第2章 ― 3
昨日のことが夢ではなかったのだと、目を覚ましてすぐに目にした見知らぬ天井で思い知らされた。
昨晩はお風呂に入った後、すぐに寝てしまったので司とは話していない。今朝、朝食後にでも事情を説明しようと思う。
「分かってくれるかな?」
自分でもまだ頭の中の整理ができていないというのに、人に伝えられるか不安だ。
神の舞手として身を清める為に、拝殿の空き部屋で一晩過ごすことになった夏希は、不思議な鈴の音に誘われて参拝の間の奥へ足を踏み入れた。
そこには赤い布切れの付いた古ぼけた鈴が赤い杯の上に飾られていた。夏希は誘われるがまま鈴へ手を伸ばしーーー気が付けば絵馬掛けの前に座っていた。
ここまでの経緯を考えれば考えるほど、理解できない。
「けど、話すしかないよね」
夏希は自分が物事を深く考えられるほど、思慮深い性格ではないと知っているので考えるのを止めた。成り行きに任せるしかない。
「それよりも今はこっちの問題だよね」
昨晩、葉子に案内された部屋の押入には古い着物が何着か置いてあった。泥だらけの袴は今日洗濯する予定なので、夏希はこの部屋にある服を借りようと思ったのだが、ものの見事に洋服がない。
「えっとぉ、要は浴衣と同じ感じで良いんだよね?」
左を上に着物を交差してみるが、その後どうすればいいのか分からない。足下に広がる裾は切るべきなのか、それとも縫って調節するものなのか。
詰んだ。
夏希が己の無知に嘆いていると、 “床”がトントントンと打ち鳴らされた。
「失礼します。おはようございます、夏希ちゃん。昨日はよく眠れましたか?」
入ってきたのは、若草色の着物を着た葉子だ。昨日の可愛らしい面影が形を潜め、今は大人の女性らしいおしとやかな雰囲気を醸し出している。
「おはようございます、葉子さん。あの、大変言いにくいんですが・・・」
夏希は着物を着たことがないと正直に話すと、葉子は目を丸くさせ驚いたが、すぐに柔和な笑みを浮かべ、テキパキと着せ替えていく。
「できましたよ」
「ありがとうございます」
葉子の腕前はとてもスゴい。五分も掛からず着物姿になったことに驚いた。
(お祭りの袴衣装は三十分掛かったら、それくらいかと思っていたけど違うんだね)
帯もそこまで強く結ばれていないので、苦しくないし、何よりも動きやすかった。
布団と寝間着を畳み、押入にしまうと、葉子は襖の前に立った。
「さあ、朝餉を食べましょう」
(あさげ?)
聞いたことがない言葉だが、“朝”が付くので恐らくは朝食のことだろう。
古い言い回しなのかもしれない。
葉子が先導して辿り着いた先はやや大きめの部屋に木製の長テーブルが2つ。椅子ではなく座布団に座るらしい。
長テーブルには既に朝食が並べられていた。お吸い物に、卵焼き、小魚の佃煮に、春野菜の漬け物。ご飯はまだ用意されていないが、おかずだけで朝食は和食なのだと分かった。
「夏希ちゃんは座っててください。今、司さんと洸さんを連れてきます」
葉子は早足で部屋を出ていった。朝食は家族全員で取るなんて珍しいなぁと思いながら、ずっと立っているのも疲れるので夏希は葉子のお言葉に甘えることにした。入り口に一番近い場所に腰を下ろし、三人を待つ。
すると、すぐにパタパタと足音が聞こえてきた。
「あ」
「あ」
入ってきたのは洸だ。彼は夏希と目が合うと、胡乱な視線を投げてから目を反らした。心の底から関わりたくないのだと分かり、夏希も視線を反らした。
洸は何も言わず、夏希の横に腰を下ろす。
(こんなに席があるのに隣なんて・・・)
気まずくならないのだろうか。
チラリと視線をよこしても、洸はこちらを見ようとしない。しばらくすると、司と葉子が入ってきた。
「・・・洸、お客様をそんな所に座らせるんじゃない。場所を交替しなさい」
「はい」
司の淡泊な物言いに、洸は従順に従う。昨晩の司の様子と打って変わっての様子に唖然とする夏希の背中を洸は軽く蹴っ飛ばす。
「そっちに行って」
一瞬、ムカッとしたが、司に場所を交替しなさいと言われたのだ。交替するしかない。
洸に言われたからではなく、恩人の司の言葉に従っただけだと、夏希は口の中で文句を連ねる。
洸の蹴りは司からは見えなかったようで、司は何事もなく腰を下ろし、葉子は木の板を重ねて造られたお櫃からご飯をよそい、四人の右手前に置いた。
葉子が座布団に座ると、司は僅かに頷き箸に手を伸ばした。洸もそれに続く。
食べても良いのだと理解し、夏希は両手を合わせて軽く頭を下げた。
「いただきます」
箸に手を伸ばした。
「おまえ、それ何?」
「え? “いただきます”だよ」
洸が当たり前のことを聞いてくるので少し驚いていると、向かいに座っている司も瞬きを繰り返していた。
「聞いたことないな。何か意味があるのかな?」
「意味って・・・。普通に“ご飯をいただきます”って事で、確か“全ての生き物から命を頂戴します”って意味だよ」
小学校低学年の時、確かそんな風に習った覚えがある。
司と洸と葉子は「へぇ」と感嘆詞を述べていたので、寧ろこっちが異質なことをやっている気がした。
「“いただきます”って言っちゃダメなの?」
「いや、おまえにもそんな殊勝な心掛けがあるなんてな」
「ムカッ。馬鹿にしてるでしょ?」
「別に。ただ、良いなって思っただけ」
洸はお吸い物を飲み、会話を切った。言い足りない部分もあるが、今は朝食だ。食事は楽しく食べるもの。
夏希は朝食を美味しく頂き、最後に貰ったほうじ茶で一息吐いた。
幸せだ。
茶碗を片付ける葉子と、葉子の手伝いをする為、洸は離席した。この場には夏希と司しかいない。
「さて、昨日はよく眠れたかな?」
「はい。お風呂と寝床と美味しい朝食、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げると、司は昨晩見せた朗らかな笑みを浮かべた。
「そう、それは良かった。・・・昨日の話しの続きになるんだけど、いいかな?」
切り出され、緊張するものの話したくない訳ではない。寧ろ、聞いて欲しい。
自分の身に起こった不可解な出来事をーーー。