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『再生のシンフォニア』  作者: ロングアイランド
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陰性症状の沼

春が過ぎ夏が来ても私の心は凍りついたままだった。抗精神病薬は幻聴や妄想といった「陽性症状」を確かに鎮めてくれた。しかしその代わりに私の心を支配し始めたのは「陰性症状」と呼ばれるもう一つの恐ろしい敵だった。

陽性症状が正常な状態に「ありえないものがプラスされる」症状だとするならば、陰性症状は正常な状態から「あるべきものが失われる」症状だ。


その代表格が「感情の平板化」だった。私は笑うことも泣くこともできなくなった。

談話室のテレビでお笑い芸人が面白いことを言って他の患者たちが声を立てて笑っていても、私には何がおかしいのか全く理解できなかった。ただ周りに合わせて口の端を少しだけ引き上げる。その乾いた作り笑いは誰の目にも不自然に映ったことだろう。

面会に来た母が私の前で泣き崩れたことがあった。「奏……ごめんね……代われるものなら代わってあげたい……」その悲痛な言葉を聞いても私の目からは一粒の涙もこぼれなかった。悲しいという感情が湧いてこないのだ。ただ困ったな、どうしようと冷静に分析しているもう一人の自分がいるだけ。

私は冷たいロボットになってしまったようだった。感情という人間を人間たらしめる最も根源的な機能が故障してしまったのだ。


そしてもう一つ私を苦しめたのが「意欲の低下」だった。何もする気が起きない。ベッドから起き上がることさえ億劫で一日中寝て過ごす日が増えた。以前は毎日欠かさずに行っていた洗顔や歯磨きさえも面倒くさくなった。髪はとかされることもなくもつれ肌は生気を失い荒れていった。

看護師が私を風呂に入れようと声をかけても私は頑なにそれを拒んだ。服を脱ぎ身体を洗いまた服を着る。その一連の行為がエベレストに登るのと同じくらい途方もなく困難なことのように感じられたのだ。

「望月さんこのままじゃ不潔ですよ」

看護師の言葉は正論だった。しかしその正論が私を追い詰めた。わかっている。こんな自分が駄目なことくらいわかっている。でもできないのだ。心が身体に命令することをやめてしまったのだから。

私はただゆっくりとゆっくりと生命活動を停止させていく植物のようになっていった。光も水も求めずただ静かに朽ちていくのを待っているだけの存在。


感情と意欲を失った私は他者との関わりを完全に絶った。

病棟には患者同士のコミュニティが存在した。談話室でお茶を飲みながら世間話をしたりトランプをしたり。彼らは彼らなりにこの閉鎖された世界で社会を形成していた。

しかし私はその輪に入ることができなかった。いや入ろうとしなかった。

誰かが私に話しかけてきても私はまともに返事をすることができない。頭の中で言葉がまとまらない。何を話せばいいのかわからない。そしてやっとの思いで絞り出した掠れた声は相手を困惑させるだけだった。

私は孤立した。それは自ら選んだ孤立だった。

人間関係は私にとってひどく疲れるエネルギーを消耗するだけの行為になっていた。相手の表情を読み言葉の裏を考え適切な相槌を打ちそして自分の意見を述べる。かつて当たり前のようにできていたそのコミュニケーションという行為がもはや私には不可能になっていた。

家族との面会も苦痛だった。彼らは必死に私に外界の情報を伝えようとした。「地元の町で新しいスーパーができたとよ」「いとこの〇〇ちゃんが結婚したげな」

しかしその話は私の心には何の興味ももたらさなかった。それは私とは無関係な世界の出来事。私はもうその世界の住人ではないのだから。

会話が途切れると重い沈黙が訪れる。その沈黙を埋めるために両親が無理に明るい話題を探しているのが痛いほど伝わってくる。その痛々しい光景に耐えられず私はいつも「もう帰って」と心の中で叫んでいた。

私は一人になりたかった。誰とも関わらず誰の感情にも触れずただ静かな砂漠の中で一人佇んでいたかった。


夏。私の元に一通の手紙が届いた。大学の教務課からだった。

「在学年限超過による除籍処分について」

その冷たい事務的な文面は私に現実を突きつけた。私はもう大学生ではなくなったのだ。社会から私の籍は正式に抹消されたのだ。

当たり前のことだった。私はもう二年近く大学を休学していたのだから。

しかしその一枚の紙切れはずっしりと重かった。それは私の過去と未来を繋ぐ最後の細い糸が断ち切られたことを意味していた。

もし病気にならなかったら。今頃私は卒業しどこかの会社で働いていたかもしれない。あるいはアナウンサーになるという夢を追いかけていたかもしれない。恋をして結婚も考えていたかもしれない。

そんな「もしも」の世界が私の頭の中に広がっては消えていく。それは甘い幻想であると同時に私の今の惨めな現実を浮き彫りにする残酷な鏡でもあった。

私にはもう未来がない。この精神科病院のベッドの上が私の人生の終着駅なのだ。私はここでゆっくりと狂いそして死んでいくのだ。

その絶望的な諦念が私の心を完全に覆い尽くした。もはや良くなりたいという希望さえも持てなくなっていた。治療への意欲も完全に失われた。

私は主治医に告げた。筆談で。

「もう退院はしなくていいです」

「ずっとここにいます」

それは私の白旗宣言だった。人生という戦いから完全に降りるという意思表示だった。主治医は悲しそうな顔で私の書いた文字を見つめていた。しかし彼は何も言わなかった。

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