第一章 そして狼達は、電気街に集う (1-1)
こんにちは、雨ですね。
毎朝7:00に投稿します。
よろしくお付き合いねがいます!
――一〇年前――
嘘って言ってよ。
昨日、一五才になったばかりの不動ミサは目の前の光景を見つめ、言葉を失っていた。
今日の乙女座は、幸運指数九〇だったハズ。
海風の強く吹きすさぶ砂浜に朧月の光がこぼれる。
腹を上に向け、屋根の半ばまで砂地にめり込んでいる四輪駆動車。荒れ狂う波濤と、噎び泣く風の音をよそに、静かに月明かりが照らすそれは、祭壇に供えられた生け贄に見えた。オイルだか、ガソリンだかを流し続け、砂浜を黒く染める六人乗りのサーフは、間違いなくミサの手引きで、彼らが強奪したものだ。
嵐の前触れのような強風が轟々と音を立てる。
いや、実際に今夜は嵐だ。だからこそ、この計画の決行日に選んだのに。
ピンク色のパーカーに、レギンスという軽快な出で立ちのミサは、三メートル近く上を走っている海岸道路を見上げた。無意識に髪留めを外す。イラついてるときのクセだ。風に乱されたロングヘアーが隠す、整った顔は青色に近い。なにかにすがるように見開かれた眼に、突き破られたガードレールが映り、自分が乗ってきた原付の、弱々しいハザードランプを照り返している。十五才のミサが、無免許で転がせるのは、スクーターぐらいだ。
ガン、と金属音が響いた。はっとして眼を戻す。
再度音がし、水蒸気をあげている、サーフの後部座席が勢い良く開いた。ドアを蹴り開け出てきたのは、短髪で、無精ひげをまばらに生やした男だ。
「マルさん!」
ミサは砂に足を取られながら、走り寄る。だが、肩に提げた大型のクーラーボックスだけは下ろさなかった。これは、彼女達の命綱であると同時に、自分を取り囲む、全ての事象に有効なワイルドカードなのだ。
その男は、苦痛に顔をしかめながらも、たくましい腕に抱いた小さな影から眼を離さなかった。ポケットの沢山ついたタクティカルベストを羽織り、テニスシューズを履いている姿は、兵士そのものだ。彼の視線の先には、薄いブルーの患者服を着た白人の少女がいた。まだ五,六歳だろう。
「マズい。脈が弱くなってる」
挨拶ぬきで、そう告げる、しゃがれた声に、ミサは爆発した。
「なにやってんですか! ゆっきーと、ララは?」
「こっちだ」
車の中からくぐもった男の声がした。
反対側のドアが蹴り開けられ、長身、長髪にソバージュの男が這い出して来る。
「カクさん! 二人は?」
「よくねえな」二つの小さな影を車内から、ひっぱり出しつつ吐き捨てる。その男は、砂浜に横たえた二人のそばで片膝をつき、呟いた。
「よくねえ。おんなじだ」
軽口を叩くために生まれてきたような男の、深刻な声がミサを奈落の底に突き落とした。
「なにやってんの、二人ともっ! あなたたちの社長は一流の奴らを充てるから、心配ないって私に約束したんですよ? それを信じて、彼女たちを…… 何なのよ、これ? 一体、何のために、この子達を……」
「今の悪魔から、別の悪魔に乗り換えるためだろ」
カクと呼ばれた男に、ミサは悪態のお返しをされた。言葉を失った彼女を余所に、カクは手前に横たわる影へと手をやる。仰向けの顔にかかった髪の毛を払ってやると、マルが抱いている少女と似たような年格好の顔が露出した。黒い髪、白い肌。アジア系の少女だ。眠っているようにしか見えない。
「後輪がバーストした。事前にチェックしたときは問題なかった。狙撃された形跡はない」
事実を再確認するかのように、マルが言った。唇を震わせながら、ミサが呻いた。
「じゃあ、いったい……」
「ライラも脈が頼りねえ。三人とも同じってことは、俺たちが連れ出す前に薬でも盛ったのかよ?」
三人中、最後の一人、中東系らしい、ロングヘアの少女の首元に手を当て、カクが訝んだ。
「そんな事しない、必要ない! この子たち、眠ったら起きないもん。ショックで発作が起こってるのよ」
肩に提げたクーラーボックスをそうっと降ろし、駆け寄ろうとしたミサの前に、マルが立ちふさがった。
「三人とも揺すらんほうがいい。ほら」
ミサより頭二つ分高い精悍な顔が、胸に抱いている少女の腕を差し出し、眼で促した。
ミサはあわてて、小さくて細い腕をとった。確かに拍動が弱い。
「そんな…… みっちー」
絞り出すように、ミサは呻く。この子達を救いたい。それだけだったのに。
「納得したか」
青白い華奢な上腕部を、握っていたマルが静かに言った。ミサがキッと面を上げる。
「そんな台詞、よく言えましたね? よほどのショックを与えない限りは大丈夫な程安定してたのに!」
「そうだな、すまん」
「なにが、腕利きよ? 何がプロよ! イラク帰りの精鋭が、聞いて呆れる!」
「まったくだ。で、どうする」
ミサは言葉を失った。ここは、瀬戸内海に浮かぶ、群島の一つだ。自衛隊の砲弾を製造しているダイケン製薬――空調機器でも有名な一流メーカーだ―― の施設があるこの島は、その広大な敷地内以外、全くの無人だ。もちろん、そこに行けば、治療の設備は整っている。超一流の設備が。
アメリカの大学に飛び級で進学、生物工学の博士号を持つ神童は、こんな時にも関わらず、自嘲した。あたりまえだ、その研究所は、この不幸な子供たちのために、建てられたようなものなのだから。そして、そこから逃げ出してきた自分たちにその選択肢はない。マルはミサの背後にある、砂浜の上のクーラーボックスに、眼をやり言った。
「ミヤ」
ミサの呼び名。三人とも極力短い、コードネームで呼び合う取り決めだ。
ミサの心臓が一際大きく跳ねた。
「冗談でしょ」譫言のように呟きながら、自分でもわかっていた。
「選択肢はない」
その通りだ。
「クライアントの要望は研究データだけだが、被検体が死んだら本末転倒だろう」
「被験体っていうな! この子たちにはちゃんとした名前があるの」
ミサは大声で叫ぶと踵を返した。足下がふらつくのは、吼えるような潮風のせいでも、スニーカーの下で鳴く砂のせいでもない。
選択肢はない、選択肢はない、選択肢はない。
虚ろな頭の中でわんわん鳴り響くその声を聞きながら、ミサは思った。
そうだ、彼らは、ダイケン製薬のライバル会社、オリオン工業に雇われた傭兵だ。そして、古くさい言い方をすれば、私はこの子達の保護と、研究の継続を条件に、駆け落ちしようとしている不貞の女だ。クーラーボックスの中身が、世間を憚る恋人の代わり。
クーラーボックスを見下ろす視界が、鼓動にあわせて揺れる。
蓋を開ける手、ドライアイスが煙る内部に、差し入れた手も、他人の物のように思えた。
頭は痺れているのに、何故か両手はスムーズに動く。キンキンに冷えたガラス製の小瓶が、指に痛みを伝える。その中身を注射器で吸い上げ、振り向いた。視界がゆがみ、嗚咽が顎を揺する。涙と鼻水でまだ幼さの残る顔を汚しながら、ミサは目の前の役立たず達と、読みの足りない自分、そして少女達にこんな運命を背負わせた、神と悪魔を心底呪った。
ミサは注射器を構えたまま仁王立ちで吼えた。
「その子を下に置いて。気安くさわんないで!」
マルはおとなしく従った。
「ミッチェル」がっくりとその傍らに、両膝をつき、ミサは呟いた。
「ごめんね」
あなた達に、学校に通って欲しかったの。公園で遊んで欲しかったの。男の子にちょっかいをかけたり、かけられたり…… 牛舎の牛や、モルモットみたいな毎日じゃなくて、普通の生活を送って欲しかったの。気晴らしに、海岸へ連れ出しただけで、この世の終わりみたいな顔で激怒する、人でなし達から解放してあげたかったの。
入所した時、研究員に手を引かれていた、コード000。
あのラボの中、ミッチェル達、三人以外で見かけた唯一の子供。
姿を見たのは、それが最初で、最後。
おかっぱ頭に大きな眼。なんの感情も映していなかった、あの瞳が脳裏にこびりついている。スカートにリボンをつけた小さな後ろ姿を今も夢に見るのだ。
ミッチェル。コード001。雪。コード002。ライラ。コード003。もういやだ。
彼女たちはモノじゃない。原因不明の病を抑制するため? 誰が信じる? 私は信じない。
得体のしれない投薬をされ続ける三人をとにかく連れ出すんだ。オリオン工業に身売りしたのも、研究データさえ渡せば、彼女達を被検体にしないという、契約を交わしたからだ。
この島の闇に消えたコード000のようにはさせない。誰一人欠けさせない。
私には、誰にも負けない頭脳がある…… それしかないけど。お金はなんとかするから、四人静かに、どこかで暮らそう。
……四人?
そっか。
眠っているようにしか見えないミッチェルの頬に、ミサの涙が落ちた。
私…… もう独りはいやだったんだ。
ミサは顔を歪め、情けない泣き声を漏らし、もう一度呟いた。
「ずっと…… 一緒だよ」
雲間から漏れる月光が、注射針の先端で冷たく嗤った。
――現在――
僕の名前はどうでもいい。
どこのクラスにも何人かはいる、低カーストのオタクです。
女の子とは縁がないけど、全然気にしなかったし、それなりに幸せな毎日だった。
休みの日は日本橋通い。東京でいう秋葉原にあたる、大阪の電気街だ。
絵に描いて、額縁に飾りたくなるくらいに御約束。
笑っちゃうくらい、ステレオタイプ。
でも。
そこで僕は、彼女たちに出会ったんだ。
「ほおれ、見よし、言うた傍からこれや。さすが、日本のタンツボ、大阪どす」
勝ち誇った様にせせら笑う雪から、美香は渋い顔で眼を逸らした、次いで、地下にあるライブハウスの薄暗い入り口で受付をしている男達をちらりと見た。
小夜は安物のDVDに、家庭用プリンターで印刷した、歌詞カードが挟まれているだけの、商品を手に取り言った。
「もっぺん聞くけど、入場料の他に、このDVDを買わないと、入場出来ないって?」
「そです」
ちょっと崩れた感じの店員が眼を合わさずに言った。目の前のテーブルには、店の物である手提げ金庫、そして、メイドの二人組が全力でポーズを決めた写真付きの、DVDが積み上げられている。
陽光のろくに届かない、湿った廊下で美香は、
「そんなの聞いてないよねえ」と口を尖らした。
しかも、入場料を取ってから、そんなことを言うのだから始末が悪い。
その時、若者の横で、パイプ椅子に腰掛けていた、ガラの悪い中年が、鷹揚に笑った。
「姉ちゃん、地下アイドルのライブはみんなこうだぜ。三枚買うヤツもいますよ」
雪が大げさに手を広げ、首を振り振り、嘲笑する。
「冗談は、小僧のベコみたいな鼻ピアスと、今時、ミナミの金貸しでも持っとらんセカンドバッグだけにしよし。鳥避けに吊すか、不幸の手紙ぐらいにしか使えんDVD買うくらいやったら、秀丸にでも送金しますわ」
さすがに、目を剥き顔を上げた若者が、美香達以外、人影がないのをいいことに唸った。
「調子こいてたら、潰すどすよ、クソアマ…… なに笑ってんだ、ガングロ?」
苦笑していた小夜が、それを聞いた瞬間、左手で男の顔を鷲掴みにし、吊り上げた。手の甲に怒張した腱が浮き上がり、男の頭蓋にかかるすさまじい圧力を物語る。雪は、冷たい目をして、手提げ金庫をひっつかむと、口元を邪悪に吊り上げた。
「行きなはれ、梅田の堂山町へ」
オネエのメッカを口にし、微塵のためらいもないフルスイングで、若者の股間に金庫を叩き込む。店員は悶えて、気絶した。美香は首をすくめて目を瞑る。痛い…… だろな。
「テ、テツオ!」
青くなって立ち上がった中年に、雪がよく冷えた声をかける。
「このボンズに、よー似合うた名前どすな。Vシネマで真っ先に弾かれそうどすえ」
「んで、オッサン」
だらんと脱力した若者を高く掲げたまま、小夜が、顔中四つ辻だらけにして悪魔のように笑った。ポケットから抜いた右拳を掲げる。手首まで固定されている手袋の甲に装飾された金属部分から、鋭い音を立てて、鈎爪が四本飛び出した。唇を震わせている中年に向け、小夜は囁く。
「てめえの首をちょんとやったら、何色の血が流れんだろな?」
「金寄こせなんて、一言も言ってねえぞ」
カーゴパンツのポケットに手を突っ込み、ふてくされて廊下を行く、小夜がぼやいた。
「賽銭どす。おかげで死期が伸びたんや、小夜大明神のありがたい御利益どすえ」
手提げ金庫を持った雪が上機嫌でその後に続く。
「強盗じゃない、何考えてるのよう!」
美香が涙目で喚いた。先を行く雪が、呆れたように振り返り、諭すように言った。
「美香、雑魚キャラが落とすゴールド、集めんのは冒険者の義務どすえ。こんぼうを銅の剣に買い換えるときの、あの胸の高鳴りを忘れたんか?」
「訳わかんないこというな!」
雪が今度は、憐れむような視線をおかっぱ頭の末っ子に投げる。
「これやから、鏡に向かってチューの練習しとるようなネンネは」
「ししししてないよ! 話作らないでよ、バカじゃないの!?」
あるな。
どすな。
「眼で会話しないでっ」胡乱な瞳を交わす姉達に、美香は半泣きで喚いた。
「まあ、誰もいねえとこに放っとけねえだろ。後で突き返そうぜ…… うわ、なんだこの音」
分厚いドアを開けた小夜は、耳をつんざく騒音に顔を顰めた。
カラオケらしい、重低音のあまりきいていないアップテンポのシンセに合わせ、頭頂を突き抜けるような黄色い歌声が、短い通路の向こうから聞こえてくる。そんな中でも、小夜のすぐ後ろから、夏場の飲み物は斯くありたい、というほどキンキンに冷えた声が聞こえた。
「小夜、はよ入りよし。この怪音波の源に、さくっと鈎爪かまして遊びにいくえ」
キュロットにブラウス姿の次女は、眼鏡を光らせ不機嫌そうに言った。ホールの手前に受付があり、今日の演目が折りたたみ式の黒板に、丸っこい文字で書かれてある。そそくさと、雪と小夜の横をすり抜けた美香は、ちょっと舌足らずな声でそれを読んでみた。
「メイド喫茶・メイドル日本橋店、現役メイドユニット・うにちゃーむ 他……」
「美香、やめよし。そげな地下アイドルの名前、朗読するんは。覚えたところで、半年後には、十三ミュージックで、ポールダンス踊っとるえ」
「……十三ミュージックって何? 雪ねえちゃん」不思議そうに瞬きして問う美香。
「美香にゃ、早ええ。さ、行くぞ」
小夜は、話を遮ると、カーゴパンツを穿いた、長い足を受付に向ける。ちょうど、曲が終わり、まばらな拍手が聞こえた。髪の長い、暗そうな店員にチケットを渡すと、サービスのドリンクが差し出される。小夜と美香は、礼を言って受け取ったが、雪は胡散臭そうに眼鏡の店員を見上げて言った。雪が、金庫を店員に預けようとする素振りは皆無だ。
「別料金やおまへんやろな?」
おねえちゃん! という美香の窘める声をバックに、店員は、サービスです、と呟いた。
「大体、調査費用は、甲賀から出てるんだから、かまわねえだろ」小夜が言った。
「日曜の朝っぱらから駆り出されて、必要経費だけってどないなん? なんで、三ッ首クラスの高級魔がオタク街にでるんよ、小夜?」
雪が、歩きながらウーロン茶を飲みつつ、毒づいた。
「俺達のためでもあるんだから文句言うな。魔が出る理由なんて一つしかないだろ?」
美香はちょこちょこと、二人の後を追っかけていたが、立ち止まってストローからオレンジジュースを吸い込み、思った。
そうだ、魔が出現する理由は一つだけ。
『生きた金属の』回収。
今、次女が口にした三ッ首―― ケルベロスは冥界の番犬だ。訪れる死者には愛想良く、脱走を試みる者には容赦がない冥府の魔物。私たち姉妹のように、特殊な体質を持つ者でなければ、それら魔の退治は困難を極める。美香はまた小走りで二人の後を追いかける。一五〇センチ足らずの自分と、一六八、一六〇と標準より背の高い姉達とでは、悲しいかな、コンパスが違う。高級魔が出てくる程の天敵。それは……
「うちら意外のコードがおるっちゅうん?」
雪の意外そうな声に、美香は我知らず、又、足を止めた。胸中にもやもやが広がる。
コードナンバー。
私たちにかけられた呪い。そして、血の繋がらない自分達を姉妹たらしめた、最初の絆。悲しい気持ちで美香はストローに、再度口をつけた。
「かもな。それか、『陽の武器』を持ち歩いてるような中忍以上の…… さっきから、なにやってんだ、美香?」
度々立ち止まってはジュースを飲んでいる美香を振り返り、小夜は不思議そうに尋ねた。
美香はじゅるじゅる飲み物をすするのをやめ、赤くなって言った。
「し、仕方ないでしょ! 私、歩きながら飲むと、噎せちゃうんだから」
「……大丈夫か、そんなんで? だから、いつも通り、家で待ってろっつったのに」
情けない顔をする小夜に、美香は噛みついた。
「そ、それとこれとは関係ないでしょ? 私だって役に立つもん!」
「いや、お前、言葉の通じる相手には、ドン引きするほど強いけどさ…… 今回の魔、お前の大嫌いな犬だぞ?」
う、と詰まった美香に、雪がストローから口を離し、半眼で言った。
「囮として役に立ってまうから問題なんや、大将。 美香みたいなちみっちゃいのん、頭から喰われてまうえ…… また、始まったやん」
美香の反論を封じるかのように、ステージでトークが終わり、又演奏が始まった。高校の教室ほどの暗いスペース、その奥にステージがあり、辛うじてメイド服の原型を止めている衣装を身に纏った二人組が、ライトの下で、シンクロしていない踊りを披露している。それなりに、人気があるのか、ステージの前には、二〇人ほど、二十歳前後の男達が群がり、蛍光のスティックを振っていた。
それを冷たい目で見ていた雪が、こめかみに、四つ辻を作り、ストローを噛みつぶす。
「人が、京都くんだりから、世のため、ワレがために出張ってきたっちゅうのに…… 明るいとこが苦手なんは、魔犬と一緒やな、オタクども」
「雪、なんか変な匂いしねえか? 嗅覚は下げてるんだけど」
「あほやね、小夜。周り見よし。清々しいくらい、デブの眼鏡かヤセの眼鏡ばっかりやん。あの生っちろいのなんか、糸で縛って、くびれつけるだけで売れそうどすえ」
「お、ほんとだ。生きてる人間見て、うまそうだって思うのは初めてだぜ」
絶対周りにきこえているだろう。感心した様に頷く小夜から、美香はそうっと距離を取り、
ぐるりと周囲を見回した。ステージの前には、パイプ椅子が並べられており、まばらに座っている客以外は、皆ステージ前に集まっている。前方の巨大なスピーカーから吐き出される騒音に、内蔵を突き上げられつつ、美香は思った。
美香達、五行天狗衆の後見人である、甲賀からもたらされた情報によれば、先週、このライブハウスに魔が出現したらしい。陽光の届かない地下。魔が出現するにはうってつけではある。だが、美香達からすれば、腑に落ちない事ばかりだ。
まず、ケルベロスの出現した理由がわからない。ケルベロスと言えば、かなり高位の魔だ。動物に化け、そこら辺をうろうろしている、低級魔とは訳が違う。
高級魔が出て来るほどの相手。
陽の金属と親和した自分達、五行天狗衆並の天敵がこんな電気街にいるというのか。
そして、ここが最も腑に落ちない。
低級魔は、陰陽に関わらず、むき出しの生きた金属の匂いしか追跡できない。高級魔ですら、金属が発動している状態ならともかく、人体に寄生し、眠っている状態のそれを嗅ぎつけることは、不可能だ。例え、発動していたとしても、何キロも先からその匂いを嗅ぎ付ける事は無理なはず。つまり、金属と親和した標的が、予め、どの辺りに出没するかを知っていなければならない。
自分達が魔に付け狙われるのは、魔に面が割れているためで、金属の匂いではなく、個々の匂いを覚えられたためだ。そして、美香達の知る限り、それら、『生きた金属』を体に飼っているのは、自分達を除き後一人だけ。もっとも……
その時、美香の背後、受付から、二人の人影が現れた。前に立っているのは、リュックを背負った、十代半ばの少年、その後ろは、野暮ったいスカートにトートバッグを提げた、眼鏡の少女だった。
少年は、垢抜けない服装に似合わず、女の子と見まごう繊細な顔立ちをしていた。ステージを見て、大きな瞳に困惑の色を浮かべている。その後ろの少女は連れではないらしく、少年の脇をすり抜け、俯いたまま、独りで椅子へと向かった。
「雪、なんかおかしくねえか?」
「うちも、たった今、そう思た」
ステージを見つめる姉達の会話を聞いた美香は、あわてて、視線を小夜と雪に移した。美香は、姉達に置いてけぼりを喰わないよう、辺りを見回し、必死でおかしい部分を探す。だが、そう言うときほど視野が狭くなり、出来る事も出来なくなるものだ。
こちらに背中を向けて、無言でライトスティックを振る集団、椅子に座って、身動きもせず、それを見守る男達…… ハジけているのは、ステージでやたらに、にゃんにゃん言ってるメイドもどきだけだ。
……メイドだけ?
美香は、自分の思考が辿り着いた結論の異様さに気づいた。
「まあ、罠ってのは予想済みだったけど…… 美香、俺から離れるな」
美香の全身に電流が走った。埃っぽく、すえた空気で満たされた空間が、暗さを増した様な気がする。ステージで歌っている二人組の歌声が、怪訝そうにスローダウンし、踊りもそれに連れて止んでいった。
「きゃあああっ!」
マイクを放り出し、髪の長い方が絶叫した。短髪のもう独りは、顔をひきつらせて声も出ない。ステージ前に集まっていた、男達が振り返った。
椅子に腰掛けていた者達も。美香は全身が粟立つのを感じた。
瞬きをしない能面の大半が、自分達を見つめていたからだ。
「は、ハハ発見、メイドメイド冥界金属の金属のヒョヒョ標的んぞくくく」
さっき、雪に加工する前のハム扱いをされた男が、抑揚のないキイキイ声で言った。
そして。
男のトートバッグを持った手が震え始める。
それが、四肢に広がり、首から上が、ぶるっ、ぶるっと大きく震えた。
苦痛からか、快楽からか判じ難いうめき声を上げ、全身の骨格が嫌な音を立てて変形し始める。こぼれそうな程見開かれた眼球が、独立した生き物のように上下に揺れ、口元から、大量の涎を流し始めた。
メイド達の絶叫が、更に狂気の色彩を帯びた。
男の顔、下半分が溶け、金属質のアメーバとなり蠢く。スポットライトを照り返しながら、徐々に前方へとせり出し、ぞろりと刃物の様な牙が並ぶ。尖った鼻面。犬の貌だった。
「ち、ちゃーむ、四体、かく確認ち、ちゃーむ」モヤシのようなひょろ長い青年が言った。
「一体人、人間ほ他もも亡者亡者、普通、人間あるあるあるぅ」頑張ってピアスまでしてるが、どうしてもオタクっぽさが消せていない男が言った。
メイドの悲鳴に顔を顰めていた雪が、冷静に言った。
「相変わらず、壊れた日本語どすな。小夜、ケルベロス級の高級魔の気配はありまへんわ」
「だあな、しっかし、まさか」
こちらを向いている他の能面が一斉に口を開き、長い舌を見せ、涎を滴らせた。
その狂った光景を目の当たりにしながら、小夜は緊張も見せずに、苦笑した。
「全員が魔とはな。凝ったお出迎えだぜ…… 美香、尻尾は、極力出すなよ? お前カラータイマー切れんの早ええんだから。いいな?」
リーダーは私なのにという不満を飲み込み、美香は頷いた。自分とて高熱を出してひっくり返りたくない。
「雪、お前、眼鏡かけてんのに、気づかなかったのかよ?」
次女の眼鏡は、幻術を見破る破邪の特性を増幅する触媒だ。
しかし小夜の譴責とも取れる問い掛けに、雪は別段、気を悪くした風もなく言った。
「結界が張られとるみたいやな。道理で、入った時から頭がぼうっとするわけや」
抱き合って座り込み、悲鳴を絶えずあげ続けるメイド達を見て、雪が呆れたように続ける。
「さっきより、よっぽど高音伸びとるわ。やればできるやんか…… 小夜、全員、魔の変化や。好きなだけやりよし。パンピーの目撃者がおる以上、歌で回収すんのは無理や」
雪の鑑定に、小夜はゴキゲンな顔で拳を鳴らす。
「ありがてえ、人に取り憑いたヤツは、めんどくせえからな」
低級な魔は、取り憑いた人体を変化させるほどの能力はない。俗にいう、狐憑きが、その例で、宿主は、精神に異常を来すことがあっても、細胞レベルまで乗っ取られることはない。
又、魔は無関係な人間に、危害を加えることは殆どない。衆目を集めるのを恐れるためだ。魔が牙を剥くのは、人間界にあってはならない者に対してだけのようだが、全て、『おそらく』という接頭辞がつく。魔とまともに、話せた試しがない為だ。
経験と、古来よりの口伝に頼るしかない。
だが美香は、それどころではなかった。観客は全員、魔の変化したものと考えていいだろうが、あのメイド達は別だ。助けなきゃ。
身を守る以外の戦闘に参加するのが初めてである美香は、姉達にいいところを見せなくちゃ、という思い、そして無辜の一般人を護らなきゃ、という正義感で、経験の浅いハンターがかかる、バックフィーバーを起こしていた。
恐怖と緊張で、血圧が上昇し、視界が狭窄する。美香はぎゅっと目を瞑ると、半獣半人化した群に向かって駆け出した。
噛みつかれないよう、無我夢中で両腕を振り回しながら、緒突猛進。
怖い。裏返った、舌足らずな声で、気合いと言うより、嘆願しながらステージに駆け寄る。
「どいてーっ、あっちいけーっ!」
逆上し、突然駆け出した末っ子を見て、仰天した長女は叫んだ。
「そこの二人、よけろ! ミンチになるぞ!」
自分たちの事だと気づいたメイド達は、目を固く閉じ、顔を真っ赤にして驀進してくるローティーンを見てぽかんとした顔になった。幼児の喧嘩のような、ぐるぐるパンチに巻き込まれた魔達が、ある者は胸骨をへし折られて血を吐き、ある者は、頭蓋骨を粉砕されて、叩かれた犬特有の甲高い悲鳴を上げる。くたくたと、血を吹き出しながら、崩れていく半人半獣は、犬の姿となって、床に転がった。バシュッと、打ち上げ花火のような音をたて、死体は煙に変わる。衣服も幻術による変化だったらしく、後には何も残らなかった。
仔羊の様に怯えつつ、一方的なジェノサイドを繰り広げる少女にメイド達は―― シュールすぎる光景に魂を抜かれたように固まっている。
「バカがっ!」
誰に向けたか判じがたい悪態をつくや、小夜の姿がかき消えた。
美香はステージの段差に躓き、図らずもメイド達に向かいダイブを決めかけている。その美香と、小夜とを結ぶ最短距離に立っていた魔達がボーリングピンの如く弾け飛ぶ。美香を空中でキャッチした小夜は、マイクスタンドやら、コードを巻き込み、ベニヤで出来たちゃちなセットを突き破って止まった。そこにすかさず半人化をやめ、完全な犬の姿になった魔犬が殺到する。
「きゃあああっ!」
横に座り込んでいた、メイド達が絶叫した。黒い巨大な毛玉が蠢く塊となって、二人の姿を覆い隠す。雪は、自分を囲み、じりじりと迫ってくる四,五体の半獣に囲まれながら平気な顔でウーロン茶を飲んでいる。
ほどなく。
「でえいっ!」
小夜の気合いとともに、犬達がはじき飛ばされ、店の四方に吹っ飛んだ。
頭を抱え、うずくまっている美香の横で、小夜が鬱憤を晴らすかのように吼えた。
「暑っ苦しい上に、イヌくせーんだよ!」
仁王立ちで叫ぶ小夜の姿を見て、メイド達はあっけにとられたように口を開けていた。小夜の頭部に屹立する、漆黒の犬とも、猫のものとも取れる耳、そして、カーゴパンツの臀部から生え、半透明にたゆとう尻尾に、視線が釘付けになっていた。
「変化せんでも…… 」雪は壁に凭れてストローを咥えたまま苦笑している。
小夜は飛びかかってきた一匹を、アッパーで天井に叩き付けた。短い悲鳴を上げた魔犬は、鈍い音を立てて、落下、床に重い音を立てると、白煙に変わった。
「雪、美香を頼む!」
叫ぶや、犬の群れに突っ込む。魔犬達は、次々と宙を舞い、次いで閃閃と舞う鈎爪に寸断されて、血飛沫を咲かせた。雪も鼻歌を歌いながら、紙コップを捨てると、小夜と色違いの手袋を右手に嵌め、周囲で威嚇する元オタク達を睨め回した。
その時、美香は、腰を抜かしているメイド達と、座り込んだままの自分の前に飛び出し、リュックを振り回す人影を見た。
さっき遅れて入ってきた少年だ。
必死の形相で、カバンを振りかざし、低く構える犬達を寄せ付けまいとしている。
ズドン、と音を立てて、雪の姿が消え、次の瞬間、美香の目の前に現れた。瞬動だ。さっき雪が立っていた場所に残されたのは、足形にへこんだ板敷きの床、疾風が吹き抜けた傍らで蠢くのは、血飛沫を上げ、変化が解けた姿で痙攣している魔犬の姿だった。。
雪は、自分に気づかず、全力でバッグを振り回す少年の襟首を掴むと、片手で吊り上げた。
「美香、早よ立ち…… ボンズ、目ェあけよし」
少年は、動きを止め、ぎゅっと瞑っていた目を開けた。間近で見つめる雪の整った顔に気づき、赤くなる。
雪は、珍しい動物でも眺めるような目で見ていたが、やがて口を開いた。
「あいつらと違って人間みたいやね…… 何しとん? とっとと逃げよし」
少年は、もごもごと言った。
「いえ、女の子放っては……」
雪が、バカにしたように笑った。
「おなごみたいに、カバン振り回して何言うとるんえ」
「おねえちゃん!」美香が窘めた。
少年は、ますます赤くなって俯いた。苦しそうに呟く。
「それでも…… 何かやんなきゃ。一応男だから」
しばらく値踏みするように、少年を見つめていた雪は、鼻を鳴らすと、襟首から手を離して背中を向けた。いつの間にか雪の手には、透明な液体の入った瓶が握られていた。
「ま、武器を持ってたんは、褒めたる。五点やね」
「あ、それ、僕の」
リュックと雪を見比べる少年を余所に、次女はその蓋を開け、喉を鳴らして飲み干した。
呆然と雪を見つめる少年の足下に捨てられた瓶が、美香の目の前に転がってきた。
ラベルにはこう書かれていた。
「タミヤ プラモデル塗装用溶剤」
魔犬が一斉に雪に向けて跳ぶ。上体を、重い切り反らしていた雪は、体をくの字におり、その桜色の唇から紅蓮の炎を吐き出した。ファイアブレスをもろに食らった犬達は、悲鳴を上げて、火勢に押し戻される。雪は扇風機のようにゆっくりと首をふり、満遍なく高熱の死を撒き散らした。それは、信じられ無いほどの広範囲を舐め、魔犬は悲鳴を上げて逃げ惑う。その向こうでは、火の海から逃れようと、出口に殺到する犬達に、小夜が確実な斬撃を見舞い続けた。
一旦、息を切ると、雪は背中を向けたまま、少年に問い掛けた。
「ボンズ、名前は?」
「あ、蒼瀬です」
雪は、顎で部屋の隅を指した。
「そこの控え室の奥から、地上の匂いがする。美香達、頼んだえ」
「は、はい」
雪は、サンキューな、と呟くや、再び凶悪な火炎放射器と化した。
「嘘……」
美香の呆然とした呟きに、蒼瀬と名乗る少年が振り向く。女の子のような顔立ちだ。
「雪姉ちゃんが、他人に一点以上付けたり、お礼を言ったりするなんて……」
譫言のような美香の声で、蒼瀬は我に返ったようだった。美香の手を引っ張る。美香が短い悲鳴を上げるのも構わず、無理に立たせ、メイド達にも声を掛ける。
「行こう、立って。なんとか立って、僕も腰が抜けそうなんだ」
いかがでしたか?
アクション多めでギャグも多めです。
どうぞご贔屓に!