忍び寄る影
あのプレゼンテーションの日から私の世界はさらに狭く暗いものになった。
大学には行けなくなった。
あの壇上での屈辱的な失敗。ゼミの仲間たちの同情に満ちた視線。それを思い出すだけで身体が竦み呼吸が浅くなる。もう誰とも顔を合わせたくなかった。
私は再び自分の殻に閉じこもった。
アパートのカーテンは一日中閉め切られ部屋の中は薄暗い。外界との接触は最低限の買い物だけ。それも人目を避けるように夜遅くコンビニに行くのがやっとだった。
喉の不調は一進一退を繰り返していた。
調子の良い日もあれば朝から声がガラガラでまともに話すこともできない日もあった。まるで気まぐれな暴君に支配されているようだった。私は次第に自分の声に自信が持てなくなり話すこと自体を避けるようになった。
電話が鳴っても出ない。訪ねてくる人がいても居留守を使う。メールやチャットでのやり取りだけが私に残された唯一のコミュニケーション手段だった。
しかしそれさえも億劫になっていった。文字を打つ指先が重い。言葉を選ぶ思考が働かない。
私はゆっくりと世界から切り離されていった。
あれほど好きだったカラオケにも当然足が向かなくなった。
友人から誘われても「最近喉の調子が悪くて」と断るのが常套句になった。飲み会に行っても以前のように場の中心で大きな声で笑ったり話したりすることはなくなった。私はできるだけ声を使わないように息を潜めるように過ごすようになった。
私の変化に周囲も気づき始めていた。
「奏最近元気ないね。就活うまくいってないの?」
心配してくれる友人に私は「そんなことないよ」と力なく笑うだけだった。本当のことを誰にも言えなかった。
私の「声」がおかしくなってきているなんてプライドが許さなかった。
それは私の価値が失われつつあることを自ら認めることになるからだ。
私は孤独だった。かつて男たちに囲まれ華やかな世界にいた自分が嘘のようだ。
彼らは私の輝きが失われ始めたことに気づくと潮が引くように私の周りから去っていった。
結局彼らが見ていたのは私の声と容姿という上辺だけのものだったのだ。虚しさが胸を刺す。でも今はその痛みすら鈍く感じられた。
夜一人になったアパートで私は言いようのない恐怖に襲われた。もしこのまま声が出なくなってしまったら?私のアイデンティティであり唯一の武器だった「声」を失ったら私には何が残るというのだろう。空っぽの価値のないただの抜け殻になってしまうのではないか。
静寂が怖かった。テレビの音も音楽もすべてが私の喉の不調を際立たせるだけだった。私は耳を塞ぎただこの悪夢が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
夏が近づくにつれて喉の違和感はさらに明確な形を取り始めた。
ただ声が枯れるだけではない。喉の奥首の付け根のあたりに何か小さな塊があるような感覚。
食べ物や唾を飲み込むときにそれが微かに喉に引っかかるのだ。最初は気のせいだと思っていた。
疲れやストレスのせいだろうと…しかしその感覚は日増しに強くなり無視できないものになっていった。
まるで喉の奥に見えない魚の骨が刺さっているような不快感。
私は恐る恐る鏡の前で自分の首筋に触れてみた。
指先で喉の周りをゆっくりとなぞっていく。リンパ腺が腫れているのだろうか?風邪でも引いたのかもしれない?そう思おうとした。
しかし指が右側の鎖骨の少し上のあたりを探った時その感覚は確信に変わった。
そこにあった。
ビー玉くらいの硬いしこり。
それは痛みも熱も持っていなかった。しかし私の皮膚の下でそれは不気味な生命体のように静かにそこに存在していた。
血の気が引いた。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。全身から冷たい汗が噴き出した。
なんだこれは。
私は何度も何度もそのしこりに触れた。間違いではない。確かにそこにある。今まで気づかなかったのが不思議なくらいはっきりとその輪郭を指先で感じることができた。
その瞬間から私の頭の中は最悪のシナリオで埋め尽くされた。
テレビの健康番組で見た恐ろしい病の数々。インターネットで検索窓に打ち込んだ「首のしこり」「喉の違和感」というキーワード。そこに表示された無数の絶望的な病名。癌。悪性リンパ腫。甲状腺異常。
まさか。私が?どうして?
私はまだ二十一歳だ。こんなことが私の身に起こるはずがない。
しかし鏡に映る私は恐怖に引きつった顔をした見知らぬ異邦人のようだった。彼女は青ざめた唇で私に問いかけてくる。「あなた本当に大丈夫なの?」と。
私は誰にも相談できなかった。
両親に言えば余計な心配をかけるだけだ。友人に話したところで本当の恐怖は理解してもらえないだろう。彼との関係も終わってしまった今頼れる人は誰もいない。私はたった一人でこの巨大な不安と向き合なければならなかった。
それでも私は病院へ行くことを躊躇していた。
診断されるのが怖かった。もし取り返しのつかない病気だったら?そう宣告された瞬間私の人生は終わってしまう。それならば知らないままでいた方がまだ希望を持てるのではないか。
しかしその希望は日に日にしこりの存在感と共に蝕まれていった。それは私の身体の一部でありながら私を内側から食い尽くそうとする異物だった。私は自分の身体の中に時限爆弾を抱えているような気分だった。爆発の瞬間が刻一刻と近づいている。
八月の終わり。茹だるような暑さの中蟬の声が狂ったように鳴り響いていた。私はついに観念した。このままでは精神が持たない。
私は震える手でスマートフォンの画面をタップし、検索したのは近所の耳鼻咽喉科の電話番号だった。




