水仙
海から上がって、俺はリーシュコードを外し、サーフボードを石の踊り場に置くと、崖に裸足でよじ登り、岩の隙間に咲いてる水仙の花を摘んだ。
所々に群れて咲く白い花は、誰もいない岩場の海岸に、すがすがしい香りを漂わせている。
それから白い花束を持って、急な階段を昇って行くと、途中、息切れがして、地蔵の見える踊り場で一息ついた。
あの時より、今の方が苦しいかも?
思わず苦笑して、水仙を握った左手を見つめる。
がんばれ、がんばれ
ゆっくり、ゆっくり
フーッと深く息を吸って肺を膨らませると、崖に刻まれた小さな地蔵と最後の別れを惜しみ、再び石段を昇り始めた。
廃屋も、この階段も取り壊された後は、誰がこの地蔵を思い出すのだろう。
ようやくてっぺんまで辿り着き、国道を渡って駐車場に戻ると、赤いピックアップから少し離れた所に、黒い大きなワンボックスカーが停まっているのが見えた。
ハッとして目を凝らすと、三河のナンバープレートが付いていて、運転席には濃いサングラスを掛けた短髪の男が乗っていた。
そして俺がボードを抱えて歩いているのを見て、車から降りて来た。
「こんにちは!」
そいつはサングラスを外して明るい声で言った。
「こんちは」
「波、どうでした?」
「残念ながら、ここはフラットに近いよ」
「やっぱ、そうですか……」
そいつはがっかりしたように言って、それから俺の顔をまじまじと見て、最後に左手の水仙の花束を不思議そうに眺めた。
俺はちょっと照れ隠しに笑って見せた。
「下にいっぱい咲いてるんだ」
「良いですね」
人なつっこい笑顔。年は多分、俺より五歳くらいは若く思える。
「トリップ?」
「ええ、春休みだもんで」
「そっか……一人?」
「いえ…女と一緒で。今、寝とります、後ろでグーグー」
そいつが肩をすくめ、口をへの字に曲げて見せる。
「……向こうから来たの?」
俺がアゴで廃屋の右横のトンネルを指すと、
「ええ。でも、どこもイマイチでしたわ」
と言って、首を横に振った。
「そっか。俺は左から来たけど、もっとこの国道を真っすぐ行けば、そこそこ楽しめるとこもあるよ。風も合ってるし」
「あ、ホントですか?」
そいつの目が、パッと輝く。
「ああ。ここから小一時間くらいかな。タバコ畑が見えてきたら、後は好きな所で右に曲がればいい。どこでもサーフィンできるし、特にうるさいヤツもいない」
「タバコ畑?」
「そう、タバコの葉っぱ、栽培してる畑」
「……タバコってどんなんですか?」
「……タバコは、、、腿腰くらいの高さで、びろんとした青いでっかい葉っぱで…… いや、今はまだスネ膝の小っちぇえヒマワリみたいなカンジかな……」
そいつは首をかしげて、しばらくタバコ畑のタバコの葉をイメージしていたようだったが、結局、
「……ちいと分からんじゃんねー」
と言い、困った顔をして笑った。
その表情と言い方が何だか妙に微笑ましくて、俺も思わず笑ってしまった。
俺たちが声を上げて笑っていると、黒い車の後部シートから、茶色いウェーブのかかった髪の女が、目を擦りながら顔を覗かせた。
「あ、起きたみたいです」
「うん。……これやるよ」
「え?良いんですか?」
ボードを一度持ち直して、水仙の花束を半分に分けて差し出すと、そいつはニッコリ笑って俺の顔を見ながらそれを受け取った。
「ありがとうございます。……あの、今シーズンも頑張ってください!」
「へ?」
「去年、伊良湖の大会のファイナル、見てました。最後の最後の一本で、エアーがスパーンッ!て決まって、逆転?!優勝!!てなった時は、ぞぞ毛もんでしたわ」
「あ、あぁ、、、ははは……かなりギリギリ、危なかったけどな」
「応援してます」
「ありがとう。良い旅を」
そいつはぺこりとおじぎをすると、サングラスを掛けて黒い車に駆け戻った。
駐車場を出る時、そいつがクラクションを二度鳴らして、女の方は白い水仙の花束を振りながら会釈した。
俺も手を上げて、半分になった花束を振り返した。
今シーズンは、まずは禁煙との戦いか……。それにしても、もう悪い事もできねぇなぁ。
苦笑しながら、黒いワンボックスカーが、あちらのトンネルに消えて行くのを見送った。