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『再生のシンフォニア』  作者: ロングアイランド
4/50

真夏のフェルマータ

決戦の日の朝は、蝉時雨の絶叫と共にやってきた。

肌にまとわりつく港町特有の湿った熱気。

私たちはバスに楽器と共に詰め込まれ、決戦の地である市民ホールへと向かった。


バスの窓から見える景色はいつもと同じ夏なのに、全く違う色に見えた。誰も一言も喋らない。張り詰めた弦のような沈黙を、エンジンの低い唸り声だけが揺らしていた。

会場に到着すると、他校の生徒たちの熱気とあちこちから聞こえてくるチューニングの不協和音が、嵐のように私たちを飲み込んだ。空気が焼けるような期待と不安で飽和している。


ステージ袖。

コンクリートの壁がひどく冷たかった。

客席のざわめきが分厚い緞帳どんちょうの向こうから地響きのように伝わってくる。私の心臓はこの地響きと共鳴し、今にも張り裂けそうだった。

指先は感覚がないほど冷え切っているのに、掌はびっしょりと汗をかいている。唇はカラカラに乾ききっていた。リードを濡らし直そうにも、唾液そのものがもう出なかった。


「大丈夫」


ふいに隣にいた佐藤先輩が、私の手を彼のごわごわした大きな手でぎゅっと握ってくれた。

「お前は、お前の音を出せ。俺たちがついてる」

その不器用な手の温かさとぶっきらぼうな優しさに、止まっていた呼吸がかろうじて戻ってきた。そうだ、私は一人じゃない。


アナウンスが響き、私たちの学校名が呼ばれる。

緞帳がゆっくりと上がっていく。

目に飛び込んできたのは漆黒の闇。その闇の中に、数千の息を潜めた視線が私を射抜いている。

スポットライトの暴力的な光が容赦なく肌を焼いた。


自分の席に着いて楽譜を開く。そこに書き込まれたおびただしい数の注意書きが、滲んでよく見えない。

指揮者の鈴木先生が静かに指揮台に上がった。会場のすべての音がぴたりと消え、耳が痛くなるほどの静寂がホールを満たす。

先生と目が合った。

彼は何も言わず、ただこくりと小さく頷いた。その絶対的な信頼の眼差しに応えなければ。

私は最後の震える息を深く、深く吸い込んだ。


そして、彼の指揮棒が振り下ろされた。


十二分間。

それは一瞬の夢のようでもあり、永遠に続く試練のようでもあった。

最初の音を吹き込んだ瞬間、恐怖はどこかへ消え去っていた。

無我夢中で、ただひたすらに楽譜の海を泳いだ。

練習で佐藤先輩に何度も怒鳴られたあのパッセージ。指が勝手に動く。

合宿所の夜、仲間たちと息を潜めて合わせたハーモニー。隣で吹く渡辺さんや鈴木さん(同級生)の息遣いが肌で感じられる。

今はもう何も考えられない。


ただ身体が覚えている音を、魂を込めて紡ぎ出すだけだった。

私の音は、佐藤先輩の豊かで深い音に溶け込んでいるだろうか。

客席の暗闇のどこかで、高橋さんが聴いてくれている。

その一点だけを心の支えにして。


そして最後の音がホール全体に響き渡り、すべてを包み込むように静寂の中へと溶けて消えた。

一拍。

二拍。

永遠に続くかと思われた、静止フェルマータ


割れんばかりの万雷の拍手が、津波のように私たちに降り注いだ。

私は自分がちゃんと呼吸をしていたのかさえ分からなかった。ただ全身の力が抜け、クラリネットを握りしめたまま動けなかった。


結果は、「銀賞」だった。

ロビーに張り出された一枚の紙。その冷たい活字が私たちの運命を決めた。


目標としていたゴールド金賞、そしてその先の上位大会への切符には、あと一歩届かなかった。


発表の瞬間、崩れ落ち泣きじゃくる先輩たち。

私も涙がこみ上げてくるかと思った。

しかし、流れなかった。

ただ、胸にぽっかりと大きな穴が空いたような、奇妙な虚無感が私を包んでいた。

悔しいという熱い感情よりも、ただ終わってしまったという冷たい喪失感。


あれほどの地獄のような練習を乗り越えてきたのに。

唇を切り、指を潰し、魂を削って紡いできた私たちの音楽が、たった一枚の賞状の色でその価値を決められてしまった。

張り詰めていた何かがぷつりと切れた。

私の15歳の、全力で駆け抜けた夏は、呆気ないほど静かに幕を下ろした。

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