1:記憶にない婚約破棄
――――記憶にはないが、どうやら俺は婚約破棄をしていたらしい。
◆
目を覚ますとエレンは椅子に座っていた。
魔光石の眩い光に目を細めながら、エレンは眼球を緩慢に動かして周囲の様子を探る。
どういう訳かひどく眠い。靄が掛かったように思考が散漫で、加えてひどい頭痛がする。まるで小人が内側から頭を叩いているようだ。
(ここは……学園の教室の何処かだろうか)
彼は10名ほどの男たちに囲まれていた。
学園の先生方に、学園の衛兵。なぜか公爵家当主であるルードヴィヒもいた。
顔を上げて唇を開く。
「……どうしたお前たち。俺は、眠っていたのか?」
途端、彼らは皆ビクリと身体を硬直させる。
皆エレンを怪物か何かのような目で見てくる。まるで凶悪な殺人犯を目の前にしたかような緊張感。
「おい。なんだ、その反応は?」
エレンだけがその緊張感の外にいた。そして、どういう訳かエレンこそがその張りつめた空気を生み出す原因らしい。
エレンは眉を顰め、怪訝な声を上げる。
「おい――ー」
ルードヴィヒが彼の名を呼んだ。
「……殿下。エレン殿下?」
エレン・ブレイバード。ブレイバード王国の第2王子。立太子式こそ済ませていないが、やがてこの国を背負って立つことになるだろうと期待されている少年。それがエレンだった。
「ああ。俺がエレンだよ。そして、お前たちの態度は少なくとも、王国の第2王子に対してとるべきものではないな」
「……殿下。どうかお答えください。あなたの婚約者のお名前は?」
「……ルードヴィヒ。何をふざけてる?」
「お答えください、殿下」
エレンはルードヴィヒの顔を見る。
(……なぜだが久しぶりにこいつの顔を見た気がするな)
後ろに流した黒髪。整えられた黒ひげ。目元には皺が刻まれている。記憶にある彼よりも少し老けたか。血は止まっているが頬に真新しい擦り傷がある。切れ長の黒曜石色の瞳は微かに血走り、瞬きなくエレンに注がれていた。
(少なくともルードヴィヒはこんな目をしながらふざける奴ではない)
「―――ティア。ティア・スノーライト。俺の幼馴染で伯爵家の娘だよ」
灰色のドレス。華奢な体。風にたなびく雪のように白い髪。
脳裏に浮かんだそんな婚約者の後姿は周囲のどよめきによってかき消された。
「なんだ? 俺は何かおかしなことを言ったか?」
「いえ。いいえ。殿下。殿下は何もおかしなことはいっておりません」
ルードヴィヒは一度息を吐き、意を決した顔で、
「殿下。直前に覚えている記憶は何でございますか?」
エレンは、やはり怪訝に思いつつも、公爵の真剣な顔は彼に疑問を挟む余地を与えなかった。
エレンは彼の質問に答えようと、記憶を漁る。自分が眠る前。眠る前。眠る、前。
(―――――は?)
いくら集中してみても、結果は同じ。
何も、覚えていない。思い出せない。
(そもそも。俺はどうして舞踏会用の燕尾服を着ている?)
エレンはここで初めて自分の衣服に意識を向けた。学園の舞踏会は本来なら冬のはずだ。まだその季節ではない。
(いや、今は、春か? 夏? まて。まてまて。どいうことだ。なぜ俺は今日が何月何日なのかもわかっていない!?)
エレンは教室の隅に目を向ける。
暖炉は燃えていた。燕尾服と照らし合わせて考えれば、ならば今は冬なのだろう。
エレンは呆然と呟く。
「………分からない。記憶がひどく曖昧なんだ。……いや。グリモノア学園に入学したことまでは覚えている。入学式の日に壇上で主席として挨拶したな。本当のトップはティアで俺は次席だったというのを後日知って、腹が立ったのを覚えてる。だが……そこから、そこから先が……」
エレンは自分の掌を見つめる。
訓練で皮膚の固くなっている武人の掌だ。
それが霞のように不安定なものに見えた。
「やはり…」
とルードヴィヒが小さく呟くのをエレンは聞いた。
「ルードヴィヒ。『コレ』はどういうことだ。……お前は『コレ』の答えを知ってるんだろう? 言え」
「は」
公爵の顔が一瞬歪む。
何かを躊躇する顔。私利私欲のために言い淀んでいるわけではないだろう。彼の王家に対する忠誠心は国随一と言われている。公爵は恐らくエレンのことを思って言い淀んでいる。
だが、迷いも一瞬のこと。ルードヴィヒは口を開いた。ルードヴィヒのそういう思い切りの良さをエレンは好んでいた。
「……分かりました。殿下、落ち着いて聞いてくださいませ。殿下は『魅了の魔法』の影響下にありました。魅了にかけられた者は、術者を狂的に愛すようになり、その言いなりになってしまいます。まるで奴隷の如く。また、魅了がかかっている間の出来事は夢を見ているようなもので、殆ど記憶には残りません。殿下の記憶が定かでないのは、これが原因でしょう」
「……にわかには信じがたいが、俺自身こそがその『魅了の魔法』を信じるに足る証なのだろうな。お前が教師と結託してこんな悪ふざけをするとはとても思えないし」
まさか春から冬にかけて半年間、自分の身体が自分の意思とは無関係に他人に操られていただなんて。
正直、現実感はあまりない。
『魅了の魔法』にかかっている間の記憶がごっそり抜け落ちているのもあって、どこか他人ごとのような感覚だ。
「……ふむ、『魅了の魔法』か。初めて聞く魔法の名だ。もしかすると、5大属性以外の魔法か?」
「はい。失われた筈の禁断の魔法ですが、どうやら限られた家系で細々と受け継がれていたようです。……犯人の名前はマリア・ストレンジ。……グリモノア学園に在籍する殿下と同学年の女生徒です」
「マリア。マリア。……ああ、思い出したぞ。入学式の日に親し気に話しからけれた。確か男爵家の娘、だったな」
「マリアは殿下および殿下の周囲の男子学生を魅了し、意のままに操りました。そして……殿下はマリアに操られティアラ様と婚約を破棄されました」
「は?」
エレンは思わず呆けた声を出した。
或いは己の記憶が欠落していることを知った時よりも。或いは己が『魅了の魔法』の影響下にあったと知った時よりも。そのショックは大きいものだった。
「ルードヴィヒ。今なんと? お前はなんと言った…?」
「……はっ。殿下はティア様と婚約破棄されました。理由はマリアに対してティア様が虐めを加えたことだとされていますが、当然そんな事実はございません。マリアの狂言でございます」
「……実際に婚約は破棄されたのか?」
「はい」
眩暈がする。エレンはくしゃりと前髪をつかんだ。
父上はなぜそれを止めなかったのだ、と言いかけたが、それをエレンは喉で押しとどめた。あの人がエレンに対して何もしてくれないのは、今に始まったことではない。
「殿下の様子が明らかにおかしいと気づいた我々はマリアに殿下が操られてるのではないかと考えました。そして、今日ようやく『魅了の魔法』を解除し、マリアを捕えることに成功したのです。申し訳ありません。お救いするまで時間がかかってしまい」
「……いや、何せ相手は『魅了の魔法』などという現存する魔法の枠をはみ出た邪法を使ってきたのだ。仕方ないだろう」
「はっ。もったいなきお言葉」
「……なあ。ティアは今どこにいる? きっとアイツは困惑し、傷ついているだろう。いくらアイツが気丈な女と言えどもな。俺の顔なんて見たくないかもしれないが……謝りたいんだ」
そもそも自分に婚約破棄する気なんてない。
魅了されていた自分が、ティアにどんな言葉を放ったか知らないが、そこに自身の本心なんて欠片もない。それをティアに伝えたい。
そんなことを考えているエレンにルードヴィヒが告げた。
余りにも無残な真実を。
「殿下……よくお聞きください。今年は神歴645年です」
呼吸が、止まった。
一瞬、目の前の男が何を言っているか分からなかった。
「殿下が婚約破棄をなされたのは644年の冬。『グリモノア舞踏会』の日です。今日も丁度『グリモノア舞踏会』の日ですから、今から1年も前のことでございます」
ならば、自分は一年半もの間『魅了の魔法』の支配下にあったというか!?
エレンは愕然とする。震える唇で呟く。
「それじゃあ、ティアは……今っ!?」
「……ティア様は1年前、殿下に婚約を破棄されたことを理由に伯爵家当主の怒りを買い、伯爵家を追放されました。以後は行方知れずとなっております」
途端に世界が揺れた。
己の身体が椅子から転げ落ちたのだと、エレンは微かに遅れて気づく。教師たち、そしてルードヴィヒが自分に対して何か必死に叫んでいるのを、エレンは他人心地で見ていた。彼らはまるで別世界の言語を喋ってるようだった。
視界が黒く染まり、音もやがて聞こえなくなり、エレンの意識は遠のいていく。
意識が完全に闇に落ちる直前。
――――エレンは見た。
灰色のドレス。華奢な肢体。雪のような髪。そして宝石のような紫の瞳が髪の隙間から覗き、自分を見下ろしていた。
己の愛しい婚約者、ティアが立って、自分を見下ろしていた。
(――――妄想だ)
エレンはすぐに理解した。自分の弱い心が生み出した都合のいい幻覚。
なのに。
自分の願望から生み出された筈なのに。
ティアはエレンに微笑んでくれなかった。
ただ、エレンを見つめていた。
口元をぴくりとも動かさず、だけど無機質な瞳に確かな憎悪を滾らせながら。
続きが読みたい!と少しでも思っていただけたなら、ブクマ・ポイントを宜しくお願いします。すごーく励みになります!!感想・批評・アドバイスはお気軽にどうぞー。