廃屋
劣化したコンクリートの廃屋の横から、それ以上に劣化した鉄柵の付いた石の階段が、崖の下に向かってコの字型に折れながら伸びている。
俺はセミドライのウェットスーツを身に付けて、紺色のビーチサンダルを足にツタツタと引きずりながら、右手にショートボードを抱えて、その階段を降りて行った。
隙間の広い鉄柵から見おろす海は、あまりにも美しくて目眩がしそうだ。
長い長い階段の合間にある、四角い石の踊り場は、すっかり砂が溜まっていて、あちこちに雑草が根を張っていた。その危うい石段をようやく半分くらい降りると、踊り場のすぐ横の崖に、岩肌をくり抜いて作った小さな古びた地蔵があるのが見えた。
それは記憶の通りだった。その当時の地蔵の首には、真っ赤なヨダレ掛けが巻いてあったのを、俺はハッキリと覚えている。しかし今は、その姿は風にさらされ削られて、二十年前より小さく、そして顔の表情も、曖昧になってしまった。
右手にボードを抱えたまま、左手で拝むようにして、地蔵の前で目を閉じる。
そう。あれから二十年が経った。けれどその頃の古い記憶は、意外なほどくっきりと、俺の頭の中に刻み込まれていたようだ。
地蔵に祈りながら記憶を辿っていると、ビーチサンダルを履いた足に、誰かが触れたような気がして、俺はハッと目を開いた。見ると、足の甲を、マッチ箱みたいな赤いカニが這い上がろうとしていて、俺は思わず「うひゃぁっ!!」と、短い悲鳴を上げて、足先を強く振った。振り払われた赤いカニは、鉄柵の隙間から飛び出して、あっけなく下へ落ちていった。
俺は柵に手を掛け身を乗り出して、海を覗き込んだ。でも、そいつはあまりにも小さくて、落ちた飛沫さえ確認出来なかった。この高さから落ちたら、いくらカニでも生きてはいられないだろう。地蔵に手を合わせてる最中に、悪気は無いにしても、殺生してしまったなんて嫌な感じだ。俺はもう一度、哀れな赤い小さなカニのために祈る。
再び目を開き、石の階段の残り半分を見降ろし、それから降りて来た上半分を見上げた。すると、ちょうど崖から海にせり出すように建設された、廃屋の下側が覗き込める。ひび割れたコンクリートの柱が4本、老朽化して放置された、ワンフロアーの横長の建物を、頼りなく支えていて、その柱と建物を繋ぐように、何本もの鉄骨が張り巡らされている。
それは何だか小学生の頃、『おやじ』と一緒に行った海辺の博物館の、広いホールに吊り下げられた、マッコウクジラの骨の標本を思い出させた。
しかしこの廃屋は、博物館の展示物にはならず、年内には取り壊される。