宙ぶらり
「これ書いて」
妻は短くそう告げて、A3サイズの紙を差し出した。
一瞬その用紙が何なのか分からなかった理由は、これが一週間の仕事を終えて家に帰り、発泡酒を煽った後の出来事で、シャットダウンしていた脳の機能を再起動するのに少し時間がかかったからだ。
離婚届だった。
手に持った発泡酒をゆっくりと置く。見間違いではない。白い照明に照らされた用紙の左上には確かに離婚届と印字されていた。
顔を少し上げて机越しに立つ妻の顔を見る。普段と変わらない表情に思えた。怒りや悲しみのような目立った感情は一切感じられない。
彼女は何も言わない。このまま見つめ合い続けても仕方ないと届書に視線を落とす。
「白紙じゃないか」
ぽつり、と疑問とも文句とも取れる中途半端な言葉が溢れた。
それはとても的外れで、そして至極真っ当なものだった。届書の中の十か二十ある項目——例えば住所だとかは全て空白で、ほとんど新品と変わらない代物だった。
「書いてあるじゃん、名前と日」
妻は細い指で届書を指差す。白紙だと思っていた届書の署名欄には妻の名前が、届出日にはニ月三日という日付が、非常に薄い字で書かれていた。
「じゃあ、明日も仕事だから、後はよろしく」
何がどう「じゃあ」なのか。声を掛けようとしたが、既に彼女はパタパタというスリッパの音だけを残して寝室に篭ってしまった。
小さく息を吐いて、不味い発泡酒を少し口に含んだ。
結婚生活十年目にして唐突に切り出された別れ話に対して私がこうも落ち着いていられるのは、我々が決して仲睦まじい夫婦などでは無くどちらかと言うと冷めた関係にあり、離婚という選択肢が頭の隅に存在していたことに他ならない。
思えば妻の顔をまじまじと見つめたのは随分久しぶりだったような気がする。会話という会話が他と比べて極端に少なかったのも事実だ。
ただ、しかし、急だった。余りにも。
やるかもしれないと頭で思うのと、実際に行動するのは全くの別物である。何か致命的な問題があったと考えるのが普通だ。
いや、問題なら大きめのがすぐそこにあった。
これは私が離婚届を見て騒ぎ出していない一つの要因でもあるのだが、我々の間には子供がいない。
不妊の原因については定かではない。解明しようとすらしてこなかった。
お互いに——少なくとも私は、子供ができないならできないでいいと漠然と考えていた。事実私達はこれについてほとんど話し合わないまま十年という月日を過ごしてきた。
だが。もしも、だ。
私はアルコールの熱に当てられた脳で思考する。
彼女がもし、本当は子供が欲しいと思っていて、誰にも相談できずに心の内に想いを秘めていたとしたら?
どっちつかずな態度で何も気にしていない素振りをする私は、さぞ頼りない夫と写るに違いない。
役不足な私への不満や焦りが溜まりに溜まって、十年目にして溢れ出す。何となく筋が通っている。
その時、夜の十二時を知らせる時計の音が鳴った。
今、ニ月二日の日曜日が始まったのだから、妻の要望を満たすなら、今日と明日で離婚届を仕上げて、三日月曜日の夕方までに役所に行くことになるだろう。土曜出勤、月曜休暇という今週の歪なスケジュールが完璧にはまっていた。
そこまで考えて、物事が離婚に向けて転がり始めていることに気付く。住まいがマンション且つ親が太いため財産問題も特に無く、子供もいない。思いつく障害は、無い。
だとしたら、最後くらい妻の要望に素直に答えてやってもいいのではないか。
すっかり温くなった発泡酒を無理やり喉奥に押しやる。棚からボールペンを取り出して、名前だけ離婚届に書き入れると、部屋の電気を消した。
*
朝、目覚めた時には、既に妻が働きに出て行っていた。キッチンの机の上には相変わらず例のA3用紙がぽつんと置いてある。
歯磨きをしながら、改めて白紙の離婚届を眺める。住所や本籍なんかはすぐにでも書けるとして、やはり問題となってくるのが証人欄だろう。
当事者以外の二十歳以上の人の署名を二つ。つまり離婚が成立するためには、二人の知人に頼んで届書の証人欄を記入してもらう必要があった。
真っ先に会社の知人を候補から除外した。三十半ば過ぎにもなれば何となく顔が効くようになるし、多少偉くもなる。社内で離婚届の空白を埋める手伝いを頼まれたなどという噂が流れるのはどうしても避けたかった。
しかし、会社の付き合いを除外してしまえば、残ったのは数年単位で会っていない友人だけだ。
彼らも避けたい。久しぶりの再会の理由が離婚の証人探しと知ったら呆れられてしまう。そもそもの話県外に住んでいて物理的に不可能なものが大半だった。
小さくため息をつく。会社の付き合いではなく、今日すぐにでも頼める暇そうな奴が一人だけいた。名を三田村と言う。できるなら奴にも離婚の事実は知られたくはないが、背に腹は替えられない。
あまり連絡を取りあう仲では無かったが、どうせ人より返信が遅いことは予想がついたので、今の内に要件を全てまとめて送信することにする。
ここまでやっておけば明日役所が閉まるまでには何かしらのアクションがあるだろう。
寝巻を脱いで黒のシャツとベージュのチノパンを手に取る。服は何でもよかった。玄関に向かう最中で分厚いコートをひったくる。
もう一人の証人は既に決めていた。ある意味今一番話したくない人物だが、いずれ話す羽目になるのだから、報告ついでに署名をもらうことにする。
携帯電話を取り出し見慣れた番号を打っていく。電話は三コール目が鳴り終わる前に繋がった。
「……もしもし。ああ久しぶり、お袋。書いてもらいたい書類が出来たんだ」
*
実家は車でおよそ三十分の距離にあったが、今日は寄り道も含めて二倍から三倍ほどの時間をかけて到着した。
狭いガレージに駐車し、暖房の効いた車から外に出ると、ニ月の冷たい風が身体を包んだ。
久しぶりに実家を見上げると、どこか寂れたように感じられた。大黒柱の親父がいなくなってしばらく経つからか、あるいは単に私の心が寂れているからか。
「ただいま」
玄関の鍵は空いていた。立て付けの悪い引き戸がガラガラと音を立てる。
「おかえり。随分遅かったじゃないの」
母はすぐに出迎えてくれた。ここじゃ寒いから、と居間に案内される。お茶を汲んでくれている間に、離婚届を机の上に広げた。
「離婚ねえ……いやぁ、本当にあるのねえ。すごい美人さんだったのに惜しいことしたよ。……ええとそれで、ここに名前書けばいいの?」
お茶を持ってきてくれた母は、随分のんびりとした様子で離婚届を眺めている。
事前に電話で要件は伝えてあるとは言え、その態度があまりにも呑気且つあっさりとしていて、私は少し拍子抜けする気さえしていた。
「どうしたの?」
「いや、もっとこう、問い質されるものだと思っていたから」
「まあ、そりゃ色々あるけどねぇ……揉めてるわけでもなさそうだし、アンタももういい歳した大人だしねぇ」
相変わらずの間延びした声。そういう問題では無い気もしたが、根掘り葉掘り聞かれずに済んだのは正直ありがたかった。
「はい、書いたよ。それよりアンタ、向こうのお義父さんには挨拶済ませたの? 難しそうな方だったじゃない」
言葉に詰まる。母親という生き物は何故こうも子の痛いところを的確に付くことができるのか。きっとそういう養成施設でもあるに違いない。
妻の両親で存命なのは義父だけだった。義母の方は私と妻が出会った時には既に義父と離婚しており、一昨年に亡くなっていた。
物静かで堅物そうな義父にはどこかシンパシーのようなものを感じていたが、まさか離婚する所まで同じになるとは思わなかった。
「まだ。電話で済ますのも失礼だろ? 遠くに住んでいらっしゃるし、もう少し落ち着た時に挨拶に行くさ」
本心だった。それに今のまま報告したとしても支離滅裂なものになってしまって不必要な怒りを買いかねない。
「そうかもしれないけど……こういうのは早い方がいいよ」
母の言葉に適当に返事をして立ち上がる。「もう行くの」という声に、人と会う約束があると答え、コートを羽織った。
「線香だけでもあげていきなさいよ」
「ああ、そのつもり」
居間の奥の仏壇に向かい、線香を手に取ったところで、ふと言わなければならないようなことが頭の中に浮かんできて、母の方を振り返る。
「孫の顔、見せてやれなくてごめん」
母はその言葉に少し驚いたような顔をした。
「それは今更さあ。あのまま結婚していてもきっと見れていないもの」
返す言葉が無かった。
*
実家を出て、行きつけのコーヒーショップで時間を潰している時に三田村からの返信が来た。
その内容は非常にシンプルで、「今どこにいる?」の一行だった。
これを肯定と捉え現在他を送信する。すると今度は即座に返信が帰ってきた。曰くすぐにこちらに向かうとのことだった。
結局、三田村が来たのは一時間後の事だった。
奴は伸び切ってオーバーサイズとなったセーターに色褪せたジーンズとロングコートという格好で、寒さに震えながら店内に入って来た。外は風が強かったようで、ただでさえ癖が強い髪の毛が、彼の頭の上で暴れ狂っている。
彼はこちらの姿を見つけると、小さく手をあげて歯を見せて笑った。
「すまん、遅くなった」
色々と言いたいことはあったが、こちらが頼む側ということもあり言葉を飲み込む。
「こっちこそ急に悪かった。久しぶりだな、三田村」
「おう。にしてもお前が離婚なんてな。滅茶苦茶びっくりしたよ。俺の中じゃ今月始まってから一番だ。あ、お姉さん、アメリカン一つね」
相変わらず適当なことを言う男だ。しかし今の私にはその適当さが丁度よかった。
「それで奥さんに何て離婚を切り出されたんだ? 怒ってたか?」
「こっちから離婚届を渡した可能性は考えないのか?」
「冗談だろ」
黙りこくってしまった私を見て、三田村は「ほら見ろ」と笑う。
「で? どうだったんだよ。泣いてたか?」
「……別に無表情だったよ。離婚届を差し出されて、それでおしまいだ。面白いことなんて何もない」
「おいおい。たったそれだけで離婚を受け入れて届書書くために頑張ってるのか? やっぱりお前ら変わってるよ」
「変わってるのは承知の上だ。だからほら、もうやめにしないか? そろそろ俺らのせいでコーヒーが不味くなるって苦情が入りそうだ」
バツが悪そうな顔をしながらコーヒーを持ってきた店員をちらりと見る。
三田村は大袈裟に手を振って上半身を逸らした。
「ああ、分かってる分かってる。別にケチつけるつもりはないさ。ええと証人欄だっけ? 貸してみな。離婚マイスターの俺に任せておけよ」
世界一不名誉な二つ名を名乗る三田村は、確かにマイスターの名に恥じぬ勢いで一瞬の内に証人欄を書き上げてしまった。
「はい、書いたぜ」
「本当に住所とか合っているんだろうな」
「合ってるって。お前は心配しすぎだ。何度か離婚届出してるけど、何かが違っててもその場で直せば問題なかった」
何度も離婚届を出している節操なしの言うことを信じていいものか甚だ疑問だったが、こちらは初めてなのだから、経験者の意見は重要だ。
私は書き殴られた署名をじっと眺め、諦めのため息と共に、汚さない内に届書を鞄の中にしまった。
その間、三田村は黙ってコーヒーを飲んでいたが、おもむろに懐からタバコを取り出した。
「ここ禁煙だぞ」
「違えよ」
彼は箱からタバコを一本抜き取ると、それをこちらの顔の位置に差し出した。
「一本やるよ。ほら、結婚した時か、付き合い始めた時かに奥さんのために吸うのやめたんだろ? だったらもう吸っていいわけだ」
三田村はまるで猫じゃらしのようにタバコを揺らす。彼なりの新たな門出の祝いなのだろう。私は少し迷った後にそれを受け取った。
「ありがとう。でも吸うのは明日になってからだ」
彼は私の言葉を聞くと、真面目だね、と肩をすくめてタバコをポケットに戻した。そのまま残ったコーヒーを一気に飲み干すと、勢いをつけて椅子から立ち上がった。
「そろそろ出るか?」
「ああ、上の子とのデートがあるからな」
「親権手放したってのに」
「関係ないね」
ダメ親がケタケタと笑う。それが余りにも屈託ないものだったから、私は少し羨ましくなった。
店を出た私達はその後すぐに別れた。遠くなっていく三田村の背中を見届けて、私は一人帰路に着く。
沈んでいく夕陽が今日の終わりを告げる。年季の入った革の鞄は、先ほどより少しだけ軽く感じられた。
*
「申し訳ございませんが、この届書は不備があるため受理できません」
七三分けの職員の淡々とした言葉が、呆けた私に突きつけられる。
役所に来て、順番を待って、私の名前が呼ばれた所まではよかった。
だが、席に座って開口一番でこれだ。すっかり面食らってしまった私はどうにか言葉を絞り出した。
「やはり、証人のこの三田村ってやつが、何かおかしかったんですか?」
「いえ、そこではありません」
アテが外れた。七三分けは眉一つ動かさずに届書を指す。
「ここの欄なんですが、妻の方の離婚後の本籍を決めて頂く必要があります。こちらが空欄ではお受けする事はできません」
「はあ」
「離婚後も婚姻中の氏を名乗られたい場合は空欄でもいいのですが、どちらにせよ妻の方の意思により決めて頂くところでございまして」
「私がこの場で記入するのは不味いと」
「はい」
電話で聞いてもダメですかと聞こうとして、彼女が今現在仕事中であることに気付く。
ふと離婚マイスターの得意げな顔が頭に浮かんだ。もう二度と奴の言うことは信じないだろう。
「申し訳ございません。またのご来庁をお待ちしております」
七三分けの丁寧な言葉によって市役所から追い出される。想定外の出来事に少し混乱していた私は、とりあえず駅の方まで歩き出した。
今日家に帰って妻に届書を書いてもらうとして、問題となってくるのが届出日が今日でなくなってしまう事だろう。あの堅物そうな職員のことだ。届出日を誤魔化すことを手伝ってくれるとは思えない。
参った。せっかく妻が指定した日に間に合わせたと言うのに。
ふと、足が止まる。
何故妻は離婚日を指定してきたのだろうか。
私のスケジュールが丁度いいから? 期限を設けることで私を急かすため? なら四日では駄目なのか。いいはずだ。
名前以外で唯一妻が記入した項目。細い字で書かれた二月三日が、途端に何だかそれ以上の何かがあるような、不安感とも、高揚感とも取れる複雑な感情が湧き上がるのを感じた。
だが何も思い浮かばない。三日に届出をするメリットも目ぼしい記念日も無いはずだ。
その時、私の鼻が芳しい油の匂いを捉えた。
辺りを見渡すと、赤いネオンが特徴的なラーメン屋と目が合う。
それはどこか懐かしさを感じさせる店だった。
私は小腹が空くのを感じて店の前のメニューの紹介をぼんやりと眺める。
私の中の錆びついた記憶が蘇ったのは、十二周年記念日を謳うのぼりを見た瞬間だった。
私は半ば衝動的に彼女に連絡を送っていた。
後先を考えた行動では無かった。ただ降って湧いた解が正解にしか思えなくて、それを出題者に見せびらかしたいという私の中に潜む童心が顔を覗かせただけだ。
離婚届が出せなかったことと、待ち合わせ場所についての淡白なメール。携帯でのやり取りは実に二ヶ月ぶりであったが、返信は想像していたより早かった。
日が沈むまで近くの本屋で時間を潰し、店の前に再び向かうと、仏頂面をした妻と鉢合わせた。怒ってはいないようだったのでひとまず胸を撫で下ろす。
「離婚届出せなかったって」
「ああ」
無言で店内に入るように促す。ボタン式の自動ドアを開けると、若い店員が奥のテーブル席を案内してくれた。妻はその後ろを渋々という風に着いてくる。
「家庭の話をするには向いてないと思うけど」
席に座った妻がメニュー表を眺めながらぼやく。
「思い出したんだ」
「え?」
メニュー表越しに目が合った。
「ほら、付き合い始めた頃君がラーメン屋に入ったことが無いなんて言い出すから、ちょうど開店日だったこの店に二人で食べにきたじゃないか」
「うん、まあ。……それで?」
「だから、届出日にしたんじゃないかって」
妻は私の言葉に少し驚いたように目を開いたが、すぐに訝しげに目を細めた。
「どうしてラーメンを食べた日に離婚届を出すのよ」
「それは……分からないけど」
言葉に詰まる。記念日らしい記念日をどうにか見つけた時の高鳴りがどんどん萎んでいくのを感じた。そもそも届出日が何かの記念日であることすら私の勝手な妄想なのだから当然かもしれない。
彼女はそんな私の様子に小さくため息をつく。出来の悪い子供に対して疲れを見せる母親のようだった。
「……あなたがタバコをやめた日」
「え?」
妻の呟きに思わず間抜けな声が出る。私を無視して、彼女の口からぽろりと言葉が漏れる。
「このお店、開店した時はタバコが吸える店で、食後にあなたが吸おうとしたから、嫌いだからやめてって私が言ってさ。それまでは何とも思わなかったんだけど急に嫌になって。ちょっとキツい言い方だったけど、すっぱりやめてくれて……何かそれが記憶に残ってた」
言葉が途切れる。その表情からは何も読み取ることはできなかった。
「……別にいつでもよかったけど」
妻はそう言うと、片手を差し出して私に離婚届を渡すように指示した。しばらくの間、受け取った届書の空欄を見つめていたが、おもむろにボールペンを鞄から取り出すと、届出日を二月二十六日としてこちらに寄越した。
「離婚後の本籍は?」
「気が向いたら書く」
歯に着せぬ言い方に妻の方を見るが、彼女は既にメニュー表との睨み合いを再開しており、こちらには見向きもしない。
「……この二十六日も何かあるのか?」
「さあ」
彼女はそれだけ短く言うと、小さく笑った。
今はもう何を言っても無駄だろう。
離婚届をしまうために鞄を開く。その際ティッシュにくるまった奴のタバコを見つけたので、それを妻にバレないように鞄の奥の方に追いやった。