煙女と風男
風男くんには好きな女の子がいました。女の子の名前は煙女ちゃん。赤い切れ長の目は宝石のように美しく、ダルそうに世を見つめる表情は色気たっぷりで、ふわふわとした煙状の体は女の子らしさに溢れていました。
煙女ちゃんに一目惚れした風男くんは、木の上で空を眺めている彼女の元へ毎日通うようになりました。なんとかと煙は高いところが好き。彼女にとって高所は居心地の良い場所です。風男くんも高い場所が大好きなので、煙女ちゃんとは趣味が合うなと思っていました。
「おーい! 煙女ちゃーん!」
風男くんは数メートルも離れた場所から、煙女ちゃんに声をかけます。煙女ちゃんはちらりと目を向けただけで、返事はしませんでした。
いつものことなので風男くんは気にしません。本当は側に行って話をしたいのですが、そういうわけにもいきません。彼は風――煙なんて簡単に吹き飛ばしてしまいます。
事実、一度だけ煙女ちゃんを吹き飛ばしてしまったことがありました。――彼女は煙なのですぐに元の姿に戻りましたが。
好きな女の子を傷つけた事実に変わりはありません。それからというもの側に寄ることはせず、遠くから見守るだけ。近づくことも触れることもできない。風男くんは彼女の側でじっと佇む木が羨ましくて仕方がありませんでした。
煙女ちゃんは雲を眺めています。辺りには風の音だけが響いていました。
雲はゆらゆらと宙を漂っています。風を受けても散り散りになることはなく、自らの存在を主張するかのように空にどんと構えていました。
同じ白くてふわふわしたものなのにどうしてこうも違うのか、煙女ちゃんは自分の胸に問いかけます。彼女は風に触れると散ってしまう体が嫌いでした。
彼女は雲に憧れていました。風を受けてもなおその存在を主張する雲に。
煙女ちゃんは雲から視線を外し、風男くんに向けました。ぱっと目が合います。目は逸らしませんでした。
目は口ほどに物を言う。煙女ちゃんは風男くんの目から愛情を感じました。太陽にも似た熱い感情を。
風男くんは煙女ちゃんに見つめられ、体が熱くなりました。彼女に触れたい、もっと近づきたい。衝動が彼を襲います。でも体は動きません。彼女を吹き飛ばした事実が鎖となって、彼を雁字搦めに縛り付けているのです。
どうして僕は風なんだろう? どうして彼女は煙なんだろう? 風男くんは悔しい気持ちでいっぱいになりました。悔しくて悔しくて仕方がありませんでした。
煙女ちゃんも悲しそうな顔をしています。僕と同じ気持ちなのかな? 風男くんは少しだけ嬉しくなりました。
触れて欲しい。煙女ちゃんはそう思いました。彼女は風男くんが好きだったのです。風男くんの好意にも気づいていました。
でも煙女ちゃんはなかなか自分の気持ちを伝えることができません。話しかけられても恥ずかしくて、ついつい目を逸らしてしまいます。
いつか愛想をつかされるかもしれない。そう思うだけで怖くなりました。だから彼女は今日こそ、気持ちを伝えようと心に決めたのです。
彼女は逸る気持ちを抑え、ゆっくりと口を開きました。
「風男くん!」
「えっ?」
風男くんは驚きの声を上げました。彼女から話しかけられたことは一度もなかったからです。
「私は、私は、私は……アンタが好きだ!」
煙女ちゃんの精一杯の叫び。風男くんは嬉しさと驚きで、何が何やら分かりませんでした。
「触れなくても近づけなくてもいい。アンタが話しかけてくれるだけで私は幸せだ。アンタがそこにいる。それだけで私は満足だ」
彼女は必死で気持ちを伝えます。風男くんは悩んでいたのが嘘のように、心が晴れ渡るのを感じました。同時に過去の出来事が彼に重くのしかかります。
「君がそう言ってくれて嬉しいよ。だけどね。僕は煙女ちゃんに酷いことを」
彼の言葉を遮るように彼女は言いました。
「風男くん。アンタが気にしているのは知っている。だが私はなんともない。私は煙だ。散っても元に戻る。アンタは私を傷つけてなんかいない」
「で、でも」
「アンタが私のことで苦しんでるほうが辛い」
風男くんは何も言えませんでした。
「私はアンタが好きで、アンタも私が好き。十分ハッピーじゃないか」
煙女ちゃんは頬を赤らめ、恥ずかしそうに口を尖らせます。風男くんは心がぽかぽかと暖かくなるのを感じました。
彼女の言うとおりだと彼は思います。思いが通じ合っただけ、僕らは十分幸せだと。
「うん。君の言うとおりだ煙女ちゃん。今、僕とっても幸せだよ」
「私もだよ風男くん」
ふわりと煙女ちゃんは笑いました。考えるよりも早く風男くんの手は動いていました。
「触れたい」
風男くんの切なげな声に、煙女ちゃんは悲しそうな表情を見せます。
「私だって……アンタに触れられたいよ」
彼女が伸ばした手は、彼に触れる前にふわりと消えました。
あぁ、遠い。心は通じ合ったのに、体はこうも遠い。