第一話 18のクソニート
18歳のころのオレは親から見れば、不安の塊だったと思う。
アルバイトもせず、高校卒業と同時に入った新聞の工場では、二週間で退職。
退職理由は仕事の出来る同期と比べられ、焦りや新しい環境の不慣れ、学生と社会人とのギャップ差……。
仕事は覚えられず、先輩からは怒鳴られ、「おめえ、つかえねんだよ!」と言われた。
典型的な自信喪失、苦しんでまでどうして生きているのかと思い、精神的にキツく自己退職。
両親からは「どうすんの、仕事」と催促され、自信を見失っていたオレは勇気も出ず、3月から5月ほど現実逃避をしていた。
んで、父親から「さすがに働こう」と言われ、5月から近くのコンビニにパートで入るも、三日で退職を促される。
理由は「仕事は覚えられてないから」である。
この時のオレは相当、参っていた。
だけど当時、うつ病で引きこもっていた兄とゲームしたり、マンガや映画の面白さについて話していたことで救われていた。
ただ、うつ病の兄とオレは違う。
両親やほかの兄弟の認識がそうだったし、それに対してなんともいえない辛さと悲しさ、自信喪失から来る未来への不安。
オレなんかが生きていて、いいのだろうか。どうして産まれたのだろうかと何度も悩んだのを、今でも思い出せる。
ウジ虫みたく両親が帰ってきたら、心臓と脈拍が爆速になっていたし、床屋では「首が細くなったね」なんて言われたっけ。
再び、両親に催促されたオレはハローワークに行き、群馬の嬬恋村という場所へ行き、キャベツ畑で働くことを決める。
理由は小学生のころ、農家になりたいという夢があったのを思い出したからだ。
しかし、ハローワークの職員さんからは、「この勤務時間は……」と厳しめな反応があった。
ただ、あれだけのことがあったのにも関わらず、楽観的でなんとかなるだろ的な鈍感さに支配されていた。
ある意味、それでうつ病にならず動けていたのもある。間違いなく。
勤務時間は朝の3:00~18:00まで。休憩は12:00~13:00と書かれていたが、休憩以外嘘っぱちだった。
2:00~18:30。時間だけ見ると、まだなんとかなる雰囲気がある。
しかし、当時は夏場だった。
夏場であるのに、深夜帯は霧すら漂っていた。
気温は20度以下、雨が降ると15度以下になる。
しかし、こんなのは問題のうちにすら入らない。
緩急さがある広大な畑の畝、高低差と斜面。
腰を低くし、手早くキャベツを切り分け、段ボールに詰める。
その詰めた段ボールは2kg以上は確実にあった。
というのも、キャベツを三玉~四玉ほど入れられる段ボールだったからだ。
カッパを着ていても、長靴とズボンには雨が染み込み、砂が混じり、擦れて痛みが出る。
そして、何度も輸送用のトラックが来ては、見上げたら五十以上の新しい段ボールが荷台にしきつめられている、あの光景。
地獄と絶望というほかなかった。しかし、動かなければ金はもらえない。
腰の痛みと普段使わない筋肉を酷使し、震えた足で動く。
土地主に畝の段差で転ぶ姿を笑われたが、同僚のベトナム人や中国人は気遣い、不慣れな日本語で「ダイジョブですか?」と最初は心配してくれていた。
次第に心配すらされなくなり、夕方になるころにはオレが出来ないところをやっていてくれたことを、ふと思い出すことがある。
その時は無力感すらなく、ただひたすらに終わってくれという願望だけがあった。
陽が上がるころには肌が出ている部分は真っ黒に日焼けし、痛みが走る。
「働いて金貰うために来てんだろ」、と土地主に作業中言われても、ただ辛いという感情が汗とともに流れていたのを覚えている。
正直、いまの日本人の八割は三十分もしないうちに、絶望を感じる。これだけは断言できる。
18歳という若造でありながら、2:00~18:30のたった一日で腰痛と筋肉痛によって、立ち上がれなくなった。
一人一つのプレハブ小屋にたどりつくと、すぐにうつ伏せになった。
必要最低限の住宅設備はあったのは覚えてる。冷蔵庫、風呂、トイレ、テレビ、エアコン、布団……。
そして痛みが全身を支配していたが、トイレには行きたかった。
トイレに行くことは苦痛だったが、なんとか這いつくばいながら痛みを伴い、壁に手を着け、用を足す。
手を動かすことすらままならなかったのは覚えてる。
風呂にすら行けなかった。汗だくであるのにも関わらず、食欲と睡眠欲だけがあった。
土地主と出会った際に最寄りのスーパー(後から調べたら、5km以上あった)に寄ってもらった際に、キムチやらウィンナーを買ったっけ。
痛みで歩けないため、床を這いながら冷蔵庫の元まで生き、それらの封を開け、床に置かれていた炊飯器を開ける。
箸を事前に取っていたのは幸いした。釜まるごとに箸でウィンナーとキムチをぶちこみ、しゃもじで掻き喰らう。
下品なことこの上ないが、そんなのどうだっていい。
とにかく、必要最低限の行動で飯を食う。それだけしか、頭を支配してなかった。
これほどまでに描写が濃くなるのに、たった一日。
2:00に土地主が「おい、おせーぞ! おめ~遅刻してんだよ」と来訪したのは、いまでも覚えてる。
もう無理だった。泣きながら、「すみません、辞めます」と言った。
「ああ、そうか……ゆっくり休めよ。終わったら、話そう」と優しく返された。
痛みから寝ることも出来ず、ただクソみたいなウジ虫の如く、静かに泣き喚き、自責の念に駆られる。
走馬灯のように自分がどれだけ無能で使えなくて、生きている価値がないのかを思い知らされながら、横になっていた。
土地主は働いた時間分はお金をくれたし、その土地主の兄弟の方が駅まで送ってくれた。
送ってくれなかったら、買ったお米5kg、旅行用バッグの中身で2kg以上を背負い、10km以上の山間部を歩かなければならなかった。
それは覚悟していたし、そのつもりでいた。
それで、駅まで送ってくれた際、兄弟の方は
「人には向き、不向きがある。十代になるときには俺たちは畑で働いていたから、働ける。大抵の都会の人には無理なんだよ」
とぼやくように呟いていたのを思い出す。
どの駅を使ったのかは覚えていない。
紙袋に入った5kgの開封済みのお米を抱えながら、渋谷を使ったのは覚えているが。
なんにせよ、実家に帰るまでが大変つらかった。
何度も道の途中で止まったし、痛みで歩けなくなり、地べたに座った。
事前に母親に帰るというLINEをすると、「気を付けてね」という文字が帰ってきたっけ。
大変、情けなかった。銃が目の前に転がっていたなら、頭を撃ち抜いていただろう。
それくらい、自身と他者の差に打ちのめされ、自身の心を傷つけ、気づかされた。
夜間帯、家に帰ると、両親がいた。
両親がなんと言っていたのかは、いまだに思い出せない。
腰痛と全身の痛みでそれどころではなかったからだ。
「とにかく、休ませてほしい」とだけ断りを入れ、自分の部屋に戻る。
横になり、痛みが楽になったころ、トイレに行こうと思い、その途中の居間から両親が会話していたのが聞こえ、足が止まる。
父親はこういった、「あいつは欲がなさすぎるんだよ。だから、すぐに辞める」。
母親はただ静かに相槌を打っていた。
それもまた、絶望であった。どれくらい立ち止まっていたかはわからない。
眩暈と視界が暗転と明転を繰り返し、頭の酸素が抜けていく感じがした。
だが、トイレだけは済ませ、足音すら立てずに部屋に戻る。
その時の俺の心境に残るものは何一つなかった。
なにも得られず、自身の無価値を痛感させられ、両親や兄弟からは期待も失望もされない。
これが、新卒を三月に辞め、いろいろ経た結果、8月までの五か月間。
次話は19歳の話に行く。