5-1
「あら~! 今日も良い天気なのだ!」
この日は休日、雲一つない青空が広がる清々しい朝である。
和輝が住まう喫茶店、來葉堂の軒先。店主の男(女)――クララは、白粉により真っ白に塗りつぶされた不健康そうな白い顔に日光を浴びせると、深呼吸をしていた。
即興で紡ぐ鼻歌などを口ずさみながら店先を掃除することが彼女(彼?)の朝の日課。
今日はどんな一日になるだろうか、食事は何を作ろうか……などとまるで新妻が考えそうなことを思い描きながら窓を拭き上げていく。――ふと、クララは窓ガラスに反射し映り込んだ風景の片隅に立つ少女の姿に気付いた。
「あら、君はこの間の――」
振り向くと同時に、クララはその見覚えのある姿に投げキッスを飛ばす。
そこには――礼儀正しく丁寧なお辞儀をしつつ、そして投げキッスをかわす梗耶の姿があった。
「和輝くんのお友達で、確か……梗耶ちゃん、だったわね! 折角来てもらったけど、お店は十時からなのだぞっ。それに和輝くんもまだ寝ているから――」
友人が和輝を訪ねてきたのだろう、とまるで母親のような優しく温かな気持ちとなっていたクララは少し困ったように微笑む。和輝は夜遅くまで起きていることが多く、ご多分に漏れず朝に弱いのだ。
「ええ、そうだろうと思って。……だから来たんです」
だが、梗耶の目的は和輝の事ではなかったらしい。“起こしてくるから”と言いかけたクララを呼び止めると、首を横に振っている。今から戦いを挑む、とでも言わんばかりの気迫さえ感じる神妙な面持ちの少女の姿を見つめ、若干の戸惑いを覚えていたクララであったが――
「そ、そう? ……んーまあ、よくわからないけど……じゃあ、中にお入りくださいな! だぞっ」
――何か理由があるとしても、クララが強引に割って入るべきではない事であろう。そう判断し、ひとまず見守ることにしようと決めたクララは店内に梗耶を招き入れたのだった。
クララはまずお茶の準備に掛かった。厨房でお湯を沸かす傍ら、慣れた手つきで急須に茶葉を入れる。
お湯が沸くまでの数分間――手際よく朝のルーチンワークを済ませるためには休んでいる暇もない。
レースがふちを彩るお気に入りの花柄エプロンを筋肉質の体にまとったクララは、もう一つの仕事――和輝と八雲、そしてソラの朝ごはんの支度をし始めた。
「ふぁーあ。クララちゃん、ご飯……ってああ、この間の……おでこちゃんだ」
クララが流し台に向かおうとしたとき、ふとカウンター奥の扉が開く。……そこは八雲の居室へとつながる扉。大きなあくびをしながら両腕を伸ばす青年は、だらしない印象の残る崩れかけた着流し姿。
白く透き通るように細い髪の毛は使い込まれたブラシのように外に広がり、いかにも“今起きました”と言わんばかりである。
「……教育に悪い。ちょっと春宮さん!」
寝起き姿を見られることに気恥ずかしさなどない様子で八雲は梗耶に手を振っている。だが、対する梗耶は嫌悪感を前面に押し出すように表情をゆがませると眼鏡を指先で押し上げる。
そして、寝起きでまだぼんやりとしたまま思考が追い付いていない八雲の傍へと、足早に詰め寄ったのだった。
「な、なにおでこちゃん、何やらお怒り? 乱れた姿の美青年の寝起きを襲うなんて……エッチー」
「ふざけないでください!」
カウンターテーブルを勢いのまま叩く音が、今だ夢うつつであった八雲の脳を目覚めさせる。
その物音に驚いたクララが不安げに視線を投げるものの……受け取った八雲自身も、自分が何で不興を買ったのかが皆目見当がつかないままである。
「何? ……何をそんなに怒ってるのかな? 俺、君になんか迷惑かけた?」
「どうしてあんなものを和輝さんに頼むんですか!」
バツが悪そうに頭を掻いていた八雲の手が止まる。――そう、梗耶の怒りを買ってしまった理由にたどり着けたのだ。
「あれ、ゲームですよね? 確か。和輝さんが持ってたあの紙袋は“あっち系”専門店のものでした! まだ未成年なんですよ!? まぁ、何の疑いもせずに買う方も、あと売っちゃう方も問題ですが!」
そう、先日和輝が“師匠の頼まれもの”と称していた件の品の事である。梗耶はその“お使い”について、八雲に一言釘を刺さなければならないとずっと思い続けていたようだ。
和輝は身長も高いこともあり、学生服を身にまとっていなければ十八前後に見えなくもない。管理が粗雑な店であれば年齢確認を怠ってしまう非常に微妙な見た目といえよう。だが、だからと言っても八雲のやっていることは、擁護のしようがないことだと感じていたのだ。
「……ねえ、梗耶ちゃん」
遠巻きに見ていたクララは、ふとある疑問に辿り着く……が、鬼のような形相をした梗耶を前に怖気づいたように言葉を飲み込む。
一方で、八雲は一笑に伏すと――まるでクララの胸の内を代弁するかのようにその口を開いた。
「あれれ? ……そもそも、なんで君はいやらしいお店の袋を見分けられるのさ」
「……そ、そんなのどうでも良いじゃないですか!! 未成年を預かる人として――」
「何してんだよ風見」
梗耶が詰め寄ると、八雲は後ずさる。そんな攻防を繰り返すのち、とうとう八雲は壁際まで追い込まれていく。――その時、梗耶の背中にぼんやりとした声が刺さった。
梗耶が振り返ると、そこには和輝の姿があった。開け放されたままの扉の奥には二階へと続く薄暗い階段が見える。そこが居住スペースとなっているのだろう。
先ほどの八雲と同様に大きなあくびと背伸びを一つ……上下同じ色のシンプルなスウェットに身を包んだ和輝は、いつも以上にはねた髪の毛を気にすることもなく目をこすっていた。
気の抜けた声であいさつを投げかけ手を振る八雲と、はっきりしない声で返事を返す和輝。
ここがお店、つまりオフィシャルな空間であり、そして梗耶は外部からやってきた客人であると言う認識がかけているのではないか。
朝の平凡な日常を見せつけられた梗耶は、また違う怒りに身を震わせていたのだった。
「――で、こら風見」
「あいたっ」
和輝はあいさつもそこそこに、追い詰められるような格好と相成っていた自身の師匠・八雲の前に立っていた梗耶の額をぴしゃりと叩く。
「師匠に何やってるの? 謝れ」
「春宮さんの方が悪いんです。私は謝りません」
「師匠に悪いところなんて無い」
八雲に対して、いささか妄信的とも言えるほどに全幅の信頼を寄せているがゆえに、和輝は梗耶の言い分など聞くつもりもない様子だ。
だが、梗耶の立場から見れば、自分は悪いばかりか正しいことをしているという認識。むしろ和輝が騙されているのだ、洗脳でもされているのではないかという疑心しかないのだ。
二人が言い争っている中、その渦中と言える筈の八雲はと言うと――
――鬼から解放されて安堵したのか、大きなあくびを落とすとのんきなことにクララの用意した朝食を食べ始めている。
今日のみそ汁の具は……などとどうでもいい話題が雑音のようにその耳を掠めていく。梗耶の怒りはどんどんと増幅していった。
「この人、かんっぜんに駄目人間じゃないですか! 和輝さん見る目無さすぎです! 騙されてますよ!?」
そして、とうとう梗耶がキレた。どう見ても庇い立てするほどの人徳者にも見えない八雲を守ろうとしている和輝にも苛立ってしまったのだ。
どうして話を聞こうともしないのか、と梗耶が声を荒げる一方で和輝も眉間にしわを寄せている。
“駄目人間”という八雲に対する侮辱の言葉が癇に障ったのだ。
「うるさい! 何も知らないくせに……! もう帰れ!」
和輝は“ま”に反応を示した時のように語気を強めると、梗耶を鋭く睨む。普段は言われるがまま、ぼんやりとした印象の和輝だが、力では一般的な女子である梗耶よりはるかに上だ。
怯んでしまった梗耶の背中を押し、強引に店の出入口まで追いやり無理やりに締めだすと――
――和輝はそのまま扉の鍵を閉めたのだった。




