キャラが生まれる
嬉しいことに、私はよくこんな事を言われる。
――みおりさんの小説はキャラがたってる。
はい。もう涙が出るくらい嬉しいです。それだけでもうやる気がでます。ありがとうございます。
しかし、そんなキャラたちはどのようにして生まれたのか。どのようにして描いているのか。
これはあくまで私の中の例なので小説を書く人は参考程度にしてほしい。誰もがみんな私のように書いているわけではないと思うから。こういうのは人それぞれのはずだし。
私は中学生くらいのころから人間観察が趣味だった。……というよりも自衛のために人間観察をしていたというか。それはもういろいろありまして、挙動不審な人には近づかない。これ大事。
それはまあ、置いといて、人間をじっと観察しているとだいたい人間の動き方が分かってくる。ああ、こういう時にはこういう風に動くんだな、と。それをずっと続けていると、自分の妄想の中の人々もだんだんと実際の人間らしい行動をとるようになってくる。たぶんこれが皆さんが言ってくださる『キャラが立っている』ということなのではないだろうか。
現実の人をみて、夢の中で真似をする。この過程が一番違和感のないキャラ達の動きを助けているのではないかと思う。
次に、どうやってキャラたちが私の中に生まれるのか。動き方に違和感が無くても実際に動くキャラがいないのでは意味がない。
これも人それぞれだと思うのだが、私はまず舞台を想像する。
例えば私の処女作、『例え、君が幽霊でも』ではまず初めに舞台となる学校を想像する。昇降口があって、階段があって、これだけ上ると主人公たちが使う教室がある。
すると、ちらりと影が見える。それは服の裾だったり、なびいた髪だったり、そっと置かれた手だったり。だんだんそのイメージに近づいて行くと、俯いて嫌そうな顔をしている少年っぽい女の子がいた。それが主人公、遥ちゃんだった、というわけだ。
彼女と目があうと、何かを訴えるように目線を逸らした。その先には例の幽霊、樹くんがいた……というように、私の中で少しずつキャラたちが登場してくる。
私がだいたいのキャラを把握すると、キャラたちは勝手に動き出す。その先には新しい登場人物がいたり、事件が待っていたり。
私は彼らの動きを必死に追いかけて記憶し、記録する。いわゆるライブ派というやつである。
だから私のプロットはとてもではないが見せられない。なんだこのメモ書きは状態だからだ。
次作の『気ままに。』はもっとひどい。
最初に見えたのはなんと、主人公である師匠の足だった。これで私が足フェチであることがげふんごふん。……とにかく、私は登場人物がまったくもって分からない状態から書き始めたのである。なんということだろうか読者の皆さまごめんなさい。
ライブ派の醍醐味は、作者自体が読者さまと同様に、物語の展開を楽しむことが出来るということではないだろうか。だって登場人物の動きが一区切りするまで性別も分からないんだぞ。そんなことが許されるのもネット小説の利点というか……。
うん。だから私は物語を紡ぐのが楽しくて仕方がないのだろう。
人間観察で培った妄想力があってこそなのだが、これがあれば自由に動くキャラたちを思う存分追いかけてもある程度問題はない。突拍子もないことをしだすことがあまりないからだ。
そして、そうやって生まれてきたキャラたちは完結したとしても、私の中に生き続ける。
当然だ。だって現実世界に基づく行動パターン、感情を持っているのだから。彼らは空想の世界で生きているようで実は違う。
私にとって彼らは違う世界に存在する、私の同志。
大好きで大切な友達。いつもいいネタありがとうございま……え、調子に乗るな? ごめんなさい。
みおり的世界の捉え方、その二。
レッツ、人間観察。