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「――かずきさん!」
だが、丁度その時。あどけなく……そして礼儀正しい声が二人の背後から投げかけられ、夢姫が振り向いてしまう。当人に気取られてしまってはいけない。和輝は紐を手に巻き取ると、そっと背中に忍ばせたのだった。
「……どうしてここに?」
「あ、きょーや!」
夢姫の視線の先、そこには先程線路に侵入しようとした男の子の姿。その横には梗耶が手を握り立っている。
「……かずきさん。ごらんのとおり、こちらのおねえさんもいらっしゃいます。ひをあらためることをおすすめしますよ」
梗耶と夢姫は“その言葉の意味が分からない”と不思議そうに顔を見合わせている。
一方で、和輝は――男の子が発した言葉のその意図がすぐに理解できた様子。小さな声で“そうだな”とだけ応えると、手にしていた紐をそのままポケットの中へと押し込んだのだった。
「おふたりは、かずきさんのごがくゆうだったんですね。ぼくは“ソラ”ともうします。ソラとおよびください」
「ソラぽんだね、おっけー」
「……ゆうきさん。このこは、いまはしゃべりませんよ。ぼくがここにいますから。ぼくがマリンのなかにいるときだけしかひとのことばをあつかえません」
“ソラ”と名乗った男の子は柔らかな微笑みを返すと、夢姫の腕の中でじっとしているマリンの頭へ手を伸ばす。その言葉は、先ほどから夢姫の頭を支配し続けている問いかけへの答えとなった。
ソラが言う通りゴロゴロと喉を鳴らしているマリンの口からは、人間の言葉が出る気配はみじんも感じられない。
それは夢姫もすぐに納得ができた、だが――“ぼくがマリンの中にいるときだけ”という文言がいまいち理解できない。夢姫が首をかしげていると、ソラはまるで語り掛けるような優しい咳ばらいをして見せると、言葉を続けた。
「しんじがたいはなしだとはおもいますが、ぼく、おばけなんです」
「……はい?」
“摩訶不思議なことを突然言い始めた”――傍らで何気なしに聞いていた梗耶の表情が曇る。
ごく自然な反応であろう。一般的な認識として“幽霊”と言えば成仏できずに魂だけとなってしまった存在。姿が透けて見えるとか、触れられないとか……そう言った類を指すもの。
この少年、ソラは姿かたちも見えるばかりか、梗耶と手を繋げるし、猫に触れることもできる。
確かに生きているのに“死んでいる”とはこれいかに――と。
「は!? ソラ、何でバラし――」
「ごめんなさい、かずきさん。じつは、このまえゆうきさんにみられてしまっていたのです。なので、どのみち、かくしとおすことはむりなのです」
状況が理解できないまま目を瞬かせていた夢姫たちをよそに、和輝は慌てた様子でソラの両肩を掴む。その口調から察するに和輝は元々この少年と顔見知りであるようだ。
何か説明しにくい事情があるのだろうか、しばしの間和輝はソラの顔を見つめたまま何かを思案していた。
だが、このまま自分だけが口を閉ざしていたとしても、ソラがすべて話してしまうだろう――
――諦めたように深いため息を落とすと、和輝が先の言葉を紡いだ。
「……“体”は生きてるんだ。見ての通り触れるだろう。……心が死んでるんだよ。宙の」
――和輝はさらに言葉を紡いでいく。
この丁寧な言葉遣いの少年。言葉を使い、体を動かしている“ソラ”という子供こそが魂だけの存在、“幽霊”であるということ。そしてその器たる“体”が本来宿しているはずの“心”が死んでいるということ。――つまり、植物人間のような状態の人間の体に別の人格を持った幽霊が憑依しているということのようである。
「……夜はマリンの体を借りてるんだよ。どうもこの猫は“霊媒体質”って言うのかな。イタコみたいな事が出来るらしいんだ。幽霊のソラは眠ることも食べることも出来ないけど、“体”はそうはいかないから。だから」
言い終えると、和輝は今だ夢姫の腕の中でじっとしているマリンの頭をなでる。
先日言葉を交わしたのは、確かに和輝の言う通り日も傾ききってしまった夜の出来事であった。つまり“ソラ”が憑依した状態のマリンであったのだ。
「……確かに、あの時はすっごいトロかったもんね、このデブ猫」
「はは……ぼくはうんどうしんけいがわるいもので」
マリンの後頭部を見下ろすと、夢姫は息を吹きかけてみる。どうやら不快だったようでマリンは背中の毛を波打つようにして逆立てると小さく濁った声で鳴いた。
「おひるは、ただのねこさんなんで、やさしくしてあげてくださいね」
ソラは最後に、そう付け足したのだった。
―――
「――この子も和輝さん達と一緒に暮らしてるんですか?」
「……ああ。この子は師匠の――」
四人と一匹で帰路につく。道中、梗耶が問いかけると和輝はこくんと頷き言葉を返した。
二人の間には背の低いソラが歩いている。和輝の言葉に同意するように顔を見上げると、ソラもまた頷く。ソラを挟むように、その両側で和輝と梗耶が小さな手を握っていた。
「んー……あ、分かった!」
「何が」
梗耶たちより数歩先を歩いていた夢姫の腕にはしっかりホールドされたマリンの姿。この日はずっと走りっぱなしであったためか、耳は垂れ、その顔には疲れが滲んでいた。
「なんかあ、今ファミリーみたいだなって思ったの! ほら、きょーやママと和輝パパ」
「マ……」
振り向きざまの夢姫はいたずらに笑う。
梗耶は制服姿ではあったが、確かに小さな子供を年頃の男女が守るようにしてその手をつなぐ三人の姿はよくある仲睦まじい家族のようでもあるだろう。
急に恥ずかしくなった梗耶が勢い任せにソラの手を振り払おうとした――が、子供に乱暴な真似など出来ない。そのやり場のない感情は自分の中に押しとどめる他ない。梗耶の顔はみるみるうちに赤に染まっていった。
「きょーや、顔真っ赤だし!! 超ウケる!」
「うるさい! ばか夢姫!」
一方の和輝はそのやり取りの中で、“梗耶に怒られる”と思ったようだ。顔を真っ赤にしている梗耶の横顔が先日の激昂と重なり、今にも爆発しそうな風船のように見えていた。
消えそうなほど小さな声で謝ると、そっとソラの手を離したのだった。
「――そうだ、あ、あの……一つ気になってるんですが」
梗耶が言い出しにくそうに和輝の方を伺い見ると、“予想通り怒られるんだ”――そう悟った和輝は両手をあげる。逃げも隠れも出来ない、と降伏するかのような心持で梗耶の次の言葉を待つ。
「それ、その紙袋、えっと……怪しいっていうか“あっち系”のお店のやつですよね」
「これ? ……風見、何で知ってるの? 中身はゲームだけど」
和輝がずっと大切そうに持っていた紙袋、それは師匠からの“頼まれもの”が入っている。
シンプルな紙袋に記載された店の名に心当たりがあったらしい。梗耶は言葉を選びながら指さした。
「…………それ、もしかして頼まれたものって」
「え、ああうん。師匠が“予約していたからフラゲしてきて”って」
和輝はそう言うと、袋を大事そうに抱え直す。
そんな和輝の一挙手一投足を、哀れむようなまなざしで見つめたかと思えば……途端にその顔は怒りに満ち、体が震え出す。――これは祓うことすら敵わないほうの“鬼”だ。迫力に気圧された和輝は思わず身を硬直させた。
「ねえ和輝さん? 今度、ゆっくり八雲さんとお話させてくださいませ。じっくり言い聞かせたいことが出来ましたので」
「は、はい。わかり、ました」
「っていうか! そんなもの、大事そうに抱えないで下さい!」
「中身知ってるの!?」
「知りません! 捨ててくださいそんなもの!!」
梗耶の怒声が、夕刻の茜空にいつまでもこだましていた。
―――
――その夜、和輝はいつもの様に薄暗い町に出掛けていた。
クララは來葉堂に住んでいるわけではない為、この日も仕事を終えて帰宅の途についた。
夜ふけの静かな薄闇……來葉堂にいるのはソラと八雲の二人だけである。
ソラは扉をノックし、鍵の付いていない八雲の部屋に静かに足を踏み入れる。
足の踏み場に困るほど散らかった部屋。
昔ながらの古風なつくりの和室の窓際には、不釣り合いな黒い大きなモニターが鎮座している。画面には一糸まとわぬみだらな姿で横たわる可愛らしい美少女が描かれている。両脇にすえられたスピーカーからはくぐもった可憐な声が響いていた。
「ちらかしっぱなしは、だめですよ。それと……よるなんですから、おんりょうは下げてくださいね。ごきんじょのめいわくです」
慣れた様子でモニターから目をそらすと、ソラは足元の畳に散らばる紙袋を拾い集めて束ねていく。
そして紙袋の下に埋もれていたリモコンを見つけ出すと、何のためらいもなく消音ボタンを押したのだった。
「あ。……もうすぐ攻略完了だってのに。音の無いエロゲなんて味の無い卵焼きみたいなもんだよ」
ソラのため息さえもはっきりと聞こえるような静寂が辺りを支配し、観念したように八雲がマウスを投げだす。まるで叱りつける母親とすねる子供のようである。その実は立場が逆であるはずなのだから、傍目に見れば何とも奇妙な光景なのだろう……不貞腐れた様子の八雲の姿にふっと笑みを漏らすと、ソラは青年の前に正座したのだった。
「ゆうきさん、やさしいかた、でしたよ? そんなおそろしいかたにはみえませんでした」
ソラの言葉を聞きたくない、と言わんばかりに背を向けると八雲はモニターの電源を落とす。
真っ黒になったモニターは薄暗い部屋の中、蛍光灯の光をわずかに跳ね返した。
「今はそうかもしれないね、でも……。摘めるうちに摘んでおかないといけないんだよ。忌々しい、あの“心”を、ね」
モニター越しに八雲の整った顔が見える。
――その表情は、言い知れぬ怒りを秘めているようだった。
【登場人物】
ソラ
小学校低学年の少年。あどけない口調、声の割に大人びた話し方をする。夢姫曰く「大きくなったら良い男になるわね」




