうとしている…
ここティリの大病院に研修医として赴任した当初は、特例のスキップでミアハの医師免許試験に合格した為、ヨハはまだ12歳だった。
ベテラン医師の指導の元で2名の担当患者を持たされた際は身体も成長期前で、担当となった患者に「俺はこんなチビっ子先生に診てもらわなくちゃならないのかい?」とバカにされ不信感も持たれた。
だが、セレスで浮きまくっていても動じなかった彼は、持ち前の鋼の心臓としぶとさで偏見や嘲笑をもろともせずに、的確に速やかに業務をこなして行った。ヒカの看病をしていた時の経験も少なからず生きて、成長期を迎えて身長も伸び顔つきも青年ぽい雰囲気が出て来た頃には「細やかな対応の出来る美少年先生」と、患者から呼ばれる程の信頼と、若い女性スタッフ達の人気も得ていた。
元々ミアハの中では医療関係はティリの領域のような認識が浸透しているので、セレスの人間が医師を目指すケースはかなり少ない上に、セレスでありながらティリの能力を併せ持ち、特例のスキップでミアハ史上最年少で医師となろうとしているヨハは、赴任してからは常に院内では悪目立ちしていた。
それに輪を掛けて、タニア捕縛の件も噂に尾ひれが付いて広まり、[恐ろしい魔女のような指名手配犯に襲われそうになったが、たった1人でその魔女を捕まえた美少年医師]と、たちまちその病院のヒーロー的存在になってしまった。
超人気者のヨハになってからは、色々な人に声をかけられたり、若い女性職員から食事やお茶に誘われたり…かなり騒がしい日々になっていた。
彼専用の机の引き出しや借家の郵便受けには度々恋愛の告白めいた手紙が入っており…ヨハにとっては仕事に支障が出てしまう事もあり、数々のお誘いは鬱陶しさしかなかった。
そんなヨハ自身が日々気にかけてしまうのは、とにかくヒカの事…
ここはティリ…
セレスまでの距離はやはり遠く…事件のこともあり、もっともっと近い場所でヒカを見守っていたい気持ちが日々募るばかりだった。
あれから月に一度くらいのペースでセレスのコロニーに帰り、見習いの立場ではあるが医師として学びの棟へ赴き、日常生活の衛生指導などをした際にヒカの様子を見て、時には話しかけてみたりもした。
しかし、ヒカの記憶は一向に戻る気配はなく…ヨハの姿を見ても嬉しそうに抱きついて来る事も、[お兄ちゃん]と呼んでくれる事もなかった。
それどころか…日によってヒカはヨハの顔を見て表情が強張ってしまう事もあった。浮上しようとする記憶の前にタニアのかけた恐怖の暗示が現れるのだろう…
ある程度は覚悟をしていたが、なかなか状況は厳しく…セレスに戻る度にヨハは落ち込んでいた。
だが、それくらいの事で諦めるヨハではない。記憶が戻らずとも、出来るだけ側で支えながら今のヒカと親しくなりたいのだ。
だが、ティリにいたままでは何も出来ないに等しい…
しかしそんなモヤモヤするティリでの生活も残すところあと3日…
戻り次第、ヨハはセレスの研究所へ居を移す。
「よお、人気者君」
詰め所で担当患者の最後のカルテ記入がもう少しで終わるというタイミングで、ヨハは背後から肩を叩かれる。
軽そうな声で、いつもいつも微妙なタイミングで絡んでくる来る人間は1人しかいない…
「ごきげんよう、カシル先生。何度誘われようと僕は君の食事会には行きませんよ。」
顔も上げず記入を続けたままヨハは反応する。
カシルはヨハと同じ病棟の若手の常勤医だ。大らかで気さくだが時々それは度を越して、馴れ馴れしく図々しい時もあるので、ヨハは彼の事が最初はとても苦手だった。
が、ヨハのセレスにおいての立場や脚色されたイメージを良くも悪くも気にせずに、彼はいつもごく普通に話しかけて来るので接しやすく、ヨハも彼に対しては何故だか気兼ねせずにモノが言えるので、気がつけばなんとなく親しくなっていた。
彼はこの病院の副医院長の息子という事で交友関係も広いらしく、見た目もティリらしいガッシリとした骨格だが、長身でやや細マッチョ系…顔は全体的にサッパリとしたパーツがバランスよく収まっている上にそこそこオシャレのセンスも良いので、見かけは大国で活躍しているシャープでちょっとワイルドな俳優の様な雰囲気もある。
そして、その洗練された外見に反して、中身は軽めで三枚目的な要素も多分にあるが、仲間の面倒見も良いので男女問わず人気がある。
その彼はなんだかヨハを気に入って、様々な社交の場に誘って来る為…病院スタッフとの交流も大事かと最初こそ全ての誘いに応じていたヨハだったが、女性がやたら寄って来て異様にスキンシップして来たり、時には飲めないお酒を勧められたり…騒がしいし…彼の誘う夜の催しは苦手なモノが多かった。
だが、山でのキャンプや雪遊びとか、海や湖で泳いだりバーベキューしたりする経験は楽しかったので、そういう自然と触れ合う誘いは時々乗っていた。
セレスは海や山と接するティリとレノに囲まれるようにミアハの中心部にあって、エルオの丘がある以外はほぼ平地である為、山や海での体験はヨハにとってとても新鮮に映った。
更に、カシルは軽そうに見える言動の割に適当な事は言わず約束も守る為、職場で寄せられる信頼は結構厚く、医療の話となると自らの研究ジャンルに関しては目指す理想があるらしく、大真面目に熱く語ってくるので…彼と医療や好む科学分野の話をする事がヨハは大好きだった。
ヨハにとってカシルは、この病院勤務の修行の場で出来た希少な友人とも言える。
その彼が自分の為にお別れ会を開いてやると、先週くらいからしつこく言って来るのだ。
もう既に指導員兼上司の医師達を交えた病院での同期の研修医全員のお別れ会はしてもらった。
ただでさえ夜の騒がしい食事会という名の若い男女の集まりは苦手だというのに、彼のヨハのお別れ会と銘打って催す大人びたパーティはありがた迷惑でしかないと…ヨハは最近逃げ回っているのだ。
気付けば、カシルは近くにあった折り畳みの椅子をヨハの横に置いて陣取り、強引に肩を組んで彼の参加を説得していた。
「最後なんだから、そんな固い事言わないで参加してくれよ。妹が研修医で下の階にいるんだけど、お前の事は噂には聞いてたけど話せる機会がなかったから最後に一度話がしてみたいって頼まれてさ…頼む。」
「妹のミリさんなら話した事ありますよ。廊下ですれ違った際に挨拶して来られて[いつも兄が迷惑をかけてすみません]って言ってましたよ。覚えてます。わざわざ僕とミリさんをダシに使わずとも、あなたならパーティくらいいくらでも人が集まるでしょう?もうこの話はこれで終わりにして下さい。」
あやふやな態度でやんわり断ってもこの男はずっと絡んで来そうだったので、ここではっきり断らなくてはと…ヨハは毅然と対応した。
だが、カシルは更に粘る。
「…じゃあ俺とミリとお前の3人だけの食事会だったらいいか?引っ越しの荷作りで忙しいなら1時間でいいよ。最後にどうしてもお前と少し話したいとミリから頼み込まれてるんだよ…最後だし、1時間くらいいいだろ?な、頼む!」
「……」
本音は行きたくない。めんどくさい。…だがここまで頼み込まれて断るのも……
う〜ん…
確かミリさんは華やかな顔立ちで所作も品の良い人だったな…そんな才色兼備の女性からしたら自分は6歳も年下で…何の好奇心でそんなに話したいんだ?
本当に面倒でしかないが…これから先、セレスがこの病院のスタッフにお願いする事がないとも言いきれない。セレスはかなりの割合でティリの大病院からスタッフが派遣されていて、セレスの病院での医療行為を行ってもらっている。
これからのヒカの事も脳裏をよぎる…
「引っ越しの荷造りもまだ中途半端なんです…絶対に1時間以内に切り上げるという条件を呑んで下さるなら…」
と、ヨハが根負けして渋々承諾すると、すぐ目の前で両手を合わせ頭を下げ続けていた青年がパッと顔を上げ、破顔する。
「そうか、来てくれるか。よかった〜」
派手なリアクションで喜んでいるカシルにヨハは何かを感じ…
「カシル先生、あなた…妹さんに何か弱みでもにぎられてるんですか?」
的を得ていたのか、カシルの表情がやや強張る。
「な、何を言っているんだいヨハ君。それじゃ明日の夜な。明後日にティリを出るんだろう?詳しい時間と場所は今夜連絡する。じゃあまた夜にな。」
これ以上話してヨハの気が変わらないようにとでも思っているのか、カシルはヨハの承諾を取り付けると風の様に去って行った。
「……」
…あの男を脅すとは、なかなかの妹さんだ…
いずれカシルよりミリさんがこの病院の重鎮に坐する可能性が高い事を、ヨハはなんとなく予感したのだった…
その夜…
最後の勤務を終えた帰り道で、ヨハの右耳に掛けていたイヤーフォーンの着信音が鳴る。
なんとなく胸騒ぎがしてヨハは慌てて反応する。
「はい、ヨハです。」
「あっヨハさん、お疲れ様です。事務局ですが、先程セレスの者だと仰る方からヨハさんに電話がありまして…ちょうど病院を出たところだとお伝えしたのですが、なんだか慌ててらして…お名前を伺おうとしたら[では自宅の方にかけてみます]と言って直ぐ切れてしまいました。若い女性の方でした。イタズラ電話かも知れないのですが…確認したら確かにセレス方面からからの番号だったので、念の為、お知らせして置きます。」
?…なんだか変だな…セレス本部だったらこのイヤーフォーンにかけて来ればのに…なんだ?
「…分かりました…お忙しいところ、わざわざありがとうございます。」
「あ、いえ…お騒がせしてすみません…確かヨハさんは今日が当病院最後の勤務でしたね。どうかお元気で…」
「あ…色々とお世話になり、ありがとうございました。スタッフの皆さんによろしくお伝えください。では失礼します。」
「はい、失礼します。」
事務局の方と最後の挨拶のやり取りをしている内に、ヨハは借家の門の前に辿り着いた。
よく分からないが、何か胸騒ぎがした。
慌てて家の中に入ると、ピロロロロンという固定電話の着信音が聞こえて来た。電話機の前まで来ると着信の番号が光っていた。…だがそれは見覚えのない番号だった。
緊張と警戒が入り混じった状態で、ヨハはゆっくり電話に出る…
「……ヨハです。」
「あっヨハ君?良かったぁ〜やっと捕まった。私、マリュよ。驚かせてごめんね…」
聞きなれた女性の声に少し安心するも…
「マリュさん?…ご無沙汰してます。でもどうしたんですか?僕、明後日帰るのにわざわざかけて来るなんて…」
「本当ごめんね…私、ヨハ君のイヤーフォーンの番号知らなくて…この番号は君の連絡先として学びの棟にメモ書きしてあったものなの。私ね…今、プライベートフォーンでかけているの。主任達はヨハ君が帰ってからでいいって言ってたんだけど…あのね……」
ヨハは自分の中の鼓動がどんどん大きくなって行くのが分かった。
「…ヒカに何かあったんですね?」
「…そうなの…ヒカちゃん一昨日から熱を出してね。様子を見ていたんだけど…高熱が下がらなくて…今日の午後から意識が朦朧として来てさっき入院になってしまって、今夜は私がヒカちゃんに付き添う事になったんだけど…ヒカちゃん…今も朦朧としている状態なんだけどね……時々お兄ちゃんて呼ぶの。そんなヒカちゃんを見てたら…一刻も早くヨハ君に知らせた方がいいような気がしてしまったのよ…」
受話器を持つヨハの手は小刻みに震えていた…
「…分かりました。マリュさん、ご連絡を感謝します。なるべく早く病院へ向かいます。」
「え?あ、あのヨハ君…」
気づくとマリュからの電話を切ってしまっていたヨハは、途中だった荷造りを急いで纏めにかかる。
その最中でマリュかららしい固定電話の着信音が何度か鳴っていたが、夢中で荷造り作業を続けていた。
そうこうしているうちに、今度は本棚の上の方からイヤーフォーンの着信音が鳴った。
それは無理矢理押し付けられたカシル直通のプライベートイヤーフォーンだった。
最近お誘いがしつこいので本棚の隅に置いたままにしていたモノだ。
荷物を纏めながらしばらく鳴り続けるイヤーフォーンの着信音を聞いていたが…
ハッと思い付いてカシルからの電話に出る。
「出るの遅過ぎ!今夜連絡するって言っておいたろーが。」
ヨハが話し始めるより先にカシルがまくし立てた。
「カシル、君は…以前遠出した時に車を運転してましたよね?あれは自前の車ですか?」
ヨハは、カシルのクレームに対して全く噛み合わない質問をする。
「な、なんだよ。お前、相変わらず一方的だな……ああそうだよ。急にどうしたんだ?」
ヨハは[一方的とかお前にだけは言われたくない]旨を訴えようとしたが、こんな時にくだらないやり取りを長引かせたくなくて受け流し…
「お願いがあります。先程セレスから連絡があって緊急の用事が出来たので、今からセレスまで僕を送ってもらえませんか?大至急、戻りたいんです。」
「どうしたんだよ急に…俺を足代わりに使う気か?高くつくぜ。」
珍しくヨハから頼み事をされ、カシルはちょっとだけ優位に立ったように感じ、駆け引きめいた事を言い出したが…ヨハはもろともせずに懇願する。
「緊急なんです。どうかお願いします。こんな事は君しか頼れません…前に話した事があると思いますが…ヒカが…突然の高熱で入院して意識がありません。頼める人は君しかいないんですよ…」
「………」
「玄関の前で待っています。よろしくお願いします。」
「な、なんだよ、まだ俺は行くとは言っ……」
ここでヨハはカシルからの電話をカチッと切り、固定電話から先程かかって来た番号にかけ直す。
「あ、マリュさんですか?電話に出られなくてすみませんでした。今、猛ダッシュで荷造りを終えたのでこれから出ます。そちらに着くのは深夜になってしまうと思いますが…必ず行きますので、本部と研究所と…病院の事務当直の方に伝えて頂けますか?」
「えーっ!……相変わらず君の行動力凄いね…あのね、さっき伝えきれなかったんだけど、長老が明日のヒカちゃんの様子を見てヨハ君に連絡するって言ってたのよ。私…かなり余計な事しちゃってるんだけど…今のヨハ君の言葉は大至急伝えるね。…でもヨハ君、くれぐれも慌てないで…事故に遭ったりしたら…誰もヨハ君の代わりは出来ないんだからね。」
マリュさんの声が微かに震える…
「はい…ありがとうございます。知り合いの車に乗せてもらうんですけど…焦らず急ぎます。」
ヨハは、了承の返事ももらってないカシルが来る事前提で話をして通話を切り、背後で鳴り続けるカシルのイヤーフォーンを鳴ったままの状態でテーブルに置き、大きな荷物2つを両手に持って玄関を出た。
「…ヨハさん?」
今夜の警備担当の人がどこからともなく現れて、ヨハのイレギュラーな様子を見て確認をして来る。
「あぁ…すみません。僕、急用で大至急セレスに戻る事になりました。先輩医師のカシルさんに送ってもらうので、簡単に荷造を終えここで彼が来るのを待ちます。僕の警備は今夜で最後という事をセレス本部に連絡して頂いて、申し訳ないのですが、明日までにこの家の掃除も手配して頂けますか?」
「…緊急の用件という事ですね?」
「…私的な事ですが…そうです。」
警備員はヨハの話を聞いて、特に戸惑う様子もなかった。
「分かりました。…ではそのお迎えの車が到着するまで警備させて頂きます。」
帰りの道中もついて来るかと言われるかな?とも思ったが、タニアの襲撃を1人で解決したヨハゆえか、警備員はあんまり心配してる風でもないようにも思えた。
「急な変更で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。」
と、ヨハは彼に丁重に頭を下げて、門の手前に荷物を置き、その隣に座った。
…どれくらい経ったろうか?
いつの間にかヨハは荷物に寄り掛かりながらウトウトと眠ってしまっていた…
ププッというクラクションが間近で鳴って、ヨハはハッと目覚めた。
クラクションが鳴っていた門の外に目を向けると、見覚えのある赤い車が止まっていた。
慌ててヨハは立ち上がり、両脇の荷物を抱えて門を出ると…
ウィーンという音と共に、
「荷物は後ろに入れろ!」
というカシルの声が聞こえ、車の後ろ側がパカっと開いたので、ヨハは素早く荷物を入れながら叫んだ。
「カシル先生、ありがとうございます!」
「まったく…都合の良い時だけ先生呼ばわりか?いいから早く乗れ。」
ヨハは前方からの声に大きく頷き、
「感謝します!」
と叫びながら助手席に乗り込んだ。
「……」
運転席のカシルはかなり不機嫌そうだった。
「お前な、人にモノを頼んでおいて何で電話に出ないんだ。ホントにもう……俺だって暇じゃない、色々と都合というモノがあるんだぞ!」
「…すみません…。こんな事、君にしか頼めなかったので…」
「……」
珍しくしおらしいヨハの姿を見てしまうと、カシルは山ほど言いたかった文句が出て来ない…
「…と、とにかく、これは借りだからな!」
と叫びながら、カシルは車を急発進させた。
2人の乗った車がヨハの借家の前を出発してどれくらい経っただろうか…
最初は割と近い間隔で2人の車の前後に走行する車が何台もあって、すれ違う車も頻繁だったが…それが徐々に減って行き…気付けばカシルの運転する車だけが長く街灯の少ない道を照らしながら走り続けていた。
♪〜
聞き覚えのある曲のオルゴール音がワンフレーズ…唐突に車内に響き、しばらく続いた2人の沈黙を破る。
「…セレスに入ったぞ。コロニーの境界を越えるとこの音が鳴るんだ…あ、お前、今夜帰る事を本部に連絡したか?今のはコロニーの境界のセンサーに反応した合図だから、知らない人がセレスの中に入ったとみなされて警察が俺達の車に接近して来るかも知れないぞ。」
「一応…直接ではないですが今夜帰る事の連絡は頼んだので、その人が本部に伝えてくれたと思います。本当は明日の長老からの電話を待つべきだったんでしょうけど…いてもたっても居られなくて…無理を言って本当にすみません…」
車に乗ってからずっと…終始しおらしいヨハを見ることは、カシルにとってはとても新鮮だった。
「長老から電話か…お前は本当に長老の秘蔵っ子なんだな。俺の叔父は長の補佐役を数年やってるけど…叔父の様な長の補佐役でも長老に直接報告とかする機会は中々ないみたいで…だいたい叔父の情報は長から元老院で止まり、そこで精査されたモノだけ長老へ報告という経路で、たまに長老と直に色々話せたりしたら叔父は上機嫌でウチに上がり込んで言いふらすしな…でも、一方で長老は色々な場所に進出鬼没という話もよく聞くな…」
「そうですね…セレスの中でも割と予告なく現れる事があります。長老はセレスでは子供達の施設にはよく顔を出していると思います。施設の職員達とざっくばらんに意見交換している場面は割と見かけます。セレスの少子化の危機的状況をなんとかしようと、セレス内で活動してる時間も長くなっているのだと思います。」
2人の会話が少し続き始めたところで、遠くにミアハの本部の建物の灯りが二人の視界に入って来る…
セレスの様々な施設や住民の居住地は、セレスコロニーの比較的中央部分に集中していて、その中で一番高く遠くからでも見えるのがミアハ本部の建物で、そのすぐ中にセレス本部がある。
そしてそのミアハ本部を通り過ぎ…少しして研究所が見えて来て…
そこからヒカの入院している病院は目と鼻の先にあった。
「あ、すみませんが…あの研究所の玄関の少し前で僕を降ろして下さい。とりあえずあそこに荷物を置いて行きたいので…」
「……今夜は病院に泊まるのか?」
ヨハはポケットからメモ帳とペンらしき物を取り出して、何やら書き始めた…
「…多分、そうなると思います。昔は熱を出したヒカの看病をよくやっていたので、離れていたらどうせ心配で眠れませんから…あ、そこで止めて下さい。」
近付いて来た研究所の入り口付近をヨハは指差す。
言われた場所に車は止まり、ヨハは素早く荷物を玄関先に置いて、再び車の方へ戻るも、助手席には行かずにカシルの座る運転席に近づいてコンコンと窓ガラスを軽く叩く。
「なんだよ。」
と、開けた窓から顔を出すカシルに、ヨハは先程書いていたメモを渡しながら、
「本当にありがとうございました。ここから病院はすぐなので歩いて行きます。申し訳ないのですが、タニアの事件があってからセキュリティや手続きが厳しくなって、前もって手続きのない外部の人をセレスの建物に入れるには手続きが1日かかるようなので、このままティリへUターンして頂けますか?」
「なんだよ…[頂けますか?]って、俺、どっちにしろ帰るしか選択肢ないんだろ…って、…なんだ?…この番号…」
カシルは文句を言いながら、渡されたメモを開く。
「いつか…今夜の借りは必ずお返しします。ただ、しばらくはヒカの事にかかりきりになると思うので…これは僕の新しい部屋の電話番号です。と言ってもまだ通じていませんが…とりあえずお渡ししておきます。」
「え…?俺があげたイヤーフォーンはどうした?あれにかけられるだろ…?」
「それが…あのイヤーフォーンは君は夜の催しのお誘いばかりして来るので、どうせ断るお誘いだけだから部屋へ置いて来てしまいました。奥の部屋が電気を点けっぱなしにしてありますのですぐ探せると思います。これが部屋の鍵です。今頃もしかしたら警備の方が後片付けしてるかも知れませんが…重ね重ねすみませんが、よろしくお願いします。それじゃ…」
呆気に取られているカシルに丁寧にお辞儀をして、ヨハは病院へと駆けて行った。
「な、な、……おい、ヨハァ〜!お前…ふざけるなよぉ〜…俺をこき使いやがってっ!珍しくしおらしいお前にちょっとでも同情した俺がバカだった!この借りは絶っっ対に返してもらうからなぁぁ〜〜!」
ヨハの姿が病院の中に消えるまで…カシルは運転席の窓からヨハの背中に向かって叫び続けた…
深夜の病棟の廊下というものは、非常灯で真っ暗にはならないけれどなんとも重苦しい雰囲気がある。
今夜は特に自分の不安を投影して一際息苦しく感じるのだろう…
事務当直の人に教えてもらった病室の前…意を決してヨハはドアをそっと開ける…
個室のベッド周りに引かれたカーテンの一部が少し明るくなっていて、マリュらしい影が薄っすら見えた。
ドアの音に気付いたのか、カーテンを少し開けてマリュが顔を出した。
マリュはニッコリ笑って
「良かった…無事に着いたのね。入って来て。」
と、カーテンの中に手招きをした。
ヒカは眠っているようだが…それほど苦しそうな表情は見られない。右腕は点滴をされていて、鼻に酸素吸入用らしきチューブが固定されていた。
ヨハはマリュと反対側のヒカの枕元まで来て、掛け布団越しにヒカの胸部に手を置く…
「…肺炎になりかけているんですね…薬が効いて来たのかな?今のヒカからはあまり苦痛を感じないですね。」
マリュは感心して目を見張る。
「…そうよ…その通り。相変わらず凄いのね…私があえて説明する事がないみたい…君が来る1時間くらいまではちょっと咳も出てて苦しそうだったんだけど、熱が下がって来たら…うわ言も言わなくなって…この状態なの…」
尚もヨハはヒカの胸の辺りから手を離さず…目を閉じる…
「少しの間、身体がかなり冷えたのかな…?背中の辺りが特に冷えて体調を崩したんですかね…」
と言い終えてヨハが目を開けると、マリュが唖然とヨハを見つめていた。
「ヨハ君……本当に凄い。今、ヒカちゃんの担当になっている先生より繊細な事まで分かるのね…」
そう言うと、マリュの表情が少し悲しそうな表情に変わった。
「本当は明日の長老からの電話で聞くはずの話だったかも知れないんだけど…ヨハ君がそこまで把握したなら私…話すね。あっ、どうぞ座って…」
マリュは相向かいのベッド脇に用意していた椅子の方に手を差し伸べてヨハを促し、自らも座った。
「実は…熱を出す前日のお昼過ぎにヒカちゃんがいなくなって大騒ぎしたの。学びの棟で何人か仲の良い子も出来てたようだったし、一見、何も問題ないように過ごしていたんだけど、3カ月くらい前からかな…時々夜泣きをするようになって…それが段々と頻回になってきて、最近は1日おきぐらいのペースで夜泣きするようになって来ていたの。アムナ達が少し心配するようになっていた中でいなくなっちゃったから…私やナランさんまで一緒になって探し回って…結局夕方頃に見つかったんだけど、この子…裏の草原で丸まって寝ていたの。どうやって外に出たのか…経路がまだ分からないんだけどね。一人で遊んでる内に寝ちゃったみたいで、起こしたスタッフがヒカちゃんに触れた際、背中が冷たかったって……え?、ちょっと…ヨハ君…」
マリュの話を聞く内に、ヨハの瞳からは大粒の涙が溢れていて…それに気づいたマリュは言葉に詰まってしまった。
「…君も泣く事があるんだね…そうだよね。君はヒカちゃんの記憶が戻る事をずっと待ってるんだものね…」
マリュは、ヨハがあの日からずっと大きな悲しみを抱えながら時間を過ごして来た事を思い知る…
「私しか見てないから…遠慮なく泣いていいよ。」
と言いながら、マリュはポケットからハンカチを出してヨハに渡す。
「…すみません…」
「…ヒカちゃんもずっと心の深いところで君を探してたんだね。こんな…こんな事でしか分からないなんてね…」
マリュ自身の瞳も潤んでいた…
「…ちょっと…失礼します…」
涙が溢れて止まらないばかりか声まで出して泣きそうだったので、堪らずにヨハは部屋を出て一階の待合室ロビーまで避難した。
ヨハが近くのソファに座って少し昂った感情を鎮めようとしていると…不意にポケットの中のイヤーフォーンが鳴った。
研究所からか…と、とりあえず出ると…
「あ、夜分遅くに失礼します。今は病院におられますか?」
「はい、今日はここで夜を明かします。荷物を黙って玄関に置いて来ちゃったんですけど…」
「あ、そのようですね…今その荷物を警備中に発見しまして…その件でご連絡したのですが、少しよろしいですか?」
何やら警備の人は困惑している様子…
「何か荷物に問題がありましたか?」
「…あのですね…荷物の上に殴り書きのようなメモと、耳にかけるタイプの携帯電話が置いてあったのですが…その2つもヨハさんの私物でよろしかったですか?」
「…ちなみにそのメモはなんて書いてありますか?お手数ですが、読み上げて頂けますか…?」
「…よろしいですか?…では、えっと…恐れ入りますが文章そのまま読み上げます…[俺のシツコさを舐めるなよ。これからも何度でも誘ってやるから覚悟しとけ。何か行き詰まる事があったら聞いてやるから、お前からもかけて来い。頑張れよ。]です。……差出人の名前も無いようです。これはヨハさんの私物として預かってよろしいモノですか?誰かのイタズラではないですか?」
聞いていて「フッ…」と…ヨハは笑いが込み上げた。
「…大丈夫です。それ、僕のです。お手数かけますが、よろしくお願いします。」
「それなら良かった。…不審者がイタズラしたのかと心配になりまして…了解致しました。では事務所の方でお預かりして置きます。夜分遅くに失礼しました。」
…プツっと通話は切れた。
…ありがとう、カシル…
そして警備の人…
ヨハは2人のお陰で気持ちが切り替えられ、さっきよりやや軽い足取りでヒカの病室へ戻る事が出来た。
夜は更にふけ…
ヒカは点滴も終わりスヤスヤ眠っている。
ヨハはこの機会に自分のいなかった時のヒカの日々の様子をマリュから色々聞いた。マリュはタニアの事件以降にヒカの夜泣きが復活してしまっていた為、ヒカの様子を注意深く見て行く為に再びヒカ担当の様な立場で育児棟から学びの棟のアムナとして移動していた。
「ヒカちゃんの心配な状況をあえて君に伝えなかった事は、主任達や長老なりの配慮が色々あったと思うわ。医師としての独り立ちまであと少しのところまで来ていたんだから…ヨハ君の医療行為がセレス内で可能になれば、ティリの力も申し分ない訳だし、ヒカちゃんの診断や治療にこれまでよりずっと主導権を持てるでしょう?」
「まあ…そうですね…僕はそうなる事を望んでいます。」
ヒカに関しての心配な情報がヨハの元に届いて来なかった事に関しては、非常にモヤモヤするところではあるが…医師になれば今後のヨハの立ち位置としては動き易くなるのは確かだ。
それでも…
この後に長老やリシワさんに会ったらヒカの事で多少の文句は言ってしまいそうではあるが…
今のヨハとしては、これからヒカとどう向き合って行くべきかという部分を集中して考えたいところではある。
「最初の頃のように…とまでは無理かも知れないけれど、こうしてヨハ君がヒカちゃんの近くにいられるようになれば、きっとヒカちゃんの記憶も戻ると私は信じてるよ。」
うつむき加減であれこれ考えていたヨハが、マリュの励ましのような言葉に顔を上げると…
マリュはニコッと笑ってウィンクをした。
「……」
ヨハはウィンクするマリュの顔を思わずじっと見てしまった…
「な、何?…私なんか変なこと言ってた?」
と、マリュはちょっとドギマギした。
「…いや…長老が…、話してる途中でたまに不意打ちでウィンクして来る時があるんです。マリュさんのウィンクを見たら、長老のウィンクって、なんて汚いんだろなと…」
ヨハが真顔で言うので、マリュは可笑しくて吹いてしまった。
「まったく…何を言うかと思ったら…長老とヨハ君はなんだか良いコンビに見えるわ…まあそんな感じでこれからも頑張ってね。」
その時…
「う〜ん…」
と、ヒカが寝返りをうった。
「ヒカちゃんが起きてしまいそうね…。夜も遅いし、おしゃべりはもう止めましょう。」
というマリュの言葉で、とりあえず会話は終了となった。
ふと見ると、寝返りをうったヒカの手が掛け布団から飛び出していたのが見えたので、ヨハはは布団の中に戻そうとヒカの手に触ると、まだほんのり熱く、熱は下がりきっていないようだった。
ヒカの小さな手をヨハは両手で包み込み…
帰って来たよ…ヒカ…
と、心の中で告げた。
月に一度…
必死の思いで時間を空けてセレスに帰ると、いつも君は飛び付いて来て…僕を草原に連れ出し…
白詰草の腕輪やネックレスやイヤリング…日によって変わる色々なアクセサリーを作りながら、学びの棟での出来事を話してくれ…ヒカの話を胡座をかきながら聞いている内に僕はいつも居眠りしてしまっていたな…
目覚めると、ヒカも僕の膝に乗って眠っていた…
そして僕は…いつの間にやらヒカ手作りの白詰草のアクセサリーで飾り付けられていた。
これらはきっと君の方が似合うモノなのにって…苦笑いしながらも、いつも僕はそれをティリに持ち帰って…茶色くなるまで飾っていた…
もうそれらは思い出でしかないけれど…
また君と仲良くなって、あそこで遊べるよう…僕は頑張るからね…
「……」
ヨハはずっとそのまま…ヒカの手に触れながら寝顔を見つめていたが…
ふと気がつくと、マリュはウトウトと居眠りをしていて…時々身体が横に大きく傾きかけていた。
ヨハは見兼ねてマリュの側に行き、
「マリュさん、マリュさん…」
と小さく声をかけ肩を揺らした。
マリュは「ハッ」と目を開ける。
「もしかして、昨夜もヒカの事であまり寝てないんじゃないですか?隣の空いてるベッドで仮眠を取って下さい。ヒカは僕が見てますから…」
「でも…そんな訳には…君だって慌てて帰り支度して疲れているでしょ?…」
と躊躇するマリュに、
「…じゃあ、僕は早朝に荷物の整理で一旦研究所に戻るので、それまで寝てて下さいますか?」
と言いながら、ヨハはかなり疲れていそうなマリュを隣の空いているベッドに追い立てた。
「ごめんね…それじゃ…お言葉に甘えるね…」
と、マリュは横になり…
それから10分も経たない内に隣のベッドから小さないびきが聞こえて来たので、やはりかなり疲れていたんだなとヨハは感じた。
マリュの…たまにいびき混じりの寝息のBGMの中、時間は過ぎ…
間も無く空も白んで来るかなという時間帯になった頃…ヒカの表情が少し辛そうになり、モゾモゾと身体を動かし出した。
そして、何かを探すように手を挙げて…ヒカは泣き出した。
「…ちゃん……ヒック…お兄ちゃん…どこ?…」
ヨハは立ち上がって、探るように空中を掻くヒカの手をそっと握った。
「ヒカ…僕はここにいるよ…分かる?僕の声が聞こえる?」
ヨハは片方の手でヒカの手を握り、もう片方の手でヒカの頬を撫でた…
「お兄ちゃん?…お兄ちゃん…いるの?」
「ここにいるよ。ヒカの側にいる…もうどこにも行かないよ…」
と、ヒカの耳元に顔を近づけてヨハは語りかける…
「お兄ちゃん…抱っこ…抱っこして…」
目を閉じたまま…ヒカはヨハの手を強く握り返して懇願する。
「……じゃあ…ちょっとだけだよ…」
と…ヨハはヒカの鼻のチューブを外して掛け布団を捲り、ヒカをゆっくり横抱きに抱き上げる。
すると…ヒカはヨハの首に両方の腕を絡ませてしがみつく…
「…ヒカ…」
ヨハもヒカの反応に応えるように、抱える両腕に力を込め、ヒカの髪に頬擦りをする…
「お兄ちゃん……クローバーの所で待ってたの…でもお兄ちゃん来なかったの…」
「…ごめんね…急いだけど間に合わなかったんだ。…でもこれから僕はずっとセレスにいるから…クローバーの所へ…今度は一緒に行こう。」
すると、
ヨハの首にしがみ付いていたヒカの腕がフッと緩み、同時にヨハの胸に密着させていた頭も離れたので、咄嗟にヒカの顔を覗き込むと…
ヒカは閉じていた瞳をパチっと開けてヨハを見た。
思わずヨハは破顔し、
「ヒカ…」
と呼び掛けると…
「…お兄ちゃんだ…」
と、ヒカも笑った。
そして、
「大好き…」
と言いながら再び両腕をヨハの首元に回してギュッと抱きついた…
「僕も…大好きだよ。」
と、ヒカの髪に再び頬を寄せて応えると…
「………ん…」
ヒカが何か言いかけた途中で、全身の力が抜けていく感覚がヨハの身体に伝わり、しがみ付いていたヒカの腕もゆっくりと…ダランと落ちた。
「……おやすみ…また会おうね。」
ヨハはヒカの耳元でそう囁いて、再びベッドの上に身体を横たえた。
少女は笑みを浮かべながら眠っていた。
悲しい事など何も無かったように…
ヨハがヒカの鼻に酸素チューブを掛け直し、掛け布団を整えてあげているその間に、シーツや布団カバーの上に何個も涙のシミが出来た。
ヨハは鼻水も落ちそうになって慌てて顔を上げ、自嘲気味に笑う…
「あ〜あ…もしこんな顔をカシルに見られたら、ずっと話のネタにされるだろうな…」
と1人呟くと、ヨハは顔を洗いに洗面所へ急いだ…
ヨハが出て行った病室の窓カーテンの隙間からは、僅かに見える空の色がいつの間にか黒からインクブルーに変わっていて…
ヒカの眠るベッドの隣…
二人に背を向けて横になっていたマリュの瞳からも…一筋の涙が流れた。
神殿を出ると広がる平地…
そこには草が所々生えていて、その草の群生している数少ない場所を見つけ、数頭の白いヤギ達が食事をしているようだった。
「あぁ…柵があちこち壊れている…これではヤギを追って1日が終わってしまいそうだ…まだまだやる事は山ほどあるなぁ…」
今、ヤギ達が食事してる場所から少し離れた所に、昨日完成したばかりのヤギの小屋があり…
その小屋からまた少し離れた東側にある古い神殿の前に立ち、両手を腰に掛けタヨハは周囲をざっと見渡して、1人呟いた。
ここはミアハとの国境近くの大国メクスム領のポウフ村…
半年前…しばらく不在だった村の神殿を2年ほど住み込みで管理していた神官が間もなく契約の2年が満了するという事で、タヨハが神殿を含むここら一帯の土地を管理しているエンデに交渉し、次期神官の座を譲り受けた。
子どもと住める事も想定して遂に手に入れたタヨハの定住地である。
更にエンデは強力な相棒のような立場で、タヨハの様々な構想に手を貸してくれるという…心強い味方になりつつあった。
神殿の管理者として神官の座に就けば、タヨハは今まで構想を重ねて来たプロジェクトにエンデと共にしばらく集中出来る。
命の危機に瀕する事もあった様々な苦難を乗り越え、その過酷な旅の中で幸運にも巡り会えた心強い相棒と共に、ここで新たな生活をスタートさせていた。
そして今日…
間もなく…
娘がやって来る。
突然の、信じられない知らせを受けてから3か月…
胸が張り裂けそうな毎日だった。
今まで生きて来た人生のほとんどの記憶を失った、哀れで愛しい娘がやっと…私の元に…
と、背後のドアが開く音がして、藍色の目が吸い込まれそうに深く美しい青年が出て来た。
「タヨハさん、まもなく着くとの事です。」
「ありがとう、エンデ。」
軽く振り返り、青年に笑いかける。
「本当に君がいてくれて良かった…しばらくはあの子には目が離せない日々と思う。すまないが…私も頑張るから…よろしくね…」
「ええ、もちろん。」
エンディはタヨハに笑顔を返してくれた。
「その件も込みで、僕はあなたに付いて行くつもりですから…それが僕の理想でもあるんです。頑張りますよ。」
と言いながらタヨハに向かって力拳を作るポーズを見せる青年は、所々ミステリアスな存在でもあった。
「あ、来たようですね…」
2人が見つめる先の…少し離れた場所に横たわる道路に、グレーの車が横付けされた。
「……」
少し間を置いて、後部両側のドアが空き、1人はセレスの警官らしき男性、もう1人はティリの警官らしき男性に両側を支えられ、その若い女性は降りて来た。
目は宙を見ていて虚…なんとか歩けてはいるが…かなり覚束ない様子の…
変わり果ててはいるが…あれは…
「タニア!」
タヨハは愛しい我が子に向かって走り出していた…




