一話
次男編に突入します
俺の名前は樋口遊馬二十四歳。まだ駆け出しのイラストレーターをしている。詳しく肩書きを言えば、元ホストというぐらい。
俺の親父と義母さんが再婚したのは今から十六年前の話だ。当時親父には十歳の兄貴と八歳の俺がいて、義母さんには年長組の智、智海がいた。互いに連れ子同士だったというわけだ。
一年後には末の妹の文乃が生まれて、ずっと仲良く暮らせるものだと当時は俺も信じて疑わなかった。
一本の電話さえなければ。
ちょうど休みだった兄貴が電話に出たけど一向にリビングに戻ってくる様子がなかったから、俺は気になって兄貴の様子を見に行った。
一瞬声をかけるのを躊躇ってしまいそうなほど、受話器を持ったままの兄貴の顔が泣きそうに見えた。声をかけた瞬間に兄貴の手から受話器が滑り落ち、壁にぶつかる音で下の二人の妹たちが顔を覗かせた。
兄貴の顔色が悪くなっていくその様子で、ただならぬことが起きたことは俺には十分察することはできた。掴みかかってようやく兄貴は口を開いた。
「父さんと義母さんが……死んだ」
それはまるでドラマでも見ているかのような錯覚を感じさせた。
あまりにも身近で、あまりにも現実味のない単語は、俺の耳を風のように吹き抜けた。
「高速道路で事故に巻き込まれて、さっき搬送された病院で死亡確認された……」
「う、嘘だろ。冗談だよな?」
「……」
兄貴の覇気のない説明に俺は自分に確認するつもりで訴えかけたら返答はなく、小さく首を左右に振られるだけだった。後ろで泣き崩れる文乃と静かに涙を流す智海。兄貴は説明してもなお呆然としているように見えた。
俺は自分がどうするべきかを否応なしに考えざるを得なくなった。
兄貴の喪主で通夜と葬儀が執り行われ、両親の骨壺を持って家に全員で帰宅した。
俺と兄貴からの日頃の感謝を込めて送った温泉旅行が、こんな形で終わってしまったのが悔やまれて仕方ない。
もう親父と義母さんが帰ってくることはないんだ。
翌日、いつまでも泣き続ける文乃を宥める智海を一瞬見て、俺は目を伏せた。
脳裏に数ヵ月前の両親の姿が浮かび上がる。
『なにも今じゃなくてもいいじゃない』
義母さんが困った顔をしてそう口にする。親父もどこか納得しているような様子はなかった。
『文が成人してからでも遅くないでしょ?』
『ごめん。もう決めたんだ』
『いつを予定にしてるんだ、遊馬』
止めようとする義母さんに謝罪すると、親父が真剣な眼差しを俺に向けてきた。
『春には……。もう今の仕事を辞める算段も次の仕事の目処もつけてる。頼む親父、義母さん。もうこれ以上は耐えられない……』
『……分かった』
『お父さん!』
『遊馬が一度決めたら、曲げないことぐらい俺は知ってる。俺達が何も言えなくなるように、用意周到に計画を立てるぐらいだ。ずっと前から決めていたんだろう。だったらそれを応援してやるのが親の役目というものだ』
『……そうね。遊馬くんは昔から頑固だったわよね』
最後には二人は折れてくれた。俺の我が儘を許してくれた。なら、俺にできることは二人の応援に応えること。俺は意を決して顔を上げた。
前々から決めていた。
もう耐えられなかった。
この家に居続けることが、苦痛でしかなかった。
予定より少し早いけど、許してくれるよな親父、義母さん。
「俺、出ていく」
静かなリビングに俺の声がやけに大きく響いた気がした。
「な、何を言ってんだ! 父さんたちが居なくなった今こそ、俺たちは一緒にいるべきだろ」
案の定、兄貴が止めにかかる。だけど俺は兄貴の話を聞いてやる気など毛頭ない。
「は? 冗談じゃない。俺らとアイツは血の繋がりなんて一切ないんだぞ。他人と一緒に住めるわけねーだろ!」
智を指して言い切ったら、文乃を宥めるその体がビクリと動いたのを視界の端で確認する。
途端に胸が締め付けるような錯覚に襲われたが、俺は構わなかった。
「血の繋がりとか関係ない! なんで父さんたちが死んだからってお前が出ていく必要があるんだ!」
「兄貴に分かるわけねーよ! とにかく、俺はこの家に平気で居られる自信ねーんだ。悪いけど、今日中に出ていくから」
兄貴は何も分かっちゃいない。
俺のことも、そして智のことも。
何一つ分かっちゃいないんだよ。クソ兄貴。
なんで俺が出ていくって言い出したと思う?
智を傷つけてまで、他人だと印象付けたのはなんでだと思うよ。
そんなの、決まってんじゃねーか。
俺が智を好きで、智が兄貴を好きだからだ。
好きな女が別の男、しかも自分の兄貴を好きだと知っていて、俺に見向きもしないと分かっている上で、ずっと一つ屋根の下で好きな女が別の男を見ているのを、黙って見ていられるはずないだろ。
ずっと耐えていた。家族だから、妹だからって。せっかく幸せを掴んだ親父たちを悲しませることなんて俺にできるわけがない。
想いは告げずに、智が他の男の所に嫁いでいくことを覚悟していた。
だけど、よりにもよって智が好きになったのは兄貴だった。
もう、どうしていいのか俺には分からない。兄貴じゃなかったら大人しく身を引いて、兄として接しようと思ったのに。
なんで兄貴なんだよ。
俺だって血が繋がってないのに。
兄貴なんかより俺の方が!
なんて醜い嫉妬を抱く自分が嫌だ。どんなにいろんな女に愛をささやいても、いろんな女と付き合っていても、智以上には愛せなかった。
自分で自分が醜く見えてきて、もうこれ以上、家族のフリをして暮らすことができなくなってきた。
だから親父たちに直談判したんだ。
家から出たいって。
親父はともかく、義母さんは家族兄弟との繋がりを重んじているところがあったから、どうしても出たい理由を包み隠さずに言ったら、複雑そうな顔をしていた。
子供たち同士で恋愛感情が芽生えるとは思っていなかったのかもしれない。それでも義母さんは、笑顔を浮かべてくれた。
『いつか智をお嫁にくださいとか言われちゃう日が来るのかしら』
なんて笑いながら楽しそうに話してくれたことを今でも思い出す。
もう俺は戻れない。
兄貴と智が一緒にいる家には。
俺は兄貴の制止を聞かずに自分の部屋へと向かった。