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『再生のシンフォニア』  作者: ロングアイランド
38/50

訣別のプレリュード

どうやって病院からアパートまで帰り着いたのか覚えていない。気づいた時には私は自分の部屋の冷たい床の上に座り込んでいた。

窓の外では日が暮れかかり空がオレンジ色と紫色に混じり合っていた。それは息を飲むほど美しい光景だった。しかし私の目にはすべてが色褪せた灰色の景色にしか映らなかった。

私はこれからどうすればいいのだろう。

誰かに話さなければ。この巨大すぎる現実を一人で抱えきることは到底できそうになかった。

私は震える手でスマートフォンを手に取った。そして一番上の履歴にあった番号をタップする。

母だった。

数回のコールの後受話器の向こうから母の明るい声。

「もしもし奏?どがんしたとねこげん時間に」

そのいつもと変わらない優しい声を聞いた瞬間私の涙腺は決壊した。

「……おかあ……さん……」

嗚咽で言葉が続かない。

「奏!?どがんした!?何かあったと!?」

母の動揺した声が鼓膜を揺さぶる。私はしゃくりあげながら途切れ途切れに言葉を紡いだ。

「びょういん……いった……ら……」

「……がん……だって……」

電話の向こうで母が息を飲む音がした。そして一瞬の沈黙。

「……嘘でしょ……?」

母の声は震えていた。

私は泣きながら医師に告げられたすべてを話した。甲状腺癌であること。ステージⅢであること。手術が必要なこと。そして声が失われる可能性があること。

私が話し終えるまで母はただ黙って聞いていた。そしてすべてを聞き終えると彼女は今まで聞いたこともないような力強い声で言った。

「……大丈夫。大丈夫やけん。奏は一人じゃなかとよ。お母さんもお父さんもみんなついとるけん。大丈夫やけんら……!」


その声も泣いていた。しかしそれは絶望の涙ではなかった。娘を守ろうとする母親の決意の涙だった。

その電話をきっかけに望月家は動き出した。

父はすぐに仕事を休み私の元へ駆けつける手筈を整えてくれた。

祖父も電話口でただ泣いていた。

私は家族という温かいしかし今は少しだけ息苦しい愛に包まれた。私は一人ではなかった。しかしこれから私が立ち向かわなければならない手術という戦場へはたった一人で赴かなければならないのだ。


手術日は十二月の終わりに決まった。

それまでの約一ヶ月間。私はまるで死刑執行を待つ囚人のように静かなしかし張り詰めた日々を過ごした。

大学には休学届を提出した。友人たちには「少し体調を崩して実家で療養する」とだけ伝えた。本当のことは言えなかった。同情されるのが嫌だった。

本土のアパートを引き払い私は海辺の町の家に戻った。そこには私の帰りを待ちわびていた家族がいた。

母は私のために栄養のある食事を毎日作ってくれた。父は口数は少なかったが黙って私のそばに寄り添ってくれた。祖父は仏壇に毎日私の回復を祈っていた。

その過剰なほどの優しさが私には辛かった。私は家族の悲しみの原因なのだ。私が病気になったせいでこの家の穏やかな日常は壊されてしまったのだ。


手術を数日後に控えたある夜。私はどうしても音を奏でたくなった。

私は高校時代吹奏楽部で汗と涙を流したあの思い出の詰まったクラリネットをケースから取り出し、そして誰もいない離れで一人楽器を組み立てた。


リードを震わせ息を吹き込む。

私の肺から送り出された空気が楽器という媒体を通して「音」という生命に変わる。

その音は震えていた。しかしそれは紛れもなく私の音だった。


私は吹いた。コンクールで演奏した思い出の曲。佐藤先輩と出会うきっかけになったあの曲。

メロディーを奏でながら涙が溢れて止まらなかった。


楽しかった高校時代。仲間たちと笑い合った日々。健太先輩に裏切られた痛み。佐藤先輩に救われた喜び。彼に捨てられた絶望。そして今ここにある死への恐怖。

私の二十一年間の人生のすべてがその音色の中に溶け込んでいくようだった。

これが私の最後の曲。私が私であったことの証。

私は夜が更けるまでただひたすらにクラリネットを吹き続けた。それは過去の自分への訣別のプレリュード(前奏曲)だった。


入院の日。父が運転する軽トラックの助手席に乗り私は再び本土の大学病院へと向かった。窓の外には見慣れた故郷の冬の景色が広がっていた。

病院に着き入院の手続きを済ませる。私が通されたのは四人部屋の窓際のベッドだった。同室の患者たちは皆私よりもずっと年上の女性たちだ。

私の両親は日が暮れるまで私のそばにいてくれた。しかし面会時間が終わり彼らが帰って行った後病室に一人残されると急に心細さがこみ上げてくる。

消灯時間を過ぎ病室が暗闇に包まれる。私は眠ることができずベッドの上で何度も寝返りをうった。

明日は手術。

私の身体にメスが入れられる。私の人生を変えてしまうかもしれないその時が刻一刻と近づいてくる。

怖い。怖くてたまらない。

私はベッドからそっと抜け出し廊下の突き当たりにある公衆電話へと向かった。そして財布の中から一枚のテレホンカードを取り出した。そこに書かれていたのはもう二度とかけることはないと誓ったはずの電話番号。佐藤先輩の番号。


今彼がどうしているのか知らない。もう新しい彼女がいるのかもしれない。私のことなどもう忘れてしまっているのかもしれない。

それでも私はどうしても最後に彼の声を聞きたかった。

受話器を取り震える指でボタンを押す。

ツー、ツー、という無機質な呼び出し音が私の耳に響く。

心臓が張り裂けそうだった。

そして数回のコールの後。

「……もしもし」

聞こえてきたのは紛れもなく彼の声だった。一年以上ぶりに聞くその声は私の記憶の中にあるよりも少しだけ低く大人びて聞こえた。

「……先輩……」

私の声を聞いた瞬間電話の向こうで彼が息を飲む気配がした。

「……奏……?どうしたんだ今頃……」

彼の声は戸惑っていた。当たり前だ。あんな別れ方をしたのだから。

「ごめんなさい……こんな時間に……」

「……ただ……最後に……もう一度だけ……先輩の声を……聞きたくて……」

私は泣きながらすべてを話した。病気のことも明日の手術のことも。

彼は黙って私の話を聞いていた。

そしてすべてを話し終えると彼は静かに言った。

「……そっか……」

それだけだった。しかしその一言には彼の様々な感情が込められているように感じられた。

「……奏」

彼は続けた。

「頑張れよ。絶対に負けるな」

その言葉は優しかった。しかしそれはかつて私が愛した恋人の言葉ではなかった。遠い過去の人間に対する同情と激励の言葉だった。

「……うん……ありがとう……先輩」

私はそれだけを言うのが精一杯だった。

「じゃあな」

電話は切れた。

私は受話器を置いた。涙はもう出なかった。

これで本当に終わり。私の青春は今この瞬間完全に終わりを告げたのだ。

私は病室に戻りベッドに潜り込んだ。

窓の外では雪が降り始めていた。

明日はクリスマスイブ。

聖なる夜の前夜。私はたった一人で静かに運命の朝を待っていた。

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