墓
墓の周りにボウボウと枯れ果てた、茶色い雑草を抜くだけでも結構な時間がかかった。
どれだけ墓参りに来て無かったのか、改めて自分の薄情さを思い知る。
手桶に汲んだ水を柄杓で墓石にかけ流し、新しい小さなタワシで磨く。
石に刻まれた名前の窪みに、昆虫の抜け出た白いマユのようなものが、丸くへばりついている。
それを丁寧に取り除き、花立ての中に溜まった水と水苔をこそぎ出し、香炉にこびりついた汚れを濡らした布で拭き取った。
一時間近くかけてようやく墓がきれいになり、摘んできた水仙を花立てに挿し、茶色い線香に火をつけようとして、ネルシャツの胸ポケットに手を伸ばす。
そして俺は、ライターもマッチも持っていない、おまけに車のシガーライターもご丁寧に家に封印してあることに気付いて、思わず舌打ちした。
おやじ、火がねぇよ……
周りを見渡したが、彼岸前の平日の墓地に、他に人影は無い。
棚田の斜面を見下ろす場所に、ひっそりと存在する墓地。
そこには寺の坊主も管理人もいない。
参ったな……
俺はため息をついた。
なんだか情けなくなって、香炉の中にただ線香をバラバラと入れると、墓に背を向け、敷石にしゃがみ込んだ。
バカだな。墓参りに来て線香もあげられないなんて……
乾いた棚田から冷たい風が吹いてきて、小さな墓地を囲むように植えられた桜の枝を揺らす。
桜の蕾は薄桃色に膨らんでいたけれど、咲き開くのはまだ先だ。
遠くにうっすらと太平洋の水平線が見える。
目を閉じて、口から息を吸って、しばらく止める。
それからアゴを上げて、肺に溜まった空気をゆっくりと吐きだした。
煙の匂いの代わりに、後ろから優しい水仙の香りが、俺の肩を抱くように漂って来た。
「おふくろ、おやじ、ごめんな……」
誰もいないから、口に出して言ってみた。
「長い間、放ったらかし。ひでえよな。
ここを引っ越してからも…大会の時とかはいつも通ってたんだけど、 何か慌ただしいっつーか、気持ちに余裕ないっつーか、、、もう昔の事は…あんま考えたくなかったし、
思い出さないように、見ないようにしてたから……。
でも今日な、『 ガケ下 』行って来たんだ。20年ぶりに下まで降りて海入って来た。あの頃の事、思い出しながら。
おやじ、知ってるか?あれ、今年中に取り壊されんだと。
俺、それ聞いたらよ、、、急に不安になったんだ。俺自身が、消える。そんな気がして……。
可笑しいよな。 だってそれまでは、自分の過去なんて消しちまいたかったのに。
消しちまって、テキトーに作り変えて、いい加減に誤魔化してたのに……」
風が止んで、花の香りが濃くなった。
俺は墓に向き直った。
「俺な……今、結婚したいと思ってる女がいるんだ」
石に刻まれた、自分の今の苗字を改めて眺める。
それからまた話し始めた。
「去年やっと、国内のだけど、でっかい大会で優勝できたし、良い機会だし。
でも、その前に…ちゃんと自分の話……おふくろと、おやじと、あの人の話、もちろんしなきゃいけなくて……」
水仙の花はじっと耳を澄ましている。
「そいつ、6つ年上で、美容師やってんだけど…… バツイチで、子どもがいるんだ。
小学生のガキ。 女のコなんだけど、、、全然、俺に懐かねえんだ。
元の父親の事、今も大好きみたいでよ。顔も多分、そっちに似てんだ。それで……」
俺は、香炉の中の線香を見つめながら口ごもった。
「それで…たまに…生意気言われると、、、ぶっ叩きたくなっちまうんだ。俺は…それが恐ろしくって、、、
俺の中の半分の血が、あの人の血が、いつか沸騰する時が来るんじゃないかって……」
言いながら唇が震えた。それをグッと噛みしめる。
おやじ…なんであんたはいつも俺に……
血の繋がらない俺に…あんなに優しくできたんだ?
どうしたらあんなに、穏やかでいられる?
教えてくれよ。
おふくろ…俺は大丈夫なのか?
結婚して、うまくいくのか?
あの人みたいに……
女や子供をぶっ叩くような男に、ならないでいられるのか?
「教えてくれよ…」
また風が吹いてきて、墓石の両脇で、細い白い水仙の花がそっと揺れた。
ただそれだけ。
誰も答えてくれない。おふくろもおやじも墓の下。
答えは自分で出すしかない。
俺自身が、考えて決めること。