目を閉じるといつもの足音
丸亀城を登っていて思いつきました。
私の旦那が死んでから、今日で一年目になる。そして、私が杖をついて丸亀城を登るのも、天守閣へ向かう長い階段を上るのも、その途中で会う犬の散歩をする橘さんに会うのも、木漏れ日の隙間から耳に届く小鳥のさえずりを聞くのだって、今日で一年目だ。若かったころの力はもうないにしても、この小さな山を登り続けることくらい、私にだってできる。
階段を登り切り、今日は左回りへと進む。春の暖かな日差しを浴びながら、古い井戸の横を通り抜けた。下に見える野球グラウンドには、中学生がいつものように元気な声を出しながら、。きびきびと野球の練習をしていた。
ボールを投げ合って、バットを振る。走って、怒られて、笑い合う。その風景が、なんだか不思議と微笑ましく思えた。
彼らにはどんな目標があって、どんな大人になりたいのだろう。孫も中学生になったら、あんな風に外で汗を流すのだろうか。彼らのように、汗を流しながら走り回る、元気な孫の姿を想像すると、なんだか楽しくなって、一人でくすくすと笑ってしまう。慌てて周りに誰かいないか確認した。誰かが見ていたら気味が悪いと思われるかもしれない。
まあ、そんな世間体を気にするような年でもないか。今朝も鏡を見たらしわが増えていた気がする。ただの思い込みのかもしれないけれど。年はとりたくないものね。
ふと自分の中学校の頃の思い出を、振り返ってみた。古いおかっぱの髪型に、ださいセーラー服に、長いスカート。友達と笑いながら休み時間を過ごした事も、帰り道に見上げた先にあった、入道雲。放課後私を呼びだして、告白をしてきた、野球部の男の子(恐らく私が名前を覚えている唯一の同級生の男子だ)。結局断ってしまったのを覚えている。彼はあれから元気なのだろうか。まだこのあたりに住んでいるのだろうか。そんなことを考えてみた。
仮に、元気だったとしても、死んだ私の旦那には負けるだろう。あんないい男は他にいない。
だけれど、今はもういない。それが私の現実だ。
小さな松の木が何本か生えている、天守閣の裏側の開けた広場に、ようやく辿り着いた。ここから見上げる苔が少しこびりついている、古い石の階段と、高く均等に揃えられた石垣は、いつ見ても見事の一言だ。美しい。昔からこの城は、町の人たちに愛されてきた。毎日散歩をしていると、それがわかる。
いつだって、ここの城を散歩している人は、穏やかな表情を浮かべていたからだ。
子どもも大人も、男も女も、おじいさんもおばあさんも。自分はおばあさんの枠に入ってしまう年に、残念ながらなっていた。時間は昔から、残酷なものだ。
階段を、一段一段、踏み外さないよう、杖を付きながら丁寧に登る。今日はいつものより人通りが少なく、階段を登る私の周りや下、上には、誰もいなかった。腕時計の針はちょうど三時を指している。おやつでも食べているのだろう。
階段を登り切り、二つ目の井戸がある広場へとやってきた。(いい加減名前を覚えるべきなのだろうが、最近覚える必要がないことに気が付いた)
昼下がりのここは、日当たりが悪く、ひどく不気味に見える。午前中ともなれば、木漏れ日の美しい林にもなるのだが、午後は一転する。あの井戸には死体が落ちていて、幽霊が出るという噂まであるのだ。この暗さや、雰囲気から考えたら、妥当な話だろう。間違っても、夜にこんなところに近づきたくない。
広場を通り抜け、天守閣までの緩やかな坂に杖をつきながら登る。最初は苦労もしたが、一年も続けていれば楽なものだ。
日本で一番小さな天守閣が、私の目の前に凛々としてそびえ立っていた。小さくても、私はこの天守閣も結構気に入っている。
天守閣をしばらく拝んでから、北側の展望台へと足と杖を向ける。季節は春になり、花の甘い香りがただよってきた。桜はまだつぼみで、景色が全て桃色に変わるのは、あとに二週間はかかりそうだ。
頂上になると、登ってきている人たちが、ベンチに座っていたり、展望台を眺めていたりと、思い思いのくつろぎ方をしていた。私のくつろぐ場所は、今日も同じ。
海が見える展望台の柵だ。
北へと歩みを進め、杖を右足と同じ瞬間に前へと出す。そして展望台の柵に着き、体をそこへ預けた。老朽化が進んでいると書いているが、老人一人くらいなら支えてくれるようだ。一年間通い詰めることで、そう結論が出た。
そして玩具のような町に車、人や山や海や船をしばらく眺める。そして私は目を閉じた。感覚のほとんどが、嗅覚と聴覚へ働きかけている。風の音や鳥の声、他の人たちの話声が、さっきよりも大きく聞こえた。それに交じって、私の方へ近づいてくる足音も聞こえる。これもいつも通りだ。なんの不自然な事も無い。
「こんにちは」
後ろから、いつものしゃがれた声が聞えた。死んだ旦那の堂々とはっきりとした声とは大違いだ。それでも一年間この挨拶を続けているのだから、不思議なものだ。
「こんにちは」
私は目を開き、後ろの老人へと目を向ける。体は細いが、腰は曲がっておらず、杖もついていない。大きな眼鏡をかけながら、私の方を見てにこりと目を細めた、
「あの山は、なんて言うのですか?」
彼は右手に見える、この県の誇りの山の名を訪ねてきた。その質問の回数は、累計三百六十五回目になる。
「あれはね、えのき山って言うんですよ」
私はそう嘘を吐いた。昨日はしめじ山、一昨日はちくわ山と答えた。
初めて彼がしてきた質問には、真面目に飯野山と答えたものだ。だけれど三回目からは飽きてきて、ふざけた答えを返すようになった。
彼がぼけているのは、当然承知している。同じ質問を、同じ私に何度も何度もしてくるのだ。これで分からないものは、大馬鹿ものだ。
別に彼を気の毒には思わない。自然界の当然の摂理だ。だから私は、彼のその部分をたやすく受け入れた。
「じゃあ、あの建物は?」
「あそこはね、えのきの栽培施設ですね」
今日はえのきの話題で通す事にしていた。そんな毎日がいつの間にか楽しくなって、ここに登ってくるときには、彼に話す嘘の内容は、きちんと決めていた。
それから彼は納得し、私の横で柵にゆっくりともたれかかった。老人二人くらいの体重は支えられるというのも、この一年で学んだ事だ。私はもたれながら、三人目が来ない事を祈った。
もちろん、柵が壊れるかもしれないからだ。
そこからの過ごし方は、もう決まっている。お互いが思いついた時に会話をし、しないときはしない。それが一年間の日課だった。
「あの雲、なんだか犬に似ていますね」
彼は流れる雲を見ながらそう言った。
「ですね」
私は下で走り回っている、車を見るのが好きだった。人が流れて行く。その車には、どんな目的地があって、どんな道を走ってきたのか。それを想像するのが楽しくて仕方がなかった。
去年の春は、海の先には何があるのかという話をした。
去年の夏は、セミたちは、一週間どんなことを考えて、鳴いて、死んでいくんだろうという話をした。
去年の秋は、落ちてくる葉っぱは、どんな形や、色をしたものがあったかという話をした。
去年の冬は、雪が積もったら、何をしようかという話をした。
どれもこれも、次の日には覚えていないだろうから、私は過去の話は、何も持ち出さなかった。
今までの事を振り返っていると、いつの間にか日は沈もうとしていた。さっきまで明るく照らしていた太陽が、天守閣の広場のほとんどを、淡い橙色に染め上げて行く。その景色も、私はとても好きだった。
「ありがとうございますね、初対面なのに、長いことおしゃべりしてもらって」
彼が丁寧に頭を下げる。私も同じように、ぺこりと頭を下げた。
「最後に、お名前をうかがっても、よろしいでしょうか」
彼のこの質問も、すっかりおなじみだ。もちろん、今日の名前も考えてきている。
変化がある毎日で無いと、わたしは退屈で死んでしまうだろうから。
「菅原美智子と申します」
三百六十三通りも名前を考えるのは、なかなかの苦行だった。二回までは本名を答えていたのだが、三回目ともなると、不思議と遊び心が芽生えてしまう。人間と言うのはそういう生き物だ。
「美智子さん……いい名前だ」
彼は感慨深そうにそう言った。嘘の名前を褒められるのは、最初は複雑な思いだった。けれど、今となっては、名前を採点してもらっているみたいで、少し緊張してしまう。
若いころに戻ったようだ。
「それじゃあ、わしは先に帰るよ。ありがとうございますね」
「いえいえ」
彼はそう言うと、私に背中を向けた。彼は、いつも私を最後には一人にする。まるで、私が一人でいたがっているのを、知っているかのように。
「じゃあの、ひろこちゃん」
そう、彼は言った。耳を疑うような、思いもしない言葉で、私は思わず振り返り、老人の方を見た。
驚いた。
何故ならその名前は、最初の二回しか、告げておらず、それっきり語る事もなかったもの。私の本当の名前だったからだ。
さらに老人は、しめたとばかりに、言葉を続ける。
「昨日のさやかちゃんというのは、少し若々しすぎやせんか?一昨日のあさみちゃんは、なかなか君の雰囲気に合っていて、わしの好みじゃったがのう」
そこまでぺらぺらと言うと、彼は、がははと大声で笑い出した。私は振り返ってから、言葉も出ず、ただ笑う老人に釣られて、一緒に笑ってしまった。
「あらやだ、騙されちゃいましたね」
「男を騙そうとするからじゃよ。ジジイだと思って馬鹿にするんじゃない」
イタズラをした後の子どものように、彼は言う。そしてまた笑いだした。
ああ、やられた。
楽しんでいたのは、私ではなくて、彼の方だったようだ。いっぱい食わされてしまった。
よく一年間も、こんなくだらない茶番をしてこれたものだ。お互いに。
「今日は、一緒に降りますか」
しばらく黙りこんでから、私はそう言った。
そのまま二人で、いつものように会話をしながら、ゆっくりと丸亀城を降りて行く。いつも降りるときより、うんとゆっくり。
「つぼみがもう開きそうですね」
桜の木を見ながら、私はそう言った。
「じゃのう、綺麗に咲いたら、二人で花見でもしますか?」
「いい考えですね」
二人で茶をすすりながら、桜を見て、いつもの話しをする。そんな絵を想像すると、胸が躍った。まるで結婚したばかりの私と旦那の時のようだった。
歩いている間に、どうして騙していたとか、何で今日になって言ったかとか、一年間のことには何一つ触れなかった。ただ、普段と変わらずに、お互い、今自分が見たものの感想を言い合う。ただそれだけで、時間はゆっくりと過ぎて行った。夕日はもうすっかり沈み、辺りには夜の空気が少しずつ近づいているようだった。
階段を降りきり、私と彼は、お城の正門まで歩いて行った。野球グラウンドの横を歩きながら、グラウンドを整備している中学生たちの走る姿を見守る。この空気が、とても懐かしくて、心地よかった。
「それじゃあ、またの」
正門の前の道路で、おじいさんは右側へ向かって歩き出した。
「あの、きいてもよろしいでしょうか?」
私は彼のしゅっとした背中を見ながら呼びとめた。
「どうして、あんなボケた振りなんかを?それに、どうして今日になって」
それは真っ先に訊くべきことだったのかもしれない。それがなんだかおかしくて、自分でもきいたことが馬鹿らしくなってしまった。
「そうじゃのお……」
彼は眉をひそめて、考え出した。いや、考えているというより、まるでためらっているようだった。気恥しそうに、気まずそうに彼は顔をしかめ、頭をポリポリと掻いた。
「忘れてしもうたわい。年は取りたくないもんじゃ」
彼はそう言って、愉快そうに笑った。
私もなんだかその言葉で納得してしまい、何も文句は言わずに、微笑んだ。彼の笑い方が、なんだかとても気に入った。うるさすぎず、かといって聞き取れない事も無く、ただ静かに声を出して、がははと笑う。
まるで少年のまま、しわが増え、体がどんどん細くなり、髪が薄く、白くなったようだ。
「お互い、そうですね」
私も彼に同意した。
「じゃあ、今日はこれで」
私はそう言って、彼に小さく手を振った。また明日も来るのですか?なんてことはきかなかった。どうせ、お互い言わなくても、明日も向かう場所は同じだろうから。
彼が手をすっと上げ、ゆっくりと私とは別の道を歩いて行く。老人とは思えないほどのまっすぐ伸びている背中は、とても凛々しく、素敵に見えた。まるで彼という人間の中に、大きくて太い芯が通っているようだった。
「さよなら、桜さん」
しばらく歩いた先で、彼は振り返ることなく、大きな声で私にそう言った。その呼び方を私は、どこかで聞いた事がある気がする。そう、中学生のころ、私に告白してきた男の子だ。老人の後姿が、昔のあの日に、男の子の告白の後の後姿に重なる。全力で逃げて行った時の、小さくて、それでも、ちょっとたくましい、女の事は違う、しゅっとした背中と。
私があの男の子の顔を浮かべた時には、老人の姿は見えなくなっていた。
そして次の瞬間、私は自分が死のうとしていた事を思い出した。
旦那が死んだ事で、自分が生きる意味が分からなくなり、一度飛び降りようと、天守閣に登った日の事を、思い出した。
私は、柵を乗り越え、真っ逆さまへ下へ落ちようかと、もたれながら吟味していたのだ。そこに彼がやってきて、おかしな質問をしてきたのだ。
それからだ。すっかり私は、自分が死ぬために登ったという事を忘れてしまっていた。
色とりどりの車が通り過ぎる中、自分がすっかり死ぬ気を失くしていたことに、気が付き、笑った。
メガネの隙間から涙をこぼしながら、ただ笑い続けた。通り過ぎ行く人がいようがいまいが、お構いなしに、ただ笑い続けた。口を大きく開けて、声を荒げて。
次の日も、私は丸亀城へと登った。春の日差しの心地良さは、昨日よりも上だ。暖かさは昨日よりも増していて、桜のつぼみは、昨日よりも広がっていた。
天守閣へ着き、北の柵へと向かう。ただ今日は、柵にはもたれない。その少し後ろの、木のベンチに腰をかけた。
太陽がくれる温もりの下で、静かに目を閉じる。感覚がまた、聴覚と嗅覚に集中しだした。風の音や、鳥のさえずり。車の走行音や、人の話し声。
そこに交じって、いつもの静かな足音が私の方へ近づいてきた。
安っぽいサンダルの音で、私は安心する。ああ、今日も昨日と変わらない。
明日も、今日と変わりませんように。
そう祈ってから、私は目を開き、後ろへ顔を向けた。
「こんにちは、山下君」
目を閉じたまま、私はそう言う。何十年前のあの時の、男の子に声をかけたように、優しく、静かに。いつもの彼のしゃがれた声が、私にいつもの質問をした。
完
いいところですよ、、小さくて