13 巣立つ事、別れを受け入れる事
「…本当に…色々とご心配をかけてしまい、すみませんでした。」
深夜の神殿の中…エンデは1人の女性の前で深々と頭を下げ、謝罪していた。
結局エンデは、なんだかんだでレブントを出て自宅のある雑木林の前に着いたのは夜…
エンデがメクスムを出てレブントの市場に到着した時には村長ロバンの姿はなく、息子のウェクがここに向かって車を走らせている映像が頭に入って来たので、焦らずに彼の到着を待つ事にした。
市場は時間的に殆どの業者達が引き払い出した頃で…
エンデは徐々に人気の無くなって行く駐車場の縁石に座り、今日の帰り道での小切手の換金は難しかろうとトバルが購入し持たせてくれたサンドイッチと缶入りのリンゴジュースで空腹を満たした。
「ウェクさんの到着はまだしばらくかかりそうだなぁ」
エンデは待っている間に村長さん達の様子を確認すると…夫妻はベッドに横たわっていた。
…あぁ…出来ればこの状況は避けたかった。
「あれ…?」
夫婦のベッドの側には見慣れない男女がいて…いや…
「あの2人…見た事が…あれ?もう1人…ん?…3人…?」
…そうか……
ウェスラーがエンデの帰国を正式に許可したのは昨日…
だがその決定に至るまでの間に村長は、タヨハの人質問題でもミアハとウェスラーの間に入って色々と動いてくれ…
この状況も村長家族が根回しをしてくれなければ、あり得ない話だ…
彼等の息子のウェクも…
今日とうとうダウンした両親に代わって急遽、帰国するエンデの為に奔走してくれた様子が見えて来た…
1年前に村長は「私も出来る事をやっておく」と言っていたが…あの子達の為に、本当にこまめに夫婦で世話を焼いてくれていた姿を思い起こし…エンデは涙が止まらなくなっていた。
車の出入りは殆ど無くなっていた駐車場だが、泣き顔を見られたくないエンデは膝を抱えてそこに顔を埋めた…
「……デ…」
「…ンデ……おいエンデ…こんなとこで居眠りしてたら風邪引くだろ。ほら、起きて。遅くなって済まない。」
懐かしい声とともに身体を揺さぶられたのは夕方…帰途の車中でウェクは、今の村の状況をざっと説明してくれた。
「…一応…あの子達の発症が分かる前に村で流行り始めてたからな…イード君のご両親の働きかけでミアハで備蓄されていたワクチンを安価で分けて頂いたんだよ。俺達家族を含む村人の大半は既にワクチン済みだ。幸運にも昨日少し身体が怠いと親父が言い出したタイミングであの人達が挨拶に来て…検査薬を追加で持って来てくれていたので、すぐ親達の感染が分かって対応が出来たんだ。少し前にウェスラーさんの部下らしき人が村人分の治療薬を持って来て下さって…既に村の希望者に配って半分以下になってるけど、残りは敷地内にある役場の倉庫の中の冷凍庫に保管してある。幸い両親共に軽症だが、なんにしても歳だからね。微熱が下がるまではなるべく安静にしてもらっているんだ。流行も落ち着き初めているから…村の方は色々もう大丈夫だと思う。エンデもワクチンは打ってるだろ?」
「はい…」
ミアハの人々とウェスラーさん達の対応が早かった事で、こんなにも早く…しかも被害は小さく収められた。
本当に有り難い…
ギハン感染症は土の中に普通にある細菌が呼吸器を通して人体に入り込み、発熱や下痢等の症状を起こす疾病で…ギハン菌は湿気が多いと増えるのだが、時々5.6年の周期で突然毒性を持ち悪さをする。
けれど毒性もそれほど強い細菌ではなく、普通は4.5日で快復する。
長雨の後の数日後にいつのまにか流行り出すので、雨の多い季節は菌が付きそうな藁や薪、落ち葉にはお酒や酢を薄めて散布したりする。
まぁ長雨になりやすい季節は、菌が毒性を持ったとしても村で出来る感染対策はあまりないのだが、通常は幼い子供や高齢者以外は殆ど感染しない。
ただ10年〜20年に一度くらいに少し毒性が増して大流行となる。
そして何故か…ギハンが流行った翌年はポウフ村近辺では高い確率で農作物が不作になるのだ。
現れる症状自体は大した事はないが、忌み嫌われる流行り病で…
村人の8割以上が自給自足に近い貧しい農家のポウフ村にとっては、今、内心穏やかではない状況となっているのは間違いない。
やはり…
子供の為の施設よりまずは医療施設の建設を優先すべきだろうな…
村の状況を聞きながら、エンデが今後の村の事をあれこれ考えている内に…
ウェクの運転する車は見慣れた景色の道に入っていた。
「薬でどうせ寝ているから」とウェクに言われても、エンデはまず帰国して一番最初に村長夫妻に会いに行きたかった。
彼の言う通り眠っていた2人の顔を見てから、看病に来ていた嫁いだ娘とウェクに挨拶とお礼を言い、そこから勝手知ったる雑木林の家までテクテク歩き出した。
…エンデが村長の家に着いた時は既に辺りは薄暗く…市場にいる時に村長夫妻の側に見えた人達の姿はなかった…
ということは…?
「……」
見慣れた自宅までの道を、噛み締めるようにエンディは歩いた…
この日を待ち焦がれ、何度かフクロウの身体を借りて戻ったりした懐かしい荒屋の灯りが暗がりに見えて来ると…エンデは安心感と一緒に目が潤み、そこから漏れている光が眩しく感じた。
「…?やけに静かだな…」
…灯りはついているのに話し声がしない…中に人の気配は沢山あるのに…
不思議な雰囲気に、エンデが家の少し前で立ち止まった瞬間、
ガラッ
と、家の戸が勢いよく開いて、灯りを背にした3つの人影がエンデに飛び付いて来た。
「お帰りなさい!」
あまりに勢いが良くて、エンデは彼等に倒されるように尻もちをついた。
「ウワッ⁈」
エンデは仰向けの状態になりながら、胸の辺りにのしかかっている3人の顔を見る。
「セジカ、サハ……イードも来てくれたのか…ただいま…」
「もう…大兄ちゃん遅いから待ちくたびれたよ。」
「……」
ニコニコ笑顔で文句を言うイード…
セジカとサハは無言で…2人の目は潤んでいて、サハは少しだけ怒っていた。
「…遅くなってしまってごめん。セジカとサハは留守番は大変だったろう?…何も出来なくて本当にごめ…」
エンディは言い終わらない内に胸に軽い衝撃を受ける。
「なんでチィ兄ちゃんだけに言うんだよう…大兄ちゃんが怖い人に連れて行かれた事…僕はずっと知らなかった。そんなの嫌だよぉ〜。」
サハは泣きながらエンデの胸をポカポカ叩く…
「…ご、ごめんサハ…君が怖がってしまうかなって思ったんだ…」
最後にフクロウに乗って会いに行った時も知らない様子だったからなぁ…サハは本当につい最近知ってショックだったんだな…
「止めるんだ、サハ。村長さんも言ってたろう?サハはいつも俺達が帰ろうとすると泣きベソかいてるのに、怖い人に兄ちゃんが連れてかれたって知ってたらどうなってたろうなって。…言ったら君がどうなるかはエンデさんは見えていたんだよ。」
尚もエンデの胸を叩こうとするサハを、セジカは立ち上がって諭しながら止める。
サハは優しいけど負けず嫌いな所もあり…セジカと同じ思いを共有出来なかった事が悔しかったらしい。
サハらしい怒りだなぁと、エンディは叩かれながら嬉しさも込み上げて来た。
と、
「叩いたらメよ。痛いよ。メよ。」
いつの間にか後ろからトコトコ歩いて来た小さな影が、セジカに加勢してサハの背中をポカっと叩く…
「アヨカも叩いてる…メだよ。」
困ったように女の子をサハから遠ざけながら苦笑いするセジカは、次にイードも立たせ…
「ほら、いつまでも皆んなで乗ってたら大兄ちゃんが重いだろう?」
と嗜める。
「なんだよ。サハはまだ乗ってるのに…ズルい…」
イードは体格がほぼ同じなサハを同等と捉えているらしく、いつも呼び捨てにしてる。
「…サハ君は頑張って待っていたんだから甘えていいんだよ。イードの順番は後だよ。さぁ、皆んな中に入ってエンデ君が無事に帰って来たお祝いをしよう。」
いつの間にか、子供達の後ろには3人の大人が立っていて…
その中のイードのお父さんらしき人が子供達を家の中へ戻るよう促す。
「お帰りなさい、エンデ君。中には皆んなで作ったご馳走があるのよ。先に入って待ってるわね。」
イードのお母さんらしき人がエンデに声をかけて中に入って行く…
「あ、すみません…サハのご機嫌が戻ったらすぐ行きます。」
上半身だけ起こした状態でエンデが応えると、再び胸に衝撃を感じた。
「大兄ちゃんのバカ!僕は機嫌が悪いんじゃなくて理由があって怒ってるんだぞ。バカ…うゎ〜ん」
サハはエンデの胸を2回叩いてから、今度は抱きついて泣き出した。
「…そうだね…サハが頑張っていたのは僕は見ていたよ。…子供扱いしてごめん…」
セジカを心配してここにいてくれたサハ…セジカと同じモノを背負って頑張ろうとしてくれていたんだよな…ごめん。
サハの背中を撫でながら、エンデはもう一度謝った。
するとサハは更に力を込めてエンデに抱きつく…
「ううん…僕が悪いの。大兄ちゃんごめんなさい。僕がキノコを入れなければ…病気になって皆んなが来て心配かけたから…僕が悪いの。本当にごめんなさい…」
サハが泣きながら夢中で話している事は支離滅裂で、要領は得ないのだが…エンデには彼が言わんとしている事は理解していた。
村長から2人がギハンに感染した旨の連絡がウェスラーの元に届いた夜に、エンデも慌てて詳細を確認しようとフクロウに意識を乗せて彼等の元へ行くと…
どうやら2人が感染する少し前に、サハがセジカの作るスープに毒キノコを入れてしまい、それを食べて彼らは嘔吐して半日くらい寝込んだようで…
何日か前に雑木林で採れたキノコを、村長に毒キノコか否か確認してから調理する予定だったが、毎日のように様子を見に来てくれていた村長が、その時はタヨハの件の対応に追われ2.3日来なかった事があった頃で…以前採って食べたキノコによく似ていたし、時間の経過でそのキノコの色が変わり始めたので、焦ったサハがセジカに言わずにスープに混ぜてしまった…
毒キノコで体力の落ちた2人は、既に流行のピークに差し掛かっていたギハンに感染してしまったらしい…
本来、ミアハの中でも唯一、葉緑体を体内に持つ種族レノにとって、ギハンは子供や年寄りですら驚異ではない。
彼らレノは、葉緑体を持つ影響で感染症の殆どにすぐ耐性を持ち、治癒力も高い…
だからエンデも村を出る際は若い2人の感染症の罹患は殆ど心配はしていなかった。
サハは、毒キノコで体内の免疫のバランスが少し落ちた為にギハンに罹患した事の説明を大人から受け責任を感じていた。
そして更に、
「お父さんが明日…僕を迎えに来るって…僕はきっと能力者になれるからミアハに戻って勉強しなさいって…大変な時代が来るから準備しなくちゃって…。僕は大兄ちゃんとチィ兄ちゃんとイードと…ここにいたい。大兄ちゃんが帰って来たのに…なんで帰らなきゃダメなの?…なんで?……うゎ〜ん」
取り巻く状況がどんどん変わろうとしている事に、彼は気持ちが追い付いてないようだった。
「……」
エンデは、自分にしがみつく様にして泣くサハを抱きしめて…背中をさすりながら黙って話を聞いていた。
「大兄ちゃん、僕は帰りたくない。ここに居たい。いいでしょう?…良い子になるから…ねぇ………何か言ってよぉ…」
サハはエンデの服を掴んで、それを揺さぶるように問う。
その彼の手首には…ライカムの腕輪がチラチラと見えていた…
「…サハ…よく聞いて。毒キノコの事は気にしなくていい。誰も気にしていないよ。でも、毒キノコは怖いって分かったら同じ事を繰り返してはいけないよ。キノコは食べる前に詳しい人にまず聞く事。それを忘れたらダメだ。…分かった?」
サハはエンデを揺さぶる事を止めて、
「…うん。」
と頷いた。
「…じゃあ、きのこの話はこれでお終い。もう誰にも話す必要はないよ。」
サハは今度は首だけで「うん」と頷く動作をした。
「明日…お父さんが迎えに来るんだね。君の妹さんはすっかり元気になったのだろう。…サハの本当のお家はあっちだから、君は帰らなくてはならないんだよ。」
「やだ。……なんでここにいちゃダメなの?」
…今回のギハンの蔓延で、ポウフ村には子供達だけで暮らしている家があるらしいと世間に知られかかっている事で、ユントーグ政府の厄介な干渉を受けそうな動きがあり…ミアハの親御さんにも迷惑がかかりそうなので…今の状態で共同生活を続ける事の限界が近付いているのをエンデもヒシヒシと感じていた。
だが法律だの血縁の話を今のサハにしても、理解出来る年齢には少し足りない…
エンデは思い切って、彼が渋々だが帰国を受け入れられる切り札になりそうな話をする事にした。
「セジカも帰ると言ったら?それなら君達は同じレノだから学校で毎日会えるよ。」
「ええ?!……嘘だよ。前にチィ兄ちゃんはずっとここにいるって言ってたもん…」
信じられない話にサハは動揺していた。
…だがあのセジカの義理のお母さんは…今回はある決意を持って…セジカの腹違いの妹をわざわざ連れてここに来ているのがエンデには分かったし、セジカもそれに気付いている。
優しいセジカは…レノの家族が自分を心から必要としている事を感じれば、悩みながらも帰る…
彼は今までは唯一、エンデの無事な帰宅が気掛かりだったと思うが…今日その問題はクリアとなった。
そもそもあの子達の親は皆、優秀なミアハの能力者で…テイホ国はそれは調査済みで子供を選んで攫っていた。
エンデの率直な心情から言えば、自分を心から慕うあの子達には帰って欲しくはない…
けど…ミアハの民なら能力者として生きる道は名誉な事で…親はまず子供にはその道を目指して欲しいようだし…実際、彼らがその道を本気で望めば道は開けて行く未来の様子がエンデには見える。
今の段階でこそ葛藤や不満を抱えつつ帰国しても…彼らは将来、実際に能力者と認められれば誇らしく思うのだ。
彼らの可能性は閉ざしてはいけない…
エンデの取る道は決まっていた。
「…ここには学校も病院もない。その2つは今の君達には必要なモノなんだけどね…残念ながらそれがここには無いんだ。…それに君達ミアハの子供はね…本来ならミアハの地でエルオの女神の守護の元で生活し学ぶのが一番だと思う。…これは今は説明が難しいけれど、必ず分かる日が来るから…」
…そう…ミアハの民はエルオの女神の元から離れたら、本来の能力は失われて行くのだ。
「嫌だ!皆んなとここに居たい。なんで帰らなくちゃいけないか分かんないよ…大兄ちゃんは僕達が嫌いなの?」
エンデはサハをギュッと抱きしめる。
「嫌いな訳がないだろう…?セジカもサハもイードも大好きだよ。…だからこそ、時間を大事にして欲しいんだ。今しか出来ない事はあるんだよ。」
納得出来ないサハは食い下がる。
「大好きな人と一緒にいる事は大事じゃないの?」
サハらしい切り返しにエンデは苦笑する。
「…大事だね。でもね、大事な事はしたい事ばかりじゃないんだ。未来の自分や社会の為に準備しなければいけない事もあるんだよ。…僕が怖い人達の所に行ったのも、僕はこの村やミアハの為に行く必要があると思ったから辛いのを覚悟して行ったんだ。途中で村に帰りたくて、君達に会いたくて、とても辛かった時もあったけど…歯を食い縛って頑張っていたら、そこで友達も出来たんだよ。」
「……」
「帰るのは君だけじゃない。同じミアハでなら、セジカには毎日学校で…望めばイードにも会える機会は沢山作れる筈だ。僕も1年間、怖い辛いと思う自分を乗り越えて頑張ったよ。君も少なくとも1年はミアハで暮らして色々考えて欲しい。まぁミアハは全然怖くないけど…1年ミアハで頑張って、それでもここで暮らしたいと思うなら相談に乗るよ。でも今は…少なくとも1年はミアハで頑張って欲しいな。」
「……」
「セジカもイードもいるんだから、サハも頑張れるよね?」
「……」
…せっかく…ずっと待っていてくれたのに…突き放すような事を言って、本当にごめん…
だけど、君達の為にも今帰る事が一番良いタイミングなんだ。
…ここは半年後にユントーグがメクスムに完全に吸収される事で多少だが国内の混乱の影響を受けて、癖のある都市部の役人や怪しげな素性の人物がこの雑木林に目をつけて僕を追い出したり、神殿を破壊しようとする。
まぁその対策は打ってあるので、ここや村人達がそいつらの被害に遭う事は無いと思うが…今までユントーグである程度の権力を振り翳していた人の失脚や、新体制に不満を抱く輩が、こういう僻地を妙な野心を燃やす拠点にする未来の動きも見え…混乱のどさくさでセジカ達が再び攫われる可能性はゼロとは言えない不安定な情勢が最低2年は続く…
彼等に会えない寂しさはきっと、これから始まる目の回るような忙しさで紛れるし、あの子達はミアハにいればほぼ安全で…唯一の商業施設のセヨルディにさえ不用意に近づかなければ、エンデの神経も多少は消耗を防げる。
…そして、
ここの様子が落ち着いて来た頃には、彼等はすっかりミアハの生活に慣れて、友達も増え…毎日を充実させていて…
その頃のエンデの周りには沢山の第2第3のセジカ達が…
「…ここに遊びに来てもいい?」
やっとエンデから身体を離したサハは、彼と向き合い、藍色の目を射るように見つめて尋ねた。
「いいよ。いつでもいい。だけど、行く前にちゃんとお父さんとお母さんに許可を得て、僕か村長に連絡してからじゃないと…いきなり来てはダメだよ。僕が留守の時に来て何かあったら、皆んなが心配して大騒ぎになってしまうからね。この約束を守ってくれるなら僕はいつでも大歓迎だよ。」
サハは少し嫌な顔をする…
「ええ〜イチイチ言うのぉ。面倒臭いよ…」
「…言わなきゃダメ。ここに来る事で家族の誰かに心配かけたら、その後でここに来る事は難しくなって行ってしまうよ。これは君だけじゃない…これからセジカとイードにも守ってもらうルールだよ。」
「……」
不服そうに視線を逸らすサハの両肩に、エンディはそっと手を置く…
「サハ……これからとっても大事な秘密の話をするから、僕の目を見て。」
え?秘密?と、サハは好奇心に目を輝かせてエンデを見る。
そんなサハの様子にエンデは笑み…ボソボソっと耳打ちをする。
「……ええ?!……うん、いいよ。僕、頑張る。」
エンディの内緒話に途端にご機嫌になるサハ…
と、不意に
「内緒話?僕も混ぜて混ぜてぇ!」
イードが後ろからエンデの首に腕を絡ませて抱きついて来た。
「ダメ。僕と大兄ちゃんの内緒話だぞ。話したら内緒話じゃなくなるだろ。」
「…サハのケチ。僕も内緒話してもらうからいいもん。ね、大兄ちゃん?」
と言いながらイードはエンデの首に更にしがみつく…
「…そうだね…イードにはまた今度ね。さぁもう話はお終いだ。皆んなが待ってるから中に入ろう。」
と、エンデは首に絡んでるイードの腕を解きながら立ち上がる。
イードは不満そうに口を尖らせて、
「なんだよ…サハばっかりズルい。大兄ちゃん、後で僕にも内緒話して。絶対だよ!」
「ほらほら、もう止めなさい。エンデさんが困ってるでしょう?…お話しの邪魔をしてごめんなさいね。この子ったら待ち切れなくて…」
イードの後ろから彼の母親が、エンデに尚もしがみつこうとする彼を引き剥がす。
ティリの能力者であり医師でもあるイードの母は、知的な雰囲気を纏った優しそうな人だ。
「僕こそすみません…話が長くなってしまいました。待たせてごめんねイード。じゃあ中に入ろう。」
と、やっと身軽になったタイミングでエンデはサハと中に入り…再びエンディに抱きつこうと駆け出すイードを、なんとか捕まえ拘束しながら彼の母親もそれに続いた。
今夜の荒屋は、エンデが今まで経験した事がないくらい賑やかで…
人がギュウギュウ詰めではあったが…色々と工夫しながら皆なんとか自分のスペースを確保して、エンデの為に協力して拵えてたご馳走を皆で味わい…温かく楽しい夜は更けて行った…
「夜道は危ないから、私が送りましょう。」
やはりここに全員で寝るのはきついだろうと、この後エンデは昔テウルが寝泊り用に改造した鶏小屋で寝ようと考えていたが…
にしても、この小屋に3人の大人と4人の子供が寝るのはどうにも無理に思え…イードの家族かセジカの家族は神殿の居住者様用の部屋で寝てもらう方がよいだろうと彼は考えていたが、その件は予め解決されていた。
「ウェクさん達が病み上がりの子供達に代わって神殿をお掃除してくれたそうで…エンデさんとセジカさん親子はそちらに寝て下さい。」
と、イードのお父さんからそう言われたエンデだが…どちらかというと神殿の方が来客には相応しい部屋なので、その提案には躊躇した。
「いや…僕は勝手知ったるこちらの鶏小屋の空きスペースで寝ます。昔はそこで寝泊りしていた事もあるので、僕は大丈夫です。」
と、イード親子かセジカ親子に神殿に泊まってもらう事をエンディは勧めたのだが…
イードのお父さんは迷いなく、
「いや…実は、昨夜はサラさん…セジカ君のお母様が息子と少し話したいという事で、僕達家族とサハ君が神殿に泊まらせてもらったんだ。だから今夜はセジカ君達とエンデさんが向こうに泊まって頂きたい。…実は、セジカ君のお母様はあなたと話をされたいようでね…僕達は明日の午前中には帰らなくてはならなくて、サラさん達も僕達の車に乗って来たので一緒に戻る予定なんだが…その前に君と話をしておきたいそうなんだ。お疲れのところ、大変申し訳ないんだが…」
と告げた。
「…そうですか…いや…僕こそ色々申し訳ないです。」
…おそらく自分の帰宅が遅くなってしまった為に、彼等の予定がズレ込んだ事は察していたので、エンデは仕方なくその提案を受け入れた。
だが…
いざ神殿に移動する段階で、イードのお父さんが夜道を心配して車で送ってくれようとした際に、
「…僕は今夜はサハとイードと寝たい。」
と、セジカは何かを察して頑なに神殿への移動を拒んだ。
「分かったわ…」
セジカの複雑な心境を推し量る様に、サラもここで無理強いはせずに引いた。
「私から見るとね、あの子は本当に…父親そっくりなの。優しいのだけど、人の気持ちを推し量り過ぎて神経をすり減らしてしまうタイプ…という感じ…」
神殿に着いたサラは娘を急いで寝かしつけ…
アバウの像の鎮座する広間に置かれたテーブルを挟むように二人は座り、サラはエンデが入れたメクスム産のお茶を啜りながら呟くように言った。
「さっきだって…本当に子供達だけで過ごしたい気持ちはあったと思うけど、自分がいる事であなたが私と話し辛くなる事も心配しているのよね…」
その時、
「う、う〜ん」と、アヨカの寝言のような…夜泣きの始まりにも取れる声が微かに聞こえて来て、エンデがそれを気にする様子を見せると…
「あ、大丈夫。あの子は夜泣きしても一瞬で…すぐまた寝ちゃうの。いつも慌てて側に行くと、何事もなかったかのようにスヤスヤ寝てるのよ…体調が悪かったりで泣き出す時は泣き方が違うから、今のは大丈夫なヤツ。気にしてくれてありがとう…でね、続きだけど…」
「……」
…確かに…すぐにアヨカの声は聞こえなくなった…
幼い娘の夜泣きに全く動じる様子なくセジカの話を続けようとするサラに、セジカを思う母としての覚悟のようなモノをエンデは感じた気がした。
「セジカは繊細ゆえに気の遣い方がちょっと面倒な子なんだけど…だけどね…それがイジらしくて…私、つい抱きしめたくなってしまうの。あの子にドン引きされたくなくて必死に堪えるのも大変なのよ…アヨカも本能でセジカの何かを嗅ぎ取ってるみたいで、以前あの子が帰って来た時はまだ首も坐らない赤ん坊だったけど、今回は…昨日からずっとセジカの後をくっ付いて回っているわ。ああ…この子達はやっぱり兄妹なんだとしみじみ思った…」
サラはなんだかやけに明るく一方的に喋り続けているが…あっけらかんと話しているようで…「大変な思いをして帰って来たあなたの元からセジカを連れて行く事を許してね」と…
エンデにはサラの肉声と心の声が一緒に多重放送で聞こえていた。
「私達にとっては、あの子も居て家族だから」
とも…
「一応ね…エンデ君、私はアヨカを身籠った時に覚悟は決めているの。その時点ではセジカの生死すら分からなかったけど、私の中ではあの子が死んでる可能性は排除していたから…アヨカ同様セジカも自分の子供として一生愛しぬこうって…臭過ぎるって笑わないでね。…本気なのよ。」
サラはここでスッと笑顔が消えて真顔になる。
…分かってますよ…
と、エンデは心の中で答える。
サラの心は、実は本当は結構張り詰めていて…エンデが何か言ったら泣き崩れてしまいそうな状況だったので…
とりあえず、今はただ黙って相槌を打っているのだが…
「だからあの子があなたの元に戻ってしまった時は、私…結構ショックだったの。」
「サラさん…どうか誤解しないであげて下さい。セジカは攫われた頃の記憶はほぼ無いから…あの子もどうしていいか分からないんです。彼は自分が中途半端な存在に思えて…そんな自分の為にあなた達夫婦の関係が揺らいでしまわないか…彼はそれを恐れているんです。」
サラさんが搾り出すように苦悩を吐露したので、エンデは思わずセジカの思いをしっかり代弁してしまっていた。
「そんな事ぐらい…」
サラの目にはみるみる涙が溜まり…彼女は拳でテーブルをドンっと叩いて俯いた。
「分かってたわ…」
エンデは今の音でアヨカが起きやしないかヒヤヒヤしたが…
「……」
彼女の眠る部屋は…物音一つなく静かなようだった。
「…あの子のお母さんは…私の1つ上で職場の先輩だったのだけど、私と少しタイプが似てて…大切な友人でもあったの。サバサバした性格で、皆んなから頼られるような…いつも明るいオーラを発している人だった。それが…あの子が居なくなってからは…本当に見ていられないほど痩せて…だからもう…彼女に亡くなった後までセジカの事で心配をかけさせたくないの。あなたがいなくなって、村長さん達が毎日のようにあの子達の様子を見に来て差し入れも頻繁に下さっていた事は聞いていたけれど…でもね、やっぱり…大人も…君すらいない時間が長くなる事は…私は耐えられなかった…」
ずっと俯いていたサラがここで顔を上げ、涙に濡れた目でエンデを見る…
「…あなたには感謝しています。あなたがいたからあの子は色々救われた。でも…あの人の息子として、アヨカの兄として、セジカには側に居て欲しいの。私も…勝手なエゴかも知れないけど、亡くなったレワの分まで母親らしい事をしたい…ここから4人での家族の絆を作って行きたいんです。どうかあの子を…私達の側で見守らせて下さい。」
サラは急に畏まった物言いになって、徐に立ち上がり…
エンデの側まで行ってテーブルに両手を付いて頭を深く下げ…
「お願いします。あの子はここを離れる事に強い抵抗感を抱いていて…私のお願いにははっきり返事をしてくれません。どうか…エンデさんからあの子に戻れと言って欲しいんです。どうか…」
…ざっくばらんな口調でほぼ一方的に話していたかと思えば、急に丁重な物言いになり、この展開…
エンデは少し戸惑ってはいるが…サラなりに一生懸命にあの子の母親になるべく手探り状態で必死に頑張っている…
エンデから見たらサラも十分健気でイジらしく見えていた。
「サラさん…とにかく頭を上げて下さい。…セジカは既にミアハに戻る事をほぼ決めています。…ただ、あなたに返事をする前に僕に直接その気持ちを伝えるべきと思っているようです。」
エンデはそう言いながらサラの身体を起こす。
「そ…そうなの…?」
顔を上げたサラの涙腺は既に崩壊していた。
「…そう…あの子はそういう律儀で面倒臭い子なんです。セジカは僕がここに戻って来た時には、既に気持ちを固めつつあったように見えました。そんなあの子の面倒臭い所もしっかり受け止めて頂けたなら嬉しいです。」
サラはヘタヘタと床に座り込んだ…
「そうね…そういう子よね………窒息しそうなほど抱きしめてあげたいわ…」
気の抜けたような顔をして呟くサラを見て、エンデは失笑してしまった。
「僕も…正直、とても寂しいですが、実はこのタイミングで彼らがミアハに戻る事は望ましいと思っています。…ここだけの話で聞いて下さい。ユントーグは間もなくメクスムに完全吸収され、ここポウフ村はその影響で2年くらいの間はやや治安が心配な状況となります。僕なりに対策は考えてありますが、あの子達はミアハに居てくれた方が僕も安心です。それに…」
「……」
思いもよらない話を唖然として聞いているサラに、
「セジカは賢く才能豊かな子で知識欲も旺盛だから、興味を持った事は積極的に学んで欲しいけど…ここでは無理ですからね…」
特に人を教え導く様な方面の事は向いているので、彼がその方面に興味を示したら仕事としてかなり成功する可能性も伝えた。
そして…
「差し出がましいですが…サラさんとセジカは意思疎通に1年くらいは苦心されると思いますが…焦らないでいてあげて下さい。あの子は心を込めて接すれば必ず応える子です。…爪を噛む仕草が見られたら、あの子の不安やストレスが溜まって来ているサインなので、広いところで星を見ていられる場所に連れて行ったり、繊細な作業が好きなのでそういう…あ、そうだ…この腕輪や台所の小さな籠も、セジカの作品なんです。そういう作業も勧めてみてあげて下さい。」
エンデは嬉々として、自分の手首にあるライカムの腕輪をサラに見せながら語った。
「…それ…あの子達もしていたわ。…セジカが楽しそうに編んでる姿が目に浮かぶよう…それにしてもあの子達は、本当に強運ね。あなたみたいな人に見つけてもらったんですものね…」
サラが感心しながら言うと、エンデの表情が僅かに曇る…
「…僕がレブントの街の裏路地で彼等を見つけた時は、それらしい子はまだ他にもチラホラいたんです。…けど、あの頃に僕が連れ帰れたのは3人が限界でした。救わなければならない子はまだまだあの辺りにはいて…メクスムによるユントーグ吸収は、あの辺りで救えなかった子達にとっては更なる試練になって行きそうなんです。僕は拘束されてからの前半は大変な経験もしたけれど…そのお陰でメクスムの政治家と知り合いになれたので、その繋がりを活かし、あの辺りで途方に暮れている子をなんとかしてあげたい気持ちが強くあります。」
この段階で元の椅子に戻ったサラは、もはや尊敬の眼差しでエンデを見つめていた。
「あなた…若いのに本当に凄いわね…なんでそこまでしたいと思えるの?」
「僕は5歳まで目が見えなかったんです。火事で死にそうになった時になぜか色々なモノが急に見えるようになったんですが…その時に母と死別して…。僕を助けてくれた老人と暮らすようになって、母のお荷物でしかなかった僕が…初めて人の役に立てる嬉しさをその時に知ったのです。が…同時に母には何もしてあげられなかった思いが日増しに強くなって行って…その悔しさを晴らしたいのでしょうね。褒められるような動機でもないです。自分の気が済んだらどうなるかなって…考える時もありますから……って、余計な話を聞かせてしまいすみません。…もう遅いですから、話はこの辺で一旦終わりにしませんか?」
脇の柱に掛けてある柱時計が視野に入ったエンデは、やんわりサラに休むように促す。
「あ、ああそうね。…今夜は疲れているのに遅くまで付き合ってくれて本当にありがとう。」
カラになった2つのカップを手に立ち上がったエンデにお礼を言ったサラは…
ここに入って来た時より穏やかな表情になっていて…エンデは密かにホッと胸を撫でおろした。
「いえ僕こそ…あの子達の側にいてあげられなくて…本当に色々とご心配をかけてしまい、すみませんでした。」
サラさんなりに色々と取り越し苦労をして、離れた場所からセジカを心配していた時間も多かった姿が見えていた…ならばやはり、この言葉を伝えておかねばと…
寝室に行こうとするサラに、エンデは深々と頭を下げ謝罪した。
サラは…寝室のドアノブを掴んだままフッと微笑んだ。
「…正直、レノの自宅ではいつもセジカが気になって、迎えに行く事に消極的なあの人と言い合いになってしまった時もあった。でもそれはあの子が生きているから悩める事なのよ。昨日今日と、セジカと遊んでもらって楽しそうに笑うアヨカの姿を見たらもう…実は私、アヨカを産んでから色々あって子宮を切除して…もう子供は無理なの。だから尚更…アヨカの兄がセジカで良かったって…ああ私はこの子達の為に頑張ろうって…生きる力をもらえる気がしているの。あの人…旦那もね…以前は時々ボーっと1人で考え事してる姿をよく見かけたけれど…セジカが生きていると知らせが入ってからは目の力がなんか違って来て、考え事する姿も見なくなったわ。なんだかんだでセジカの存在は我が家に活力をくれた…親が子供の事で心配したり、夫婦で口喧嘩なんて些細な事よ。あなたはそれだけ我が家に希望の光をもたらしてくれた…あなたもやむを得ない事情で村を離れた訳だから謝らないで。来週…あの人がセジカを迎えに来る予定になっているので…それまでにセジカの本当の気持ちを聞いてあげて下さい。こちらこそ、よろしくお願いします。」
サラは改めて身体をエンデの方に向けて頭を下げた。そして…再びドアノブを引きながら、
「じゃあ、おやすみなさい。」
と、空いてる片手を軽く上げて、サラは寝室へ消えて行った。
「……」
エンデが見る限り、普段のサラさんは家庭の事は軽々しく人に話したりはしない…
セジカの特殊な状況と、エンデの特殊な能力を知ってるがゆえに、今夜は色々聞いて欲しかったのだろう…
彼はは少しだけ夜風に当たりたくなって外に出る。
…珍しく、月は2つとも出ていない夜…
この辺りの風景はまだ、エンデがテウルと暮らしていた頃と殆ど変わらない…
と、割と近くからホーホーとフクロウの鳴く声が聞こえた。
おそらく神殿の右脇の少し離れた場所にある樫の木に止まって鳴いているのだろう…
エンデに「おかえり」と言っていた。
「ありがとう。本当に助かったよ。また身体を借りてもいい?」
とエンデが言葉を思念で送ると…
「また玉子をくれたら考えてあげてもいいぜ…」
と、今度はフクロウも思念で返して来た。
「…いいよ」
とエンデが応えると、
フクロウは一度だけホー(じゃあまたな)と鳴いて、雑木林の方へ飛んで行ってしまった。
…多分、OKという事だろう…
エンデは都合良く解釈した。
動物には彼等なりの誇りがあり、無闇に身体を利用したら彼等は敵意さえ向けるようになる。
彼とメクスムの鳩君とは長い付き合いになりそうだな…
と思いながら、エンデが再び空を見上げると…
少し夜空の色が抜けて来たような気がした。
「夜が明けそうだな…いい加減寝ないと。」
と、慌てて屋内に戻る。
サラは既に深い眠りに入り、彼女達の寝室からは物音一つ聞こえて来ない…
「…希望の光か…それこそお互い様なのに…」
それぞれが必死に家族になろうとしている彼等の姿に、エンデも実は励まされている。
本音を言えば、子供達の帰国は凄く淋しい…
けど、幸い僕は彼等との絆は切れない事を知っている。
[…じいちゃん…僕はこのまま進んでいいよね…?]
エンデの見つめる先…さっきまで彼の座っていた椅子にはテウルがいて…
彼は何も言わず…一度だけ頷いて微笑んでいた。
翌朝…
「なんでアヨカがいるんだよ。そこは僕の椅子だろ?退いてよ。お前はあっち!」
ムッツリ顔で文句を言うサハは、エンデとセジカを手伝う為に台所に行っていた隙に、アヨカに定位置のセジカの隣りの席を奪われ、不機嫌そうにアヨカの服を軽く引っ張りながら、斜め向かいのサラの隣りの席を指刺す。
「や、ここアヨカの!」
全く退く気のないアヨカに、準備を終えて戻って来たセジカも困ったように、
「アヨカ、サハが座れなくて困ってるよ。意地悪したらメでしょ。」
と嗜めると、アヨカはますますムキになって…
「違う!サハはあっちの!」
と、さっきまで自分の座っていた椅子を指刺す…
「違うでしょ…なんでわざわざそんな狭い所に割り込むの…」
サハとケンカになる前にアヨカを退かそうとセジカが近づくと、
「アヨアスキから、セイカここ。」
アヨカはセジカを見つめてニッコリ笑いながら、セジカの席をポンと叩く。
「…困ったな…」
アヨカに満面の笑顔で指名され…サハはますますムクれるし…セジカは言葉通り困っていた。
「アヨカ、ワガママもいい加減にしなさいよ。」
と、立ち上がるサラをエンデが止めて、
「じゃあサハは僕の隣においで。この後はセジカと神殿の掃除に行くからまだ少し一緒にいられるでしょ?」
…そんな予定なんて無いが、エンデがそっと目配せするとサハはすぐに察して、
「…分かった…大兄ちゃんも行くんだからね。」
と、渋々アヨカに席を譲った。
「…まったく。…サハ君、セジカ、ごめんね。アヨカ、お兄ちゃんの邪魔しないで食べるのよ。邪魔する子はそこに座っちゃダメなのよ。」
サラはアヨカ用のパンとポテトサラダの入ったカップとスプーンを渡しに行きながら、上機嫌の娘に釘を刺す。
アヨカは何を言われても始終ニコニコで、
「しない。アヨアいい子から。」
と、渡されたスプーンで、エンデ特製のポテトサラダをパクパク食べ始めた。
「いいなぁ…僕も…」
と、ここまで黙って様子を見ていたイードがエンデの所に移動しようとすると、
「アンタはいいの。ややこしくなるでしょ。早く食べちゃいなさい!」
イードは両側に座っていた両親に素早くガードされて、移動は叶わなかった。
「ほら、スプーンをよく見て掬わないと…いっぱいこぼれちゃってるよ。」
隣りでテーブルに色々こぼしながら一生懸命にポテトサラダを口に運ぶアヨカの、カップの中を食べやすいようにポテトを寄せてあげるセジカを、嬉しそうに見ているサラ…
そんな彼らの様子を周囲は生温かく見守りながら、朝食の時間もまた賑やかに過ぎ…
セジカとサハとエンデが神殿の掃除の準備をしていると、お約束の様にイードも一緒に行くとゴネ出して…
その様子を見てアヨカも行くと騒ぎ…
本来エンデ達3人は、自宅からサラ親子とイード家族を乗せた車の出発を見送ってから、神殿の掃除に向かう予定でいた。
けれどイードとアヨカがセジカ達と神殿に行きたいと騒ぎ出したので、とりあえず皆で神殿まで行き、神殿で今日帰る人達をお見送りする事になった。
これから迎えに来るサハの親は、まず村長宅に挨拶してから午後にエンデの家に迎えに来る予定なので、イード達とは別行動となる。
まず先に勝手の分かるエンデ、セジカ、サハ、イードが歩いて神殿に向かい、残ったチームは荷物を車に乗せてから車で神殿まで移動する段取りだったのだが…
「あの…エンデさん、少しよろしいですか?」
とイードの母親から呼び止められ…
少しだけエンデと話をしたいという事で、セジカ、サハ、イードの少し後からエンデとイードの母親が歩いて神殿に向かう事となった。
「無理言ってごめんなさい。こんな風に同じ悲しみを味わった人達と寝泊まりする機会なんて中々ないし…エンデさんと直接お話し出来る機会もね…」
神殿までの細い道を並んで歩きながら、イードの母…リヌサはポツポツと話し出した。
「そうですね…こんな風に皆さんが集まって下さっていたなんて…村長さんには感謝しかありません。昨日僕がもっと早く帰宅出来たら、イードのご両親ともゆっくりお話し出来たかも知れないですね…こんな状況でしかお時間が取れなくなってしまって申し訳ないです。」
リヌサはゆっくり首を横に振る…
「イードと私達は一番傷が浅くて済んだ家族と感じます。今、私達家族はほぼ元の日常が戻っていますが…セジカ君とサハ君は家族との記憶は薄いまま、これからがミアハの環境に慣れて行く為の日々ですから…特別な力をお持ちのエンデさんに今聞いて起きたい事は山ほどあるでしょう…。私達夫婦は今回、この地で息子と似た体験が出来ただけでも貴重な経験でした。…ただ…」
少し躊躇する様な雰囲気で、リヌサは黙ってしまった。
彼女が自分に何を問いたいかは始めから分かっていたので、エンデは思い切って問題の核心に触れた。
「昨夜の内緒話が気になってしまいましたかね…?」
リヌサは少し恥ずかしそうに俯いて…
「…すみません…あの子を追いかけたタイミングでちょうど目に入って来てしまって…あの時の内緒話はイードにも?」
リヌサの問いかけに、今度はエンデが首を振る…
「…いや……あっ、でも1年くらい経ってもイードがしつこく聞いて来たら、話してもいいかなとは考えていますが…今のイードには必要ない言葉と僕は思っています。」
「必要ない?」
リヌサは思わず立ち止まって聞き返す。
「ええ。…今のあの子に不安はほぼ感じないので。」
エンデも立ち止まり、リヌサに振り返りながら答える。
「…あの時僕は、君さえよかったら将来はここで僕のお手伝いをしてくれる?と、サハに頼みました。」
リヌサは腑に落ちない表情を露わにし、立ち止まったまま尋ねる。
「なぜ今の段階でそんな事を?そして、イードにはなぜ必要ない話なのですか?」
エンデは淡々とリヌサに伝える。
「…保険として伝えました。僕の本音としてはそんな将来もいいかなとは思っても、所詮サハの未来は彼が決める事で何の拘束力もなく…忘れてしまう可能性の方が高い口約束です。だけど…新しい環境への不安でいっぱいの今のサハは、ミアハの地で家族と暮らす生活が彼に何をもたらすか想像も出来ない状態の上に、両親への甘え方も良く分からない…両親や兄妹がサハにとってどういう存在なのかがまだよく分からないので…漠然とした未来の安全地帯を作ったのです。幼いサハにとって今考える[いつか]は、これからの日常の中で楽しい事が増える度に、どうにでも変化して行く未来ですから。…実際、5年も経てばサハはほぼ忘れてるでしょう。」
エンデは空を見上げながら、少し寂しそうに苦笑いする…
更に、
まだスッキリしない表情のリヌサの目を、エンデは真っ直ぐに見つめ、
「イードも含め…彼等は本気で望めば能力者にもなれます。彼等は才能豊かです。…僕は彼等の未来に干渉するつもりは全くありません。…ただ…彼等同士の交流は続いて行くと思うので、どうかそれは許して上げて下さい。」
エンデは、今の彼女に一番伝えておきたかった事を言い切ると、またゆっくりと歩き出した。
少しの間、エンデの言葉をじっくり嚥下するように聞いて、少しずつ遠ざかって行く彼の後ろ姿を見つめていたリヌサは…
「エンデさん、あなたは長老が仰っていた通りの方と思いますが…」
と、言葉を投げかけ…
思いがけず長老の名前を出され、エンデは少し驚きながら振り向く…
「長老…?」
再び立ち止まったエンデにリヌサは追いつくと、
「そうです。セダル様は少し前…イードがティリでの生活に慣れ始めた頃を見計らって私達の家まで様子を見に来られたのです。その時の長老はあなたに会って来たばかりだと仰られていて…特殊な能力もそうだが人間性も中々素晴らしいと称賛されていましたよ。…そんなあなたは、ご自身のお気持ちは常に後回しにして行動されているように見えます。きっと…私達に遠慮されいる部分もある思いますが…」
リヌサはエンデの正面に回り込み、自身の手を合わせて懇願するように彼を見つめる。
「どうかイードの…いえ、あの子達の人生からフェイドアウトして行かないで下さいね。あなたがあの子達の今後を考えて慎重に対応して下さっておられる事は理解しています。だからこそ、私達もあなたを信頼している。…でも親も今は試行錯誤で…不安でいっぱいです。私達にも…いざとなったらあなたに相談出来るという保険を頂けませんか?」
「……」
…確かにリヌサの言うように、今のエンデは彼等との生活を恋しがってる自分の感情をあまり見ないようにしているのは確かだけれど…この後のポウフ村の状況を考えると、当分彼等にはここに近寄って欲しくないと言う気持ちも一方ではある…
「…勿論、私達ばかりがあなたにお世話になるつもりはありません。…こちらに来る少し前、夫がサハ君とセジカ君のお父様と連絡を取り合っていた際に、あなたがここに医療施設建設や農業の試験的施設を計画している話を聞いて、協力出来る所は是非協力したいという事で意気投合したようです。私も賛成しています。…どちらも私達の専門分野にかかっていますし…私は全力で応援するつもりでいます。」
「いや…まだまだ願望だけの話なんです。」
今の段階で広範囲にミアハの人達と積極的に交流してしまうと、あの女との接触も早まりそうで…う〜ん…
「…今のは私の独り言です。聞き流して下さい。」
悩んでる様子のエンデを見て、リヌサは声のトーンを落として呟くように付け足した。
…昨夜サラさんには話したのだから…リヌサさんにも話すべきだろうと、エンデは自分の躊躇する理由を告げる。
「お礼とか…どうか気を遣わないで下さい。実はこれから2年くらいはこの辺りの治安が少し悪くなる可能性が高いので、あの子達は勿論なんですが、お仕事でユントーグに入られるミアハの方々も注意して頂きたいので…心配なんです。なので…僕はイヤーフォーンでならいつでも相談受け付けますから、どうかご遠慮なく…あ、でも…リヌサさん達のお気持ちは本当に嬉しいんです。ありがとうございます。ただ今はご協力の仰ぎようもない…まずスタートラインから考えなくてはならないような段階ですから…」
エンデは本当に率直な気持ちをリヌサに伝えたつもりだったが…彼女はエンデの淡々とした反応にややガッカリしているようだった。
…ありがた迷惑だったかな…?
という…リヌサの心の呟きが少ししてエンディに聞こえて来た。
「でも僕は…出来れば仰るような夢に向けて頑張ってみようかと本気で思っているので…具体的な青写真やスタートラインが決まったなら…リヌサさん達のご厚意に図々しく甘えさせて頂こうかなと…思っていてもいいですか?」
「勿論ですよ。」
この問いかけにはリヌサの表情がパッと明るくなったので…エンデはとりあえずホッとした。
と、次の瞬間…リヌサはエンデの両腕を掴み、
「社交辞令は嫌ですよ。私は本気で言ったつもりだから…忘れないで下さいね。」
と、イタズラっ子のような目でウィンクしてから、リヌサは掴んだエンデの腕を離した。
…品の良い笑顔でありながら、リヌサの目は…「パパ達だけじゃない。ママ軍団も本気だから…適当な事を言ってあしらうつもりだったら後が怖いかもですよ…」とも言っていて…
エンデは少し引き攣った笑顔でリヌサに軽く会釈した。
「お〜い、いつまで話してるんだ〜そろそろ行くぞ〜」
ちょうどいいタイミングで、リヌサの夫の声が聞こえて来て…
「ごめんなさ〜い、今行きま〜す。」
とリヌサは声の主へ向かって、両手を大きく振った。
その集団は神殿の前でワイワイガヤガヤと立ち話が始まったので、エンデは彼等を神殿の中に招き、昨夜のメクスム産のお茶と、おやつ用のつもりで持って来たセジカ達手作りの木苺ジャムの乗ったクッキーを振る舞い…
出発の前…「ほんの少し…短い時間ですが、アバウ神の前で能力者皆で感謝の瞑想をしたい」という親達の臨時の申し入れがあり、その間エンデとセジカで子供達を外で遊ばせ…
彼等ミアハの能力者達は、しばしアバウの女神像の前で瞑想を行った。
そして、いよいよイード家族とサラ親子が帰る時間となり…
子供達は涙を滲ませ…アヨカに至っては「セイカも」と、セジカの袖を中々離さずギャン泣きし…
しんみりした空気の中…
「セジカ、待ってるからね。」
と、一番最後に車に乗ったサラがセジカに言葉を掛けて…
彼等を乗せた車は、とうとうポウフ村を去って行った…
「……」
彼等の車が見えなくなるまで、しばらく立ち尽くしていた3人だったが…
「あ、そうだ…忘れてたな…」
と思い出したように、エンデはセジカ達が運んで来た掃除用具を乗せたリヤカーの方に歩き出した。
「あ、これこれ…」
と、バケツの脇に立て掛ける様に置かれた紙袋を見つけ、それを抱えてセジカ達の所へ戻って来た。
「アヨカちゃんの分が無いから帰り際にイードにそっと渡そうと思って忘れてしまった…はい、お土産。」
エンデは二人に2冊づつ小さめの本を渡した。
「…大兄ちゃん…嬉しいけど…文字ばっかりの本じゃ…僕読めないよ…」
と、サハが渡された本をペラペラめくりながら不満そうに呟く…
「…これはね…今、メクスムとテイホの国でそれぞれ流行っている冒険小説なんだって。君達はこれからミアハでその両方の言葉を勉強するから…勉強したら読めるようになるだろう?文字だけの物語って、つまらないように思うかも知れないけど、読む人の中で自由に映像が作り出せるから楽しい部分もあるんだよ。僕も初めてウェクさんから大国で人気小説を譲ってもらった時、最初は文字ばっかりの本でガッカリしたけど、読み始めたら夢中になっていたんだ。こういう本の楽しさを覚えたら、自分の中の想像の世界が一気に広がって行ったんだ。僕にとっては感動的な体験だったんだよ。だからこれを、君達が文字が読めるようになった時の楽しみにして欲しいんだ。君達ならすぐだから…」
メクスムとテイホの公用語は似ているが色々と微妙に違う。メクスムの属国状態が長いユントーグはメクスムの言葉を公用語とし使用しているが、都市部と農村部の経済格差が著しいユントーグは、教育や医療の普及が地方農村部においてはかなり遅れたままで、文字の読めない人も多い。
ミアハは古来より使用している固有の言語は存在するが、大国との関わりが良くも悪くも古い為、今は教育の一環として両方の国の言語も教えている。
だから、大国相手に仕事をするミアハの人々は皆、普通にミアハ・メクスム・テイホの3カ国の言葉を話せている。
エンデは、レブントの街に行くようになってから時間を作っては最初は小学校へ…そして時々病院へ意識を飛ばして勉強していた。
メクスムにいた時も、近くの病院や様々な学校らしき施設を探しては意識を飛ばして色々と学んでいた。
エンデだけしか出来ない方法で、まずは大国の言語を学び、次は世界の医療や農業の様子を学んだ。
エンデが様々な学びを通して感じた事は、まず言語を理解する事で手にできる情報は格段に増え、広い世界が見えて来る事…そしてしっかりしたシステムの学びの場所で、多くの人達と関わり合って過ごす事で、子供は無意識の内に様々な刺激を受け無意識に情報を受け取り易いように自然となって行く事…
ミアハの家族の元で、ミアハの社会の常識を身に付けつつ、公的な学びの場で沢山の同世代の子達と交流出来る機会をこの子達から奪ってはいけないのだと、エンデは思っている。
それはエンデ自身は欲しても得られるモノではなかったから尚更に…
「……」
セジカもサハも…お互いを見合わせながら、少し複雑な顔をしていた。
「…大兄ちゃん…昨日約束したから…僕は頑張る。…だけどやっぱり…どうして大好きな人の所にいちゃいけないのか…分からないよ…」
サハの目からポロポロと涙が溢れる。
その切ない表情を見ると、やはりエンデも辛くなる…
「…サハ…」
堪らずにエンデはサハを抱きしめていた。
「ごめん、サハ。…でも僕を信じて欲しい。君は…今帰らなければ、後で後悔する日が来るのが見えているから…僕は残って欲しいとは言えない。…とにかく、1年頑張ると言ったんだから…もうこの話はお終いにしよう。…ね?」
「……」
エンデにしがみつきながら、何度もしゃくり上げるサハだったが…スッと顔を上げ、
「…じゃあ…1年経ったら戻ってもいいんでしょう?」
…今度はそう来たか…と苦笑いしてしまうエンデだったが、
「そう…だね。1年経ったらね…」
とだけ答えた。
その頃のサハは友達も増え、学ぶ事の楽しさを覚え…何より家族と過ごす日々はサハの心に深い安心感を与えている事に気付き始めていて…エンデの事すら忘れている時期である事を彼は既に知っていて…
エンデにも切ないモノが込み上げて来る。
「…でも…やっぱり行きたくないよ…」
再びエンデにしがみ付くサハ…
意外に粘るサハに、エンデも辛くなって来ていた。
今の感情のまま言葉を発すれば「ここにいて」とエンデは彼等に言ってしまうだろう…
…勉強する楽しみになったらと思って購入した本だったが…お土産の選択をエンデは少し後悔していた…
と、その時…
「僕も…帰るつもりだよ。サハとは学校で会えるみたいだし…サハと僕の本はそれぞれ違うみたいだから、読めるようになって、取り替えっこ出来るまで頑張ろうよ。」
今まで黙って二人のやり取りを見守っていたセジカが、目を潤ませながらサハを宥め始めた。
…セジカは自分の発言に配慮し責任を持とうとする子だから、こんな場面で僕に帰国を伝えるつもりではなかっただろう…
だが、サハの様子も見ていられなかったんだね…ごめんね、セジカ。
「エンデさん…こんなついでみたいに言うつもりじゃなかったんですが…僕もミアハに行って色々勉強して来ます。」
決心したようにエンデを見るセジカの目からは、涙が滝のように流れ落ちた。
エンデはセジカの背にも手を伸ばし、ポンポンとセジカの決意を労う。
「…もう…分かったよ。ちぃ兄ちゃんがいるなら頑張る…頑張るしかないじゃん…うわ〜ん…」
堪えきれずに泣き声をあげるサハ…
エンデの袖を掴みながらサハの肩を慰めるように摩るセジカ…
「……」
2人の様子にエンデも…込み上げて来る涙を抑えきれなかった。
「…君達と一緒に暮らした日々は宝物。決して楽ではない作業もゲームのように楽しんで頑張ってくれた事には感心したし…凄く嬉しかった。本当にありがとう。でも、これは最後の別れじゃない。また会える日を楽しみに、僕も頑張るからね…」
「……」
しゃくり上げながら肩を震わせて泣く2人をギュッと抱き寄せながら…エンデも押し寄せる切なさで抑え切れず…涙が引くまでしばらく動けなかった。
「なんで途中で止めちゃうのさ。」
神殿の掃除と、寝室のシーツとベッドカバーの洗濯を素早くし終え、雑木林の家に向けて3人がリヤカーを押しながら歩いていた時、サハが村長から教えてもらったというポウフ村の豊穣をアバウ神に願う歌を口ずさみ始め、セジカも一緒に唄い出したのだが…
エンデも聞いた事のある曲調だったので、一緒に唄ってみたのだが…すぐに止めてしまったので、サハが振り返りながら不満気にエンデに尋ねた。
「せっかくだから皆んなで唄おうよぉ〜」
「いや…僕は聞く係に回るよ。…歌はあんまり得意じゃないからさ。」
と、エンデは言い訳する。
…エンデは鼻歌は嫌いではないが、人に聞かれるのは苦手で…
実際、自分は歌が決して上手い方ではない事は分かっている為、唄う事を請われると本当に困ってしまうのだ…
亡くなったエンデの父親は、母に出会うまでは皆の前で唄って見返りの金品を受け取る事を生業とし、世界中を旅していたらしい話はテウルから聞いた事があり…
テウルが亡くなり1人で寂しくて夜泣いていた頃に、父が現れて子守歌を唄ってくれた事があったのだが…本当に心が癒される美しい声だった…
実際、その日からエンデはしばら…夜中でもあまり寂しさを感じず暮らせたから不思議だ…
父みたいに唄えたならどんなに楽しいだろうと…誰もいない時間や場所を選んで練習もしているが…贔屓目に見ても上達した感触は無いままだ。
「皆んなで唄うから楽しいんだよ…僕だって上手くないよ。」
と、サハは尚も誘おうとするが…
「…ごめん…歌に関しては、今色々なプレッシャーがあって…唄ってると辛くなって来てしまうんだ。セジカとサハの歌を聞くのは楽しいけどね…」
と、エンデは言い訳しながら逃げ続けた。
そうこうしている内に家に着き、3人では最後の昼食の準備に取り掛かった。
戸口の所にいつの間にか葡萄が3房籠に入れて置いてあり…ウェクさんが差し入れてくれたモノのようだった。
朝の残りのポテトサラダとパンと…そのぶどうを昼食のデザートとして、3人で頂いた。
昼食後の少しの間、久しぶりに3人でのおしゃべりを楽しんでいると、予定通りサハのお父さんが迎えに来て…昨日からたくさん泣いて気が済んだのか、サハはゴネる事もなく車の助手席に乗り…窓から腕のライカムをエンディ達にわざと見せるように、1度だけ大きく手を振って、彼もとうとう行ってしまった…
「…なんだかセジカも随分お兄ちゃんぽい顔付きになって来たな…」
すっかり元気になり、やっと普通に外出も出来るようになった村長が、娘婿が海釣りに行って沢山釣れたからと村長宅に魚を何匹かお裾分けに持って来て…それはかなり大きな魚で食べ切れなさそうだったので…その中の1匹をエンデ達の家に更なるお裾分けで持って来たのだが…
それは確かに大きく…2人は見た事のない魚だった為、村長が台所を借り食べ易く切り分けてくれた所で、エンデが先日のメクスム産のお茶と手作りクッキーをテーブルに並べ終わり、お茶タイムとなっていた。
「あの魚は白身で味が淡白だから、汁物に入れても焼いても美味いぞ。海の魚なんてここらじゃあまり食べられないからな…これなら食べ盛りのお前達でも腹一杯食べられるぞ。」
一応、明日立つ予定のセジカに食べさせたくて、持って来てくれたらしい…
「…凄いですね…夕ご飯が楽しみです。ありがとうございます。」
以前はエンデの後ろに隠れて村長と直接話なんて全く出来なかったセジカだったが、今は嬉しそうに…物怖じする事なく、自分より先に村長にお礼を言っている姿を見たエンデは、少し驚きながらも…自分のいない間に紡がれた村長一家と子供達の絆の存在を知った。
「私は明日はウェクとレブントの会合に出なければならなくてな…セジカを見送れないから、今言っとくぞ。ここは貧しい村だが、感じの悪い奴はいない…のんびりした田舎だ。息抜きにはいいと思うから、いつでも遊びに来てくれ。…エンデの為にもな。とにかく身体に気をつけて頑張れよ。」
「……ありがとう…ございます。」
セジカは笑顔から一瞬、神妙な顔になる…
だが一つ呼吸して、またいつもの優しい笑顔に戻った。
「村長も…お元気になって本当に良かったです。サハも心配していたから…向こうで会ったらお元気になったよって伝えますね。」
「……」
2人のやり取りを側で聞いていたエンデは、セジカとの別れはいよいよ明日なのだと思い知らされる…
サハが帰ってから後のセジカは、ミアハの話を一切しなくなり…残り少ないエンデとの生活を噛み締めながら、意識していつも通りに過ごしているように感じた。
エンデにとってもセジカは…自分の希望の実現化の始まりの一歩を確信させてくれた子…
しばらく続いたエンデの孤独感を癒してくれた存在でもあり…後から来たサハやイードの面倒もしっかり見てくれて、彼等からも信頼され慕われた子…
エンデが語る夢をキラキラした好奇心いっぱいの目で聞いてくれ、一時はその夢の実現の為にここに留まろうとしてくれた、優しく聡明な少年…
エンデにとってセジカは…
自覚していたよりも特別な思い入れが存在していたようで、別れの時がどんどん辛くなって来ていた。
…やっと1年振りに帰って来たのに…
でも…今は逃してはいけない大事な潮目…
救いを待っている子の為に、セジカを大事に思う家族と彼自身の将来の為に…
メクスムのあの人も、エンデの気持ちを優先してくれた。
その気持ちに報いる為にも、今は前を向いて走り続けるしかない。
「…じゃあな…」
少しの間、エンデ達とのおしゃべりを楽しんだ村長が、迎えに来たウェクと共に雑木林を出て行く姿を見送りながら、エンデはメクスムから帰国する前日のウェスラー達のように、大事な友を笑顔でさり気なく見送らねばと…感傷的になりそうな気持ちを引き締めた。
「エンデさん…ちょっといいですか?」
2人は夕食に村長が差し入れてくれた例の魚をお腹いっぱい食べ、エンデが後片付けをしていたところ、食器洗い用の水を井戸に汲みに行ったと思っていたセジカが戸口から彼を手招きしながら呼んでいた。
「?…どうした?」
井戸水が何か問題が起きてるのか?と、慌ててエンデが戸口に行くと…
「こっちに来て下さい。」
と、セジカは外に歩き出しながら予想外の方向へエンデを誘う…
「え?そっち?…何があるんだ?」
エンデが追うと、セジカはニコニコしながら早歩きで、なぜだか神殿へ向かう方の道へと…どんどん早足になって、遂に駆け出す…
そんなセジカをエンデは必死に追う。
「ち、ちょっと待って…一体どうしたんだ?」
困惑しながらも追い続け…もうすぐ雑木林を抜けると思った所で、セジカが急に止まる。
「……」
エンデがやっと追いつくと、セジカは神殿のある荒野の方を向き、僅かな月明かりを指差しているようだった。
「やっぱりここなら良く見える…エンデさん、ほら、あれを見て。」
「え、…空?」
少し息切れ気味のエンデが、セジカの指刺す方を見ると…神殿の少し上の空に、糸の様に細い月が出ていた。
大きい方の月だが…細く儚げな月だった。
普段はマジマジと月を眺める事はないエンデなら見落としてしまいそうに細い月に、返って新鮮な感動を覚えた。
「…凄く細い月だね…よく見つけたなぁ…」
エンデは感心しながらセジカの横に立つと…
「…覚えてますか?エンデさんが連れて行かれてしまった前の日の夜は、あの月は満月だったんです。村長さんから月の満ち欠けで月日を数えられる事を教わって…ずっと毎晩、サハと月を見てエンデさんの帰る日を予想していたんです。」
「……」
…そうか、恐らく…2人はここで月を眺めていたのだろう…
2人だけでどれだけ心細い夜を過ごしたか…それを思うと…エンデは何も言葉が出て来なかった。
「…出来ればサハも一緒に…ここで3人で眺めたかった月なんですけどね…でも…」
セジカはエンデの方を向き、
「エンデさんが無事で戻って来てくれて…本当に良かったです。」
「……」
セジカは笑顔だったが、既に涙腺は崩壊していた…
「ああでも…これで気が済みました。帰る前にどうしても、エンデさんとここで月を見たかったんです。唐突に連れて来てしまい…すみませんでした。」
満足気に涙をグイッと腕で拭いながら会釈をし、セジカが家へ戻ろうとした時…エンデはすれ違い様にセジカの腕を掴む。
「待ってセジカ…君は知ってた?あの月の斜め右上にやたらキラキラした星があるのを…見て。」
空いた方の手で、今度はエンデが空を指刺す…
「……」
…見ると、確かに儚げな月から少し離れた右上に、やたらキラキラしてる星があった。
「…本当だ。全然気付きませんでした。あんなにキラキラしてるのに…不思議だ…」
セジカは本当に今まで気付かなかったようで…少し興奮気味に星を見つめていた。
「…あの星はね、ちょっと特殊で…このアリオルムから割と近いから輝きが目立つけど、恒星ではないんだよ。だけど独特な事情であんな風にキラキラして見えるんだ。そしてあの星があんな風に良く見えるのは、2つの月の新月が重なる前後だけだから…セジカが気付かなかったのも無理はないのかも…」
「へぇ……エンデさんは月の事はあまり興味無さそうなのに、あの星の事には詳しいんですね。」
しんみりモードはすっかり影を潜め、少年らしい好奇心に満ちた目でエンデと星とを交互に見るセジカ…
「…それはね…アリオルムとあの星…一部の人達からはヌビラナと呼ばれているようだけど、2つの星は…特に君達ミアハとはかつて何か約束があったみたいで…それが果たされないままヌビラナは沢山の生物が絶滅した死の星になってしまったみたいなんだ。」
「ヌビラナ(敵意の虹)って…なんでそんな悲しいネーミングになっちゃったんですか?それに約束って…なんだか色々凄く気になります。」
聡明で知識欲の高いセジカは、すっかり好奇心に輝いた目でエンデに質問する。
エンデはキョロキョロと辺りを見回しながら、
「…ヌビラナの事はね。大国の天文学者や宇宙開発に携わっているレベルの人達なら知ってると思うけど…公にはあまり情報は発信していないみたいだから、これはあくまで僕の見えている範囲の話だからね……っと…あ、あった。」
と、少し後ろに下がった辺りに2つ並んだ切り株を見つけ、まず自分が座り、手招きしながらセジカを隣の切り株に座るよう促す。
「今夜は…良い機会だから君は知っておいた方がいいかも。もしかしたら、ミアハでは長老しか知らない話かも知れないから…僕と君の間だけの真面目な内緒の話として聞いて。」
「……はい…」
セジカはゆっくりと切り株に座り、怖いもの見たさの心境でやや緊張しながらも、掠れた声で返事をした。
…これを話してしまったら…セジカは…変な使命感を持って呪縛になってしまうかも知れないのに…
でもいずれ君は僕を支えようと戻って来る…
ならば、回り道をさせない為に…今、伝えておく事にする。
…遠くでフクロウが鳴いている事に気付きながら、エンデは一度大きく深呼吸をした。
「…近い将来…君達ミアハの中の選ばれし者が、あの星へ行く事になる。それはね…これからアリオルムに訪れる大きな危機を乗り越える為なのだけれど…その成功率は…あまり高いとは言えない。だからね、僕は少し焦っているんだ。それでね……」
翌日…
さほど多くはない荷物を後部座席に乗せ終えて、セジカの父はエンデの手を両手で包み込むように握り締めた。
「君には本当に感謝しかない。…レワの分まであの子を大事に育てて行くつもりです。私以上にセジカの帰宅を待ってくれているサラとアヨカと…家族4人で頑張りますよ。リヌサさんから聞いたと思うが…私達で出来る事があったら、遠慮なく何でも言って下さいね。」
言葉を発して行くうちに、セジカの父セノーの握る手の力がどんどん強まって行く事に、エンデは内心で苦笑しながらも、彼の話に目で相槌を打ちながら時々セジカを見る。
セジカ…君にはこんなに帰りを待ち侘びてる人がいるんだよ…
セノーの斜め後ろで2人のやり取りを見ているセジカに、エンデは目で訴える。
昨夜の話が衝撃的で中々寝付けなかったらしいセジカは、まだ半分寝ているような表情だったので、反応の薄いセジカを見てセノーをガッカリさせたくなくて、エンディはさっきから必死に目で合図を送っていた。
…まぁでも…
この2人は大丈夫そうだな…問題はサラさん…とにかく焦らないで欲しいな…
けど、なんだかんだでアヨカちゃんがセジカとサラさんの緩衝材になってくれそうだから…良い感じの家族になって行くだろう…
頑張れ、セジカ。
やはり夕べの話は君には少し重すぎたかもだけど…
ごめんだけど…
元気で…
…またね。
エンデがさりげなくウィンクすると、セジカはニコッと笑った。
「セジカちゃんなら大丈夫よ。元気で頑張るのよ。」
見送りに来てくれた村長の奥さんが、助手席に乗り込んだセジカにエールを送る…
「セジカ…元気で。向こうで2人に会ったらよろしく伝えて。」
と、手を振りながらエンデはさりげなくレイカムの腕輪を見せる…
「ええ…皆さんもお身体に気をつけて…お世話になりました。」
と会釈しながらセジカも腕輪を見せるように手を振り返してくれ…
車は雑木林を出て行った。
「……」
「なんて顔してるの。あんたには私達がいるでしょ。」
車が見えなくなってもボーっと立っていたエンデの背中を、奥さんがポンと叩く。
「今夜の夕食はウチに食べにおいで。私らもやっと元気になったから…あんたの帰国のお祝いをする予定なのよ。いい?絶対来るのよ。」
「え…あ…」
有無を言わさない勢いでそう言うと、奥さんはニコッと笑ってエンデの返事も待たずスタスタ帰って行く…
ああいつも通りの…変わらない村に帰って来たんだな…
とにかく、村長さんも奥さんも元気になって良かった…
エンデは、
「ありがとうございます。絶対に伺います。」
と、だいぶ小さくなった後ろ姿に返事をした。
と……
「?!…ん?」
「……」
別れあれば出会いあり…
踵を返してエンデが家に戻ろうとした時、何者かが神殿に侵入した気配を感じた。
それは村人ではなくミアハの民でもない…何らかのトラブルで大国から逃れて来た人間のようだった。
恐らく、この周辺には昨夜辿り着いた様子…
…だから夕べはやたらフクロウが警戒の鳴き声を上げていた訳だ。
「……」
ああ…そうか彼は…
少し前まで大国の新聞を騒がせていた男のようだった。
「…ならば、丁重にオモテナシしないとだな…」
♪〜
神殿に向かおうとした瞬間、ウェスラーからの着信音…
1つの節目が過ぎ、既にエンディの周りでは新たな運命の輪が回り始めているようだった。
…ヤバ…この俺が…遊ぶ女を見誤ったってか…?
ミアハ唯一の商業施設セヨルディのとあるカフェで、今にも泣き出しそうな可愛いらしい女の子を前に、カシルは気持ちの悪い汗でびしょびしょになっている手でカップの取っ手を持ち上げ…とりあえずコーヒーを一口啜った。
「分かってるの…でも…最後にもう一度だけカシルさんに…会いたくなってしまったの。…ごめん」
「……」
…あの夜は結構酔ってたからな…今日の彼女は化粧っ気もないせいか…昼間改めて見るとかなり若い…
1週間前の夜…カシルはテイホで格闘技を通して仲良くなった仲間と集まって食べて飲んで…楽しい夜を過ごしていた。
そして…良い気分で酔って…仲間と店を移動した際に、この少女から声をかけられた。
冷戦状態の父親と職場の重苦しい圧力から解放され、国外で久しぶりに気心知れた仲間と陽気な酒を呑んでいて…少し警戒が解れてしまったか…
その時の彼女はテイホの人にありがちな長めな焦茶の髪だが、珍しい薄緑色の瞳の可愛らしい顔つきだった。
あまり似合っていない派手目のメイクにイケイケ気味の服装で、3人連れで飲んでいて…彼女からカシルを誘って来た。
「2人だけで飲み直しませんか?」
「いいけど…今夜だけ楽しむのはアリ。でもここから付き合うとかは俺は出来ないよ。前もって言っとく。君みたいな可愛い子なら、ここで楽しく飲むだけでも俺はいいけど…」
と、カシルはいつものように大事な前置きを告げた。
だが彼女はカシルの提案に怯む事もなく、雰囲気のある店へと彼を誘い…
その後、2人はホテルで一夜を過ごした…
カシルとしては、後腐れはないはずだった。
あの夜の彼女は、明らか割り切って遊べる子のテイでカシルに接していたからだ。
ところが…
どうやって調べたのか…3日前にカシルのイヤーフォーンに「もう一度だけ会って」と連絡が来た。
「…でも良かった…あなたとまた会えて…」
やっと止まった涙が、再び目の前の彼女の瞳を潤ませる…
「…ねえ…あの…」
一夜だけ楽しんでお別れした子の名前は基本その日ですべて忘れるカシルは、また名前を聞く勇気もなく…だが聞くべき事はしっかり聞かないと…と、言葉を続ける。
「僕の番号って…誰から聞いた?あの夜はお互い連絡先は聞かなかったはずだよね?」
ハンカチで目を押さえていた彼女の手が一瞬止まったのをカシルは見逃さなかった。
「……」
彼女は沈黙し再びハンカチを両目に当てて俯く…
「…もしかして…赤茶の髪でバンダナを額に巻いてたラースかな?…あいつ、カワイ子ちゃんに聞かれると何でも答えちゃうからな…」
カシルは困った様子で頭を掻きながら呟く…
「…悪いのは私だから…あなたに本気になりかけてる私が…」
カシルの言葉を否定せず、ハンカチで目を抑えたままさめざめと泣きだす彼女…
その様子を眺めながら、カシルはスッと真顔になり…窓際の席に座っていた人物に軽く合図を送る。
「まぁ…そんなに自分を責めないでよ。さあ…涙を拭いて笑顔を見せて…」
カシルのあまり言い慣れない甘めの言葉を聞いて、その子はゆっくり顔を上げた…
と、
「あらマリンちゃん、久しぶり。こんな所で会うなんて奇遇ね…」
マリンの背後から長めの黒髪を後ろにきっちりまとめ上げたスーツ姿の青い目の女性が、彼女を覗き込むように話しかけて来る。
女性の声のする斜め右側を見上げたマリンは…一気に表情が強張って行く…
「あ、いえ、あの…人違いのようですよ…」
かろうじてマリンは答え、俯いてしまう…
その黒髪の女性はニヤニヤしながら、
「あらそう…私は人違いした事はないんだけど…変ねぇ…。ちょっと身分証を見せてくれる?テイホからここに来るには必要のはずでしょ?偽物なんて使ってたら、また私はあの場所であなたの話をじっくり聞く事になるけど…?」
「……」
右脇にスーツの女性…テーブルを挟んだ正面には、いつの間にか腕組みをしてじっとマリンを見つめているカシル…
何かを察したマリンは、握っていたハンカチをポンとテーブルに投げ捨てるように放って、不貞腐れたようにドカッと椅子に座り直して足を組んだ。
「あぁそういう事ね…何が奇遇よ…刑事さんが嵌めたんでしょ?」
「違うぞ。誰も嵌めてない…君が俺に連絡して来るまでは、こちらは何も示し合わせてはいないぞ。あの夜、唯一俺のプライベート番号を知ってる奴は、店を変える前に先に帰ってる。奴は絶対に友達のプライベート番号を無闇に他人に教えたりしないからな。…変だと思ったんだ。どうせ俺がシャワー浴びてる時にでもカバン漁って、自分の番号にかけてから俺の番号を獲得したんだろ?」
「…証拠はあんの?」
不貞腐れてはいるが、やや強気のマリンちゃんはカシルを睨む。
「あぁそれ?俺も色々と付き合いが広いし頭も良いからさ。消しても発信着信の履歴ぐらいは調べられるんだ。…それにさ…」
カシルは身を乗り出してマリンの手をやや強引に掴んで、自身の両手で包み込む。
「本当に嵌めようと思っていたら、君が犯罪をちゃんと完了するまで俺達は待ってたよ…何が言いたいか分かるかな?」
カシルに唐突に手を握られ、必死に手を振り解こうとジタバタしていたマリンだが…ハッとして抵抗を止めた。
昨夜、カシル達に接近して来た女の子達は、高価そうなモノを身につけて金払いの良さそうな相手を見極めてから、親密な関係を作って貢がせたり、時には貴重品を盗んで換金して、日々を食い繋いで来たあの辺りの浮浪児達で…
マリンは一度逮捕歴があり、幸い厄介な闇組織に飼われている様子はなかったので1度は証拠不十分で釈放にはなったが、いずれ闇組織に絡め取られ人生を台無しにされてしまう事を心配し、ソフィアはずっとそういう子達の身を案じ、なんとかしようと水面下で奮闘していた。
「…心配していたわ。以前の仲間達と連んでいても、この先も良い事はないと…あの時言ったじゃない。」
スーツの女性は困ったように微笑みながら、マリンの頭を優しい仕草で撫でる…
「…分かんないよ…言われたって…どうしたらいいか…分かんないんだよ。」
マリンの瞳から本物の涙がポタッと落ちる…
「…だ〜か〜ら、いつでも連絡してって、私はあの時しつこい程あなたに言ったでしょう?」
「大人は嘘つきだから…本気じゃない事も平気で言う…あの時も口だけだって思ったのよ。」
マリンは右脇にいる女性を睨みながら、叫ぶように言った。
「分かった分かった。嘘じゃなかった事をこれから見せてあげる。…頼りなくてごめんね。」
と、女性は右脇からマリンの頭を抱きしめながら優しく何度も撫でた。
そんなやり取りをしてる内に、刑事の女性とほぼ同じような服装の男女が2名、カシル達に近付いて来た。
「この子にはまだ聞きたい事があるから、とりあえず保護してくれる?私はこの人の話をもう少し詳しく聞いてから後を追うわ。よろしく。」
と、黒髪の刑事の女性はマリンを彼らに引き渡した。
…マリンは不安そうに一度だけ振り返ったが、特に抵抗するでもなく…後から来た2人に挟まれる形で歩き出し…店を出て行った。
カシルはホッとしたようにマリンの後ろ姿を見つめ…
「…とりあえず、マリンちゃんが再び罪を犯さなくて良かった…」
と言いながら、満足そうに頷いた。
だが、次の瞬間…
「…っ、痛て。何すんだよ。」
カシルは黒髪の刑事ソフィアから強烈なデコピンを食らった。
「良かったじゃないわよ。騙されたフリして、しっかりやる事やってんじゃない…まったく。長老に告げ口してやろうかしら…」
カシルの手の早さに呆れながら文句を言って、今度はソフィアがマリンのいた椅子にドカッと座る。
カシルは長老の名前が出たところで急に慌て始め…
「ち、ちょっとソフィアさん…何を言ってるのやら…僕はね、あの日は本気で羽を伸ばしていただけだよ。あの子が真面目な気持ちで誘っていない事はすぐ分かったから、楽しく遊んだだけさ…化粧と服装からそれ程若い子とは思わなかった…本当だよ。」
と、しどろもどろな感じで改めて説明を始めるカシルを、ソフィアは複雑な表情で眺めていた。
「…この件が無かったら…またあんたがこんな遊び方をしてると思わなかったわ。…ねぇ…これって…裏切りとはあんたは思ってない訳?」
「……」
ソフィアのこの質問に、カシルの表情は一気に冷ややかになる。
「…いきなり何だよ…ミリみたいな質問は止めてくれ。関係ないだろ…」
…カシルはソフィアからスッと視線を逸らし、不貞腐れた表情で窓際の方を見る。
「…エクシタン関係の記事が出て、両親とはかなり険悪な状態という話も小耳に挟んでるから…あんたも混乱してるのは分かるわ。でも…」
「…別に…仕事の事でも冷戦状態だったんだ。あの記事だけが原因で険悪になったんじゃない…。言っとくけど、俺の今の揉め事はソフィアだって無関係な訳じゃないぞ。今の自分の気持ちは…お前に分かってもらおうなんて思ってないし…これ以上この話題を続けるなら俺は帰る。」
カシルはソフィアと目を合わせようともせず席を立った。
「カシルはさ…自分が一番辛いと思い続けているように見える。…私は誰にも肩入れするつもりはないわ。…けど、諸々の問題に関してあなたはお父様と冷静にちゃんと話し合わなければならない段階に来ていると思うわ。ミリちゃんもずっと心を痛めてる。…家族に心配かけて、いつまで1人で拗ねてんのよ。」
「……」
ソフィアの言葉を無視するように、無言で出て行こうするカシル…
「ちょっと…」
ソフィアの言葉に構わず、スタスタと歩き出すカシル…
「気付いてないかもだけどね、一途だったあんたが他の娘と遊べるって事は、無意識には彼女の死を受け入れてるから出来てしまうのよ。いい加減、向き合いなさいよ!」
ソフィアは…彼女の母がかつてカシルの両親の専属のクライアントだった事が縁で、カシルとは家族ぐるみで良い交流を続けて来た。
だからこそ…カシルの抱えている悲しみは…深いが故に、皆、腫れ物を触るように…その話題には長いこと触れて来なかった。
だが…2年前にある告発の記事が世に出てから、カシルと両親の関係は更に悪化した…
カシルの悲しみも、彼の両親の苦悩も分かるソフィアは…今はカシルから両親と向き合うべき時に来ていると感じていた。
とはいえ…
「あ〜あ、やっちゃった…奴は当分、私とは口きいてくれないかもな…」
ハァ…
と深い溜息を吐いて…
「あぁ…そう言えばマリンちゃんて緑色の目をしていたわね…」
と、苦笑いしながら呟くと…
ソフィアもゆっくり歩き出し…独り店を後にした。




