喝采へのプレリュード
秋が深まり、校舎を囲む山々が赤や黄色に色づき始めると、文化祭の季節がやってきた。
夏のコンクールという張り詰めた緊張感とは違う、どこか浮かれたような、それでいて熱っぽい空気が校内を満たしていた。私たち吹奏楽部も、コンクールのためのクラシックではなく、誰もが知るJ-POPや映画音楽を中心にした、楽しいステージの準備に取り掛かっていた。
健太先輩との関係は、あの放課後以来、私たちの秘密になった。
部活の仲間たちは、私たちが付き合っていることは知っている。けれど、私たちが身体の関係を持ったことまでは、誰も知らない。
その秘密は、スリリングであると同時に、私の心に常に小さな罪悪感の棘を刺していた。放課後、先輩の家に寄り道する日は、パートの仲間たちに嘘をつかなければならない。
「ごめん、今日、家の用事で先に帰るね」
そう言って笑顔を作るたび、胸の奥がちくりと痛んだ。
彼は優しい人だった。でも、二人の間に、あの夏祭りの夜のような、心の繋がりがあるかと言われれば、自信がなかった。彼の部屋で過ごす時間は、肌を重ねることがほとんどで、ゆっくりと将来の夢を語り合ったり、悩みを打ち明け合ったりすることは、まだ、なかった。
それでも、彼に求められること、彼に「好きだ」と言われることは、私の自己肯定感を満たしてくれた。「声」以外の自分は空っぽだと思っていた私にとって、健太先輩は、私自身を、私の身体を、必要としてくれる初めての人だったのだ。
文化祭で演奏する曲の中に、当時流行していたポップスバンドのバラードがあった。その曲には、短いながらも、クラシカルな響きを持つ、クラリネットのソロパートが用意されていた。
合奏練習の日、顧問の鈴木先生は、パートリーダーの佐藤先輩ではなく、私を指名した。
「ここのソロ、望月、やってみろ」
「えっ…」
思いがけない指名に、私は声が出なかった。佐藤先輩の顔を盗み見る。彼は、驚いた顔もせず、ただ、黙って私を見ていた。
「今の望月の音なら、この曲の切ない雰囲気を、一番表現できると思う」
先生のその言葉に、私は驚きと喜びで胸がいっぱいになった。
佐藤先輩が、私の背中を「行けよ」というように、ぽんと押してくれた。その、力強い感触に、私は、こくりと頷き、譜面台の前に立った。
練習が始まった。
私がソロのメロディーを吹くと、それまでざわついていた音楽室が、水を打ったように静まり返った。
自分の音が、空間を満たしていく。
夏のコンクールの時とは、明らかに違う。あの秘密の和音を知って以来、私の音は、自分でも驚くほどの「深み」と「色気」を帯び始めていた。
一音、一音に、あの日の、痛みと、喜びと、罪悪感が、滲み出ていくようだった。それは、ただの技術ではなく、私の「体験」が、私の「感情」が、音になっていた。
吹き終わると、一瞬の沈黙の後、先生が「うん、いいな」と短く言った。
しかし、その後の休憩時間、音楽室は、別の意味で、ざわついた。
「ねえ、聞いた?二年の望月さんのソロ」
「なんか、すごい色っぽくなかった?」
他のパートの後輩たちが、ひそひそと話しているのが聞こえる。
その言葉に、私の心臓はまた、ドクンと大きく鳴った。
色っぽい。
それは、褒め言葉なのだろうか。
それとも、私の、あの、秘密が、音に、だらしなく漏れ出てしまっている、ということなのだろうか。
私は、自分の、秘めておくべきはずの、内面が、丸裸にされたような、恥ずかしさを感じた。
練習後、クラリネットパートの四人で自主練習をしている時、渡辺さんが、少し言いにくそうに口を開いた。
「奏、なんか、すごいね。吹っ切れたっていうか…」
鈴木さんも、「うん、夏の頃とは全然違う。すごく、感情が伝わってくるよ」と頷く。コンクールメンバーに選ばれなかった高橋さんも、「私、奏のその音、好きだな」と、静かに微笑んでくれた。
仲間たちの、その、まっすぐな言葉は、私の不安を、一瞬で、吹き飛ばしてくれた。
恥ずかしいことじゃなかったんだ。
私の音の変化は、ちゃんと、みんなに、届いていたんだ。
私が健太先輩と経験したこと、感じたこと。そのすべてが、私の音楽を、豊かにしてくれている。
そう思うと、私は、初めて、あの日の自分を、心の底から、肯定できるような気がした。
文化祭、前日。
放課後の、最後のリハーサル。私は、明日、健太先輩が聴いてくれることを想像しながら、今までで、一番の音で、あのソロを吹いた。
高揚感と、かすかな不安が入り混じる。
私の「声」は、明日、体育館いっぱいの人々の前で、どんな風に響くのだろうか。
私は、あの、秘密の和音を、喝采へと変えることができるのだろうか。




