犬
どこかで犬の鳴き声がした気がして、俺はふと窓の外を見た。
外は住宅街だ。夜が更けて人っ子一人いない街並みを、月が煌々と照らしていた。俺はカーテンを閉じた。
犬の鳴き声なんて、冗談じゃない。明日は涼子との結納があるというのに。
◇
涼子は俺の会社の重役の娘だ。見るからに清楚な箱入り娘といった感じの女で、なかなかの美人だった。ガードの固いところのある彼女と付き合えるようになるまで、俺がどんなに苦労したか。数いるライバルを蹴落として俺が一歩リード出来たのは、あらゆる手を使って辛抱強くアタックを繰り返したからに他ならない。
彼女と婚約出来たきっかけは、犬だった。涼子が子供の頃から飼っていた、一匹の白い犬。
そいつは実に愛想のない犬だった。俺はもともと犬が苦手だったのだが、犬の方もそれが判るのか、俺と顔を合わせる度にけたたましく吠え立てて来た。あの犬と俺は、ついに打ち解けあうことはなかった。……最後の最後まで。
ある日、涼子の家の前に一つの段ボール箱が置かれていた。中には無残な犬の死体が入っていた。犬は昨日から姿を消していて、彼女や家の者が必死で探しているさなかだった。玄関に犬の死体があることを、最初に涼子たちに知らせたのは俺だった。犬が消えたことで、涼子から相談を受けていた俺は、駆けつけた彼女の家の玄関先でそれを見たのだ。
かわいがっていた犬の死体を見た彼女は、非常に悲しんだ。こんなことをした誰かの悪意を恐れた。俺はそんな彼女をそっと包み込み、言葉を尽くしてなだめた。
心が弱った涼子の眼には、俺は頼れる男に映ったようだ。
かくして、俺と涼子は婚約に至った。
◇
「……では、次のニュースです」
つけっぱなしにしていたテレビから、アナウンサーがしゃべる。
「○○町のアパートの一室で、住人の男性が変死しているのが見つかりました。男性は会社員の田辺……さんで、……」
思いがけず知っている名前が出て、俺は驚いてテレビを振り返った。
田辺が……死んだ? あの男が?
田辺は俺と同期の男だったが、とにかく地味な奴だった。無口で暗くて、何を考えているか判らない。奴の同僚たちも、田辺に関してはどこかよそよそしい態度を取っていた。話しかけても「ああ」とか何とか、不明瞭な返事しか戻って来ないことがほとんどだからだ。
仕事は出来ないわけではないので首にはならずにいるが、田辺と親しい者など皆無と言ってよかった。
その田辺が死んだという。
「……警察は、他殺の線もあると見て捜査しています。……」
アナウンサーはまだしゃべっている。
◇
涼子と一緒にいる時、しばしば視線を感じた。それは社内で仕事の話をしている時だったり、会社の外で他の同僚と共に飲んでいる時だったりしたが、涼子がいる時だということは共通していた。そちらに目を向けると、視線の主はさっと物陰に隠れた。
俺は注意深くそいつを追った。そいつの目当てが涼子だということははっきりしていた。涼子が同僚と話している時、そっと周りをうかがう。見ている影があった。俺はそいつにそっと近づき、誰もいない会議室に引っ張り込んだ。
「……田辺か」
ある程度予想していたことだが、そいつの正体は田辺だった。奴はふてくされたように横を向いた。
「涼子を見ていたな。彼女に興味があるのか?」
「……おまえには関係ない」
「彼女やみんなにばらされてもいいのか? おまえが物陰から涼子をじっとりとした眼で見ていた、ってな」
「……勝手にしろ」
田辺は陰気に答えた。
「例え首になっても、俺は涼子をあきらめない。涼子は俺のものなんだ」
「なんだと?」
「おまえに邪魔はさせないからな。おまえなんか……おまえなんかに……」
田辺はぶつぶつと言葉を続けていた。自分の世界に半ば入り込んでいるようだった。俺はにやりと笑って、言葉を投げつけた。
「……おまえ、涼子を抱きたいのか?」
「な……っ」
図星を突かれた、と相手の表情が語っていた。
「あの清純なお嬢様を、めちゃくちゃにしてやりたいんだろ? 自分の下に組み敷いて、支配してやりたいんだろ?」
「ばっ……馬鹿なことを言うな……そんな……こと……」
「手を貸してやろうか?」
田辺は一瞬何を言われたか判らないといった表情で俺を見返した。俺はそこにあった灰皿を引き寄せ、煙草に火をつけた。紫煙を吐き出す。
「……おまえ……なんでおまえが、そんなこと言うんだよ……」
「俺は涼子自身には興味がないんでね」
「おまえ、涼子と付き合ってるんじゃないのか」
「ああ、結婚はしたいね。彼女と結婚出来れば、社内での地位は確立されるし、彼女の実家の財産も手に入る。それだけさ。俺は、女としてはもっと色気のある方が好みだ」
「おまえ……っ!」
俺の言葉に、田辺は明らかに怒気を含んだ声を上げた。そんな田辺に、俺はすっと煙草を持った指を向けた。
「だからさ、涼子の地位と金が欲しい俺と、涼子自身が欲しいおまえ。利害は一致してるじゃないか。俺が彼女と結婚出来れば、おまえは彼女を自由にしていいぜ。悪い話じゃないだろ?」
田辺の眼には迷いが見えた。遠からずこいつが俺の話に乗って来ることを、俺は確信していた。
◇
言葉は人間の武器だ。いや、俺の武器だ。
その武器を最大限に使って、俺は今までやって来たのだ。だからこそ、俺は言葉の通じないものが嫌いだった。言葉にごまかされず、俺の本性を見透かしているような涼子の犬は、まさしく俺の天敵だった。
だから、殺した。田辺を使って。
俺の敵を、奴にとっても敵だと思い込ませた。一度俺の言葉の網に絡め取られた田辺は、忠実に俺の指令を実行した。おかげで俺は涼子を落とせたのだ。
田辺はそのうち切るつもりでいた。涼子に対するストーカー行為の犯人として。実際犬を殺したのは奴なのだ。会社にも涼子のそばにもいられないようにすることは簡単だろう。
それがいち早く死んでくれたことは、ある意味僥倖なんじゃないのか?
テレビの中で、アナウンサーが無機質な声でニュースを繰り返した。
「○○町のアパートの一室で、住人の男性が変死しているのが見つかりました。男性は会社員の田辺……さんで、遺体には動物の噛み跡のようなものが無数についており、警察は他殺の線もあると見て捜査しています」
……噛み跡、だと? 動物の?
何か不吉な予感がした。
犬の吠える声が聞こえる。さっきよりも近い。
俺はもう一度窓を見た。カーテンに遮られ、外は見えない。
そして、また。
明らかに、犬の声。
窓のすぐ外からだ。
そんな馬鹿な。
ここはマンションの5階だというのに。
どん、と窓に衝撃が走った。突き破ろうかというように。
カーテンが揺れる。犬が吠えている。
窓の外にいるものの正体を、俺は確かめることが出来ずにいる。