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『再生のシンフォニア』  作者: ロングアイランド
8/50

喝采へのプレリュード

秋が深まり、校舎を囲む山々が赤や黄色に色づき始めると、文化祭の季節がやってきた。

夏のコンクールという張り詰めた緊張感とは違う、どこか浮かれたような、それでいて熱っぽい空気が校内を満たしていた。私たち吹奏楽部も、コンクールのためのクラシックではなく、誰もが知るJ-POPや映画音楽を中心にした、楽しいステージの準備に取り掛かっていた。


健太先輩との関係は、あの放課後以来、私たちの秘密になった。

部活の仲間たちは、私たちが付き合っていることは知っている。けれど、私たちが身体の関係を持ったことまでは、誰も知らない。

その秘密は、スリリングであると同時に、私の心に常に小さな罪悪感の棘を刺していた。放課後、先輩の家に寄り道する日は、パートの仲間たちに嘘をつかなければならない。

「ごめん、今日、家の用事で先に帰るね」

そう言って笑顔を作るたび、胸の奥がちくりと痛んだ。


彼は優しい人だった。でも、二人の間に、あの夏祭りの夜のような、心の繋がりがあるかと言われれば、自信がなかった。彼の部屋で過ごす時間は、肌を重ねることがほとんどで、ゆっくりと将来の夢を語り合ったり、悩みを打ち明け合ったりすることは、まだ、なかった。

それでも、彼に求められること、彼に「好きだ」と言われることは、私の自己肯定感を満たしてくれた。「声」以外の自分は空っぽだと思っていた私にとって、健太先輩は、私自身を、私の身体を、必要としてくれる初めての人だったのだ。


文化祭で演奏する曲の中に、当時流行していたポップスバンドのバラードがあった。その曲には、短いながらも、クラシカルな響きを持つ、クラリネットのソロパートが用意されていた。

合奏練習の日、顧問の鈴木先生は、パートリーダーの佐藤先輩ではなく、私を指名した。

「ここのソロ、望月、やってみろ」

「えっ…」

思いがけない指名に、私は声が出なかった。佐藤先輩の顔を盗み見る。彼は、驚いた顔もせず、ただ、黙って私を見ていた。

「今の望月の音なら、この曲の切ない雰囲気を、一番表現できると思う」

先生のその言葉に、私は驚きと喜びで胸がいっぱいになった。

佐藤先輩が、私の背中を「行けよ」というように、ぽんと押してくれた。その、力強い感触に、私は、こくりと頷き、譜面台の前に立った。


練習が始まった。

私がソロのメロディーを吹くと、それまでざわついていた音楽室が、水を打ったように静まり返った。

自分の音が、空間を満たしていく。

夏のコンクールの時とは、明らかに違う。あの秘密の和音を知って以来、私の音は、自分でも驚くほどの「深み」と「色気」を帯び始めていた。

一音、一音に、あの日の、痛みと、喜びと、罪悪感が、滲み出ていくようだった。それは、ただの技術ではなく、私の「体験」が、私の「感情」が、音になっていた。


吹き終わると、一瞬の沈黙の後、先生が「うん、いいな」と短く言った。

しかし、その後の休憩時間、音楽室は、別の意味で、ざわついた。

「ねえ、聞いた?二年の望月さんのソロ」

「なんか、すごい色っぽくなかった?」

他のパートの後輩たちが、ひそひそと話しているのが聞こえる。

その言葉に、私の心臓はまた、ドクンと大きく鳴った。

色っぽい。

それは、褒め言葉なのだろうか。

それとも、私の、あの、秘密が、音に、だらしなく漏れ出てしまっている、ということなのだろうか。

私は、自分の、秘めておくべきはずの、内面が、丸裸にされたような、恥ずかしさを感じた。


練習後、クラリネットパートの四人で自主練習をしている時、渡辺さんが、少し言いにくそうに口を開いた。

「奏、なんか、すごいね。吹っ切れたっていうか…」

鈴木さんも、「うん、夏の頃とは全然違う。すごく、感情が伝わってくるよ」と頷く。コンクールメンバーに選ばれなかった高橋さんも、「私、奏のその音、好きだな」と、静かに微笑んでくれた。


仲間たちの、その、まっすぐな言葉は、私の不安を、一瞬で、吹き飛ばしてくれた。

恥ずかしいことじゃなかったんだ。

私の音の変化は、ちゃんと、みんなに、届いていたんだ。

私が健太先輩と経験したこと、感じたこと。そのすべてが、私の音楽を、豊かにしてくれている。

そう思うと、私は、初めて、あの日の自分を、心の底から、肯定できるような気がした。


文化祭、前日。

放課後の、最後のリハーサル。私は、明日、健太先輩が聴いてくれることを想像しながら、今までで、一番の音で、あのソロを吹いた。

高揚感と、かすかな不安が入り混じる。

私の「声」は、明日、体育館いっぱいの人々の前で、どんな風に響くのだろうか。

私は、あの、秘密の和音を、喝采へと変えることができるのだろうか。

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