ケトル姫とケウエル王子
昔々あるところにケトル姫という女の子がいました。可愛いと評判のお姫様で誰からも慕われていましたが、ただ一人、隣国のケウエル王子だけはケトル姫を嫌っていたのです。
ケウエル王子は優しい男の子だと城下町でも評判で、執事やメイドはどうして嫌っているんだろうと不思議に思っていました。
ケウエル王子は知っていたのです。ケトル姫の本性を。なぜなら彼はその特異な能力ゆえに、彼女に目をつけられてしまったのですから。
「ケウエル王子。また遊びに来てあげたわ」
金髪の髪をなびかせ、ケトル姫は窓を開けて部屋の中に入りました。いくら一階とはいえ、お姫様が窓から入るのは問題があります。ケウエル王子ははぁ、とため息をつきました。
彼女は意地の悪い笑みを浮かべ、黒のドレスを脱ぎ始めたではありませんか。さしもの彼も頬を赤らめ、ドギマギしながらじっと見つめています。優しい彼もただの男。嫌いな女の子であっても、男の本能には逆らえません。
「あらあら、そんなに私の着替えが気になるのかしら?」
ケウエル王子は慌てて後ろを振り向きました。本当はずっと見ていたかったのですが、弱みを握られるわけにはいきません。王子ともあろうものが、お姫様の着替えを覗くなんて言語道断、誰にも知られるわけにはいかないのです。
「君が勝手に脱ぎ始めたんじゃないか」
口ではそう言いつつも、内心ではラッキーと思っていました。
「知っているでしょ? ドレスが嫌いなことくらい」
ケトル姫は堅苦しい格好が好きではありません。毎日毎日、お姫様らしい格好と気品漂う振る舞いを求められ、窮屈で仕方がないのです。
彼女にとってケウエル王子は、唯一本当の自分を見せられる相手。彼の前でだけは好きな格好ができたのです。
「今日はね、面白いものを持ってきたのよ。さぁ、ケウエル王子、振り向きなさい」
今日はどんな格好なのやら、期待半分、恐れ半分で振り向きます。彼はブバッと鼻血を出し倒れてしまいました。彼女は何も身に着けていなかったのです。
「なんで服を着てないの?!」
ケウエル王子は仰向けのまま叫びました。目はしっかりと彼女のほうを向いています。その視線に気づいているのか気づいていないのか、ケトル姫は隠そうともしません。
「ケウエル王子ったら、顔だけじゃなくて頭も悪いのね。改めて見損なったわ。私はちゃんと服を着てるのに」
罵詈雑言の嵐。彼女の一つ目の本性です。普段、城内では良い子ぶっている分、その反動で口をついて出るのは毒ばかり。
彼はちょっぴり涙を流しました。古来より、王子はイケメンと相場が決まっています。例に漏れず、ケウエル王子は優しくてイケメンと評判で、城内や街中を歩けば女子の群れがわっと押し寄せるほどです。そう、彼はルックスに多大なる自信を持っていました。
「あら、涙を流すなんて王子ともあろうものが無様極まりないわね。いつまで倒れてるつもり、せっかく遊びに来てあげたんだから、お茶くらい出しなさいよ」
彼はしくしく泣きながら立ち上がり、二人分の紅茶を淹れました。
「おいしい。あなたって紅茶を淹れるのだけは上手なのよね」
「それよりも服を着てるってどういうことなの?」
彼はずっと彼女の言葉が引っかかっていました。何回見ても服を着ているようには見えません。そう、すでに何十回、何百回と彼女の姿を視界に入れています。
「触って」
ケウエル王子はドキッとしました。恐る恐る手を伸ばします。指先に触れる感触に彼はクラリと来るも、何かがおかしいことに気づきました。
「これって、まさかシルク?」
「ケウエル王子にしては上出来ね」
ケトル姫はちゃんと服を着ていました。彼女の肌色に合わせた服を、紙よりも薄い厚さでできた服を、何も着ていないように見える服を、素肌に身にまとっていたのです。
「もしかしてがっかりした?」
彼女は妖艶に微笑みました。彼は首を振って否定します。内心がっかりしていましたが、おくびには出しません。
「がっかりなんてしてないけど、目に毒だから普通の服を着て」
「つまんない男ね」
ケトル姫は唇を尖らせながら、脱ぎ捨てた黒のドレスを拾いました。彼女は頭からドレスをすっぽりと被り、ふらふらと彼のほうへ歩いていきます。ぽんと亀のように頭を出し、彼女はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべました。
「さっき言ったおもしろいものだけど、実はこの黒いドレスを見せに来たのよ」
ケウエル王子の目の前でくるりと一回転。ふわりと揺れるスカートに、彼の視線は釘付けです。
「やっぱりさっきの格好のほうが良かったかしら」
ケトル姫の言葉にはっとし、彼はふるふると首を振りました。欲望に駆られるのは彼の悪い癖です。
「素直じゃないのね。まぁ、いいわ。私のドレスをよく見なさい。ケウエル王子、きっと驚くわよ」
彼は首を傾げました。驚くも何も普通のドレスにしか見えません。何が面白いのかさっぱり分かりませんでした。
「触って確かめても良いのよ」
彼女が言葉を言い終わる前に、すでにケウエル王子の手は動いていました。大嫌いな相手でも女子であることに変わりはありません。彼にとっては愛でるべき女の子の一人なのです。
ドレスはざらりとしていました。彼が知っているドレスとは似ても似つかない材質です。どこか懐かしい気分になる手触りに、彼は戦慄しました。
糸よりも細い何か。黒い何かが絡み合って、ドレスを形作っています。その何かは――髪の毛でした。
ケトル姫は物心ついた頃から、人の髪の毛を毟り取りたいと思っていました。でも彼女は一国のお姫様、髪の毛を毟り取るという野蛮な行為が許されるはずもありません。聡い彼女は本心を隠し、衝動をずっと抑えていました。
そんなある日のこと、ケトル姫の髪がばっさり切られるという事件が起きました。彼女の美しさを妬んだ貴族のお嬢様の仕業です。自慢の髪を失った彼女は静かに涙を流しました。
事件を知ったケトル姫の両親は大激怒。噂は広まり、彼女を愛する民衆も動きだしました。その甲斐あって民衆は、貴族のお嬢様から権力を奪うことに成功したのです。没落貴族となった元お嬢様は国を追い出され、今では誰もその行方を知りません。
失意に沈むケトル姫を救うため動き始めたメイドと執事。彼ら二人は隣国の王子様が特異な能力を持っているという噂を耳にしました。特異な能力、それは【毛を植える】というもの。彼ならケトル姫を救えると思ったメイドと執事は手紙を送りました。
そうしてケトル姫とケウエル王子は出会ったのです。「何の用」と冷たく呟くケトル姫の頭に手を載せ、ケウエル王子は「ケウエルケウエルモウコンフヤソン」と呟きました。するとばっさり切られたことが嘘のように、彼女の自慢の髪が元に戻り始めたのです。
彼女は運命の相手に出会ったと思いました。髪を元に戻してくれたからではありません。【毛を植える】という能力に興味を持ったのです。
――彼の毛なら毟り取っても問題ない、だって元に戻せるんだもの。ひた隠しにしてきた願望を彼女は初めて打ち明けました。ケウエル王子は最初は酷く驚いたものの、女の子の頼みを断るわけにはいかないと引き受けます。
ついに髪の毛を毟り取れるようになったケトル姫。彼女は嬉々とした表情で恍惚とした表情で、ケウエル王子の髪を根こそぎ引き抜きました。この出来事がトラウマになって、彼はケトル姫が嫌いになったのです。
逆にケトル姫はケウエル王子にぞっこんでした。髪を抜いても元に戻せるのですから。ケウエル王子は私のために生まれてきたんだわ、とは彼女の弁。
彼女は城を抜け出しては彼の髪を抜く日々を繰り返しています。彼は安易に引き受けなければ良かったと後悔しています。そして……。
――現在。
「まさか、そのドレスは僕の髪……」
唖然と呟くケウエル王子を尻目に、ケトル姫は楽しそうにクルリと一回転。ひらひらと黒い毛が舞います。
「そうよ。あなたから抜いた毛を集めて作ったの。ねっ、キレイだと思わない?」
いつの間に自分の髪を集めたのか、どうしてドレスを作ったのか、いろいろ言いたいことはありましたが、何も言葉になりませんでした。ケウエル王子は彼女の髪に対する執着に恐怖を感じたのです。
彼は自分でも気づかないうちに後ずさっていました。彼女が一歩近づきます。恐怖で足がすくみ、もう足を動かすことすらできません。
「何を怯えてるの? あなたの髪なのに。おかしな人ね」
おかしいのは君だと叫びたいのを我慢し、彼は視線を下に落としました。髪で出来たドレスを見たくなかったのです。
「ねぇ、私の髪を抜いて。あなたの服も作ってあげるから。一緒に楽しみましょ。髪服を」
ケトル姫はにこやかに笑いました。彼女は当たり前のことを当たり前にやっているに過ぎません。そのことに彼は気づき、背筋が震えました。
「ねぇ、早く」
ケトル姫はケウエル王子の目をじっと見つめます。彼は覚悟を決めました。逃げられないと悟っていたのです。
彼は彼女の髪に手を伸ばしました。ぶちぶちとキレイな髪を引きちぎります。彼女は泣いてはいませんでした。自慢の髪を失って泣いていた彼女はもうどこにもいません。
「ケウエルケウエルモウコンフヤソン」
髪を失った人から感謝される呪文。自慢だった人を助ける力。誇りに思っていたはずの力が、彼には悪魔の囁きに聞こえました。
ケトル姫は元々おかしかったのか、それとも【毛を植える】能力と出会ってからおかしくなかったのか、ケウエル王子には知る由もありません。
すべては――髪のみぞ知ることなのですから。