霧怜
霧は、今日も町を包んでいた。真夏の陽射しを飲み込むほどの濃い白が、港の景色を曖昧にし、時の流れすらも鈍らせている。
しがない記者、神谷晴人は、車の窓をほんの少し開けた。潮と草の匂いが混ざった空気が、熱気とともに入り込む。
霧ヶ原町。かつて栄えた港町は、今や観光パンフレットの片隅に名前が載る程度。けれどこの町には、誰もが忘れようとした“ひとつの事件”があった。
「白瀬怜、17歳。失踪。未解決」
ただの古い記録。けれど、晴人にはそれがどうしても引っかかった。
“なぜ、誰も続きを追わなかったのか”“なぜ、彼女の名前だけが、何度も消されようとしたのか”
――霧の中に埋もれたその声は、本当に静かで、けれど確かに、彼を呼んでいた。
真夏の霧ヶ原町では、今日も気温が歴代観測記録を更新するのではないかという話が出ていた。晴人は町で最大の施設、霧ヶ原中央図書館を訪れていた。
「今日も暑いですね。こんなに暑いと、頭も回らなくて……」司書の恵理子に話しかけると、彼女は苦笑した。「そうねぇ。このままだと、私も倒れてしまいそうだわ」
軽い世間話を終えると、晴人は本題に入った。「それで、所蔵庫に入れてもらえませんか? ネットで見たんです。町長の娘さんの失踪事件。僕が未解決事件を調べてるの、ご存じですよね?」
恵理子は、顔を少し曇らせた。「またその話? あの事件には、触れない方がいいと思うわ。確かに、あなたには一度話したけど……本当にやめておいた方がいい。所蔵庫には入れてあげるけど、写真を撮ったり、本を勝手に持ち出したりしないでね。あなた、前科あるんだから」
晴人は頭をかき、苦笑した。「わかってますって。」
所蔵庫に入り、晴人は失踪事件について調査を始めた。
「被害者は元町長・白瀬隆の娘、白瀬怜。15年前の夏、突如として失踪。だが、父親が捜索願を出さなかったり、娘の存在自体を隠そうとしたため、犯人は彼ではないかという疑惑が浮上……」
続く記述には、彼女が最後に目撃された洋館の名と、その後記者たちが洋館を訪れるも、多くが意気消沈し調査を中断したことが書かれていた。「なるほど……村井さんも、その一人か。父親の汚職も絡んでる可能性があるな。とにかく、洋館に行ってみよう。どうせ村井さんや恵理子さんはこれ以上教えてくれない。白瀬隆も、口を割るとは思えないし」
恵理子に礼を伝え、図書館を出た晴人は、町はずれの洋館へと向かった。雑踏を抜け、丘の上の古びた洋館へ足を踏み入れる。霧が立ち込め、蔦で覆われた洋館は、かつては立派だったのだろうが、今は廃墟同然。昼間だというのに、中は真っ暗だ。懐中電灯を片手に、慎重に屋敷内を進んだ。
しばらく歩くと、ピアノの音が聞こえてきた。音のする部屋にそっと近づくと、そこには透き通るような少女の姿があった。制服を着こなし、肌は白く、まるで光を透かすようだった。
「きみ、何しに来たの? ここは……あなたが来る場所じゃないよ」
その声は小さく、今にも消えそうだった。
「僕はある事件を調べてる。……きみこそ、家に帰らなくていいのか?」
少女は、悲しげに微笑んだ。
「私は白瀬怜。……もう死んでるの。私の時間は、ここで止まったままなの」
晴人は驚きつつも、そっと手を伸ばした。けれど、その手は空を切った。「本当に……幽霊なのか」しばし黙った後、尋ねる。
「もし君が怜なら、事件について教えて欲しい。ここで何があったのか」
怜は即座に首を振った。
「いや……どうせ、あなたも私の救いにはならない。あの日、私が出会った“あの何か”のことなんて、あなたにはどうにもできない。」
怜が目を逸らした瞬間、彼女の視線の先――部屋の奥に、異形の存在が立っていた。それは、怜を飲み込むように霧の中へ引きずり込み、最後に晴人を見据えてから、去っていった。まるで「帰れ」とでも言うように。
それでも晴人は屋敷を捜索し続けた。ある部屋に辿り着くと、そこには白瀬隆の汚職に関する資料が並んでいた。ほとんどが怜の手によるものだった。
本を数冊手に取った瞬間、再び怜が現れた。
「まだ帰らないの? あの化け物に見つかると、今度こそ食べられちゃうよ……私の事件を調べるのはいいけど、きっと後悔するわ」
晴人は、まっすぐ怜を見つめて言った。
「僕は、以前失踪した友人を見つけられなかった。だからこそ、君のような“忘れられた人”の声を拾いたい。それを記事にして、世に出すんだ」
しばらく沈黙した後、怜は目を伏せて呟いた。
「そう……なら、好きにして。でも、私からは話したくはない。今はね。」
怜の許しを得た晴人は、本を数冊借り、洋館を後にした。
町へ戻ると、晴人はまず村井を訪ねた。上司の小言をかわしながら資料を見せると、村井もついに事件の概要を語り始めた。しかし、「何かに出会った」という話に触れた瞬間、口を噤んでしまった。
その帰り道、白瀬隆とばったり出くわす。
「娘の事件に深入りするな。これは忠告だ」
晴人が反論しようとするも、隆は無言で立ち去った。
晴人は洋館から持ち帰った本を読み込んだ。それは怜の書いた日記だった。父の不審な行動や、怪しげな人物との電話、政治家との密会、不正の記録……そして、日記は地下室に至って急変する。
《……あの金庫、どうやって開けるんだろう。お父さんが地下室に行った。……何ここ、人間が実験体にされてる。お父さんが学者たちと話してる。……実験体の処分が始まった。なんで、あんな酷いことを……》
そこで日記は唐突に終わっていた。
晴人は推測する。実験体のうち、一体だけが生き残り、怜を襲ったのだと。それこそが、あの化け物。そして、恵理子や村井が調査を断念した理由――。
再び洋館を訪れると、怜が入口で待っていた。切羽詰まった表情で。
「来ちゃダメ。今度こそ、あの化け物に殺される」
晴人は言った。
「わかった。中には入らない。だから、日記の続きを教えてくれ」
怜はしばらく迷ったあと、口を開いた。
「……あの化け物は、実験で生まれたの。体を強くする新薬の治験だった。町を潤すために、父たちは薬を売ろうとしてた。でも副作用が暴走して、治験者たちは制御不能になった。彼らは証拠隠滅のため、全員処分した。私も帰ろうとしたけど……生き残りがいたの。私は、あれに喰われたの」
怜は晴人の目を見て、続ける。
「……でも、あれは私が成仏すればこの館からいなくなるの。だから……お願い。お父さんに罪を認めさせて、そして私に謝るように言って。恵理子さんも、村井さんも助けようとしたけど……止められなかったの。今は、あなただけなの」
怜から託された証拠と、村井からの協力で得た音声と映像記録を手に、晴人は白瀬隆の元へ向かった。
突きつけられた証拠に、白瀬は観念し、罪を認めた。だが口封じに晴人を襲おうとし、それを抑え込むと、晴人は静かに言った。
「実験は非人道的なものだった。娘さん……言ってましたよ。謝ってほしいって」
言葉としては拙かったが、なぜかその言葉は白瀬に届いた。彼は洋館の前で村井立会いのもと、謝罪し、警察に出頭した。
それを見届けるように、化け物も霧の中に消えた。
怜と、二人きりになった。
「私、もう大丈夫」
そう微笑む怜に、晴人は手を伸ばしかけ、そっと引っ込めた。朝霧の中で、彼女の輪郭がゆっくりと薄れていく。
「ありがとう。来てくれて……忘れないでね」
最後に残ったその声だけが、霧の館に静かに響いた。
夏の終わり、霧ヶ原町にはようやく風が吹き始めていた。あれほど昼でも見通しの悪かった霧が、嘘のように晴れ、丘の上の洋館も輪郭を現している。
その屋根の上に、もう光は漏れていない。ピアノの音も、誰の足音もしない。ただ、風の音だけが静かに吹き抜けていく。
神谷晴人は、手帳に最後の一文を書き入れた。“……少女は、時の止まった場所で、誰かの言葉を待っていた。そしてようやく、その声に届いたのだ。”
彼はタバコに火を点けかけて、ふとやめた。懐にしまい、空を見上げる。
あの日、彼女は言った。
「ありがとう。来てくれて……忘れないでね」
それは今も、どこかで微かに響いている。霧の晴れた町の片隅に、たしかに残る声として。




