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2/16

2:悪寒

 夢を見ているな、とエレンは気づいた。


 場所には見覚えがあった。グリモノア学園、大講堂。春の入学式ではエレンが壇上に立って入学生全員に対し答辞を述べた。2学期末には舞踏会もここで開かれる。


 夢の中の大講堂には全校生徒が集っていた。隅には料理や飲み物が置かれている。中央では人々が生徒たちが音楽に合わせて踊っていた。


 意中の異性とダンスする権利を手に入れ、頬を染める者。2学期がもうすぐ終わる解放感に包まれている者。その胸中は様々だろうが、皆一様に幸福な顔をしていた。


 それを見ながらエレンは口元を緩める。


 幸せそうな人たちを見るとこちらも幸せになれる。料理も酒もいつもよりずっと美味に感じられた。勿論、傍らに愛しい婚約者がいることも理由のひとつだろう。


 婚約者は自分の肩にしなだれかかり、腕を絡ませていた。

 普段、少なくとも表面上は淡白な彼女には珍しい。アルコールと舞踏会の雰囲気で彼女の心も浮き立っているのだろうか。エレンは更に笑みを深くした。


 ああ、幸せだ。そうだろう?と自分に問いかける。


 王都グロリアには明日どころ今日の食料もままならない人々もいるのに、王族という何不自由ない高貴な身分に自分は産まれた。ちらりと周りを見れば、信頼できる友人たちがいて、自分を見て頷いた。人々はいつも自分を褒め称えてくれる。


 きっと、エレンはは皆に望まれながらやがて王になるのだろう。


 ………ああ、幸せだ。


 何故なら、傍らに愛しい婚約者がいるのだから。


 ティア。ティア。


………ティア・スノーライトはエレンを見ていた。


 傍らでなく、自分の正面数メートルの場所に立って、何も言わず自分を見ていた。


 だったら。

 だったら。


 エレンの横にいるのは一体誰だ? 

 腕に絡み付き、エレンの掌に自身の指を這わせているのは一体誰だ?


「ティア・スノーライト!! 俺はお前との婚約を破棄する! 理由は勿論分かっていよう!? マリア・ストレンジ男爵令嬢に対する口にするのも汚らわしい苛めの数々! その犯人はお前だ!」


 誰かが叫んだ。低く、だがよく通る澄んだ美声。なぜだがひどく聞き覚えがあった。


 喧騒と音楽がぴたりと止まる。人々は何事かと自分に注目する。


「お前のような性根の歪んだ女が俺の妃になっていた可能性を思うと怖気が奔る! その本性を俺は長らく見抜くことができなかったが、マリアがそれに気づかせてくれた。そして真実の愛を俺はようやく知ることができたのだ!」


 それはエレンの声だった。


 ティアは何も言わなかった。

 ただ紫色の瞳が悲し気に揺れるのをエレンは確かに見た。

 


「………寒い」


目を覚ますと学園の自室のベッドの上だった。


「……寒い」


 また呟くと黒ひげを見事に整えた中年の男が自分を覗き込んできた。


「おお、殿下!!」


 ルードヴィヒだった。


「またお前か」

「はは、目覚めがむさ苦しいおじさんで申し訳ありません」


 ルードヴィヒが苦笑する。公爵は見た目は如何にも冗談一つ通じない堅物だが、意外にも茶目っ気がある。


「ふっ。まったくだ。……夜通し俺を看病していたのか?」


「はっ」


「すまなかったな。俺は気を失っていたのだろう? 王族として情けないことこの上ない」


「いえ、恐らく『魅了の魔法』が解けたことの影響でしょう。それに1年半も自由意思を奪われ、ティア嬢の行方も不明なのです。気を失うくらい、人として当たり前の反応だと存じます」


「そうか」


 言いながらエレンは布団から身を起こす。寒気で身体を震わせた。


「冬ですからな。ブレイバード王国は北国ですし。暖炉に薪を足しましょうか」

「いや、風呂に入りたい。寝汗もかいた。それに少しもの思いに耽りたいんだ」

「……かしこまりました」


 貴族の中には湯あみに従者を伴う者もいるが、エレンはいつも一人で風呂に入っていた。


 蛇口をひねり熱い湯を出す。湯船に十分に湯が張るのも待たず服を脱いで、湯船に足を入れる。まだ腹のあたりまでしか湯は溜まっていなかった。


「寒い」


 脳裏には先ほど見た夢の光景がこびりついていた。

 きっとあれは己が『魅了の魔法』にかかっていた時の記憶だ。


 ルードヴィヒは、魅了にかかっていた間の記憶はなくなる、と言っていたがそもそもが王立図書館にも資料も禄に残っていないだろう邪法の魔法だ。彼も『魅了の魔法』について完璧に理解している訳がない。


(……これからも夢の形を借りて、かつての自分の所業を見せつけられるのかもな)


 まるで拷問だ。

 胸を掻きむしるほどの自身の蛮行を見せつけながら、現実のエレンは何もできない。全ては終わった過去なのだ。


 思い出すのは、自分の口から出ていた自分じゃない自分の声。声に侮蔑と嘲りを滴らせながら、エレンはティアに婚約破棄を突けつけていた。


(……俺はティアになんてことを言ってしまったんだ)


「くそっ……」


 エレンは自分の額を軽く拳で叩いた。


「………」


 数秒そのまま自分の手を見つめたと思うと、ごしごしとお湯で激しく洗う。夢の中でマリアという女の指が触れていた部分だった。


 あの夢の時系列は去年のグリモノア舞踏会だろう。今から一年も前の話だ。


 それでもエレンは己の掌を過剰と言えるほどに擦り続ける。完璧には言語化できない生理的な不快感があった。あの女の臭いが、残滓が、夢から這い出て掌にこびりついているような気がしてならなかった。


(は……。ようやく感情が追い付いてきたな)

 

 ティアがいなくなったという喪失感。そして悪夢と言ってもいい記憶の残滓。それらを得て、ようやく気づく。


 自分は多くの大切なものを失ったのだと。

 それは1年半という時間であり。恐らく王族としての信用であり。己の婚約者だった。


「寒い」


 湯は湯船からあふれるほど溜まっていた。

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