2-3
「――水瀬は台風みたいだ。疲れた……。風見さんは良くあのテンションに付いて行けるね」
「別に付いて行ってるわけではないですが。……幼稚園から一緒ですからね。慣れたっていうか」
廊下からはバタバタと騒々しい足音が響いてくる、夢姫が走っているのだろうか。
――あの騒々しさも、周囲を巻き込む嵐のような振る舞いも。梗耶にとってそれは幼いころからずっと変わらない日常の光景だった。
「幼稚園からああなんだ……あの人……」
「ええ。むしろ年々ひどくなっていってます」
自らが背負い込んできた苦労を思い返すとため息すら重たくのしかかるような気持ちになる梗耶であるが、この時は何故か少し不思議な感覚でもあった。
――それはまるで、負の言葉を口にすればするほどに心が軽くなっていくような。
不安や苛立ちといったネガティブな感情をこの少年が吸い取って癒してくれるような――
「――って、違う! 雑談がしたいわけではないでしょう。……夢姫が戻る前に……相談があったんでしょ?」
梗耶の為に親身になって話を聞いてくれる人はたくさんいたが……それは今まで感じたことのない感覚であった。
だが、相手は関わりたくない“疫病神”だ。冷静になった梗耶が眼鏡のツルを指先で押し上げる。
「あ、ああ。……多分、察してくれていると思うんだけど……水瀬をどうにかしてくれない?」
突如として声を荒げる格好となった梗耶の姿に少しだけ驚いた様子の和輝。
気を取り直すように咳ばらいをすると、あたりを見回し本題を口にしたのだった。
――長年傍で見続けていた梗耶だから分かること。その幼馴染、水瀬 夢姫は病的なまでに“面白そうな事”に強い関心を持つ。
一度何かに興味を抱くと、例えそれが目に見えた危険な道でも迷惑も人の心配すら顧みず首を突っ込んでいく。
「……どうしたら良いか分からない。あの人馴れ馴れしすぎない? 気がついたら携帯盗まれてて、勝手にアプリとかダウンロードされた状態で戻ってきて……気がつけば連絡先登録されてて……」
今までだって、夢姫が特定の人物に熱を上げることは幾度かあった。
熱を止められなくて半ばストーカーまがいの行動に出てしまい、相手の親に謝りに行ったこともあった。
その時も苦労はしたが……今回ばかりはその比ではないと梗耶は感じていた。
「もういや! どうして私ばっかり……きっとまた私は不幸になるんだ……!」
――あの日に見た“地獄”が脳裏によぎり、途端に重い荷物を背負ったかのような気だるさに見舞われる。
梗耶が机に両肘をつき頭を抱えていると、その耳に心配げに名前を呼ぶ和輝の声が届いた。
「かざ」
「触るな、この疫病神! 私は平和に暮らしていたいし不幸になんかなりたくない! もう放っておいてほしいのに……夢姫の好奇心のせいで、私はまた不幸に落とされる! そんなのは嫌なの!」
もやもやと鬱屈した感情を振り払うように首を横に振ると、梗耶はそうまくしたてる。
やはり不思議な感覚だ。普段は決して言えないような、隠し続けている感情さえもなぜか素直に口からあふれ出してしまうのだ。
「……疫病神、か」
決して和輝自身が“大らかな心で受け止めてくれている”などと言うことではないらしい。
梗耶が口にした言葉が刺さり傷を残したかのように和輝は表情を曇らせている。
だが、梗耶ももう……相手の気持ちを汲むような余裕もなく、自らの言葉を止めることも出来なくなっていた。
「だってそうでしょう、私見たんですから! 貴方、あの黒いの、見えてるんでしょう? いや、見えてるだけじゃない。呼び寄せてるんだ!」
「……黒いの、って?」
「とぼけないでください! ……地面から湧いてくる、“黒い手”です」
「え……」
――耳を傾けていた和輝の表情が曇り、睨むような視線が梗耶を刺す。それはまるで悪者を睨む正義の味方のようで、まるで梗耶が悪人のような。
確かに強い言葉を投げつけてしまったという自覚こそあれど、悪いことをしたつもりなどない梗耶は言葉を探しあぐねている。
……ふと、その時。少女はその足元に生温かい風が通り抜けた気がして思わず悲鳴をあげてしまった。
恐る恐る足元に視線を手向ける。――すると、そこには床板の継ぎ目から滲み湧き上がるようにして立ち上る黒い煙のようなものが形を作り、やがてそれは“黒い手”の形を成したのだった。
「きゃあ! ほら、これ……!」
「何で見えるの……? “ま”は普通は見えないはずなんだけど。とすれば、“鬼”……になってるようにも見えないし」
「ま……?」
梗耶の視線を辿りうつむいていた和輝が小さな声を紡ぐ。それは誰かに向けた言葉、というよりは自分自身の疑問を解決しようとしているような口ぶりだ。
「っていうことは、“道具”に選ばれてるってことだっけ……? お前、ちょっと持ち物見せてみろ」
聞きなれない単語や“鬼”という言葉。“鬼”とは童話などで見聞きしたことのあるあれの事であろうか……などと思考を巡らせ考え込んだ梗耶をよそに、和輝は机にすえられたフックに掛かったままのカバンに手を伸ばす。
化粧っ気のないといえども梗耶は一般的な女子だ。そのカバンには他人に見せたくないものだって入っている。
「やめてくださいよ! “道具”とか“ま”とか……良く分からないけど、見えるからってなんですか? やっぱり都合が悪い――」
カバンを奪い返した梗耶は胸にしっかりと抱き、立ち上がる。
――その時だった。先程と同じ生ぬるい風が肌を掠める。だが今回は先ほどよりしつこい、どうやら少女の足元にまとわりついているようだ。
「いや!! あの時のように今度は私が……!」
教室の床、板と板との節目から黒い“手”は沸き上がってくる。
梗耶はあの日に目の当たりにした光景を――炎の中で見た、黒髪の幼い少年のように――
振り払おうともがいても、カバンを振り回してみてもまるで効果が無い。
脈打つ鼓動と裏腹。血の気がどんどんと引いて行く感覚と絶望が脳内を駆け巡り、梗耶は力なくそのまま座り込んだのだった。
「……風見、とりあえず何も考えず、立て」
「立てるわけ無いでしょう!? ……私、連れて行かれるんだ! もう」
「落ち着け! 下を見るな。……すぐに助けるから」
梗耶は言われるがままに瞼を閉じる。それは“信頼”ではなく、“もうどうだっていい”という投げやりな感情がそうさせていた。
自分が死ねば、伯母は少しは悲しむだろうが所詮は血の繋がりも薄い。すぐにその悲しみも消え去り自分の存在すらあいまいになっていくだろう。
――ふと、体にのしかかっていた重たい何かが空を切る音と共に消え去ったことに気が付く。
「……助けてくれたんですか?」
「追い払っただけ。……あんたが悲観的になったら、また来るよ」
刃を光の粒子に変え宙へ溶かすと、和輝が息をつく。
梗耶が目を開けると、そこにあったはずの“黒い手”の姿はどこにもなくなってしまっていた。
「……ちょっと、何処に行くんですか?」
「まだ本体を潰してないからな。人目に付き難くて広い所……屋上にでも行ってくる。あんたは水瀬連れて帰ったほうがいい」
息をついたのもつかの間――自分のカバンも置き去りにしたまま和輝は梗耶に背を向けた。
教室内から先ほどの重苦しい気配は消えていた。だが、まだ根源が残っているということなのだろう。
「――ま、待って! ……私も行きます。に、荷物置き去りにしては、防犯上よくないですからね!」
梗耶はまだ和輝のことなど信用していない。だが、本当にあの“疫病神”なのだろうか……そんなかすかな疑念が生まれていたことも事実だった。
――その頃。
居残り授業から解放された夢姫は両手を天高く伸ばしきると大きなため息を落とす。
ようやく訪れた自由な時間、つかの間の楽しみだ。
自分を待っているであろう梗耶を教室まで迎えに行き、和輝がまだ残っているのなら一緒に帰ろう。
そんな自己中心的なプランを脳内に組み立てていた夢姫は、ふと伸ばした片手に揺れる腕輪の存在を思い出す。
「……面白い事起こんないかなあ? この前の黒いのとか、もう一回見たいなあ」
黒い手のようなもの、何かに取り付かれたように狂った男――その鮮烈な体験が忘れられないでいたのだ。
ため息交じりに夢姫が声を漏らす。――その時。腕輪に取り付けられた鈴から澄み渡るような音が響き、夢姫の耳を劈いたのだった。




