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『再生のシンフォニア』  作者: ロングアイランド
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審判

九月に入っても街の暑さは一向に和らぐ気配を見せなかった。

蟬の声が私の不安を掻き立てるようにやかましく鳴り響いている。


私は大学近くの古びたビルの二階にある小さな耳鼻咽喉科の前に立っていた。

何度も引き返そうと思った。気のせいだきっと。そう自分に言い聞かせ踵を返しかけた。しかし首筋のしこりのあの硬い感触が私をその場に縛り付けた。


錆びついた階段を上りドアを開ける。消毒液の匂いと老朽化したエアコンの低い唸り声が私を迎えた。待合室には数人の老人と咳き込む子供が座っていた。場違いな場所に迷い込んでしまったような居心地の悪さを感じた。


「望月奏さん」

看護師に名前を呼ばれ診察室に入る。白髪頭の人の良さそうな初老の医師が私に椅子を勧めた。

「どうされました?」

私は震える声で症状を説明した。数ヶ月前から続く声の掠れ。喉の違和感。そして首のしこりのこと。

医師は私の話を黙って聞いていた。そして「じゃあちょっと喉を見てみましょうね」と私に口を大きく開けるように言った。金属のヘラのようなもので舌を押さえつけられる。

「あーと声を出して」

言われるがままに声を出す。医師はライトを当てながら私の喉の奥を念入りに診察していた。

次に彼は私の首筋に触れた。温かく乾いた指先が例のしこりの上で止まる。彼は眉間に微かな皺を寄せた。その表情の変化を私は見逃さなかった。

「うーん…」

医師は腕を組みしばらく何かを考えていた。その沈黙が私の心臓を締め付けた。

「望月さんこれはうちではちょっと判断がつかないですね。念のため一度大きな病院できちんと検査してもらった方がいいでしょう」

その言葉は穏やかだった。しかし私には死刑宣告への序章のように聞こえた。

「大学病院への紹介状を書きましょう」

彼はそう言って私の顔を見ずにデスクの上の便箋にペンを走らせ始めた。診察室の蛍光灯の冷たい光が彼の眼鏡に反射して光っていた。


紹介状を握りしめ私が向かったのは市内にある大学病院だった。そこは近所の診療所とは何もかもが違っていた。巨大で近代的でそしてひどく非人間的な場所だった。

総合受付で手続きを済ませ耳鼻咽喉科の待合室で何時間も待たされた。電光掲示板に自分の番号が表示された時私はまるで裁判の被告人のようにこわばった足取りで診察室へと向かった。

そこからの日々は検査の連続だった。

まずエコー(超音波)検査。首に冷たいジェルを塗られ技師が機械を当ててモニターを食い入るように見つめている。私はそのモニターに映る白黒の不気味な影を見ることができなかった。技師は終始無言だった。その沈黙が何よりも雄弁に事態の深刻さを物語っていた。

次に血液検査。私の腕から何本も血が抜かれていく。赤い液体が私の生命が吸い取られていくような不快な感覚。

そして最も苦痛だったのが「穿刺吸引細胞診」という検査だった。ベッドに仰向けにされ首をエコーで確認しながら例のしこりに直接長い針を突き刺すのだ。

「ちょっとチクッとしますよ」

医師はそう言った。しかしそれは「チクッ」というような生易しいものではなかった。身体の奥深くまで鋭い痛みが突き抜ける。私は必死に声を殺し涙を堪えた。

私の身体はもはや私の者ではなかった。それはただの検査対象。分析されるべき肉の塊。医師や技師たちは私という人間ではなく私の身体の中にある「異常」だけを見ていた。


すべての検査が終わり結果が出るまで一週間待たなければならなかった。その一週間は私の人生で最も長くそして最も暗い時間だった。

大学の講義にも当然身が入らない。アパートの部屋に閉じこもりただひたすらスマートフォンの画面を眺めて過ごした。友人からの連絡も無視した。食欲もなくゼリー飲料を飲むのがやっとだった。夜は眠れなかった。目を閉じると検査室の冷たい機械たちの姿が浮かんでくる。そして最悪の宣告をされる自分の姿が。

私は誰にもこのことを話せなかった。たった一人でこの出口のない暗いトンネルの中を彷徨っていた。


審判の日が来た。

その日の朝は嘘のように青く晴れ渡っていた。しかし私の心は鉛色の雲に覆われていた。

大学病院の長い廊下を歩く。私の足音だけがやけに大きく響いた。診察室のドアの前で一度深呼吸をする。そしてノックをした。

「どうぞ」

中から落ち着いた声がした。私を担当してくれたのは四十代くらいの冷静なしかしどこか優しい目をした男性医師だった。

部屋に入ると彼は私の目の前の椅子に座るように手で示した。彼のデスクの上には私の名前が書かれた分厚いファイルが置かれていた。

「望月さん、検査お疲れさまでした」

彼は静かにそう切り出した。

「単刀直入にお話しします。先日の細胞診の結果ですが…」

彼は一度言葉を切り私の目をまっすぐに見た。

「悪性の細胞が見つかりました」

その瞬間世界から音が消えた。

医師の声も壁にかかった時計の秒針の音も廊下から聞こえてくる雑音もすべてが遠ざかっていく。

悪性。

その言葉が私の頭の中で何度も何度もこだました。

「甲状腺乳頭癌という病気です。幸い進行は比較的緩やかなタイプの癌ですが…」

癌。私が癌。

「リンパ節への転移も見られます。ステージで言うとステージⅢということになります」

ステージⅢ。

もう彼の話はほとんど頭に入ってこなかった。ただ目の前の彼の口が私とは無関係な恐ろしい単語を次々と紡ぎ出している。

「治療としては甲状腺をすべて摘出する手術が必要になります」

手術。

「…手術をすれば治るんですか…?」

私はかろうじてそれだけを絞り出すように尋ねた。

「はい。このタイプの癌は予後は比較的良好です。きちんと手術をすれば多くの場合普通の生活に戻ることができます」

普通の生活。

その言葉にほんの少しだけ希望の光が見えたような気がした。しかしその光は医師の次の一言によって無残にも打ち砕かれた。

「ただ…」

彼は少し言い淀んだ。

「甲状腺のすぐ裏には反回神経という声帯をコントロールしている非常にデリケートな神経が走っています。手術の際にこの神経を傷つけてしまうリスクがゼロではありません。もしそうなった場合…」

彼は続けた。

「声が出にくくなったり声質が変わってしまったりする可能性があります」

声が?私の声が?

その瞬間私の頭の中で何かがぷつりと切れた。

ああそうか。神様は私からすべてを奪うつもりなのだ。

健太先輩に裏切られ佐藤先輩に捨てられ愛を失いそして今度は私の最後の砦だったこの「声」までも。

私はもう何も感じなかった。悲しみも絶望も恐怖さえもどこかへ消えていた。ただ目の前が真っ白になった。

私は白い部屋でたった一人自分の人生の終わりを宣告されていた。

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