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夢姫が賑やかな一日を送っていた同じ頃。和輝はというと、久方ぶりの清々しい朝を迎えていた。
しとしとと雨が降り続けていた空も雲はちぎれ、隙間からは太陽の光。
そして何よりも一番和輝の心を癒していたもの……それは、いつもならば朝一番に來葉堂に押し掛けては騒ぎ立てている夢姫の姿がどこにもないからであった。
「……今日はいい天気、か」
――それもそのはず。その頃の夢姫はというと、詠巳に“相談がある”と持ち掛けられて上機嫌になっていた頃だ。詠巳の動向も夢姫の興味の矛先も、和輝にとってはどうでもいいことである。
貴重なものとなってしまった静かな朝のひと時を慈しむように、和輝は息をついた。
――久々の一人での登校。明陽学園はまもなく夏季休暇の季節である。どことなく浮足立つ教室内、和輝は一人思いを巡らせる。
夢姫の元へ現れた不思議な腕輪の事。師匠である八雲からの命令の事、そして――
「――この手で、大事なすべてを壊す……か」
それは詠巳の言葉。初対面でありながらずっと前にどこかで会った“誰か”の忠告であるかのように、その言葉は心の奥深くに刺さっていた。
大きな渦の中へと緩やかに呑み込まれて行っているような、そんな漠然とした不安のようなものが心に影を落としていたのだった。
―――
朝こそうまく逃げ切れたとはいえ……きっと昼休み頃にはいつもの喧騒が戻ってくることだろう。
そう諦めていた和輝であったが――この日は珍しいことに放課後まで和輝は一人で過ごせていた。
その頃の夢姫はというと、梗耶を巻き込み女子三人で恋の話などに花を咲かせていたのだが……和輝が知る由もない。
誰とも話さずに済むということがこれほどまでに心休まるものなのか。和輝はささやかな幸せをかみしめると一人帰り道を急いだ。
――久々の一人での静かな帰路。
同じように家路を急ぐ人々で賑わう駅前のロータリーにさしかかった辺りでふと嫌な予感がして、近くのスーパーに逃げるように入る。
平静を装いながら店の中に入ると、所せましと並べられた新鮮な野菜たちをひんやりと冷たい風がを守っている。生鮮食品コーナーを横切り、通りを見渡せる大きな窓が望む特売品コーナーの影に身をひそめる。
――すると、窓ガラスの向こう側からは見覚えのある特徴的なツーテールヘアの少女が飛び跳ねている姿が見えた。
「水瀬と、風見と……犬飼。厄介フルコンボ……危なかった」
和輝は息を吐く。そして自らのとっさの判断力に――その危険察知能力の秀逸さを評価したい心境となっていた。
いっそここまできたら帰宅まで誰とも会いたくない、和輝はそう考えていた。元々、誰かと時間を共有したいと思えるほど話たがりな性分では無いのだ。出来ることなら一日言葉を発せずに終われたらとさえ思うほどに。
女子たち三人は和輝の存在に気付くそぶりもないまま、表通りの人ごみに紛れ消えていった。
そろそろ自分も家に帰ろう――和輝がそう立ち上がった時。ふと、制服の袖を引かれる弱い感覚に気がついた。
まさか、遠く見送ったはずの夢姫たちが実は自分の存在に気付いており、捕らえようと引き返してきたのではなかろうか?
客観的に見ればくだらない事案のようであることだが、“一人で帰る”という希望をその手に掴みかけていた和輝にとっては一大事なのである。
意を決し、振り返るとそこには――
「そ……ソラ? 何してるんだこんなところで」
――そこにいたのは、和輝と同じく來葉堂に住んでいる弟のようであり同僚ともいえる存在。
夜は猫の姿を借りる一方で日中は普通の小学生として過ごす幽霊の少年、ソラの姿がそこにあったのだ。
「かずきさんこそ! あ、もしかして、ばんごはんのかいものですか?」
問いかけに対して首をかしげていたソラの傍らには買い物かごが置いてある様子。かごの中身は鶏肉とニンジン、そしてジャガイモ……どうやらソラは偶然にもこのスーパーで買い物をしている最中であったようだ。
「晩御飯?」
「はい。ばんごはんです!」
「ああ、そう言えば、クララが今日はいないのか」
――そう、この日はいつもソラや和輝の為に美味しい料理を提供してくれているクララが仕事を休んでいた。クララは來葉堂に住み込んでいるわけではなく、別の場所に借りたマンションで一人暮らしをしている。
つまりは家政婦と同じような形式で雇われている格好であるため、時折こうした“世話人がいなくなる日”というものが出来てしまうのだ。
「さすがによるまでレトルト、というのは……そだちざかりのおこさんたちのからだにもよくありませんから……」
ソラは張り切った様子で口元を固く結ぶ。
――自らも“育ちざかりの子供”であるはずのソラが気に掛けてくれている。
「荷物、重いだろ。……俺も手伝うから二人で作ろう」
ソラらしいといえばそうであるのだから、その心遣いを否定する道理はない。状況が呑み込めた和輝が重たそうなかごを代わりに持つと、ソラも笑顔を手向けたのだった。
―――
買い物を終え、ソラと和輝は二人にとって家である來葉堂へ辿り着く。あまり光が差し込まない店内は、少し薄暗く、静かだ。ビニール袋を片手に提げた和輝が扉を押し開けると、静寂を破るようにして鳴り響くベルの音と共に師匠であり店のオーナーでもある八雲が二人を出迎えた。
「お帰り……って、珍しく今日はお客さんいないんだね」
「なんか、良く分からないけど、今日はうまく逃げ切れました」
和輝がその言葉の意図を――このところ毎日のように押し掛けてくる小うるさい来客の事を察しそう返すと、また八雲が笑う。
これもまた、ここ最近の騒がしい日常に至る前の……今となっては懐かしささえ感じる静かな時間だ。
「きょうは、カレーをつくります!」
挨拶もそこそこにソラは和輝の手からビニール袋を預かると厨房へ向かう。それを和輝も手伝おうと、厨房向かう――
――が、それを見ていた八雲は少し慌てた様子で二人を呼び止めた。
「え、ちょ待って。まさか、和輝、手伝うつもり?」
「え。だってソラ一人に任せられないですし」
「……出前取らない? お金なら気にしなくていいからさ」
何か不都合があるとでも言わんばかりに表情を曇らせていたかと思えば……八雲は思案をまとめた様子で立ち上がる。
一方のソラは肉などと言った日持ちしない食材を買ってしまった後であるのだから、今日のうちに調理しておきたいと思っていた。出前を取るなど、自分の行動全否定であるばかりか無駄な出費とすら思えたのだ。
「もったいないです!」
「あっ……」
ソラは首を横に振ると、食材を抱えたまま逃げるように厨房へと立てこもる。
師匠・八雲の“出前”という提案――普段、その命には絶対服従を誓っている和輝であるが、今回ばかりは“ソラの手伝いをする”と先に宣言してしまっていた。
多少迷った様子であったが……ソラがいくら成熟した精神の持ち主であるとはいえ小さな子供であるということに変わりはない、そんな子供だけに任せるのは如何なものかと決心したようだ。深々と一礼するとそのまま厨房に消えて行った。
「やばい。死者が出るぞ……!」




