11 何度でも
ピッ………カチャン…
胸元の身分証を上向きにかざすとゲートが上がり、ヨハは病院の外へと出た。
外は既に真っ暗で、勤務を終えたヨハは帰宅を急いだ。
勤務先の病院から徒歩1分足らずの場所にミアハの本部が用意してくれた小さな一軒家があり、ヨハはそこから通勤していた。
角を曲がり、程なくして借家の門が見え…
だがヨハはそこで立ち止まり、ため息をつく。
ハァ……
軽く握り締めていた両手にほんの少し力が入る…
「…僕に何の用でしょうか?…病院からずっと後を付けておられましたよね…タニアさん?」
ヨハの位置からは死角になっている後方の塀の角からゆっくりと女性が姿を現わす…
「…もう、相変わらず君はキツいのね。付けたくてここまで来た訳じゃないわ。君がゲートを出た姿を見た瞬間、声をかけるのを躊躇してしまってこうなっちゃったの。」
不自然なほど落ち着き払って、笑顔すら見せながら…タニアはゆっくりとヨハに近づいて来た。
タニアの動作にヨハはほんの少し緊張感を強めた。
するとタニアは敏感に反応しながらクスッと笑った…
「やだ…何もしないわ。そんなに警戒されたら悲しくなる…」
更に近づくタニアにヨハが少し距離を取って後ずさると、彼女はピタっと止まる…
「…本当よ。…君も(特殊能力を)持っている事は知ってるもの。私の方こそ…あなたは怖いわ。私はもうミアハに戻らない。ここ何日かで…学びの棟では私を犯罪者の様に見る人を何人か見かけた。…私は間もなく犯罪者として拘束されるのでしょう?」
「……だからあなたは、僕の護衛の方の手薄な日をしっかり選んでここに来られた訳ですね…僕もそんなあなたが怖いです。」
タニアは少し首をかしげてニコッと笑った。
「……」
5日前に長老の元に駆け込んだ際に指摘されていた不安は現実のものとなった。
あの時長老は…
「タニアの件は、なんとしても早くケリを着けなければならない。だがそれは我々大人がやるべき事。君は今まで通り生活し、本部から連絡があるまではヒカや学びの棟に構うな」
と言った。
更に、
「タニアをこれ以上危険で怪しい奴らに深入りさせない為には、一刻も早く見つけて拘束してあげなければ…彼女は父親にも2度と会えなくなる。彼女を刺激しないよう、職員達にも今まで通りに生活しろとリシワから伝えてもらっている。ただ…今のタニアは君に多少なりとも執着がある様だ。数日中に何らかの形で君に接触して来る可能性は高い。万が一の時の為にこれを渡しておくが…くれぐれも無理して1人で対処しようとしてはいけないよ。君も特殊能力者だが、感情が乱れ過ぎると力が出過ぎて相手に想像以上にダメージを与えてしまったり、逆に能力が使えなくなる事もある。出来るだけ大人を頼り、命の危機に直面した時以外は決して能力は使うなよ。君の奥の手の存在は極々一部の人間しか知らない。タニアの背後の奴らに知られると後々面倒だからな。タニアが持っているであろうティリ系の特殊能力は恐らく君には通用しないが…タニアと出会っても彼女の単独行動と思わない方がいい。だからこそ大人を頼りなさい。いいね。」
と、非常時のアイテムを長老から渡されながら、ヨハは釘を刺されていた。
「心のどこかで私を異分子と差別していた人達が、今は犯罪者として私を見ているの。君やあの子だって異分子は同じでしょう?ヒカなんて容姿はセレスですらない。なのに…どうして私だけこうなるの?君も幼い頃は浮いた存在で心を閉ざしていたし、イユナの件では珍しくかなり落ち込んでたよね。だから私は…君と分かり合えると思って話しかけてみた…何度もね。なのに…君は取りつく島も無かった。」
タニアはまたニコッと笑ったが、その瞳はビー玉みたいで…ヨハには何の感情も映してはいない様に見えた。
…やはりあの頃に…僕とタニアはボタンを掛け違えてしまったんだな…
確かにこの人と幼い時に会話した時の記憶はほぼ無い…だが一体彼女は…何がどうしてこんな異様な雰囲気の人に変貌してしまったのだろう?…それに…なんだろう…この違和感…
今、目の前にいる女性は…
セレス…いや…ヨハが今まで経験した事がないほどの…危険な気配を感じるのだ。
拗れた感情と言っても、共にセレスという特殊ではあるが静かな場所で暮らして来た…まだ20歳に満たない女性とは思えない…
彼女のこの雰囲気は尋常ではない…
確かに、過去に微妙に距離を置いた接し方をして来るアムナはいた。
だが、イユナやナランやマリュのような…どちらかというと好意的に接してくれたアムナの方が明らかに多かったと思う。
タニアのような…ネガティブな心の声まで聞こえると、それほど心を病んでしまうのだろうか?
ティリ系の能力者は他人の脳波にも敏感になる為、ヨハも好意的かそうでないかくらいは分かる。
例えティリ系の人間でも、嫌悪する人が身近にいたとしても…ここまで怖い雰囲気になるものなのだろうか?
そして何より…
彼女はさっき、僕が特殊能力者と知っていると言った…僕の心を読んだから知ったという事か?
ヨハは、タニアの背後でうごめく…何か得体の知れない気配が、彼女に様々な影響を及ぼしているような気がして来ていた。
それは強かで…かなり攻撃的なオーラの正体にも感じ、未だかつて抱いた事のない恐怖を、目の前で狂気を帯びた笑顔を見せるタニアに感じてしまっていた。
「本当に申し訳ないけど、あの頃の事は僕はほとんど覚えてないんだ。僕は社交的じゃないし…人が僕の事をどう思うかを気にしてない図太さは、あの頃から既にあったと思う。関心のある事に食らいつく好奇心は人一倍あるけど取っ付き難い奴と…今の周囲の人達には結構思われていると思う。言い訳みたいだけど、君に対してだけという態度じゃなかったと思う。」
タニアは貼り付けたような笑顔のまま、ヨハに一歩近づく…
「あらそうなの…?ではイユナに対しては?あの人とはよく喋っていたし笑ってもいたじゃない…」
ヨハもまた一歩下がり、距離を取る…
「僕は…」
フゥ…と1度深呼吸をして、改めてヨハはタニアを見つめる。
…まだ大丈夫…急に近付いて来たら注意だな…
「僕には君の様に、無意識の人の心の声を聞き取ってしまう能力は無いから…想像する事しか出来ないけれど、ごく身近な人の知りたくもないネガティブな思いを知るという事は、結構辛い事だと思う。その能力が特殊とも知らず、入って来る情報に受け身も取れずに傷付き、ずっと長いこと一人で抱えて来たんだろうと思うと…君の苦しみのほんの一部かも知れないけど…理解は出来る。でも…」
今度はヨハが一歩…タニアに近づく…タニアは少し驚くもそのまま動かず…
ヨハは続ける…
「僕は、努力次第で人への感情や印象を肯定的なモノに変える事は可能だと信じている。あの頃のイユナは学びの棟に来たばかりの新米で、周囲と壁を作って浮きまくっていた僕が目に付いて、とにかくなんとかしようと思ってくれたんだと思う。イユナはあの手この手で僕に絡んできて本当にしつこかったんだ。僕が根負けしてポツポツ反応し始めたら凄く喜んでくれたんだよ。その姿を見ていたら自分もいつの間にか彼女と話す事が楽しくなっていた。…でも、楽しいと感じ始めたら…突然にあの人は死んでしまったんだけどね。もしも…今となっては憶測でしかないけど、イユナがあのままずっと元気でいたら、低年齢の担当から外れて…次は君にロックオンして親しくなろうとしつこく付きまとっていたんじゃないかな?…あくまで仮定の話だけど、彼女があのまま生きていてくれたなら、君に人との交流の楽しさを知ってもらおうと奮闘した可能性は高いと思ってる。」
タニアはヨハの「生きていてくれたら」という言葉に一瞬、微かに顔をゆがめたが…
すぐに表情は元に戻り、片方の口角をほんの少しだけ上げて意地悪そうに笑った。
「それは本当にあなたの憶測よね。好意的に思う人ならいくらでも良い脚色をして語ってあげられるわ。まして、今はもういない人なんて…思い出も美化していて本当の姿ではないかもよ。」
「……」
ヨハはイユナのかつてのひたむきな努力を軽んじられた気がして、じわじわと怒りが込み上げて来る。
ダメだ…感情を掻き乱されたら思うツボ…
だが結局…この人は何がしたいんだ?
「…で、あなたは何しにここに来たの?」
務めて平静を装い質問するヨハに、タニアはわざとらしく怯える様なジェスチャーをした。
「怖っ、怒らないで…。そうでなくてもずっとさっきから私を睨んでいる事…君は気付いてる?」
と言いながら再び一歩、ヨハに近づく…
対してヨハは動かず…黙ってタニアを見つめる…
「…ふ〜ん…距離はあえて取らないわけ…わざと?やっぱり怖いなぁ…君って。」
「……」
ヨハは反応せずタニアを見つめたまま…
「……私がヒカの記憶の一部を消した事…かなり怒っているわよね。…だから私、謝りたかったの。あの日…ただあの子の記憶から君の情報を知りたかっただけなのに…気付いたら……」
タニアはヨハから視線を外し、空を見上げながら恍惚の表情になる。
「ふふっ……あんなこと出来たの初めてだったから自分でも驚いた。…だってね、頭に来たのよ。あの子…君に何度も抱きついていた。それに…ずっと一緒?家族?……何?……あれ」
再びヨハに視線を戻したタニアの顔は、既に作り物の笑顔すら消え失せ…強い怒りの為に、徐々にこめかみ近くに血管が青く浮き出し始めていた。
なんだ…?これ…
ただの怒りのエネルギーとは少し…
「あの子の記憶はどれも目障りなモノばかりだったから…邪魔!って思ったら、君に関する記憶だけ消えてたの。故意じゃなかった。…そこは君に知っておいて欲しかったのよ。ヒカは別に怒ってなかったけど、君はめちゃめちゃ怒ってるから…ホント、ワザとじゃないのよ。うっかり消しちゃってごめんなさい…」
「……」
ヨハは何も言い返せず、般若の様な形相で笑む彼女を呆然と見ていた…
なんだろう…?タニアの髪が…動くと残像少し赤っぽく…?
それに…
記憶を消されたヒカに対してではなく、不用意に記憶を消してしまった事を僕に謝る?
…この人は何を言っているのだろう…?
神の気まぐれか…偶発的に与えられた能力ゆえにここまで性格が歪められるもあり得るという事なのか…?
…心が痛い…
それにしても…
強烈な違和感…
…依然、目の前で悪魔のようなオーラを放つタニアの姿にヨハは打ちのめされ…
同時にどんどん自身の怒りは冷めて行く…
怒りは消え…タニアに対する不思議な憐憫の情がそこにあった。
「あ…」
…そうか、もしかしてこれ…感情の増幅か…?
次の瞬間、ハッと気付くと彼女はもう…目の前にいた。
「それとね…ここからが本題なんだけど、私と一緒に行かない?ヒカは君の事を忘れてるんだし…。ね?今度は君の中のヒカの事も忘れさせてあげるね。私はその為に来た…のっ!」
言い終わるか否かの瞬間に、タニアはヨハの両腕をグッと掴み、自分の顔を鼻が付くほど間近に寄せて自身の瞳孔を開き、ヨハを見つめる…
「?!」
が、なぜか既にヨハの瞳孔は開ききっていて、逆に彼に腕を掴まれた状態になっており…既に青い光のようなモノが、ヨハの瞳孔からタニアの瞳孔に凄く勢いで流れ込んで来ていた。
「え?…な、なんで…?………」
タニアの身体は急激に硬直して行く…
「もう…だ…から彼には構うなって…」
時間が一瞬にして切り替わったような感覚のまま…訳の分からない事を言いながらタニアはその場に倒れた。
倒れたタニアの側にヨハは素早く屈み込み、握り締めていた片方の拳を開いてタニアの肩にその手を置くと、そこからシュルシュルと紐が飛び出してあっという間にタニアの身体を足の先まで捕縛してしまった。
更に、ポケットからバンドの様なものを取り出してタニアを目隠しし、もう片方の握っていた拳の中にあったイヤーフォーンを耳にかけ、勤務先の病院に連絡をした。
「あ、すみません…ヨハです。ミアハで手配中になっている女性を捕縛しました。警備局への連絡と、念の為、体格の良い男性スタッフを数名こちらにお願いします。今、僕は自宅…借家の前にいます…はい、よろしくお願いします。」
ここまでのヨハの動作は無駄が無く、流れる様な作業だった。
ヨハは再びタニアの側まで行って、努めて穏やかな口調で語り掛ける…
「長老やナランさんは…あなたの能力や悲しみの理由にもっと早く気付いてあげていたら、こんな状況にはならなかっただろう…と、とても心を痛めていましたよ。恐らくあなたは自分を否定する他人の声を恐れるあまり、心を閉ざしてしまった事で結果的に自分を孤独に追いやってしまったのではないかと思います。これから長老があなたの処遇を決められると思いますが、きっと長老はあなたを悪いようにはしません。これだけは信じて欲しい。あなたの血縁の者として、これ以上不幸になって欲しくはないんです。」
目隠しされたタニアの目の周辺の布が、涙で濡れて色がみるみる濃くなって行く…
「私をこんな惨めな格好させておいて、善人面しないでよ!お前もあの男も皆んな結局は口ばかり…それに血縁て何よ。…嫌いよ…みんな大嫌い。訳が分からないお前は特に大嫌い!」
路地にタニアの叫び声が虚しく響く…
「…?」
先程から…タニアが隠れていた塀の角辺りでこちらの様子をジッと伺っていたらしい人の気配を分かってはいたが…
その影が急に走り去る姿が視野に入り、ヨハは思わずその後を追った。
「…なんだ?…仲間…?」
更に、角を曲がった影の少し後ろからいきなり現れたもう1人の影…その影は最初の影より一回り大きく、男性らしき体格の後ろ姿のようだが…
その様子は…
男らしき人物が、そのかなり先を走る性別不明の最初見た影の人物を追いかけている様にも見えたが…
ヨハはそこでハッとタニアが気になり、引き返した。
程なくして、遠くからサイレンの音がし始め…その直後に病院スタッフらしき男性数名が現場に着くと、近所の人達が不安そうに路上の自分達の様子を覗く姿がヨハの視野に入る…
段々と冷静さを取り戻す内に、なんとも言えない後味の悪さがヨハの心に充満して行くのが分かった。
「くっそ…なんだこの逃げ足の速さは…」
もう一人の…がっしりした体格の人影が必死で追いかけて来るのをなんとか撒こうと、ヨハ達の様子を見ていた謎の影は行き止まりの先の岩によじ登り…かなり落差のある窪地めがけて飛び降りた。
更にそこから少し落差のある位置を通る細い道路に飛び降り…その謎の影は、背後で見下ろす男に向かって侮辱のサインを指で示した。
「は?…あの落差を飛び降りて平気ってか…」
上の男が悔しそうに舌打ちをして呟く。
…だがそこに…
1匹の犬がその人影に近付く様子を特殊な双眼鏡で僅かに確認し、クゥ〜ンと甘えるような鳴き声を聞いた瞬間、
追っていた男がずっと抱いていたある疑念が確信に変わった。
「お前、ここで何やってんだ?こんな事…オヤジさんは指示なんてしてないだろ。ちゃんと側にいてやれよ。知ってんだろ?あの人は…」
声の限り…その男はかなり下にいる影に向かって叫んでいると、遠くから近付く車のライトがその影のピンク色の頭髪を一瞬捉え…その車はライトを消して影の横に止まった。
「……」
そして…
追って来た男の叫びには何も反応することなく、犬と謎の影はその車に素早く乗り込み…車はそのままライトも点けず猛スピードで走り去った。
3日後…
ヨハは再びセレスにいて、研究所の一室で長老と話していた。
「タニアは…僕の姉とは知らなかったようでした…」
ヨハは研究所のスタッフが入れてくれた紅茶を一口啜り、カップを置いた…
「……あの子はおそらく、君の周囲の大人達の戸惑いとか違和感が自分と似ている様な…一種のシンパシーみたいなモノを感じたんじゃないかな。それに…君と彼女は奇しくも似たトラウマを抱えているからね…」
と答えながら、長老は腰かけていたヨハの正面の席から軽く腰を上げ、あらかじめヨハの前に置かれていたグレーの袋の中から一冊のファイルを引っ張り出して開く。
「それはなんです?」
長老はそのファイルを開いたまヨハに渡す。
「今までのタニアの調査記録だ。この件は下手をすれば彼女の能力が他国の諜報活動に利用される危険を孕んでいた。実際、ヒカの件の後、彼女はミアハを出て国籍不明・実態不明の諜報組織と契約を結ぼうとしていた様だし…、いや、もしかしたら…副主任になる前に既にどこかで繋がりを持ち、活動していた可能性も拭えないかな…?」
話の途中で、長老はジロリとヨハを見る。
「無理をせずにすぐ警察を呼べと言ったのに、1人で対応した部分は説教モノだが…彼女の逃亡で事態が複雑かつ深刻にならずに済んだ事は本当に良かった。その部分は君に感謝するよ。」
ヨハは長老の話を聞きながら、渡されたファイルにざっと目を通す。
長老はそんなヨハを横目に更に話を続ける…
「この調査記録は連合国政府の特殊能力者の一部協力を得て作成されている。彼らの様な能力は諜報活動もそうだし他の星系の人達…まぁ人の姿をしてない場合もあるらしいが、広い宇宙の中での知的生命との意思疎通をスムーズにする為の要員として重要な役割を果たすらしいが…大国はそもそもミアハの諸々の特殊能力には昔から目を付けているから…なるべくなら、彼等の力は借りたくはなかったんだ。だが、テレパス系の能力者は向こうには訓練施設もあるらしいから、結構数が多くて、研究も進んでいる…ミアハにはテレパス系の能力者は稀に出るが…今は本部が把握している限り、タニア以外にはいないんだ。今回はメクスムの協力を仰いだが…リスクも抱えながらだがある程度の成果は得られたと思う。私も幾つかの尋問や向こうの能力者によるセラピーの現場に立ち合い、これらの報告関連のファイルにざっと目を通した。実はな…君が駆け込んで来る少し前に、ナランからも別件で相談を受けていたんだ。学びの棟の、急な欠員となった副主任を選ぶ際の様子がなんとも奇妙だったとね…普通ならタニアのような学びの棟を出たての者は立候補すら出来ないはずなのに、なんといつの間にかタニアが副主任に選ばれたんだそうだが…選ばれる前後の記憶が皆すっぽり抜けたように覚えてなかったそうで…タニアには何か特殊な力があるのか?と…」
ヨハはファイルから視線を外して長老を見る。
「…なぜ…彼女は今回、すぐにバレるリスクも顧みずに次々と派手に能力を使ったんでしょう?全然計画的な行動に見えなかったし…」
「なぜ…かい?」
不意に長老は立ち上がって窓際まで行き、窓から外の風景を眺める…
「こうやって窓際から…彼女は何度か見てたそうだよ。君がヒカを遊具で遊ばせて楽しそうにしている姿を…」
「……」
「彼女はかなり支離滅裂な事を言ってたりして…取り調べは難航していたそうだが…その中でも彼女が繰り返し言ってた事は…どうしたら人に心を開けるか?ヨハにはヒカの様に仲良くしてもらえるか?ばかり考えるようになってしまって、気づいたら能力を派手に使ってしまっていたと……学びの棟では特にトラブルを起こすような子ではなかったが、特定の友人は作ろうとはしくて…ある時から頻繁にセヨルディに行きたがり始めた辺りから、なんとなく雰囲気が変わって行って…周囲の人間は気にはなっていたそうだ。副主任は学びの棟では小さい子達の管理を任されるからね。タニアは君が親身になって世話をしているヒカの事を色々知りたいあまりに……まぁ…そんなところなのかな。得体の知れない組織との接触の詳細は、彼女が話すことの半分以上は要領を得ないモノのようでね…その件の調査はまだ継続中だ。彼女のシルエットが途中から赤く見えた件とか…君の報告の一部は協力を得ている大国には伝えていない。君から聞いたタニアの様子は、ミアハではおよそ見た事がない。というか、ミアハの歴史の中でそんな禍々しい表情をした人物は私も見た事がないし、記録もない。大国が水面下で動かしている組織がからむ線はどうも捨てきれないので…ここから先はミアハの中の者達のみで調査しなければなるまい…」
「……」
あの夜の彼女の様子は…激情に我を忘れているようでいて、どこか修羅場に慣れているような冷静さや計算高さも感じ…何かチグハグな印象もあった。
妙な事を時々口走っていたし…何処か違和感の残るやり取りは常にあった。
彼女の特殊能力は…不運な境遇で芽生えてしまった事は同情はする。
あの頃の自分は恐らく、悲しみに心を閉ざしたままにキツい言動で彼女に反応したのであろうし、結果、彼女の心に少なからずダメージを与えてしまった事は、容易に想像が出来…当時のやり取りがよく思い出せないだけに、尚更に後悔の思いが常に付き纏う…
今後、出来る事があれば、自分も彼女の力になりたいと思う。
けど…だからといって彼女がヒカの代わりになれるモノではないし、ヒカに危害を加えた行動は絶対に違う。
…それに…
「これはもう…いいだろう。」
と、いつの間にか窓際からヨハの側まで戻って来ていた長老が、ヨハの手元からファイルを取り去る。
「彼女の動機の一部は、君の心のどこか片隅に留めてあげて欲しいと思うが…君が深刻に気に病む事でもない。寧ろ、当時少なからず彼女が出していた心の悲鳴を上手く受け止められずに事態を悪化させた私の責任だ。タニアの処遇は考えてあるし、ミアハから追放はされるが今までより彼女にとってはある意味、特段に良い環境で過ごせると思う。この件は私を信じて安心して欲しい…」
「…もう二度と会えなくなりますか?」
…何言ってるんだ?自分は…
ヨハは自らの発した言葉に戸惑う。
長老は、そんなヨハに目を細める…
「さぁな…だが君が望めば、生きてる限りチャンスはある。……タニアの話はここまでにしよう。」
長老は元いた椅子に掛けて肘を立てて指を組み、ヨハを真っ直ぐに見つめる。
「で…ヨハ、君が内心では一番心配しているヒカの記憶の事だがね…」
…来たか
「………」
「ヒカの記憶」という言葉にヨハの全身がピクンと反応する…
切望しているのにどこか恐れている話題…
そんなヨハの強張った顔を見つめながら長老は…
「実は君から連絡があって直ぐ、保護の目的もあってヒカをいつもの定期健診の名目で研究所で引き取り、ミアハの医療スタッフとセラピスト、そして、ティリの医療関係者の信頼する他国の数名のテレパス能力者の人に色々診て貰っていたんだ。……でね…」
ヨハはゴクリと唾を飲み込む…
「伝達神経や脳自体へのダメージはないらしいのだが、君に関する記憶を浮上出来ないように無意識の領域の奥底に押し込んでしまってるらしい…との事だ。で、あるセラピストに退行催眠を利用したやり方でヒカの無意識に入って記憶を引っ張り出そうと試みたそうだが、ヒカが怯えてパニックになりそうになるので断念したそうだ。怖い怖いと泣き出して思い出す事を強く拒絶するらしくてね…」
「……」
なんとなく予想はしていた。
この部屋に入った時から長老の表情はあまり冴えなかったから…ヒカに関しての良い情報はここにはないような気がしていた…
「だが記憶自体が破壊されてしまった訳ではないようだよ。ある時フッと何事もなかったように記憶が戻る可能性もゼロではないとも言っていた。今の君にとっては少々辛いニュースかも知れないが…………」
長老の言葉が徐々に遠くなる…
外部からのアプローチでは誰もヒカの記憶は取り出せない…
タニアから与えられた何らかの強い暗示の力がヒカに恐怖を与え、記憶に蓋をしてしまっているのなら…自分はどうやって蓋になっている暗示を取り除く?
タニア自身もあの夜、無意識にやってしまったと話していたし、彼女がヒカの記憶を元に戻せる可能性は…低いだろう。
そう…今の時点では、誰もヒカの記憶を戻せないのだ。
君にはあまり時間がないのに…
ヨハの中の張り詰めていた何かが切れる。
…何だろう?…視界が………長老の顔が….歪…む……
意識が薄らぎヨハの上半身は背もたれから傾いて、椅子からズリ落ちそうになる…
「ヨハ?どうした?…ヨハっ……誰か来てくれ!」
…行かないで…ヒカ…
意識を手放そうとする中で、ヨハの心に無力感と大きな喪失感が広がって行った…
…ボソボソと話す声が聞こえる…
「………のよ…仕方ないわ……と……く今……ヒカちゃ……この子が……よ…」
「…そうね…」
…?…誰かヒカの話をして……?
ヒカはどこにいるの?
ヨハは朦朧とした意識の中で、ヒカを探そうと手を伸ばす…
あ…なんだか温かい…
温かなモノが伸ばしたヨハの手を包み込む…
「ヒカ…?」
目を開けたヨハの目の前には2人の女性の顔があった。ちょっとふくよかなおばさんと、その女性よりやや年配のほっそりした女性…2人が心配そうに自分の事を見ている…
白っぽい壁にクリーム色のカーテン…
所々に薬品らしい瓶が並んだ棚が見える…
どこか見覚えのある部屋に置かれたベッドの上にヨハはいた。
「ヨハ君!目が覚めた?私が分かる?」
ふくよかな人がヨハの手を握っていた…この人は…
「…ナラン…さん?」
「そうよ!あぁ良かった…あなた3日間も目が覚めなかったのよ。良かった…」
ナランの顔は泣き笑いになっていた。
「私、長老を呼んでくるわ。まだ研究所にいるはずよね…?行って来る!」
隣の年配の女性が慌ててドアの方に向かう。
「あ…すみません、お願いします。」
と言ってナランは、部屋を出て行こうとする女性に軽く頭を下げる。
…あれは…学びの棟の主任のリシワさんだ…
視界がかなりクリアになり、ヨハは身体を起こそうとする…
「あ……」
視界がぐるぐる回る…
「無理しないで寝てなさい…」
ナランがそっとヨハの身体を押し戻す…
「…ここは…?…僕どうしてここに…?ヒカは…?」
ナランは困ったように笑いながらヨハの額にゆっくり手を置く…
「焦らないの。ちゃんと一つづつ答えてあげるから。ここは研究所の医務室よ。ヒカちゃんは元気よ。学びの棟に戻っているわ。…今はあなたの方が心配よ。倒れてずっと眠り続けていたんだから…」
そうか…ヒカが無事でよかった…え?…無事?…あ、タニア、彼女は?
「た、タニアは?どうなりました?」
再び身体を起こそうとするヨハを、ナランは困ったように制して…口元に人差し指をあてた。
「説明するから、このまま少しだけ聞いていて…」
「……」
「あの子は処分が決まって…外国のある人の管理下で新たな生活を始めるのだそうよ。彼女…記憶を消されたそうなの。捕まってからずっと鬱状態と興奮状態が交互に続いて…セラピストによると、彼女は記憶もなんだかごちゃまぜになってしまってて酷い混乱状態だったそうなの。…で、ティリの能力者の治療と薬物治療…ヒプノセラピーとかも受けて、少し落ち着いたんだけど…誰かを貶めたみたいな意識はあるらしくて、罪悪感も相当強いみたい…。何より記憶がね…どうにも整理出来ないみたいな状態が続いていて…結局、能力を悪用した民はミアハから追放されるそうなんだけど…彼女は処罰は別に考えても、記憶は消してあげた方がこの後は穏やかに暮らせるだろうって…長老の最終判断のようよ。」
…記憶…そうなのか…
ミアハの一族は、一定の能力の高さが認められれば癒しの力を仕事として使用が出来るが、元老院の承認を得ずに能力を通して金銭のを受け取ったり間接的でもビジネスに利用すれば、能力が高くでも仕事には出来なくなる。その状態で更に隠れてビジネスや犯罪的な使用をしてしまうと、方法の詳細は分からないが能力や一部の記憶を消されるらしいと聞く。自分やタニアのような特殊能力者はミアハにも稀に生まれるそうだが、能力の発現する年齢は皆まちまちの為、発現した際は本部に必ず申告しなければならない。タニアの様に無申告の上に更に他人に能力を通して危害を加えれば、様々な刑が課せられるだろう事は想像出来る。滅多にないが、国外追放の場合にはミアハとして暮らした記憶を全て消されてしまうケースもあるらしいとヨハは聞いた事がある。
ミアハにとって特化した癒しの力は専売特許であり、その力のお陰で、軍事力も経済規模も全く及ばない極小国が大国とある程度のレベルまで交渉出来る地位を築けた経緯もある為、コロニーや能力に関しての諸々のルールや守秘義務もかなり厳しくなっている。
そして、長い歴史の中でそれぞれの能力の分化を元老院が意図的に進めて来た経緯もあり、異なる能力者同士の結婚に色々決まりを設けている為、ややハードルが高くなってしまっている。
特にセレスとの結婚は厳しい。更にセレス特有の事情も重なり、近年はセレス同士でも婚姻を結ぶことも難しくなってしまっているのだが…今の長老セダルは、ミアハの婚姻に関するタブーを徐々に無くし、ミアハ本来の能力の統合を進めようと、少しづつだが働きかけている。
だが現状は…
セレスの社会では、厳密に見て純粋なセレスでない人に対しても、年配者はまだまだ異分子と見る人も少なくない…
ヒカみたいな変異の子も似たようなモノで…
ヨハは、ヒカにした事は断固として許せない一方で、タニアの暴走は同情的に捉えてしまう面もある。
自分もヒカもセレスの能力がずば抜けて強くなかったら…タニアと似たような感情を抱く事もあったのではないだろうか?と……
ただ…ミアハの人間は能動的に法を破るケースは殆どなく…海外のズル賢い人間に騙されるか弱みを握られるとか、必ずと言っていいほどミアハ以外の黒幕の人間が絡むという話を長老がしていた記憶があり…
あの夜、待ち伏せしたタニアと対峙した際の彼女の様子の異様さ…更にはすぐ近くで様子を見ていて、ヨハに気付かれ逃げ去った人間…タニア単独の意思であそこにいたとは、ヨハはどうにも思えないでいる…
「…ヒカは…?ヒカの様子はどうですか?…」
ヨハの問い掛けにナランの表情が少し曇る。
と…
二人は足音が近づいてることに気づく…
そしてガチャっという音と共にドアが勢いよく開いた。
「お〜、やっと目覚めたか。よかったよかった。」
頭髪の無い長い白髭の老人が勢いよく入って来た…。
あれは…
ヨハは老人の顔をジッと見る。
「…誰ですか?」
長老の表情がちょっと固まる。
「おい…嘘だろ…?」
「嘘です…僕が長老のハゲ頭を忘れる訳がないでしょう?」
ヨハがちょっとしてやったりな顔で発した言葉で、一瞬にして部屋の空気が緩む…
「まったく…冗談や憎まれ口を言えりゃあ大丈夫だな。でもまぁ…よかった。…心配してたんだぞ。」
「…ホントよぉ…」
リシワとナランの声が揃った。
リシワが長老を椅子まで誘導している間に、ナランがヨハの両手をまとめて握り、すまなそうに話し出す…
「ヨハ君…ごめんね。タニアの…彼女の特殊能力に、あの子がもっと幼い頃に私が気付いてあげていれば…こんな大事にならなかったかも知れない。あの子が病むほどの疎外感をずっと抱えていたなんて…本当にショックだったし…自分が情けないわ。」
ヨハには今日のナランがやけに弱々しく見えた…
「あなただけが背負う事ではないわよ…少なくとも育児棟にいた時のあの子は元気に明るく過ごしていたし、エリンという友達もいた。エリンの死後のタニアのトラウマも影響している問題とも思うわ。上手くケア出来なかった我々アムナ皆んなの問題よ。あの子が学びの棟にいた頃はツリム主任の子分的存在のアシアさんがあの子の主な担当だったし、あの人は…」
「まぁ一番の責任は私にあるんだ。過ぎた事はもうしょうがない…悲劇を繰り返さない為に、今回の件を教訓として対策を考えながら前に進む以外にないだろう。タニアの今後の人生の事は慎重に考えている。信頼出来る人物に託したが、私自身も彼女のことはずっと見守って行くつもりだ。」
ナランを庇うように話し始めたリシワの言葉を遮り、長老は話の方向が取り留めなく広がり出す前に、今回の事件の責任論を収めた。
「ヨハが意識を取り戻した事で君達も安心したろ?悪いが…これからヨハと2人きりで話をしたいから、席を外してくれないか?」
「……」
長老の意図をなんとなく2人は察し…
「そ、そうね…私達はここに長居してる場合じゃないわね…」
と、リシワの言葉を合図のように2人は立ち上がる。
そして「ヨハ君、またね」と言ってそそくさと部屋を出て行った。
「…しかし相変わらずだな。1人だけでも充分パワフルだが、2人揃うと台風みたいだ。セレスでは珍しいタイプだが、育児や教育の責任者としてはとても頼もしく感じる人達だよ。」
2人が出て行ったドアの方を見ながら長老は微笑んだ。
「確かに」と思いながら、遠ざかって行く2人の足音の方を見ながらヨハも笑った…
…ふとヨハが長老に視線を戻すと、長老はなんとも優しくヨハを見つめていた。
「とにかく無事に目覚めてくれて安心したよ。対応した医師は、慣れない環境と研修医としての激務の中、更にタニアによるトラブルで心労が続いた為に、脳が半強制的に休息を求めた状態だろうって言っていた。きっと君はずっと…ヒカとの通話がおかしくなってからはあまり寝られていなかったんだろう?…君の勤務先の病院には私から直接事情を話してある。とりあえず1週間はここで身体を休めなさい。」
長老の話を聞く内に、過ごしていた日常の諸々が脳裏に蘇る。
「あ、確かレポート提出の期限が…」
「私がいいと言っている。とにかく今は休め。医師には言えなかったが…多少…例の能力を使った事も無関係ではないだろう。心しろよ。君の能力は君の寿命にも関わるんだからな。今は焦ってもイタズラに心身を消耗するだけだ。体力が戻るまではなるべく気分転換を意識しろ。諸々の事はそれから考えればいいんだよ。」
長老はやや強引にヨハの仕事の気掛かりを遮った。
「どの道、これから…君はヒカが記憶を取り戻す事を諦めるつもりはないだろう?…それでいい…それでいいんだ。だがね…」
「……」
長老はジッとヨハの目を見つめる…
「間違いない事は、ヒカは自分の意思で君の記憶を押し込めた訳じゃない。毎日毎日…ずっと君達は飽きもせず連絡を取り合っていたんだろう?ヒカの深い部分ではずっと君を慕い頼りにしていると思うぞ。君は……出来が良すぎてつい私も忘れそうになるんだが…まだ15歳なんだ。辛い時は泣いたって、弱音を吐いたっていいんだよ。私がいる、他にもナランやリシワやマリュ…信頼できる人間はいるだろう?決して1人で抱え込むなよ。」
気がつけば…ヨハの瞳に涙が溜まり、長老の姿がぼやけていた…やがてそれは溢れて止めどなく流れ出し…美しいシルバーブルーの髪に染み込んで行く…
「……う…ック…」
泣き顔を長老に見られる事に耐えきれず、ヨハは両手で顔を覆い…寝返りを打ちながら長老に背を向ける…
「ヒカには一種の暗示がかかっているらしく…押し込められた君の記憶を引き出そうとすると恐怖が蓋をしてしまうと、先日は確かそのあたりまで君に伝えたと思う…」
長老は声を押し殺して泣き続けるヨハの背中にそっと触れる…
「長い人生…生きていれば、ヒカのように不幸なアクシデントに逢わなくてもな…仲の良い人と心が通じ合わなくなってしまったり、様々な形での別れを経験する事もある。時には大事な人から一方的に別れを望まれる場合だってあるかも知れない。とても辛い事だが…思い出を大事にして別れを受け入れなければならない時が、この先の君にあるかも知れないんだ。けれど、ヒカは今の状況を望んだ訳ではない。記憶を取り戻せるチャンスはきっと来る。とにかく、今は焦るな。」
「…でも…ヒカには………時間が…」
背中越しの…涙を何度も拭いながらのヨハの言葉に…
「…知っていたんだね。君なら貪欲に変異の子の情報を集めると思っていたが…私は君がこちらに戻って来るタイミングでちゃんと詳しく話すつもりでいたんだ。それに…あくまで数少ない過去のデータだ。ヒカが彼らと同じケースを辿るとは限らない。あくまで私の勘だけどね、あの子は何か違う気がするんだよ。データを見る限りでは、あんな飛び抜けたセレスの力のあるケースは過去に存在してないし、それに…いや…」
「…?」
「まぁ…未来は誰も分からない……仮にもし、ヒカが数年以内に亡くなる可能性が高かったら、君はその運命を素直に受け入れて諦めるか?」
いきなりガバッとヨハは起き上がり、
「諦めませんよっ……諦めるもんか…」
と叫び、毛布を握りしめて前方を凝視する…
「繰り返すが…ヒカの心の深いところではきっと今も君を慕っている。例えこのまま記憶が戻らなくても…だ。絆が見えなくなってしまったら、また新たに作り直せばいいんだよ、何度でも。君とヒカなら出来ると私は信じてる。」
振り向いてヨハは長老を見る。
「….何度でも…?」
「そう、何度でも。とりあえず過去は脇に置いて、新たな絆を結べるように頑張ればいいんだ。ただ…最初は君にとって辛い作業になるかも知れないが、今のありのままのヒカを受け入れてあげる事も必要だ。」
「…そう…ですね…」
ヨハは、この前イヤーフォーンで交わしたヒカとのやり取りを思い出す。
一点を見つめ考え込むヨハの瞳は、いつの間にか涙は消えていて…新たな希望の光を孕んでいた。
そんな彼の様子を見て、長老は少し安堵し…
「ま、焦らずにな。」
と、ポンとヨハの頭を優しく叩いて部屋を出ようとするも…
「あっ」
と途中で振り返り…
「君はまだ若いんだからな…ヒカだけでなく、これから出逢う人達との絆も大切にな。ティリの病院の職員…特に女性スタッフに人気だったって話も聞いてるぞ。じゃあな。」
と、意地悪そうな目でウィンクをして、長老は部屋を出て行った。
「嘘です、そんな話。ウィンク気持ち悪いって言ってるでしょう!」
長老が去って行く方向にヨハがムキになって叫ぶと…
「ハハ…そう照れなさんな……」
壁越しから長老の声が聞こえ、やがて足音は徐々に遠ざかって行った。
「……」
一瞬、白詰草の花畑で楽しそうに笑っていた時のヒカの笑顔が脳裏を過り…ヨハは再びグッと毛布を強く握り締める。
今の君が僕をどこまで受け入れてくれるか分からないけど…約束したんだ。
どんな事があろうと、僕は君の家族だ。ずっと君を見守り支えて行く…
「本当に…申し訳ございません…」
ヨハのいる医務室を出た後、長老が向かった先はエルオの丘…ハンサの待つ資料室だった。
ここならまず不用意に職員は近付けない…
「いや……タニアの件に君を巻き込んでしまったタイミングで、本部に移動を命じてしまった私の責任だよ…」
鎮痛な面持ちで頭を深く下げ続けるハンサの肩に、長老はそっと手を置いて続ける…
「重ねて言う…私の見通しの甘さがこんな事態を引き起こしてしまったんだ。君には巻き込んで申し訳ないとすら思う……タヨハに掴みかかられたそうだね…本当に申し訳ない。」
「…いや…タヨハさんは…すぐ謝られて…不甲斐ない自分を殴ってくれと…泣かれてしまいました…」
長老は一瞬、顔を歪めたが…
「…とにかく、頭を上げてくれ。私が居た堪れない気持ちになる…」
と、ハンサに椅子にかけるよう促す。
「……」
「………」
テーブルを挟み向かい合って座る2人の間に、しばらくの間重苦しい沈黙が流れる。
「…タニアはヨハが捕まえてくれた事で罪を重ねずに済んだし、記憶を消す事で拗れた感情を断ち切って…やっと…彼女を誰よりも大切に思う父親の元に帰れるんだ。今はとりあえずそれを良しとしよう…」
「私はずっと…悔やんでばかりいましたが…過去は変えられない。…ならば自分は、今はとにかく彼女達を支えるタヨハさんやヨハ君の為に何が出来るかを…しばらくは、そこに焦点を当てて考えて行きたいと思っています。」
そう…
あの日の夜…そしてその後の6年間を今更悔やんでも…何も変わらないのだ…
6年前…
新しい長がやっと決まり…いや、決まってはいたのだが…新しい長は能力者としては使命感に溢れて素晴らしいのだが…若干頼りないというか…人をまとめて行けるタイプではなく、その面を懸念している元老院が決定を渋った為、セレスの長の仕事を含めて新体制での人事も少し揉めた結果、もう一度決め直さなければならない人事やそれに伴う仕事も増えて、セレス本部は混乱が続いていた。
新たな長の仕事を長老も一部負わなければ回らなくなって、ハンサが新たに長老付きの秘書に抜擢される事になり、新体制の混乱が続く中、彼は毎晩日付けが変わるまで仕事に追われていた。
あの日の夜は…
軽く夕食を済ませ、1人秘書室で中々終わりの見えない事務的な確認の仕事に取り掛かり始めたところで、たまたま帰宅の途中で本部に書類を届けに来ていたハンサの恋人が様子を見に来た事から、運命のイタズラが起こる…
彼女は彼の様子に見兼ねて、
「1時間くらいお手伝いさせて」
と言い出し、書類の整理や記録内容に誤字等ないか隅々まで確認してくれていた…
他愛ないおしゃべりをしながら、彼女のお陰でぼちぼち仕事が捗り…
ふと彼女は時計を見て、
「あらもうこんな時間…じゃあ私…そろそろ帰りますね」
と言って、恋人は帰り際にお茶を入れてくれたのだが…
お茶の入ったカップをハンサに渡す時に、彼女は彼の唇に不意打ちのキスをした。
ハンサも途中で気付いたが、そのまま身を任せ…軽くキスをして唇を離そうとした彼女の肩を掴んで、今度はハンサからキスをした。
それは…ほんの10秒前後のやり取りだったが…キスの直後、視線の先のドアがほんの少し開いていて、子供の後ろ姿の残像が見えたような気がした。
「え…?」
「どうしたの?」
その彼女もハンサが気にしているドアの方を振り返った。
…あり得ない事とは思ったが、あの後ろ姿はタニアのような気がした。
だが、彼女に余計な事を言って動揺させたくなくて「猫が時々迷い込むんだ」と適当に誤魔化した。
だが…なんとなく胸騒ぎがして、彼女を玄関まで送ると…
なんと、玄関の外で守衛さんが倒れていた。
慌てて声を掛けて抱き起こすと、
「なんだか急に眠くなって倒れてしまった」
と、気まずそうに語る守衛さんの様子を見て、嫌な予感がハンサの全身を貫いた。
思えば仕事に追われ、タニアに木苺パイを貰って別れてから10カ月近くが過ぎようとしていた…
その夜はもう仕事が手に付かず、早めに切り上げた。
そして翌日、本部で会議があったので、終了後に長老を捕まえ昨夜の出来事を報告し、懸念を打ち明けた。
「…一応職場だからな…仕事中に恋人と仲良くするのは慎んでくれるよう頼む。だがまぁ…過酷な状況に君を引き込んでしまったからな…あの子もデートもままならなくて君に会いに行ったんだろう。…すまないね。あと少しで今の状況も落ち着くと思うから、よろしく頼む。タニアの件は…子供の足で学びの棟から本部まで来るとしたら1時間以上はかかるのではないか?まして、そんな夜に大人に見つからずに外に出られるだろうか…?今のところタニアの事でこれといった連絡はないし…思い過ごしじゃないか?」
長老は気にしなくて良いという反応だったが、ハンサはやはり気になって…なんとか仕事をやり繰りして例の場所に行ってみることにした。
だが…
前回と同じく、授業が休みの日の午後にブランコの所に行ってみたが、タニアは待てど暮らせど現れなかった。
どうにも嫌な予感は拭えず、ナランやリシワから情報収集して、タニアが最近休み時間に行く幾つかの場所を教えてもらった。
「最近のタニアちゃん?…特に変わった様子はないけどね…。心配なら、もうツリムさん達もいないし…私が許可するから、普通の日に屋内に会いに来ても大丈夫よ。」
と、リシワさんが言ってくれたので、また頑張って時間を空けて2週間後に学びの棟を訪ねてみた。
すると…
タニアは1人で棟の裏手の片隅にある小さな花壇の縁に座って、花の蜜を吸いながらぼんやりしていた…
「ここにいたんだね…タニアちゃん。元気だったかい?なかなか来れなくてごめんね…」
と、あの夜の事は何もなかった体で、いつものようにタニアに話しかけると…
「……」
タニアは何も応えず…ハンサの方を見ようともしない…
「…少し前にね…あのブランコの所へ行ったんだよ。でもタニアちゃんは来なかった…今はここが君のお気に入りの場所になったの?」
ハンサはもう少しだけタニアに近付いて話しかけてみるが、相変わらず視線を合わせようとしない…
と、
「タニア…待つの疲れちゃったの。だから、ブランコの所はエリンちゃんとお話ししたくなった時だけ行くことにしたの。…ここのお花はこんなに綺麗なのに、お花係の人もたまにしか来ないから…タニアが毎日水やりに来てあげているの。」
ここでタニアはハンサの言葉に初めて反応した。
「そうか…お花…とても綺麗だね。玄関の前の花壇なら皆んなに見てもらえるのに…タニアちゃんは優しいね。おじさん、なかなか会いに来れなくて、本当にごめんね…」
「……」
タニアからの拒絶の気配を感じながらも、なんとか彼女の喜びそうな話題を探そうとするハンサ…
「…そういえば…セヨルディに行きたいって言っていたよね…?いつにしようか?」
「おじさん…」
ここで初めてタニアはハンサの方を向いて、彼を真っ直ぐに見た。
「私はもう大丈夫だから。」
悲しい目をしてるのに…笑顔で彼女は言った…
「…忙しいおじさんを待つのが嫌になっちゃった…。ちゃんとお友達が出来るようにタニア頑張っているから…だから…」
…タニアの声は僅かに震えていて…笑っているのに、切ない目をして…なんだか泣きそうな顔だった。
…なにより…
その目は…まるで…
「もう…来ないで…」
言い終えるや、タニアは急に立ち上がって走り出した…
「タニアちゃん!」
ハンサも慌ててタニアの後を追おうとしたが…
「来ないで!!」
走り去るタニアの背中から聞こえて来た、今まで聞いた事のない強い拒絶の言葉に、ハンサは動けなくなってしまった…
「……」
やはりおそらく…
あの夜、あの子は待ちきれなくて自分に会いに来たのだろう…
そして…思いがけず見てしまったのだ…
職場で…軽率ではあったが…恋人とのやり取りを…
今日は…会えなかった分だけ、あの子の話をじっくり聞いてあげたかった。
伝えたい言葉も沢山あった。
だが、あの場面を見てしまったあの子はもう…自分の声は届かない気がした…
それは…
今まで、あえて気付かないようにしていたけれど…
あの子は…多分…
ハンサはある事で強い挫折感を味わってはいるが、仕事も出来るし同僚や後輩からの人望も厚い。今回の本部への移動も長老が強く望んだ事で…長老からの厚い信頼も得ている。
だが…子供と思えば気兼ねなく話せるのに…こと女性に関しては器用に振る舞えるタイプではなく、今の恋人に出会うまでは自分に恋愛が出来るとは思ってもいなかった。
そんなハンサゆえに…
今…彼はスッポリと袋小路に入ってしまった心境だった。
あの子が求めているモノはあげられない自分はもう…タニアちゃんにしてあげられる事は無くなってしまったのか…?
「……」
小さな花壇に咲く可愛らしい花々を見つめながら、あの夜の軽率だった自分への後悔と、強い無力感で思考が止まり…ただただ立ち尽くすハンサだった。
その日の夜…
ハンサはすぐにタニアとのやり取りを長老に報告したが…
その時点でも長老はタニアが夜に本部に来た可能性には懐疑的だった。
「…そうか…待ちくたびれたタニアの気持ちが君から離れたという事かな。まぁ…タヨハもここはタニアとの距離を縮めるチャンスだろうから…こまめに会いに来るように伝えておこう。今のあの子の環境も、例のツートップの職員が退いた事でより過ごしやすくはなっていると思うから、今後はタニアの事はタヨハやリシワ達に任せようと思う。君を畑違いの事に巻き込んですまなかったね。」
と、気に病むなと言った風にハンサの肩をポンと叩き、長老は部屋を出て行った。
けれど…
タニアの件はあまり長老の思惑通りには進まず…
タニアはタヨハとの面会も拒絶するようになり、大人を怖がる様子こそ見せなくなったが、特定の友達を作る事なく、1人で過ごす事を好むようになっていったと…リシワから聞いた。
「セレスの子は割と有りがちだけどね…今のところ特に心配する様な行動はないわ。気にし過ぎるのも良くないんじゃない?」
と、リシワもあまり問題視はしていない様子だったが…エリンという友達の死をあんなに悲しんでいたタニアの姿を思い出すと…なんとも腑に落ちない部分があった。
しばらくの間、ハンサはタニアの事はあまり考えないようにしていた。
だが…
タニアが14歳になった頃から、ハンサの心を更にざわつかせる様な話を時々耳にするようになっていた。
セレスの学びの棟の子は14歳になると、その都度許可が必要だが休日に1人での外出も出来るようになるのだが…タニアはやたら1人でセヨルディに行きたがり、行ったら行ったで時々行方不明になるという事だった。
レノの子供がセヨルディで連れ去られる事件がやたら増え始めていた時で、学びの棟でもピリピリし始めてる頃だったから、いつも2.3日経った頃に見つかるタニアは警備員に酷く叱られるのだが、半年近く経つとまた同じ事をして……一時問題にもなり外出禁止になったりしていた。
タニアの妙な噂を聞く度に「会いに行くべきか」の問答がハンサの心の中で始まるのだが…結局、何も出来ないまま時は過ぎた。
そして…学びの棟を卒業した後、彼女は棟に残りアムナ(育てる者)になるという進路を伝え聞いたハンサは、あの子なりに学びの棟の中での居場所ややり甲斐を見つけたのだろうという安堵と、若干の違和感が入り混じり、正直、複雑な心境になった…
そして、
それから1年半後…
事件は起きた。
「…そうだったの…あの頃からハンサさんは悩んでいたのね。私のせいなのに…今までなんにも知らなくてごめんなさい。」
彼女は頭を下げる。
「君のせいとか…どうか思わないで…。あの時は…久しぶりに会えた君と少しでも長く居たくて…僕の仕事なのに、君の厚意に甘えてしまった僕が軽率だったんだ。…こんな話…やはり君にするべきじゃなかった。…僕こそごめん。」
事件が起き、タニアが拘束されたという報告を聞いたハンサは、事件後のセレス本部とアムナで形成された教育部の合同会議で久しぶりに顔を合わせた元恋人に、どうしても今までのタニアとの経緯を聞いて欲しくて呼び止めてしまった。
一連の騒ぎで、恐らく今日は誰も使わないであろう資料室で、2人はテーブルを挟み椅子に座って話し始めたが…すぐにハンサは後悔し始めていた。
「いたずらに君を悩ませてしまうかも知れないから、やっぱりこの話は止めよう。ごめんね。」
と言って立ち上がると、
「ダメ!!」
全く予想もしていなかった彼女の強い言葉に、ハンサは固まってしまう…
「ダメよ、ハンサさん。あなたはきっと私が絡む事だから、タニアちゃんの想いを晒したくないから、リシワさんやナランさんや…勿論、他のアムナにも具体的な相談が出来ないままで来たのではない?…ならば尚更、今ここで私が聞かなくてはならないと思うの。私なら大丈夫よ。出来る事があるなら手伝うわ。今のタニアちゃんに対して何が出来るか一緒に考えてみましょうよ。…ね?」
…こんなに逞ましい人だったか?
いや…逞ましくなって行ったのか?
元恋人の思いがけない有り難い申し出に、悩み続けるあまりに心が弱っていたハンサは……つい…寄りかかってしまった。
「耳が痛くなる程の鋭いご指摘をありがとう。…じゃあ、お言葉に甘えて、君の意見を聞いてみたい。…いいかな…?」
彼女はニコッと笑って、
「もちろん!」
と、片方の拳で胸を叩く仕草をした。
そして、ハンサは覚えている限りの交流があった時のタニアの様子や、あの夜のタニアの行動の謎も彼女の特殊能力の可能性を考えれば説明がつくだろうという彼なりの推測も、元恋人にじっくり聞いてもらう事となった…
「…で…当時はサラッと聞いてそのまま忘れていたんだけど…あの子はある時、ツリムさん達から変な声が聞こえて来るから怖いと言った事があるんだ。セレスと違う子とか、間違いの子…認めないって…その時点ではタヨハさんの事情を詳しくは知らなくて、タニアちゃんの怖れる気持ちが聞かせる幻の声だと受け止めてたんだけど…変異のあの子…ヒカちゃんの事件からタニアちゃん失踪と続いた際に、初めて長老からタニアちゃんのお母さんの情報を聞いて…僕の中の分からなかった色々なピースが当てはまった感じだったんだ。もっと早くに自分の先入観で処理せずに、全て長老に報告していたらと…事態があまりに深刻で…後悔で押し潰されるような日々だよ…」
ハンサの目をじっと見つめながら、彼の話を一言も聞き漏らすまいと真剣に聞いていた彼女は…少し躊躇しながらも口を開いた。
「…私…大変畏れ多い事を言ってしまうけれども…長老はハンサさんをを信頼して通常の仕事と違う事を頼むなら、タヨハさん達の事情は予めあなたには知らせて置くべきだったように思うわ…」
「君も内々に聞いた筈だから分かると思うけど、タニアちゃんのお母さんの事は当初ごくごく一部の人しか知らない事で…長老自身は出来る限り知らせたくない情報だったんだろうね。だけど当時ツリムさん達はなんらかの人脈で知った。長老はいくらなんでもツリムさん達が仕事に妙な私情を持ち込む人ではないと信じたい反面、人の見ていない所でタニアちゃんに何かしている可能性を少し疑っていもいて…でもリシワさんとか他のアムナ達からはそのような報告は出て来ないので、僕がお友達の死で落ち込んでいるタニアちゃんを慰めながら、彼女が何を怖がっているのかを調べさせたかったんだね。まさか…かなり幼い時期にタニアちゃんは既に特殊能力が芽生えていて、前主任とその一派的な人達の否定的な心の声を聞きながら育ったなんてね…。おそらく、学びの棟へ行く年齢なら言葉の意味も分かり出すものね…あの子自身もわけが分からないまま大人の愛情が上手く受け取れず思春期を過ごしてしまったんだと…僕は思う…」
「……」
ハンサは目を伏せ…しばらく黙り込んでしまった…
そんなハンサを生温かい目で見つめ…元恋人は微笑む。
「…お別れしてから…こんなじっくりお話しするのは初めてだけど、ハンサさんは変わらず優しい人なんだって分かって…私、嬉しくなっちゃった…」
ハンサは上目遣い気味に彼女を見て、自重気味に笑う。
「優しい?…今更こんな形で君に頼る僕が?」
元恋人は動じる事なく答える。
「…なんだか色々相変わらずで嬉しいな…優しいわよ〜。私はかつてあなたのさりげないフォローにどれだけ救われた事か…例えハンサさんでもそこは譲れないわ。…でね、今、あなたの話を聞いてて思ったの…」
と、彼女は徐に三本指を立ててハンサに見せる。
「この数字の意味分かる?」
「…いや…」
今は回りくどい話はいらないんだけど…という雰囲気で面倒臭そうにハンサは答える…
「私自身はね…今までタニアちゃんとの接点は殆ど無かったのだけど、私が学びの棟を卒業する前の年にあの子は入って来て…その時の僅かな記憶だけど、少し引っ込み思案な感じはあったけど普通の子に見えたわ。仲の良かったエリンちゃんと一緒に遊んでた。時々、言い合いみたいな事もしてたけど、2人でいていつも楽しそうだった印象があるの。だけど…エリンちゃんが亡くなってしばらくしてからは、群れずにいつも1人でいる影の薄い子というような噂がたまに聞こえて来て…ニコニコしているけど何を考えているのかよく分からない子…ともね…。そんな中でも、あの子が学びの棟で暮らしていた時代に、ちゃんと意思表示や感情表現出来ていた人が3人いたと私は思うの。それはエリンちゃん、タヨハさん、そしてあなたよ。」
「…僕…?…」
「そうよ。タヨハさんはね…来ないでって言われた後も2度ほど会いに行ったそうなんだけど、来ないでって言ってるでしょ!って、半泣きで怒鳴られたんだって。」
「あ…確かにそんなような事…タヨハさんから聞いたような…」
「感情表現て、物心ついた子どもはある程度相手に信頼が無いと出来ないから…何かしらの不安を抱えている子ほど無意識に試すような意味で拒絶したり感情をぶつけたりするのよ。タニアちゃんはタヨハさんやあなたに信頼したい気持ちをぶつけていたように私には見えてしまうの…かなりややこしい事をしてるとは思うけど、タニアちゃんの本音は…それでも2人に会いに来て欲しかったんじゃないかな…」
そこまで聞いて、ハンサは力なく笑う…
「タヨハさんは…そうだったかも知れないけど…タニアちゃんが僕に求めるモノは徐々に変化して行ったように思うんだ。あの夜の事で距離を置かれたら…もうどう気持ちに応えてあげたらいいのか…分からなくなってしまったんだよ。」
再び項垂れてしまうハンサに手を伸ばし、元恋人はテーブルの上に置かれた彼の手をギュッと掴んだ。
「そこよ。外国…ううん…ティリやレノの家族の中でも女の子は物心つく頃になると、大きくなったらお父さんのお嫁さんになるとか言ったりするそうなのよ。男の子も然りでお母さんが好きな余りにお父さんとライバルになったりね…。思春期になると逆に距離を置かれたり親の言動に色々反発してみたりする反抗期もあったり…世のお父さんお母さんは大変みたい。セレスの子は愛情表現が薄いと言われているけれども、アムナもお父さんお母さんと似たり寄ったりな経験しながら日々奮闘してる。…それでも受け止めて理解者であろうとする覚悟で接すれば、思い合う形は色々だけど、愛情や信頼は伝わって行くと私は思うの。今はちょっとこんがらがってしまっているかも知れないけれど、あなたの話を聞いている限りではタニアちゃんは本来は優しく理解力もある普通の子だと思う。あの子のトラウマがややこしく見せている部分もあると思うけど…ハンサさんに強い後悔があるなら、彼女に見捨てた訳では無いという意思を伝える努力を諦めなければ、新しい絆を紡ぎ直せるチャンスはまだあると思うわ。それに…あっ…」
ここで彼女は、つい熱くなってハンサの手を掴みっぱなしになってる事に気づき…少し気恥ずかしそうに手を離す。
ハンサはそんな彼女らしい仕草にクスッと笑いながら、
「それに?」
「え?あっ、えっと…そう、それに何より、詳しい状況はよく分からないけど、今、彼女が本当に渇望しているモノは恋愛感情ではないと思うし…タヨハさんも試行錯誤の状態でしょうから…話を聞いてくれる存在は必要かも知れない。ハンサさんが望むなら彼等に対して出来る事は色々ありそうだわ…」
「……」
以前のように優しい目をして自分の話をじっと聞いてくれているハンサを見ていて、彼女はなんともいたたまれない心地になり、
「あ、あの…色々調子に乗って差し出がましい事を言ってしまったかも…偉そうに、ごめんなさい…」
と、言いながら立ち上がり、
「じゃ、じゃあこれで失礼します。」
と、慌て気味に部屋を出ようとすると…
「待って!」
と、ハンサは咄嗟に彼女の腕を掴む…
「お礼ぐらい言わせて。今日は…君も忙しいのに付き合わせてしまってごめん。でも…君と話せて本当に良かったよ。僕の中でずっと立ち込めていた霧が晴れた気分だ。…今の僕にもやれる事を具体的に考えてみるよ。本当にありがとう。」
いきなり腕を掴まれて、一瞬、動揺した元恋人だが…ハンサの少し晴れ晴れとした表情を見て、安心したように笑顔になった。
「良かった…お役に立てて私も嬉しいわ。言ったでしょう…私はハンサさんの応援団長なんだから…こんな事であなたが元気になれるなら何よりよ。」
彼女は自身の腕を掴んでいる彼の手にそっと触れて…
「…ただあなたの身体も心配よ。納得行かないなら何度でも挑めばいいと思うけれど…この件は中途半端に関わったら返って拗れてしまう可能性もあるわ。関わるなら、慎重さと粘りが絶対必要だけれど…あなたがとてもハードな日々を送っている事を知っている私としては…全て手を引いてタヨハさん達に任せる選択肢もあると思うの。どうか…背負い過ぎないでね。応援団長はそれが心配です。」
今の自分には彼の事に関して手伝える事はそれ程ないと分かっているだけにもどかしく…彼女は少し寂しそうに笑った。
「ありがとう…確かにあの子とはもう中途半端な覚悟では関われないと思うから…色々考えみるよ。」
と、
突然、彼女は閃いた。
「いい事…思いついた。もし、あなたが関わると決めたなら、私も手伝わせて…。ね、…抜け駆けしたらダメよ。あぁ…なんだかワクワクして来たわ。じゃあ今度こそ戻りますね…」
と、掴まれた腕をやんわり解きながら、ニッコリ笑って彼女は出て行った…
「ちょ…、マリュっ……」
冗談ぽく言ってはいたけど…あれは本気だ。
アムナである彼女に話を聞いてもらった事は、結果的に納得の行くアドバイスを貰えて大成功だったが…
悩む余りにこういう展開もあり得た事に、考えがイマイチ及ばなかった自分の頭をポカポカと叩くハンサだった…




