第1章 ―2
休憩を切り上げ、階段を登りきった先に待っていたのは赤い鳥居だ。
夏希は弾む気持ちを抑えながら鳥居を潜り、ある人を捜した。
境内に人の気は少なく、その人はすぐに見つかった。
「夏希ちゃん?」
「洸一さん!」
絵馬掛けの前で掃き掃除をしていた青年が箒を持って近付いてきた。
年は二十代前後で、長い綺麗な髪を首後ろで一つに結び、憂いのある瞳の前に眼鏡を掛け、白い着物に浅黄色の袴を身に付けている。
垢抜けない地味な見た目だが、洗練された美しさが彼の中から溢れ出ているので、人の目に止まりやすい容貌をしていた。もし都内の大学にいたら、十中八区、お姉さま方の魔の手に落ちていたかもしれない。
夏希がそんな事を考えているとは露とも知らず、彼はフッと笑みを零し、周りに華を咲かせた。
「こんにちは、夏希ちゃん。お久しぶりです」
「こんにちは、お久しぶりです」
「前に会った時は十歳くらいの時でしたね」
「はい。ですが、不肖夏希。あの頃とは違い、大人の女性になって帰ってきましたよ!」
「そうですね、あの頃よりもずっと綺麗になりました」
サラリと褒め言葉を述べる洸一はやっぱりモテるのはないか。普段は「ガキ臭い」「男女」とクラスの男子に野次られて終わるが、洸一は違う。夏希の子供の様な強がりを、穏やかな笑みで肯定してくれる。胸の奥からコンコンと湧き出る想いに、頭が沸騰してしまいそうだ。
夏希は前髪を掻き分けながら俯く。
「ここで立ち話をするのも失礼なので、こちらにどうぞ。何か甘い物と冷たい麦茶を馳走しますよ」
洸一は手招きをしながら、社務所の横にある休憩所に入り、夏希もその後に続く。中は学校の多目的室に似た空間で五十人以上は陳列して座れそうな広さがあり、長テーブルが2つほど横に並べられ、一定間隔に座布団が敷かれている。右隅の壁際には座布団の山や長テーブルの予備が立て掛けられていた。
村の高齢化に合わせて建てられたので、まだ十年も経っていないらしいが、前に夏希が遊びに来た時にはすでに建てられていたものなので、新しいイメージはない。
祭りや行事事の前後になると、業者やアルバイトの人たちの休憩所として使われるのだが、今は洸一と夏希以外誰もいない。
「楽に座っていて下さい。すぐに戻りますから」
洸一は休憩所の奥にある簡易台所の方へ行ってしまい、夏希は出入り口付近にある凹凸でサンダルを脱ぎ、長テーブルの隅の座布団に腰を掛けて大人しく待つことにした。
休憩所周辺は木々の影になっているせいか、自棄に蝉の声が五月蠅く聞こえ、その分、風通りが良い為、扇風機が無くとも汗が自然と止まりそうだ。
穏やかな空間に、ほどよい温度。ウトウトと、頭が船を漕ぎ始め、瞼が落ちそうになる。
『…………』
どこからか、声が聞こえる。
「だ、れ?」
目を開くと、一気に頭が覚醒した。
「あ、すみません。起こしてしまいましたか?」
はにかむ風に笑いながら、洸一は身を引いた。
「あ……、ご、ごめんなさい! つい、寝ちゃって」
人前で眠ってしまった恥ずかしさもあるが、待っていてと言われたのに眠ってしまうなど、お茶を用意している人に失礼だ。
言葉を繋ごうと、「あうあう」と、目線を彷徨わせながら頭をフル回転させる夏希を横目に置き、洸一は静かにお茶菓子と麦茶の乗ったお盆を夏希の前に出した。
「笹原さんのお宅の和菓子は絶品なんですよ。私なんて、つい三日置きに買いに行ってしまいます」
夏希はハッと、視線をお茶菓子に転じた。笹の葉でくるまれた手の平よりも少し小さいサイズの草餅。夏希はそれに手を伸ばし、葉の先を摘み、少し捲ってから口にした。
「あ、苦くない」
草餅独特の草の苦みがなく、逆に中の餡子の甘さが口一杯に広がる。餡の方も、甘過ぎる事もなく、さっぱりとしているが物足りなさもない。
まさに絶妙な味だ。
「これなら、通いに行くのも分かる気がします!」
次に大きく口を開いて草餅を頬張った。
「でしょう?」
洸一はそう言って、自分の分の草餅を取りだし食べ始める。食べている間は、お互い無言になるが、不思議と嫌な気分にはならない。もし、対面しているのが母ならば、どんなに草餅が美味しくても味のないガムを食べている気分になっていただろう。
前々から思っていたが、洸司には独特な雰囲気がある。上手く言葉に出来ないのが悔しいが、側にいるだけで心が温かくなる様な不思議な気持ちだ。
夏希は最後の一口を、よく味わいながら反芻し、飲み込んだ。
「そう言えば、夏希さんはいつまでこちらにいらっしゃるのですか?」
「えっと、確か祭りが終わった次の次の日だったかな。お祭り明けにすぐに帰るのは、お父さんの体力的に無理だから1日開けるのんです。お母さんはすぐにでも帰りたいみたいなんですけどね」
「夏希さんのことが心配なのでしょうね」
「私と言うより、勉強が疎かになるのが嫌なだけです。毎日、勉強しろ、勉強しろって言われててうんざりなんですよ」
「夏希さんは確か受験生ですよね?」
「ぅ・・・・、はい、そうですけど」
あんまり思い出させないで欲しかったと内心、反論する。
「では、やはり夏希さんのお母さんは夏希さんのことを心配しているのですよ。受験に失敗して辛い思いをしてほしくないという親心から、普段、強く言ってしまうだけだと思います」
何度も父から聞かされた言葉なのに、洸一の口から聞くとすんなりと受け入れられる気がした。母が本当に夏希のことを思っているのかはさておきとして、母の想いを代弁する洸一から、夏希を心配する気持ちが伝わってきた。
(洸一さんはスゴいなぁ・・・)
優しくて、穏やかで、見目麗しく、声に暖かみがある。側にいても苦ではない人。
小さい頃、夏希は高原神社で近所の子供に虐められていたことがあった。難癖を付けられ、殴られはしなかったが酷く揺さぶられ、怖い思いをした。そんな時、颯爽と現れいじめっ子を退散させてくれたのが洸一だ。
それ以来、夏希は洸一を心の底から慕っている。これが恋慕なのか思慕なのかはまだ分からない。今はただ、洸一の側で一緒に茶を啜っていられればいい。それしか願っていない。
その日、夏希は夕暮れ時まで洸一のお手伝いをして過ごした。途中、何度も「帰らなくても良いの?」と聞かれたが、夏希は「大丈夫!」と言い張って居座った。
少しでも洸一の手伝いをして、側にいたいと思ったからだ。境内の掃き掃除から、売り子番に、また掃き掃除。時間はあっという間に過ぎていった。
「それじゃあ、また来ますね」
「時間がある時だけで充分なので無理はなさらずに。・・・今日はとても助かりました。ありがとう、夏希ちゃん」
その一言で、夏希の1日は報われた気分だ。鳥居を過ぎて石段を下った所で、夏希は朝会った男の子に再び出逢う。
「あ・・・」
「・・・・」
男の子は小さく会釈して、そそくさと石段を駆け上がっていった。
「洸一さんの知り合いかな?」
それとも信心深い参拝者か。朝夕、学校に行く前と後に神社へ参拝していくなんて、今時の男の子にしては珍しい類だ。
(まぁ、うちのクラスにも電車マニアで平日休日問わず、お気に入りの電車を見る人もいるし、男子ってそう言うものなのかもね)
そう結論付けて、夏希は帰路を走った。
走っている間に日が沈み、夏希が祖父母の家に辿り着いた時、母親が目尻を吊り上げて家の前に立っていた。
「夏希っ! どこに行っていたの!」
第一声に罵倒が来ると、正直に話したくなくなる。
夏希は仏頂面になり、母から視線を反らした。
「別にどこだっていいじゃん」
「いいわけないでしょ! 参考書もやらないでフラフラフラフラと、少しは受験生の自覚あるの?」
「―――っ、あるから、夏休み全日返上して勉強してたんじゃん! お母さんこそ、少しは私の気持ちを考えたらどうなの!」
「子供が生意気、言ってるんじゃないわよ! 親はね、子供のことしか考えてないから厳しく言うし、強く言うの! あんたこそ、少しは大人の気持ちを考えて行動するようになさい! いっつもいっつも、喧嘩を売るような言葉遣いで、いつか痛い目に遭うわよ」
「遭わないよ! 私の主張は正しいもん! それとも、私はいつでもどこでも相手の顔色を伺って、自分を殺してヘコヘコしてなくちゃいけないわけ? 私の感情全無視して? それって生きてるって言うの? 私はお母さんの操り人形なんかじゃないっっ!」
「夏希っっ!」
母の右手が振り上げられるのを見て、私は目を閉じた。――瞬間、左頬に衝撃が走り、目の前に火花が飛んだ。
ジンジンと痛む左頬に手を当て、涙目で母を睨上げる。癇癪持ちで、暴力的で、人の話を一切無視する人に、どう敬意を払えばいいのだろうか。
(どうせ、私は馬鹿で、反抗的で、可愛くないよ)
睨み合いが続く中、玄関が開かれる音がした。
「香穂子さん、そんなところで立ち話しをしていても何もなりません。家に入りなさい」
「お義父さん」
「夏希ちゃん、ここは都会とは違ってね。街灯がない分、日が暮れる前に家に帰らなくちゃいけないの。暗いあぜ道や林道は、とても危ないから日が暮れた頃に帰るんじゃあ遅いんだよ?」
「・・・ごめん、なさい」
まだ心に燻りが残っているが、祖父の手前、これ以上、母に当たることはできない。それに祖父はとても心配している。夏希のことを大切に思ってくれている。母とは違って、こういうのが優しさではないのか。
祖父に促されるまま、家に入り、夕飯を食べ、風呂に入り、書斎に戻ると、夏希が居ない間に掃除をしてくれたのだろう。埃っぽかった書斎が綺麗になっているし、布団が敷かれている。どうやら、ここにいる間、書斎が夏希の寝起きする場所になったらしい。
「どうせ、お母さんの仕業でしょ」
地味な嫌がらせをちょいちょいとしてくるなんて、本当にタチの悪い性格だ。
夏希は電気を消して、早々に布団に潜り込んだ。参考書なんか開かない。勉強は都会に戻ってからすればいい。
今日一日の疲れがドッと出たのか、夏希はすぐに夢の世界へと意識を飛ばした。