不意打ちのプレリュード
私たちの夏は、呆気ないほど静かに幕を下ろした。
あんなに焦がれた決戦の舞台は、ロビーに張り出された「銀賞」という一枚の紙切れとなって過去のものになった。
夏休みに入っても、私の心はあのコンクールホールの冷たい静寂に取り残されたままだった。
練習のない日々。
朝目覚めても、そこにはもう地獄のような基礎練習も、仲間たちの笑い声も、佐藤先輩の怒鳴り声もない。その完全な「日常」が、私にはひどく手持ち無沙汰で居心地が悪かった。
まるで自分だけが世界の回転から弾き飛ばされてしまったみたいだ。
そんな私を、親友の高橋さんはいつもの優しい笑顔で迎えてくれた。
「奏、お疲れ様。すごい演奏だったって、聴きに行ったみんな言ってたよ」
コンクールメンバーに選ばれなかった彼女がそう言って笑う。
その笑顔が眩しくて痛かった。
私は彼女の優しさに甘えていたのかもしれない。彼女の分の「夏」まで背負っていくつもりだったのに、結果も出せなかった。
「…うん…ありがとう…」
そう答えるのが精一杯だった。
その日、私たちはコンクールで使った大きな打楽器類を音楽室に戻す作業に追われていた。
ティンパニ、ドラムセット、マリンバ。
それらをトラックから降ろし、音楽準備室の定位置に運んでいく。
夏の熱気がこもった準備室は埃っぽく、汗と金属と木の匂いが混じり合っていた。
「お疲れ様」
不意に背後から低い声がかかった。
振り返ると、そこに立っていたのはパーカッションパートの一つ上の先輩、坂井健太だった。
背が高く、少し日に焼けた肌。練習中にティンパニを叩く姿を遠くから見かけたことはあったが、話すのはこれが初めてだった。
彼は私たちの手から重いシンバルのケースをひょいと軽々と奪い取る。
「ここ、置いとくよ」
「あ…ありがとう、ございます…」
慌ててお礼を言う私に、彼はもう一度向き直った。
「クラリネット、すごく、いい音だったよ」
そう言って彼はにかっと笑った。
その不器用そうな少年のような笑顔が、予想もしていなかった角度から私の空っぽになった心にすとんと落ちてきた。
何の下心も計算もない、まっすぐな言葉。
コンクールが終わってから、誰も私にそんな言葉をかけてはくれなかった。
佐藤先輩も仲間たちも皆、「結果」に打ちのめされていたから。
「…ありがとう、ございます…」
もう一度そう言うのがやっとだった。
彼は「じゃあ」と片手を上げ、埃っぽい準備室から出ていった。
後に残されたのは、私の驚くほど大きく鳴り響いている心臓の音だけだった。
それから数日後。
自室のベッドで読み終えた文庫本をぼんやりと眺めていた時だった。
携帯が短く震えた。
どうせ母からのお使いのメールだろう。そう思いながらディスプレイを開いた私の目は、次の瞬間固まった。
表示されていたのは、知らない番号からの短いメールだった。
『坂井です。今度の週末、神社の夏祭り、一緒に行かない?』
坂井先輩。
あの、パーカッションの。
息が一瞬止まった。
頭の中が疑問符でいっぱいになる。
どうして彼が私の番号を?
いつの間に?
何のために?
そして何より、なぜ私を?
だって私は彼とあの時、一言二言言葉を交わしただけだ。
私は内気で目立たなくて可愛くもない。
彼ほどの人気のある先輩が、私を誘う理由がどこにある?
パニックになった頭でぐるぐると考える。
これは何かの間違いメール?
それとも先輩たちの間で流行っている、罰ゲームか何か?
疑念が胸を黒く塗りつぶしていく。
しかし、その一方で。
心の一番柔らかい場所が、あの時の彼の不器用な笑顔を思い出していた。
『いい音だったよ』
あの言葉は本物だった、と。
指が震える。
どう返事をするべきか。
「どうして私の番号を知ってるんですか?」
「人違いじゃありませんか?」
「ごめんなさい、私は…」
断るための言葉ばかりが頭に浮かぶ。
その時だった。
携帯がもう一度短く震えた。
彼からの追伸だった。
『あ、番号、クラリネットの渡辺さんに聞いた。勝手に、ごめん』
その一文が私の心のダムを決壊させた。
罰ゲームじゃない。
間違いでもない。
彼は渡辺さんにわざわざ私の番号を聞いて、誘ってくれたのだ。
私、を。
その事実が、コンクール後の虚無感で灰色だった私の世界に、たった一滴鮮やかな色を落としたようだった。
気づいた時、私の指は勝手に動いていた。
『はい、行きます』
送信ボタンを押した後で、私ははっと我に返った。
しまった。
あまりにも即答すぎる。
もう少し考えるふりをするべきだった。
でも、もう遅い。
数秒後。
『よかった。じゃあ、土曜の七時、神社の鳥居の前で』
絵文字の一つもないそっけない返信。
でも、その無機質な文字列が、今私にはこの世のどんな美しいメロディーよりもきらきらと輝いて見えた。
私はベッドに突っ伏した。
顔が熱い。
心臓が、あのティンパニの連打のように激しく胸を打っている。
15歳の夏。
呆気なく終わったはずの私の夏は、今全く予期していなかった新しいプレリュード(前奏曲)を奏で始めていた。




